スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

鎌倉記念&アパート

2010-09-30 14:17:01 | 地方競馬
 北海道から3頭,愛知から1頭が遠征してきた昨晩の第9回鎌倉記念
                         
 積極的な競馬をしたいと陣営がいっていたブルーサイレンスの逃げ。しかしキヌガサヒーロー,コアレスバトラーが絡んでいったため早いペースになりました。
 3頭とも直線の入口までは頑張りましたが,これらの直後につけていたキスミープリンスが外から一気に先頭に。そのまま後続との差を詰めさせず,危なげない形で優勝。向正面から激しく手が動いていたシービスティーですが,4コーナーではキスミープリンスの後ろまで取りつき,そこから内目を捌いて伸びてきて2着は確保。3着は2頭による接戦で,一旦は外のオリークックかと思いましたがゴール直前で内から出たヴェガス。
 優勝したキスミープリンスはここまで5戦して3勝2着2回という成績。レースぶりも安定していて,ここはそれを生かしました。キャリアを重ねていたこと,また前走で1600mを走っていたこともプラスに作用したと思います。父は2002年の皐月賞を勝ったノーリーズン,母の父はフジキセキ
 鞍上は大井の戸崎圭太騎手で,先週も日本テレビ盃を勝ちました。鎌倉記念は初制覇。管理しているのは浦和の小久保智調教師で,浦和の馬が鎌倉記念を勝ったのはこれが初めてです。
 2着のシービスティーは今回はブリンカーを装着してきたのですが,あるいはそれがどうだったか。レースぶりはキスミープリンスに負けず劣らずのものがあったように感じました。

 が祖母の使っていた部屋を使うという形になりましたので,祖母の方はショートステイから帰ってきても使う部屋がないという状態になりました。介護保険の規定の関係があって,ずっとショートステイ先で過ごすということはできなかったのです。
 実は,祖母が僕たちと一緒に暮らすことが決まったとき,ごく近所にアパートを1部屋借りました。アパートといっても2LDKですからそれなりの広さがあるもの。というのも祖母はかなりの荷物があったので,それをおいておくための部屋が必要だったのです。借りた当初,この部屋は日常的にはほぼ使われませんでしたが,母の父,つまり祖母の夫の仏壇などはこちらにあります。そして現在,ここには僕の叔父,これは母の弟になりますが,この叔父が住んでいます。事情があってこの叔父が離婚しましたので,ひとりで暮らすようになったわけです。
 叔父はもちろん仕事がありますので,日中は不在です。よって祖母をここにひとりでおいておくということはできません。しかしこの時期は,本当に偶然ではあったのですが,非常に都合がよい状況が発生していました。
 今年は4月に母と妹が母の姉のところへ渡米したわけですが,これとは逆に,伯母の方も年に何回かは来日します。そして今年はこの時期が,ちょうどそれと重なっていました。よって祖母の介助に関しては,この伯母に任せることができるような状況だったのです。これは後に詳しく説明することになりますが,父はこの後,再び,というかみたび入院することになります。その間は祖母はアパートの方で暮らしていたわけです。
 ということで父は問題なく家の方で過ごすことが可能でした。戻ってきたのが7月10日。この日に訪問看護を依頼したセンターの人が来て,正式に契約を交わし,この日のうちには看護師が来てくれました。といってもなすべき医療行為は限られています。よって身体を拭くとか,爪を切るとか,髭を剃るといった身の回りの世話が中心。土日も関係なく,父の自宅滞在中は毎日でした。父は看護師の来訪は楽しみに待っていたようです。
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王座戦&退院

2010-09-29 22:03:46 | 将棋
 次の横浜対局の実現のために是が非でも藤井猛九段に勝ってほしいと願っていた第58期王座戦五番勝負第三局。
 羽生善治王座の先手で藤井九段の4手目△3三角戦法。そこから後手が中飛車にするという珍しい形。先手は左美濃に組み,後手が狭いところに打ってから乱戦に突入。
                         
 夕食休憩前の局面。4七のと金が5七に入ったところ。ここは△5八ととして▲同金に△4九飛成を狙うのも有力だったと思います。局面としては▲3三角成△同金▲3一龍が狙いになりますが,▲5九香と打ちました。△5六と▲同香△6五銀までは必然と思える手順。そうしてから▲3三角成を決行し,△同金▲3一龍△4一歩成に▲5三香成(第2図)。
                         
