スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ふるさとカップ&選択の規準

2022-07-31 19:37:34 | 競輪
 弥彦記念の決勝。並びは飯野‐小松崎‐成田の福島,吉田‐平原‐諸橋‐横山の関東,三谷‐荒井の西日本。
 諸橋がスタートを取って吉田の前受け。5番手に三谷,7番手に飯野で周回。残り2周のホームの入口からまず三谷が上昇。ホームで吉田を叩きました。このラインに続いた飯野はコーナーで三谷の外をそのまま上昇し,バックの入口では三谷を叩きました。引いた吉田がすぐさま巻き返していき,打鐘で飯野を叩いて先行。飯野は3番手の諸橋のところに飛びつこうとしましたが,ここは諸橋がホームで守りました。飯野が不発になったので小松崎が自力で発進。引き付けた平原がバックから発進。小松崎は勢いはよかったのですが,平原自身の牽制によって失速。番手の成田が平原にスイッチ。直線は平原と成田,さらに後方からの捲り追い込みとなった三谷と三谷マークの荒井の4人での優勝争い。一番内の平原が成田との競り合いを制して優勝。成田が4分の1車輪差で2着。大外の荒井が4分の1車輪差の3着で三谷が4分の1車輪差で4着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は4月の武雄記念以来の優勝で記念競輪31勝目。弥彦記念は一昨年以来の2勝目。昨年は弥彦記念は開催されていませんので,連覇になります。昨年の記念競輪が開催されていないのは寛仁親王牌が開催されたからですが,それも優勝しています。このレースは選手の格を考えると飯野の先行が有力でしたが,並びからすると吉田の先行もあり得るところで,吉田がどういうレースをするのかも注目でした。結果的に吉田が後ろを引き出すような早めの先行になったので,平原に有利な展開に。この展開なら平原と諸橋で優勝争いになりそうなところでしたが,バラバラのラインでの決着になったのは,小松崎が頑張ったからだということになるでしょう。

 現実的に存在する人間は飢えと渇きと等距離にある食料だけを表象するimaginariなら,いずれかの食料を選択して餓死を免れます。なぜならそれがその人間の現実的本性actualis essentiaであるからです。つまりスピノザの哲学にあっては,等距離にある食料のうちいずれかを選択するのは,その人間の自由意志voluntas liberaによるのではなく,その人間の現実的本性あるいは同じことですがその人間のコナトゥスconatusによるのです。つまりここでは選択の規準が,自由意志から現実的本性へと移されていることになります。そしてこのことがスピノザの哲学では一般的に成立します。すなわち人間が何かを選択する場合には,その人間は自由意志によってそれを選択しているのではなく,現実的本性によって選択しているのです。
 人間の現実的本性は,その人間が能動的である場合は第四部定義八によって徳virtutemといわれ,その人間が受動的であるときは第三部諸感情の定義一によって欲望cupiditasといわれます。よって人間が何かを選択するのがコナトゥスあるいは現実的本性によるというのは,人間は自由意志によって何かを選択するというわけではなく,その人間が能動的である限りにおいては徳によって選択し,受動的である限りにおいては欲望によって選択しているといっているのと同じです。このとき,徳によって選択する人を賢者といい,欲望によって選択する人を愚者ということには,一定の理があります。というのもスピノザの哲学の倫理の規準は,能動actioと受動passioの差異にあるからです。ただしこれをいうなら注意しておかなければならないことがあります。この場合には賢者といわれる人間と愚者といわれる人間が別個に存在すると解してはなりません。むしろ同じ人間があるときには賢者として選択し,また別のときには愚者として選択すると解さなければならないのです。第四部定理四系によって,常に賢者であることができる人間は現実的には存在しないからです。よってこの場合にも,賢者と愚者,すなわち徳と欲望だけですべてを判断するのはあまりよろしくないと僕は考えます。徳による選択と同じ選択を欲望によってする限りでは,その人間は敬虔pietasであるといわれるべきであり,そちらを重視するべきでしょう。
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王座戦&賢者と愚者

2022-07-30 19:20:44 | 将棋
 25日に指された第70期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は豊島将之九段が1勝,大橋貴洸六段が0勝。
 振駒で豊島九段の先手。早々に角道を止めて左美濃風に組んだ後手の大橋六段が,4三の金を前線に繰り出していくという力戦の相居飛車。その金が先手の角と交換になりましたから,後手の作戦としてはまずまずだったのではないかと思います。
                                        
 この局面で先手には☗2三歩と打つ狙いがあります。それを☖同銀と取るのは☗6二金☖同玉☗4一飛成で後手陣は崩壊。なので☖3三角と逃げることになりますが,☗4三金と打たれてやはり後手が厳しくなります。なので後手はそれを受ける必要があります。
 実戦は☖4二歩と打ちましたが,これは感想戦で後手がよくなかったと悔いていました。対局中は☖5二金も考えていたようです。
 AIは☖1二角と打つ手も指摘していました。これは後手の飛車が動くと先手の飛車に当たるという手ではありますが,第1図でそう打ったとして次に後手が☖3七飛成としても,☗同桂で4五の飛車にひもがつきます。なので先手はすぐに受ける必要はありません。よって後手としても☖1二角は打ちにくいというか浮かびにくい手のように思います。
 豊島九段が勝って挑戦権を獲得第62期以来となる2度目の五番勝負出場。第一局は来月の31日に指される予定です。

 飢えと渇き,等距離にある同一の食料だけを表象するimaginari人間が,自由意志voluntas liberaがないがゆえに餓死するのであれば,そういう人間を驢馬というべきか人間というべきか知らないとスピノザがいうのは,この点に関しては人間であろうと驢馬であろうと同一であるという意味です。他面からいえば,もしそのようにいうことで,人間には自由意志がないということを肯定してもらえるのであれば,それで構わないとスピノザはいっていると解するのがよいと思います。
 この文脈の中でスピノザは,自殺するような人間やひとりでは何もできないような子ども,愚者や狂人などを何というべきか,つまり人間といっていいのかどうか知らないように,自由意志がない人間を人間といっていいのかどうか知らないように,こうした人間を驢馬というべきか人間であるというべきか知らないという主旨のことをいっています。これはこの部分だけをみると,たとえば賢者といわれるような人間を愚者などから切り離しているようにみえるかもしれません。いい換えれば,自由意志があるのが賢者であって,それ以外の人間には自由意志はないというようにいっているようにみえるかもしれません。またスピノザは,そのように誤読されることを予想してそのように記述したかもしれません。ですがそれは文字通りに誤読なのであって,賢者であろうと愚者であろうと,自由意志はないということでは同じですし,それはたとえ驢馬であろうと同じなのです。
 しかしスピノザの哲学からすると,飢えと渇きと等距離にある同一の食料だけを表象する人間は,自由意志をもたないがゆえに餓死するということはありません。それはもちろんその人間が賢者であろうと愚者であろうと同様です。なぜなら,第三部定理七によれば,各々のものが自己の有esse perseverareに固執するconaturことはそのものの現実的本性actualem essentiamであるからです。つまり,飢えと渇きを表象しているのにそれを癒そうとしないことは,その人間の現実的本性に反することだからです。なのでそうした人間が,等距離にある同一の食料を表象したなら,その人間の現実的本性によって,いずれかの食料を選択し,飢えと渇きを癒す,餓死を免れることになるのです。
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サセックスステークス&精査

