スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

サンケイスポーツ盃優駿スプリント&社会

2021-06-30 19:05:31 | 地方競馬
 昨晩の第11回優駿スプリント
 好発はハートプレイス。これを抜いていったのが2頭で,逃げたのはジョーロノ。2番手にブラックストーム。控えたハートプレイスとエンテレケイアが3番手を併走。4番手はチャンプタイガー,ワールドリング,スティールストーム,リュウノヘラクレスでここまでは集団。4馬身差でチュラウェーブ。3馬身差でエイノスケとアイスボウル。サブノハクタカ,ミラコロカナーレ,カモミールティー,リンクスショウの順で続き,2馬身差の最後尾にディーノランページという隊列。前半の600mは34秒6のハイペース。
 3コーナーを回るとジョーロノとエンテレケイアが雁行となり,その外からリュウノヘラクレスが追う形。直線に入るとエンテレケイアとリュウノヘラクレスの間をブラックストームが突き,リュウノヘラクレスの外からワールドリングも追ってきて一旦は激戦。しかしこの競り合いからワールドリングが抜け出すと,後ろを離していって快勝。ワールドリングを追うように伸びてきたハートプレイスが2馬身差で2着。逃げ粘ったジョーロノが4分の3馬身差で3着。最後までジョーロノを差せなかったエンテレケイアが半馬身差で4着。
 優勝したワールドリングは南関東重賞初制覇。この馬は昨年6月に1000mの新馬を勝った後は1500m以上のレースに出走。今年の3月のクラシックトライアルを勝ったこともあり,クラシック路線を戦ってきました。したがってこの距離への適性は未知数でした。適性が短距離にあったとみるべきかもしれませんが,今年はスプリント路線で特筆すべき馬がいなかったこともあり,ずっとクラシック路線で戦ってきたこの馬の地力がほかの馬に対して上位であったという見方もできるかもしれません。父は2014年に弥生賞を勝ったトゥザワールド。その父がキングカメハメハで母がトゥザヴィクトリー
 騎乗した船橋の張田昂騎手はクラウンカップ以来の南関東重賞5勝目。その後にかしわ記念を勝っています。優駿スプリントは初勝利。管理している張田京調教師は南関東重賞2勝目。優駿スプリントは初勝利。

 本性naturaが一致するものは社会的に結合するというのであれば,人間が人間の社会societasを成立させるのは,人間の本性natura humanaが一致するからだということになります。よってこれと同じように,たとえば馬は本性が一致する限りで馬の社会を形成するといわなければなりませんし,三角形は三角形の本性が一致する限りにおいて,社会的結合を果たす,いい換えれば三角形の社会を形成するといわなければならないことになります。このうち,馬が社会を形成するということについては何となく理解することはできても,三角形が社会を形作るということは不条理以外の何ものでもないと思う人がいるかもしれません。しかしこれは論理的帰結であって,実際に形作られる三角形の社会というのがどういった社会であるかということは別の話です。これに関しては,僕がこの論理的帰結をどのように解するのかということを説明することによって,自ずから明らかになると思います。
                                   
 このことから分かるのは,もしも第四部定理三五を援用することによって人間だけが社会を形成する,人間だけが社会的結合を果たすというのであれば,その人間の結合のあり方,いい換えれば人間が形成した結合だけを社会というのであり,それ以外の結合のあり方は社会とはいわないということでなければなりません。このことは,社会という語が何を意味するのかということと関係してきますが,僕は唯名論者ですので,一般に社会という語が何を意味しているのかという観点からはそれに対する是非を判断しません。ここでは第四部定理三五に依拠することによって,本性を同じくするものが社会的結合を果たすということを帰結させているのですから,このことを重視し,本性を同じくするものは一般に社会的結合を果たすと判断します。いい換えれば本性を同じくするものの結合のことを,総じて社会というということです。もちろんそれは本性を同じくするものの結合ですから,その本性に相違がある分だけ結合すなわち社会のあり方も異なります。いい換えれば,人間の本性と馬の本性が異なる分だけ,人間の社会と馬の社会は異なります。しかしその異なりは無視して,その結合は社会であるといいます。
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中野カップレース&モデル

2021-06-29 19:20:51 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは取鳥‐桑原の中国,門田-香川の四国,山田‐吉本の九州で,吉田と岩本と稲川は単騎。
 取鳥がスタートを取って前受け。3番手に山田,5番手に岩本,6番手に吉田,7番手に稲川,8番手に門田で周回。残り3周のバックを出ると門田がゆっくりと上昇。ホームで取鳥を叩きました。バックに入ると山田が外から上昇。門田を叩いて打鐘から先行。稲川が3番手に続き,4番手に門田。今度は取鳥が上昇。ホームで山田を叩きました。このラインに続いたのは吉田。バックで発進しようとすると桑原が牽制。しかしバランスを崩した桑原が落車してしまい,この影響で吉本と稲川も落車。自然と取鳥を追う形になった吉田が直線で取鳥を差して優勝。落車の影響を免れた門田が大外から伸びて半車身差の2着。逃げ粘った取鳥が半車身差で3着。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は昨年末のグランプリシリーズのFⅠを優勝して以来の優勝。その直前に佐世保記念を優勝していて,記念競輪は2勝目。このレースは単騎の選手が多かった上に,落車のアクシデントがあったため,その影響が少なかった選手が上位に入線することになりました。といっても吉田はこのメンバーの中では脚力が上位ですから,優勝自体は順当なものといっていいと思います。レースのポイントは,打鐘前のバックで取鳥ラインの3番手を確保したことで,岩本がそこであっさりと引いてしまったのは,個人的には意外でした。

 社会societasや国家Civitasの成立を示す概念notioとして,社会契約説があります。スピノザもこの原理を社会のモデルとして利用します。だからといって,社会を構成する市民Civesの一人ひとりが,現実的に何らかの契約pactumを交わすわけではありません。スピノザはそのことを前提として,社会契約説をモデルに,社会の説明をします。これはそれによって社会が合理的に説明されるからなのであって,その目的finisに適うモデルとして社会契約説が有効な場合は,社会契約によって社会が成立していると考えておけばよいということです。これと同じことが,近藤が第四部定理三五を援用して社会の成立を説明する場合にも妥当するのであって,たとえ人間が常に理性ratioに従い,よってすべての人間の本性natura humanaが一致するということが現実的であるわけではないとしても,ある形で社会をあるいは社会の成立を説明しようという場合に,このモデルが有用であるなら,それを用いて説明しても構わないと僕は考えます。よって僕はこの観点から近藤のことを批判しませんし,近藤の考え方を否定することもしません。
                                   
