スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&絶対に無限

2006-08-31 22:08:00 | 将棋
 王位戦の第五局は封じ手直後は千日手になるのかと思いましたが,先手の佐藤棋聖にはそんなつもりはさらさらなかったようで敢然と仕掛けました。ただ,結果的に見るとどうもこの打開は無理であったか,あるいは手順がまずかったようです。その後,佐藤棋聖の玉が2七に引っ張り出され,2六銀との変な銀冠になり,さらに玉が1六に行った辺りでは,僕には羽生王位がはっきりと優勢になったように思えます。その後,羽生王位の攻勢の前に佐藤棋聖はすべての駒が引いていく感じになってさらに差は広がり,最後は2五の地点に駒の効きを集中させて佐藤玉を受けのない形に追い込み,そのまま快勝しました。
 これで羽生王位の3勝2敗,王位防衛に王手をかけたわけですが,ここまで完全に昨年と真逆の展開となっていて,昨年はここから羽生王位が連勝して逆転しました。今年は佐藤棋聖の逆襲があるのでしょうか。第六局は9月12日と13日に指されます。

 絶対に無限であるというのがどういうことであるのかについては,この定義の直後にスピノザ自身が説明しています。それによると,絶対に無限なものの本性には,本性を表現し,一切の否定を含まないあらゆるものが属するということです。
 これは僕の理解では,絶対に無限であるものには,概念することができる(実在することが可能である)ありとあらゆる(無限に多くの)本性が含まれるということだと思います。エチカでは,実体の本性についてはとくに属性といわれる(第一部定義四)ので,これはいい換えれば,絶対に無限な実体の本性は,無限に多くの属性によって構成されるということになります。そしてこのように理解するなら,確かに第一部定義六の前半部分と後半部分は,「言いかえれば」という接続詞で結ぶことができるように思われます。
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アフター5スター賞&第一部定義六

2006-08-30 23:08:35 | 地方競馬
 第13回アフター5スター賞は好スタートを切ったグローリーウイナーが先手を取りにいきましたが,枠順の差でベルモントファラオが逃げる展開に。僕が期待したロッキーアピールはこれを追っていったのですが,外からベルモントソレイユに被せられると向正面では早くも後退。この馬,こういうのを極端に嫌う馬で,ここでレースを終えてしまいました。
 これら先行集団を見ながら絶好の手応えで内に控えていたのが内田博幸騎手騎乗のコアレスタイムで,直線に入るとベルモントファラオの外に出し,鋭い末脚で一気に突き抜け,1200メートルとしては大きな差をつけての快勝となりました。逃げたベルモントファラオがそのまま2着に粘り,3着にはベルモントソレイユが入っています。
 ロッキーアピールは気性面の難しさがあって,すんなりと先行できる展開なら,また好走するケースがあると思います。そのためには,むしろ1600~1800くらいのレースに出走してみるのもひとつの手かもしれません。
 4連勝中のブローザウインドは,軽い斤量であったとはいえ,ここでは家賃が高かったようです。
 ロッキーアピールが力を発揮しなかったことを除けば順当な結果で,コアレスタイムの圧勝も当然といえると思います。

 王位戦の第五局は後手番の羽生王位の一手損角換り。ただし,飛車先を突かないままに角交換したので,一昨日の竜王戦とは違った形です。その後,佐藤棋聖が1筋の位を取ってから三間飛車に振り,右玉模様から飛車を2筋に戻したのに対し,羽生王位は穴熊に。持久戦でまだ何ともいえませんが,飛車先を突かなかったのが一応は生きている感じで,後手の羽生王位としては十分なのではないかと思います。あまり見たことがなかった戦型ですが,渡辺竜王は似た形で指したことがあるそうです。

