スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不死鳥杯&身体の所作

2024-07-23 19:21:19 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは新山‐竹内の北日本,脇本勇希‐脇本雄太‐稲川‐東口‐藤井の近畿で根田と山田は単騎。
 脇本勇希がスタートを取って前受け。6番手に新山,8番手に山田,最後尾に根田で周回。残り2周のホームの入口から新山が発進。誘導との車間を開けていた脇本勇希が突っ張ったのでてこずりましたが,脚力の違いで打鐘では新山が脇本勇希を叩きました。山田がこのラインに続き,脇本雄太は脇本勇希を捨てて山田の後ろにスイッチ。バックから山田が発進。ホームで山田との車間を開けていた脇本雄太は山田の発進をみてさらに外を捲る形。山田は新山はあっさり捲りましたが,外の脇本雄太が直線の入口では前に。そのまま抜け出して脇本雄太が優勝。山田が3車身差で2着。脇本から離れてしまった稲川は4分の3車身差の3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は3月のウィナーズカップ以来の優勝。記念競輪は昨年4月の武雄記念以来の優勝で14勝目。福井記念は2014年,2015年,2017年,2018年,2020年と優勝していて4年ぶりの6勝目。このレースはラインの厚みが違いますので,どういう展開になっても脇本雄太の優勝は確実で,ラインを引き込めるかどうかが焦点とみていました。新山は脇本勇希には先行させないという競走。とくに脇本勇希にアシストをしなかったのは,先行争いがよい経験になるとみてのものでしょう。脚力通りに新山の先行にはなったものの,叩くのに脚を使いましたから,失速は止むを得ないところ。脇本勇希が叩かれてからの脇本雄太は,自身の優勝だけを目的とした競走になったこともあり,稲川がマークしきれませんでした。ただこれは稲川の脚力の問題であって,ラインで上位を独占できなかったのも無理のないところでしょう。根田が山田に続いていれば,2着,3着の争いはもっと激化したかもしれません。

 この後で國分は『はじめてのスピノザ』でも例示していた,第四部定理五九備考について検討しています。
 まず前提としていっておかなければなりませんが,殴打という動作は,それ自体でみられるなら善bonumでも悪malumでもありません。これは殴打がそうであるというより,人間の身体humanum corpusの所作はすべてそれ自体でみられる限りでは善でも悪でもないのであって,殴打もそのような所作とみられる限り,善でも悪でもあり得ないということです。一方,それが徳virtusといわれるのは,人間の身体の力potentiaを表現している限りにおいてです。したがってこのことも殴打に限られるのではなく,もし人間の身体のある動作が,その人間の身体の力の表現とみられる限りでは,すべて徳であるといわれなければならないのです。
 しかしこうしたすべての動作は,善にもあり得るし悪にもなり得るのです。たとえば同じ備考の中でいわれているように,殴打という所作が憎しみodiumから発生するとすればそれは悪といわれなければなりません。もちろんこの部分でいわれていることも,殴打という所作に特有に適用されるわけではありません。ある人間の身体の動作が,憎しみに代表されるような悪しき受動感情から発生しているときは,それらはすべからく悪といわれるのです。悪しき受動感情がいかなるものであるのかということは,第四部定理四五系一に列挙されている通りです。
 ではなぜその場合は悪といわれなければならないのでしょうか。それは第四部定理四五で憎しみは善であり得ないといわれているからなのですが,鍵となるのはこの定理Propositioを証明するときに,第四部定理三七にスピノザが訴求している点だと国分はいいます。この定理は,徳に従っているということは,自分のために欲求する善を,他人にも欲求することであるという主旨のことをいっているのです。つまり規準は自分のために欲求する善にあるのです。その善を他人に対して欲求しないような状態になることは,有徳的であるということから離れていくことなのです。このゆえに憎しみから他人を殴打することが悪といわれることになります。僕たちは憎しみによって他人に殴打されることを自身の善として欲求しないからです。
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KENTA&自己の利益

