スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

加古川青流戦&書簡

2024-10-24 19:14:46 | 将棋
 14日の午前に鶴林寺で指された第14回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 上野裕寿四段の先手で矢倉。後手の岡部怜央四段は中住い。この将棋は後手の攻めが決まって優勢になりました。
                            
 第1図は後手にとって岐路の局面。☖3八角成と飛車を取って☗8一角成に☖4三銀と受けに回るのが手堅く,それが最善だったようです。
 実戦は☖6七同角成と取りました。これでも後手の優勢なのですが,先手玉が一気に寄るわけではないので局面が複雑化することに。
 ☗6七同玉☖8七飛成は一本道。先手はそこで☗3六飛と成銀を取りました。
                            
 後手は☖5四角成から攻め合ってくると読んでいたようで,この手は読みになかったとのこと。☖7八銀から攻めていきましたが,これが王手は追う手の格言通りで先手玉を逃がすことになり逆転しました。第2図では☖4三金右と受けに回らなければいけませんでした。
 連勝で上野四段の優勝。昨年の新人王戦以来の2度目の棋戦優勝となりました。

 『スピノザ往復書簡集Epistolae』では,書簡四十一が1669年9月5日付になっていて,これはフォールブルフVoorburgから出されています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死ぬ少し前のものです。次の書簡四十二フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の要約をオーステンスJacob Ostensに送ったもので,これは1671年1月24日付です。スピノザはオーステンスを介してこの手紙を読み,フェルトホイゼンに対する反論をオーステンスに送ったのですが,この書簡四十三には日付がありません。書簡四十四は1671年2月17日付でハーグDen Haagから送られています。現行の『スピノザ往復書簡集』は時系列で番号が付せられていますので,書簡四十三は書簡四十四より前で,書簡四十二への返信ですからそれより後です。なので1671年1月後半から2月中旬までに送られていたとみるべきでしょう。
 これでみると分かるように,船旅が実施されたと考えられる1670年の書簡というのはありません。これは単に掲載するほどの書簡が存在しなかったからかもしれませんが,別の事情が考えられないわけでもありません。というのは書簡四十二と書簡四十三が『神学・政治論』に関係しているように,『神学・政治論』が発行されたのが1670年だったのです。スピノザが執筆していたのはフォールブルフに滞在していた頃です。というのも1670年の初めには発行されていますので,実際に執筆していたのはそれより前の筈だからです。スピノザはこの発行のタイミングでフォールブルフからハーグへ移ったのですが,この移住が出版と何らかの関係を有していたかもしれません。いずれにせよ匿名で発行されたわけですが,執筆者がスピノザであるということはすぐに噂として流布しましたので,スピノザが思想信条を明らかにするような書簡を書くことを控えていたという可能性があるのです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,『神学・政治論』と直接的に関係させているわけではありませんが,1667年3月から1671年1月までのスピノザが少ないことについて,当局の圧迫や監視を理由のひとつとして挙げています。そしてもうひとつの理由が,『神学・政治論』の執筆による多忙となっています。
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埼玉新聞杯埼玉新聞栄冠賞&船旅

2024-10-23 18:54:17 | 地方競馬
 第34回埼玉新聞栄冠賞。御神本騎手が体調不良でデスティネはライアン・クアトロ騎手に変更。
 ナニハサテオキは発馬のタイミングが合わず1馬身の不利。ヒーローコールが前に出てカイル,ラッキードリームの順。2馬身差でパワーブローキングとユアヒストリーとアイブランコ。ナニハサテオキがその後ろまで巻き返し,デスティネ,ホウオウトゥルース,ゴールドハイアーの順で発馬後の向正面を通過。ナニハサテオキはそのまま上昇していき,正面ではヒーローコール,カイル,ナニハサテオキが並び2列目にラッキードリームとアイブランコとデスティネ。3列目にパワーブローキングとユアヒストリー。ゴールドハイアーが9番手に上がり少し離れた最後尾にホウオウトゥルースとなりました。前半の1000mは65秒6のスローペース。
 2周目の向正面で前の3頭が4番手以下に2馬身くらいの差をつけました。3コーナーで外からナニハサテオキが前に出たところでカイルは後退。ヒーローコールが内からまた巻き返していきましたが,直線の入口でまたナニハサテオキが前に出て,そのまま抜け出して優勝。ヒーローコールが直線で一杯になったので早めに追い上げてきたユアヒストリーが差し込んで2馬身半差の2着。一旦は位置を下げ,後から追い上げてきたパワーブローキングがさらに外から伸びて半馬身差の3着。ヒーローコールは1馬身差で4着。
 優勝したナニハサテオキフリオーソレジェンドカップ以来の勝利で南関東重賞2勝目。その後の日本テレビ盃でも4着に健闘していましたのでこのメンバーでは大本命。発馬で不利がありましたが,ペースが緩かったのでそれほど無理なく前につけることができました。逃げたヒーローコールも力はある馬ですが,それを競り潰す形でしたので,内容も文句なしだったと思います。まだ5歳ですから,しばらくは大崩れなく走れるのではないでしょうか。父はジャングルポケット
 騎乗した船橋の森泰斗騎手はフリオーソレジェンドカップ以来の南関東重賞63勝目。第23回,28回に続く6年ぶりの埼玉新聞栄冠賞3勝目。管理している浦和の平山真希調教師は南関東重賞3勝目。埼玉新聞栄冠賞は初勝利。

