スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新日本のブッチャー&その後

2011-03-31 18:37:38 | NOAH
 僕のプロレスキャリアが始まった頃は,黒い呪術師は新日本プロレスのマットを主戦場にしていました。当時の新日本プロレスは第1回のIWGPに向けて邁進中で,その強化の一環として,全日本プロレスのトップ外国人レスラーのひとりであったブッチャーを引き抜いたのです。これを機に全日本プロレスと新日本プロレスとの間で,興行合戦だけでなく,外国人レスラーの引き抜き合いという全面戦争が開始されたのですが,これについては別に書くことにします。『マイクは死んでも離さない』の視聴率争いの記述には,こうした背景もあったのです。
                       
 ただ,ブッチャーの新日本プロレスへの移籍に関しては,あまり成功したとはいえなかったように僕は思っています。これは新日本プロレスにとっても,そしてブッチャーにとっても,あまりよい選択ではなかったのではないでしょうか。後にブッチャーは再び全日本プロレスにカムバックすることになるのですが,その事実が,何より移籍の失敗を物語っているように思えます。
 この失敗にはいくつかの理由が考えられます。そのうちのひとつは,ブッチャーのファイトスタイルというものが,当時の新日本プロレスの戦い模様にあまりそぐわなかったということ。当時の新日本プロレスのエースはいうまでもなくアントニオ猪木ですが,猪木とブッチャーは1度だけシングルで対決。ただ,当時のブッチャーのパートナーであったバッドニュース・アレンがエプロンに上がっただけでブッチャーの反則負けが宣せられるという,何とも不可解で消化不良のものでした。ブッチャーのファイトスタイルがどのようなものであり,それが自らのリングで輝くものか否かくらいは当時の新日本プロレスのフロント陣も理解していただろうと思います。それでもあえてブッチャーを引き抜いたのは,もしかしたら単に全日本プロレスにダメージを与えることを主目的としていたからなのかもしれません。
 これとは別にもうひとつ,ブッチャーが新日本では輝けなかった理由があると僕は思っています。ブッチャーは非常にキャラクターとしての存在が際立ったプロレスラーなのですが,それを新日本プロレスが戦術として生かし切れなかったと思うのです。

 大地震以後の状況についていくつか記しておきます。
 まず,最も大きな変化があったのは妹に関して。作業所というか施設全体は3月14日の月曜日は臨時の休みとなり,15日から再開。この15日と16日は作業所の方は休業ということで施設の方へ出勤となりましたが,17日の木曜からは作業所の方も再開して,現在はそちらに勤務しています。ただし,妹の支援とその後に追加された新たなる支援に関しては大きく変化しました。
 まず,母の入院後から行われていた支援のうち,入浴のサービスは母が退院してからはもう行っていません。一方,帰りの送りと行きの迎えですが,これは燃料の入手が困難であるという理由から一時的に休止となりました。したがって現在は母ないしは伯母が毎日送っていくようになっています。一方,帰りについても,当面の間は保護者の同行が必須ということになりました。よって帰りも母か伯母が作業所ないしは施設まで迎えに行っています。大概は作業所ですが,先方の都合により,日によっては施設の方になります。これは前日のうちに連絡帳で連絡されます。このためにバスの定期券の使用頻度が以前より高まりましたので,僕がオフとなった3月17日に,また磯子駅まで出向いて更新してきました。
                         
 それから僕は部屋では昨年から電波時計を使っているのですが,この時計が電波を受信しなくなりました。これは14日の午後に気付いたもの。実際に受信しなくなったのはそれ以前からだったかもしれませんが,少なくともそれ以来は,いくら受信するように設定しても受信しません。送信できなくなっている電波塔があるというニュースが後にあったのですが,おそらくはその影響を受けているのではないかと思います。もっとも,電波は受信できなくても,この場合はクォーツ時計として機能しますので,現実的に困っているというわけではありません。
 それから計画停電ですが,これはたぶん送電線の配置の仕方というのが関係しているのだろうと思いますが,僕の家は実施地域から外れていますので,停電にはなっていません。ただ家の近辺,たとえば川の対岸は実施されています。もちろん節電は心がけています。あまり伝えられていませんが,早寝するというのも節電のためには効果的だと思います。もっともその時間帯の節電がどれほど効果的かは疑問の余地もあるでしょう。それから,全体的な停電の防止のために一部を停電させるというのは,僕は神業のように感じています。
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NHK杯&妹の迎え

2011-03-29 18:34:59 | 将棋
 第60回NHK杯将棋トーナメントは当初の予定より1週伸び,27日に決勝が放映されました。史上初,2年連続の同一カードの決勝となった両者の対戦成績は,収録時点で羽生善治名人が2勝,糸谷哲郎五段が1勝。
 振駒で羽生名人の先手。糸谷五段の一手損角換り1-Ⅱ。先手が右銀の動きを保留して玉の整備を優先したのに対し,後手が居玉のまま早繰り銀。先手も早繰り銀で対抗という類例の少ない形に。
                        
 ここで▲3七角と手放しました。局面をリードしにいった手といえると思います。後手は△3五歩。そこで▲7四歩△3六歩の後,▲7三角成として,△同桂▲5一銀△5二飛▲6二銀成△同飛▲7三歩成と進めるのが先手としてはよかったよう。実戦は角ではなく▲7三歩成を選択し,△3六歩以下,二枚換えにはなりましたが,後手も2枚のと金を作り,先手がよいにしても差のない局面が続きました。
                        
 この後,先手の攻めを後手がいかにして凌ぐかという展開に。後手は入玉含みに粘りましたが,最後は後手の一失もあり,上から抑えることが可能になった先手が勝っています。
 羽生名人が前人未到の3連覇を達成するとともに,単独トップの9回目の優勝。名誉NHK杯まであと1回と迫りました。
                        

 時間も時間でしたから僕たち3人は妹が不在のまま,先に夕食を摂りました。しかしその後は施設の方から何の連絡もありません。母は,待っていても時間が経過するだけだから,迎えに行った方がいいだろうと言いました。僕は何らかの連絡は取った方がいいと思っていましたので,こちらからも施設の方に電話をしてみたのですが,どうしても繋がりません。どちらからであれ繋がるまで待つように言ったのですが,母と伯母はふたりで妹を迎えに行きました。この時点でも市営バスの運行状況は不明でしたので,とりあえず徒歩で根岸駅まで行き,バスが動いていればそこからはバス,止まっていれば歩いていくという心積もりだったようです。帰りも最悪の場合は歩かなければならなくなりますが,そうした場合には妹を施設に泊めてもらうように頼むということでした。これが午後7時くらいのことです。
 母と伯母が出掛けて30分ほどが経過した頃だったでしょうか,家の電話が鳴りました。これが作業所から。先方も何とか連絡を取ろうとずっと方々に電話を掛けていたようですが,それがやっと繋がったとのこと。この日は金曜日で,妹の支援として家までの送りが予定されていて,それができる目途が立ったので,今から送っていくことも可能であるという旨でした。
 もちろんまだ母と伯母が家にいたなら当然そのようにお願いしたでしょう。ただ,もうふたりは出掛けた後でした。母も伯母も携帯電話を持っていましたが,この通信状況ではそこに必ず繋がるとはいいきれません。仕方がないので,もしも施設の方からその携帯電話に連絡できるようであれば,それを伝えて送ってきてほしい,しかしもしも繋がらなければ,迎えには必ず行くだろうから待っていてほしいと伝えました。そもそもこの時点で母と伯母がどの辺りにいるかということも見当がつきませんでした。
 結果的にいいますと,やはり母と伯母には連絡がつかず,ふたりは施設まで妹を迎えに行くこととなりました。本数は少なく,また非常に混雑したために,なかなか乗れはしなかったものの,この時点では市営バスも運行はしていたとのこと。よってふたりは妹も連れて家に戻ることができました。ただし実際に家に戻ったのはもう10時近く。2時間半ほども要してしまったのです。僕の家は問題ありませんでしたが,施設は停電していたそうです。
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ドバイ国際競走&作業所からの連絡