2024-07-22 19:02:39 | NOAH
 潮崎豪は2006年1月に試合中に大けがを負いました。このときに戦っていたのがKENTAです。
 三沢光晴が全日本プロレスの社長になった後のことだったと思いますが,全日本プロレスは初めてのオーディションを行ないました。そこに参加して合格。全日本プロレスの練習生になりました。2000年3月にバトルロイヤルでデビュー。5月の丸藤正道との試合が正式なデビュー戦になりました。ところがすぐに三沢が全日本プロレスの社長を辞任して退団。NOAHの旗揚げがあり,KENTAもNOAHに移籍しましたので,実質的なプロレスラーとしてのキャリアはNOAHから始まったといえます。
 NOAHに移籍して小橋建太の付き人に。この頃はまだ小林健太でした。KENTAの前の付き人が金丸義信で,KENTAの後任になったのが潮崎です。KENTAに改名してからのベルト初戴冠は2003年7月。丸藤と組んでのGHCジュニアタッグでした。ヘビー級でデビューした杉浦貴が体重を落としてジュニアヘビー級でも戦うようになり,丸藤,KENTA,金丸,杉浦の4人で多くの名勝負を戦っています。
 GHCジュニアヘビー級のシングルの王者になったのは2005年7月で,これは金丸から奪取。翌年の1月にシングルマッチで丸藤から初勝利をあげました。その年の6月に杉浦にベルトを奪われています。ただこの頃から無差別級であるヘビー級にも進出。先に実績を残したのは丸藤で,2006年9月に秋山準を破ってGHCヘビー級王者に。KENTAは初防衛戦の相手に指名され,この試合は敗れてしまったものの,プロレス大賞のベストバウトに選出されました。
 この後,石森太二がNOAHで仕事をするようになり,KENTAは石森と組むことが多くなったので,またジュニアヘビー級での試合が中心に戻りました。石森とのチームでも2008年にGHCジュニアタッグを戴冠しています。ただこの後は膝の怪我の影響があり,休養も多く,実績はあまり残せませんでした。
 2012年に復帰してからはヘビー級が中心に。この年の10月にGHCタッグの王者になり,翌年の1月にはGHCヘビーの王者にもなっています。シングルの王者は約1年ほど保持。2014年4月にNOAHを退団しました。

 このスピノザの主張は,僕たちの常識に照合させるとあまりに不自然だといえるでしょう。僕たちは自分がされて嫌なことは他人にもするなと教えまた教えられるのであって,他人がされて嫌なことを自分にもするななどとはいうこともないしいわれることもないからです。しかしここでスピノザが自己の利益suum utilisの方を重視してこのようにいうのは,人間というのは自分のことをよく知っていなければ,あるいは同じことですが自分のことを正しく認識していないならば,他人がされたら嫌なことを自分にはしてしまうものだからだと國分はいっています。だから逆にいえば,自分を正しく知るということ,あるいは自分の現実的本性actualis essentiaすなわちコナトゥスconatusに従って自己の利益を追求することが重要なのです。それが有徳的であるということを意味するのです。これは徳virtusの規準が自分自身にあるという僕の結論に一致しているといえるでしょう。スピノザは第四部定理五六を証明するにあたって,自分自身を知らない人間は一切の徳の基礎を知らない人間であるという意味のことをいっているのですが,これは自分自身を知らない人間は,この定理Propositioでいわれている高慢superbiaや自卑abjectioといった受動感情に容易に囚われてしまうという意味なのです。
                                   
 ところで,この定理は一般的な規則として十分に成立します。しかしそれを僕たちはどのように具体的に適用するのでしょうか。たとえば高慢な人間に自分は出会ったことがあるか否かということや,自分自身が高慢という感情affectusに隷属したことがあるのか否かといったことは,自分自身の経験を,一般的な規則から理解することができたときです。だから第二部定理二四は,単に有徳的に働くagereということを,理性ratioの導きに従って行動し,生活し,自己の有esseの維持することだといわずに,それを自己の利益の原理に基づいてすることだとスピノザはいっているというのが,國分の指摘です。ただこのことは,第二部定理三七にあるように,理性による認識cognitioの基礎となる共通概念notiones communesは,個物res singularisの本性essentiaを構成しないということからも示すことができるでしょう。現実的に存在する人間の精神mens humanaも身体corpusも個物であって,理性だけで認識できるのは一般的規則だけであるからです。
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お~いお茶杯王位戦&第四部定理一八備考

2024-07-21 19:17:43 | 将棋
 17日と18日に湯の川温泉で指された第65期王位戦七番勝負第二局。
 渡辺明九段の先手で相掛り。後手の藤井聡太王位が縦歩取りの要領で一歩を得する将棋になりました。
                                        
 第1図から後手は☖2五銀と出て☗2八飛に☖3四銀と引きました。これは再び☗2六飛なら☖2五銀と出て千日手にしようという狙い。後手で千日手は悪くありませんが,裏を返せば千日手を狙うほかなくなっている局面ともいえ,ここまでの手順が万全ではなかったかもしれません。
 先手は☗7四歩と打って打開しにいきました。後手にとっては予想外の手だったようです。1時間9分考えて☖3七歩成☗同銀と成り捨てて☖3八歩と打ちました。
                                        
 ただこれは反撃として弱かったようです。先手は52分考えて☗3五歩と打ちました。以下は一方的に先手が攻め勝っています。後手にとって不出来な将棋だったという印象で,そこを先手がうまく衝いたという一局でした。
 渡辺九段が勝って1勝1敗。第三局は30日と31日に指される予定です。