 打った香車がこの上なく働いた格好。以下は△同金▲4二龍△同飛に▲6二金と絡んでいった先手が駒を多く渡しはしましたが,慎重に攻めきって勝っています。
 3連勝で羽生王座が防衛。19連覇を達成するとともに王座戦の連勝記録を19まで伸ばしました。
                         

 退院当日となる7月10日の朝は,母が病院まで父を迎えに行きました。母の話ですと父は退院することについて少しごねたそうですが,最終的にはもはや治療は不可能であるということについて納得し,昼頃に家に戻りました。
 みなと赤十字病院の外科のО先生から父の治療が不可能になったことを知らされたのは7日。残り時間が少ないことを考えれば,少しでも早く退院させた方がよかったのですが,3日ばかり経過してしまったのには理由があります。元来のスケジュールからは,こんなに早い段階で治療不可の状態になるとは考えていませんでしたので,自宅の方で退院してくる父を受け入れるための準備というのが必要だったのです。
 まず最初の問題は,帰ってきた父をどこに寝かせるのかということ。さすがに2階の自分の部屋まで上がっていくだけの体力はないと思われましたし,仮にあったとしても,そんなことに力を使うのは無駄な浪費であることが明らか。このとき,母の母はまたショートステイに出ていましたので,玄関から入ってすぐのところにある普段は祖母が横になっている部屋を使うということは可能でした。ただ,この部屋はフローリングの部屋に絨毯というか正確にはホットカーペットですが,それを敷き,祖母はその上にさらに布団を敷いて横になっているというのが自宅滞在時の状況。要介護4の患者であればこれでよかったのですが,末期癌の患者にはこれでは不十分でした。というか,この時点では大丈夫でも,後には不十分になる可能性がありました。そこで病院と同じ機能を持つ医療用ベッドをレンタルすることにしまして,これをこの部屋に置きました。祖母は車椅子を借りて使っていますから,これは同じ会社に頼むことができました。
 さらに,退院するといっても,まったく治療はしないというわけにもいきません。癌は末期になるほど痛みを伴いますが,すでにこの時点で父は腰だけではなく,手や足の痛みも訴えていました。よってこれはケアしなければなりません。このために,訪問介護と訪問医療の手続きをする必要があったわけです。これらの3日間は,こうした準備にあてられ,何とか目途が立ちましたので,9日に僕が告知して10日に退院という運びになったのです。
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銀河戦&告知

2010-09-28 13:48:20 | 将棋
 秋分の日に放映された第18回銀河戦決勝。収録は8月20日で,その時点での対戦成績は佐藤康光九段が31勝,丸山忠久九段が25勝。
 丸山九段の先手で一手損角換り1-Ⅱから,先手が早繰り銀,後手は8筋を伸ばしていくよくある将棋。先手は2筋で銀交換。丸山九段は本戦2回戦でもこう指しています。
                         
 ここで△3六歩▲3八金△4五銀というのが多かった指し方ですが,後手はすぐに△4五銀と出ました。以下▲3八金△3三桂▲7七銀△3六歩に△5五角を避けて▲5五銀(第2図)。
                         
 ここで後手は△1五角と打っていきました。単純な攻めですが受け難しいよう。先手は長考して▲1六歩と催促。△3七銀▲同桂△同歩成▲1八飛に一旦△2六角と逃げ,▲2七歩△3八と▲2六歩の取り合いに△2七金(第3図)と打ち後手は飛車を召し取りました。
                         
 感想戦の様子だとここでは丸山九段は不本意な展開と悲観していたよう。ここで▲6六銀上と逃げ道を作りましたが,下に逃げることを考えた方があやはあったよう。実戦はこれ以下,後手が一方的に攻めきって勝ちました。
                         