2011-03-28 18:54:31 | 海外競馬
 今年のドバイ国際招待競走は現地時間の26日の開催。日本からは3レースに5頭が招待されました。
 まずタペタ1900mのUAEダービーGⅡには3戦2勝のレーザーバレット。発走後は中団につけましたが,徐々に位置取りを下げ,その後もとくに見せ場なく9着。
 喉も鳴っていたようですが,この馬は条件戦を連勝した後,オープンでは負けていましたし,レース振りも前半のスピードに欠けるタイプと思われましたので,致し方のない結果であったと思います。
 芝2410mのドバイシーマクラシックGⅠには1月の日経新春杯で重賞2勝目を上げたルーラーシップ。前半は好位の外につけましたがかなり折り合いを欠いてしまい,向正面で意を決して先頭に。そこからはある程度は落ち着いて走っていたように見えましたが,慣れないレース振りも影響したでしょう,残り200mあたりで後続に飲み込まれ,6着。
 チャンスが大いにあると考えていましたし,個人的にも期待している馬なので残念でした。ただ,気性面の難点が解消されないと,大レースでは今後も厳しいかもしれません。
 メーンとなるタペタ2000mのドバイワールドカップGⅠには,昨年のJRA賞年度代表馬のブエナビスタ,最優秀3歳牡馬のヴィクトワールピサ,ジャパンカップダートフェブラリーステークスの大レースを連勝中のトランセンドの3頭。トランセンドが主張して逃げ。残りの2頭は発馬がいまひとつでブエナビスタが後方2番手,ヴィクトワールピサは最後尾。トランセンドがマイペースに落としたのをみて,ヴィクトワールピサが向正面で外から一気に2番手に。直線はこの2頭の競り合いとなり,残り200m付近ではっきり前に出たヴィクトワールピサが優勝。2頭の間を割ったMonterosso,外を伸びたCape BlancoとGio Pontiの追撃を凌いでトランセンドも2着に粘って日本馬のワンツー。ブエナビスタは8着。
 勝ち時計が2分5秒94と遅くなったのは,馬場状態とペースの双方が要因になったと思います。ヴィクトワールピサは力任せにレースをするタイプで,馬場状態は向いたでしょう。また,向正面で一気に進出した騎手の判断も素晴らしかったと思います。騎手の意のままに動いたり抑えたりできるというのは,僕は競走馬の能力の一面と考えますので,馬も高い能力を示したといっていいと思います。
 トランセンドも馬場もペースも向きました。事前の評価もあまり高くなく,執拗にマークされることがなかったのも幸いしたかもしれません。日本のダートは異質な馬場ですが,この馬は時計が出るダートでよりよいレースをしていましたので,ここでも十分に戦えるだけの下地はあったと思います。世界に通用する日本のダート馬の1頭でしょう。
 ブエナビスタはヴィクトワールピサが動いたので途中から最後尾での競馬。結果的にもうこの時点でアウトでした。直線もなかなか開かず,追えてからはかなり伸びていますが,能力を十全に発揮したとはいえない,残念なレースでした。馬場は向かなかったかもしれませんが,もう少し何とかできた筈だと思います。
 ドバイワールドカップを優勝したヴィクトワールピサは昨年の有馬記念以来の大レース3勝目。馬の国籍における日本馬の海外重賞制覇は昨年のマクトゥームチャレンジ3GⅡ以来,大レースは2007年のシンガポール航空国際カップGⅠ以来,ドバイでの大レースは同年のドバイデューティフリーGⅠ以来。ドバイワールドカップGⅠは初勝利。Victoireはフランス語で勝利。父はネオユニヴァース,母はホワイトウォーターアフェア
 騎乗したイタリアのミルコ・デムーロ騎手の日本馬での大レース勝利は有馬記念以来。管理している角居勝彦調教師も有馬記念以来の大レース制覇。海外重賞は2006年のメルボルンカップGⅠ以来。ドバイではこれが初勝利。
                         

 僕が鶴ヶ峰から帰宅したとき,母と伯母がふたりでテレビを視ていたというのは,妹は不在であったということを意味します。通常であればこの時間なら帰っているのが普通ですが,まだ帰宅できずにいたのです。実は僕が少しでも早く家に帰ろうとしたのでは,こういうケースも想定されたから。迎えにいかなければならないということが十分に考えられましたし,バスが動いていればよいですが,妹を迎えに行くための市営バスは止まっているようでした。また,仮に運行を再開したとしても乗れるかどうかは分かりませんから,最悪の場合は歩いて迎えにいかなければならないということもあり得たのです。もしもそうなると母には負担が大きすぎますから,僕が行くということになるでしょう。地震発生時には僕は相模鉄道の車内で,もちろん市営バスの運行状況などについては何も知り得ていませんでしたが,その時点で,徒歩で妹を迎えにいく可能性についてはすでに頭の中に入っていました。
 実は僕が帰宅した時点では,妹がどういう状況であるかは母も把握していませんでした。地震発生時は時間から考えても作業所にいた筈ですが,もう帰宅の途についているのか,それともまだ作業所で待機しているのかも分かりませんでした。これは通信手段が悪化していた影響で,家と作業所との間で連絡がつかなかったからです。
 ようやく電話が繋がり,最初の連絡が入ったのは5時半頃。このときに分かったのは,地震発生時に作業所にいたすべての人間は,その後に徒歩で作業所を運営している施設の方に移動して待機しているということ。そしてもしも帰るという場合には迎えに来ることが必須であるということ。ただし迎えが困難である場合には施設の方に宿泊することも可能であるということでした。
 連絡を受けたのは母で,僕はこの話を聞いて,迎えに行かれるのであれば行った方がよいだろうとは思いました。母も同じ考えだったようです。ただ,行かれるかどうか,つまりバスが運行しているかどうかがこの時点では不明。もちろん迎えに行くだけならば,徒歩でも可能ですが,この場合は帰りも徒歩になるでしょう。施設は作業所よりもさらに遠いですから,妹がその距離を歩いて帰れるかどうかにも不安がありました。したがってこの時点ではこちらももう少し待機し,次の連絡を待つことにしたのです。
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高松宮記念&帰宅

2011-03-27 18:43:55 | 中央競馬
 中京競馬場が改修中のため今年は阪神競馬場が舞台となった高松宮記念
 隊列が決まるまでやや時間を要しましたが,先手を奪ったのはヘッドライナー。ダッシャーゴーゴーが差なく続き,ワンカラット,レッドスパーダ,キンシャサノキセキといったあたりが続きました。前半の600mは33秒6のミドルペース。
 直線に入るとダッシャーゴーゴーがすぐに先頭に。これにキンシャサノキセキが並び掛けると余裕をもって抜け出し,結果的には楽勝。馬場の外に持ち出した馬はやや伸びを欠き,馬群を割るように伸びたサンカルロが2着でアーバニティが3着。
 優勝したキンシャサノキセキは昨年暮れの阪神カップ以来の勝利。このレースは昨年も勝っていて連覇。大レースも2勝目。いつもそうですが今日も折り合いは少しばかり欠いていたように見えましたが,絶対能力の高さが現状のスプリント路線では違うようです。まだ王者の位置を保てそうに思わせる快勝でした。父はフジキセキ
 騎乗したイタリアのウンベルト・リスポリ騎手は日本での大レース初勝利。管理している堀宣行調教師は昨年の春の天皇賞以来の大レース3勝目。高松宮記念は連覇で2勝目です。