 現実的に存在する個々の人間には,それぞれに固有の本性essentiaがあります。このことは第二部定義二から明らかだといわなければなりません。この定義Definitioによれば事物とその本性は一対一で対応し合うことになります。ですからもし現実的に存在するAという人間とBという人間の現実的本性actualis essentiaが一致するなら,AとBは同じ人間であるということになってしまいます。しかしこれほど不条理なことはありません。したがってAの現実的本性とBの現実的本性は異なります。このことがすべての人間に妥当します。よって現実的に存在する個々の人間に,その人間に固有の現実的本性があるのであって,同一の現実的本性を有する複数の人間は存在しません。
 第四部定理一八備考がいっているのは,それぞれ固有の現実的本性を有する人間が各々の仕方で,各々の本性に則したとしても,有徳的である限りでは理性ratioに従うことになるということだと國分は指摘します。理性は人間を巡る一般的な法則ですが,その法則に従うのではなく,あくまでも各々の人間が各々の人間に固有の現実的本性に,各々の仕方で従っているという点が重要です。これは僕が前もっていっておいたことでいえば,理性に従うということあるいは同じことですが有徳的であるということは,各々の人間が自身に固有の現実的本性を正しく認識して行動することの帰結であるということと関係しています。
 このような人間がどのように振る舞うのかということが,同じ備考Scholiumの中に示されています。
 「理性に支配される人間,言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は,他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく,したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる」。
 この部分で重要なのは,自分がされたら嫌なことを他人に対してもしないとはスピノザはいわず,他人がされたら嫌なことを自分にもしないとスピノザがいっている点だと國分は指摘しています。これはまさにその通りであって,だからスピノザは自己の利益suum utilisというのをこの備考の中で,また第四部定理二〇第四部定理二四でいっているということができるでしょう。
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WTミッドナイト&第四部定理一八備考

2024-07-20 19:10:44 | 競輪
 18日に佐世保競輪場で争われたウインチケットミッドナイトの決勝。並びは久田‐松本‐隅田の四国中国,後藤‐岩谷‐阪本の九州で平原は単騎。
 岩谷がスタートを取って後藤の前受け。4番手に平原,5番手に久田で周回。残り3周のバックに入ると後藤が誘導との車間を開けて後ろを牽制。残り2周のホームに入って久田が発進しましたが,待ち構えていた後藤が突っ張りました。バックに入ってまた久田が叩きにいったものの,そのまま打鐘になり,3番手と4番手,4番手と5番手の車間が開いて周回中と同じ隊列のまま。ホームに戻ってまた久田が発進しましたが,バックに戻って岩谷が番手から発進。久田は不発で松本が自力に転じました。追いついてきた平原が阪本の内にいき,直線の入口では2番手が平原,阪本,松本で併走。外の松本がそのまま外を追い込み,フィニッシュ寸前で岩谷を差して優勝。岩谷が8分の1車輪差で2着。岩谷マークの阪本が4分の3車身差で3着。内の平原が4分の1車輪差の4着で松本マークの隅田が8分の1車輪差の5着。
 優勝した愛媛の松本貴治選手は2021年1月の松山記念以来となるGⅢ2勝目。このレースは平原と松本の力が他と比べて圧倒的上位。松本は久田の番手となったので難しいところもあるかと思っていましたが,後藤の果敢な先行で久田が不発となり,わりと早めの段階から自力を出すことになったので,ぎりぎりで優勝に手が届いたのだと思います。それでみれば後藤はもう少しだけ引き付けた方がよく,よいタイミングで駈け出せていれば,優勝は岩谷の方だったのではないでしょうか。

 ここまでのことを踏まえた上で,いよいよ國分の考察を詳しく追っていくことにします。
                                        
 スピノザは第四部定理一四で,善bonumの認識cognitioも悪malumの認識もただそれが真verumであるというだけではどのような感情affectusも抑制し得ないといっています。もしも善も悪も理性ratioによって認識するcognoscereことができるのであれば,それは道徳的なひとつの結論となり得るでしょう。ところがその認識が感情を抑制し得ないのであれば,結局は第四部定理八の様式で僕たちが善をまた悪を認識することを抑制し得ないことになります。このために,単に善ならびに悪を十全に認識するということは,道徳的な結論とはなり得ないのです。
 これを解決するためにスピノザは自己の利益suum utilisといういい回しをして,それを追求することの重要性を説くのだと國分はいいます。第四部定理二〇第四部定理二四を國分はその代表的な定理Propositioとして示していて,さらに第四部定理一八備考もあげています。その備考Scholiumでいわれているのはある意味で決定的といえますので,ここでも示しておきます。
 「理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ,したがって理性は,各人が自己自身を愛すること,自己の利益・自己の真の利益を求めること,また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求すること、―一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努めること,を要求する(Cum ratio nihil contra naturam postulet, postulat ergo ipsa, ut unusquisque seipsum amet, suum utile, quod revera utile est, quaerat, et id omne, quod hominem ad majorem perfectionem revera ducit, appetat, et absolute, ut unusquisque suum esse, quantum in se est, conservare conatur)」。
 これらの部分でいわれている自己の利益の追求というのがエゴイズムとは関係がないということは,事前に僕が説明しておいたことから明らかです。ではなぜスピノザがこれらの部分で自己の利益を追求することの重要性を説くのかといえば,自己の利益を追求することこそが他人にも善をなすことに繋がっているからです。これは第四部定理三七でみられる考え方です。
 國分はこの関係を考察しています。つまり,現実的に存在する人間が理性に従って自己の利益を追求することが,なぜ他人に善をなすことに繋がるのかということを考察しているのです。僕はそれを,第四部定理三五を援用した主体の排除という観点から一般的な規則として説明したのですが,國分はそれをもっと具体的な仕方で示そうと試みています。
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スポーツニッポン賞習志野きらっとスプリント&徳の認知