 佐藤九段は一昨年以来3度目の銀河戦優勝。ここのところタイトル戦の挑戦者決定戦とか棋戦の決勝ではあまり負けたのを見たことがないような気がします。

 癌との闘いというステージを千日手という形で終え,新たな人生の指し直しを迎えることになったに残されていた時間は,みなと赤十字病院の外科のО先生によれば長くてあと1ヶ月。つまり長くても8月の上旬くらいまでということでした。となれば,父がやっておきたいと思っていることをやらせるというのが最良の判断ということになります。実際,父は横行結腸癌であるということを知らされたときに,それが何であるのかは明言しなかったものの,まだやり残したことがあるという意味のこと言っていました。もう残り時間は僅かですから,早めに退院させた方がいいということになります。
 ただし,この場合に問題というのがいくつかありました。そのうち最大のものは,まだ父が,自分は横行結腸癌であるということだけを知っていて,それが肝臓をはじめ他の部位にまで転移しているということについては知らなかったということ。要するに自分の病気は治ると思っていたことです。しかしこの段階に至っては,これについても告知した方がいいのではないかと僕は思いました。外科のО先生はこのことについてはあくまでも家族に任せるという態度。母は僕にどうしたらいいだろうかと聞いてきましたので,僕は自分の考えを伝えました。母はそれに同意して,僕の方から父に伝えてほしいと言いました。ということで僕の方から告知することになったわけです。
 後に記す理由などがあり,実際に父に伝えたのはこの日ではなくて翌翌日となる7月9日の金曜日。大腸癌が肝臓などに転移していること,そのために肝機能が衰えてしまい癌の治療ができないということ,残されている時間は,もちろんこれは人間のことだからはっきりとは分からないけれども1ヶ月程度と考えておくべきだということ,だからもしもやっておきたいことがあるなら早めにやっておいた方がいいし,会っておきたい思う人がいるなら早めに会っておいた方がいいということ,そしてそのために,早いうちに退院して家に帰った方がいいということを,1時間ほどかけて説明しました。父がその説明をどの程度まで理解できたかは分かりませんが,最後に父は僕に対してありがとうと言いました。
 外科のО先生からはいつ退院してもいいと言われていました。告知も済みましたので,土曜ということで異例ではありますが,翌10日に父は退院して家に帰ってくるということになりました。
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岐阜記念&不思議の意味

2010-09-26 17:09:16 | 競輪
 シルバーウイークの後半は岐阜記念が開催され,今日が決勝(動画)。並びは永井-山口-山田の岐阜に梶応,浅井-村上の中部近畿に加倉で,加藤と笠松は単騎。
 前で受けたのは浅井。永井が4番手で,笠松が8番手,加藤が9番手という周回。残り2周から永井が上昇していき,バックで浅井を叩くと加藤まで出切り,浅井が7番手まで引いて打鐘。スローペースのままホームに入り,笠松が4番手を取り,梶応が5番手となったところでようやく永井が発進して先行。引いていた浅井はホームの時点で加藤からもかなり離れてしまいこの時点で圏外と思える位置。後方から動く選手がいなかったため,ペースで駆けた永井がそのまま逃げ切って優勝。2着に山口,3着も山田で地元勢の上位独占。
 優勝した岐阜の永井清史選手は今年1月の和歌山記念以来となる記念競輪2勝目。浅井も同じ中部地区なので,地元勢の邪魔をすることは考えにくく,その意味では展開的には恵まれました。それでもうまく駆けて山口にも抜かせなかったあたりは確かな力の証明といえるのではないでしょうか。

 の5月のⅡ型糖尿病の定期検診のとき,М先生が消化器系の病気ではないと判断したことについて,僕がなぜ今でも不思議だと感じているのかは,これで多くの方々にもご理解いただけたのではないかと思います。
 まず,父のヘモグロビンA1cには異常がありませんでした。一般的に,体調に異変を来しますと血糖値は上昇します。これは昨年の僕のシックデイのときに血糖値の高騰がみられたことからも分かります。もちろん血糖値というのは,短期的な指標であり,対してHbA1cはもう少し長期的な指標ですから,体調の異変による血糖値の高騰が一時的なものであるなら,HbA1cには反映されません。しかし癌というのはそういう類の病気ではないということは明らか。それなのに父のHbA1cは安定していました。どうも癌では血糖値というのは上昇しないと考えるべきなのかもしれません。
 続いて僕のオーダーと比べた場合にも気になる点がふたつ。ひとつは尿検査におけるビリルビン。尿検査は腎機能であり,血液検査は肝機能ですから,違うといえば違うのですが,一般的には血液中のビリルビン濃度が高くなると,これは尿としても排泄されるようになり,尿中にもビリルビンが出るようなのです。血中ビリルビン濃度が上昇すると前述したように黄疸の症状が出ますが,同様に尿からビリルビンが出てくるようになると,尿も黄色が濃くなるそうで,まるで関係ないとは僕には思えません。父がこの検査をしていたのかどうかは不明ですし,仮にしていたとしても,О先生が抗癌剤治療をスケジュールに組んだということは,少なくとも6月上旬の血中のビリルビン濃度はその治療に耐え得る値だった筈で,よって5月の時点では異常がなかったと考えることもできなくはありません。
 もうひとつがGOTとGPT。これは肝細胞に損傷があると数値が悪化するといわれています。父の肝臓の癌の進捗状況は不明ですが,少なくとも6月上旬に転移していたことは間違いなく,よってここには何らかの異常が出ていてもおかしくなかったのではないかという気がします。あるいは父はこれを調べていなかったのかもしれませんし,もしかすると癌の場合にはこうした数値には異常が出ないのかもしれません。
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ジャストミート&千日手

