スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
日本時間で20日の深夜にイギリスのヨーク競馬場で行われたインターナショナルステークスGⅠ 芝2050m。
ダノンデサイルはレースの序盤はかなり抑える形で2番手。といってもこのレースはペースメーカーを務めた馬が大逃げを打つ形でしたので,実質的に残る5頭の中で逃げるという形でのレース。直線の入口ではペースメーカーのリードが20馬身くらい。ペースメーカーがインを開けたので残る5頭が内から逃げ馬を追う形に。しかしダノンデサイルは追われて伸びを欠き,勝ち馬からおよそ9馬身4分の3差で5着でした。
ペースメーカーとして出走した馬が3着に残るようなレースでしたので,全体は相当なスローペースであったと思われます。ペースアップにまったく対応できないという負け方でしたが,これはレースの前半で力を消耗してしまったためではなかったかと思われます。
『哲学者スピノザの叡智 Think Least of Death 』に示されている第四部定義八 の訳については,僕は感心しません。徳 virtusは人間の本性 natura humanaである。ただしそれは人間が十全な原因causa adaequataである限りである。というのは文章構造としては倒置法に該当し,事物の定義Definitioに倒置法を採用するのは不適切だと僕は考えるからです。なのでここは,徳は人間が十全な原因である限りで人間の本性であるとするべきです。
ただこれは,この定義が重訳になっているがゆえの問題であるというより,英語と日本語の文章構造の相違に起因します。第四部定義八の全体は,みっつのセンテンスから成立していて,そのみっつのセンテンスを順に並べると,『哲学者スピノザの叡智』に記載されているように和訳されるのです。しかし定義の和訳としては,そのみっつのセンテンスのうち後ろのふたつのセンテンスをひとつのセンテンスとしてまとめて,第四部定義八の全体がふたつのセンテンスで成立するように訳するのが適切です。実際に岩波文庫版の第四部定義八がふたつのセンテンスで記述されているのは,ラテン語のセンテンスがみっつであろうとふたつであろうと,日本語ではふたつのセンテンスにしなければならないということを訳者の畠中が理解していたからだと思われます。
よって『哲学者スピノザの叡智』の記述がこのようになっているのは,訳者がだれであるのかということとも関係していると僕は思います。すでに説明したように,この本の訳者は翻訳を生業とされている方であって,語学力には卓越したものがあるでしょうが,哲学についての知識があるわけではないと思われます。よってナドラーSteven Nadlerが示しているスピノザの文章をどのように訳すべきなのかということはほとんど考えず,ナドラーが記述している英語を最も適切な日本語に翻訳しているのでしょう。このゆえに監訳者というのが存在していると思われるのですが,こちらもスピノザの哲学に詳しいというわけではないと思われ,たとえば第四部定義八が日本語に訳されるとき,その訳がどのようになっているのかということをよく知らないという可能性もあるように思えます。なのでこれ自体には,重訳が大きく影響しているわけではありません。
昨日の第3回ルーキーズサマーカップ 。御神本騎手が病気のためロードレイジングは笹川騎手に変更。
ウォークアップは発馬時の加速が鈍く3馬身の不利。コパノワイアットが逃げて向正面に入るあたりで2馬身弱のリード。単独の2番手にカンターレで3番手をアムールピスケスとアンジュルナで併走。2馬身差でロードレイジングとレモンドロップとネイビーシンデレラ。2馬身差でウォークアップ。2馬身差の最後尾にユウユウシロパン。最初の600mは37秒0のミドルペース。
3コーナーでもコパノワイアットが先頭でカンターレが2番手。アムールピスケスとアンジュルナは並んでコーナーは外から前の2頭を追う形。直線に入るところでもコパノワイアットが単独の先頭。前4頭の後ろからインを回って追い上げたロードレイジングがコパノワイアットとカンターレの間に進路を取ると,瞬く間に突き抜けて快勝。逃げたコパノワイアットが3馬身差で2着。ロードレイジングのさらに後ろから大外を回って追い込んだウォークアップがクビ差で3着。アムールピスケスがハナ差で4着。
優勝したロードレイジング はデビューから3連勝で南関東重賞制覇。その連勝がともに出遅れて差してきてのものでしたので,展開面での不安はあまりありませんでした。浦和が初コースになる点が最大の不安点でしたが,かなり器用に走れましたのでまったく問題になりませんでした。現時点での完成度でほかの馬との差が大きかったように思います。父はモズアスコット 。母の父はネオユニヴァース 。
騎乗した笹川翼騎手は黒潮盃 に続く南関東重賞25勝目。第2回 からの連覇でルーキーズサマーカップ2勝目。管理している川崎の加藤誠一調教師は開業から13年9ヶ月で南関東重賞初制覇。