2024-07-19 19:04:42 | 地方競馬
 愛知から2頭,高知から1頭,佐賀から1頭が遠征してきた昨晩の第14回習志野きらっとスプリント
 クビほど前に出ていた外のエンテレケイアがそのまま譲らずハナへ。内から追っていたオールスマートが控えて2番手。3番手にカプリフレイバーとハセノエクスプレスで5番手にスワーヴシャルル。2馬身差でイモータルスモーク。7番手にプライルード。この後ろはビリーヴインミー,リュウノユキナ,ティアラフォーカス,マッドシェリーの集団。その後ろがブンロートとロイヤルパールス。最後尾にスマートセラヴィーという隊列。最初の400mは22秒6のハイペース。
 3コーナーでエンテレケイアのリードが2馬身ほどに広がり,2番手はまだオールスマート。この後ろからスワーヴシャルルとプライルードが並んで追い上げてきてその後ろがイモータルスモーク。直線に入ると逃げたエンテレケイアがさらに後ろとの差を広げていき,楽に逃げ切って圧勝。内を回って追ってきたスワーヴシャルルが6馬身差で2着。2番手追走の佐賀のオールスマートが1馬身半差で3着。
 優勝したエンテレケイアは南関東重賞初勝利。JRAでデビューして1勝。3歳のうちに浦和に転入。転入先が浦和だったこともあり,1400mと1500mを中心に走っていましたが,900mや1000mでの好走もあり,強敵相手に戦えるのはむしろそうした距離と思えました。かなり優秀なタイムなので,圧勝になったのは当然。逃げたのがよかったということでしょうが,これまでで最高のパフォーマンスになりました。父はアジアエクスプレス。Entelecheiaは完成された現実性を意味する哲学用語。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手報知オールスターカップ以来の南関東重賞34勝目。その後に川崎記念を勝っています。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞67勝目。第9回,10回に続き4年ぶりの習志野きらっとスプリント3勝目。

 理性ratioによる認識cognitioはそれ自体が有徳的な認識ですから,第四部定理二三は,現実的に存在する人間は理性によって事物を認識するcognoscere限りでは有徳的であるといっているのと同じです。これは第四部定理二四からなお一層明らかだといえるでしょう。したがってすべての人間は理性的である限り有徳的であるということになりますから,人間に一般のvirtusの何たるかを示そうとするのであれば,これだけで十分だといえます。そしてこの意味において,すべての人間に共通の徳というものが,スピノザの哲学にもあるといえるのです。
                                   
 ところがスピノザは,その前の第四部定理二二系では,徳の唯一にして第一の基礎は,現実的に存在する各々の事物のコナトゥスconatusであるといい,理性によって事物を認識すること,いい換えれば現実的に存在する事物の能動actioであるとはいわないのです。それがなぜかといえば,人間に共通の徳が何であるのかということを示すことを意図しているのではなく,現実的に存在する各々の人間が,自身の徳とは何かということを正しく認識し,そのことを通じて人間に共通の徳とは何かということを正しく知るということが重要であるとスピノザが考えているからだと僕は思うのです。よって,現実的に存在するある人間が,人間に共通の徳を知るということは,自身のコナトゥスを正しく把握してそのコナトゥスに従って行動することによって知られることになる帰結事項なのだと僕は考えます。だから,人間に共通の徳というのは,いわゆる主体の排除によって各々の現実的に存在する人間に知られることになる帰結事項であり,徳そのものの第一の規準は,人間の本性natura humanaにあるのではなく,各々の人間の現実的本性actualis essentiaにあると僕はいうのです。
 前もってこのようにいっておいたのは,徳の第一の規準が自分自身にあるというなら,各々の人間が自己のコナトゥスに従うことがそれぞれの徳ということになり,スピノザは現実的に存在する人間が利己的に行動することを徳として推奨しているというように解されるおそれがあるからです。実際にはスピノザはそのようなことを主張しているわけではありません。徳の何たるかを知ることの方を重視しているのです。
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汎悪霊論&第四部定理二三

