スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典帝王賞&具体的一例

2022-06-30 19:27:06 | 地方競馬
 昨晩の第45回帝王賞。笹川騎手が個人的な都合で騎乗を取りやめたため,ネオブレイブは今野騎手に変更。
 積極的に逃げようとした馬がなく,なりゆきでオーヴェルニュの逃げに。2番手にクリンチャー,発馬でやや内によれてしまったテーオーケインズが3番手,チュウワウィザードとメイショウハリオが4番手,ノンコノユメが6番手,スワーヴアラミスが7番手,オメガパフュームが8番手。離れた最後尾にネオブレイブという隊列で発走後の正面を通過。向正面でスワーヴアラミスが外から一気に進出していったため,一時的にオーヴェルニュ,クリンチャー,テーオーケインズ,スワーヴアラミスの4頭が横並びで,離れた5番手にメイショウハリオという隊列になりました。前半の1000mは62秒5のスローペース。
 3コーナーではオーヴェルニュとクリンチャーが雁行。その外からテーオーケインズも並び掛けていきました。スワーヴアラミスはその外から追い,オメガパフュームも追い上げを開始。チュウワウィザードは内を回ってきました。直線に入るとまずオーヴェルニュとクリンチャーの間からチュウワウィザードが抜け出ました。オーヴェルニュ,クリンチャー,テーオーケインズは伸びを欠き,これらの外からオメガパフュームでさらに外からメイショウハリオ。オメガパフュームはチュウワウィザードに追いつくことができず,残る2頭が内と外に離れての優勝争いに。外のメイショウハリオが差し切って優勝。チュウワウィザードがクビ差で2着。オメガパフュームが1馬身4分の1差で3着。
 優勝したメイショウハリオは前々走のマーチステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初制覇。僕はこのレースはオメガパフューム,チュウワウィザード,テーオーケインズの3頭の能力がほかに対して上位で,メイショウハリオは2番手グループの中では上位でも,トップクラスには達していないとみていました。ですがテーオーケインズは能力を出し切れなかったものの,チュウワウィザードとオメガパフュームを降しての優勝ですから,その判断は誤りで,トップ級の能力があったといわざるを得ません。おそらく現状は,左回りでは右回りほどのパフォーマンスを発揮することができないということなのだと思います。母の父はマンハッタンカフェ。ひとつ下の半弟に2月にダイヤモンドステークスを勝った現役のテーオーロイヤル。ハリオアマツバメからの命名。
 騎乗した浜中俊騎手は2019年の日本ダービー以来の大レース11勝目。帝王賞は初勝利。管理している岡田稲男調教師は開業から19年2ヶ月で大レース初勝利。

 受動passioの選別を倫理的な規準として要求するということが,具体的に示されているのが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』であるといえます。このブログでは再三いっていることですが,『神学・政治論』では敬虔pietasという概念notioがひとつのテーマとなっていて,それが行動,分かりやすくいえば身体的運動の観点から説明されています。そしてこの身体的運動は,敬虔でありさえすれば,能動actioであるか受動であるかを問われません。正確にいうと,能動であればその身体的運動は必ず敬虔であって,もし受動によってそれと同じ身体的運動に決定されるのであれば,それも敬虔である,つまり倫理的規準に適合する,要するに倫理的に正しいことになるのです。この場合は人間は単に能動によって,つまり能動によってのみ倫理的に正しくあることができるわけではなく,ある種の受動によっても倫理的に正しくあることができるようになります。よってそれは,非現実的であるといえなくなります。これは,能動だけを倫理的な規準とした場合に,なぜそれが非現実的なことになってしまうのかということを説明した理由から明らかだといえるでしょう。
                                   
 では現実的に存在する人間を敬虔にするような受動とは何であるのかということになります。『神学・政治論』でその一例として示されているのが聖書の教えです。聖書は神Deusを愛し,また隣人を愛することを教えるのですが,その教えに従うこと,つまり聖書から働きを受けるpatiことによって神を愛し,また隣人を愛するなら,それは敬虔なことであるがゆえに,倫理的に正しい行動であることになります。理性ratioに従う人は能動的に神を愛しまた隣人を愛するのですが,それだけが倫理的に正しいといわれるのではなくて,何らかの受動によって神を愛しまた隣人を愛するのだとしても,倫理的に正しいのです。ですから聖書だけが人間を倫理的に正しい方向に導くというわけではなく,現実的に存在する人間が,神を愛すように決定するdeterminareすべてのこと,同様に現実的に存在する人間が隣人を愛するように決定するようなすべてのことは,人間の倫理的規準に適合するものであるとスピノザはいうことになるでしょう。
 ここから聖書と理性の関係が帰結します。
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サンケイスポーツ盃優駿スプリント&規準の目的

2022-06-29 19:40:03 | 地方競馬
 昨晩の第12回優駿スプリント
 発馬がよかったのはスタースタイル。3頭が追いかけていき,逃げたのはジョーストーリー。スタースタイルが2番手で3番手にエスポワールガイ。4番手にポッドヘイロー。さらに5番手のプライルード,6番手のスティールルージュ,7番手のフィリオデルソルまでは一団で続きました。4馬身差でミゲルとトップアメリカン。2馬身差でブエラプーラ。その後ろにヒストリックノヴァとエミーブレイズの2頭。さらにカプティフとティアラフォーカスが併走で続きその後ろにメンタイマヨ。2馬身差の最後尾にクラサーベルという隊列。前半の600mは34秒7のハイペース。
 直線の入口ではジョーストーリーとスタースタイルが雁行。プライルード,道中で追い上げてきたティアラフォーカスの順で追走。ジョーストーリーはすぐに一杯。スタースタイルの外からプライルードが楽々と並び掛けて先頭に。そのまま抜け出したプライルードが快勝。馬群を縫うように追い上げてきたのがエスポワールガイで,外から追撃したのがミゲルとフィリオデルソル。この3頭は2着争いとなり,2馬身差の2着にはエスポワールガイ。フィリオデルソルが半馬身差で3着。ミゲルが4分の3馬身差で4着。
 優勝したプライルードはこれが2勝目で南関東重賞初制覇。デビューは北海道。3戦だけで南関東に転入し,兵庫ジュニアグランプリ,全日本2歳優駿と連続で3着。今年はクラシックを目指しましたが羽田盃で大敗を喫し,東京ダービーには進まず,こちらに出走。この結果から,クラシックで苦戦したのは距離の影響だったということになるでしょう。まだそれほどレースを使っているわけではなく,上積みも見込めるでしょうから,スプリンターとしては出世が見込める馬だと思います。父は2015年のJRA賞で最優秀4歳以上牡馬に選出されたラブリーデイでその父はキングカメハメハ。母の父はサクラバクシンオー。ふたつ上の半姉が2019年にローレル賞を勝っている現役のブロンディーヴァでひとつ上の半姉が4月に福島牝馬ステークスを勝った現役のアナザーリリック
 騎乗した船橋の本田正重騎手は川崎マイラーズ以来の南関東重賞14勝目。優駿スプリントは初勝利。管理している藤田輝信調教師は南関東重賞23勝目。第6回以来6年ぶりの優駿スプリント2勝目。