このようなわけですから,スピノザが書いたものをラテン語から日本語に訳すのと,ナドラーSteven Nadlerが書いたものを英語から日本語に訳すのとでは,その条件は同一です。スピノザの文章を訳すときの方が,しなければならない作業はやや増えるだろうと思われますが,それぞれの筆者が書いた地の文章を和訳するというときは,それほど条件が異なるというわけではありません。
しかしナドラーは,スピノザが書いたものを参照して議論しているわけですから,その地の文章の中にスピノザが書いたものが含まれることになります。そもそもスピノザの哲学の概念notio,とりわけスピノザの哲学に特有の概念を語らずにスピノザのことを語るということはできませんからスピノザの哲学で用いられる概念が『哲学者スピノザの叡智 Think Least of Death 』の中に出てくるのは当然ですし,場合によっては『エチカ』の定義Definitioや公理Axioma,また定理Propositioといったものをそのまま利用するということもあり得るでしょう。しかしその文章はナドラーが書いているわけですから,当然ながら英語で書かれることになります。そしてその英語がそのまま和訳されることになります。よって『哲学者スピノザの叡智』の中に,スピノザが書いたものが重訳される,つまりラテン語が一旦は英語に訳され,その英語がまた日本語に訳されるという事態が生じることになります。要するに,ナドラーの地の文章の和訳の中に,重訳されたスピノザの文章や概念が入り込んでくることになるのです。
一例として第四部定義八 を示しましょう。『哲学者スピノザの叡智』出てくるこの定義は,「私は,美徳と力を同じものであると理解する。すなわち,美徳が人に関係している限り,それはまさに人間の本質あるいは本性である。そして,それはその人の本性の法則のみを通して理解される何かを引き起こす力を,その人がもっているときに限られる」。
この文章は重訳されているからこのようになるのであって,日本語の文章としてはきわめて分かりにくくなっています。スピノザは,ある事柄がその人の本性hominis essentia, seu naturaの法則のみを通して理解される限りで,美徳virtutemを人の本性と理解するのですが,この和訳はその条件が後にきてしまっているからです。
書簡二十八 および書簡三十七 はラテン語で書かれた可能性は高く,それはバウメーステル Johannes Bouwmeesterの経歴から,バウメーステルがラテン語を解したからだといいました。この経歴の部分を説明しておきましょう。
バウメーステルとマイエル Lodewijk Meyerは,同一の秘密結社に所属していました。この秘密結社が『ハイ・イブン・ヤクザーン』という,元はアラビア語で書かれた小説のオランダ語訳版の出版に関わっています。小説といってもこれは宗教批判を含んだもので,アラビア語ですからイスラムと関係するのですが,内容的には『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』と重なる部分をもっていて,とくにスピノザがその中で,服従 obedientiaを教える聖書の有用性を説いているのと同一視することができるような内容が含まれています。
『ハイ・イブン・ヤクザーン』はアラビア語で書かれていましたが,そのラテン語の対訳版というのが以前からあったそうです。秘密結社が出したオランダ語版というのは,そのラテン語からの重訳であったようです。マイエルやバウメーステルが所属していた秘密結社ですから,出版元もリューウェルツ Jan Rieuwertszでした。
秘密結社が残していた梗概によると,1671年12月29日にこの本の出版に関連することが議論されて,その翻訳がバウメーステルに委嘱されています。そして1672年10月11日に,ラテン語から翻訳したこの本をメンバーに配布したという意味のことが書かれた梗概が残されています。
バウメーステルはオランダ人ですから,オランダ語を使うことには問題はありません。たぶん幼少期にはスペイン語を使っていたスピノザよりも上手にオランダ語を操ることができた筈です。したがってラテン語を解することができれば,それをオランダ語に翻訳することは可能だったと推定できます。そして実際にバウメーステルが翻訳したものが配布されたという梗概は残されているのですし,何よりこの翻訳がバウメーステルに依頼されたということは,バウメーステルがラテン語を理解するということをメンバーもよく知っていたからでしょう。
したがってバウメーステルはラテン語を解したとするのが妥当です。よってスピノザがラテン語でバウメーステルに書簡を送っても不自然ではありません。
それでは最後に『哲学者スピノザの叡智 』のうち,ナドラーSteven Nadlerの論考とは直接的には関連しないことをひとつだけ指摘しておきます。これは訳語,日本語の訳語のことです。この本を読んでいると,なぜこの種の訳語上の問題が出てくるのかということが僕には推測できましたので,まずはそのことから始めます。ただしこれはあくまでも僕の推測ですから,これから僕が述べていくことが確実な事実であるというようには理解しないようにお願いします。