 『Βάτραχοι』のプロットは大筋を簡潔に紹介しただけなので,ここからは詳しくみていきます。
                            
 時期が特定されていませんが,ファン・ローンJoanis van LoonがコンスタンティンConstantijin Huygensの別荘で襲われた病気から恢復した直後とされています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死んだのは1669年10月4日です。ここでいわれている病気は,レンブラントの死後のローンの鬱状態のことを指すのは間違いありません。ローンはスピノザのアドバイスでレンブラントとのことを書いた設定で,1670年4月に効果が現れたという主旨のことを書いていますので,1670年になってから,たぶん4月か5月ではなかったかと想定されます。スピノザがレインスブルフRijnsburgからフォールブルフVoorburgに移住したのは1663年で,フォールブルフからハーグDen Haagに移住したのは遅くとも1670年の初めです。ですからコンスタンティンとスピノザはすでに知己になっていたのは間違いありません。ただスピノザはこの時点ではフォールブルフに住んでいたわけではないと想定されます。ただしフォールブルフとハーグは隣接しているので,それほど遠いわけではないです。
 コンスタンティンの提案で,ファン・ローンに気晴らしをさせるために,船旅をしたことになっています。全体のプロットは,コンスタンティンがファン・ローンの身を案じてスピノザに会うように助言したことになっていますから,コンスタンティンがそう提案をすること自体は,ストーリーの全体の中で不自然ではありません。目的地はホウダGoudaという町であったとされています。この町は水運で栄えた町とされていますので,そこへ船旅をするというのも不自然な設定であるとは思えないです。一行は6人となっていて,これはコンスタンティン,ファン・ローン,スピノザを含めていると思われますので,ほかに3人が乗船していたということでしょう。前にもいったように,この船旅の時期にはスピノザはフォールブルフには住んでいなかったと思われるのですが,ファン・ローンの気晴らしのための旅にコンスタンティガスピノザを招待するのは不自然ではなく,ハーグとフォールブルフも遠くはないので,スピノザが受けることも可能ではあったでしょう。
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加古川青流戦&脚色

2024-10-22 19:11:42 | 将棋
 13日に鶴林寺で指された第14回加古川青流戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は岡部怜央四段が0勝,上野裕寿四段が2勝。
 加古川市長による振駒で岡部四段の先手となり角換り。先手の腰掛銀に後手の上野四段の早繰り銀。この将棋は中盤で千日手となりました。
 上野四段が先手になっての指し直し局は後手の岡部四段の一手損角換り1-Ⅱ。先手の早繰り銀に後手の腰掛銀に。この将棋は先手の端攻めが甘かったために後手が優勢になりました。
                            
 先手が金を打ったところ。先手が苦しいのですがこの局面では最善の粘り。しかし後手の読みにはなかったようです。
 ☖7七桂成と攻めていきました。☗同玉に☖5七馬ですが☗6四金と飛車を取られました。☖7五銀と上から押さえたところで☗3一銀。
                            
 これを☖同玉は☗7一飛,☖同金は☗7二飛で銀を抜かれ,駒が少ない後手に勝ち目はありません。なので☖1二王と逃げましたが☗2四桂からの追撃が厳しく先手の勝ちになりました。
 第1図から攻めていったのが敗着で,飛車を引いておけばまだ後手に分があったようです。
 上野四段が先勝。第二局は14日の午前に指されました。