2022-07-29 19:58:34 | 海外競馬
 日本時間で27日の深夜にイギリスのグッドウッド競馬場で行われたサセックスステークスGⅠ芝8ハロン。
 バスラットレオンはジャンプするような発馬でしたが特に問題なく先頭に立ち逃げました。残り600m付近から後続の追い上げを待たずに追われ,一時的に後ろとの差は開きましたが,2頭にはっきりと差され,3着争い。その争いも差されて勝ち馬から約3馬身半差の4着でした。
 逃げるのはこの馬の得意戦法。そういうレースをして,最後の600mもおそらく34秒台では走っていると思われますから,力は出し切っていると思います。この馬には相手関係が強すぎたということではないでしょうか。

 第二部定理四九備考ビュリダンの驢馬に関連する部分の記述は,正しく理解するのが困難になっています。なぜかというと,スピノザはこの部分では,自説によってそれに対して反駁するというより,ビュリダンの驢馬が規定する条件に即して答えている面があるからです。なのでここからは,スピノザの哲学における内容と照合させる形で,この部分を精査していきます。
                                   
 まず,飢えと渇き,そして等距離にある等しい食料だけを表象するimaginari驢馬は,等しい距離にある食料のいずれかを選択することができません。それは,その驢馬が飢えと渇きを癒すことができないということを意味します。したがってその驢馬はやがて死んでいくことになります。このとき,驢馬がいずれかの食料を選択することができないのは,驢馬には自由意志voluntas liberaがないからです。ここの部分が重要で,それは驢馬が驢馬であるがゆえに飢えと渇きによって死んでいくというわけではなく,驢馬には自由意志がないゆえに,飢えと渇きによって死んでいくのです。これがビュリダンの驢馬が示す条件です。したがってここでは驢馬に限定されていわれていますが,これは驢馬でなければならないということを意味しているわけではありません。驢馬が死んでいくのは驢馬には自由意志がないからなのですから,一般に自由意志がないものは,この条件,すなわち飢えと渇きと等距離にある食料だけを表象するという条件の下では,死んでいくといわなければならないのです。
 このことのうち,スピノザの哲学によって共有される部分があるとすれば,驢馬には自由意志はないという点だけです。驢馬は自由意志がないためにこの条件の下には死んでいく,いい換えればいずれかの食料を選択することができないという点については,スピノザの哲学では否定されなければなりません。ただしなぜこのことが否定されなければならないのかということについては,後に詳しい説明を与えることにします。
 次に,スピノザは人間に自由意志があるということを認めません。よって,ビュリダンの驢馬で示されているような条件が成立するなら,人間もいずれかの食料を選択できず,死んでいくことになります。
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東京スポーツ盃マイルグランプリ&第二部定理四九備考

2022-07-28 19:17:25 | 地方競馬
 昨晩の第29回マイルグランプリ
 好発はリコーシーウルフ。タイムフライヤーは1馬身ほど立ち遅れ。好発のリコーシーウルフが逃げて2番手にスマイルウィ。2馬身差でコズミックフォースとゴールドホイヤー。2馬身差でアヴァンティストとグレンツェント。7番手にタイムフライヤーとアディラート。8番手にリンゾウチャネル。10番手にコパノジャッキーとハルディネロ。2馬身差の最後尾にクロスケ。前半の800mは48秒5のミドルペース。
 3コーナー手前から逃げたリコーシーウルフの騎手の手が動き始めました。コーナーを回るとほどなくスマイルウィが前に出て,その外からゴールドホイヤーが追ってきてこの2頭が雁行。直線はこの2頭のマッチレースになり,外のゴールドホイヤーが差し切って優勝。スマイルウィが1馬身差の2着。内目を回って追い上げてきたタイムフライヤーが1馬身半差で3着。
 優勝したゴールドホイヤーは昨年の報知グランプリカップ以来の勝利で南関東重賞4勝目。この馬は南関東クラシックを走った5歳馬の中では能力最上位の馬と僕は評価しているのですが,レースになると自分との戦いという面があって,安定した成績をなかなか残すことができませんでした。このレースは内回りコースということで先行策をとったのだと思うのですが,いつになくスムーズなレースぶりでした。こういうレースを続けられるようなら,成績も安定したものとなっていくようにに思います。父はトランセンド。母の3つ上の半姉に1999年にフェアリーステークスを勝ったベルグチケット。Heuerはドイツ語で今年。
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は昨年の報知グランプリカップ以来の南関東重賞18勝目。マイルグランプリは初勝利。管理している川崎の岩本洋調教師は南関東重賞11勝目。マイルグランプリは初勝利。

 第二部定理四九備考は,スピノザが自身の主張に対して予想される反論をいくつか挙げて,それに対して解答する,場合によっては反駁する形式で書かれています。ビュリダンの驢馬の例がそこに示されているのは,スピノザは自身に対して,そのような反論があり得ると考えていたからです。すなわち自由意志voluntas liberaのない人間は,等しい距離にある等しい量の食料を選択することができず,ついには餓死するに至るであろうということは,スピノザの主張に対する反論になり得るとスピノザは考えていたのです。
                                   
 これに対する解答は,わりとあっさりしたものです。スピノザはそれに反駁するどころか,そのこと自体は肯定するaffirmareからです。
 「そのような平衡状態に置かれた人間(すなわち飢えと渇き,ならびに自分から等距離にあるそうした食物と飲料のほか何ものも知覚しない人間)が飢えと渇きのため死ぬであろうことを私はまったく容認する」。
 この解答をみる限り,スピノザはきわめて奇妙なことを主張しているようにみえるでしょう。実際にスピノザは,もしそうであるならそうした人間は驢馬とみられるべきでないかと問われるなら,それを何というべきなのかは分からないという主旨のことをいっているのです。これはそれ以上の解答を拒否しているとみることができるでしょう。
 ですが,この部分はこのように解釈するべきではないのです。浅野によれば,ここでスピノザが主張したかったことは,実際に人間が飢えと渇きによって死に至るであろうという点にあるのではなく,人間についての自由を考察するときに,それを抽象的な理論上の決定determinatioの問題へと移行させてしまうことに対する批判なのです。
 実際に人間がこのような状況に置かれるということはあり得ないので,このビュリダンの驢馬の事例が,非現実的なことを問うていることはいうまでもありません。しかしそのことはここでは不問に付します。また,論理的にいえば,AとBが同一の選択肢であるときに,自由意志がないものは,人間であれ驢馬であれ,あるいはほかのどのような個物res singularisであれ,そのどちらかを選択することはできないでしょう。しかし実際には選択はされるのです。
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習志野きらっとスプリント&ビュリダンの驢馬