おそらくナドラーは,ラテン語を解するように思われます。したがって,遺稿集Opera Posthuma に掲載されたものについてはそれを原文で読むことができ,単に読むことができるわけではなくてその意味を解することができるのだろうと僕には思えます。ただナドラーはイギリス人ですから,最も親しんでいる言語は英語であって,ラテン語というのはある年齢に達してから習得した言語です。ですからナドラーが読み込んでいるスピノザの文章は,スピノザが記したラテン語であるよりは,そのラテン語の英訳版であると思われます。つまり,たとえば『エチカ』でいえば,ナドラーが最も深く読み込んでいるのは英訳版の『エチカ』であって,その英訳版の『エチカ』に基づいてナドラーの思考は進んでいると想定されます。そしてナドラー自身が執筆するのは当然ながら英語です。つまりナドラーは英訳版のスピノザの書物に親しみ,それを基に考察し,そして英語で文章を書いているということになります。
このようにしてナドラーによって書かれた英語の文章が,その英語に基づいて日本語に訳されることになります。これは,たとえばスピノザが書いたものが日本語に翻訳される場合とは異なる側面をもちます。というのもたとえば『エチカ』が日本語に訳されるのであれば,遺稿集に掲載されたラテン語の文章や,後に出版された遺稿集のオランダ語版De Nagelate Schriften が第一の原版となるでしょう。もちろん翻訳者が,各国の言語に訳された『エチカ』を参照するということはあるでしょうが,原版はスピノザが書いたものでありそのオランダ語訳なのであって,英訳された『エチカ』が英語から日本語に翻訳されるということは絶対にありません。
17日に函館競輪場 で行われた第68回オールスター競輪の決勝 。並びは吉田‐佐藤の茨城,脇本‐寺崎‐古性‐南の近畿,太田‐岩津の岡山で松本は単騎。
古性がスタートを取って前受け。5番手に吉田,7番手に松本,8番手に太田で周回。残り3周から上昇していった太田が残り2周のホームで脇本を叩きにいきましたが脇本が突っ張りました。バックで引いた太田が一旦は寺崎の後ろに入ったのですが,古性が外から追い上げていくと太田はインを下がっていき,近畿ラインにスイッチした松本の後ろになって打鐘。そのまま吉田が追い上げていくと太田はさらに引いて8番手。6番手になった吉田がバックから発進。しかし最終コーナーの手前から寺崎が番手捲りを敢行。吉田は南の横あたりで一杯。直線に入ってから古性が寺崎を抜きにいきましたが届かず,寺崎が優勝。マークの古性が1車輪差の2着。南も半車身差の3着に続いて近畿の上位独占。
優勝した福井の寺崎浩平選手は1月の京王閣のFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースの初優勝をGⅠで達成しました。このレースは並びが決まった時点で,年末のグランプリやその後の将来までも見据えて,近畿勢が寺崎に勝たせるようなレースになるだろうと思われました。古性が1番車でしたので前受けをすることができ,その時点で有利になりました。こうなってしまった以上,早い段階で脇本を叩かなければいけなかったのですが,太田が中途半端な走行になってしまい,それもできませんでした。今回は勝たせてもらった格好ですので,これからは自力でのグレードレース制覇が目標になるでしょう。
このようなわけで,『エチカ』だけを論考の対象にするとしても,合倫理性を合理性とだけ関連付ける必要はないと僕は考えます。むしろスピノザの哲学における倫理性というのは,もっと幅広く考察することができるのであって,とくに人間が共同社会状態status civilisにおいて生活を共にするようになるから合倫理的であることに意味があるという点まで考慮するのであれば,自由の人homo liberや賢者viriest sapientisのように能動的であることが合倫理的で,奴隷servusや無知者のように受動的であれば合倫理的ではないとみるべきではなく,むしろ奴隷も無知者も合倫理的ではあり得るのだから,共同社会状態の方が,奴隷や無知者もまた合倫理的であるように導くことが求められているというのが,最も適切な解釈になるのではないでしょうか。
もちろんナドラーSteven Nadlerがそうしているように,合理的であるということ,あるいはスピノザが合理的であるといっていることが,本当に合倫理的であるのかということを追究することはとても意味があることですし,スピノザがいっているような自由の人や賢者という立場,第五部定理四二備考 で稀でありまた困難difficiliaであるといっている立場を,それでもそこを目指していくということも意味があるし,それは立派なことであると僕は思います。ただそこを目指していく際にも,スピノザがそれは稀であり困難であるといっていること,とくにその根拠になるであろう第四部定理三 ,第四部定理四 ,第四部定理四系 といった一連のスピノザの主張に気を留めておくべきなのであって,自身が受動的に振舞うこともあり得るということには,常に留意するべきであると僕は思います。