2010-09-25 11:07:28 | NOAH
 元日本テレビの倉持隆夫アナウンサーの印象に残るフレーズとして,右往左往というのを紹介しましたが,全日本プロレス中継全体を通していうなら,最も視聴者の記憶に残っているものは,おそらくは倉持さんよりずっと後に実況を担当することになった,福沢朗アナウンサーが,打撃系の技が決まった後に言う,ジャストミートということばでしょう。
 それが福沢さんにとって初めての実況であったのかどうかは定かではありませんが,僕は最初に福沢さんの実況を視たのはブッチャーが絡んだ試合でした。この実況がそれまでにはなかったような,何というかエキセントリックなもので,この時点で僕の脳裏に福沢さんのことが強く印象付けられました。後に福沢さんは,自身の提案であったのかどうかはこれも定かではありませんが,全日本プロレス中継の枠内にプロレスニュースというコーナーを作り,福沢ジャストミート朗という名前でそう書かれた鉢巻をしめて活躍するようになったのは,覚えていらっしゃる方も多いのではないかと思います。
 結果的にいますと,福沢さんはアナウンサーのキャリアという観点からは,このプロレス中継を踏み台にしたような形で,だから実際に実況に携わった期間というのは,倉持さんとか,その後にチーフ的な立場になった若林アナウンサーなどよりはずっと短かった筈です。ただ,福沢さんが実況している期間というのは,全日本プロレスにとっては,最良の時代であったのではないかと思います。
 僕のプロレスキャリアが始まった頃,おそらく新日本プロレスは最良の時代を迎えていた,あるいは迎えつつありました。そしてそれには,その当時の実況を担当していた古舘アナウンサーの功績というのも大であったと僕は思っています。そしてそれと同様に,この時代に全日本プロレスの人気が沸騰し,やはり最良といえる時期を迎えたことには,福沢アナウンサーの活躍というのが大いに作用したのではないかと僕は思っています。

 ここでもう一度,この7月7日の時点でのの状況というのを整理しておきましょう。
 父の癌は肝臓に転移していました。その大本となったのは大腸で,横行結腸癌でした。したがって治療のためにはこの癌を切除する必要があります。しかし,すぐに切除するには癌が大きすぎるので,抗癌剤治療を先に行い,この癌を小さくしなければなりません。抗癌剤治療のためには肝機能がある程度まで正常である必要があります。しかし父の肝臓は正常に機能していませんでした。それは肝臓に癌が転移していたからです。これで最初に戻り,結局のところはこの連鎖が無限に続くということになります。このような無限連鎖というのが,実はある否定的要素を含んでいるということは,連鎖の仕方こそ異なれど,たとえば第一部定理二八とか,第二部定理九からも明らかです。しかし外科のО先生からこの話を聞いたとき,僕の精神に浮かんだのはこの無限連鎖ということばではなく,千日手ということばでした。
 将棋では,もしも同じ手順が3度繰り返されますと,一局の将棋の中で同一の局面というのが4度出現することになります。すると千日手ということになり,この将棋は無勝負としてそこで終了。先手と後手を入れ替えて改めて別の将棋を最初から指して決着をつけることになります。今月の王位戦の第六局というのはこの典型的な例でした。本来は白黒をはっきりつけるべきゲームである筈の将棋において,このルールがやはりある否定的要素を含んでいるということは,一目瞭然ではないかと思います。
 決着をつけるべく指し続けた将棋を無勝負とし,改めて最初から指し直すということは,千日手局となった将棋というステージから降りて,指し直し局という別のステージに立つということを意味します。このときの父の状況もまるでこれと同じでした。すなわち父は,癌を治療するという人生のひとつのステージからは降りて,新たなステージに立たなければならなかったのです。そして指し直し局が千日手局よりも短い持ち時間で指されるように,父の持ち時間は大きく減っていました。父にとっての新たな舞台というのは,初手から秒を読まれているような舞台だったのです。
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日本テレビ盃&総ビリルビン