 ここまで進むと,第一部定義六を無視するわけにいかなくなります。
 「神とは,絶対に無限なる実有,(Per Deum intelligo ens absolute infinitum)言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体,(substantiam constantem infinitis attributis, quorum unumquodque aeternam, et infinitam essentiam exprimit)と解する」。
 正直にいって,この定義Definitio自体,僕には疑問だらけです。なぜ神Deumの定義がこうでなければならないのか,そしてこれはこの定義から神が発生するという意味での実在的定義なのかそれとも神があるならこういうものでなければならないという意味の名目的定義なのか,実有ensとは何なのか,絶対に無限absolute infinitumとはどういう意味か,そしてこの定義はなぜ前半と後半を「言いかえれば」という接続詞で結ぶことができるのか,などです。そこでまずはこうした疑問から順に解決を目指していくことにします。
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買戻し&実体と自己原因

2006-08-29 22:55:19 | 地方競馬
 ブリーダーズゴールドカップではタイムパラドックスが準備運動中にごく軽度の故障を発症して競走から除外されました。こういう場合,タイムパラドックスに関係する馬券は買い戻されます。これはルールですから,こういう場合には僕も買い戻しますが,いまひとつ腑に落ちないものを感じています。出走していれば的中したかもしれないからこういう措置が取られていると思いますが,~たらとか~ればとかいい出したら,ギャンブルなど成立しないように思うからです。現に,レースに出走さえすれば,落馬しようがアクシデントで競走を中止しようがレースの過程で大きな不利を被ろうが買戻しはされません。同じ理屈でいえばこれも買い戻すべきですが,でもこれを認めれば,出遅れなければとか,騎手がもっと上手く乗ればとかいくらでもいえるわけで,きりがないです。分かりやすくするために,勝つ馬を当てる(単勝)ということがギャンブルとしての競馬の本性と仮定すれば,出走できなければ勝てないわけで,その時点でその馬券は外れ,よって買い戻す必要はないというのが僕の考えです。もちろん出走を取り消したり,競走から除外されたら,その時点からその馬の馬券の発売を中止するのは当然だと考えますが。
 明日は大井アフター5スター賞があります。中心はロッキーアピール◎で,相手はコアレスタイム○,そしてベルモントファラオ▲で,馬の能力から判断する限りはこうなるのですが,いずれも高齢であるという点は気掛かりです,なのでブローザウインド△とベルモントソレイユ△も一応はあげておきますが,このあたりになるときりがなくなりそうです。
 また明日から王位戦の第五局です。昨日は東京で勝った佐藤棋聖ですが,明日からは徳島で対局です。

 公理三の背後に前提されているものが自己原因でなくてはならないということが,それがなぜ実体でなければならないということにつながるかの説明から始めます。まず,公理一の意味からして,自然のうちには実体と様態しか存在しないわけですから,前提されているものも実体であるか様態であるかのどちらかであるということになります。ところが,様態とはほかのもの(実体)のうちにあるもののことをいうのですから,様態の存在は様態の本性のうちにあるのではなく,実体の存在のうちにあることになります。もしも様態の存在が様態の本性のうちにあるなら,様態はそれ自身のうちにあるということになり,これは様態ではなくなってしまうからです。なので,公理三の背後に要請されるべきものが自己原因であるなら,それは実体でなくてはならないといえると思います。
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竜王戦&ここまでの結論

2006-08-28 23:36:57 | 将棋
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 竜王戦の挑戦者決定戦の第一局は振駒で後手番になった丸山九段が得意の一手損角換り。これに対して佐藤棋聖は早繰り銀で対抗,すぐに3筋の歩を交換しました。その後,互いに玉の整備をした後,佐藤棋聖が右の金を5九~6八~5七~5六と繰り出していき中央を制圧。どうやらこの辺りで先手がペースを握ったとみてよさそうです。その後の丸山九段の反撃は,おそらく先手玉に対する攻撃としては最善か,そうでなくとも最善に近いものであったと思うのですが,攻め合いではどうしても足りず,2二の玉が中団から6筋に追われ,そのまま投了に追い込まれてしまいました。将棋としては佐藤棋聖の完勝といっていいでしょう。これで佐藤棋聖の先勝,竜王挑戦にあと1勝となりました。第二局は9月4日に指されます。