 それが脚色であるとすれば,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが意図したような脚色になっていないということは,それがヘンドリック自身による純然たる脚色ではないからだと僕は判断します。いい換えればヘンドリックは何らかの資料にはあたっているのであって,その資料にそうしたことが書かれているから,ヘンドリックもそのように書いたのだと判断します。そしてその資料というのは,ファン・ローンJoanis van Loonが書き残したものであったとしか考えられません。そもそも自身の9代前の先祖が書いたものだという設定でヘンドリックが何かを書くということ自体が不自然なのであって,実際にファン・ローンが書き残したものをヘンドリックが入手したから,ヘンドリックはそれを書こうとしたとする方が自然なのではないでしょうか。
 ですから,ファン・ローンが何かを書いていた,それも『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の基になるものを書いていたことは間違いないと思います。ヘンドリックがそれを正しく全訳しているかどうかは分かりませんが,ヘンドリックが出版したものの中には,ファン・ローンが書いたものの残骸は間違いなく残っているのであって,ファン・ローンは出版する意図があってそれを書いているとは必ずしもいえませんから,読者に喜んでもらうような脚色を加える必要はありません。もちろんファン・ローンの記憶が確かであるとは断定できませんから,ファン・ローンが史実と異なったことを書いているという可能性は考慮しなければなりませんが,たとえばファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが船の模型をもってきたというようなことは,記憶として鮮明に残る筈なので,実際に書かれていてヘンドリックがそれを誤訳をしていない限り,そのことは実際にあった出来事だと判断していいように思えます。同様に,スピノザがロープで作ったかつらをかぶったというようなことも,記憶違いとして生じるようなことだとは思えませんから,それは同じ条件の下に実際にあったのではないかと思えます。
 このことをさらに強化するために,『Βάτραχοι』のプロットというのは,その大筋からして信憑性を疑わせるものとなっているけれども,それは真実であったとしてもおかしくはなかったということを示していきます。
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寛仁親王牌・世界選手権記念&ヘンドリックの意図

2024-10-21 18:57:40 | 競輪
 弥彦競輪場で開催された昨日の第33回寛仁親王牌の決勝。並びは新山‐渡部の北日本,郡司‐小原の神奈川,寺崎‐脇本‐古性の近畿で佐々木と河端は単騎。
 古性がスタートを取って寺崎の前受け。4番手に郡司。その後ろが佐々木と新山の取り合いになりましたが,新山が譲って6番手に佐々木で7番手に新山。最後尾に河端で周回。残り3周のバックに入ると寺崎が誘導との車間を開け始めました。バックを出るとさらにスピードを落として後方を牽制。新山がコーナーから発進すると寺崎も突っ張りました。新山は脇本の外に併走して打鐘。その後ろは内外が入れ替わり,内に渡部で外が古性の併走に。ホームに戻って寺崎の番手は脇本が守りました。ここから郡司が発進。新山が下がった影響で小原が続けず,単騎に。しかしこの動きで脇本がインに包まれてしまい,そのまま郡司が寺崎を捲ったので古性が郡司にスイッチ。追い上げてきたのが佐々木で,それを郡司自身がブロック。このためにインが空き,そこを突いた古性が直線で先頭に立って優勝。郡司から離れたので古性マークになった小原が1車身差で2着。佐々木の動きに乗って大外を追い込んだ河端が4分の3車身差で3着。郡司の牽制を受けてから立て直した佐々木が4分の1車輪差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は8月末からの富山記念以来の優勝。ビッグはオールスター競輪以来で9勝目。寛仁親王牌は昨年が完全優勝でしたので連覇となる2勝目。このレースは寺崎の先行が有力なので,脇本と古性の優勝争いとみていました。新山が叩きにいって脇本の外で併走になるというのは意外な展開でしたが,番手は守れましたので,そこまではよかったと思います。郡司が上がってきたとき脇本は発進するべきだったのですが,内に入ってしまったので不発に。もしかしたらこのようなケースでは寺崎が郡司を牽制するために外に行き,内が空くという作戦があったのかもしれませんが,そうとでも考えないと不可解ではありました。古性はそこで機敏に郡司を追ったのが優勝の要因でしょう。郡司が自身で牽制にいったのでインが空いたのはラッキーでしたが,このラッキーがなくても優勝だったのではないかと思います。レース自体はとても激しく,面白いものでした。

 設定自体が不自然ではなく,大筋のプロットに対する肉付け部分の説明が真実らしく思われないというのは,その作品が創作物であるということを強化する要素になります。しかし僕の考えでは,まさにこの点が,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』が純粋な創作物であるということを疑わしくさせるのです。その理由は,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの純粋な創作物であると仮定したときに,ヘンドリックがそれをどのような意図で著したのかということと関係します。
                            