 ただ,この定理Propositioを利用して社会の成立を説明しようとするなら,たとえば人間は人間とだけ社会的結合を果たすということは帰結するでしょうが,社会的結合を果たすのは人間だけであるということは帰結しないと僕は考えるのです。というのは,ここで社会の成立を基礎づけているのは,人間が理性に従うということにあるのではなく,理性に従うのなら本性が一致するという点にあるとみられるからです。いい換えれば,本性が一致するものは社会的に結合することができるということが基礎となるのであって,理性に従うものが社会的に結合することができるということが基礎となっているとはいえないからです。もちろん,本性が一致するのは理性に従う限りであって,その点では理性に従うということと本性が一致するということは同じことを意味するのですが,あくまでも理性に従うということはモデルなのですから,実際にこの論理がもっている意味というのは,理性に従うものが社会的に結合するということではなく,本性が一致するものは社会的に結合するということだといえるでしょう。
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叡王戦&結合の根拠

2021-06-28 19:01:19 | 将棋
 26日にシャトーアメーバで指された第6期叡王戦挑戦者決定戦。対戦成績は藤井聡太二冠が3勝,斎藤慎太郎八段が2勝。
 振駒で齊藤八段の先手となり,角換り相腰掛銀。工夫を凝らした先手がうまく戦機を掴み,優位に立って進みました。
                                        
 後手の藤井二冠が桂馬を跳ねた局面。ここでの選択が明暗を分けることになりました。
 先手は攻めるとすれば☗1四歩と取り込むのが有力です。これに対しては一旦☖5七銀と打ちます。☗同角☖同桂成☗同玉と清算するのは一時的には駒得ですが☖4六角が王手銀取りとなり,これは先手が拙いです。よって☗6九玉と逃げるのですが,それに対して☖1二歩と受ける手があり,この展開に成算が持てなかったようです。よって☗6八銀と逃げました。
 当たりになっている銀を逃げて5七に効かせる一石二鳥のうまい手にみえたのですが,☖4四角と引くのがそれを上回る好手。☗同角☖同飛で角交換を強要し,☗1四歩の取り込みにここでは受けずに☖4六角と打ちます。☗1三歩成には☖3一王。
                                        
 第2図まで進み,後手は2四の銀を取れることが確定。これで逆転したようです。ですから先手は第1図では,成算が持てなくとも踏み込んでいくほかなかったことになります。
 藤井二冠が挑戦権を獲得。叡王戦は今期から五番勝負になりましたが,叡王戦の番勝負には初出場。第一局は来月25日に指される予定です。

 ひとつ注意しておいてほしいのは,これから僕が人間中心主義というとき,それは,人間が思うままに自分の利益に適うように人間以外のものを利用してよいという思想のことを意味するのではありません。もし人間中心主義がこのような意味であるなら,佐藤もまた人間中心主義者であることになるでしょう。同時に僕もそうですし,スピノザも同様であると僕は解しています。ここからの人間中心主義というのは,人間だけが社会的結合を果たすという種の考え方で,近藤はこの意味での人間中心主義者であると断定することはできませんが,そうである可能性があります。しかしおそらく佐藤はそのような意味では人間中心主義者ではないと僕は考えていますし,僕も基本的にそのような立場です。そしてスピノザもそうであるというのが僕の見解opinioです。
 まず,第四部定理三五が人間の社会的結合の基礎となるという考え方については,現実的な側面から考えておくべき事柄が含まれています。これは,理性ratioに従う限りにおいて人間の本性natura humanaは一致するので,人間の間では社会的結合が成立するという意味でなければなりません。少なくとも近藤がそのように解していることは間違いないといっていいでしょう。ところが現実は,第四部定理四系によって,人間は必然的にnecessario受動passioに隷属するのであって,第四部定理三四によって,その限りでは対立的であり得る,必然的に対立するとはいえないまでも対立的ではあり得るのですから,この限りにおいては現実的には人間の間では社会的結合は成立しないということになるでしょう。つまり第四部定理三五は,現実的に人間が社会的な結合を果たすということの根拠としては,大きな弱点を抱えているのです。
 これは本来は現状の課題とは無関係なことなので,これについては簡単に僕の考えを示すことにします。もし第四部定理三五が人間の社会的結合の根拠となるのなら,それは理念的な意味おいてなのです。いい換えれば,社会的結合を考えるためには,いかにして社会的結合が果たされるのかということが説明されなければならず,それについては現実的にではなく理念的に説明されているのです。そしてそれで構わないのです。
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宝塚記念&社会的結合

2021-06-27 19:04:48 | 中央競馬
 第62回宝塚記念。松山騎手は5レースのレース前に落馬し負傷したためカデナは浜中騎手に変更。
 ユニコーンライオンとレイパパレは発馬直後に接触したように見えました。逃げたのはユニコーンライオンの方でレイパパレは2番手に。3番手にキセキ。4番手にワイプティアーズとクロノジェネシス。6番手にシロニイとアリストテレスとカレンブーケドール。9番手のモズベッロまでは一団。4馬身差でメロディーレーン。1馬身半差でアドマイヤアルバ。1馬身半差でミスマンマミーア。2馬身半差の最後尾にカデナ。最初の1000mは60秒0のスローペース。
 直線の入口ではユニコーンライオン,レイパパレ,キセキの3頭は雁行。直線に入るとキセキは脱落して前の2頭の競り合いに。前の3頭の直後にいたクロノジェネシスがキセキの内から前の2頭の外に。この時点での手応えの差が歴然としていて,あっさりと内の2頭を差し切ったクロノジェネシスが優勝。競り合いから一旦はレイパパレが前に出たように見えましたが,最後は差し返してユニコーンライオンが2馬身半差の2着。レイパパレがクビ差で3着。
 優勝したクロノジェネシス有馬記念以来の勝利で大レース4勝目。第61回に続く連覇で宝塚記念2勝目。今年はドバイに遠征して1戦。今日がそれ以来のレース。とはいえ昨年までの実績からは現役最強クラスの1頭。ここは2着馬と3着馬が上昇馬で,その2頭を楽々と差し切ったわけですから,現在の地位を守ることに成功したといっていいでしょう。母の父はクロフネ。曾祖母がラスティックベルでひとつ上の半姉に2018年に紫苑ステークス,2019年にヴィクトリアマイルと富士ステークス,2020年に札幌記念と香港カップを勝ったノームコア。Genesisは創世記。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はヴィクトリアマイル以来の大レース制覇。宝塚記念は初勝利。管理している斉藤崇史調教師は有馬記念以来の大レース6勝目。宝塚記念は連覇で2勝目。