 国道と平行して流れているこの川は運河なので,上流と下流という概念はあまり適合しません。このとき,小型船はこの地点からみれば海に近い方へと流されていました。そしてその速度もかなり速いもので,僕が乗車していたバスとさほど変わらないと思えたほどです。ここではもうバスは乗客を降ろすためにバス停でも停車しますし,信号が赤になれば必然的に止まります。よって,小型船の方が先に行ってしまい,すぐに見えなくなりました。海に近い方に流れていったので,適切ではないかもしれませんがここでは引き潮ということばを用いることにしますが,小型船はこの引き潮に乗って流されていたわけですから,川の水が引いていく速度もそれだけ速かったということだろうと思います。僕はこの川の引き潮の速度などはこれまで注意深く観察したことがありませんでしたからはっきりとしたことはいえませんが,あるいはこれは地震の影響であったのかもしれません。川の水位もいつになく低下しているように感じられましたが,これもまた僕がそういう目で観察したからかもしれず,単に気のせいであったかもしれないです。
 バスは間もなくこのバスとしては僕の家に最も近辺の停留所に到着。近くにコンビニエンスストアがあり,普通に営業していましたので,妹のことでしなければならなかった買い物を済ませてから帰宅。これが午後5時過ぎのこと。2時半頃に鶴ヶ峰から帰ろうとしていたことを考えればかなりの時間を要してしまったといえなくもないですが,大地震の影響があったという観点からいうなら,僕は多くの人に比べれば考えられないくらい順調に帰宅することができたといっていいでしょう。家には目立った被害は何もなく,前日に来日した伯母が来ていて,母とふたりでテレビのニュースを視ていました。それで初めて僕もこの大地震の被害の凄まじさというものを知ったのです。
 僕の部屋は2階で,着替えのために戻ると,箪笥の引き戸が開いてしまい,中のものが散乱していました。こんなことは初めてだったのですが,15日の夜の静岡県富士宮市を震源とする地震が起こったときにも同じことになりましたので,引き戸が開いてしまうのは仕方がないにしても,中のものが散乱はしないように整理整頓する必要があったようです。もちろん今はもう片付けてあります。 
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社会主義の理解&車外の様子

2011-03-25 18:33:59 | 歌・小説
 漱石のドストエフスキー評は明らかに二律背反であると思いますが,そのうち,否定的評価がどこから生じてくるのかと僕なりに考えてみると,ふたつの要因があるのではないかと思います。そしてそのうちのひとつが,社会主義という思想に対する漱石の評価です。
 ただし,このためには次のことを前提としておく必要があります。まず,ドストエフスキーは,1849年に逮捕され,死刑宣告。処刑直前に特赦となってシベリア流刑となっています。この直接的な咎は秘密出版所の設置計画に加担したということだったようですが,その背景に社会主義思想に対する弾圧の意図があったことは否めないと思います。したがってこの時期のドストエフスキーに関してなら,確かに社会主義者であったということは可能かもしれません。ただし僕自身はこの時期,およびこれ以前にドストエフスキーが書いたものについてはほとんど触れていませんから,はっきりそうだといいきる自信があるというわけでもないです。
 一方,この流刑後に書かれた多くの小説を読む限り,少なくとも僕がイメージするような意味では,ドストエフスキーを社会主義者というには無理があります。そしてドストエフスキーの大半の小説はこの時期に書かれたわけですので,漱石がどう解釈したかは別に,僕はドストエフスキーが社会主義者であったとは考えません。
 次に,『明暗』の小林は,自分が社会主義者と評価されることに対して肯定的な反応をみせていますが,では彼が政治思想的な意味で社会主義者であるかといえば,僕はそのように書かれているとは思わないです。彼は清水忠平さんが書いているように,アナーキストまがいの貧民代表という方が適切で,少なくとも確固たる政治思想をもち合わせた社会主義者とはいえないだろうと思います。
                     
 夏目漱石が社会主義思想をどのような思想と理解していたかは分かりませんし,またそれを小林やドストエフスキー,並びにドストエフスキーの小説の登場人物と関連させて考えていたかもはっきりとは分かりません。ただ,少なくとも漱石が考えていた社会主義という思想は,僕たちがそう理解するものとは隔たっていたことは間違いないと思います。

 この京急バスは僕の家からみますと磯子駅よりさらに先の,杉田まで行くものでした。大地震の影響でバスのダイヤも大幅に乱れていて,運転手の話によれば,本来であればこのバスは,もうとっくに杉田に着いていて,折り返して横浜駅に向っている時間であったとのことでした。
 このとき,高島町の停留所からこのバスに乗ったのは僕を含めて数人。バスはさらにその先の停留所で数人の客を乗せるとほぼすし詰めの状態になりました。このバスは途中,桜木町駅や関内駅の周辺を通ります。その近辺では横浜駅のバスターミナルがそうであったようにバスを待つ人々が長い行列を作っていましたが,仕方がないこととはいえ無情にもバスは通過していきました。どうもこの時点で,この京浜急行バスや神奈中バスは,ダイヤは乱れていましたが運行していたようですが,横浜市営バスの方はまだ運転休止の状況だったようで,行列が長くなっていた一因はそこにもあったのではないかと思います。そういう意味では,市営バスに乗るつもりでいたのを断念して歩き始め,京急バスに乗れた僕は相当に幸運であったと思います。
 僕がバスに乗った目的は,少しでも早く家に帰るということであり,徒歩よりも楽であるということは二の次。こうした状況ですからことによると道路が激しく渋滞し,バスが走るということ自体が覚束なくなるということも大いに考えられ,その場合は途中で下車して再び歩くということも想定しての乗車だったのですが,意外にもバスはスムーズに進みました。路線バスですからある意味では当然といえば当然ですが,基本的に普段でも混雑するようなところを選んでいるような路線です。しかしむしろ道は普段よりも空いているような印象を僕は受けました。
 すし詰め状態ですから,窓の外がよく見えたというわけではありません。それでも何か被害が出ていないか注意深く様子を窺っていましたが,大きな異常というのはありませんでした。僕が気付いたのはふたつで,ひとつは長者町のあたりでどうもビルの窓ガラスが破れたようで,破片が散乱していたこと。もうひとつは,位置関係に関しては以前に眼科の選択を迫られたときに少し説明しましたが,このバスは僕の家の近くでは川沿いの国道を走るのです。ちょうど国道とその川が平行になるあたりで,その川に一隻の無人の小型船が流されていました。これはたぶん停泊中の船が流されたもので,乗員が川に転落したためではなかっただろうと思います。
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1987年のピンチ&横浜駅