 ヘンドリックはこれを,自身の先祖に当たるファン・ローンJoanis van Loonが書いたものであるとして,それを自身が翻訳したとしています。つまり,実際の著者はファン・ローンで,ヘンドリックではないという前提で,ヘンドリックはこれを発刊しています。そしてファン・ローンが書いたとされているのが,『レンブラントの生涯と時代』です。したがってその内容はファン・ローンが見聞きしたことであって,ファン・ローンが見聞きしたことである以上,それは史実であるということもまた前提されているとしなければなりません。
 このような前提でこれをヘンドリックが書いたのだとしたら,ヘンドリックはその内容をリアルなものとして書くことになるでしょう。前提がリアルな史実であるということなのですから,内容もまたそうしたものとして創作しなければなりません。もちろんこうした創作の中にはいくらかの脚色が入りますが,そうした脚色というのは作品の内容が史実であるということを失わせるようなものとなることはあり得ず,むしろそれを強化するものにならなければおかしいのです。ところが実際は,それが脚色であるとすれば,リアルな出来事であったということを失わせるような脚色が多く入り込んでいるのです。これは単にヘンドリックが作家として無能であったというか,そうでなければ実際にはそれは脚色ではなく,ヘンドリックが実際にあたった資料に,そのままではないとしてもそれに近いことが書かれていたからかのどちらかでなければなりません。しかしヘンドリックは吉田がいうように,職業作家として生きていたのですから,作家として無能であったということはできないでしょう。
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菊花賞&設定

2024-10-20 19:08:12 | 中央競馬
 第85回菊花賞。川田将雅騎手が昨日の東京の3レースの終了後に落馬をして頭部を負傷したためメリオーレムは藤岡佑介騎手に変更。
 ピースワンデュック,ビザンチンドリーム,コスモキュランダの3頭は発馬で1馬身ほどの不利。エコロヴァルツが逃げて2馬身ほどのリード。ノーブルスカイが2番手で3番手にミスタージーティーで発馬後の向正面を通過。発馬で不利があったピースワンデュックが徐々に上昇していき,2周目の正面に入るところで先頭に。ついていったメイショウタバルとノーブルスカイが2番手で4番手にシュバルツクーゲル。5番手にミスタージーティーという先行集団に。2馬身差で控えたエコロヴァルツとウエストナウとアーバンシック。9番手にアドマイヤテラ。10番手にショウナンラプンタとメリオーレム。12番手にダノンデサイルとヘデントール。14番手にハヤテノフクノスケとビザンチンドリームとコスモキュランダ。2馬身差でアレグロブリランテ。2馬身差の最後尾にアスクカムオンモア。最初の1000mは62秒0の超スローペース。
 向正面からアドマイヤテラが外を上昇したので先行集団から前に出たシュバルツクーゲルとアドマイヤテラが並んで3コーナーへ。アーバンシックが3番手に上がり内からショウナンラプンタで外からはヘデントール。直線に入るとアドマイヤテラが単独の先頭に。それを追っていたアーバンシックが差して前に出るとそこからは抜け出して快勝。内目を回ったショウナンラプンタ,一旦先頭のアドマイヤテラ,外を回ったヘデントール,大外を伸びたビザンチンドリームの4頭で2着争い。ヘデントールが2馬身半差の2着。アドマイヤテラがハナ差の3着でショウナンラプンタがクビ差の4着。ビザンチンドリームがクビ差で5着。
 優勝したアーバンシックは前哨戦のセントライト記念から連勝。重賞2勝目で大レース初制覇。デビューから連勝した後,京成杯で2着に入ってクラシックへ。皐月賞は4着,ダービーは11着でした。休養明け初戦となったのが前走のセントライト記念で,これが鮮やかな勝利。春よりも力をつけているのは明白で,ローテーションや過去の菊花賞の傾向から最有力ではないかと思っていました。接戦となった2着争いを尻目にしての快勝で,これは距離適性の分もあったかもしれません。今後も大崩れはなく走れる馬だと思います。父はスワーヴリチャード。3代母がウインドインハーヘア桜花賞を勝ったステレンボッシュは従姉,昨年のホープフルステークスを勝ったレガレイラは従妹になります。Urban Chicは洗練された。
                            
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は先週の秋華賞に続く大レース制覇。第77回,79回,84回に続き連覇で菊花賞4勝目。管理している武井亮調教師は2016年の全日本2歳優駿以来の大レース2勝目。