2022-07-27 19:36:57 | 地方競馬
 名古屋から1頭,佐賀から1頭が遠征してきた昨晩の第12回習志野きらっとスプリント
 好発はギシギシ。内からロトヴィグラス,コパノフィーリング,キモンルビーの3頭が先手を奪いにいきました。このうちコパノフィーリングとキモンルビーの2頭は引かず,競り合いながら逃げる形。3コーナーでは3番手以降に4馬身くらいの差を付けました。引いたロトヴィグラスとギシギシが並んで3番手。5番手にカプリフレイバー。6番手にファントムバレット。7番手にコウギョウブライト。4馬身差でナムラムツゴロー。2馬身差の最後尾にブンロートという隊列。最初の400mは22秒1の超ハイペース。
 直線の入口では2頭で逃げた外のキモンルビーが単独の先頭に。やや離れた3番手にロトヴィグラス,カプリフレイバー,ギシギシの3頭。直線では完全に抜け出したキモンルビーをギシギシが追撃。フィニッシュ直前で粘るキモンルビーを差し切って優勝。キモンルビーがクビ差で2着。最後尾から外を追い込んだブンロートが2馬身半差で3着。
 優勝したギシギシは南関東重賞初挑戦での優勝。とはいえ前々走の東京スプリントで3着に入っていたくらいですから能力は上位。ぎりぎりでの差し切りになりましたが,これは1000mの適性では2着馬の方が上回っていたからだと思われます。すでに実証されているともいえますが,重賞制覇を狙える馬でしょう。母の父はハーツクライ
 騎乗した大井の笹川翼騎手は昨年のサンタアニタトロフィー以来となる南関東重賞15勝目。その後,クイーン賞で重賞初制覇を達成しています。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している大井の栗田裕光調教師は南関東重賞6勝目。習志野きらっとスプリントは初勝利。

 スピノザが人間についても自由libertasを論じる余地があると認めていることは,たとえば『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で,哲学する自由libertas philosophandiを擁護していることからも明らかですし,『エチカ』の第四部定理六六備考で,自由の人homo liberといういい方をしていることからも明らかです。このことについては,ここで本来的自由,人間にはない本来的自由を神的自由といい,人間について論じられるような自由は人間的自由というカテゴリーに分けて説明したことがありますから,各々の自由の意味がどのような内容であるかという詳しいことについては,そちらを参照してください。
                                        
 このことに関連して,『スピノザ〈触発の思考〉』では,スピノザがいっているあるひとつの事例があげられています。それは第二部定理四九備考の中にある,ビュリダンの驢馬の例です。このビュリダンは,フランスのスコラ哲学者のジャン・ビュリダンJean Buridanです。『スピノザ〈触発の思考〉』ではビュリダンと記述され,『エチカ』の岩波文庫版ではブリダンと記述されていますが,一般的にはビュリダンと記述されるようですので,このブログでもそちらの記述を採用します。
 ビュリダンの驢馬というのは,驢馬には自由意志voluntas liberaがないので,もしも自身から同じ距離に同じ食料があった場合は,どちらかを選ぶということができず,ついには驢馬は餓死するであろうという主張です。ただし,本当にビュリダンがこのような主張をしたのかどうかは不明です。少なくともスピノザが生きていた時代には,このような主張がビュリダンの驢馬といわれていたのであって,ここではそのような主張のことをビュリダンの驢馬といっていると理解してください。
 スピノザは人間には自由意志はないと主張しています。するとビュリダンの驢馬の主張は,驢馬には自由意志がないということが論拠となっているのですから,自由意志がないものにはすべて妥当するといわなければなりません。したがって,スピノザがいう人間には自由意志がないので,ある人間が現実的に存在し,その人間から等しい距離に等しい食料があった場合には,その人間はそのどれかを選択することができず,ついにその人間は餓死するに至ることになります。
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九十九島賞争奪戦&本来的自由

2022-07-26 19:13:00 | 競輪
 佐世保記念の決勝。郡司が欠場となって8車。並びは守沢‐和田圭の北日本,中川‐山田‐井上の九州で杉森と郡司をマークする予定だった和田健太郎と伊藤は単騎。
 井上がスタートを取って中川の前受け。4番手は内に守沢,外に和田健太郎で併走。守沢マークの和田圭の後ろに伊藤で最後尾が杉本という隊列で周回。残り2周のホームの出口から,守沢の外を併走していた和田健太郎が上昇。中川の前に出ました。バックからまた中川が巻き返して打鐘。井上までの3人の後ろに和田健太郎。5番手に守沢,6番手に伊藤,最後尾に杉森の一列棒状に。ホームから伊藤が発進。伊藤の上昇に合わせるように守沢も発進して伊藤は不発。バックで守沢が井上の横あたりまで上がってくると山田が番手発進。井上が進路を失ってしまい,山田に守沢がスイッチ。しかし山田は守沢を寄せ付けずに優勝。続いた守沢が4分の3車身差の2着で守沢マークの和田圭が1車身半差で3着。
 優勝した佐賀の山田庸平選手は先月の別府のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは3人で結束した九州ラインを郡司が捲れるかどうかが焦点だったのですが,その郡司が欠場となりましたので,先行1車で3人が結束する九州ラインが圧倒的に有利になりました。その点では無風で番手を回った山田の優勝は順当な結果といえるでしょう。ただラインでの結束ということを考えれば,もう少し早く,井上が山田に続くことができる段階で番手捲りを敢行してしまうという手もあったかと思います。

 スピノザは意志volitioの自由libertasが存在することは認めませんでした。それはたとえば人間のような,現実的に存在する個物res singularisには意志の自由は存在しないという意味ではなく,神Deusにも自由意志voluntas liberaが存在するということを認めなかったのです。しかし,だから一般に自由が存在しないとはいわず,意志の自由とは異なった自由が存在すると主張したのです。第一部定義七は,こうした主張の産物です。
                                   