2024-07-18 19:16:33 | NOAH
 『悪霊』のスタヴローギンの告白の第一節の中で,スタヴローギンがチホンに,神を信じないで悪霊だけを信じることができるかを尋ねる部分があります。この部分を佐藤優は『生き抜くためのドストエフスキー入門』の中で取り上げていて,これを書いているときのドストエフスキーにはスピノザのことが念頭にあったのではないかと推測しています。
                                        
 僕はドストエフスキーがスピノザを知っていたとすら思わないので,これは牽強付会でないかと思いますが,このことについては別に僕の考え方を説明します。なぜ佐藤がこのことをスピノザと絡めて考えているのかといえば,それはスピノザの哲学が汎神論であること,あるいは汎神論だといわれていることと関連しています。スピノザの哲学では自然のうちに存在するのはそれ自身のうちにある実体と,実体のうちにある実体の変状としての様態だけですが,存在する実体は神だけなので,自然のうちに存在するものは神であるか,神の変状としての様態だけであるということになっています。スタヴローギンはそれに対して,実際には自然のうちに存在する実体は悪霊だけであって,悪霊以外のものはすべて悪霊の様態である,つまり僕たち人間も,神の様態などではなくて悪霊の様態であるという意味のことをいいたいのだと佐藤は解しているわけです。つまりスピノザの汎神論に対していえば,スタヴローギンは汎悪霊論を主張していると佐藤はみているわけです。
 スピノザの哲学を解釈する立場からみれば,この解釈はまるで成立しません。しかしそれは哲学的観点なのでまた別に考察します。哲学的には成立しませんが,文学評論としては成立するといえるでしょう。一般的には神と悪霊は相対立するものと考えられているのであって,汎神論というものが成立するのであれば,汎悪霊論というのも成立するとはいえるからです。そして人間が神の様態であるのかそれとも悪霊の様態であるのかという問いは,神と悪霊をそのような関係として解する限りでは文学的にも十分にあり得る問いだといえるからです。

 virtusの規準は自分自身にあるわけですが,だからスピノザの哲学においては人間に共通の徳というものがないのかといえば,そういうわけではありません。これは再三にわたっていっていることですが,第四部定理三五にあるように,理性ratioに従っている限りではすべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致するからです。したがって,たとえばAという人間が現実的に存在するとして,Aの徳の規準はA自身ではありますが,その徳の第一にして唯一の基礎であるAのコナトゥスconatusは,たとえばその他の人間であるBが理性に従っている限りでは,Bのコナトゥスに一致するでしょう。このことが現実的に存在するすべての人間に妥当するわけですから,現実的に存在する人間のコナトゥスは,人間が理性に従っている限りでは一致することになり,したがって徳の何たるかも一致することになるのです。第四部定理四系は,こうしたことが現実的に生じるということについては否定しているといわなければなりませんが,少なくとも論理的には,すべての人間にとって共通の徳があるということになります。
 ただし,このことは,主体の排除と関連させていわれると僕は考えます。すなわち,理性に従って事物を認識すれば,だれがそれを認識しても同一の認識cognitioに至るので,だれが認識しているかを問うことは無用であるというのと同じ意味で,人間に共通の徳は,だれが認識しても同じ徳であるからだれが認識しているか問う必要はないという観点から,人間に共通の徳があると結論されるべきだというのが僕の見解opinioです。なぜなら,理性に従うということ自体が徳であるという前提が,スピノザの哲学にはあるからです。これは第四部定義八から明らかであって,この定義Definitioからして,たとえば現実的に存在する人間が受動的な欲望cupiditasに隷属しているならその人間は有徳的であるといえないということになるでしょう。これは第四部定理二三で次のようにいわれています。
 「人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは,有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識〔妥当な認識〕することによって行動するように決定される限りにおいてのみそう言われる」。
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書簡八十二&徳の規準

2024-07-17 19:25:32 | 哲学
 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが最後にスピノザに出した手紙が書簡八十二です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。1676年6月23日付でパリから出されました。この時点ではライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもまだパリにいたのではないかと推定されます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではチルンハウスがライプニッツのために,シュラーGeorg Hermann Schullerに対する紹介状を書いたことになっていて,それはたぶんライプニッツがパリを発つ時点でチルンハウスがパリにいたということを意味していると僕は解します。チルンハウスが所持していた『エチカ』の草稿がステノNicola Stenoの手に渡ったのはローマでのことですから,その後でステノがパリを離れたことは間違いないと思われます。
                                        