 みっつのプロットの共通点として示しましたが,これは『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全体を貫いているといってもそれほど遠くありません。つまりこの作品は,真実とは思えないような多くのプロットと,そのディテールとして確かな史実という組み合わせで構成されているのです。そしてここが重要なのですが,このプロットの大筋が真実らしく思われないのが,そのプロットに対する細かい説明に含まれているのです。『Βάτραχοι』の場合は,同じところに滞在しなければならなかったので,『蛙』の劇めいたものを同行者で行ったということならあり得そうですが,それを本格的な劇として,金は取らなかったものとは思いますが,本格的な劇として客を呼んで見せたと書かれているから,かえって信憑性を失わせています。アメリカの場合は,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelが,アメリカにはユダヤ人がいるというくらいであれば,そのように言うこともあり得そうだと思えるのですが,それがまだアメリカが陸続きの時代のことだなどと言うから,信憑性を失ってしまうのです。そして模型のプロットは,金に困窮したファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが,砲火装置の新しいアイデアをもってきたというなら,あってもおかしくないと思えますが,船の模型まで創作していたなどと加えられているので,信憑性が失われることになっています。
 これら細かい部分が書かれていること自体は,不自然ではありません。ウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの部分はファン・ローンJoanis van Loonがその場にいたわけではないので,その場での会話があまりに詳しく書かれているのは,作品として不自然といわなければならないかもしれませんが,これらみっつの部分は,いずれもファン・ローンが同席していたわけですから,ファン・ローンが書いたものであるという設定を崩すようなものとはなっていないからです。つまり文学評論という観点からすれば,これらの部分は創作であったとしても不自然なものとはなっていないがゆえに,作品として成立しているということになります。よってこのことは,むしろ吉田がいっているように,この作品が完全な創作であるということを補強しているように見えるかもしれません。
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コーフィールドカップ&共通点

2024-10-19 19:09:59 | 海外競馬
 オーストラリアのコーフィールド競馬場で行われたコーフィールドカップGⅠ芝2400m。
 ワープスピードは最後尾からのレースになりました。先頭との差は10馬身から12馬身の前後でレースが進捗。最終コーナーのところで一旦は前から2馬身ほど離れた単独の最後尾となり,そこから追われました。直線の入口では馬群には取りついたものの位置は最後尾のまま。最後まで追われましたがばてた馬を差しただけの13着でした。
 後方からレースを進める馬なので,最後尾は意外でしたがレースの前半は後ろ目になったのは自然なところ。途中から動いていかなければ勝負にはならなかったのだと思いますが,もしかしたら馬あるいは馬場の状態でそういうレースができなかったのかもしれません。この距離は南半球の馬はそれほどレベルが高くないので,重賞を勝っていないこの馬にも通用の余地はあったと思うのですが,今日のレースだけでいえば,もっと距離があった方がよいようには感じます。

 ここまでに示してきた3つのプロットは,いくつかの共通点を有しています。
                            
 まず第一に,これらのプロットの大筋は,常識的に考えるといかにもフィクションのように感じられます
 『Βάτραχοι』のプロットは,たまたま船の故障で滞在せざるを得なくなった村で,そのような用意を何もしていなかった,演劇に関しては素人と思われる集団が,村人を集めて演劇の興行を行うということがあり得るようには思えません。アメリカのプロットは,ユダヤ人の学校ではスピノザの師匠に当たるメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelというユダヤ教会で高い位のラビが,アメリカがまだヨーロッパないしはアフリカと陸続きだった時代の話,聞いている人からすれば妄想としか思えなかったような話を,真実のこととして話すなどということがあり得るのか疑問を感じざるを得ないでしょう。模型のプロットでは,一介の教師であるファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが,戦艦の砲火装置に新しい工夫を考え出した上に,わざわざその模型を製作して,海軍省の人に売り込もうとするのはあまりに常識外れの行動だと思われます。つまりこれらのプロットの大筋は,史実というより創作であることを強く窺わせます。
 一方,これらのプロットのディテールには,世の中にはそれほど知られているとは思えないような,史実もまた含まれています。『蛙』のプロットではスピノザがヘブライ語で長い祈りを唱えたことになっていますが,これはスピノザがそれを知っていたということが前提です。もちろんスピノザはそういう教育を受けていましたからそれができたことになりますが,それが広く知られているかといえばそうでもないでしょう。アメリカのプロットではレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnがメナセ・ベン・イスラエルのエッチングを創作したといわれています。レンブラントはアムステルダムAmsterdamのユダヤ人街のすぐそばに住んでいたので,メナセに限らずユダヤ人を相手にそうしたものを数多く創作しているのですが,このことも広く知られている事実とはいえません。模型のプロットではファン・デン・エンデンが足の悪い娘がいると言っていますが,この史実はこれらの中でもとくに知られていないことだと思われます。
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ヒューリック杯白玲戦&模型のプロット

2024-10-18 18:54:48 | 将棋
 12日に京都で指された第4期白玲戦七番勝負第四局。
 西山朋佳白玲の先手で角道オープン三間飛車。先手から角を交換して相向飛車の相振飛車になりました。先手の金無双に後手の銀冠から攻め合いになり,後手に分のある分かれに。先手が入玉も含みに粘る将棋。
                            