 しかしここで注意しなければならないのは,スピノザは自由は存在するといったのですが,人間に自由があるとは主張しなかったのです。つまり自由であるのは実体substantiaである神だけであって,人間のような個物あるいは様態modiは,本来的な意味では自由ではないのです。このことは定義Definitioそのものから明白であるといっていいでしょう。もしも人間が自由であるというのであれば,現実的にある人間が存在するときに,その人間はその人間自身の本性essentiaによって存在existentiaなり行動なりに決定されるのでなければなりません。しかしそれをいうのは無理があるということは,僕たちが人間として現実的に存在していることから経験的に明らかであるといわなければなりません。このことは人間だけでなく,第四部公理によって,現実的に存在するすべての個物に妥当することになります。すなわち,現実的に存在する個物は,本来的には自由ではないのです。
 この点だけでみれば,スピノザは積極的自由論者ではないばかりか,いかなる意味でも自由論者ではないということになるでしょう。この点については浅野はこのこと自体を肯定できないと解釈できるような文脈で説明していますが,僕はこのこと自体はそうであるといわなければならないだろうと考えます。確かに人間は本来的な意味では自由ではないというのは,人間に対して自由を論じるならば,本来的な意味とは異なったところで論じなければならないという意味ではあります。僕はそのときに,人間は本来的には自由ではないという点を重視するべきであると考えるので,スピノザはいかなる意味でも自由論者ではないというべきだと思います。しかし浅野がいうように,だから人間について自由を論じることができないというわけではありません。
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門&意志論と自由論

2022-07-25 19:29:41 | 歌・小説
 『彼岸過迄』はいわゆる修善寺の吐血から生還を果たして最初の連載小説でした。その前に朝日新聞に連載されていたのは『門』です。
                                        
 この作品は,『三四郎』,『それから』と合わせて三部作と呼ばれています。つまり『それから』が『三四郎』のそれからを意味するとすれば,『門』は『それから』のそれからということになります。もちろんこれらは独立した作品であって,たとえば『三四郎』と『それから』の間に,直接の繋がりがあるわけではありません。それと同様に『門』も『それから』と直接的に繋がっているわけではないです。ただし,『三四郎』と『それから』の間の繋がりに比べれば,『それから』と『門』の間にある繋がりは,より強固なものがあると僕は感じます。
 『それから』の物語は,かつて自分が好きだった女が友人と結婚し,時を経てその女を友人から奪い返すというものでした。『門』の主人公である宗助は結婚していますが,結婚相手の御米は,宗助の親友であった安井から奪ったという設定になっています。『それから』の平岡と三千代は結婚していたのに対し,安井と御米はおそらく内縁関係で,最初に安井から御米を紹介されたときも,安井は御米のことを自分の妹と言っているように,はっきりとした相違はあるものの,『三四郎』における三四郎と美禰子の関係を,『それから』の代助と三千代の関係に当て嵌めることは難しいのに対し,代助と三千代の関係は,宗助と御米の関係には当て嵌めやすくなっています。
 『門』というタイトルは,小説を連載するにあたって漱石の弟子が勝手につけてしまったもののようですが,漱石はそれらしい内容にしています。というのも物語の中に,宗助が寺院の門を叩いて座禅を組むというプロットが挿入されているからです。しかしそれが何か物語に重要な影響を与えるのかといえばそうではありません。むしろ『門』の物語はきわめて日常的なものであって,ダイナミズムには欠けているといっていいでしょう。

 スピノザがあらゆるものに恣意的な自己決定という意味の意志voluntasの余地を認めていないことは,意志そのものという観点からは第二部定理四八を,またそれが個物res singularisだけにではなく個物以外のもの,それは事実上は神Deusを意味するので,神にとっても適用されるという観点からは第一部定理三二系一を参照してください。
 これらのことは意志論の範疇に入るのであって,自由論とは異なります。ですがスピノザの哲学において自由libertasを論じる場合は,この点を押さえておかなければなりません。これを理解しておかなければ,自由論を開始することができないといってもいいでしょう。なぜなら第一部定義七は,自由と必然は反対概念ではないことを示すという戦略的な意味を含んでいるのですが,それは同時に,自由であるか自由でないかは意志によって決定されるのではないという意味を含んでいるからです。なぜなら,それ自身によって決定されるということは自由意志voluntas liberaによって決定されるということであり,ほかのものによって決定されるということは自由意志によって決定されていないということを,少なくともスピノザの時代には意味していたのであり,スピノザはそれを否定しているのだからです。
 したがって,自由とは自由意志であるということをスピノザは否定しているのです。他面からいえば,哲学上の趨勢は,自由とは自由意志のことを意味するのです。ですから自由意志を否定するnegareことと,自由を否定することとは,趨勢からは同じことを意味します。当然ながらスピノザはそのようにすることもできました。つまり,あらゆるものに対して自由意志を否定したのと同じように,あらゆるものに対して自由を否定するということができたのです。これは意志と自由を両方とも否定するということであって,一般的な意志と自由の理解の仕方からは,適切と考えられるような処理の仕方であるといえます。
 ですがスピノザはそのような手法は採りませんでした。その代わりに自由の概念notioを新たに作り直したのです。だからこの点を理解しておかないと,スピノザの哲学における自由論をスタートさせることができないのです。ということでここから自由論を始めます。
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本性の実現&戦略

2022-07-24 19:05:43 | 哲学
 僕はフロムErich Seligmann Frommは,徳とコナトゥスとを混同して理解しているのではないかと思います。すなわち,本来であれば人間であれ馬であれ,現実的に存在するすべての個物res singularisの,能動状態であろうと受動状態であろうと同様の本性essentiaと,能動状態における現実的本性actualis essentiaに限られるような徳virtusと同一視していると思います。なお,前にいったように,第四部定義八からして僕は徳というのを人間に特有の概念notioとしてスピノザは考えているという見解opinioをもっているのに対し,フロムはおそらく徳というのを人間に特有の概念としては解していないと思われますが,このことは徳について僕のように理解しようとフロムのように解そうと,同じことです。つまりフロムは,徳というのが現実的に存在するすべての個物,あるいは少なくとも馬に代表されるような生物には成立する概念として考えていますが,その場合にもその個物の徳と個物のコナトゥスconatusとは異なるのであり,しかしその異なったものをフロムは同一視していると僕は考えます。
                                        
 したがって,当該箇所のフロムの主張は,このことを前提として理解しなければならないと僕は考えます。
 この部分の最後のところで,フロムは,人間にとっての徳は,人間の本性natura humanaの実現,現実的本性の実現と同一であるという意味のことをいっています。このことは,第四部定義八に照合させると,スピノザの哲学について誤ったことをいっているわけではないと僕は考えます。というのは,人間が自分の現実的本性だけによってあることをなすということは,ある結果effectusに対して自身の現実的本性が十全な原因causa adaequataであることをなすというのと同じであって,それが徳といわれているからです。そして,自身の現実的本性が十全な原因としてある結果を生じるということは,その人間の現実的本性が結果を通して十全に表現されるexprimunturという意味であって,それは人間の現実的本性が実現されるといっているのと同じことだと解して問題ないと僕は考えるからです。ただし,ここでいわれている徳についてもフロムはコナトゥスと混同しているのであって,その限りでは正しくありません。人間の現実的本性は部分的原因causa partialisとしても表現されるのであり,それは徳ではないとしてもコナトゥスではあるといわなければならないからです。