 人間は社会的に結合することができるけれど,動物は人間とは本性naturaを異にするので,それができないと近藤がいうとき,この意味は二様に解釈することができます。ひとつは,人間は他の人間とは社会的に結合することができるけれども,動物と社会的に結合することはできないという意味です。もうひとつは,社会的に結合することができるのは人間だけであって,人間以外の動物は社会的に結合することはできないという意味です。このとき近藤がもし前者の意味でそういっているのなら僕はそれには同意します。しかしもしも後者の意味でそのようにいっているのであれば,僕はその人間中心主義には同意しません。近藤の文章自体は後者の意味でいっていると解釈するのが自然であるように僕には思えますので,僕はこの部分には疑問を感じるのですが,一方で近藤はこの根拠を第四部定理三五に求めていて,この定理Propositioから帰結するのは前者の意味だと僕には思えますので,もしかしたら近藤は本当は前者の意味でいっているのかもしれません。しかしこれは同時に,この部分で近藤は本来なら第四部定理三五に訴求しても,そこから帰結しないような事柄を結論している可能性があるということでもあります。なので僕はここで,この種の社会的結合ということを,僕自身がどのように考えているのかということを明確に示すことにします。僕がこれからいうことは,近藤の見解opinioと同じかもしれないし,異なっているかもしれず,どちらであるのかは僕にははっきりとは分からないというように理解しておいてください。
 本題に入る前にひとつだけいっておくと,近藤はこの部分で,佐藤一郎の「人間と動物」という論文,正確にいうと付論を参考文献として示しています。これは『個と無限』に収録されているものです。これも僕の解釈になってしまいますが,佐藤はこの論文の中で,動物愛護とか自然保護といった思想のうちには,スピノザの哲学とは相容れない思想が含まれているということについては確実に指摘しています。このことは先述したように僕も同意するところですから問題にはしません。ただ,近藤がいっているかもしれない人間中心主義全般を佐藤が主張しているとは僕は考えていません。
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フリーダム・フォース&人間中心主義

2021-06-26 19:08:42 | NOAH
 豊田真奈美はほかの同期の3選手からは長らく無視された時期があったと語っていました。それが事実であったということについては,豊田より2年後輩の伊藤薫が証言しています。
                                        
 これはおそらく1994年後半か1995年の前半のことだったと思われるのですが,その当時の伊藤は,ホテルで先輩に部屋の鍵を渡す役目を務めていました。名古屋のホテルでそれをしようとしたところ,下田と三田が豊田に何かを言って,ふたりでエレベーターに乗り込んだということがあったそうです。取り残された豊田は伊藤が乗ったエレベーターに同乗したそうですが,そのときに豊田は泣いていたと伊藤は証言しています。この当時は豊田がWWWAの王者になっていて,山田も含めたほかの3人よりも会社が豊田に肩入れしていたので,ほかの3人の嫉妬があったのではないかと柳澤は推測していますが,伊藤は原因については何であったか分からないと言っています。
 このことがあった後,伊藤は会社に呼ばれ,豊田が孤立しているからチームを結成してくれと依頼されました。このときに同席していたのが吉田万里子と長谷川咲恵でした。吉田は井上京子と同期ですから豊田よりは1年後輩で伊藤の1年先輩。長谷川は伊藤の同期です。結果的にこの3人は会社の依頼を受け入れ,豊田を含めた4人でフリーダム・フォースというチームを結成しました。これが1995年2月のことになります。
 伊藤はフリーダム・フォースを結成したことによって,リング上で先輩たちから厳しい攻撃を受けるようになったと言っています。これはこのチームの結成が,選手間の感情のこじれによるものであったことから分かるように,豊田のことを快く思ってなかった選手が,豊田の同期である3人のほかにも存在したからだと思われます。実際に伊藤はそうした先輩として,井上京子と井上貴子の名前をあげています。このふたりは吉田とは同期であったにもかかわらず,後輩である伊藤と長谷川だけになく,吉田に対しても厳しく接したということですから,そこにも何か感情的なものの発露があったとみるのが妥当のように思います。

 「自由意志と目的論の帰趨」のうち,第二部定理四九備考に関連する部分の考察はこれで終了です。後半は論文そのものとは無関係でしたが,第二部定理四八でいわれていることは社会の分断の要因となるということ,そしてその分断は,個人の現実的本性actualis essentiaに根差して解決されるべきだと僕は考えているということは理解してもらえたものと思います。ですのでここからは最初にいっておいた,この論文の中で僕がもうひとつ気になっている部分の考察に移ることにします。
 この論文の中で,スピノザの哲学には,人間中心主義といい得る考え方がみられるという主旨の記述があります。この論文はストア派との関連の考察ですので,僕はここではスピノザの哲学をそれ単独で考察するために,分かりやすく説明しますが,ここでいう人間中心主義というのは,たとえば,人間は人間の目的finisに適うように人間以外の自然Naturaを思うままに利用してよいというような考え方のことです。ですからたとえば人間は人間以外の動物を意のままに利用してもよいということがここから帰結するでしょうから,動物を殺すべきではないというような主旨の動物愛護の考え方は,スピノザの哲学に反する考え方だということになるでしょう。
 近藤はこの考え方の基礎となっているのは,第四部定理三五であるといっています。そしてこの定理Propositioの帰結事項として,人間は社会的に結合することができるけれど,人間と本性naturaが異なる動物にはそれができないということがあり,このことがスピノザのいう人間中心主義に繋がるのだとしています。
 僕は近藤のこれらの見解opinioのうち,スピノザの哲学のうちに,たとえば人間にとっては利益となるような仕方で動物を利用してよいという意味での人間中心主義が含まれているということ,そしてその限りにおいてある種の動物愛護思想や自然保護思想がスピノザの哲学と相容れない部分を有しているということについては全面的に同意します。ただし,ある種の動物愛護やある種の自然保護は,むしろ人間に対して利益を齎す場合もあるのですから,そうした思想が全面的にスピノザの哲学と対立するというようには考えないということもつけ加えておきます。
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処分&好意と反撥

2021-06-25 20:11:20 | 将棋トピック
 挑戦者の交替の発表があった後に,三浦九段に3ヶ月の出場停止という処分が与えられるという発表がありました。正確な日時は覚えていませんし,調べれば分るでしょうが,抗議の解答に必要ではありませんので,正確な期日は調べません。ただ僕はこのことを2016年10月15日に記事にしていますので,処分の発表があったのはこの少し前,早くても12日のことだった筈です。9月8日に挑戦者決定戦の第三局が指され,10月に入ってから挑戦者の交替の発表があり,10月12日から14日の間に処分が発表されたという流れだったということだけ押さえておいてください。
 僕はこの発表で,三浦九段に対して,コンピューターの援助を受けているという疑惑があったということを知りました。このことは後に週刊誌に掲載されましたが,掲載されるということは,この時点ですでに判明していたそうです。ただしこのことを僕が知ったのはもっと後になってからです。
 疑惑に関しては,どう考えても三浦九段と対戦した棋士が告発したとしか思えない内容でした。そしてその告発は,挑戦者決定戦の以前には連盟の役員に伝えられていたとしか考えられませんでした。実際に第三局では三浦九段の行動が監視されていたのですから,これはその通りだったのでしょう。発表によれば,三浦九段に対する聴取は10月11日に行われました。その場で三浦九段の方から休場を申し入れ,連盟の常務会は休場届の提出を要求したけれども,それが出されなかったために,3ヶ月の出場停止処分とするという内容です。ただ,三浦九段の方から休場を申し出る理由として,疑惑がある中では対局できないというのは弱すぎますので,これは連盟の常務会が都合よく解釈したものなのだろうと思います。もっともこのことは,僕がそのときに思ったことではありません。僕がこの発表に対して思ったのはふたつです。ひとつは処分に至るまでの合理性に関するものであり,もうひとつは疑惑そのものに対する合理性に関することです。こちらは抗議に対する解答として重要なので,次回からそれぞれを詳しく説明していきます。