2010-09-23 20:22:49 | 地方競馬
 JBC前の最後の開催となる船橋競馬。メーンはJBCクラシックと同じ舞台になる今日の第57回日本テレビ盃
  発走後,一旦はフリーオーソが先頭に立ったように見えましたが,内からトランセンドが抜き返してこちらの逃げ。フリオーソが2番手に控え,アドマイヤフジ,スマートファルコンと続く隊列。最初の800mは47秒3のミドルペースですが,今日は稍重馬場になりましたので,前は楽だったのではないかと思います。
 3コーナーあたりでフリオーソがトランセンドに並び掛けたところでアドマイヤフジは脱落。前の2頭が後ろをやや離すように直線へ。叩き合いとはなったものの,半ばではフリオーソが抜け出して楽勝。2着は逃げ粘ったトランセンドと追ってきたスマートファルコンで首の上げ下げになりましたが,トランセンドが2着でスマートファルコンは3着まで。
 優勝した船橋のフリオーソは前走の帝王賞から連勝で重賞7勝目。テスタマッタが骨折明けということもあり,普通に走れば勝てると考えられた相手関係。ときに不可解な負け方をすることがあるのでその点は心配されましたが,今日はきちんと能力を発揮した上での順当な勝利といえるでしょう。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は今月は戸塚記念を勝っていて,日本テレビ盃は初優勝。管理している船橋の川島正行調教師は,馬インフルエンザの影響で南関東重賞となった一昨々年以来の3勝目です。

 が抗癌剤治療を開始するための手術を受けるために入院したのは7月5日の月曜日。この手術というのは実に簡単なもので,入院したこの日のうちに完了しました。この日も入院には母が付き添ったのですが,前回の人工肛門を取り付けるための手術とは異なり,僕は病院にも行っていません。抗癌剤の注入口は左肩の下あたりで,そこに器具が取り付けられたのです。これであとは治療を待つばかりとなったのです。
 抗癌剤の治療は翌6日の火曜から開始される予定になっていました。当初のスケジュールでは,抗癌剤治療は通院で行うということになっていましたが,やはり副作用がつきものですから,最初のうちは様子をみるために入院しながら行うということになったのです。しかしこれは予定通りには行われませんでした。この理由というのは,翌7日の水曜に,みなと赤十字病院の外科のО先生の口から伝えられました。すなわち呼び出しがあったのです。О先生から話を聞いたのは,僕と母のふたりでした。このときの話の内容というのは概ね次のようなものでした。
 抗癌剤治療を効果的に行うためには,肝臓機能というものがある程度までは正常に機能している必要があります。О先生が最初にスケジュールを組んだとき,父の肝機能はそれに耐え得るものでした。ところが前日に抗癌剤治療を行うための準備として再び血液検査を行ったところ,О先生も予想できなかったほどにそれが悪化していたのです。具体的にいいますと,総ビリルビンという検査の値が,抗癌剤治療に耐えられないほどになっていました。もしもこの状況で抗癌剤治療を行えば,単に副作用だけが生じてしまうだろうということでした。もちろんこれは,肝臓に転移していた癌の影響です。
 この総ビリルビンという値が悪化しますと,黄疸の症状が出てきます。確かにこの時点ですでに,父にはその症状が出ていたように思います。とくに顕著だったのは脚で,明らかに正常な肌の色と比較して,黄色みが強くなっていました。
 このため,当初のスケジュールは完全に崩れることになりました。抗癌剤治療を行えないということは,要するにもう癌の治療は行えないという意味です。そのとき,僕の精神にあることばがふっと浮かんできたのです。
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王座戦&一時退院

2010-09-22 21:13:44 | 将棋
 羽生善治王座がこの棋戦での連勝を17まで伸ばして迎えた第58期王座戦五番勝負第二局。
 先手の藤井猛九段は居飛車を選択。変則的な序盤から駆け引きを経て先手が片矢倉,後手が金矢倉という形に。向い合っていた角を先手から交換して馬を作るという将棋になりました。第1図は1筋で銀の交換が行われたところ。
                        