 なぜスピノザが倫理の規準として,能動actioと受動passioを規定しているのかということから考えていきます。僕はここにはある目的があったと思っているのです。それは,デカルトRené Descartesの哲学で示されている倫理の規準を否定するためです。
 デカルトの哲学の倫理の規準は,精神mensと身体corpus,あるいはこれはデカルトの哲学では同じことを意味するのですが,理性ratioと欲望cupiditasです。精神によって身体を統御すること,理性によって欲望を統御することが,デカルトの哲学の倫理的規準です。したがって,精神によって身体を統御すること,理性によって欲望を統御することが,デカルトの哲学では倫理的に正しいことになるのです。
                                   
 ところがスピノザの哲学では,これは不可能です。精神が身体を統御するということは,第三部定理二によって不可能です。また理性が欲望を統御すること,直接的に統御するということは,第四部定理七によって不可能です。ですから,たとえきわめて困難で,非現実的であるとしても,人間にとって不可能ではない,可能である倫理的な規準を示す必要があったのです。それが能動と受動なのであって,この点からすれば,スピノザが非現実的な倫理の規準を示したのも,止むを得なかったのではないかと思います。
 だからといって,非現実的なものを非現実的なままに放置しておいてよいものではありません。それでは実際には何の規準も示していない,他面からいえば現実的に存在する人間は,倫理的に正しくあることができない,少なくとも事実上できないということをいっているだけであり,倫理について何かを語るということ自体がまったく意味がないこととなってしまうからです。
 僕の見解opinioでは,スピノザはこの部分を,倫理的であるということを,倫理的であるようにみえるという観点に移すことによって克服しようとしているのです。簡単にいえば,能動的であるということはきわめて困難で,現実的に存在する人間にそれを要求することは非現実的であるけれど,実際には受動的であっても,あたかも能動的であるかのようであることを要求することは,非現実的なことではないということです。つまり受動の選別が倫理的に要求されるのです。
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中野カップレース&課題

2022-06-28 19:30:51 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは渡辺‐成田の福島,竹内‐岡本の中部,阿部‐伊藤颯馬‐北津留‐伊藤旭の九州で郡司は単騎。
 前受けは竹内。3番手に阿部,7番手に郡司,8番手に渡辺で周回。残り2周のホームで阿部が竹内を叩き,追走した郡司が5番手,6番手に竹内で8番手に渡辺という一列棒状となって打鐘。打鐘後のコーナーで郡司が内から伊藤旭をどかして北津留の後ろに入り,伊藤旭が郡司の後ろという隊列に変化。バックに入ると伊藤颯馬が番手から発進。伊藤旭が郡司の横に追い上げましたが,北津留の後ろは郡司が確保。郡司は伊藤颯馬と北津留の間に進路を取りましたが,立て直して伸びた北津留が郡司の差し脚を凌いで優勝。郡司が4分の1車輪差で2着。伊藤颯馬が半車身差で3着。
 優勝した福岡の北津留翼選手は2017年5月の宇都宮記念以来となる記念競輪6勝目。久留米記念は初制覇。このレースは脚力なら郡司が断然といっていい存在ですが,単騎。それに対して地元の九州勢が4人で結束して対抗するというレース。結束の強さの方がやや上回ったという結果でしょう。伊藤旭は打鐘後にやや外に進路を取ったために郡司に内に入られたのですが,もし内を閉めて郡司の進出を阻んでいれば,九州勢にとってもっと楽な展開になっていたのではないでしょうか。北津留が優勝したのでよかったですが,着差を考えれば,致命的になりかねなかったと思います。

 ネグリAntonio Negriの政治的実践の手法が成功し,かつそうして構築された政治体制が維持されていくためには,第四部定理七の様式に則して,能動的な愛amorがすべての受動感情よりも常に強力でなければならないのでした。能動actioが倫理の原理を構成するというのは,愛でなくともよいのですが,何らかの能動的な感情affectusが,やはりこの定理Propositioに則する形で,すべての受動感情よりも強力であることにより,人間は倫理的である,あるいは同じことですが,有徳的であるということになります。そこでもしもネグリのいうようなことが非現実的であるとすれば,同じ理屈で人間が倫理的に正しくあること,有徳的であるということは非現実的であるということになると僕は考えているのです。実際に第四部定理四系によれば,現実的に存在する人間は,程度の差はあるとしても常に受動passioに隷属しているのですから,これを受動感情に適用することも可能といえるでしょう。また,第五部定理四二備考は,高貴なことは稀で困難といっていますが,有徳的であることは高貴なことと考えられますから,スピノザ自身がそれは稀で困難だといっていると解することができ,それは非現実的であるという意味に解することができる筈です。ですから今の僕のように,スピノザの倫理学と政治学との間には,そういわれるほどの乖離はないのだという解釈も,さほど間違ったものとはいえないのではないかと思います。
                                   
 ただこの解釈を採用するなら,解決しておかなければならない課題があります。非現実的であるというのは,不可能であるという意味ではなくて,可能であるけれどきわめて困難だという意味です。なので僕はそうした事柄についてそれをvirtusということは問題視しません。人間が有徳的であるということが,人間にとって容易に達成できるようなことでなければならないとは思わないからです。これはシュトラウスLeo Straussに関連する考察の中でもいったことです。しかし,人間に一般的な倫理という観点からみると,ここには克服されるべき課題があります。これだと人間が倫理的に正しくあるということは非現実的なことであるということになり,『エチカ』は何の倫理も示していないことになるだろうからです。
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規範の原理&倫理と徳

2022-06-27 19:37:33 | 哲学
 スピノザの哲学におけるvirtusが,一般的な規範を人間に対して適用したものであるということを示すとき,フロムErich Seligmann Frommは第三部定理七にも訴求していますが,より強く訴求しているのは第四部定理二四です。この定理Propositioは,我々においてはといわれているように,明かに人間のことに言及しています。だから必ずしも一般的な規範であるとはいえないでしょう。もしもそれが一般的な規範であるというのであれば,この定理でいわれていること,すなわち,理性ratioの導きに従って行動し,理性の導きに従って生活し,自己の有を維持すること,そしてこれらのことを自己の利益を求める原理に基づいてするということが,人間に限らずすべてのものに妥当し,すべてのものに妥当するがゆえに人間にも妥当するということでなければなりません。
                                          
 これを一般的な規範ということには無理があると僕は考えます。というか,そもそもスピノザはこの定理では一般的なことをいおうとしているのではなく,人間について何かをいおうとしているのです。それは,この定理が,有徳的であるとはどういうことであるのかということをいおうとしているということから明白です。徳は第四部定義八で定義されていますが,スピノザが定義しているのはあくまでも人間にとっての徳なのであって,人間以外のものにとっての徳が何であるのかということをいおうとしているのではありません。というか,たぶんスピノザは徳というのは人間に特有の概念notioなのであって,人間以外のものについて徳という概念から何事かを語るということは,意味のないことであると考えていたと僕は推測します。
 ただし,だからフロムが明らかに誤ったことをいっているとも僕は考えません。少なくとも,自己の利益を求める原理に基づくということは人間にだけ妥当するわけではなく,すべてのものに妥当することだからです。そしてすべてのものに妥当するから,人間にも妥当しなければならないのです。つまりフロムがいう規範の原理的な部分は,人間にだけ特有の原理であるわけではなく,一般的な原理を人間に適用したものであることになるでしょう。よって,規範を徳そのものと等置すると,フロムのいっていることには無理が生じますが,規範の原理,あるいは徳の原理は,確かに一般的な原理を人間に適用したものであるということになるでしょう。