 ここは先手の入玉がなくなり,後手が優勢。☖6六歩と取り込みました。これは☗同銀なら銀が確実に入手できるので後で☖1八銀と打つことができるという意味だったのではないかと思います。
 銀は渡せないので先手は☗同金と取りました。後手はそこで☖2四桂と打ちましたが,角も銀も持っていないのでこの時点では先手玉が詰めろになっていません。☗7五金☖同銀で角を入手して☗6五角と王手。合駒が無効なので☖9三玉と逃げましたが☗9五歩と突かれました。
                            
 第2図となっては先手勝勢。後手は角を取らせたのが失敗で,第1図ですぐに☖2四桂と打っておくべきでした。
 西山白玲が勝って2勝2敗。第五局は19日に指される予定でしたが,里見女流五冠の体調不良により不戦敗。西山白玲の3勝2敗となっての第六局は26日に指される予定になっています。

 最後のエピソードあるいはプロットは,1654年4月のものです。スピノザはまだユダヤ人共同体の一員で,破門宣告を受けていない時代のことです。
 在宅していたファン・ローンJoanis van Loonに,下女が外国人の紳士が面会を求めていると告げました。下女はあの頭のおかしな人の仲間だろうと告げています。そのおかしな人がだれを意味しているか不明ですが,こうした来客がファン・ローンには頻繁にあったのでしょう。ローンは面会したのですが,その外国人紳士というのはファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenです。
 エンデンは小さな船の模型を抱えていたのですが,これは発明品でした。戦争用の船籍で,軽装備で砲火角度を高める工夫がされていました。ただ,ローンはこのようなことには関心がなかったので,海軍省にもっていくのがよいだろうと助言しました。ところがエンデンはすでに3人の海軍参事官にそれを見せていたのですが,それを吟味しようとすらしなかったとされています。
 エンデンはこのアイデアを売りたかったのです。貧しい教師で,足が不自由な娘がひとりいるので,金が必要なのだと告げています。エンデンの娘はクララClara Maria van den Endenという名前で,後にケルクリングDick Kerkrinkと結婚しているのですが,確かに足が悪かったと伝えられています。そして,お門違いと思われるローンのところを訪問してこれを見せたのは,教え子のひとりからローンのことを聞いていて,助けてくれると思ったからだと言いました。この教え子というのはスピノザを意味するのですが,スピノザがエンデンに対してどのようにローンのことを伝え,その話のどの部分からエンデンがローンは自分を助けてくれるだろうと思ったのかはまったく書かれていないので不明です。
 この後で,エンデンがいっている教え子がスピノザを意味することがローンにも分かりました。ローンはローンでスピノザから,エンデンは平凡な律法学者やタルムードの教師60人に匹敵すると聞かされていたそうです。なおこの部分でエンデンはスピノザのことを,ポルトガル出のユダヤ人,あるいは単にポルトガル人と表現しています。スピノザの父はポルトガル出身ですが,スピノザに対する表現としてはやや謎です。
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東京スポーツ盃マイルグランプリ&アメリカのプロット

2024-10-17 19:04:57 | 地方競馬
 昨晩の第31回マイルグランプリ
 コパノジャッキーは発馬後の加速が鈍く1馬身の不利。まず先頭に立ったのはリコーシーウルフ。枠入りをやや嫌っていたアランバローズは2番手。3番手にデュードヴァンとスマイルウィ。5番手にナンセイホワイト。6番手にムエックスとボイラーハウスとモダスオペランディ。9番手にスピーディキック。2馬身差でイグザルト。11番手にフォーヴィスム。12番手にマンダリンヒーローとボンディマンシュ。3馬身差でマースインディ。15番手がケイアイサクソニーで2馬身差の最後尾にコパノジャッキー。向正面に入ってからアランバローズが前に出て,そこからはアランバローズの逃げになりました。前半の800mは50秒0のミドルペース。
 途中からの逃げになったアランバローズは先頭に立ってから飛ばしていき,3コーナーでは5馬身くらいのリード。デュードヴァンとスマイルウィが並んで追いかけていきました。アランバローズはリードを保ったまま直線に。デュードヴァンは苦しくなり外からスマイルウィが差を詰めていきました。直線の途中でアランバローズは一杯になったので,スマイルウィが差し切って優勝。スマイルウィの後から追ってきたナンセイホワイトのさらに外からムエックスが差し込み,1馬身4分の1差で2着。一杯となったアランバローズがクビ差の3着でナンセイホワイトが1馬身4分の1差で4着。
                    