 ちょっと話が錯綜してきた感があるので,一旦まとめます。個々の因果関係のすべてにある必然的な関係があることを認めたとしても,公理三ふたつの意味のうち強い意味の方は,それら個々の必然性を同一の必然性として統一するような何かが前提されていなければ成立しないと僕は思います。そしてそれは,定義八でいわれている永遠なものであり,したがって定義一からして自己原因であり,したがって定理七から実体でなければならないでしょう。しかしここでは,定義三は名目的であるという理解なので,公理三の強い意味を背後で支える何かが実在するということにはなりません。そこでここからは,そうしたものが実在するのかどうかを考えていくことにします。
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久留米記念&第一部定理七証明

2006-08-27 22:00:48 | 競輪
 久留米記念(映像)はさすがに自力型が多く,出入りが激しくなりました。
 道中は峠選手が前を取り,このラインに続いたのが金山選手と井上選手。打鐘前に関根選手を加えた吉岡選手のラインが抑えると,峠選手は引いてすぐに巻き返し,さらに井上選手が単騎で発進。先行争いになりそうでしたが峠選手が番手に入りました,ホームは井上ー峠ー坂本英一ー金山ー吉岡ー足達ー関根ー坂本勉ー阿部とほぼ一本棒で通過。バック前から8番手の坂本勉選手が発進すると,吉岡選手が併せる感じで出て,足達選手と坂本勉選手が接触,3コーナー過ぎから峠選手が番手捲りに出て,結局,吉岡選手は行ききれません。峠選手に絶好の展開でしたが,坂本勉選手の接触のあおりで開いた内から阿部選手が鋭く伸びて優勝。峠選手が2着で,峠選手の番手の坂本英一選手と足達選手が同着で3着を分け合いました。
 優勝した新潟の阿部康雄選手は長らくこのクラスで活躍を続けてきた39歳のベテラン選手。弥彦記念を優勝した小橋選手が岡山から移籍してくるまでは新潟のエース的存在でした。ビッグの優勝はありません。記念は昨年12月の佐世保記念以来です。

 明日は竜王戦の挑戦者決定戦,佐藤棋聖対丸山九段の第一局が指されます。対戦成績は佐藤棋聖の26勝18敗。また佐藤棋聖は今期(4月以降)19勝6敗という好成績(対局数と勝利数で1位)ですが,丸山九段には2戦2敗で,ここは簡単にはいきそうもありません。

 第一部定理七は重要なので証明しますが,スピノザによるこの定理の証明は,ここではまだ紹介していない定理の証明を援用しているので,それとは別の,背理法を用いる証明をすることにします。
 第一部定理七の意味は,もしも実体が存在するならそれは自己原因であるということでしたので,実体が自己原因ではないものとして存在すると仮定します。すると,まさにここで問題にしている第一部公理三弱い意味(この意味は問題がないので使えます)からして,実体が存在するならば,存在する原因がその実体の外部に必要であることになります。これをXとしましょう。すると第一部公理四から,この実体の認識はXの認識に依存します。つまりこの実体はXの観念の助けなしには認識できなくなります。しかしこれは第一部定義三に反します。すなわちこれは実体ではないことになり,不条理です。したがって,実体がもしも存在するのであれば,それは自己原因でなくてはならないのです。
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クヰックランチ&第一部定理七

2006-08-26 23:22:42 | 血統
 先日のブリーダーズゴールドカップでは残念な結果に終ったイングランディーレですが,この馬は一昨年の天皇賞(春)GⅠに出走,かなりの人気薄であったのですが,道中は後続を大きく引き離して逃げ,結局そのままその年の年度代表馬になる2着のゼンノロブロイに大きな差をつけて逃げ切ったというGⅠ馬です。で,このイングランディーレも,母系を辿っていくとかなり古い時代に日本に輸入された馬に遡ることができるのです。
                         