 『エチカ』で示されている倫理学,倫理的に好ましいとされるのはどういうことであるかといえば,それは能動actioにほかなりません。つまり能動的であるということが倫理的に好ましい,あるいは合倫理的なことで,受動的であることは倫理的に好ましくない,あるいは合倫理的ではないということが,スピノザが示していることだといえます。スピノザが,人間が能動的である限りの現実的本性actualis essentiaが人間にとっての徳virtusであるという主旨のことを第四部定義八でいっているのは,おそらくこうした事情が関係しています。有徳的であるということは合倫理的で,有徳的でないということは合倫理的でないということを連想させるであろうからです。
 したがって,この倫理学をそのまま政治学に適用すると,能動的な政治体制が,人間が構築すべき政治体制であり,かつ人間にとって最良の政治体制であるということが帰結します。ネグリAntonio Negriは能動的な愛amorを土台として政治体制の構築を目指すのですから,少なくともそれはスピノザの倫理学に見合った政治学であるといえます。だから僕も,ネグリが主張していることは論理的に誤っているわけではないというのです。しかし一方でスピノザは,あるいはスピノザの倫理学は,そうしたことは非現実的であると斥けるのです。そのゆえにスピノザの倫理学と政治学の間には乖離があるようにみえるのです。
 実際にこの種の乖離があるということを僕は否定しません。ただ,ネグリの政治的立場が非現実的であると斥けられるのと同じように,現実的に存在する人間が倫理的であるということもまた非現実的であると斥けられるという見方も可能だと僕は思っていて,現在は僕はこちらの解釈の方をしています。つまり『エチカ』というのは,確かに倫理あるいは徳として能動を示しているのですが,だからといって人間が完全に合倫理的にあるいは有徳的に生活するということが現実的であるというようにスピノザは考えているわけではなく,それと同じように,合倫理的なこと,有徳的なことを土台とした政治体制が構築されるということも,現実的ではないと考えているというように,僕は今は解します。これなら乖離はそれほどありません。
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宝塚記念&土台

2022-06-26 19:18:18 | 中央競馬
 第63回宝塚記念。オーソリティが馬場に入った後で右の前脚の歩行にバランスを欠いたため競走除外となって17頭。
 タイトルホルダーが先頭に立った後,パンサラッサが追ってきました。1コーナーではパンサラッサの方が前に出て,そこから3馬身くらいのリードを取りました。2番手にタイトルホルダー。2馬身差でアフリカンゴールドとディープボンド。3馬身差でウインマリリン。2馬身差でヒシイグアスとギベオンとマイネルファンロン。2馬身差でエフフォーリア。1馬身差でデアリングタクト。1馬身差でステイフーリッシュ。2馬身差でポタジェ。1馬身差でメロディーレーンとアイアンバローズ。1馬身差でグロリアムンディ。1馬身差でキングオブコージ。1馬身差の最後尾にアリーヴォ。最初の1000mは57秒6のハイペース。
 最終コーナーの中間からタイトルホルダーがパンサラッサとの差を詰めにかかり,直線の入口では雁行。直線に入るとすぐに先頭に立ちました。ディープボンドがコーナーで外から追っていったのですが,タイトルホルダーにはついていくことができず,抜け出したタイトルホルダーがレコードタイムで快勝。パンサラッサとディープボンドの間から脚を伸ばしたヒシイグアスが2馬身差で2着。大外から伸びたデアリングタクトが2馬身差の3着でディープボンドがハナ差で4着。
 優勝したタイトルホルダー天皇賞(春)に続いての大レース制覇で大レース3勝目。天皇賞(春)が圧勝でしたので,現状で能力トップの座に君臨している可能性も高そうだとみていました。スピード能力だけでなく,スタミナも問われるようなレースになったのはこの馬にとってよかったでしょうが,それでもレコードタイムで2馬身の差をつけたのですから,現役最強馬という評価でいいだろうと思います。父はドゥラメンテ
 騎乗した横山和生騎手は天皇賞(春)以来の大レース2勝目。管理している栗田徹調教師は天皇賞(春)以来の大レース5勝目。宝塚記念は初勝利。

 『国家論Tractatus Politicus』を執筆している時点では『エチカ』は完成していた,つまり現在の形になっていたので,スピノザは『国家論』の中で『エチカ』に直接的に言及することが可能でした。そして実際にそうしています。たとえば第一章の第二四節には『エチカ』というタイトルが出てきます。この時点で『エチカ』は出版されていませんでしたし,出版できる見込みもなかったのですが,スピノザは『エチカ』を出版し,その上で『国家論』も出版する心積もりであったと推測されます。
                                        
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では,『エチカ』に直接的に言及することはできなかったのですから,そのことをもってスピノザの倫理学と政治学の間に乖離があるのだとか,そのふたつは無関係なのだということはできません。そして『国家論』の方には『エチカ』に対する直接の言及があるのですから,そのふたつには関係があると考えなければならないのです。つまりスピノザの倫理学とスピノザの政治学は,別々に解すればよいというものではありません。
 次に,倫理学と政治学は,単に関係があるというだけでなく,倫理学が政治学の土台になっていると解さなければなりません。あるいはこうしたいい方が適切であるかどうかは分かりませんが,スピノザの倫理学はスピノザの政治学に対して,本性naturaの上で先立っていなければならないのです。それがどういうことを意味するのかといえば,スピノザは倫理学を背景として,実践的な政治学を展開していくということです。それとは逆に,何らかの目指すべき政治体制というものがあって,その政治体制を構築しまた持続させるために,それに適応するような倫理学が形作られていくのではないのです。この点は,ネグリAntonio Negriに対する批判的視点を構成し得ます。というのはネグリはネグリ自身が目指す政治体制というものが先にあって,その政治体制を土台から支える倫理学として,スピノザの倫理学を部分的に利用しているという見方が可能だからです。
 上野がスピノザの政治学に対して,スピノザの倫理学といっているのは,『エチカ』というのが倫理学を意味するからです。なのでこの倫理学というのは『エチカ』を意味すると解しても構いません。
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透明の棋士&倫理学と政治学

2022-06-25 19:14:34 | 将棋トピック
 2002年に報知新聞に入社し,2010年ごろから同社で将棋を担当する記者として仕事をしていた北野新太が,今年の3月31日に報知新聞を退社するということをTwitterで告げたのは,僕にとっては残念な出来事でした。「報知新聞の北野です」というのは,たとえば棋士の記者会見などで必ずといっていいほど耳にするフレーズで,それに続く質問は優れたものが多いと感じていたからです。優秀な記者が将棋の取材から離れることは,将棋界にとっての損失だと僕は思うのです。ですから翌日の,朝日新聞に入社したというTwitterでの告知は,驚きであると同時に喜びでもありました。報知新聞はスポーツ新聞の中では将棋の記事は手厚いですが,一般紙である朝日新聞とは比べるべくもなく,むしろ北野の記事を目にする機会は増えると思えたからです。
                                        