2011-03-23 18:41:38 | NOAH
 僕がいう全日本プロレスの最良の時代というのは,天龍をはじめとする大量の選手の離脱というピンチの後に訪れたのですが,全日本プロレスはそれ以前にも似たような状況に陥ったことがあります。それが1987年の3月に起きた,長州をはじめとするジャパンプロレスの大半の選手の試合のボイコットと,その後の新日本プロレスへの復帰です。
 もちろん1990年の選手離脱は,全日本プロレスに所属していた選手の離脱であったのに対し,これは当時の全日本プロレスとは提携状態にあったとはいえ,ジャパンプロレスという他団体の選手の離脱でした。また,1987年当時の全日本プロレスの観客動員に対する長州の貢献というのは,たぶん1990年当時の天龍の貢献ほどではなかったのではないかと思いますので,どちらがより大きなピンチであったのかというなら,1990年の事象の方が大きかったとは思います。しかし,同じように,全日本プロレスを主戦場としていた日本人選手が,少なくともその中心の一部を占めていた選手まで含めて大量に離脱したという意味では同様ですから,やはりこのときも全日本プロレスは一種の危機的状況に立たされたということは,確かなこととしていえるのではないでしょうか。
 ではこの長州の離脱後に実際に全日本プロレスが経営的な意味で危機に立たされたのかといえば,そうでもありません。それに最大の貢献を果たしたのは,天龍が鶴田に対して牙をむいたことにより,全日本プロレスにおける戦いの構図に新しい絵が描かれたからですが,そうしたことはさておいて,1988年1月に行われたインタビューで,馬場は長州たちがいなくなって得をしたという主旨のことを言っていて,これは必ずしも経営面のことだけを意味するものではないと思われますが,この離脱がむしろ好材料になったことは間違いありません。
                        
 このように,全日本プロレスはそれ以前のピンチのときにも,結果的にはそれをプラスに作用させました。ピンチはチャンスとか,災い転じて福となすということばがありますが,全日本プロレスは少なくとも2度,それを経験したのです。そして2度あったということは,それが偶然の産物ではなかったことの証拠ではないかと僕には思えるのです。

 相模鉄道の係員の指示に従って線路内を徒歩で移動。たまたま近くの線路脇に非常用と思われる出口がありましたので,そこから外に出されました。出たすぐ横を川が流れていまして,これを渡って横浜駅へ向いました。僕はこの時点では,体感からかつて経験したことがないような大きな地震が生じたのではないかとは思っていましたが,その詳細については何も知りませんでした。
 横浜駅は東から順に京浜急行,京浜東北線,東海道線,横須賀線,相模鉄道という順でホームが並んでいます。この関係で,僕は横浜駅の西口に辿り着くことになりました。周囲の状況から考えて,自宅に大きな被害が出ているという心配はしなくてもよいだろうとは思いましたが,連絡は取れません。母も心配していると思いましたし,妹のことも気になったので,とりあえずは一刻も早く家に戻るということを優先しました。普通ならば根岸線に乗るのが最も早いですが,電車が動いていないことは明らか。するとバスということになります。バスは西口からも出ていますが,本数が少なく,東口の方が便利。ということで横浜駅の通路を西口から東口へと通り抜けることに。この時点でその通路にもかなりの人が溢れていて,売店には長蛇の列ができていました。
 それでも何とか東口のバスターミナルには到着できたのですが,ここにもすでに長い長い列ができていました。そしてバス自体も運行しているのかどうかが不明。待っていてもバスが1台到着しただけでは明らかに乗れないと思われるくらいの列でしたし,そもそもそのバスが来るのかどうかすらが分からない状況なのですから,これでは時間を無駄に過ごしてしまうだけです。仕方がないので徒歩で帰ることに決めました。散歩は趣味で歩くことが苦になる人間ではありませんし,実際にかつて,終電を逃してしまい横浜駅から歩いて帰ったという経験もあります。この日はさすがに状況が状況ですから何ともいえませんが,普段の散歩として考えれば,1時間も歩けば帰れる距離の筈でした。
 それで実際に歩き始めたのですが,すぐ近く,バス停でいいますとひとつ先の高島町の近くまで来ると,京浜急行のバスが来ました。このバスは家のかなり近くを通ります。乗れるかどうかは分かりませんでしたが,バス停で待っているとドアが開き,僕は幸運にもこのバスに乗ることができたのです。
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中日新聞杯名古屋大賞典&大地震

2011-03-21 18:39:20 | 地方競馬
 西日本は目立った地震の被害もなく,競馬も予定通りに開催している主催者も多く,今日の名古屋大賞典(動画)も無事に施行となりました。
 まずはイイデケンシンが先手を奪ったのですが,控えたエスポワールシチーが抑えきれないといった感じで1コーナーでは先頭に。さらに2コーナーではクリールパッションとワンダーアキュートが上がっていき,早くもこの3頭と後ろが離れるという競馬になりました。ペースはおそらくミドルだったと思います。
 向正面でワンダーアキュートは押して押して2番手は確保。クリールパッションは3コーナー過ぎから遅れていきました。エスポワールシチーとワンダーアキュートは手応えでは歴然の差がありましたが,最初に掛かっていたためか,エスポワールシチーも直線では思ったほどは引き離せず。それでもレコードタイムでの快勝となっています。ワンダーアキュートが2着でクリールパッションも3着を確保。きわめて堅い決着でした。
 優勝したエスポワールシチーは昨年のかしわ記念以来の勝利で重賞は7勝目。帰国後,なかなか態勢が整わずにここが今年の初戦となりましたが,相手関係からいえば当然の勝利。まだ活躍が見込めそうです。レコードが出るような馬場状態になったことはおそらくプラスだったでしょう。エスポワールはフランス語で希望。父はゴールドアリュールで,母系はチップトップジーゲリンの分枝。
 佐藤哲三騎手,安達昭夫調教師のふたりは名古屋大賞典初勝利です。

 僕がまだ小学生だった頃,確か伊豆諸島だったと思うのですが,群発地震があり,横浜も何度も揺れました。そのうち,下校途中で,当時はよく遊んでいた近所の公園の近くで遭遇したものは非常に大きく,僕の体感だけでいえば,それがそれまでに経験した最も大きな地震でした。小学生の頃の体感ですから,それが現在でもまざまざと残っているというわけではありませんが,このときに相模鉄道の電車内で感じた揺れはそれを上回る,僕の人生の中で最大のものでした。
 ただ2本のレールの上に停車した電車の中であったこと,また乗った車両が後ろから2両目と,端の方であったこと,しかもその9両目の車両の中でも端の方に僕が腰掛けていたことなども影響したかもしれません。電車は左右に交互に傾くように大きく揺れ,横転するのではないかと感じるほど。また,停車した9両目の真上には陸橋が架かっていたのですが,窓の外に見えるその橋も撓むように大きく揺れていました。そして揺れていた時間も,かつてこんなに長い時間にわたって揺れた地震があっただろうかと思うくらい長く感じられました。
 実際には電車が横転するのではないかというような感覚はオーバーなものであり,乗客がそう多くはなかったということもあったでしょうが,特段のパニックが生じることもなく揺れは治まりました。電車は終点の横浜駅目前ではありましたが,非常に大きな揺れであったため,電車とレール,架線やホームなどの点検が終了するまではこの場に停車するというアナウンス。窓の外をぼんやりと眺めていますとすぐに係員と思しき複数の人がやって来て点検をしているようでした。そして実際に点検は終り,安全は確認されたというアナウンスが一旦は車内に流れたのですが,その前ほどではないもののまた大きな余震があり,再点検が必要であるというアナウンスがまた流れました。これでは埒が明かないのではないかと思っていたのですが,ほどなくして,線路沿いを歩いて外に出るようにとの指示。この近辺はJRの東海道線と横須賀線が平行して走っていまして,東海道線の下り列車も僕の所から見える位置で停車していたのですが,そちらはまだ車内に乗客が残っていた状態でしたので,このときの相模鉄道の対応はとても迅速なものであったと感謝しています。
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冗長の理由&相模鉄道