 日本での祖となっているのは1922年(大正11年)にアメリカで産まれたクヰックランチ(4-r)という馬。輸入されたのはおそらく1929年(昭和4年)だろうと思います。この系統は現在ではそれほど幅広く枝葉を広げているとはいい難い面があるのですが,このイングランディーレが輩出したペルルピーチ(イングランディーレの4代母)という馬からの系統は,社台グループを中心に,現在でも新しい広がりをしつつあるといえそうです。

 明日は久留米記念の決勝ですが,自力型が7名という凄いレースになりました。確定している並びは,吉岡ー足達の九州,関東3車は昨日と同様に別れて,峠ー坂本英一で,阿部は北日本単騎の坂本勉につけ,基本はこの3分戦。ただ,吉岡は中国単騎の井上につける可能性も残されているようです。金山と関根はそれぞれ単騎で戦うようです。自力なら吉岡選手◎で,この場合は足達選手○も連れてくるでしょう。吉岡選手が井上選手に任せるようだと,峠選手の先行に乗る坂本英一選手▲と,先行争いになった場合に坂本勉選手の捲りに乗る阿部選手△もありそうです。

 少し飛んで第一部定理七です。
 「実体の本性には存在することが属する」。
 この定理Propositioも実在的に証明されているのか名目的に証明されているにすぎないのか議論の余地があるのですが,ここでは第一部定義三を名目的な定義Definitioであるという解釈のもとで話を進めているので,それだとこの定理を実在的に証明するのは困難なので,これも名目的な定理であると(この場合には,第一部定理一から第一部定理八まではすべて名目的であるということになります)考えることにします。もちろんそれで,『エチカ』自体の中身に混乱は起こらないというのが僕の考えです。
 したがってこの定理の意味は,もしも実体substantiaというものが存在するのであれば,その実体の本性naturaには,その実体が存在するということが含まれていなければならないと理解することにします。ところで,第一部定義一によれば,本性が存在を含むessentia involvit existentiamものを自己原因causam suiというのですから,これは,実体が存在する場合には自己原因として存在するという意味になります。
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久留米つつじ賞&第一部定義三

2006-08-25 23:25:58 | 競輪
 久留米記念の2日目優秀として行われた久留米つつじ賞(映像)は,阿部選手が坂本勉選手にマークしての4分戦。
 道中後ろを取った峠選手が3番手の吉岡選手の隣まで上がって牽制していると,打鐘から前を取っていた井上選手が発進。これを見て峠選手も発進して先行争いになりました。この争いを制したのは井上選手の方だったのですが,バックストレッチでは中団から発進した吉岡選手が早くも捲りきってそのまま1着。吉岡選手マークの紫原選手が2着に流れ込み,井上選手をマークした浜口選手が,直線では内から伸びて3着。吉岡選手ライン3番手から4着の池尻選手まで,かなり接戦でのゴールインとなりました。

 今度は第一部定義三です。
 「実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と解する」。
 この定義については,実在的な定義であるのか名目的な定義であるのかという問題があるのですが,これは煩雑になるのでここではその議論は避けます。僕自身は,この定義は名目的なものと考えていて,また,この定義は実在的でないとしても,『エチカ』の内容には影響を及ぼしませんので,ここでは名目的な定義であるとしておきます。したがってこの定義の意味は,もしもそれ自身のうちにあり,また,それを概念するためにほかのものの概念の助けを必要としないようなものがあるなら,そうしたものを実体という,というように解釈しておきます。また,こう解釈する方がおそらく簡単であると思いますし,この解釈で何の問題も生じないと思われますから,『エチカ』を読もうという方にも,僕はこの解釈を推奨します。
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もう1回&自己原因と原因

2006-08-24 23:12:29 | NOAH
 プロレスキャリアでは自分の方が先輩でも,年上の人には敬称をつけなさいと教えていたジャイアント馬場さんですが,僕には馬場さんのことばの中に,強く印象に残っているものがひとつあります。
                                        