 この一般的な例を新型コロナウイルスに関連する政策に具体的に照合させれば,旅行や外食を奨励するなど,新型コロナウイルスを蔓延させる危険性の高い政策を実行しておいて,やはり新型コロナウイルスが蔓延したので,緊急事態宣言を出して外出を控えるように要請されているようにみえるのです。みえるというのは,そのように表象されるということです。このために,危険性が高い政策を実行したことに対する反省の表象imaginatioが間に挟まれない限り,緊急事態宣言の方は好意的に受け止める人よりもそれに反撥aversioを感じる人の方が多くなってしまうのです。2度目以降の緊急事態宣が,最初の緊急事態宣言のときほどの効果を齎すことができなかったことの原因causaを,人間の感情affectusに求める場合は,これが最大のものになると想定されます。
                                   
 ひとつだけ注意しておけば,ここで好意favorとか反撥といっているのは,感情にほかなりませんが,『エチカ』でスピノザが定義している好意あるいは反撥という感情とは異なります。スピノザは『エチカ』において,これらふたつの感情を,一般的な使用法とは異なった仕方で定義したという主旨のことをいっていますが,それに倣っていうなら,ここではむしろ一般的に使用されるのに近い意味において,僕は好意また反撥といっているというように解してください。
 僕自身についていえば,2度目の緊急事態宣言に関しては,発出するのが遅すぎたとは思っていますが,出さないよりは出した方がよいと思いましたので,そのこと自体については好意をもって受け止めました。この点に関しては,新型コロナウイルスの蔓延を防ぐということが最優先の政治課題とされるべきであると考える人にとっては,程度の差はあるでしょうが,概ね一致した見解opinioになるだろうと思われます。緊急事態宣言を出した方が,出さないよりも新型コロナウイルスの蔓延を防止することに対しては効果的であるのは間違いないからです。しかしそのことが真verumであったとしても,だから必ずしも好意的な評価が受けられるというものではないのです。第四部定理一にあるように,真なるものが含む好意は,反撥がもっている積極性を排除できないからです。
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武田家&ベクトル

2021-06-24 19:00:00 | 歌・小説
 抑圧と蔑視についての話題の後,「腕白時代の夏目君」は,僕が最も注目した話題に入ります。
                                        
 夏目家と篠本家は,共に幕臣でした。ただし勤め向きは異なっていたため,相識ではありませんでした。それでも両親は相互に名前は知っていたとあります。これは夏目の父が篠本の父の名前を知っていて,篠本の父が夏目の父の名前を知っていたということかもしれませんし,単に夏目家では篠本家という幕臣があり,篠本家では夏目家という幕臣がいるということを知っていたということを意味しているのかもしれません。
 篠本によれば,夏目家はもともとは甲斐の武田信玄の有力な旗本だったそうです。しかしその頃,武田信玄の家臣の中に,徳川家に内通した者,要するに徳川家に寝返ったものがいて,夏目家はその家臣に追随して徳川家の家臣となり,後に徳川家康が将軍になったときに,幕臣となったのだそうです。一方,篠本家も武田家の家臣だったのですが,こちらは寝返らず,武田勝頼の時代まで仕えたのですが,勝頼の死によって徳川家に降伏して家臣となり,江戸幕府が開かれたときに幕臣になったのだそうです。したがって篠本としては,もしも夏目家が追随した家臣の謀反がなければ,武田家がもっと続いたかもしれないという考えがあったそうです。
 篠本は漱石と喧嘩するときに,このことを最大の武器として使ったといいます。そしてこのことで漱石を嘲ると,漱石は狼狽して逃げ去ったそうです。もちろんこのような喧嘩をしたとしても,後にはふたりは仲直りしてまた仲よく遊んだのですが,篠本は漱石と喧嘩をするときには,このことが漱石を凹ませるのに有効であったといっています。篠本はこのように漱石を嘲ったことについては,子どもの頃のこととはいえ卑劣であったと感じていると反省しています。そして同時に,漱石が廉恥を重んじる思いが深かったことを感じるといっています。この頃の漱石はおそらく自身が士族の子孫であることを強く意識していたのでしょう。

 政治家は,たとえその時点でそれが最善であるという判断の下に実行した政策であったとしても,それが悪しき結果を齎したのであれば,それに対して責任を取らなければならないというのは,一定の合理性がある考え方であると思います。そして,旅行をすることや外食することを奨励する政策と,緊急事態宣言を発出して外出を控えるように要請する政策とでは,政策のベクトルというのが正反対だといえます。これらのことを合わせて考えれば,この政策の転換の間に内閣が変わっていれば,2度目の緊急事態宣言はより効果的であったろうと僕は推測します。これは推測ですが,おそらく正しいでしょう。
 旅行や外食を奨励する政策というのは,新型コロナウイルスの蔓延を防ぐという観点だけに着目するなら,よくないことだというのはだれでも確知することができることです。とはいっても,実際にこの政策が実行された後に,新型コロナウイルスが日本全国に蔓延したことの間に,明確な因果関係があったということを実証することは困難です。ですから,本当に旅行と外食を推奨したことが悪しき結果を齎したのだと断定することはできません。ですから本筋としては,旅行と外食を推奨した内閣が辞職し,新しい内閣が緊急事態宣言を発令するべきであったかもしれませんが,そこまで求めるのは酷であったという見方にも,一理あるということを僕は認めます。
 しかしそれでも,正反対のベクトルの政策を後に実行するのであれば,それ以前の政策が誤りであったということが,多くの人に表象されるようにしなければ,新しい政策の効果は限定的なものになるのです。これは一般的にいえば,Aという政策を遂行した後に,Aとの関係を類推させる悪しき結果が表出したので,Aとは正反対のBという政策を実行したというときに,Aという政策の誤りについてその政策の実行者が認めていないと表象されると,その実行者は,Aを実行しておきながら悪しき結果が出たから,ただ何の反省もなくAを撤回してBを実行するようになったと認識されてしまうからです。したがってこの流れにワンクッションを置くために,Aについての反省が必要になるのです。
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印象的な将棋⑰-8&政策

2021-06-23 19:06:25 | ポカと妙手etc
 ⑰-7の第2図では,後手にはふたつの手段があるように僕には思えました。ひとつは☖5六龍と捨ててしまい,☗同玉に☖6四桂と王手で馬を取る順です。王手なので後手は受けますので,そこで☖7三桂とと金を外すことができます。
 実戦はもうひとつの手段の方が選択されました。それが☖5四龍の王手馬取り。
                                        
 これは☗同馬の一手。馬が移動したので☖7三桂と王手で先にと金を払い,☗5六玉と逃げたところで☖5四歩と馬を取りました。
                                        
 第2図は先手の玉が5六にいて,後手の歩が5四に伸びています。これが得になるという判断の下,後手はこちらを選択したのでしょう。
 僕が異変に気付いたのは,この局面に至ってからでした。