 第一部定義七を正しく理解するために,最も重要なことは次のことです。
 自己自身によって決定されるものを自由libertasというとき,スピノザはそのことを自己の本性の必然性によって決定されるといういい方をしています。一方で,ほかのものによって決定されることを強制coactusというとき,スピノザはそうしたものを必然的necessariusといっています。これでみれば分かるように,スピノザは自由であるものは必然性necessitasによって自由で,強制されるものは必然的に強制されるといっているのです。したがって,自由であるものも必然だし,強制されるのも必然だとスピノザはいっていることになります。
 ここにはスピノザのある戦略が含まれています。というのは,今でもそうかもしれませんが,とくにスピノザが哲学をしていた時代には,必然というのは自由の反対概念であったのです。つまり必然的なものは自由ではあり得ないし,自由であるものは必然的ではないと考えられていたのです。スピノザの戦略というのは,その考え方を覆す点にあります。つまりスピノザは,必然というのは自由の反対概念ではないということを,この定義Definitioにおいて示そうという意図があったのです。
 なぜ必然が自由の反対概念ではないのかといえば,スピノザは自由を意志voluntasとは結びつけていないからです。他面からいえば,自由を必然の反対概念として考えるということは,意志と自由とを関連付けるということに直結するのです。つまり,あるものが何かに決定されるというとき,もしそのものの意志によって決定されるのであればそのものは自由といわれ,そうでないものに決定されるならばそのものは自由ではないすなわち必然であるといわれるのです。スピノザはそれを否定します。それは,あるものが何かに決定されるというときに,それがそのものの意志によって決定されるということはあり得ないというようにスピノザは考えているからなのです。『スピノザ〈触発の思考〉』では,あらゆる個物res singularisに,スピノザは恣意的な自己決定という意味での自由を認めていないという主旨のことがいわれています。この恣意的な自己決定を意志と解すると,スピノザはこのことを個物に対してだけ認めていないわけではありません。
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大成建設杯清麗戦&自由論

2022-07-23 19:06:32 | 将棋
 新潟市で指された昨日の第4期清麗戦五番勝負第二局。
 里見香奈女流四冠の先手で5筋位取り中飛車。加藤桃子清麗の居飛車穴熊に対して先手が急戦を仕掛ける将棋から一進一退の攻防。ところが後手に大きなミスが出て急に決着しました。
                                        
 第1図から☖2三銀と引きましたがこれが大ポカ。☗2二銀☖1二王☗2四角成☖同銀☗同香で後手玉は必至です。
                                        
 第2図から☖7九角☗6八銀と銀を使わせることはできるのですが,後手の飛車が1筋に効いているため,打ち歩詰めはなく,むしろその飛車を取ることができるのでやはり必至は解除されていません。☗6八銀の局面で15分考えて,後手の投了となっています。
 戻って第1図では☗2二銀を打たせないような受けが必要で,そう受けておけばまだ将棋は続いていましたし,どちらが勝つかは分からなかったでしょう。☖2三銀は後手が持ち時間をかなり残していた中でノータイムで指されていますから,うっかりがあったとはいえ軽率だったといわれて仕方がないようにも思います。
 里見四冠が連勝。第三局は来月3日に指される予定です。

 第4章に関連する考察はここまでにして,次の考察に移ります。
 『スピノザ〈触発の思考〉』の第5章は,イギリス人政治哲学者であり政治思想史家であるバーリンIsaiah Berlinに関連する論考が中心になっています。バーリンは自由libertasの概念notioを積極的自由と消極的自由に二分化し,消極的自由の価値を擁護したと浅野はいっています。僕はバーリンの思想はよく分かりませんので,この浅野の判断自体の是非も不明です。ですからそれに関連した考察はしません。この章の第3節が,スピノザの哲学における自由論の考察に充てられていて,この部分だけを考察します。というか,僕はそこで浅野がいっていることに異議があるわけではありません。むしろこの部分は,スピノザの哲学における自由論の探求としてきわめて優れていると思いますので,その部分をここでも要約するような形で紹介しておきたいのです。僕はこれまで,スピノザの哲学における意志voluntasという概念については詳しく探求したことがありましたが,自由についてはそれをしたことがなかったからです。
 スピノザの哲学において自由を考えるとき,まず最初に考えておかなければならないのは第一部定義七です。これが自由の定義Definitioであるからです。
 この定義で自由であるものと自由でないものとを分かつのは,それ自身によって決定されるか,それともほかのものによって決定されるかということです。そして前者は自由といわれ,後者は強制されるといわれるのです。これでみれば,強制coactusが自由の対概念であることになり,そのこと自体は間違っているわけではありません。ただしそのとき,自由の剥奪が強制である,あるいは同じことですが,何ものかに対してあることを強制するということは,その何ものかから自由を剥奪するということである,というように解すると,それ自体は誤りerrorではないにしても,スピノザが定義しようとしている自由の何たるかについて誤解をしてしまう危険があります。これはそもそもスピノザが,自由という概念と意志という概念とを結びつけて考えていないということに関係します。つまり自由の剥奪というのは,自由な意志の剥奪ということを意味しているわけではないのです。
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お~いお茶杯王位戦&平和

2022-07-22 19:25:44 | 将棋
 一昨日と昨日,有馬温泉で指された第63期王位戦七番勝負第三局。
 豊島将之九段の先手で角換わり相腰掛銀。先手がそう誘導したような展開から,後手の藤井聡太王位が先攻する将棋になりました。
 感想戦の内容からすると,勝敗の最大の分岐点は封じ手にあったようです。
                                        
 実戦の封じ手は☗3八飛。先手は後手から第1図のように攻められた場合には☗3八飛は仕方がない手で,それでも十分に戦えると判断していたようです。ただ第1図では☗2九飛と引く手もあり,そちらを選択した方がよかったという結論になっています。
 先手は定刻に封じ手を宣言したわけではなく,さらに6分ほど考えてから封じると宣言しました。十分に考えた末の封じ手であれば当初の判断から☗3八飛を封じ手にしたのは仕方がなかったかと思いますが,どこかで読みを打ち切ってのものであったら,悔いが残るところだったように思います。
 藤井王位が勝って2勝1敗。第四局は来月15日と16日に指される予定です。