 日本テレビで放映されたある番組の中で,落語家の笑福亭鶴瓶さんが馬場さんを訪ねたときのこと,鶴瓶さんが,馬場さんが腕立て伏せのトレーニングに用いているある器具に興味をもちました。すると馬場さんは,トレーニングしなさいとその器具を鶴瓶さんにあげたのですが,同時に,鶴瓶さんはプロではないのだから,トレーニングが辛いようならやめればいいといった後で,でも,もうだめだ,苦しくて辛くてもうできないと思ったときには,もう1回だけはやってみた方がいいと思いますよとアドバイスしたのです。このことばが僕には忘れられません。苦しくてどうしようもないときに,それでももう1回だけはやってみる。人生訓といってはオーバーかもしれませんが,僕はこのことばを折に触れては思い出しています。

 明日は久留米記念の2日目優秀です。並びは予想。福岡3車は,吉岡ー紫原ー池尻,井上ー浜口の西日本,関東が3人で,連係なら峠ー坂本英一ー阿部,ただ,青森の坂本勉が単騎になるので,どちらかがこちらを目標にするかもしれません。先行はおそらく峠選手で,それなら吉岡選手◎の捲りです。相手も紫原選手○(並びは予想なので,池尻選手が番手なら池尻選手)。あとは坂本英一選手▲(これも,峠選手の番手が阿部選手なら阿部選手)と坂本勉選手△です。

 一般に僕たちは,自己原因を原因のようなものとイメージ(表象)します。つまり,原因とはそれとは本性も存在も異なる結果を生み出すもので,自己原因とは,自分自身が原因でも結果でもあるようなものと類推するのです。しかし,『エチカ』は自己原因から始まっていますし,スピノザは,神は自己原因であるといわれるのと同じ意味で万物の原因であるということを強調するので,『エチカ』においてはこの類推はあまりよくありません。自己原因が原因のようなものなのではなく,原因こそ自己原因のようなものなのです。つまり,初めに自己原因といわれるような原因があって,原因と結果といわれるような意味での原因というのは,この自己原因から生じてきます。
 このことから考えても,原因が与えられれば必然的に結果が生じるということの背後に,自己原因が前提されていると考えることは妥当なのではないかと思います。
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王位戦&第一部定義一

2006-08-23 21:50:41 | 将棋
 王位戦は封じ手の後,いくらかの駆引きを経てから互いに玉形の整備。この後,後手の佐藤棋聖の方からちょっかいを出すような感じでまた戦いとなり,羽生王位は後手の馬を消すことに成功。そこから基本的には先手が攻めて後手が受けるという展開になったのですが,この過程で佐藤棋聖が自陣飛車(☖4二飛)を打ったのがどうも好手であったようで,その後の先手の攻めがどうにも重くなってしまい,後手玉を捕まえるのが大変な形になりました。その間に佐藤棋聖は一気に反撃し,あっという間に先手玉を鮮やかな即詰みに討ち取りました。
 攻められていたとはいえ,悪くなったという感じの局面はなかったので,佐藤棋聖としては快勝といえるのではないでしょうか。昨年とはまったく逆の展開でこれで2勝2敗の五分となり,改めて残り3番勝負での決戦となりました。第五局は30日と31日に指されます。

 明日からは久留米記念です。

 ここで第一部定義一を紹介しておきます。
 「自己原因とは,その本質が存在を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と解する(Per causam sui intelligo id, cujus essentia involvit existentiam, sive id, cujus natura non potest concipi, nisi existens.)」。
 一般にスピノザは神Deusから始めるといわれますが,第一部定義一はまさに『エチカ』の冒頭にあたりますから,少なくとも『エチカ』に関しては自己原因causam suiから始まるといった方が正しいように思います。
                