そして,このようなナドラーの論考は大変に意味があるものではあるのですが,このことを合倫理性と関連付け,そしてこれだけが合倫理性と関連付けることができると考える必要はないと僕は思います。自由の人や賢者というのは常に合倫理的ですから,ナドラーの論考が合倫理性と関連付けられるということは僕も肯定しますが,スピノザの哲学における合倫理性を考察するときに,ナドラーのように考察しなければならないとは僕は考えません。
合倫理性に課する僕の探究はこれだけです。
日本時間で昨日の夜にフランスのドーヴィル競馬場で行われたジャックルマロワ賞GⅠ 芝1600m。
レース前半は馬場の中ほどに2頭,外に8頭が別れてのレース。ゴートゥファーストは中側の2番手でアスコリピチェーノは外の3番手。レース中盤で合流。アスコリピチェーノが外のラチ沿いの3番手でゴートゥファーストは外のラチからは最も離れた5番手付近。勝負所で各馬が追い出しましたが,アスコリピチェーノは馬場の外を後退してしまい6着。ゴートゥファーストは一旦は離されたもののまた盛り返すという形での5着でした。
ゴートゥファーストとアスコリピチェーノでは,能力はアスコリピチェーノの方が上と考えられますので,ゴートゥファーストが5着に入れるレースであれば,アスコリピチェーノが本来の能力を発揮できればもう少し上の着順を得られたのではないかと思われます。万全の状態ではなかったのかもしれませんし,直線の1600mというコース形態が向かなかったのかもしれません。
第四部定理五四備考 で,害悪よりも利益utilitasを齎すといわれているとき,そこで利益を齎されるのは,この備考Scholiumで示されている諸々の感情affectusに流される人のことではなく,そうした人びとと共に暮らし,また自分自身もそうした感情に流されているであろう共同社会状態status civilisの人びとのことであり,また共同社会状態そのもののことです。このことはこの備考の後続部分 から理解できます。そしてその後でスピノザは,民衆は恐れを知らないときに最も恐るべきものであるという意味のことをいっています。
未完の絶筆となった『国家論 Tractatus Politicus 』の中に,「彼らは恐れを持たざる時に恐ろし」といわれていると記されている部分があり,これは『エチカ』のその記述と似ています。元はタキトゥスCornelius Tacitusがこのようなことをいっていたようで,スピノザはそれを踏まえているのでしょう。もっとも,『国家論』のこの部分の記述は,民衆は恐れを知らないときに恐ろしいといわれているけれども,人間の本性natura humanaは民衆であろうと支配者であろうと同一なので,恐れを知らない支配者も恐ろしいといわれなければならないという文脈になっています。ですから『エチカ』のこの部分も,とくに民衆だけを対象としてこのようにいわれているわけではなくて,支配者に対しても同じことをスピノザはいうと想定しておいた方がいいでしょう。
この部分の解釈がどうであれ,社会的紐帯のためには受動感情も必要とされるという意味であることは確実ですから,利益を齎されるのが社会的紐帯の方にあるということは明白でしょう。そしてすでに示したように,合倫理性というのは,人間が協働して生活を送る共同社会状態において初めて意味をもつことになるのですから,恐れ,これは感情でいえば不安metusに該当しますが,この不安という感情に苛まれて行動することが合倫理的になり得るとスピノザはいっていることになるでしょう。よって,確かに敬虔pietasという概念notioは,『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』と『エチカ』では異なっているのですが,『神学・政治論』でいわれていた意味での敬虔は,『エチカ』では別の形であれ生かされているのであり,スピノザの思想は変化していないとみるべきだと思います。
日本時間で昨晩にフランスのドーヴィル競馬場で行われたギヨームドルナノ賞GⅡ 芝2000m。
アロヒアリイは最初のコーナーのコーナーワークで先頭に立ち,そこからは逃げました。出走した5頭が縦一列に並ぶ形で,アロヒアリイのリードは1馬身から1馬身半くらいで終始しました。直線に入るところで後続との差が詰まり,一旦は3頭が横並びになったようにみえたのですが,アロヒアリイには余裕があったので引きつけたようで,そこから追い出されるとまた差を広げ,鋭く逃げ切って優勝しました。