2011-03-20 18:38:45 | 歌・小説
 ドストエフスキーの小説が濃密な理由のひとつとして,登場人物の会話の分量が多いということがあげられるわけですが,それでは人間というのが冗長とも思えるくらいに多くのことを語るその理由としては,どのようなことが考えられるでしょうか。
 世の中には確かにお喋りな人間,また,喋ることが好きな人間というのがいます。しかしそういった人間の話というのは,よく喋るなあと感じることはあっても,冗長であるとはあまり感じないのではないでしょうか。一般的にお喋りな人間というのは,次から次へと主題を変化させながら喋るものですが,僕たちはむしろ,同じテーマについて,あちらこちらの様ざまな角度で語るとき,その語り部について冗長であると感じるものだからです。
 もちろんそのような仕方で,他者に冗長であると感じさせるような語りを人がするとき,その人間がそのように語ることの理由をひとつに限定して考えるということはできません。しかしその大きな理由のひとつとして,人間は自分について,ないしは自分が語っていることについて,それを正しく理解してほしいと強く思うとき,冗長になるのだと僕は考えています。したがって,もしも簡潔なことばで自分の気持ちを伝えることができるならば,この場合には人は冗長にはならないでしょう。つまり,自分が発していることばが正しく自分の気持ちを表現しているということについて,あるいはそれが正しく聞き手に対して伝わっているのかということについて,確信が持てないときほど,人間は冗長になるものだということが,少なくとも一面の真理としていえるのではないだろうかと僕は考えているのです。
 ドストエフスキーの小説でいえば,『カラマーゾフの兄弟』のフョードルのお喋りについては上述のことは必ずしも当てはまっていないかもしれません。しかしたとえば『罪と罰』でラスコーリニコフが長い話をするとき,確かに彼は必死になって自分の気持ち,ないしは思想というものを相手に伝えようと躍起になっているように僕には感じられます。また,もっと典型的なことをいえば,『地下室の手記』の作中の著者が,あれほどの長い手記を書かざるを得なかったのは,やはり同様の思いと,自らが発していることばに対するある種の不信とが,同時に存在していたからではないかと思います。
                         

 この3月10日の夜に,1月に帰国したロスアンゼルスの伯母が来日しました。いつもと同じ飛行機だったと思うのですが,この日は早く飛んだようで,通常よりも1時間ほど早くこちらに到着しました。これがこの日の夜。そして一夜が明け,長く語り継がれるであろう3月11日を迎えたのです。
 この日,僕は旭区の鶴ヶ峰というところにいました。普段の仕事よりも早く着手しましたし,初体験の事柄もあったのでやや心配していたのですが,それもかなりスムーズに消化。このために事前に予測していたよりもずっと早く終了させることができました。もうひとつ,これとは別に,妹の関係でやっておかなければならない買い物が残ってはいましたが,これは帰路の途中でもできる事柄。これ以外には一切の用事がなかったので,まだ午後2時半頃と早い時間ではありましたがそのまま家に戻ることにしたのです。
 鶴ヶ峰から帰る場合には,相模鉄道に乗って横浜まで戻り,そこで乗り換えるということになります。鶴ヶ峰駅のホームへと続くエスカレーターを下っていると,うまいこと快速電車が入線。僕はエスカレーターを駆け下りてその電車に飛び乗りました。10両編成の9両目。これは上り列車で,後ろから2両目ということになります。車内には10人ばかりで,僕は空いた所に腰掛けました。僕が乗ったこの快速は途中の星川駅で停車。ここを後にして天王町,西横浜,平沼橋と通過して,横浜駅寸前というところで停車しました。
 もう10年以上前になるでしょうか,僕は大和市内に勤務していた経験があります。そのときはこの相模鉄道を通勤電車として利用していました。以前に『罪と罰』のラスコーリニコフに対するソーニャのことばを紹介しましたが,あれを読んだのも相模鉄道の車内でした。
                         
 横浜は終点です。電車が入るためにはホームが空いていなければなりません。相模鉄道の場合,発車する方が遅れるのか到着する方が早すぎるのかは分かりませんが,この引き継ぎがあまりスムーズでなく,横浜駅の手前で徐行したり,ときとして赤信号で停止するケースがままあるということは,僕自身のその通勤の経験からよく分かっていました。だからこのときも瞬間はそれだろうと思ったのですが,すぐに違うことが分かりました。停車した電車が激しく揺れ始めたからです。
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棋王戦&降圧剤の変更

2011-03-18 19:24:44 | 将棋
 防衛に王手を掛けている久保利明棋王にとってはホームといえる大阪の関西将棋会館での対局となった第36期棋王戦五番勝負第四局。
 渡辺明竜王の先手ですからごきげん中飛車は大本命。第二局とは異なり③の▲4八銀から先手が2枚の銀を進出させる形に。先手が左の銀をうまく組み替えて飛車を成ることに成功。先手がうまくやったように思いました。
                         
 ここで後手は△2二金。先手は▲1一龍と香車を取り,△5一飛▲同龍△同角▲4五桂。後手も△6五桂と跳ね,▲5三桂成△7七桂成▲同桂△9五角(第2図)となりました。
                         
 この間,先手は桂と香,後手は角を入手。先手の龍が消えて後手の飛車は捌けたと考えることが可能なので,このやり取りは後手の方が少し得をしたような印象です。先手は▲8六桂と守りました。後にこの桂馬が攻めに効いたので,そこでは先手が優勢になったのではないかと思います。
                         
 ここで▲7五歩と突いていきました。後の歩合いを避けるため△8七銀▲6九玉△8九飛▲7九銀までは必然。△7五金と手を戻したのに▲8二角△8四玉。そこで▲7ニ龍とこちらに寄り,△7四金▲7五歩△同玉。▲7三角成の詰めろに△7六玉(第4図)。
                         
 この手が詰めろ逃れの詰めろになっていて,局面も後手の勝ちになっていたようです。おそらく先手に重大な見落としがあったものでしょう。以下は寄せきって後手の勝ちになりました。
 3勝1敗で久保棋王の防衛,3連覇前年に続き,防衛の一局は逆転の将棋となりました。

 3月10日の木曜日。この日は母の磯子中央病院の脳外科の通院の日。脳外科の場合は検査と診察が午前中です。また,木曜日は妹の迎えの支援の対象外の日。必然的に母は妹を送っていくことができませんから,僕が送っていくということになりました。いくら運動療法の改善が必要とはいえ,妹を連れて徒歩で行くということはできません。よってバスを乗り継いで送って行ったわけですが,帰りはひとりですので歩きました。
 一方,母の方ですが,肝臓の方の精密検査などを行った医師から脳外科の主治医であるN先生に話が通っていたようで,処方される血圧降下剤の種類が変更となりました。それまでに服用していた降圧剤が母の肝機能の悪化の原因であったのかどうかは定かではありません。ただ,もしも次の通院のときの検査で肝機能を示す値が正常に回復されていれば,そうであったということになるだろうと思います。いずれにせよ,次の通院日までははっきりとしたことは分からないということになります。まあ,肝臓に損傷があるというわけではなく,また肝炎を発症しているというわけでもありませんし,何より母自身がこのことで辛い思いをしているというわけでもありませんから,はっきりとしたことが判明するまでにまだ多少の時間を要しますけど,大きな問題となるわけではありませんからそれでいいのだろうと思います。
 ところで,肝臓を検査した医師からN先生への依頼は文書で行われたらしいのですが,その文字が非常に読み辛かったようで,N先生は解読するのに苦労したようです。しかしこれは僕たちにとっては一種の笑い話のようなもの。というのは,母が入院した時点で,僕と叔父はN先生による治療計画書という1枚の書類を受け取りました。しかしそこに書かれていたN先生の文字は尋常な書体ではなく,きちんと解読するのにかなり苦労したのです。実際のところ,これは本気で患者や家族に対して病気の状況や治療方針について知らせる意図がないのではないかと疑いたくなってしまうくらいの,誤解を恐れずにいいますがひどい文字でした。そのN先生が別の医師が書いたものに対してケチをつけるようなことを言ったというので,僕たちはおかしくなってしまったのです。みなと赤十字病院の医師の文字はどれもこれも容易に判読できるものばかりでしたからなおさらでした。
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順位戦回顧&コンビニ弁当