 集団化された敬虔さが,その集団の平和paxという意味であるというように僕は解します。したがってスピノザの哲学における,この場合の哲学は政治学なども含めた意味での哲学ですが,そういった意味でのスピノザの哲学における平和とは,現実的に存在する人間の集団がひとつの個物res singularisとみなされる限りにおいて,その個物が敬虔pietasであるということを指すと僕は考えます。
 このような集団には確かに戦争は欠如しているでしょう。ですがスピノザがいっている通り,それはその集団に戦争が欠如しているがゆえに平和といわれるのではありません。たとえばある特定の人間に政治的権力のすべてが委ねられるような国家Imperiumにおいては,その権力者自体が恐怖政治を行うことによって,戦争を欠如させることができるであろうからです。というか,そのようなことが可能であるとスピノザはみています。しかしそれは権力者の野蛮と臣民の隷属servitusによって得られる戦争の欠如なのであって,スピノザの哲学でいう平和と程遠い状態です。いい換えればそれは平和ではありません。この点において,戦争の欠如を平和とみなしたホッブズThomas Hobbesのことを,スピノザは批判しているのです。野蛮であること,そして隷属していることほど,敬虔と異なったことはないというのが,スピノザの主張です。
 これでみれば分かるように,スピノザがいうような意味での平和というのは,容易に達成することができるような状態のことではありません。しかしそのことは,人類の歴史が証明しているといってもいいでしょう。確かに戦争の欠如という状態が長続きした人間集団というのは存在したでしょうし,これからも存在するでしょう。ですが,だからその集団が平和であったのか,あるいは平和であるといえるのかといえば,必ずしもそうはいえず,むしろ人類にとって平和というのは,きわめて稀な状態であるし,これからも稀な状態であることになるでしょう。
 スピノザの政治論は,だからそのようにきわめて稀な状態を目指して論じられているといっていいかもしれません。敬虔の土台は平和の土台でもあるのですが,その土台を達成することすら,人間にとっては容易でないといえるからです。
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ヒューリック杯棋聖戦&平和と敬虔

2022-07-21 19:21:52 | 将棋
 17日に万松寺で指された第93期棋聖戦五番勝負第四局。
 永瀬拓矢王座の先手で相掛り。後手の藤井聡太棋聖が歩を損する代償に手を得する順に進めました。将棋は中盤で優位に立った後手が攻勢を強めて押し切ったという内容でしたが,分岐は多くあったようです。その中から特に僕の印象に残ったものを紹介します。
                                        
 実戦は第1図から☗8六飛☖同飛☗同歩☖8七歩と進み,☗7一飛☖4二王の交換を入れてから☗9七角と進みました。王手のところはともかく,一本道の進行だと僕には思えたのですが,そうではなかったようです。
 第1図では☗9四歩と香車を取ってしまう手もあったとのこと。☖8七桂成☗同金☖同飛成で損をしているようですが,そこで☗9七角と上がるのだそうです。
                                        
 第2図は☗5三角成を受ける手を指しても☖8九龍としても☗8六飛と回って先手も勝負にはなります。確かにこの順も先手にとって有力であったでしょう。
                                        
 3勝1敗で藤井棋聖が防衛第91期,92期に続く三連覇で3期目の棋聖となります。

 社会契約説に関する僕の解釈が正しいということを強硬に主張するものではありません。ただ,社会契約が実在的有entia realiaであり得ないということは間違いないことであり,スピノザの哲学では実在的有であるものに基づいて考えていかなければならないと僕は考えますから,仮に社会契約説に関してスピノザが何らかの仕方で考え方を改めたのだとしても,その相違は重視しなくていいでしょう。『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を書いているときは社会契約が実在的有であり,『国家論Tractatus Politicus』を書いているときには実在的有ではなくなった,あるいは同じことですが理性の有entia rationisになったということはあり得ないですし,『神学・政治論』を書いているときのスピノザが,社会契約は実在的有であると思い込んでいたということは,あり得ないとはいいませんがかなり考えにくいでしょう。
 これと同じように,たとえ敬虔pietasということが『国家論』では主題化されてないとしても,人間が敬虔であることを重視していることは,『神学・政治論』でも『国家論』でも同様であると僕は考えます。つまり第六章第三節でスピノザがいっていることは,国民が敬虔であるように国家Imperiumは組織されていなければならないということであると解します。そしてそのことによって,国家もまた敬虔であることができるのです。つまり,国民全体によって組織されるひとつの個物res singularisとしての国家も敬虔であることができるのです。そしてそれがこの部分で,平和paxと絡めて記述されているのです。
 これでみれば,スピノザが平和ということで何をいおうとしているのかが理解できます。ここでいわれている精神mensの一致というのは,各々の国民の精神が一致することを意味しますが,そのこと自体は現実的ではなく,各々の国民が敬虔であることによって和合するということを意味するのでなければなりません。そしてそれによる国家の状態が平和といわれるのです。いい換えれば平和とは,国家にとっての敬虔,国家をひとつの個物としてみたときの敬虔を意味するのです。もっともこれは,国家だけを意味するのではありません。おそらく人間の集団によって構成される組織が敬虔であるとき,その組織は平和であるといわれるのです。
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プラチナカップ&社会契約説

2022-07-20 19:09:13 | 地方競馬
 第5回プラチナカップ
 逃げようとしたのはプレシャスエースとリコーシンザンとベストマッチョ。発走後の正面では一時的に3頭が3馬身くらい後ろを離しました。コーナーワークでプレシャスエースが単独の逃げとなり,ベストマッチョが2番手。下げたリコーシンザンはアンティノウスと並んでの3番手になり,ティーズダンクも向正面ではこの位置まで追い上げてきました。ここから3馬身差でアマネラクーン。7番手にワイドファラオ。8番手にフィールドセンス。2馬身差でワールドリングで5馬身差の最後尾にリネンファッションという隊列。最初の600mは34秒8の超ハイペース。
 3コーナーではベストマッチョの外までティーズダンクが追い上げてきて,この2頭がプレシャスエースの前に。コーナーの途中ではティーズダンクが単独の先頭に出て,直線の入口からはほぼ独走となり快勝。後方から外を一気に追い込んできたワールドリングが1馬身半差で2着。直線の入口で離れた3番手まで上がっていたフィールドセンスが,一杯になったベストマッチョを差して3馬身差の3着。ベストマッチョは4分の3馬身差で4着。
 優勝したティーズダンクは前々走のオープン以来の勝利。南関東重賞はゴールドカップ以来となる4勝目。この馬は浦和の1400mが最も得意で,重賞に初挑戦となった前走も2着になっていたように,このメンバーでは最有力候補。超ハイペースとなったレースをわりと早めに動いていき,前にいた馬をすべて潰して追い込みも封じましたので,内容はかなり強かったです。着差以上にほかの馬とは能力に差があったとみていいでしょう。父はスマートファルコン。母の父はキングカメハメハ
 騎乗した大井の和田譲治騎手は東京湾カップ以来の南関東重賞9勝目。プラチナカップは初勝利。管理している浦和の水野貴史調教師は南関東重賞9勝目。プラチナカップは初勝利。