優勝したアロヒアリイ は重賞初制覇。ただこの馬は新馬を勝った後,1勝クラスの2着を挟んで弥生賞で3着。権利を得たので出走した皐月賞は8着でしたがこれが全成績。ですから素質があるということは確かで,海外とはいえGⅡなら相手次第で勝ててもおかしくありませんでした。ヨーロッパの競馬に特有のスローペースを逃げ切っての勝利なので,どのくらいの能力があるのかということをこのレースから測るのは難しいですが,もっと上のクラスで通用する可能性はあるでしょう。父はドゥラメンテ 。母の父はオルフェーヴル 。4代母がバレークイーン で母のふたつ上の半兄に2017年の青葉賞を勝ったアドミラブル 。Alohi Aliiはハワイ語で輝く王。日本馬による海外重賞制覇はクイーンエリザベスⅡ世カップ 以来。フランスでは2021年のフォワ賞 以来。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手はUAEダービー 以来の日本馬に騎乗しての海外重賞13勝目。管理している田中博康調教師は海外重賞初勝利。
合倫理性というのがどこに求められるのかということはともかく,ナドラーSteven Nadlerがいっているように,自由の人homo liberであるか奴隷servusであるかということだけを合倫理性の規準としなければならないということが,スピノザの思想の中にあるわけではないということは理解できたと思います。ただスピノザは敬虔pietasという規準を『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』の中でははっきりとした形で示しましたが,『エチカ』ではこの観点が明らかに後退してしまっているのも事実です。『神学・政治論』では,自由の人や賢者viriest sapientisが採用する行動という意味で用いられていた敬虔という概念notioは,第四部定理三七備考一 で,理性 ratioの導きに従って生活することから生じる善行なそうとする欲望cupiditasと規定されることになったからです。よって岩波文庫版の『エチカ』では,これが『神学・政治論』でいわれている敬虔とあまりに異なっているため,道義心pietasと訳されることになりました。
この道義心は理性に従うことによって生じる欲望の一種ですから,自由の人には生じますが奴隷には生じません。賢者は第三種の認識cognitio tertii generisに従うのですが,理性に従うことによって生じるような欲望は賢者にも生じるとみられる限りで賢者には生じます。しかし無知者には生じないでしょう。自由の人ではあるけれども賢者ではなく無知者であるということは,絶対に生じないとは断定できませんが,第五部定理二八 をみる限り,そういうことをスピノザはあまり想定していないと思われます。なので『神学・政治論』でいわれている敬虔という規準を,『エチカ』にそのまま適用してしまうと,この規準はナドラーが示している規準と何ら変わらなくなってしまうのです。
ただ,行動という意味での敬虔という規準の残骸は,『エチカ』にも残されています。たとえば第四部定理五四備考 では,いくつかの受動感情が害悪よりも利益utilitasを齎すとされていますが,その理由というのは備考Scholiumの文言にもある通り,人間が理性の指図によって生活することが稀であるから,つまり自由の人として生活することが稀であるからとされていて,ここに示されている感情affectusは,受動passioによってそうした人びとを自由の人と同じ行動に導くからだとしか考えられないからです。
スピノザがブレイエンベルフ の人物像を誤解したのは,書簡十八 においては真理veritasを探究するにあたって真理そのもの以外には何の目的finisももっていないといっていたブレイエンベルフが,書簡二十 では哲学をする際の根本原則として,知性 の明瞭判然たる概念notioのほかに,啓示された神Deusのことばをあげたからです。したがってブレイエンベルフが最初から根本原則をスピノザに伝えておけば,スピノザの誤解は生じなかったのであり,スピノザとブレイエンベルフとの関係は現にあったのとは別の形になっていただろうと想定されます。
したがってスピノザに対する誤解を生んだのは,ブレイエンベルフが最初にスピノザに誤解を生じさせるような自己紹介をしたからであり,その責任は偏にブレイエンベルフにあるということになるでしょう。しかし一方で,ブレイエンベルフは書簡十九 を受け取った後で,根本原則として神のことばというのをあげているのですから,スピノザが自身のことを誤解しているということについては,たぶん書簡十九を読んだ時点で理解したのだろうと思います。他面からいえば,自身が神のことばも哲学する際の根本原則としているということを,スピノザに伝えておかなければならないということを悟ったのです。
こうした事情を考慮すると,ブレイエンベルフが最初の時点で神のことばについて何も言及していなかったのは,そのことはブレイエンベルフにとっては自明であって,スピノザがそれを共有していると思い込んでいたからだと想定できます。つまり,神のことばを哲学をする際の原則とするということについての疑いをブレイエンベルフは感じていなかったのであって,だからスピノザも自分と同じように哲学をしていると前提していたのでしょう。