 ここで後手が△6五歩と突いたのに対し,先手は▲同馬と取りました。△8六歩▲同歩△8七歩と垂らしたのに▲6四馬。しかしこれは△7三角▲同馬△同桂(第2図)で,先手の主張ともいえる馬が盤上から消えてしまいました。
                        
 こうなってはかなりあやがついてしまっている分,先手が苦しそう。この後,銀を犠牲に8筋を突破した後手が一方的に攻めきる形で勝っています。
 羽生王座が連勝で防衛に王手。きわめて個人的な話をすると第四局が横浜で予定されていますので,次は藤井九段にぜひとも頑張ってほしいところなのですが…。その第三局は29日です。

 ある程度まで体力が回復してが退院できることになったのは6月30日。結果的にいえばのべ26日間の入院ということになりました。結局,この間に僕が父を見舞ったのは,父が横行結腸癌であるということを外科のО先生に知らされた日と,その翌日の手術の日を除けば1度だけ。日付でいいますとこれは6月16日の水曜で,この日は事情があって母が見舞いに行かれなかったので,僕が代わりに行ったもの。といいましてもこの日は僕も仕事がありましたから,早めに済ませて病院に着いたのが午後4時頃。実際に父のそばにいられたのは1時間ほどでした。
 一方,この退院というのはあくまでも一時的なもの。スケジュールでは抗癌剤の治療を開始することになっていましたが,そのためには前にも説明したような軽微な手術が必要で,そのために7月5日の月曜には再び入院することがこの退院の時点で決まっていました。つまり1週間弱しか家にはいられなかったわけで,それなら継続して入院していた方がいいのではないかと僕も思いましたし,父自身もそのように言っていました。ただ,あくまでもみなと赤十字病院というのは救急病院であり,入院の継続は20日間が限度という決まりがありました。父の場合,その限度をすでに超過していましたので,ここでわずかの期間ですが退院することになったのには,そういった理由もあったのかもしれません。実際に僕自身も,昨年の元旦に入院しまして,退院してきたのが1月20日でしたから,入院期間は原則の限度ぎりぎりの20日間でした。
 24日も僕は仕事だったのですが,これは午後からで,午前中は家にいました。父の迎えは母が行きましたので僕は家で待機していたのですが,僕が出掛ける前に父は戻りました。父は家に入るや階段を上り,2階の自分の部屋に入って横になりました。つまりこの時点で父は,自力で階段を上れるくらいまで体力が回復していたということになります。この退院の期間は父はずっとそうして自室で過ごしていました。つまり階段の上り下りというのはできていたということになります。ただし外出というのは一切していません。食事の量は以前と比べますとかなり減っていて,夕食なども,ご飯に卵を掛けてそれ1杯だけで終りというような状況でした。
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青森記念&見舞い

2010-09-20 19:32:52 | 競輪
 地区に3場しかないということで,北日本の有力選手の参戦が目立った青森記念の決勝(動画)。並びは山崎-佐藤-成田となった北日本,中野-川村-山口の近畿中部,佐々木-西田の四国中国で神山が単騎。
 前受けは山崎。佐々木が中団で中野が6番手。神山はこのライン追走のレースに終始。上昇した中野は残り2周で山崎の前に。佐々木は動かなかったので山崎は5番手。打鐘過ぎのコーナーから山崎が巻き返しに出て,ホームでは中野を叩いて先行。北日本追走の佐々木がバックから捲ると山崎の番手から佐藤も発進。佐々木は成田のブロックで失速。この間に佐藤と成田の車間がやや離れてしまったので,佐藤が大きな差をつけて優勝。成田が辛うじて2着を確保。3着は直線で大外をよく伸びた川村。
 優勝した岩手の佐藤友和選手は先月の全日本選抜に続く優勝。記念競輪は昨年暮れの武雄記念以来で通算4勝目。北日本はいろいろな並びが考えられたところでしたが,青森ということで佐藤が番手になった模様。ホームで山崎が中野を叩ききったところですべてのお膳立てが整った感じがします。獲らせてもらったという印象も強いですが,低迷期は完全に脱したとみてよいのではないでしょうか。