 優勝したスマイルウィテレ玉杯オーバルスプリントから連勝。南関東重賞は昨年のゴールドカップ以来の7勝目。マイルグランプリは第30回からの連覇で2勝目。ここは上昇馬のムエックスを除くと力量上位が歴然。大外枠になったことが不安材料でしたが,まずまずの発馬から発馬後の直線の間に好位につけられましたので,問題ありませんでした。アランバローズが力を出し切るというレースに徹したため,レース内容のレベルが高くなり,その分だけ実力通りの結果になりやすく,その点はプラスに作用したのではないかと思います。着順と着差が現状の能力を概ね反映した結果とみてよいでしょう。父はエスポワールシチー
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は東京記念以来の南関東重賞42勝目。その後にテレ玉杯オーバルスプリントを勝ちました。マイルグランプリは第28回,30回に続く連覇で3勝目。管理している船橋の張田京調教師は南関東重賞16勝目。マイルグランプリは連覇で2勝目。

 ふたつ目は1642年の秋の出来事です。ひとつ目よりも前の出来事ですが,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』では後に書かれている,というか後に訳出されているので,この順番になっています。
 ファン・ローンJoanis van Loonが帰宅すると,レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnからの書付がありました。これはよく意味が分からないのですが,たぶんレンブラントがローンの家を訪ねたら,ローンは不在で家人がいたので,その家人にローン宛のメモを渡しておいたという意味ではないかと思います。そのメモの内容は,ローンと友人に,次の木曜日の夜に立ち寄ってほしいというものでした。見せたい絵があると書かれていますが,実際はこの後でアメリカに行く予定になっていたローンの送別会を開くのが主目的です。
 その日の夜の9時になってからローンは立ち寄りました。これはアントニー・ブレーストラートの家となっていて,これは地名を表しています。レンブラントの家はそこにあったのです。その場にメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがいたのです。レンブラントはメナセのエッチングを制作したことがあって,知己の間柄でした。ローンはメナセの話をレンブラントから聞いてはいたようですが,このときが初対面であったと読めるようになっています。
 ローンがアメリカに行くことを知ったメナセとの間でアメリカの話になるのですが,イスラエル民族の行方不明になった種族が,太平洋がまだ陸地だった時代にそこを渡って今日のアメリカの土地に住んでいるので,自分もできればローンのようにアメリカに行きたいのだけれども,神の民すなわちユダヤ人が荒野から出る時節にはまだなっていないので,行くことはできないという主旨のことを言いました。
 もちろんメナセは真面目にこのように言った,つまり真剣にそう信じてそう言っているのであり,そのことが理解できるように,つまりその場にいた人びとにも,読者にも理解できる書き方になっています。ローンはそれが妄想であると分かったけれども,どんな人間にもひとつくらいは妄想を大事にする権利があるのだし,社会で有用な一員となるためには一点で狂っていなければならないから,何も言わなかったとしています。
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別府市制100周年記念事業&蛙のプロット

2024-10-16 19:02:08 | 競輪
 14日の別府市制100周年記念事業別府ナイターの決勝。並びは杉森‐山崎の東日本,阿部‐大西‐小川‐園田‐坂本‐山口の九州で山本は単騎。
 阿部がスタートを取って前受け。7番手に山本,8番手に杉森で周回。残り3周のバックから杉森が徐に上昇。ホームで阿部と並びましたが阿部は引かず,突っ張ったので杉森が引いてまた8番手。そのまま打鐘となって阿部の先行。この流れに乗って山本が発進。ホームで大西の横までは上がりましたがそこで大西の牽制が入って失速。この後から発進した杉本が追ってきましたが,大西がバックから番手捲りで対抗。大西と杉森は踏み合いになりましたが踏み勝ったのは大西。大西が先頭で直線に向かうと番手の小川が差し込み,迫ったものの届かず,優勝は大西。小川が4分の1車輪差で2着。園田も4分の3車身差の3着に流れ込み,九州の上位独占。
 優勝した大分の大西貴晃選手はGⅢ初優勝。このレースは阿部の脚力が上位だったのですが,さすがにこの並びでは自分が勝つためのレースをするとは思えなかったので,大西と小川の優勝争いとなるのではないかとみていました。僕の予想通りの展開となり,両者の優勝争いに。格でいえば小川の方が上だと思いますが,阿部と大西は同じ大分で,しかも別府のレースであったのでこの並びに。その分で大西が有利になったということでしょう。

 『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』には,一読するだけでその信憑性を失わせるようなエピソード,創作であると仮定すればプロットが数多く含まれています。そしてそうしたものにはある共通の特徴が含まれています。ここからその代表的な部分として,三箇所を示します。スピノザに関連することがひとつで,スピノザと関連があったファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenおよびメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelに関連する部分がひとつずつです。このようにプロットの主人公を別にすることで,特徴というのがいかなるものかがよく理解できると思います。訳出されている順に紹介していきましょう。
                            