 ここでは感情affectusの効用について語っているのですから,ここで原因causaというのも感情に関係するものであるということは前もって理解しておいてください。
 最初の緊急事態宣言が解除され,2度目の緊急事態宣言が発出される間に,新型コロナウイルスの蔓延を防止するという観点だけに着目すれば,それを悪化させるであろうと予測される政策が施行されました。それが,旅行をすることや外食をすることを奨励する政策です。すでに説明したように,ウイルスというのはそれ自体で移動することができるものではなく,感染者を通して移動し,その感染者が未感染者に接触することによって増殖しまた蔓延していきます。したがって,人の移動を促進するような政策とか,人と人とが接触する機会を与えるようなことを奨励するような政策が,それ自体でみれば新型コロナウイルスが蔓延することを促進する危険性があるということは明白だといえます。
 実際にこのような政策が採用されたことと,その後に新型コロナウイルスが蔓延し,再び緊急事態宣言を発出せざるを得なくなったということの間に,どの程度の因果関係があったかは不明です。ただ,実際にこれらの政策は中止されることになったのですから,少なくともそれが緊急事態宣言を発出するということと相容れないということ,いい換えれば両立し得ないということは,この政策を実施した政府も理解していたといえるでしょう。しかしそうであるならば,少なくとも2度目の緊急事態宣言を発出するにあたっては,旅行や外食を奨励するような政策について,それは誤りであったということを伝えなければならなかったのだと僕は思います。
 ただし僕がここでいっているのは,そういう政策が誤りであったということではありませんし,誤りであったということを認めなければならなかったということではありません。ある政策が誤りであったか否かを一面的な角度から決定することはできないでしょうし,ですからそれが誤りであったということを認めなくても構いません。認めなくとも構わないのですが,表面上はそれが誤りであったと認めていると表象されるようにすることが重要だったということです。
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天龍の雑感⑩&別種の喜び

2021-06-22 18:54:07 | NOAH
 で,ジャンボ・鶴田佐藤昭雄,大仁田厚といったレスラーは,日本テレビに抱え込まれたと天龍は言っていたのですが,一方でこの頃,鶴田と天龍は日本テレビから出向してきた松根社長から,小切手をもらったことがあったと語っています。天龍は金額は明らかにしていませんし,それが日本テレビとの専属契約金であったのか,それとも功労金であったのかも覚えていないとしていますが,受け取ったのは事実だったようです。
 はっきりと断定できるわけではありませんが,前後の話からしてこれはおそらく,鶴田と天龍が全日本プロレスから離脱するのを防止する目的があったのだと思われます。タイガー・戸口が新日本プロレスで仕事をするようになったのはこれより前のことですが,この当時も新本プロレスと全日本プロレスは敵対関係にあって,外国人選手の移籍などはあったのです。そこでもし鶴田なり天龍なりが新日本プロレスに引き抜かれてしまうということがあれば,全日本プロレスにとって,あるいは日本テレビにとって大打撃なので,そういうことが生じないように前もって日本テレビが対策したということだったのではないでしょうか。おそらくこの小切手をもらったのは鶴田と天龍のふたりだけだったと思われ,天龍は実際には日本テレビからそれだけの評価を受けていたということになります。つまり鶴田だけでなく,天龍もまた日本テレビにとって全日本を去られてはならない選手だったのです。そしてそれ以外の選手はそうではなかったのですから,このふたりだけが特別な扱いを受けていたということができるでしょう。
 実際にこの種の話は新日本プロレスからあったようです。鶴田は新日本プロレスから話があったけれども移籍しなかったという主旨のことを公言していたようですし,天龍自身にも話がまったくないというわけではなかったと明かしています。
 天龍はこの頃は馬場とはウマが合ったといっていますが,それは天龍が佐藤昭雄の改革に戸惑ったからのようです。鶴田はそういうことは気にしないので,仲間ではあったけれどもよく分からない存在だと感じていたそうです。

 もう一度,第四部定理八に注目してください。そこでいわれているのは善bonumと悪malumは認識されるものであるということです。したがって,たとえふたつの事柄が両立可能であったとしても,ある人間がそれらふたつの事柄を比較検討することによって一方だけを選択するということがあるなら,それは大なる善と小なる善を比較しているか,あるいは大なる悪と小なる悪を比較していることになるのです。よって前者の場合には小なる善が大なる善を阻害する悪とみなされることになりますし,後者の場合であれば小なる悪は大なる悪を阻害する善とみなされていることになるのです。ですから,給付金が支給されるのであれば外出を控えようと思う人が存在していたとすれば,その人はより大なる善によってより小なる善を悪とみなしていることになるのです。善と悪が認識の問題である以上は,このような事例が現にある,少なくともあり得るといわなければなりません。
                                   
 実際にそのような人が存在したということを実証することができるわけではないのですが,政治的手法としては,このようなことが生じ得るということは覚えておいた方がいいでしょう。実際に最初の緊急事態宣言が出されたとき,その宣言がその後の宣言よりも効果的であったのは,こうした事情があったからかもしれないからです。もっと一般的にいうのであれば,市民Civesに対して何らかの事情があって喜びlaetitiaを断念してもらうように要請するときには,それとは別種の喜びを与えるということが,その要請を受け入れてもらうためには効果的であるということがあるかもしれないからです。
 もっとも,二度目あるいは三度目の緊急事態宣言が,最初の緊急事態宣言ほどの効果をあげることができなかった原因causaとしては,単に別種の喜びが与えられなかったからということだけがあるわけではありません。おそらく最大の要因は,人びとが最初の時点で感じたような新型コロナウイルスに対する不安metusという感情affectusが弱まったからだといえるでしょう。ですが,不安という感情がもっている効用および害悪についてはすでに語ってありますから,ここではそのことについては説明しません。別の原因について説明します。
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交替&喜びによる抑制

2021-06-21 19:18:11 | 将棋トピック
 あったらしい抗議に答えるために,まず必要な事項を並べておきます。
 第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負は,2016年9月8日に第三局が行われ,丸山忠久九段を破った三浦弘行九段が挑戦権を獲得しました。後に明らかになったところによると,この対局では立会人が三浦九段の行動を監視していたそうです。つまりこの時点では三浦九段に対してあらぬ疑いがかけられていたということになります。もちろん三浦九段の行動には何の問題もありませんでした。
 竜王戦の第一局は10月15日と16日に指される予定となっていました。ところがこの後,挑戦者が変更になったという報知がありました。僕はこれを日本将棋連盟のホームページで最初に見たと記憶しています。ただしそこには,単に挑戦者が三浦九段から丸山九段に変更になったということがあっただけで,理由は書かれていませんでした。なのでこの報知があった時点では,僕はまだ三浦九段に疑いが掛けられているということも知りませんでした。挑戦者の変更というのは不審に思いましたが,たとえば三浦九段が大病を罹患したというようなケースも考えられますので,僕もすぐには何も書かず,推移を見守りました。
 挑戦者の交替は,将棋連盟の一存では決められないと思われ,主催者の意向にも配慮しなければならないと思われます。報知があった正確な日時は分かりませんが,その時点で将棋連盟と主催者である読売新聞社との間では合意ができていた筈です。ただ,読売新聞社の方から挑戦者の変更を依頼することは考えられませんので,将棋連盟から読売新聞社に何らかの理由と共に要請をして,それを読売新聞社で了承したということだったろうと僕は思っています。
 このことに関して,三浦九段の同意があったという主旨の説明ないしは報道があったように記憶していますが,それはあり得ないです。現実は,将棋連盟は疑いがあり,かつその疑いがあるということが報道されると判明していた三浦九段の挑戦を避けたかったために.三浦九段に休場を強要したけれども,当然ながら三浦九段が拒否したので,日程の都合で処分することを決断したということだったと思われます。その処分内容と理由は後の発表となりました。