 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』と『国家論Tractatus Politicus』の相違の中で,最も大きいのは次の点かと思います。
                                   
 『神学・政治論』では,いわゆる社会契約説に基づいて国家Imperiumの成り立ちを説明しています。少なくともそういう意欲がスピノザにはあると見受けられます。これに対して『国家論』では社会契約説は何も触れられていません。それどころか無視されているといってもいいくらいで,ここではスピノザは社会契約説を斥けているように読解できると思います。
 『神学・政治論』と『国家論』では書かれた時期が違います。したがってこの理由を,スピノザの政治論の変化と解することは可能ですし,それが正しいかもしれません。つまり,『神学・政治論』を書いていた時期のスピノザは,社会契約説を支持していたけれど,『国家論』を書いている時期のスピノザは考えを改め,社会契約説を支持しなくなったというような解釈です。ただし僕はこの解釈は採用しません。『神学・政治論』のときも『国家論』のときも,スピノザの政治思想に大きな変化があったわけでなく,仮に社会契約説についてスピノザの考えに何か変化が生じていたとしても,その変化を過大に見積もる必要はないと考えます。
 社会契約が現実的に存在するという考え方については,スピノザは『神学・政治論』を書いているときにも肯定していなかったと僕は考えます。哲学的にいえば,スピノザにとっての社会契約というのは,実在的有entia realiaであるというわけではなく,理性の有entia rationisの一種であったという点で,一貫していると僕は考えます。だから確かにスピノザは『神学・政治論』では社会契約説に基づいて国家の成立を説明しようという意欲をもっているのですが,それは国家が現実的に成り立つということを説明しようとしているわけではなく,あくまでもモデルとして,そのように説明すれば理解が容易であるという,ある種の利便性から社会契約説を利用したというように僕は解します。だれであっても実際に何らかの契約pactumをして国家の一員となるわけではありませんから,社会契約というのはある種のモデル,理性の有であり,実在的有ではない僕は考えますし,スピノザはそれを重視するだろうと思うのです。
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サマーナイトフェスティバル&精神の一致

2022-07-19 19:16:31 | 競輪
 玉野競輪場で争われた昨晩の第18回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは新田‐佐藤の福島,岩本‐和田の千葉,犬伏‐松浦の四国中国,山田‐荒井の佐賀で森田は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。3番手に山田,5番手に犬伏,7番手に森田,8番手に岩本で周回。残り3周のバックの出口から岩本がゆっくりと上昇。ホームの出口で新田を叩きました。バックで外から犬伏が発進。和田の後ろに続いていた山田が岩本の内を掬って,3番手に入って打鐘。荒井の後ろで岩本と新田が併走という隊列になりました。バックの入口から新田が捲っていきましたが,前には届かないまま浮いてしまい不発。3番手の山田も上がっていくことができませんでした。脚を溜める形になったのが岩本で,コーナーで山田の外から捲り発進。番手から出た松浦に迫りましたが,うまく牽制した松浦が残して優勝。岩本が4分の1車輪差で2着。不発になった新田の後ろから岩本にスイッチするようなレースとなった佐藤が4分の3車身差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は4月の川崎記念以来の優勝。ビッグは昨年のサマーナイトフェスティバル以来の優勝で6勝目。サマーナイトフェスティバルは連覇で2勝目。このレースは犬伏の先行が有力なので,番手を回る松浦を捲ることができる選手がいるかどうかが優勝争いの最大の焦点。脚力上位の新田が不発に終わったのは,新田がまだ本調子にないということもあるでしょうが,犬伏が頑張ったからだということもできるでしょう。岩本が最後は松浦に迫りましたが,これは犬伏のラインがふたりだったので松浦がぎりぎりまで発進を遅らせたからだと思います。それでも岩本は健闘したといえるのではないでしょうか。

 精神mensの一致は,人間が理性ratioに従う限りでの一致を意味すると解してよいでしょう。ところが,第四部定理四系により,現実的に存在する人間は,程度の差はあるにしても,常に受動passioに隷属している,いい換えれば,精神の能動actio Mentisである理性には従っていません。よって,現実的に存在するすべての人間の間で精神が一致するというのは,現実的に生じる事象であるといえませんし,それを要求するということは,不可能なことを要求していることになるので,要求として無意味です。ネグリAntonio Negriが目指している政治体制は,それが非現実的であるという理由によって,あるいは同じことですが,それが独断論的な国家Imperiumなり政治体制であるがゆえに,スピノザによって否定されるのですが,この論理と同一の論理によって,精神の一致を要求することは,非現実的な独断論的要求として否定されなければならないのです。
                                   
 よって,和合を意味する精神の一致というのは,文字通りの精神の一致,すなわち理性に従うことを意味するのではありません。精神が一致しているような状態にある,精神が一致しているのと同じ状態にあるということを意味します。そしてこの意味での和合に必要なのが,人間が敬虔pietasであるということでした。人間は,理性に従うことによって必然的にnecessario敬虔であることができますが,受動によっても敬虔であることができるとスピノザは主張しているからです。というか,スピノザの哲学では,受動でもそうあることができる状態のことを,敬虔ということになっているからです。ここで検討しているのは『国家論Tractatus Politicus』の第六章第四節ですが,直前の第三節では,国家の組織は,すべての人が自発的であれ強制coactusであれ衝動appetitusであれ,理性の命令に従ったのと同じように生活するようになっていなければならないという主旨のことがいわれていて,これはまさに,国家は人びとが敬虔であるように組織されていなければならないといっているのと同じだと解せます。
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』と『国家論』は,考察の対象が違っていますので,『神学・政治論』とは異なり,『国家論』では敬虔は主題化されていません。ただ,基本的にスピノザは同じ路線で考えていることになります。
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農林水産大臣賞典マーキュリーカップ&戦争