 その北野が2015年に出版したのが『透明の棋士』です。17編の短編のエッセーからなるもので,この本のために書き下ろされたのは最後の17編目だけです。ただ,北野が書いたものをまとめて読めるという点では,価値ある1冊といえるだろうと思います。
 コーヒーと一冊,というシリーズのひとつです。コーヒーと一冊というのは,文字通りにコーヒーを飲みながら読むということであって,コーヒーを飲んでいる間に読み終えることができるという意味でもあります。前述したように17編の短編ですから,実際に1杯のコーヒーを飲んでいる間に読了できるというものではありませんが,分量は多くありません。北野自身があとがきに該当する部分で,とても薄い本であって,何かを伝えることができたとは思わないという意味のことをいっています。とはいえ,分量があれば何かは確実に伝わり,少なければ伝わらないというものではありません。読めば少なくともどこかしらで伝わる何かが必ず含まれているといっておきましょう。

 先述しておいた『スピノザ『神学政治論』を読む』の中では,スピノザの哲学で目指すものとスピノザの政治的実践との間の乖離の理由が,次のように説明されています。上野によれば,スピノザはエチカすなわち倫理学とポリチカすなわち政治学を異質なままにしておくのです。国家Civitasの論理からすれば,市民Civesは自己の権利jusの下にあるのではなくて,国家の権利の下にあります。しかし現実的に存在する人間は,理性ratioに従っている限りでは,たとえ国家の法に服していたとしても,判断においては自由libertasであって,自己の権利の下にあるのです。ここには明らかな乖離があるようにみえますが,スピノザは弁証法的に綜合しようとしないのです。要するに上野は,スピノザにとって倫理学と政治学は異質なもので,綜合する必要がないものだとみているのです。ただし,綜合する必要がないというのは,そのままにしておいて相反するわけではないという意味でもあるでしょう。
 僕は以前はこの路線でスピノザの倫理学と政治学,あるいは倫理的目標と政治的目標の乖離を考えていました。現在でも上野がここでいわんとしていることは理解できますし,間違っているとは思いませんが,少し違った視点で考えています。それは,スピノザの倫理的目標と政治的目標の間には,実際にはここでみられているほどの乖離はないのではないかという視点です。
 まず,倫理学と政治学との間に明確な関係があるということは前提としなければなりません。スピノザの『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は,匿名とはいえ実際に出版された書物です。『エチカ』は未出版ですし,おそらく『神学・政治論』が発行された時点では,『エチカ』は現行の形態にはなっていませんでした。他面からいえば,現在の『エチカ』が完成形であるとすれば,『神学・政治論』が出版されたときには『エチカ』は未完成でした。なので『神学・政治論』の本文の中で,『エチカ』の文章に直接的に訴えるということは不可能だったのです。
 これに対して『国家論Tractatus Politicus』は未完です。それはスピノザが書き終える前に死んでしまったからです。ということはその時点では『エチカ』は現在の形であったことになります。
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印象的な将棋⑱-1&乖離

2022-06-24 19:03:56 | ポカと妙手etc
 2020年度の将棋大賞の名局賞の特別賞の将棋です。
 横歩取りから華々しい中盤戦となり,さらにそのまま終盤戦に突入したので,手数はそんなに多くありません。
                                        
 後手は第1図で収めることもできましたが,☖3六銀と強く戦いに出ました。
 この飛車取りに先手が☗3五飛と逃げるのは最強の応手。銀取りに対して☖4四角と打つのが継続手で,☗3六飛は☖8八角成で先手が困ります。
 これを間接的に防ぐのが☗3四飛。☖8八角成のときに8四の飛車を取れるようにした一手。
 後手は熟考の末に☖3七桂成☗同金☖同銀不成☗同角と清算した上で,☖8八角成を決行しました。
                                        
 第2図は容易ではありませんが,先手が優勢になっています。

 これは政治的な実践に限ったことではなく,何であれ実践の理論について考えるとき,スピノザの哲学では感情affectusのpotentiaを無視することはできません。ですから,たとえそれが能動的な愛amorに限ったものであったとしても,ネグリAntonio Negriが政治的実践の理論を構築するときに,感情に着目している点は,着眼としての鋭さがあったと僕は思います。政治的実践の理論を構築するときに,感情に着目することは,例外的といえるようなものだと思うからです。
 能動的な愛だけに着目して政治的実践の理論を構築することが非現実的であるのは,受動感情の力を過少に評価しているからです。だからネグリの理論が,スピノザの哲学を土台とした理論であることはできないと僕は考えます。いい換えれば,絶対的民主主義とネグリがいう政治体制は,スピノザの哲学に即するなら,実現することが不可能であり,持続するdurareことが不可能な政治体制であることになるでしょう。ただ,その否定negatioの論拠というのは,理論そのものの面にあるわけではなくて,実現の可能性にあるのです。僕は以前に『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』を紹介したときにも,ネグリのいっていることは論理的には正しいのであって,その点を過少に評価してもいけないという意味のことをいいました。たとえば第三部定理四三でいわれていることを論理的に推進していけば,ネグリのような政治理論が帰結するともいえるからです。
 このように考えると,スピノザの哲学と政治理論の関係がいかなるものであるのかということが疑問点として生じてくるのではないかと思います。僕がここで深く探求してみたいのはこのことなのです。僕は『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』とか『国家論Tractatus Politicus』でスピノザが示している理論が,『エチカ』を代表とする哲学を土台としていると考えています。ところが哲学でスピノザが目指しているところと,政治理論としてスピノザが目指しているところには,ある乖離があるようにもみえるのではないでしょうか。哲学で目指すべきとされている倫理的なものを,政治的な実践として目指そうとする場合には,非現実的であると斥けられているようにみえるからです。この乖離がいかなるものかを考えていくことにします。
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戸口の雑感⑪&非現実性