 チルンハウスはこの書簡ではひとつの質問をしています。これは,どのようにして延長Extensioの概念conceptusから事物の多様性がアプリオリに証明されるのかというものです。チルンハウスはスピノザがそのことについて何か考えをもっているのだけれども,そのことを証明したことがないので,それを知りたいと思ったのです。ただ前もっていっておけば,スピノザはそのような仕方で事物の多様性が証明され得るというようには考えていません。そう考えていたのはデカルトRené Descartesで,しかしデカルトは,そのことは人間が認識できる事柄を超越しているのだとして,なぜそうなるのかということの証明Demonstratioはしていません。スピノザは,事物の多様性を証明するためにはデカルトのような方法methodusでは不可能であるというように考えていたのであって,この質問に関しては,チルンハウスがデカルトの見解opinioとスピノザの見解を混同しているといえそうです。
 チルンハウスはそれを知りたい理由として,ある事物の本性essentiaからはひとつの特質proprietasだけが導出されるからだとしています。つまりひとつの事物の本性から多様な事物が特質として導かれることはあり得ないとチルンハウスは考えているのです。このことをチルンハウスは数学的な観点から説明しています。ある特定の事物の本性から多数の特質が導出されるということが,たとえばどのようなことであるのかということをチルンハウスは知りたかったということになります。

 國分の検討を順序立てて追っていく前に,今回は僕の方から前もって簡単な結論を示しておきます。スピノザの道徳論の第一の規準となるものは何かといえば,それは自分自身です。このことを僕は次のような論理に訴求します。
 第四部定理二二系で,virtusの第一にして唯一の基礎はコナトゥスconatusであるといわれています。これは一般論としてそういわれていて,後でみるように実際にそう解釈することも可能ですが,一方で一般論として解するのは危険な面を含んでいます。というのも,コナトゥスというのは第三部定理七でいわれているように,各々の事物の現実的本性actualem essentiamを構成するからです。したがって,Aの現実的本性とBの現実的本性が異なる分だけ,AのコナトゥスとBのコナトゥスは異なるといわなければなりません。したがって第四部定理二二系でいわれていることは,Aの徳の第一にして唯一の基礎はAのコナトゥスであり,Bの徳の第一にして唯一の基礎はBのコナトゥスであるというように解しておく方が安全です。AのコナトゥスとBのコナトゥスは異なるので,Aの徳とBの徳もその分だけ異なるということになり,これは結局のところ,現実的に存在する人間の数だけ徳があるということになってしまうのですが,徳の第一にして唯一の基礎がコナトゥスであるといわれている以上,このように解釈しておく方が間違いは起こりにくいでしょう。
 第四部定理二五は,ほかのもののためつまり自分以外のもののためにコナトゥスを発揮することはないといっています。したがって徳の唯一にして第一の基礎であるコナトゥスは,その人のためにのみ発揮されます。すなわちAのコナトゥスはAのためにのみ働くagereコナトゥスであって,BのコナトゥスはBのためにのみ働くコナトゥスです。したがって,Aの徳はAのために働くコナトゥスを第一にして唯一の基礎とするのですから,Aの徳の基礎はA自身であるというのと同じです。このことはBにとっても同様で,現実的に存在するすべての人間に同様であるということになるでしょう。これはつまり,徳の第一にして唯一の基礎は,現実的に存在する人間にとって,その人間自身であるということになるでしょう。
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サマーナイトフェスティバル&目的

2024-07-16 19:29:47 | 競輪
 松戸競輪場で開催された昨晩の第20回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは真杉‐吉田の栃木茨城,北井‐郡司‐松谷の神奈川,脇本‐古性の近畿で新田と山口は単騎。
 古性がスタートを取って脇本の前受け。3番手に真杉,5番手に山口,6番手に北井,最後尾に新田で周回。残り3周のホームの出口から北井が上昇を開始。脇本は突っ張りましたが,ホームに戻って北井が叩いて先行。ただ叩くまでに時間が掛かったので,郡司が古性に阻まれ,単騎の先行に。古性に阻まれた郡司は真杉にも飛ばされてレースから脱落。残り1周のホームに戻ってから脇本が発進。ただ北井との先行争いで脚を使っていたためそれほどスピードが上がらず,このラインの後ろを追走した真杉がバックから捲っていくとあっさり捲り切り,そのまま優勝。古性の牽制を乗り越えたマークの吉田が4分の3車身差の2着に続いて栃木茨城のワンツー。後方からの捲り追い込みになった新田が外から4分の3車輪差で3着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は西武園記念以来の優勝。ビッグは競輪祭以来の3勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。このレースは北井の先行意欲が最も高そうでした。脇本が前受けしたのは,北井が抑えに来たら突っ張るという心積もりがあったからで,実際に激しい先行争いになりました。このために神奈川勢と近畿勢が共倒れのようなレースになり,その争いを虎視眈々とみていた真杉によい展開となったということでしょう。北井はレースのパターンが限られていますから,相手が対応しようとするのはそれほど難しいことではありません。その対応がどのようなものになるかによって,レースの展開は変わり,その変化に応じて結果も変わってくることになるでしょう。各選手がどのようなレースをするつもりであるのかということを読み切ることは,車券を的中させるための重要な要素のひとつですが,その比重が大きくなりつつあるように感じます。