 ところで,その本性essentiaに存在existentiamが含まれるもの,つまり,それが存在するということがそれの本性に含まれているものは永遠aeterunusであるということはすでに説明しました。したがって第一部定義八とこの第一部定義一を合わせれば,第一部公理三の背後に前提されているものが,自己原因であるということが理解できると思います。
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松戸記念&永遠と必然性

2006-08-22 21:29:34 | 競輪
 今日は松戸記念の決勝でした。四国の後ろは,加倉ー立花で折り合ってのレースとなりました。2分戦ということもあり,残り1周からは内の佐々木選手と外の村上選手で激しい先行争い。バックストレッチに入った辺りで村上選手が失速気味であったのか,番手の加藤選手が捲り発進。ところが後ろの萩原選手が離れてしまい,加倉選手がここにスイッチしました。するとその後ろの立花選手を捌いた兵藤選手が3番手に入り,直線はこの3人の争いに。結局外を踏んだ加倉選手が伸びきって優勝,中を割った兵藤選手が2着に届き,加藤選手は3着でした。なお,村上選手は9着。先行争いになったこともそうですが,この猛暑の中3日間先行していたので,多少の疲れが残っていたのかもしれません。優勝した福岡の加倉正義選手は長く一線級で走っている中堅クラスの選手。記念競輪は2003年の防府記念以来であると思います。
 王位戦第四局は後手の佐藤棋聖のごきげん中飛車になりました。対する羽生王位は▲7八金~飛車先の歩交換をするという最近ではあまり見なくなった作戦を選択。封じ手段階では後手の一歩損ですが,馬はできているし,持時間も1時間ほど多く残しているので,佐藤棋聖としては不満のないところではないかと思います。羽生王位の髪型がさっぱりしていました。

 スピノザは好んで永遠と必然性を等置します。これは,おそらくスピノザが概念としてではなく,ある事物の存在のことを永遠ということに関係しています。すなわち,Aの本性にAが存在するということが含まれているなら,Aの存在は永遠なわけです。で,これはいい換えれば,AはAの本性の必然性(法則)によって存在するということになるわけです。つまりAは存在するために,A以外の外部の原因を何も必要とはしないのです。ところで,事物の本性とは,それが矛盾を含むものでない限り,そのものの存在を定立はするけれども排除はしません。したがってこうしたものは永遠に,必然的に存在するということになるのです。
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神は死んだ&本性に含まれる存在

2006-08-21 22:34:49 | 哲学
 神は死んだ。これはニーチェの最も有名なことばだと思います。
 ニーチェには『アンチクリスト』という著書があるくらいで,一般的にはこれはキリスト教を標的にしたことばであると考えられています。しかし僕には別の意味が込められているように思えてなりません。
                         
 というのも,キリスト教とスピノザ主義の間にはすでに相容れない部分があるのであって,ある意味では,キリスト教でいう神というのは,スピノザの哲学においてすでに死んでいるといえなくもないからです。一方,ニーチェとスピノザの対立のうちで大きなもののひとつは,ニーチェはスピノザの因果論を目的論の変種とみなすという点にあるのですが,これはひいてはニーチェはスピノザがいう神の存在を認めないということにつながってくるのです。
 神は死んだ。ニーチェはこのことばで,キリスト教的な神が死んだのはもちろん,スピノザの神も死んだのだといいたかったのではないかと僕には思えてならないのです。

 明日は松戸記念の決勝です。並びは村上ー加藤ー萩原の近畿中部,佐々木ー室井の四国の後ろは立花と加倉で競り,目標不在の関東は兵藤ー木村で自在戦になるようです。ここは村上選手◎です。当然加藤選手○になりますが,兵藤選手▲の競り込みもありそうで,優秀(チバテレビ賞)のようにはいかないと思います。あとは佐々木選手△。

 そして明日から王位戦の第四局が始まります。今回は九州開催で,西日本新聞の主催ですが,この西日本新聞のサイトがあらゆる将棋サイトの中で最も優れていると僕は思っています。