スピノザは書簡二十を受け取ったとき,ブレイエンベルフが実は自分とは異なっているということを知り,驚いたと思います。同様にブレイエンベルフも,書簡十九を読んで驚きを感じたのではないでしょうか。
奴隷servusであれ無知者であれ,敬虔pietasであることができる,したがって合倫理的であることができるということは,敬虔を規準とした場合は成立すると分かりました。ただ,奴隷や無知者は十全な原因causa adaequataとなって敬虔であるわけではなく,部分的原因causa partialisとなって敬虔であるわけですから,この合倫理性を保つためには,あるいは合倫理性を高めるためには,さらに要求しなければならないことがあります。それは奴隷や無知者が,なるべく敬虔であるように,共同社会状態status civilisが導いていくということです。したがってこの種の合倫理性は,共同社会状態を構成する諸個人に求められるというより,諸個人を支配する権力の中に求められることになります。
たとえば国家Imperiumという共同社会状態においては,法律lexが制定されます。この法律が,共同社会状態が合倫理性を維持していくのに資するように制定されるように求められるということです。これは合倫理性という規準からの要求になりますが,この要求が,共同社会状態の合倫理性が先立っていて,法律がそれに資するとされている点には注意が必要でしょう。すなわちスピノザは,制定された法律を守ることが合倫理的であるということについては,あくまでもこの限りにおいてのことですが,否定していることになるからです。なぜなら法律が制定されることのうちには,その法律が合倫理的であるということ,いい換えればこの法律の支配を受ける人びとが敬虔であることに資するということが含まれているわけではないからです。逆にいえば,制定された法律が,その支配を受ける人びとの合倫理性に資するどころか,それに反することに資するということもあり得るわけで,その場合にはその法律は合倫理的であるどころか非倫理的であるということになるでしょう。
スピノザは法律が合倫理的であるということについてはやや楽観的にみているように僕には感じられます。ただこれはここで考察していることとはまったく関係しませんから言及しません。ただ,諸個人が敬虔であるという規準からみれば,法律は合倫理的であるということは前提できませんし,共同社会状態そのものが合倫理的であるということも前提できないのです。
昨晩の第29回北海道スプリントカップ 。
逃げたのはワンダーウーマン。2番手はエコロアゼル,マテンロウコマンド,ベラジオゼロ,ヤマニンチェルキの4頭の集団。2馬身差でヴィルミーキスミーとパレスゴールド。4馬身差の最後尾にミラクルヴォイス。前半の600mは34秒7のハイペース。
3コーナーでもワンダーウーマンは単独の先頭。ベラジオゼロが押しながらついていき,その外からヤマニンチェルキ。内から追ってきたのがエコロアゼル。ワンダーウーマンが先頭のまま直線を迎えましたが,すぐに外からヤマニンチェルキが前に出ました。内からエコロアゼルも追い上げ一旦は2番手。そこに大外からマテンロウコマンドの追い込み。しかし先に抜け出していたヤマニンチェルキには追いつけず,優勝はヤマニンチェルキ。マテンロウコマンドが1馬身差の2着。エコロアゼルが2馬身半差で3着。
優勝したヤマニンチェルキ は重賞初制覇。3走前にオープンの勝利があり,ここは優勝候補の1頭。前走のオープンは大敗していたのですが,これは古馬相手のレースでしたから仕方がないでしょう。前々走は2着馬に負けていたのですが,距離短縮で逆転した形。したがって1400mよりも1200mの方がよいのだと思われます。母の父は2002年の京成杯を勝ったヤマニンセラフィム 。Cerchiはイタリア語で探す。
騎乗した北海道の石川倭騎手は2022年のJBC2歳優駿 以来の重賞4勝目。北海道スプリントカップは初勝利。管理している中村直也調教師も北海道スプリントカップ初勝利。
第一部公理三 から理解できるように,スピノザの哲学では一定の原因 causaが与えられると必然的にnecessario結果effectusが生じ,何の原因も与えられないのであれば結果が生じることはありません。これを結果の方からみれば,何らかの結果が生じるためにはその結果を生じさせるための必然的なnecessarius原因が必要とされ,そうした原因がないのであればその結果は生じ得なかったということです。