 ここでもう一度,第四部定義七の文言に注目してみましょう。そこでいわれているのは,我々をしてあることをなさしめる目的finisが衝動appetitusであるということです。ところが,実際には衝動いうものが先にあるのであって,目的が先にあるのではありません。つまりこの定理Propositioでいわれているのは,僕たちに何かをする目的というものがあって,それを衝動というという意味ではないのです。そうではなく,僕たちが何かをなすときに,それをなす目的があるというように意識したら,その目的が衝動であるということです。つまり僕たちは衝動を意識するとそれを目的と認識するcognoscereようになるから,もしも目的が意識されるならそれは衝動のことであるといわれているのです。つまりこの衝動の定義Definitioは,國分のいい方に倣うなら,僕たちの意識conscientiaの転倒を利用したような定義であることになります。なので,この意味において目的は元来は衝動であるということになるのですが,衝動は本来的には目的ではありません。単に目的であると意識される,もっといえば目的であると錯覚されているだけなのです。そしてそうした意味がこの定義に中に含まれている限り,この定義は確かに國分が指摘している通り,目的論批判の文脈が含まれているといえるでしょう。ここでいわれている目的というのは,意識化された衝動そのものであって,それが目的という別の概念notioに錯覚されているだけだからです。よって僕たちは何らかの目的があるからそれに向かって衝動を感じるのではありません。それはこの定義の解釈としてははっきり誤謬errorであるといわなければなりません。僕たちはある事物に衝動を感じるから,その事物を自身にとっての目的であると思うようになるのです。
                                   
 この部分の考察はここまでです。また次の課題の探求に移ります。
 やはり第六章において,スピノザの道徳論に類することが説明されています。これは,『はじめてのスピノザ』の中でも語られていた,第四部定理五九の殴打という行為についての考察と重複する部分があるのですが,入門書の『はじめてのスピノザ』よりも当然ながら詳しくまた深く検討されていますから,ここでまたより詳しく探求し直すことにします。
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農林水産大臣賞典マーキュリーカップ&目的の定義

2024-07-15 18:59:34 | 地方競馬
 メイセイオペラ記念の第28回マーキュリーカップ
 先手を奪いにいったのはメイショウフンジンとヒロシクン。メイショウフンジンは行き脚がつかず,ヒロシクンの逃げに。外から上がってきたクラウンプライドが2番手になり3番手にもグランコージー。メイショウフンジンはインの4番手となりました。2馬身差でアラジンバローズ。6番手にパワーブローキング。7番手にロードアヴニール。8番手にケイアイパープル。9番手にギガキング。2馬身差でグローリグローリとテンカハル。2馬身差でスワーヴアラミス。ビヨンドザファザーとフレイムウィングスが最後尾を追走。超ハイペースでした。
 3コーナーからヒロシクンとクラウンプライドで3番手以下を離していき,コーナーの途中でヒロシクンも一杯になりクラウンプライドが単独の先頭に。直線の入口ではリードが3馬身くらいになり,追い上げてきたのはロードアヴニールとテンカハル。2番手の競り合いから抜け出したのは内のロードアヴニールで,そのまま内からクラウンプライドに接近。さらに外からビヨンドザファザーが追い込んできて3頭の優勝争い。きわどく残したクラウンプライドが優勝。最後尾からの追い込みになった外のビヨンドザファザーがハナ差で2着。ロードアヴニールはクビ差の3着。
 優勝したクラウンプライドコリアカップ以来の優勝で重賞3勝目。国内の重賞は初制覇となりました。実績と近況を踏まえると負けられないといっていいくらいのメンバー構成。超ハイペースを2番手で追走し,最終コーナーで先頭に立って追い上げを凌いだという内容は強かったですが,2着馬も3着馬も上昇馬だったことを考えると,斤量差があったとはいえあまり着差をつけられなかったことをむしろ不満に感じます。たぶんもう少し短い距離の方が本質的には適しているのだろうとは思うのですが,今日の内容では大レースに手が届くところまでいくのは難しいかもしれないと思わされました。父は2009年のきさらぎ賞と2010年のマイラーズカップを勝ったリーチザクラウンでその父がスペシャルウィーク。母の父はキングカメハメハ。祖母の父はアグネスタキオン。母の3つ上の半姉が2012年にロジータ記念を勝ったエミーズパラダイスで5つ下の半妹が昨年の福島記念を勝ったホウオウエミーズ
 騎乗した横山武史騎手と管理している新谷功一調教師はマーキュリーカップ初勝利。

 第三部定理九備考では,僕たちは善bonumであるがゆえにそのものに衝動appetitusを有するのではなく,あるものに対して衝動を有するがゆえにそのものを善と判断するといわれています。國分は衝動についてはこのことによって理解し,第四部定義七でいわれているのは,衝動によって善と判断されるものが目的finisとして意識されるということだといっています。僕たちが個々の衝動を感じるのは,何らかの原因causaに依拠するわけですが,それがどのようなものであれ,諸々の原因によって僕たちのうちに何らかの事物を希求する衝動が現れると,そのように希求された事物が自分自身にとって善なる目的として意識されるようになるというのが國分の見解opinioということです。したがって,第四部定義七というのは,衝動についての定義Definitioといわなければならないのですが,國分にとっては衝動の定義というよりは目的の定義なのであって,実際に國分はこの定義のことを,目的の定義であるといっています。
                                   