 ある事物の本性にその存在が含まれているなら,その存在のことを永遠というとするスピノザの主張は妥当なものだと思います。というのは,たとえばその内角の和が180゜であるということは三角形の本性に属します。ところでこの事実は,昨日もそうであり今日もそうであるから事実であることが1日延びたという類の事柄ではなく,むしろ永遠から永遠にわたっての真理というべきでしょう。
 このことから分かるように,事物の本性というのはある一定の期間に持続するものではなく,永遠のものなのです。したがって,もしもAの本性にAが存在するということが含まれていれば,Aの本性が永遠である以上,Aの存在も永遠であり,Aは永遠から永遠にわたって存在するということになるからです。
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チバテレビ賞&第一部定義八

2006-08-20 23:24:01 | 競輪
 松戸記念の2日目優秀として争われたチバテレビ賞,並びは予想とちょっと違って,関東が結束して,伏見選手が単騎でした。
 ここは村上選手が打鐘からかますような感じで先行。正面で後続が少し離れたところを6番手の伏見選手が捲り上げて,向正面で3番手に入りました。ここから今度は太田選手が捲り発進したものの3番手付近で一杯となってしまい,結局,村上選手をフルに利用した加藤選手が楽な感じで1着,村上選手が2着に粘り,太田選手に乗った兵藤選手が3着を確保しました。
 加藤選手は昨年のグランプリを制しているほどの選手ですから,この展開であれば勝って当然。また,村上選手もかなり復調してきているとみてよさそうだと感じました。伏見選手も単騎のレースでは今日の結果も致し方ないのかもしれません。

 ここで第一部定義八を紹介します。
 「永遠性とは,存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り,存在そのもののことと解する」。
 スピノザの哲学では,ものの定義というのはまずそのものの本性を意味します。したがってこの定義の意味は,もしもあるものの本性(定義)に,そのものの存在が含まれていれば,そのものの存在のことを永遠という,ということになります。つまり,スピノザにとって永遠とは,ある概念ではないのです。もしもAの本性に,Aが存在するということが含まれている場合には,Aそのもののことを永遠とスピノザはいうのです。
 僕はこの定義が,ここでの問題を考えていくためのひとつのヒントになるだろうと考えています。
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函館記念&前提されるものの条件

2006-08-19 22:26:27 | 競輪
 17日に決勝が行われた函館記念
 道中後方の武田ラインがまず抑えると,中団の金子ラインが叩きに出て,内の武田選手と外の金子選手で激しい先行争いに。この争いは持ち前のダッシュ力で金子選手が制したのですが,争いの最中に神山選手が武田選手にハウスする感じになり落車。併走していた山口選手がこれに巻き込まれ,後続の3選手(村上,渡部,佐藤)も乗り上げてしまいました。結局,前から,金子,武田,手島,藤井という4選手の競走になったわけです。先行争いをした前のふたりはさすがに直線で踏み直すだけの脚力が残っていなかったようで,手島選手の優勝。2着が藤井選手で3着は金子選手。落車もそうですが,配当的にも大波乱の結末でした。
 優勝した群馬の手島慶介選手はそろそろ中堅の域に入ってきた選手。基本的に人の後ろを回る競走ですが,ある程度は自力も使え,寛仁親王牌はその自力を出して惜しい2着でした。ビッグはそれが最高の成績。記念競輪は昨年11月の前橋記念以来の優勝です。

 明日は松戸記念の2日目優秀競走としてチバテレビ賞があるので予想します。並びは予想で,佐々木ー室井ー三宅の四国中国,村上ー加藤の近畿中部,関東3人はたぶん別れて,太田ー兵藤と北日本単騎の伏見に木村と思います。ここは村上選手◎か佐々木選手○だと思います。当然加藤選手▲も有力で,伏見選手も怖いですが兵藤選手△の方で。