2022-07-18 19:00:23 | 地方競馬
 メイセイオペラ記念の第26回マーキュリーカップ。ケイアイパープルは藤岡康太騎手の個人的な都合で山本政聡騎手に変更。
 ノーヴァレンダが先頭に立ちましたが,外から鞭を入れてメイショウフンジンが猛然と追い上げてきて,1コーナーまでにノーヴァレンダの前に出て逃げました。リードは3馬身くらい。控えたノーヴァレンダが2番手で3番手にメイショウカズサとケイアイパープル。4馬身差でエルデュクラージュとバーデンヴァイラーとギガキングとテリオスベル。9番手にヴァケーション。4馬身差でマイネルアストリア。11番手にサトノディード。7馬身差でレールガン。13番手がユアマイラブで最後尾にサンレイファイトという隊列。超ハイペースでした。
 向正面でテリオスベルが外から動いていき,3番手まで進出。2番手のノーヴァレンダはこの動きに対応したので,逃げたメイショウフンジンは3コーナーで一杯。コーナーの途中で外のテリオスベルが単独の先頭に立つとノーヴァレンダも一杯。テリオスベルが直線の入口から抜け出す形になりました。追ってきたのはバーデンヴァイラーで,フィニッシュにかけてテリオスベルを追い詰めていき,ぎりぎりで差し切って優勝。テリオスベルがクビ差で2着。テリオスベルの動きによってそれより前にいた馬には厳しい競馬でしたが,その中でよく粘ったケイアイパープルと内から伸びてきたヴァケーションで3着争い。ヴァケーションが6馬身差の3着でケイアイパープルがハナ差で4着。
 優勝したバーデンヴァイラーは重賞初勝利。3月にオープンを勝った後,アンタレスステークスは大敗していましたが,ここは相手関係は楽になって斤量も軽くなりましたので,チャンスがあるだろうと思っていました。レースの内容だけでいうとテリオスベルの方が強く,その強さに助けられた面がありましたので,能力が上だったと決めつけることはできないかと思います。父はドゥラメンテ。9代母がシュリリーで祖母がキョウエイマーチ。ふたつ上の半姉が昨年のNARグランプリで特別表彰馬に選出されたマルシュロレーヌ。Badenweilerはドイツの行進曲の曲名。
 騎乗した福永祐一騎手は第17回以来9年ぶりのマーキュリーカップ2勝目。斉藤崇史調教師はマーキュリーカップ初勝利。

 『国家論Tractatus Politicus』の当該部分の全体の文脈からすると,ここで戦争といわれているのは,国家Imperiumと国家の間での武力闘争,現在の世界でいえばウクライナとロシアの間での武力闘争だけを意味するのではありません。ある単一の国家の中での武力闘争,つまり内戦とか内乱といわれるような武力闘争,同様に現在の世界でいえば,シリア国内で争われているような武力闘争も含まれると解するべきです。したがってこの戦争というのは,僕たちがいいならわしているような戦争より多岐にわたるのであり,おおよそ組織と組織との間で,政治的権力を巡る武力闘争のすべてを意味していると解した方がよいでしょう。
                                        
 こうした広い意味での戦争が欠如した状態のことを,ホッブズThomas Hobbesは平和paxというわけです。より正確を期していうなら,ホッブズはそのような状態のことを平和といっているとスピノザは解しているのです。僕はそのスピノザの解釈は正しいと考えますが,ここではホッブズが何を平和といっているのかということについては考察の対象とはしません。なのでこの解釈は誤りerrorであるという主旨の反論は受け付けません。スピノザはそれに対して,そういう状態のことを平和というのではないといっているのであって,ではどのような状態のことを平和とスピノザはいうのかということだけを考察の対象とします。繰り返しになりますが,隷属servitusとか野蛮の下に戦争がない状態が継続したとしても,そのような状態は人間にとって惨めな状態なのであり,そのような惨めな状態を平和というべきではないとスピノザはいっていて,そうであるならスピノザがいう平和は,戦争の欠如といわれるように,消極的にいわれるような状態ではないことになります。
 スピノザは平和というのを和合に存するといっていますが,この和合を精神mensの一致といい換えています。ただしこの点には注意が必要です。というのは,第四部定理三五により,現実的に存在する人間は,理性ratioに従う限りでは本性naturaの上で一致します。この本性の上での一致は,精神の一致と同じ意味とみなしてよいでしょう。したがって,人間は理性に従っている限りでは平和である,つまり必然的にnecessario和合するということになります。
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印象的な将棋⑱-2&最終形態

2022-07-17 19:22:32 | ポカと妙手etc
 ⑱-1の第2図は,先手が☗8四飛と後手の飛車を取ることができる局面になっています。さらに,その飛車を取った手が後手の馬に当たることになります。第1図ですぐにそう指すかどうかとは関係なく,もしも先手が☗8四飛と指したときは,後手は必ず☖7八馬と金を取ることになります。したがって,☗8四飛と指せば当然ながら後手が指す番になりますが,後手の指し手は決まっているので,選択肢があるのは先手の方です。要するに先手が☗8四飛と指したときの実質的な手番は先手にあるということです。
 そこで,⑱-2の第1図ですぐに先手が☗8四飛と飛車を取ったと仮定しましょう。当然ながら後手は☖7八馬と指します。
                                        
 この局面で先手玉は詰めろにはなっていません。もしも第1図が後手の手番なら☖3八金と打つ手が最も厳しく,先手玉はほぼ受けることができなくなります。
 よって第1図で先手が勝つための条件は,後手玉に対して王手か詰めろを連続で指し,そのまま後手玉を受けなしに追い込むか,それが無理であるなら一旦は受けに回るかのどちらかです。この将棋は実際には第1図には進まなかったのですが,第1図でこの条件の下に先手が勝ちになる順があるのかどうかを考えておかなければならないのです。

 民主主義という政治形態は,政治体制の最終形態ではありません。そしてスピノザがいう方法論が導入されていないなら,政治体制の最高形態でもないのです。その場合は民主主義という政治体制は,容易に貴族制という政治体制へと変容してしまうでしょう。もちろんそのように変容した貴族制が,民主制よりもよい政治体制であるということではありません。この変容の過程で方法論が導入されるということは考えにくいので,民主制の方がよい政治体制であるといわなければなりません。しかしこの事実から,民主制が最終的な政治体制の形態でないということは明白だといえるでしょう。それどころか『国家論Tractatus Politicus』の第六章第四節では,民主主義体制の国家Civitasほど長続きしなかった国家はないし,民主主義体制の国家ほど,反乱の多い国家もないという主旨のことがいわれているのです。
 上述のことがいわれている文脈の全体はしかし,民主主義の政治体制を擁護するようなものになっています。というのはこの文脈では,平和paxということが何を意味するのかということが中心になっているからです。これは『スピノザ〈触発の思考〉』でも触れられている観点ですので,スピノザの政治論のこの箇所における最後の考察として,その点を探求することにします。
 人類の歴史は,君主制の国家の方が,平和と和合のためには有益であると教えているようだとスピノザはいいます。しかしそれはスピノザからすれば,平和とか和合といった事柄を,どのような概念notioとして認識するcognoscereべきなのかということの誤りerrorによって生じてくる発想です。ある国家の中で著しい変化が生じないとか,反乱が生じないといったことは,スピノザによれば平和を意味するのではありません。むしろそれが平和であるとすれば,平和ほど人間にとって惨めなものはないのです。なぜならこの平和は,国民の隷属servitusと君主の野蛮さによって達成される平和にすぎないからです。いい換えれば,平和とは,戦争の欠如を意味するのではありません。もっと積極的な何かを意味するのです。
 なお,スピノザのこの部分の主張は,訳者である畠中尚志によれば,ホッブズThomas Hobbesの平和観に対する駁論とのことです。
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