 第四部定義七をそれ自体で目的の定義であるということには無理があると僕は考えます。解するintelligereというのはスピノザによる事物の定義の仕方のひとつなのであって,これはXであるところのものをYというという命題がYについての定義であるといわれるのと同じ意味で,XをYと解するというのはYの定義であると僕は考えるからです。スピノザが書簡九でいっているところによれば,十分に理解することができればよい定義といわれる意味で,事物のよい定義ということになるでしょう。そしてこの定義で解するといわれているのは衝動なのですから,この定義は衝動の定義というほかないと僕は考えます。
 ただしこの定義が,スピノザが目的という場合の,僕たちにとっての目的というものがいかに発生するのかということを示しているということについては,僕は同意します。そして事物の発生を含むということは事物がよい定義であるための条件のひとつを構成するのですから,その意味でこの定義を目的の定義,とりわけ僕たちの知性intellectusのうちに目的という概念notioがいかにして発生するのかということを意味で目的の定義であるということが,絶対にできないというようには僕は考えません。
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印象的な将棋⑲-11&第一部定理三三備考二

2024-07-14 19:19:25 | 将棋
 ⑲-10の第1図の☗3一角は,40分の考慮で指された手です。そこから☗5四金まではおそらく先手の読み筋通りの進行。その後の後手の攻め方は絶対とはいえません。おそらく絶対手の☗8八同金に最後の1分を使っていますので,第2図は想定のひとつではあったかもしれませんが,本命ではなかったのではないかと推測します。
 まず考えなければならないのは,第2図で後手玉が詰むか否かということ。詰ましにいくなら☗5三金です。
                                        
 ☖同飛☗同角成☖同王☗5二飛☖4三王☗4四銀☖同王☗4二飛成と進めます。
 この局面で合駒を打つと後手玉は詰みます。なので後手は☖4三銀と引くのが最善。
 先手にはふたつの手段がありますが,☗4五銀と取るのは☖同王☗4三龍☖4四金でこれは明らかに詰みません。なので☗3五銀打とします。これには☖5四王☗5五銀☖同王☗5三龍まで必然の手順。
 これで絶体絶命に思えるのですが,☖5四角という合駒があります。☗4四銀☖5六王で第2図。
                                        
 ☗5七歩は打ち歩詰めですから打てません。しかし角を取っても5七に打つのは王手になりません。つまりこれで後手玉は詰みを逃れています。よって⑱-10の第2図の後手玉に即詰みはありません。

 Deusを善bonumという目的finisに従属させてしまうことを,スピノザは第一部定理三三備考二の中で次のようにいっています。
 「これはまったく神を運命に従属させるのにほかならぬのであって,我々が示したように万物の本質ならびに存在の第一にして唯一の自由原因たる神についてこれ以上不条理な主張はあり得ない」。
 このいい方から,神が自由意志voluntas liberaによって働くagereという主張が,神が善意によってすべてのことをなすという主張ほど間違っていないとスピノザがいう理由が分かるでしょう。神が自由意志によって働くのであれば,神は唯一の自由原因causa liberaではあり得るでしょうし,万物の本性essentiaならびに存在existentiaの原因でもあり得るでしょう。しかし神が善意によってすべてのことをなすというのであれば,神は善である事柄の原因ではあり得ても悪malumである事柄の原因ではあり得ないというか,そうでなければ全体的に最善であるものだけを選択し,それ以外は選択し得ないといわなければならないかのどちらかであって,どちらの場合も神が自由原因であるということはできなくなってしまうからです。
 このように,スピノザは『エチカ』の中で,目的というのを概念conceptusとして神のうちから排除しようとしています。そしてこの神は自然Naturaと変わらないものなのですから,それは自然のうちから目的の概念を排除しようとしているというのと同じことです。いい換えれば目的なるものは自然のうちに存在するのではなくて,僕たちが思惟の様態cogitandi modiとして,しかも混乱した観念idea inadaequataとして作出するものであるとスピノザはいっているのです。
 このことを踏まえて第四部定義七をみてみると,そこでは衝動appetitusを定義するにあたって,目的という語が使用されています。なぜここで衝動を定義するにあたって,それを我々をしてあることをなさしめる目的というようにスピノザはいっているのかということを,『スピノザー読む人の肖像』の中で國分が検討しているのです。そしてこれを國分は,ここまで説明してきたスピノザによる目的論批判の観点から説明しています。これが僕には斬新な視点でした。この定義の中にも目的論に対する批判が含まれているというようには,僕は考えたことがなかったからです。
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