したがって,人間が何らかの行動をするという結果が生じるのであれば,そこにその人間をしてその行動に至らしめる何らかの必然的な原因があったということでなければなりません。このとき,その行動をしたのが自由の人homo liberであったら,あるいは賢者viriest sapientisであったら,その原因は偏にその自由の人ないしは賢者にあったことになります。いい換えれば自由の人や賢者というのは,その行動に対して十全な原因causa adaequataであるということになります。これに対して,奴隷servusや無知者というのは,自身が十全な原因となってある行動をなすということはありません。自身の行動に対して自身が原因でないということはあり得ませんから,これは奴隷や無知者の行動は,奴隷や無知者が部分的原因causa partialisとなって生じる行動であるということになります。
このとき,現実的に存在するある人間が,部分的原因として行動したとき,その行動が自由の人ないしは賢者がなす行動と一致するのであれば,その人間つまり無知者や奴隷は敬虔pietasといわれることになります。奴隷も愚者も一定の原因によって行動に決定されるので,その行動が自由の人や賢者の行動と必然的に一致するとはいえません。一致する場合もあれば一致しない場合もあるでしょう。しかしもし一致するのであればそれは敬虔といわれるのですから,敬虔が合倫理性の規準となる以上,その限りでは無知者も奴隷も合倫理的であるといわれることになります。これを共同社会状態status civilisの中の合倫理性として規定すれば,共同社会状態において人間が合倫理的に暮らしていくことは不可能ではないでしょう。したがってこの規準による合倫理性は,第五部定理四二備考 でいわれているような,稀なものとはならないでしょうし,現実的に存在している人間にとって困難difficiliaでもないでしょう。
高知から1頭が遠征してきた昨晩の第59回黒潮盃 。
ランベリーが逃げて2番手にセイエイで3番手にマウンテンローレル。この後ろはプレミアムハンド,ドナギニー,ミクニサンビーム,フレンドローマ,アレンパの5頭の集団。2馬身差でユウユウスキー。2馬身差でコスタデラルス。ヤマノアシオトとヨシノダイセンが最後尾を併走。最初の800mは50秒3のミドルペース。
向正面でセイエイがランベリーに並びかけていき,3コーナーではコスタデラルスも追いついてきて3頭が雁行。ほどなくしてランベリーは後退。2頭の外からミクニサンビームが追い上げてきました。この3頭が直線の入口で横並び。そこから内と中と外に分かれて直線の追い比べ。中のマウンテンローレルが前に出て優勝。内のセイエイが4分の3馬身差の2着。外のミクニサンビームは1馬身半差の3着。
優勝したマウンテンローレル は南関東重賞初挑戦での優勝。これまで5勝,2着1回,3着1回と安定した成績を残していて,4連勝中。オープンを連勝していましたので,実績も十分でした。ペースが上がらなかったため,道中の位置取りは結果に大きく影響したかもしれません。崩れていない馬なので今後も注目でしょう。母の父はキングカメハメハ 。祖母の6つ上の全兄が1998年の北海道3歳優駿を勝ったキングオブサンデー で,5つ上の全兄が2003年に京都ジャンプステークス,小倉サマージャンプ,阪神ジャンプステークス,京都ハイジャンプを勝ったウインマーベラス 。
騎乗した大井の笹川翼騎手は習志野きらっとスプリント に続く南関東重賞24勝目。第52回 以来となる7年ぶりの黒潮盃2勝目。管理している大井の福田真広調教師 は南関東重賞3勝目。黒潮盃は初勝利。
人間がある何らかの行動をするとき,その人間が理性 ratioに従ってその行動をしている場合は,その行動をしているのがだれであったとしても同じ行動をすることになります。このことは第四部定理三五 から明らかであるといわなければなりません。
この定理Propositioは理性に従う限りでのこと,いい換えれば自由の人homo liberである限りのことについて言及しているのですが,その場合はすべての人間の本性natura humanaが一致することになるという原理は,人間が十全な原因causa adaequataとなっているということ,あるいは同じことですが人間が能動的であるということや,人間が十全な観念idea adaequataに依拠しているという点にあるので,このことは人間が第三種の認識cognitio tertii generisに依存して行動する場合にも当て嵌まります。すなわち賢者viriest sapientisの行動にも該当します。したがって自由の人も賢者も同じように行動するのであって,それは自由の人であろうと賢者であろうと,その本性が一致するからです。
敬虔pietasの基本的な原理は,このような,人間の本性が一致する限りでの行動のことをいうと理解してください。したがって,自由の人や賢者は敬虔であるということになります。ただここで注意しなければならないのは,自由の人であれ賢者であれ,それが敬虔であるといわれるのは,たとえば自由の人も賢者も能動的であるからとか,十全な観念に依拠しているからというわけではなくて,それに依拠して行動するからそういわれているということです。つまりある人間が敬虔であるといわれまた敬虔ではないといわれる規準は,その行動にあるのであって,それ以外の事柄が規準とされるわけではないのです。