2022-06-23 19:09:39 | NOAH
 戸口の雑感⑩の最後のところでいった,7の力で戦っていても9か10でやっているように見せなければならないという点は,1978年9月13日のジャンボ・鶴田とのシングルマッチと関連しています。この試合は60分で時間切れとなり,さらに5分の延長戦も時間切れになったのですが,その試合後の鶴田の振る舞い方に,戸口は不満があったようです。もしもそのときに,鶴田がもっと疲れた様子を見せていたら,この試合が死闘であったことをもっと表現することができただろうと戸口は思っているのです。鶴田はもっと後に長州力とシングルマッチを行い,その試合も60分時間切れの引き分けだったのですが,その試合後も鶴田はそれほど疲れた様子を見せていませんでしたから,この戸口の忠告は,とくに戸口との試合だけに関連させて解釈する必要はないでしょう。
 この後,1979年1月29日にも鶴田と戸口はシングルマッチで戦っていて,これもメーンイベントとして組まれました。この日は馬場と超獣のシングルマッチがセミファイナルですから,かなり高い扱いを受けたといっていいでしょう。この試合も60分の時間切れでドローとなりました。戸口は,もしも自分が鶴田に勝ってベルトを奪っていれば,ふたりの戦いの流れは変わっていたといっています。同じことを繰り返すから鶴田の成長が止まってしまうのであって,もしも馬場が鶴田に成長してほしいと思っているのなら,たまには苦い薬を飲ませることも必要だったのではないかと指摘しています。僕はこの指摘は,その時点で馬場に直言しなければ無意味であるということは承知の上で,的確なものだと思います。鶴田は後に善戦マンといわれるように,どれほど強い選手と戦ってもひけはとらないけれども勝ちきるには至らないという存在になっていくのですが,もし早い時点でいくつかの挫折を味わっていれば,鶴田のプロレス人生は,それがよいことか悪いことかは別として,違ったものとなっていたことでしょう。ただしこれは他面からいえば,馬場はプロモーターとして,鶴田のそういうレスラー人生は不要である,つまり善戦マンで構わないとみていたのであり,おそらく鶴田もそれで納得していたということであったのだろうと思います。

 ネグリAntonio Negriがいう絶対的民主主義という政治体制を構築することがなぜ非現実的かといえば,その土台となっているのが能動的な愛amorという感情affectusであるという部分に依拠します。第四部定理四系にあるように,現実的に存在する人間は,程度の差はあっても常に受動passioに隷属するのですから,それが愛であるかということとは関係なく,能動的なものによってのみ政治体制を構築するということは,実践の手法としてきわめて非現実的なのです。もちろんそれは,政治体制を構築する場合に限ったことではなく,構築されるものが何であったとしても妥当することになります。
                                   
 さらにいうと,ネグリがいう絶対的民主主義という政治体制は,単にその政治体制を構築するために能動的な愛を土台としているわけではありません。構築された絶対的民主主義という政治体制が継続していくためにも能動的な愛が土台とならなければなりません。能動的な愛を土台としなければ絶対的民主主義という政治体制が構築できないのであれば,それがなければその政治体制が継続していくことはできないでしょうから,このことは明白であるといえます。
 スピノザの哲学では,感情が理性ratioそのものによって統御されることはありません。ある感情を統御するものがあるとすれば,それはそれとは別の感情です。これはスピノザが第四部定理七で示していることです。したがって,能動的な愛が土台となって絶対的民主主義が構築されるということは,能動的な愛があらゆる受動感情よりも強力になることによって,絶対的民主主義という体制が構築されるということを意味することになります。しかしこれは,この体制が構築されるときにそうなっていればよいのではなく,この政治体制が構築されたなら,それ以降は常に能動的な愛が最も強力な感情となって,諸々の受動感情を抑制したり除去したりするのでなければならないのです。この点でも,ネグリの主張はきわめて非現実的であるということになるでしょう。
 ただし,僕はネグリは悪い着眼点をもっていたわけではないとも思っています。それは,ある政治体制を構築するための実践的な政治理論として,愛という感情に着目した点です。
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美禰子の目的&実践の手法

2022-06-22 19:18:24 | 歌・小説
 『三四郎』で三四郎と美禰子が出会う場所は,実在の場所です。なのでその場所を知っていたら,テクストで書かれている以上のことが分かるのです。というのも,この場面は三四郎の視点から記述されているからであり,実際にその場所を知っていれば,三四郎から何が見えていたのかということが分かると同時に,三四郎からは何が見えていなかったのかということも分かるからです。
                                        
 テクストに沿って解釈すると,三四郎からは石橋の反対側に美禰子と看護師がふたりで立っていました。そのふたりがそこから石橋を渡って三四郎の方に近づき,美禰子はその途中で手にしていた花の香りを嗅いで,その花を三四郎の目前に落とすのです。これはわざわざ花の匂いを嗅ぐという動作をすることによって三四郎の注意を引き付け,さらにその花を三四郎の前に落とすということによって,美禰子が三四郎を誘惑したというように読解できます。そしてこれが三四郎の目線なのですから,三四郎は自分が美禰子に誘惑されたというように感じたであろうことも,容易に推測することができます。
 しかし石原によれば,それはあくまでも三四郎の目線からの読解であるにすぎません。美禰子が三四郎を誘惑したというのは事実であったとしても,それは美禰子が三四郎に対してそういう気持ちがあったからなした行為ではないということが,三四郎の目線からは見えていなかったものが何かということを知ることによって,理解できるのです。前もっていっておきますが,美禰子はこの一連の行為をすることによって,三四郎を誘惑したというよりも,三四郎を誘惑していると見せようとしたのです。つまり三四郎の目線からだと,この一連の行為は三四郎と美禰子,そして看護師の3人だけが目撃していたことになるのですが,事実はそうではなく,三四郎からは見えなかった別の人,これは後に石橋を渡ってくる野々宮ですが,野々宮もそれを目撃していたのです。そして美禰子は,野々宮が見ていることを知っていて,三四郎を誘惑したのです。美禰子の目的は,三四郎を誘惑することではなく,だれかを誘惑していることを野々宮に見せるためでした。相手は三四郎でなくてもよかったのです。

 浅野がネグリAntonio Negriの政治的実践の手法を,集団的ニーチェ主義といっている理由が,スピノザの哲学はネグリの政治的実践とそぐわないものであるからだということが僕の推測であるとしても,推測である部分は,そこで浅野がスピノザの名前を出さずにニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの名前を出しているという点にのみあります。スピノザの哲学がネグリの政治的実践の手法にそぐわないものであると浅野が考えているという点に関しては,僕の推測ではなくて,浅野は確かにそういう認識をもっているのです。そしてその認識については僕もそれを共有します。つまり,ネグリの政治的実践の手法は,スピノザの哲学に依拠するなら帰結するものではないと僕は考えています。
 しかしネグリ自身はそうではありません。ネグリは自分の政治的実践の手法を裏付けるために,スピノザの哲学を援用するからです。つまり,スピノザの哲学に依拠することによって,全員による全員の統治としての絶対的民主主義を目指すということが政治的に実践すべきことであるという結論が出てくるとネグリは考えているのです。そのときにネグリが着目しているのが,愛amorという感情affectusです。つまりスピノザがいう愛という感情を有効的に活用することで,絶対的民主主義という政治体制を現実化することができるというようにネグリはみているのです。なぜならネグリによれば,愛こそが,絶対的民主主義を構成するための土台となるからです。ただしこの愛は,受動的な愛なのではなく,能動的な愛でなければなりません。
 このあたりのことに関しては,ネグリの『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』についての書評とともに,それに関連する若干の考察をしたときに詳しく僕の考え方を説明しましたから,ここではそのことを繰り返すことはしません。ごく簡単にいえば,能動的な愛の紐帯によって,それを絶対的民主主義というのかどうかということは別として,よき政治体制を構築することができるということは,スピノザの哲学において論理的には正しいと僕は考えます。しかし同時に,それが政治的実践という意味で現実的であるかといえば,スピノザの哲学に従う限りきわめて非現実的であると僕は考えているのです。
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規範&集団的ニーチェ主義