2011-03-16 18:38:27 | 将棋トピック
 第69期順位戦は昨日のC級1組の最終一斉対局で全日程が終了。展望も参照しつつ,振り返ります。
 まずA級は森内俊之九段が名人挑戦権を獲得。長手数の将棋もあり,楽な戦いとはいい難かったと思いますが,安定した力を発揮したということだと思います。永世名人同士の名人戦は来月開幕。木村一基八段と藤井猛九段が降級。捲土重来を期待します。
 B級1組。1月に早々と佐藤康光九段の昇級が決定。僕の展望は杞憂で,ここでは力が違いました。生活状況の変化で不調になっていたとも考えられ,新生活に慣れて復調してきたのだとすれば,A級でも期待できるでしょう。最終直接対決を制した屋敷伸之九段はここまで来るのが遅すぎた棋士。大きく崩れることはないので,いずれ名人挑戦ということがあっても驚けないと思います。
 B級2組。ここは橋本崇載七段と阿久津主税七段の昇級で,順当といえそう。今期も混戦となりましたが,ここ数年よりも高いレベルでの混戦であったと思います。
 C級1組。ここは大本命の広瀬章人王位と田村康介六段の昇級に。個人的な印象として,田村六段はこういう長丁場のリーグ戦にはあまり向かないタイプと思うのですが,それでも実力に見合ったところまでは上がってきたという気がします。
 C級2組は展望で名前をあげた3人が揃って昇級。それだけ順当だったともいえますが,こんなケースはもう2度とないのではないかとも思います。3人とも連続昇級を狙える力があると思います。

 この精密検査の結果のための診察は,午後3時半から。母が帰宅したのは5時半近くになっていました。このためにこの日は母が夕食を作るということができませんでした。こういう場合は我が家では店屋物を注文することが多かったのです。実際,母が入院していた間,僕が事情によって夕食の支度をできない場合にも,何度か利用していました。
 以前は近隣に日本蕎麦屋が2軒,うなぎ屋が1軒,また,すし屋などもあったのですが,時勢というのもあるでしょうがこれらの店は閉店したり移動したり,あるいは出前を受け付けなくなってしまったりで,最後に残っていたのが中華料理屋。要するにラーメン屋です。ところがこのラーメン屋も,現在は再開しているのですが,この時期はどうも調理師が何らかの事情で休んでいたようで,出前の注文ができませんでした。ということで僕がコンビニエンスストアまで出掛け,3人分の弁当を買ってくることになりました。もっとも,出前の品というのは実際にどれくらいの熱量を含んでいるのかいまひとつ分からないのに対して,コンビニ弁当であればしっかりと熱量が表示されていますから,4月以降の入院を避けるためにも食餌療法の改善が必須であった僕とすれば,むしろこの方が好都合であったとはいえます。僕が自分のために買ってきたのは豚カルビ焼肉重という弁当とサラダ。この肉は割合に脂がのっていましたが,表示されている熱量は確かなものであったようで,血糖値が高くなるということは避けることができました。
 3月1日に信託銀行宛てに送付した書類ですが,不備があるという連絡が先方から電話であり,一旦は送り返すので記入し直してほしいとのこと。それが僕の手許に届いたのが5日の土曜日でした。電話の連絡では4点ほど話がありましたが,実際に不備といえたのは2点。そしてそのうちの1点は,余分な書類があったということ。これは,定期預金についても名義変更ではなく払い戻しの手続きを行うことにしたのですが,名義変更のための手続き書にも記入されてしまっていたとのこと。これはこの書類だけを破棄すればよいだけのことですから,不備といえるほどの不備ではなかったと思います。もうひとつは相続手続き依頼書の印影に薄い部分があるということ。ということで押印し直して,週が明けた7日の月曜に,簡易書留で再送付しました。
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王将戦&精密検査の結果

2011-03-15 18:35:38 | 将棋
 王将位の行方は箱根では決まらず,神奈川県内を東に移動する形で秦野市での対局となった第60期王将戦七番勝負第六局。
 久保利明王将の先手で三間飛車石田流。豊島将之六段が銀冠に固める構えを見せたところで先手が6筋から仕掛け,銀交換に。その後,一旦は大駒の交換を拒否した後手が飛車交換に応じ,双方が敵陣に飛車を打ち下ろしての攻め合いとなりました。
                         
 ここで後手は△6七銀成を決行。▲同金△4七歩成までは必然。先手の▲4四銀にも△同角と食いちぎり,▲同角△3三銀打。先手は▲7七角(第2図)と退却しました。
                         
 後手を引いてつまらないように思えますが,これが後の▲8八角打をみせた好判断だったよう。後手は△4八歩から必死に攻めを繋げにいきましたが,数手後には先手の狙いが炸裂。その後,丁寧な指し回しをみせた先手が,終ってみれば大きな差をつける形で勝ちました。
 4勝2敗で久保利明王将が防衛。かなり年下の挑戦者ということで,やりにくかった面もあったのではないかと思いますが,シリーズを通して,その力を存分に見せつけたという印象が残りました。

 僕が定期預金などの相続のために必要な書類を信託銀行に送付したのが今月の1日でしたが,この日は母の肝機能の再検査の日でもありました。火曜で,妹を作業所まで送っていかなければならない日ですが,こちらの診察は脳外科の通院とは違って午後。よって午前中は母にも時間がありますので,僕が送っていく必要はありませんでした。
 この日の血液検査の結果は,前回よりは良化を示していたものの,まだ機能障害があるということを表す値だったようです。とにかくここは詳しい検査結果のデータをもらえないので,何がどう悪いのかは僕にも母にも一向に分かりませんが,少なくとも問題なしという結果ではなかったということだけは間違いありません。ただ,前回のときに採取した血液を詳細に分析した結果として,肝炎が発生しているという心配はないとのこと。ということで,やはりこの肝機能の低下は,処方されている血圧降下剤が,母の体質に適合しないためではないかというのが診察した母を診察した医師の見解であったようです。
 ただ前回もそうですが,この降圧剤は脳外科の主治医であるN先生から処方されているもの。したがって勝手に飲むことを中止するというわけにはいきませんし,薬の種類を変更するというわけにもいきません。ただ,脳外科の通院というのは月に1度ありますので,次の通院のときまでに降圧剤を変更するようにN先生の方に伝えておくということで,この日の診察は終ったとのことです。肝臓は沈黙の臓器といわれるくらいで,少々の機能障害が生じているというくらいでは自覚症状は出ず,むしろ自覚症状や,あるいは傍目から分かるような症状が出るということはかなり悪化していることの証明のようなものらしく,僕が以前に職場での健康診断や糖尿病での通院で肝機能障害を指摘されたときもそうですが,母もやはり何か身体が辛いといった症状が出ていたわけではありません。そういう意味では,まったく危険がないというわけではないのかもしれませんが,このような処置が施されるというのは,おそらく一般的なことなのだろうと思います。そもそも僕の場合には何らの処置も施されず,しかし,少なくとも僕の検査のオーダーの詳細情報が手渡されるようになってからは,肝臓の機能に異常を示す数値は,1度たりとも出ていません。
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妙手⑮&診察