 ひとつ目は,おそらく1670年の4月ごろの出来事です。前述しておいた通り,ファン・ローンJoanis van LoonはコンスタンティンConstantijin Huygensの仲介でスピノザのアドバイスを受けたのですが,これは効果が出てきたころです。ローンはすでに恢復しつつあったので,コンスタンティンおよびスピノザも含めた6人の一行で旅行をしました。これは船での旅行で,コンスタンティンがローンに気晴らしをさせる目的であったとなっています。ところが出発して3時間もしないうちに,6人が乗ったヨットが故障してしまいました。これは突風のためだったとされています。
 そこで6人は小さな村に上陸し,ヨットを修理しなければならなくなったのですが,小さな村だったために資材の入手が困難であったため,そこで3日を過ごさなければなりませんでした。そしてその最後の晩に,その村の人たちを集めて,アリストファネスἈριστοφάνηςの『Βάτραχοι』という作品を,オランダの著名な劇作家の作品であるかのように上演したとなっています。このときにスピノザはロープ,というのは船のロープではないかと思われますが,ロープで急造した大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。劇中でスピノザはヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演し,ことばが分からない村人に対しては言語であるギリシア語だと説明し,村人はとても喜び,スピノザはアンコールに応えなければならないほどでした。
 これがひとつ目ですが,ここはスピノザと直接的に関係しますので,このエピソードに関しては後で別の観点から説明し直します。
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大阪・関西万博協賛競輪in川崎&第一の規準

2024-10-15 18:57:21 | 競輪
 昨日の大阪・関西万博協賛競輪in川崎の決勝。並びは佐々木‐和田‐福田‐鈴木の南関東,藤井‐山口富生の中部,北津留‐山口貴弘の九州で諸橋は単騎。
 山口貴弘がスタートを取って北津留の前受け。3番手に佐々木,7番手に藤井,最後尾に諸橋で周回。残り3周のバックの出口付近から藤井が上昇。これを佐々木が牽制したため,藤井は前に出られず,周回中の隊列のままバックに戻り,ここから佐々木が発進して打鐘で北津留を叩いて前に。引いた藤井も再び発進。ホームで佐々木を叩いて藤井の先行に。藤井と山口富生の間がやや開き,このラインを追った諸橋の後ろに和田がスイッチ。和田がバックから自力で発進。諸橋もそれを制するように踏み込むと,直線で諸橋と和田の間を突いた福田が抜けて優勝。外の和田が4分の3車輪差で2着。諸橋が4分の1車輪差で3着。
 優勝した神奈川の福田知也選手は一昨年10月の道後温泉杯争覇戦以来となるGⅢ2勝目。当時もそうでしたが今回も寛仁親王牌に出走しないメンバーでの争い。二段駆けが見込める和田が最有力でしたが,藤井が頑張ったためにそういう展開にはなりませんでした。それでも和田はうまくスイッチして自力で発進できたのですが,福田の差し脚が優ることに。藤井と山口富生の間がやや開いたのですが,そこが勝負のあやになったような気がします。

 『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』はスピノザを主題に据えた書物ですから,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全訳を掲載しなかったこと,いい換えればスピノザおよびスピノザと関係があった人物について書かれた部分だけを訳出したのは当然のことといえます。そして僕はその部分しか読んでいません。しかし主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnであるなら,内容の信憑性はレンブラントについて書かれている部分がどの程度まで史実に適合しているのかという観点から判断されるべきなのです。したがって本来的には,レンブラントの研究者がこれを精読して,どの程度まで信用に値するのかということを判断するのが好ましいといえるでしょう。
                            
 この本は実は全訳を読むことができるようにはなっています。とはいえ僕がそれを読んだところで,僕はレンブラントについては何もといっていいくらい知りませんから,それがどの程度の信憑性を伴なっているのかということは分かりません。ただ,レンブラントの研究者がこれを読んで,それなりの信憑性があると判断できるのであれば,それ以外の部分もそれと同程度の信憑性を有しているということになるでしょうから,スピノザやスピノザと関係がある人びとについて書かれている部分も,その程度の信憑債があるというべきです。一方で,レンブラントについて書かれている部分が知られている史実と著しく反していて,まったく信用に値しないというなら,スピノザやスピノザと関係があった人びとに関する記述も,信用するにはまったく値しないといわざるを得ません。
 僕自身はこの観点からは『レンブラントの生涯と時代』の信憑性を判断することはできません。ただ,信憑性自体の第一の規準はレンブラントについて書かれた部分にあると考えますから,吉田のように,単に作者が作家だから創作だということで,その信憑性を否定するのはあまりよくないのではないかと思います。
 ここまでのことを前提として,『レンブラントの生涯と時代』を純粋な創作とみるのは困難であるという僕の考えの根拠を説明していきます。僕は渡辺の抄訳しか読んでいないのですから,レンブラントに関わる部分はその根拠には含まれていません。
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