 それが公平であるかどうかは関係ありませんので,これくらいにしておきましょう。
 この給付金が支給されるときに,それならば外出を控えて家にいようと思った人がいたと仮定します。この人は現金が支給されるという喜びlaetitiaによって,外出する,すなわち新型コロナウイルスを蔓延させてしまうような行為に対する欲望cupiditasを抑制していることになります。これは仮定そのものから明らかだといえるでしょう。つまり第四部定理七でいわれていることが,喜びという感情affectusによって生じていることになるのです。そしてそれは,喜びという感情が欲望という感情を抑制しているということになるのですが,この欲望は何らかの喜びから生じています。これも仮定から明らかなのであって,この場合は,外出することで何らかの喜びが生じるからそれを欲望しているからです。他面からいえば,この外出へと向かう欲望というのは,悲しみtristitiaを忌避するために生じている欲望ではありません。
                                   
 このように考えれば,このことは善悪が比較上の概念notioであるということからも説明できることになります。第四部定理八により,善bonumとは喜びの認識cognitioだからです。すなわち,外出して得ることができる喜びと,給付金が支給される喜びとを比較したときに,後者の喜びの方が大であると認識されると,前者はそれを妨げる善とみなされることになります。いい換えればそれは悪malumと認識されることになるのです。つまりこの場合は,より大なる善がより小なる善を抑制しているとみることができ,善が喜びの認識であるということを踏まえれば,大きな喜びが小さな喜びを抑制しているということができるのです。
 実際には,外出することと,支給される給付金を受け取るということは両立することが可能なのであって,一方を得るためにもう一方を断念しなければならないというものではありませんでした。ですからそれは,必要性という観点からいうなら,比較されなければならないようなふたつの善ではありません。しかし実際にはそのような比較をすることが人間にはあるのであって,実際に給付金が支給されるのであれば外出を控えてもよいと思った人がいたことを否定することはできません。
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高松宮記念杯競輪&公平

2021-06-20 19:23:48 | 競輪
 岸和田競輪場で行われた第72回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは小松崎‐佐藤‐守沢の北日本,吉田‐宿口の関東,松浦‐清水の中国で稲川と山崎は単騎。
 松浦がスタートを取って前受け。3番手に稲川,4番手に小松崎,7番手に吉田,最後尾に山崎という周回に。残り2周のホームの入口から吉田が上昇。誘導が退避するところで松浦を叩いて前に。この外から小松崎が上昇して,バックで吉田を叩き,先行態勢に入りました。しかし全力では駆けていかなかったため,打鐘から松浦が反撃。ホームで小松崎を叩いて松浦のかまし先行に。守沢の後ろの位置取りになっていた山崎がバックから発進。これに清水が番手捲りで対抗し,最終コーナーから直線の入口にかけては内の清水と外の山崎で猛烈なもがき合い。山崎の後ろから山崎を追ってきた関東ラインが直線ではもがき合う両者を逆転。番手から吉田を差し切った宿口が優勝。吉田が半車身差の2着で関東ラインのワンツー。最終コーナーから外を踏んだ守沢が半車身差で3着。
 優勝した埼玉の宿口陽一選手は前回出走の青森のFⅠから連続優勝。GⅠはこれが初めての決勝進出で,グレードレースもこれが初優勝。この開催は直前の練習中に骨折してしまった平原が欠場。郡司は二次予選で車体故障を起こして棄権になったため,松浦と清水の中国勢には大チャンスとなりました。これまでの傾向から,松浦が前を回る場合は今日のようなかまし先行になることもあるので,展開は想定内でした。ただこのラインにとって誤算だったのは,単騎になった山崎の巻き返しが早かったことで,このために清水もあまり余裕が持てない段階で番手捲りを打たざるを得なくなり,結果的にそのふたりが共倒れという形となってしまいました。ですからレース全体としては,山崎が中国ラインを粉砕するようなレースを敢行したため,このラインに乗る形になった関東勢が漁夫の利を得ることになったということになるでしょう。

 すべての国民に対して一律に同額の給付金を支給することが,公平であったか公平でなかったかというなら,公平ではなかったと僕は思っています。しかし,だからそのような政策を遂行したことが失敗であったかと問われれば,僕はそれが失敗であったとは考えていません。むしろ成功であった,いい換えればそれは遂行されるのに適切な政策であったと僕は考えているのです。
 僕がそのように判断している理由は,簡単にいうなら,民主主義社会における政治的な公平性は,現に公平であるか否かということよりも,その社会を構成する市民Civesの多くが,公平であると感じられるか感じられないかという点の方が重要であると僕は考えているからです。いい換えれば,人間的自由のうち,能動的自由に属する範疇で,それが公平であるか否かを判断することよりも,受動的自由のうちでそれが公平であると感じられるか感じられないかということの方が重要であると僕は考えているからです。これは端的にいえば,第四部定理四系により,市民社会を構成するすべての人間は,受動passioに隷属するからです。ここではこの点についてこれ以上の詳しいことは説明しませんが,たとえばスピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』において,新約聖書が有用な書物であると主張しているのと,根本的には同じ理由であると考えてください。
                                   
 実際に経済的な打撃を受けた人,あるいは受けるであろう人だけを救済する,つまりそうした人だけに現金を支給するのと,とりあえずすべての人に同額の現金を支給し,打撃を受けた人に対してはさらに救済金を給付することを比べたときに,どちらが多くの人びとが公平であると感じられるのかといえば,後者であると僕は考えます。たとえば,原子力発電所の事故によって被害を受けたために給付金を支給されている人に対して,悪意をもって接するという人が現に存在するということはよく知られていますが,そうしたことが生じる根本的な部分に,給付を受けていない人が感じる不公平感があると僕は考えています。こうした不公平感の前では,原子力発電所が発電した電気の恩恵を最も受けていたのはだれなのかといったことは,消し去られてしまうのです。
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ヒューリック杯棋聖戦&給付金