2011-03-14 18:30:07 | ポカと妙手etc
 第16回銀河戦Eブロック2回戦より。
 後手が6手目に△3三角と上がって角交換。相居飛車で後手が右玉模様に組んでいった将棋。山田アマはこういう将棋を多く指しているようですが,この将棋では構想に穴があいていていたようです。ただ,通常は考えにくい筋ですので,先手の動きが機敏であったというべきかもしれません。
                         
 ここで先手は▲7七桂と跳ねましたが,これが狙いを秘めた一手。対して後手の△7三桂が,普通にみえて疑問。すぐに▲8五桂と跳ねていきました。ただですが,取ると王手飛車があります。一時的には後手の駒得となりますが,この玉形で飛車を渡せないとみた後手は△6二角。以下,▲7三桂成△同角(第2図)と進みました。
                         
 駒の損得はありませんが,一方的に角を使わせたのは先手の大きなポイント。駒組を優位に進めた先手から仕掛け,勝利しています。

 妹の遺伝科の主治医はK先生。実は11月の通院のときはこの先生がお休みで,臨時の代行の医師でした。僕はこども医療センターはまだ20代の頃にやはり妹の関連で何度か行ったことがあったのですが,その頃とは建物の構造も変わっていまして,実質的にはこの日が2度めのようなもの。したがってK先生と会うのもこの日が初めてでした。
 診察は話をすることが中心で,家庭の状況についても訊かれましたので,母が退院しているということは伝えました。この間も妹には発作の症状は出ませんでしたので,それだけで終了かと思いましたが,聴診器を当てての診察もありました。もっともこれは衣服の上からのもので,形式的とまではいいませんが,一応のものにすぎなかったと思います。また,癲癇以外にも妹には特別の変化はありませんでしたので,診察はそれで終了。前回と同様にの処方箋をもらって,部屋を出ました。
 妹は診察料というのは無料なのですが,会計は済ませないと帰れません。これは前回も感じたことですが,こども医療センターの会計というのはみなと赤十字病院と比べますとかなり時間が掛かります。つまりここは移動も大変ですが院内での待ち時間も長くなる。帰りはわざわざ関内まで出る必要はありませんが,前回は吉野町というところで乗り換えて帰って,少し時間をロスしたのではないかと感じたので,この日は井土ヶ谷で乗り換えて,別のルートで帰りました。移動時間そのものは確かにこの日の方が短かったと思いますが,それでも家に着いたのは5時15分頃でした。もっとも前回と違って今回は夕食の支度をする必要はありませんから,遅くなってもあまり問題はありません。
 処方箋を出してもらいましたから薬局に行く必要はあります。ただし今回はこれは僕ではなく母がやってくれました。たぶん翌日,つまり23日に,根岸駅の近くの薬局に行ったのではないかと思いますが,前回と同様にその時点ではすべてを入手することができなかったようです。ただ,妹を作業所まで送って行くときは根岸駅を経由します。この23日は水曜ですから迎えのサービスの日ですが,翌24日は木曜で,母が送っていく日。その帰路にまた薬局に寄り,そこで薬を入手することができました。
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シークとの相違&遺伝科

2011-03-12 18:36:39 | NOAH
 黒い呪術師はプロレスの試合の中で,アラビアの怪人に比べればきちんとした攻撃を繰り出しはしたものの,お世辞にもテクニシャンであったというわけではありません。同じようにヒールとして活躍したタイガー・ジェット・シンは,おそらくテクニックにも長けていたと思うのですが,やはりヒールという役割から,それを試合で表面に出すということはしませんでした。つまりシンの場合,できなかったのではなくやらなかっただけだと思うのですが,ブッチャーの場合はそうでなく,やらなかったのではなくできなかったのだろうと思います。もっともブッチャーはあの体格ですから,そもそもそうした細かいテクニックを求めることがナンセンスであるといえるかもしれません。
 しかしブッチャーには,シークとははっきりとした相違がありました。シークは技を出さないだけでなく,相手の技もほぼ受けませんでしたが,ブッチャーは相手の技もきちんと受けました。僕が面白いと感じた一連の抗争でいえば,ドリーのエルボースマッシュや,テリーのパンチをブッチャーが受けるシーンは,試合の見せ場のひとつとなっていました。ブッチャー自身,そのことをよく理解していたから,そうした攻撃をちゃんと受けたのでしょう。そしてそれだけの体力もあったのだろうと思います。
 ブッチャーはシークと違って,全日本プロレスで記録として残る活躍をしています。たとえばPWFチャンピオンにもなりましたし,チャンピオンカーニバルで優勝もしています。また,シングルだけでなく,インタータッグのチャンピオンにもなりました。こうしたことが可能だった,あるいは許されたのは,ブッチャー自身に妙な愛嬌があったために,ヒールながらファンの人気もあったからだというのもひとつの理由でしょうが,ただ好き勝手に自分が暴れるだけのプロレスには終始しなかったからだというのもやはり大きかったのではないかと思います。そして僕がシークに関してはあまりプロレスラーとしては評価しないのに対し,ブッチャーに関してはそうではないのは,このように相手の技も受けるという側面があったからなのです。

 実は11月に妹をこども医療センターに連れて行ったときには,このこども医療センター経由のバスがなかなか来ませんで,関内駅の近くでかなり待たされたのです。まあ,1時間に2本ですと,タイミングによってはそうなることがあるのも自然なことではあります。しかしこの日は,ほとんど待たずに医療センター経由のバスが来ました。ところが僕たちがこども医療センターに着いたとき,時刻はすでに3時少し前になっていたのです。
 これは今考えても不思議です。11月はバスの乗り継ぎに時間が掛かったのに,15分前には到着できたのです。ところがこの日はその待ち時間がほとんどなかったのに,移動時間はむしろ掛かった計算になるからです。もちろん移動時間は,バスの待ち時間だけでなく,むしろ道路状況によって大きく左右されますが,この日もとくに渋滞していたというような印象は受けませんでした。
 いずれにせよ,時間には間に合ったわけですから問題が生じたというわけではありません。ただしこの日も診察の開始まで待たされ,僕たちが実際に診察室に入ったのは3時半頃でした。
 ここでは遺伝科というのが診療科の名前。先日,さるところで遺伝科とはどういう科なのかと質問を受けました。僕はあまり気にしていなかったのですが,たぶん次のようなことではないかと思います。
 哲学的な観点からは,何をもって異常というのかということは議論の余地があると僕は思いますが,医学的な観点からいうなら,ダウン症というのは染色体の異常によって発生するということになっています。このために,ダウン症である妹を診察する診療科が,遺伝科と命名されているのでしょう。現在は,癲癇の発作を抑制する薬を処方してもらうということが,僕たちにとって最大の目的となっていますが,たとえば脳波をとるとか,胆石とか糖尿病の検査をするとかいった,外科的な治療以外の診察は幅広くこの科で行っています。これは妹がよい意味でモルモットとして通院しているようなものですから,ある意味では当然のこと。したがって,単に内科とか消化器科とか,何でもいいですがそういった枠組みを超えて,様ざまな診察が行われるのです。したがって,遺伝科というのは,病気とか異常そのものに対応している名称というよりは,訪れる患者の方を対象として,便宜的にそう名付けられている側面の方が大きいのではないかと思います。
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TOKYO MX賞東京スプリング盃&こども医療センター