よって,たとえ人間が受動的に行動するのであったとしても,あるいは混乱した観念idea inadaequataに依拠して思惟するのであったとしても,その行動が自由の人や賢者が採る行動と一致しているのであれば,その人間は敬虔であるといわれることになります。このために,敬虔という規準を合倫理性の規準とした場合には,奴隷servusであろうと無知者であろうと,合倫理的であることはできるということになります。この場合は賢者と無知者,自由の人と奴隷の相違は,常に必然的にnecessario敬虔であることができるか,そうではないかという点にのみ存します。
第四部定理六五 には系Corollariumが付せられています。
「理性の導きに従って我々は,より大なる善のためにより小なる悪に就き,またより大なる悪の原因たるより小なる善を断念するであろう 」。
この定理Propositioは第四部定理六五の帰結事項であり,第四部定理六五で述べられていることが,理性ratioの導きに従うことによってどのように実践されるのかということの一例を示したものです。
この定理でいわれている小なる悪malumは,大なる善bonumに就くための原因causaとなっています。よってこの悪は,その時点では悪であるというだけであって実際には善です。これに対して小なる善といわれているのは,後の大なる悪の原因となっているのですから実際には悪です。よって第四部定理六三系 により,僕たちは理性に従う限りでは,より大なる善のためにはより小なる悪に就くことになりますし,より大なる悪を逃れるためにより小なる善を忌避することになるのです。
こうしたことが生じるのは,第二部定理四四系二 にあるように,ものをある永遠の相aeternitatis specieの下に認識するpercipereことが理性の本性natura Rationisに属しているからです。このゆえに僕たちは第四部定理六二 にあるように,観念ideaが過去と関係しているか現在と関係しているか未来と関係しているかということとは無関係に,同じようにその観念を観想しますcontemplari。よって未来の悪の観念と現在の善の観念を同じように観想するために,未来の悪を回避するために現在の善を忌避することになります。同様に未来の善の観念と現在の悪を同じように観想するために,未来の善を享受するために現在の悪を甘受することになるのです。こうしたことが僕たちに生じるのが,僕たちが理性に従っている場合だけであるということは,この理由によります。
共同社会状態status civilisにおける合倫理性を模索するというスピノザの態度は,当然の態度であるように僕には思えます。というのも,現実的に存在する人間に何らかの倫理が要求されるとすれば,それは人間が互いに協力して生活するからにほかならないからです。もし人間がそれぞれ単独で生活するのであれば,その人間に倫理性を求める必要はありません。単独で生活している限り,ある人間が別の人間に迷惑な行為をなすということがあり得ないからです。しかし実際は人間は単独で生活していくことはできません。このことを共同社会状態の成立に結びつけてしまうのは論理的飛躍があるといえますが,少なくとも人間が協働して生活を送るがゆえに合倫理性が要求されることになるとすれば,共同社会状態という状態が現に存在している以上,その状態における合倫理性とは何かということを考えることが,合倫理性について考えるということに意味をもたせることになります。
よって,自由の人homo liberと奴隷servusとか,賢者viriest sapientisと無知者といった区分で合倫理性を決定するなら,共同社会状態において合倫理性を求めることは断念しなければなりません。他面からいえば,合倫理的な共同社会状態は現実的に存在し得ないということになります。先述したようにこれはこれで意味のある結論ではあるのですが,共同社会状態における合倫理性を断念しなければならないということでは必ずしもないのであって,自由の人と奴隷あるいは賢者と無知者という区分とは別の区分を設けることによって,それが可能になるのです。スピノザは実際にそういう方法methodusによって共同社会状態における合倫理性とは何かということを模索したのであって,それが『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』でいわれている敬虔pietasであるというのが僕の考えです。つまりこの場合は,合倫理性の規準が,ナドラーSteven Nadlerが示している規準よりは緩やかになっているのであって,ナドラーの規準だと自由の人だけが合倫理的で奴隷は非倫理的であるという結論になりますが,敬虔という規準で区分すれば,自由の人が合倫理的であるということは変わりはありませんが,奴隷であるから非倫理的であることにはならず,合倫理的でもあり得ることになります。