2021-06-19 18:57:28 | 将棋
 淡路島で指された昨日の第92期棋聖戦五番勝負第二局。
 藤井聡太棋聖の先手で相掛かり。後手の渡辺明名人棒銀に先手が筋違い角を打つ将棋。序盤も中盤も終盤も平均より長い将棋で,総手数も171手と長くなりました。しかしその中で,明確な緩手といえるのが一手しかないという凄まじい一局でした。現時点での将棋というゲームのレベルの最高峰を象徴するような名局だったと思います。
                                        
 後手が歩を突いて角筋を止めた局面。ここで先手は☗6六金と上がりました。これは☖5五銀と打つ手がありますから,わざわざ上がったという感があり,驚いたのですが,この局面で均衡を保つのには最善であったようです。
 ☗6七角と逃げたときに☖6四歩と突きましたが,これがこの一局を通して唯一といっていい緩手。☗5五金☖同銀の金銀交換の後,☗9四歩☖同歩☗同香となり,後手の駒損が確定してしまいました。
                                        
 ☖6四歩のところで☖6六銀☗同銀と後手から金銀交換をしておくと,☖7四角と出る手が生じるので,先手の端からの攻めは実戦ほど有効ではありませんでした。☖6四歩のところで後手が攻め合いを目指すなら☖4六歩と取り込むのが最も厳しそうですが,これは先手の角筋が通ってくるだけに,選びにくい順であったでしょう。
 藤井棋聖が連勝。第三局は来月3日に指される予定です。

 ここまでは悲しみtristitiaに関連する感情affectusについて説明してきました。つまり悲しみそのものあるいは悲しみの一種である不安metusという感情が,新型コロナウイルスの蔓延を防止するのに有益であるというのがどういう場合であるのかということを説明してきました。あるいはこのことは,第四部定理一四そして第四部定理七との関係で説明したのですから,それに適合させていうのであれば,悲しみに関連する感情が,新型コロナウイルスを蔓延させることを促進してしまうような欲望cupiditasを抑制するというのが,具体的にどういう事例であるのかということを説明してきました。ただそうした欲望を抑制する感情は,悲しみに関連する感情だけではありません。喜びlaetitiaに関連する感情,いい換えれば喜びを希求するような欲望が,それとは別の欲望を抑制する場合もあり得ます。こうした事例としてどういったことがあげられるのかということを,ここからは例示していきます。これもまた論理的にそういう事例があり得るということを僕は説明するのであって,それを実証せよ,つまり現実にそうしたことがあったということを証明せよといわれても,それが僕に可能であるというわけではありません。
 最初の緊急事態宣言が発令された頃,全国民に対して一定の給付金を支給するという政策が実行されました。この政策は,公平なものであったか公平なものではなかったかと問われれば,僕は公平ではなかったと答えます。たとえば僕の妹は,資本主義社会における生産性という観点からいうなら,ほとんど生産性のない人間であるといって差し支えありません。作業所には通っていますから,給与は出ますが,年収でいえばこのときに支給された金額には遠く及びません。したがって新型コロナウイルスが蔓延した,あるいはそれに伴って緊急事態宣言が発令されたということことから受けた経済的な打撃というのは,皆無であったとはいいませんが,あったとしても微々たるものだったのは間違いありません。妹と比較すれば大打撃を被った人がいるわけですから,そうした人にも妹にも同額の給付金が支給されるということは,公平か不公平かというなら不公平きわまりないといえるからです。
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流星④&功績の優越性

2021-06-18 19:03:45 | 歌・小説
 トラックの運転手の歌い手の話は,で終わりではなく,まだ続きます。

                                   

     身体こわさず がんばってみなよ
     たまには親にも telしてやんな


 これはで歌を歌っていると伝えた歌い手に対することばです。運転手は歌い手のことを知らなかったわけですが,身体を大事にして頑張りなさいと言っているわけです。そして全国を巡る仕事で,なかなか親にも会うことができないだろうから,たまには電話でもしてやりなさいと加えています。このようなことを言っているところからみて,この運転手はおそらく歌い手よりも年上なのでしょう。
 しかしこのことばは,運転手の自分に対することばでもあるとみることができそうです。運転手は自分に親不孝をしているという気持ちがあり,それを歌い手に伝えているとみることができるからです。あるいは運転手の親は,もしかしたらもすでに他界していて,運転手にはそのことについての後悔があるとみることもできるかもしれません。

     吹く口笛はスプリングスティーン あれは演歌だと おっちゃんは信じてる

 おっちゃんといわれているところからして,やはり運転手は歌い手よりも年上のようです。②で演歌しか知らないと言っていたそのおっちゃんの吹く口笛は,スプリングスティーンのメロディーでした。

 僕は功績をこのように考えているのですが,すべての人が僕と同じように考えているのかといえば,そうではない人もいると思っています。たとえば,政治家とコメディアンというふたつの職業を並べて,どちらが社会的に功績を残すべき職業であるかという問いが立てられたと仮定しましょう。僕は功績の内容に差はあっても,優越性には差異はないと考えていますから,どちらであるともいえないと答えます。しかしこの問いに対して,迷わずに政治家であると答える人も,それなりにいると思っているのです。このために,〇〇の功績といういい方をするときには,慎重にならなければいけないのだと僕は考えます。
 仮に僕が想定しているように,政治家はコメディアンよりも社会的に功績を残すべき職業であると判断している人がいるとしましょう。そこでその人が,ある政治家がコメディアンについての功績を語っているのを聞いたとすれば,それを語っているのはより功績を残すべき政治家なのであるから,その功績を見倣うべきであるというように判断するのは自然な反応です。つまり,ある政治家がコメディアンに対して,新型コロナウイルスに感染して亡くなったということが功績であると語ったなら,それならその政治家自身もそれと同じようにすればよいと思う人がいてもおかしくないのです。おかしくないどころか,僕の想定が正しいとするなら,そのような反応をする人が少なからず存在するのが必然だということになるのです。
 僕自身についていえば,政治家とコメディアンの間で功績の優越性の差異はないと考えていますから,どのような事柄についてそれを功績と認識するcognoscereのかということについては相違があったとしても,政治家がコメディアンの功績を見倣う必要はないし,逆にコメディアンが政治家の功績を見倣うという必要もないと考えています。しかし僕のように考える人ばかりではないということも事実ではないかと僕は思っているわけですから,功績について語るときは,そのこともまた考慮に入れておかなければならないだろうと僕は考えます。この程度の人心も把握できない人が政治家を務めていることを,僕は残念に感じています。
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農林水産大臣賞典関東オークス&功績