2022-06-21 19:16:56 | 哲学
 『人間における自由Man for Himself』でのフロムErich Seligmann Frommのスピノザに対する言及について,フロムが働きと目標というとき,それをスピノザの哲学における徳virtusと置き換えて構わないと僕が解するのは,フロム自身がその直後でスピノザの哲学における徳の概念notioに言及しているからです。そこでフロムは,スピノザが到達した徳の概念は,一般的な規範を人間に対して適用したものであるといっています。
                                        
 スピノザの哲学における徳の基礎は,現実的本性actualis essentiaにあるのでした。現実的本性とは第三部定理七により,各々の事物のコナトゥスConatusを意味します。この定理Propositioは現実的に存在する人間にだけ適用される定理であるわけではなく,現実的に存在するすべての事物に適用されなければなりません。このことから,スピノザが到達した徳の概念が,一般的な規範を人間に対して適用したものであるというフロムの解釈は,それを規範といっていいのかという部分を別にすれば,妥当であるといっていいでしょう。規範といえばそれは遵守するべき暗黙の規則のようなものをイメージさせますが,第三部定理七は別に規範的なことをいっているわけではありません。ただし,徳というのは第四部定義八でいわれているように,人間が十全な原因causa adaequataとなる力potentiaを有する限りにおいての現実的本性をいうのであって,第三部定理七でいわれている現実的本性のすべてというわけではありません。いい換えるなら,現実的に存在する人間は十全な原因となるときも部分的原因causa partialisであることもあるわけで,そのうち十全な原因となるときだけが徳といわれ,部分的原因である場合には徳といわれないのであれば,徳自体に何らかの規範性を見出すことは可能です。なので僕はこの部分ではフロムがスピノザの哲学を誤解しているというようには考えません。
 もっとも,スピノザの哲学の徳が,一般的規範を人間に対して適用したものであるということを示すとき,フロムは第三部定理七にも言及している,直接的ではなくとも間違いなく言及しているといえるのですが,重点的に依拠しようとしているのは第四部定理二四です。なのでそちらの定理に依拠することの妥当性の検証も必要になります。

 浅野はこのネグリAntonio Negriの政治的立場の中には,集団的なニーチェ主義というべき思想が含まれていると指摘しています。要するに浅野もこの立場については,共産主義とか民主主義というより,別のいい方をするべきと考えているのだろうと僕は推測します。ただ,それを説明するのにニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの名前を出すのも僕には適切といえるかどうかは分からないので,僕はこのいい方もここではせず,単にネグリの政治的立場といっておきます。
 浅野がなぜこの立場を集団化されたニーチェ主義といっているのかというと,ネグリの政治的立場は,人間が自身の内的な力だけに依拠した自己決定あるいは自己肯定をなし得る筈であるということが前提になっているからです。これはスピノザの哲学で説明すれば,人間が十全な原因causa adaequataとなって何事をもなすことができる存在者になることができる筈だという意味に解してよいだろうと思います。浅野がそれをスピノザの名前ではなくニーチェの名前で説明しているのは,人間がそのような存在者になれる筈であるという点に関して,スピノザは否定的であるのに対してニーチェは肯定的であるという点に由来しているのだろうと僕は思います。ただし,だからニーチェの思想とネグリの政治的立場の間に,ある親和性があるのかといえば,必ずしもそうとはいえません。確かにスピノザの哲学とネグリの政治的立場との関係と比べれば,親和性があるといえるのですが,ニーチェはあくまでも現実的に存在するある人間について,つまり個人についてそれをいっているのに対して,ネグリの政治的な立場はそうではないからです。生産的協働の回路が総体としての労働力を統治の場で自己構成することができるようにすることがネグリの実践的な目標なのであって,それは個人の能動actioに帰することができるわけではなく,それが集団として,つまり集団がひとつの個物res singularisとみなされる限りにおいて達成されなければならないからです。だから浅野はそれを単にニーチェ主義とはいわずに集団化されたニーチェ主義といっているのであって,このような発想はニーチェの思想から出てくるものではありません。むしろニーチェはその可能性を否定するでしょう。
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高松宮記念杯競輪&ネグリの政治的立場

2022-06-20 19:10:17 | 競輪
 岸和田競輪場で開催された昨日の第73回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは小松崎‐佐藤‐成田の福島,郡司‐諸橋の東日本,山田‐荒井‐園田の九州で古性は単騎。
 諸橋と成田でスタートの取り合い。内の諸橋が誘導の後ろに入って郡司の前受け。3番手に小松崎,6番手に古性,7番手に山田で周回。残り3周のバックの出口から山田が上昇を開始。ホームで一気に郡司を叩きにいったのですが,郡司が突っ張り,バックで山田が引くことになりました。打鐘から小松崎が発進。郡司は引くことができず,番手の佐藤と競り合いに。この競りは最終コーナーまで続き,佐藤が守ったのですが,バックから発進した古性を止めることができなくなり,捲り切った古性が優勝。古性を追う形になった山田が1車身差で2着。山田ラインの3番手から山田の外に進路を取った園田が半車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は2月の全日本選抜競輪以来の優勝でビッグ4勝目。高松宮記念杯は初優勝。岸和田では2016年に記念競輪を優勝しています。このレースは小松崎の先行が有力で,その番手の佐藤と,脚力では上位の郡司が優勝候補。このふたりが競り合うことになったので,古性には有利な展開となりました。単騎となりましたが臆せずに自力で発進したことが優勝に結び付きましたので,その勇気は称賛に価すると思います。

 スピノザの哲学では,人間が理性ratioを用いて何かを認識するcognoscereということは,人間が自然Naturaを超越するということなのではなく,自然現象の一部です。人間の身体humanum corpusに何らかの生理現象が生じるとき,それは自然現象のひとつであるというなら,理解しやすいのではないかと思います。それと完全に同じ意味で,人間が理性によって何かを認識するということも,自然現象のひとつなのです。これがスピノザの哲学における,自然と理性の関係の原理です。
                                        
 第3章に関してはこれだけです。続いて第4章に関連する考察をします。『スピノザ〈触発の思考〉』の第4章は,ネグリAntonio Negriが取り上げられています。
 ネグリの基本的な思想,これは政治的思想を意味しますが,基本的な政治思想の立場はふたつあって,ひとつはアナーキズムでもうひとつが共産主義です。このふたつは密接に関連しているのですが,ここではそうした政治思想における根本的な立場は考察の対象とはしません。そしてネグリはそうした政治的思想を実現するために,スピノザの哲学を利用します。これは単に思弁的に利用するのではなく,実践的に利用しようとします。このあたりのことは『スピノザ『神学政治論』を読む』の中で上野修が簡潔にまとめていますので,それを参照してください。
 浅野が指摘していることのひとつに,ネグリが描いている政治的実践の最終地点は,生産的協働の回路が,総体としての労働力を,統治の場で自己構成することができるようにすることであるというのがあります。ネグリが実際にそのような主張をしているということについては,ここではその通りであると前提しておきます。浅野はこの政治的立場をネグリの共産主義といっていますが,こうした立場を共産主義ということが妥当であるのかということについては僕は若干の疑問を有しますので,仮にネグリがその立場を共産主義と命名しているのだとしても,僕はここでは単にネグリの政治的立場といういい方をしておきます。というのもこの政治的立場は同時に,全員による全員の統治としての絶対的民主主義ともいわれているからで,僕はそれを絶対的な民主主義ということにもやや疑問を感じてしまうからです。
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プラチナムジュビリーステークス&自然現象