 各々の必然性を同一の必然性として統一する何かがただ存在するというだけでは,実は一般に原因が与えられれば必然的に結果が与えられるということにはならないのです。というのは,もしもその統一する何かが存在するということ自体が偶然であれば(必然的でなければ),原因が与えられれば結果が与えられるということもまた必然的でなくなってしまうからです。
 したがって,第一部公理三の背後に前提されている,すべての因果関係における各々の必然性を同一の必然性として統一するような何かというのは,それ自体が必然的に存在するのでなければなりません。そしてこのように考えることによって,前提されているものがどんなものであるのかということが,ある程度は見えてくるように思います。
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ブリーダーズゴールドカップ&統一する何か

2006-08-18 23:08:54 | 地方競馬
 昨晩行われたブリーダーズゴールドカップ(映像)は,パーソナルラッシュが逃げる展開。長距離戦とあっていつものようにスローペースとなりました。先行集団につけていたジンクライシスとハードクリスタルが2周目の3コーナー過ぎから仕掛けて追い上げ,4コーナーでは3頭が並ぶ態勢に。そこからハードクリスタルが力強く伸びてGⅡ2勝目となりました。パーソナルラッシュは北海道のジンクライシスにも一旦は交わされたと思うのですが,差し返して2着を確保。ジンクライシスが3着でした。僕が大負けはしないだろうといったイングランディーレは中団追走から向正面から早くも鞭が入る始末で大敗。何らかのアクシデントがあったか,体調面に問題があったとしか考えられません。なお,タイムパラドックスは準備運動中に故障を発症して競走から除外されました。勝ったハードクリスタルはおそらくステイヤーで,今後も長距離のレースでは活躍できそうです。
 函館記念については明日記事にしますが,それより先に明日からは松戸記念が始まります。

 個々の原因と結果の間にある必然的な関係から,一般的に原因が与えられれば必然的に結果が与えられるというためには,個々の因果関係の間にある必然性は,同じ意味で必然的であるということが必要なわけです。ですから,公理三の,とくに強い意味の背後に前提されているものというのは,それら各々の必然性を同一の必然性であると規定するような何か,いい換えれば,個々の必然性を同一の必然性として統一する何かであるということになるだろうと思います。したがって,ここではスピノザは公理三の前提としてそういった何かの存在を要請していると考えることにして,それが一体何であるのか,また,それを前提することは正当であるのかどうかということを考えていくことにします。
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竜王戦&ある前提

2006-08-17 23:19:11 | 将棋
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 竜王戦の挑戦者決定トーナメント準決勝は,振駒で後手になった森内名人が意表の三間飛車。対して佐藤棋聖は居飛車穴熊に囲い,無理と検討されていた手順で踏み込んでいきました。実際に無理気味の攻めであったようで,後手が優勢になったのですが,後手が龍を自陣に引きつけている間に先手が2筋にと金を作って逆転。結局そのまま玉の堅さを生かして後手の粘りを振り切って勝ちました。最後の▲5五馬以下の一気の寄せは見事でした。これで佐藤棋聖は対森内名人戦5連勝,通算の対戦成績も22勝22敗の五分に戻すとともに,挑戦者決定三番勝負への進出を決めました。この三番勝負の第一局は28日に指される予定になっています。

 ものは特殊に理解される方が明瞭で,一般的に理解されるほど混乱してくるということは,スピノザ自身も理解していたわけです。それなのに公理三で,原因が与えられれば必然的に結果が与えられるということを,一般的な意味で妥当であるとスピノザが考えていたのだとすれば,逆にいえば,スピノザにはこれを一般的にいうことができるとする何らかの根拠があったと考えるべきだろうと僕は思います。しかし,公理自体の中にその根拠があるとは僕には到底考えられないので,この公理にはきっとその背後にある前提があるのだろうと思います。そこで,とりあえず無限に多くあるであろうすべての因果関係にはある必然性があるということを認めた上で生じてくる新たな疑問は,その前提はどういったものであり,また,それはこの公理を公理として成立させるために妥当であるのかどうかということです。
コメント (2)
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