2021-06-17 19:23:45 | 地方競馬
 昨晩の第57回関東オークス
                                        
 ケラススヴィアが逃げて2番手にウワサノシブコ。3番手にレディブラウンとディアリッキーとウェルドーン。6番手にリフレイム。7番手にグロリオーソとベルヴォーグ。9番手のランスオブアースまでが一団。3馬身差でサンシェリダン。5馬身差でスセリヒメ。7馬身差でネイバーアイランドと,残りの3頭は発走後の向正面で取り残されました。ハイペース。
 2周目の向正面に入るあたりでケラススヴィア,ウワサノシブコ,ウェルドーンの3頭が集団に。ウワサノシブコは3コーナー前で一杯になり,ケラススヴィアとウェルドーンが抜け出して2頭の優勝争いに。ウェルドーンが粘るケラススヴィアを差し切って優勝。ケラススヴィアが2馬身差で2着。直線の入口ではグロリオーソとランスオブアースが並んでの3番手でしたが,直線ではランスオブアースがグロリオーソを置き去りにし,4馬身差の3着。
 優勝したウェルドーンは重賞初出走での勝利。前走はオープンで勝っていたのですが,JRAのオープンで牡馬を相手に入着できる馬であれば,このレースでは好勝負が可能。それをこの馬は勝っていたのですから,順当な勝利といっていいでしょう。2着と3着が4馬身で,3着と4着は2秒もの差がつきましたので,上位の2頭の能力が他を圧していたということだと思います。母の父はダンスインザダーク。祖母の父はサッカーボーイエスサーディージャヌワの分枝。祖母は1994年の朝日杯チャレンジカップを勝ったツルマルガール
 騎乗した武豊騎手は第39回,44回に続き13年ぶりの関東オークス3勝目。管理している角田晃一調教師は関東オークス初勝利。

 志村けんさんのことを例材として考察しましたので,誤解を招くことを防ぐために,次のことをいっておきます。
 僕がここでいいたかったことは,悲しみtristitiaという感情affectusが,新型コロナウイルスの感染を防ぐための行動の原因causaとなる場合があるということの,具体的な例を示すことです。いい換えれば,志村さんが亡くなったということより,その亡くなったという事実がどのように受け止められたのかということが重要なのであり,志村さんが亡くなったということ自体について何かを主張したいのではありません。ですから僕は志村さんが,日本での新型コロナウイルスの蔓延を防止するために大きな役割を果たしたということをいいたいのではありませんし,ましてそれが志村さんの功績だといいたいのではないのです。実際にそれが功績だという発言が,その当時にある政治家の口から出ましたので,僕はこの点については強くいっておきたいという気持ちがあるのです。
 志村さんはコメディアンです。コメディアンの本懐というのは人を笑わせ,楽しませ,喜びlaetitiaを与えるということにあるのであって,人に悲しみの涙を流させることにあるのではないと僕は考えます。志村さんは自身がコメディアンであるということを強く意識していたと僕は思いますから,もし人を悲しませるようなことがあるなら,それは本意でなかったろうと思います。したがって,これは志村さんに限ったことではありませんが,コメディアン,とくに自身がコメディアンであるということを自認していたであろう人にとって,人を喜ばせることは功績であるといっていいと思いますが,人を悲しませることが功績であるとは僕はまったく考えません。なので少なくとも僕は,あの状況の中で志村さんが新型コロナウイルスに感染して亡くなったということについて,それが志村さんの功績であったとは少しも認めません。
 僕はコメディアンの功績と,政治家の功績との間に,何らかの優越性の差異があるとは考えていません。コメディアンの功績と政治家の功績との間に,内容に差があるのは当然なのですが,だからといって一方の功績が他方の功績に対して勝るということはないと考えています。
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川崎スパーキングスプリント&一例

2021-06-16 19:07:27 | 地方競馬
 習志野きらっとスプリントトライアルの昨晩の第1回川崎スパーキングスプリント
                                        
 ダンディーヴォーグがすぐにハナに立ちました。2番手にポッドギルとカプリフレイバー。4番手にフランシスコダイゴ。5番手にハングリーベン,カレイドスコープ,ヴァケーションの3頭。8番手にナガタブラック。9番手にドリームドルチェ。10番手にタテヤマとニシノラッシュ。最後尾にアドマイヤゴッドという隊列。ハイペースでした。
 4コーナーでは単独の2番手にカプリフレイバーが上がり,押しながら逃げたダンディーヴォーグを追いました。その後ろにいたフランシスコダイゴとポッドギルの2頭が前の2頭の外に持ち出してそれを追う形に。押していたカプリフレイバーでしたが,直線ではダンディーヴォーグを楽に差し切って優勝。逃げ粘ったダンディーヴォーグが2馬身半差で2着。内のフランシスコダイゴを競り落としたポッドギルが1馬身半差で3着。フランシスコダイゴが1馬身差で4着。
 優勝したカプリフレイバーは昨年の優駿スプリント以来の勝利で南関東重賞2勝目。古馬と対戦するようになってからは勝てていませんでしたが,昨年の暮れ,今年の正月の2戦は善戦。ここは57キロを背負っての快勝ですので,現時点でのスピード能力ではこのメンバーでは上位になっていたとみていいでしょう。早めに手が動いていたので,もう少し距離があった方がレース自体はしやすいのかもしれません。父はサウスヴィグラス。5代母がスワンズウッドグローヴ。ひとつ下の半弟に昨年のJBC2歳優駿を勝っている現役のラッキードリーム
 騎乗した大井の真島大輔騎手は川崎マイラーズ以来の南関東重賞24勝目。管理している船橋の稲益貴弘調教師は南関東重賞4勝目。

 志村けんさんが新型コロナウイルスに感染したことによって亡くなった悲しみtristitiaが,新型コロナウイルスに対する憎しみodiumに変ずるということは一般的にいえることであって,少なくとも志村さんが亡くなったことで悲しみを感じたすべての人に妥当します。しかしこの先の感情affectusのダイナミズムは,それぞれの人の現実的本性actualis essentiaによって移行していますので,一概にこうであるということはいえません。ここではその一例というのを示しましょう。何度もいっているように,これは論理的にそういったダイナミズムが発生するということなのであって,それを実証せよ,いい換えれば実際にそういうダイナミズムを発生させた人を示せといわれれば,それができるというわけではありません。
 第三部定理二〇は,自分が憎んでいるものが破壊されることを表象するimaginari人は喜びlaetitiaを感じるといっています。いい換えれば第四部定理八により,自分が憎んでいるものが破壊されることは,その人にとっての善bonumです。よって第四部定理一九により,そのことを希求します。つまり新型コロナウイルスを憎む人は,新型コロナウイルスが破壊されることを希求することになります。ウイルスは自らの力で移動することができるわけではなく,感染者が移動することで移動し,かつその感染者が他者と接触することによって増殖していきます。いい換えれば蔓延していきます。ですからウイルスを破壊することを希求するなら,他者との接触を可能な限り避け,かつ移動することも可能な限りで避けるのがベストです。よってこうした判断がある限りにおいては,新型コロナウイルスを憎んでいる人は,自身がそのように行動することを希求するのです。よって,志村さんが亡くなることによって,現にそうした人が存在したということが,論理的にはいえることになるのです。もちろんこれは最初に示したように,感情のダイナミズムの一例なのであって,別のダイナミズムによって同じような行動に至るということもあり得るでしょう。ですがここでは新型コロナウイルスの蔓延を防止するための感情のダイナミズムの具体例を示すことが目的なのですから,一例を示すことができたなら,僕としてはそれで十分です。
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