2022-06-19 19:15:17 | 海外競馬
 日本時間で今日の未明にイギリスのロイヤルアスコット競馬場で行われたプラチナムジュビリーステークスGⅠ芝6ハロン。
 直線のコースに24頭が出走。レースの序盤は馬場の中央と外埒近くのふたつに馬群が分散。中盤にかけて中央の馬が徐々に外に寄せていく形。4番枠からの発走だったグレナディアガーズは当然ながら序盤は内側の馬群の中。レースの中盤から出走した馬たちの中では最も内側から先頭付近まで進出。しかし残り200mあたりからはレースのペースについていくことができなくなり,徐々に後退。勝ち馬からおよそ6馬身半差で19着でした。
 レースのプランがどういったものであったのかは不明ですが,内容だけでいえば進出していくのが早すぎたという結果です。それでもこれだけの差をつけられているのですから,海外のトップスプリンターと対等に戦うのにはスピード能力が欠けていたということでよいのではないかと思います。

 人間が困難を克服するとき,自然Naturaの一部,つまり全自然の一部を構成する個物res singularisにある変化を与えることはあります。僕はそのことを否定するnegareわけではありません。僕は同時にこうしたことが,人間にだけ固有に可能であるとは考えません。ただそのことは今は脇に置いておきましょう。人間が自然の一部に変化を与えるということが理性ratioあるいは科学的知見によって生じ,それが人間の自己保存にとって有益であるというのが,アドルノTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrundの基本的な考え方だと僕は解します。よって自己保存が理性あるいは科学的知見の原理であって,それは自然を超越しているとアドルノは考えるのです。だからアドルノは,このような仕方で自然を変化させるということが,人間にのみ可能であると考えていると解するべきで,その点でも僕の見解opinioとは相違があるのですが,その相違は前述したように考慮に入れません。
                                         
 確かに人間は自然の一部を変化させることが可能です。でも,だから人間が,あるいは人間の理性が自然を超越しているということにはなりません。なぜなら,たとえ自然の一部に変化が生じるとしても,無限様態modus infinitusとしての全自然,全宇宙の姿facies totius Universiの形相formaには何らの変化も生じないからです。これは,たとえ現実的に存在するある人間がその存在を停止する,つまり死ぬということがあったとしても,全宇宙の姿の形相が変化するわけではない,もっといえば,たとえ人類が滅亡するということが生じたとしても,全宇宙の姿は形相を変化させることなく存在するということと同じなのです。つまり人間もまた,変化する自然の一部として全宇宙の内に内在するのであって,自然を超越するような存在ではありません。全自然のうちには無限に多くのinfinita自然現象が生じるのであり,そうして生じた自然現象によって自然を構成する個物の一部が変化するということがあります。それでも全宇宙の形相は不変です。人間が理性を用いて自然を操作するということも,そうした自然現象の一部なのです。
 このことは優越性の議論とも関係するでしょう。アドルノは人間が自然に対して優越的であるという見解ですが,スピノザは人間が自然に対して優越的であり得ないと考えているのです。
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ヒューリック杯棋聖戦&超越と内在

2022-06-18 19:06:30 | 将棋
 15日に岩室温泉で指された第93期棋聖戦五番勝負第二局。
 永瀬拓矢王座の先手で角換わり相腰掛銀。先手が中盤の戦いで優位に立ち,終局の直前で後手の藤井聡太棋聖が逆転するという一局でした。
                                        
 先手が王手飛車をかけたところ。普通は☖同飛ですが,☖1三王と逃げました。これが逆転を呼び寄せる一手に。
 ☗3一金と飛車を取る手が当然にみえて敗着。ここは☗8八玉と逃げておかなければなりませんでした。その理由は☗3一金は先手の持ち駒に金があれば後手玉への詰めろとなるものの,現状はないので,詰めろとなっていないからです。
 金を渡さないまま先手玉に詰めろをかけ続けることが後手が勝つ条件になりました。そしてそういう手順があったのです。まず☖9七銀。先手は後手に駒を使わせるために☗1一飛と王手を掛け,☖1二桂と受けさせてから☗9七桂と取りました。香車でなく桂馬で取るのは最善の粘り。これだと☖6七歩成のときに先手に攻防手があり,また逆転することができるからです。
 後手もそれは理解していました。☖4八歩と打つのが決め手。この局面でもまだ難しそうですが,後手は詰めろを続けることができました。
                                        
 第2図で先手の桂馬が8五に跳ねられれば玉の逃げ道が作れます。第1図の7手ほど前に☖8五歩☗同香という,その時点では意味が判然としないやり取りがあったのですが,もしかしたらその時点で第2図近辺が後手の視野に入っていたのかもしれません。
 藤井棋聖が勝って1勝1敗。第三局は来月4日に指される予定です。
 
 コナトゥスconatusが理性ratioの原理ではなく存在existentiaの原理,それも人間の存在の原理ではなく自然Naturaのうちに存在するすべてのものに妥当する存在の原理であるなら,理性が自然に反する,自然を超越するということはあり得ません。超越といういい回しに対照させていうなら,スピノザの哲学における理性は,自然に対して内在的です。いい換えれば,スピノザの哲学における理性というのは,それ自体が自然の一部なのです。
 僕は,人間が理性を用いることによって困難を克服するということを否定するnegareわけではありません。むしろ人類の歴史はそういうものであったといってもいいでしょうし,これからもそのようなものであるでしょう。また現実的に存在するある人間が,理性を用いることによって,その人間にとっての困難を克服するということもあるでしょう。つまり,それを人類とみてもあるいは個々の人間とみても,理性によって困難を乗り越えるということがあるということについては,僕は否定しません。というより肯定します。ただそのときの理性は,自然を超越するような理性ではなく,自然の一部としての理性であるというのが,スピノザの哲学における考え方であり,僕もまたその考え方に同意するのです。つまり人間が理性を用いるということは,自然を超越するような現象ではなく,自然現象として僕は解します。たとえば人間が克服しなければならないようなある自然現象が生じたとして,もし人間が理性によってそれを克服するとしても,そのこともまた克服される自然現象と同じ意味で,自然現象が生じたというように僕は解するということです。
 スピノザの哲学における理性の最大の意義というのは,それが精神の能動actio Mentisであるという点です。しかし,それが能動であるから自然を超越するというわけではなく,能動も受動passioも同じ意味で自然現象なのです。そこに相違があるとすれば,人間の能動というのはその人間が十全な原因causa adaequataであり,受動というのはその人間が部分的原因causa partialisであるという点です。もちろんこの相違はとても重要な相違ではありますが,どちらも自然に対して内在的に生じる現象であるという点では,能動も受動も変わるところはないのです。
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プリンスオブウェールズステークス&アドルノとデカルト