2011-03-10 19:08:19 | 地方競馬
 現在の南関東競馬で最も層が厚いのはおそらく短距離路線。春のこの路線の開幕を告げる第2回東京スプリング盃が昨日,行われました。シャレーストーンとインプレッションが除外となって14頭。この関係で発走が20分ほど遅れました。
 抜群のダッシュでジーエスライカーの逃げ。フジノウェーブが2,3番手でこれをマーク。意外にも1番人気に支持された格下のケイアイゲンブがその直後。現状の実力では最上位と思われたヤサカファインは中団の内に控えましたが,折り合うのに少しばかり苦労しているように見えました。最初の600mは35秒2ですから一応はハイペースでしょう。
 ジーエスライカーの逃げは軽快でしたが,マークしたフジノウェーブの方が4コーナーでは手応えがよく,直線の半ばで楽に抜け出すと後続に2馬身の差をつけて快勝。ジーエスライカーが2着に粘り,直線で外に出して追い込んだヤサカファインは頭差の3着。以下,ケイアイゲンブ,ディアーウィッシュと,現在の力関係で上位の馬が掲示板を占めました。
 優勝したフジノウェーブ昨年のこのレース以来の勝利。記録上は今年が2回目という扱いで連覇。南関東重賞は5勝目で,ほかに重賞でも2勝。年齢的に上積みは見込めませんが,いつも同じようなタイムで走る馬。このために時計が早くなると勝ちきれないという面が以前からあり,ここは重馬場でも24秒台の決着となったので快勝できたというところ。衰えはありませんので,馬場状態が向けば,まだ活躍できそうです。兄に2006年の富士ステークスを勝ったキネティクス
 騎乗した大井の御神本訓史[みかもとのりふみ]騎手は先月のグランプリカップに続く南関東重賞制覇。今年はかなりの活躍が見込めそうです。管理している大井の高橋三郎調教師はこのレース連覇です。

 信託銀行の横浜駅西口支店に出向いたのが17日。週が明けて22日の火曜は,妹のこども医療センターの遺伝科の通院日になっていました。こども医療センターに行くというのは,みなと赤十字病院に行くのよりもずっと大変。母はそのみなと赤十字病院に同行するのもまだできない状態でしたから,こども医療センターはなおさら無理。ということでこの日も僕が連れて行くことになりました。7日が僕のみなと赤十字病院の通院日,15日が妹のみなと赤十字病院の歯科でしたので,都合3週にわたって場所は違えど病院に通うということになったわけです。
 今回も遠回りではありますが,妹の作業所から,バスを1度だけ乗り継いで行くことができる方法を選択。前回は予約時間が3時半でしたが,今回は3時。僕は前回のときに診察までえらく待たされた経験から,前回と同じ時間でいいと思っていました。それですと3時15分くらいに病院に着くことになるからです。しかし母に聞いてみると,予約時間には遅れない方がいいとのこと。ということで,前回は2時に作業所に迎えに行きましたので,この日はそれを30分早め,1時半に迎えに行くということにしました。なお,母が退院してからは,作業所と家庭との間の連絡帳の記入はまた母がやるようになっていますので,作業所へのこうした連絡というのは,すべて母の仕事になっています。
 この日も運動療法の改善として作業所までは徒歩。したがって僕が家を出たのは少しの余裕をみて午後1時頃。妹の作業所の最寄りのバス停から横浜市営バスで関内の近くまで出て,神奈川中央交通,僕たちは普通は神奈中と省略するバスに乗り換えます。このバスは戸塚駅まで行くのですが,こども医療センターというのはその路線上の平戸桜木通りという道から少し離れたところにあります。このためにバスはこども医療センター経由のものと,こども医療センターを経由せずに平戸桜木通りを直進していくものの2種類があり,こども医療センター経由というのはどうも30分に1本ほどのようです。経由しないバスに乗っても途中で降りれば行かれないことはないのですが,そこからは結構な距離がありますし,上り坂。妹を連れていることを考えれば,どうしてもこども医療センター経由のバスに乗る必要がありました。
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王将戦&定期預金

2011-03-09 19:48:40 | 将棋
 神奈川県内では有数の温泉地,箱根での対局となった第60期王将戦七番勝負第五局。
 豊島将之六段の先手で久保利明王将のごきげん中飛車。ここも③▲4八銀の超速銀となり,後手が5筋の歩を交換したときに▲5五歩と飛車を捕獲,後手が飛車銀交換の駒損ながらも天王山に角を飛び出すという,おそらくこの戦型で最も激しいと思われる変化になりました。初日の午後からスローペースに。
                         
 これが封じ手の局面で,封じ手は△6四角。まだ中盤ではありますが,ここで後手を引くのは面白くないような気がして,先手がうまくやっているように感じました。どの程度のリードといえるのか分かりませんが,この後も一定の差は保ったまま進んでいったと思います。
                         
 ここで単に角が逃げると銀を取られて歩成が残ります。△6九角成しかないと思いましたが△4三銀の奇手。対してどちらも取らずに▲2ニ飛成と逃げたのですが,△6九角成▲同金に△4四銀となり,一遍に難しくなってしまったように思います。しかし先手は2二の龍で香車を取り,4一で清算。一気に決めにいったような順です。
                        
 ここで△7一飛と受けました。先手は5一の金を取って▲4三歩と垂らしたのですが,△7四歩から角が端に飛び出す展開となり,はっきりと後手が優位に立ったように思います。
                         
 ここから△7五香▲7六桂△同香▲同玉△3七飛成▲8六歩△5五銀と進行。ただこうなるのなら後手はもっと早く3七に飛車が成った方がよかったろうと思います。▲5二とと攻める手が回り,また難しくなったのではないでしょうか。まだ後手に勝ちがあったかもしれませんが,結果的に先手玉はまったく寄らなくなってしまい,反撃を決めた先手の勝ちになっています。
 劣勢というよりはっきり負けの手順もあったのではないかと思われますが,豊島六段が2勝目をあげ第六局へ。14日と15日の対局です。

 信託銀行の横浜駅西口支店に到着して,相続の手続きをしたいという旨を行員に伝えると,専用の個室に案内されました。今までの手続きはすべてその場の担当者から説明を聞くというシステムでしたが,ここは違っていました。相続の手続きには専門のセンターがあり,そのセンターの方とテレビ電話で話すという方式だったのです。僕はテレビ電話というのはこの日が初体験でしたが,非常にスムーズなものでした。
 必要な書類に関してはこれまでと同じ。僕はこのとき,被相続人,つまり父の全部事項証明を含む戸籍謄本と,相続人,つまり僕と母,妹の3人分の印鑑証明は用意してありました。これらと,父の預金通帳およびカードは,この時点で先方に渡しました。ただ,相続のためには相続手続き依頼書が必要。これは相続人の自署でなければいけないわけですから,この日のうちに手続きのすべてを終えることはできないことは分かっていました。そしてこの相続手続き依頼書については,郵送してもらうということになりました。
 もうひとつ,これまではすべて普通預金の口座を相続してきましたので,すべて払い戻してもらっていたわけです。しかし今回は定期預金があります。定期預金の場合,払い戻すということは途中で解約するというのと同じ意味になりますので,少し損をしてしまうという可能性もあります。次の満期がいつであるか分からなかったので,今回は場合によっては払い戻しではなく,口座の名義変更で対応することもあり得ると思っていました。先方からもこれについて打診があったのですが,この時点で僕の独断で決定することはできませんでしたので,まだ決めていないと答えました。名義変更をする場合には,払い戻しとは別の手続きが必要とのことでの打診だったのですが,どちらでも対応できるように,相続依頼書と一緒に,そのための書類も郵送してもらうということにしました。それでこの日は帰ったのです。
 実際にこれらの書類が到着したのは2月25日。定期預金の満期日は今年の4月でした。相続手続き依頼書を送付して,この満期日を過ぎてから実際の手続きに入ることも可能であるとのことでしたので,定期預金の方も名義変更ではなく払い戻しの方を選択することにしました。これを簡易書留で送付したのが3月1日のことです。
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