2022-06-17 19:00:49 | 海外競馬
 日本時間で15日の深夜にイギリスのアスコット競馬場で行われたプリンスオブウェールズステークスGⅠ芝1990m。
 シャフリヤールはその気になれば逃げることができそうでしたが,押さえて2番手。逃げた馬から半馬身から1馬身くらいの差を保ってレースを進めました。出走馬が5頭だったこともあり,道中での目立った動きもなく直線に。ここから逃げた馬がスパートすると,鞭を入れられても離されていくことに。フィニッシュに向けてまた盛り返すような形にこそなりましたが,あくまでも3着争い。勝ち馬から約3馬身半差の4着でした。
 勝負所で離されてしまったのは,レースの序盤で前に行きたがるところがあったのが影響したかもしれません。ただ,最後は盛り返すような内容でしたので,スタミナが不足していたというよりは瞬発力に欠けていたというように思えます。ですから折り合いやペースを別とすれば,もう少し長い距離の方が優勝争いはしやすいかもしれません。

 僕はここではスピノザの哲学における,理性ratioと自然Naturaの関係を考察しようとしているのですが,その際に,アドルノTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrundがいっている理性の原理である自己保存と,スピノザがいっている,人間の原理でないコナトゥスconatusとの相違が重要です。なのでまずこちらを考えていきます。
                                        
 アドルノが自己保存というとき,それは人間の自己保存,あるいは人類の自己保存を意味しています。この自己保存が理性の基本原理であるということは,人間は理性によって,あるいは科学的な知見によって,自然における困難を克服することによって生き延びていくということを意味しています。アドルノは必ずしも自然科学だけを射程に入れているわけではないと僕は解釈していますが,これは科学技術の発展をイメージすれば分かりやすいと思います。したがってこの場合の理性は,人間が自然を克服しまた超克していくような思惟作用として考えられているのです。つまり,理性は自然に対して超越的なものです。
 アドルノのこのような考え方というのは,哲学でいえばデカルトRené Descartesと親和性があるといえます。デカルトにとって理性の第一の役割は,それによって自身の欲望cupiditasを統御するということにあるのであって,必ずしも自己保存が第一原理となっているとはいえません。ですがデカルトがいっているのは,精神mensによって身体corpusを統御するという点にあり,このとき自然である身体あるいは欲望を統御する,すなわち克服あるいは超克していくものとして精神の理性が規定されています。よって,精神は身体に対して,理性は欲望に対して超越的なものであるということになっています。つまり,理性が自然に対して超越的なものであるという点で,アドルノの考え方はデカルトの哲学と親和性があるといえるのです。あるいは一致しているといってもいいでしょう。
 スピノザの哲学におけるコナトゥスというのは,理性の原理ではなく存在existentiaの原理です。そして存在の原理というのは,人間の存在の原理ではありません。コナトゥスに言及している第三部定理七は,自然のうちに存在するすべてのものに妥当する定理Propositioであって,人間も存在するもののひとつであるがゆえに,人間にも妥当するのです。
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農林水産大臣賞典関東オークス&理性の原理

2022-06-16 19:08:58 | 地方競馬
 昨晩の第58回関東オークス
                                        
 サンオルソーライズはダッシュが鈍く2馬身の不利。スピーディキック,トキノゴールド,グランブリッジの3頭が前にいきましたが,外の方からラブパイローが押し上げていき,1周目の3コーナーの手前でハナに。2番手にグランブリッジ。3番手にスピーディキックとリッキーマジックとドライゼ。6番手にトキノゴールドとティーズハクアという並びになりこの7頭は一団。5馬身差でソレイユスマイル。あとはコーミズアムール,グラーツィア,サンオルソーライズ,クレールアドレ,ケウという隊列でばらばらの追走。スローペースになりました。
 一旦はリッキーマジックが2番手に上がるシーンもありましたが脱落。直線は逃げるラブパイローと外から追うグランブリッジ。さらにその外から追い上げてくるスピーディキックの3頭の争い。ラブパイローを差して抜け出したグランブリッジが優勝。逃げ粘ったラブパイローが3馬身差で2着。スピーディキックが半馬身差で3着。
 優勝したグランブリッジは重賞初挑戦での勝利。前走で1勝クラスを勝ち上がっていましたので,優勝候補の1頭ではありました。2着馬には昨年11月に10馬身半の差をつけられて負けていたのですが,成長力で逆転したというところでしょう。ペースの関係で前に位置していた3頭での決着になったという面はありますが,3着と4着の間に8馬身もの差がありますから,上位3頭の能力がこのメンバーでは抜けていたとみてよさそうです。母の父はダイワメジャービューチフルドリーマーワールドハヤブサの分枝。
 騎乗した福永祐一騎手と管理している新谷功一調教師は関東オークス初勝利。

 僕はアドルノTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrundがいっている自己保存を,とりあえずスピノザの哲学でいうコナトゥスconatusと解しておくことにするいっておきましたが,実際はアドルノの自己保存とスピノザのコナトゥスは,似て非なるものです。アドルノは自己保存が理性ratioの第一原理といっていますが,それは単に理性の第一原理が自己保存であるという意味ではないのであって,自己保存を第一原理あるいは基本原理とするのは理性であるという意味も含んでいるからです。ところがスピノザの哲学におけるコナトゥスはそのようなものではありません。まずこの点を理解しておかなければなりません。
 スピノザが理性というとき,それは共通概念notiones communesによるあるいは共通概念を基礎とした認識cognitioを意味します。よってその基本原理は,第二部定理三八および第二部定理三九の様式での認識にあるのであって,それらはいずれも十全な観念idea adaequataです。さらにそれが基礎となった認識は,第二部定理四〇によってやはり十全な観念です。つまり,第三種の認識cognitio tertii generisを考慮の外に置けば,人間の精神mens humanaが事物を十全に認識するcognoscereというすべての営みは理性に帰せられることになります。それは同時に,事物の十全な認識だけが理性に帰せられるという意味です。ところがコナトゥスは,十全な認識つまり理性による認識だけに関係するのではありません。第三部定理九により,現実的に存在する人間は,たとえ事物を混乱して認識しているときも,自己の有に固執するperseverare,つまりそういうコナトゥスを有しているからです。よってスピノザの哲学におけるコナトゥスは,理性だけの基本原理であることはないのです。浅野はこのことを,スピノザの哲学におけるコナトゥスは,存在existentiaの原理である,理性の原理ではなくて存在の原理であるといういい方で説明しています。
 浅野がこのいい方をしているのにはある意図が含まれています。実はアドルノがいう自己保存とスピノザがいうコナトゥスというのが似て非なるものであるということは,それが理性の第一原理である,理性だけの第一原理であるか否かという点に存するのではありません。コナトゥスが存在の原理であるというとき,それは人間的原理ではないという意味を含んでいるからです。
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