 みなと赤十字病院の外科のО先生が示したスケジュールの通り,人工肛門開設の手術後,は入院を継続して体力の回復を図りました。したがって,この間はまだ抗癌剤の治療には入っていません。といいますか,抗癌剤の治療を開始するためには,その抗癌剤を体内に注入するための管というのを身体に取り付ける必要があり,この取り付けのためには,ごく簡単なものですが手術が必要でした。つまり単に体力が回復したとかしていないとかいう以前の問題として,この時期の抗癌剤治療というのは物理的に不可能だったわけです。
 みなと赤十字病院というのは,どんなに重篤な患者であっても,特別な場合を除いては付き添いは不要ですし,むしろ拒否されます。したがって通常の見舞いということになるのですが,この見舞いには母がほぼ毎日のように行きまして,僕はこの間はほとんど行っていません。ウイークデーの場合は午後3時が面会可能となる時間ですので,その時間に病院に行き,帰りはついでに妹を迎えにいくというのが母のパターンになりました。妹は普段は帰りはひとりでバスを乗り継いで帰ってきていたわけですが,この間は帰りも母と一緒だったということになります。
 僕がほとんど見舞いに行かなかったのは,もちろん仕事の関係もありましたが,もうひとつ,別の理由もありました。父は末子相続という形で家を継ぎましたので,僕の両親が結婚したとき,父の父はすでに死んでいましたが,父の母は健在でしたから同居していました。つまり僕の両親というのはふたりきりで過ごした時間というのは,ほとんどなかったわけです。父の余命は長くて3ヶ月と診断されていましたから,最後にそうした時間を作るというのも悪いことではないという思いが僕にはありました。そしてそれは,たぶん母にもあったのではないかと思います。実際に母は,後にこんなに長い時間を父とふたりで過ごしたのは初めてだったといっています。まだこの時点では,父は自分の病気の何たるかをはっきりと知っていたわけではないのですが,もしもそれを知っていたとしたら,やはり父も同様に思ったのではないかと思います。
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妙手⑬&人工肛門

2010-09-19 17:27:08 | ポカと妙手etc
 第81期棋聖戦本戦準決勝より。後手のごきげん中飛車に先手が2枚の銀を繰り出していった将棋。
                         
 4三で金を取りながら作ったと金を後手がひとつ入ったところ。ここで△3一飛という妙手というか鬼手が出ました。後手は飛車を助けるすべはありませんが,このまま▲5一とと取られては金に当たってしまうので,玉から離れた3一で取らせようという意図。手筋としてはありますが,実戦で生じるのは珍しいかもしれません。先手も飛車は取らずに▲7四歩から猛烈な攻め合いとなり第2図。
                         
 30手近く進んだわけですがと金と飛車の関係は変わっていません。先手はここでも飛車は取らずに▲9五歩。△同歩に▲6六角と打ち,△8四銀をみてようやく▲3一と(第3図)と飛車を入手しました。
                         
 部分的にいうならば,取れ,取らないという折衝を延々と続けていたわけですから,先手の方が根負けした格好。局面はまだ少し難しいところが残っているようにも感じられますが,将棋はここで△3八飛と打った後手が勝っています。

 ここでが手術して作った人工肛門というものについて少し説明しておきましょう。実をいいますと僕はこれについて大きな勘違いをしていたのです。
 人工肛門ということば自体は僕も以前から知っていました。確か俳優の渡哲也さんが人工肛門をつけていて,あるいはそういったことから僕もそうしたものの存在を知るようになったのかもしれません。
 僕の勘違いというのは,人工肛門というからには,これは人間の肛門に対して何らかの施術を加えるのだろうと類推していた点です。これは人工肛門ということばから発生する想像。スピノザが第二部定理四〇の備考二で,人間がことばによって観念を形成するのは表象にすぎないということの証明ともいえるでしょう。
 実際の人工肛門というのはそうではなくて,腸から管を繋いで,腹の部分に人工的な肛門を取り付けるのです。よく考えれば大腸に問題があるのですから,いくら肛門に施術をしても無意味なのは当然。排泄物はこの管から出てきて,この管の先に取り付けてあるポケットくらいの大きさのビニールの袋に溜まっていく仕組みになっています。つまり人工肛門使用者,これを専門用語でオストメイトというそうですが,オストメイトはその袋を常にぶら下げているということになります。もちろん袋には量の限界というものがありますから,その袋は付け替えが必要です。どのくらいの頻度で交換するのかということは,たぶん食べる量にも左右されるのではないかと思いますので,一般的にいえるものではないかと思いますが,父の場合は3日に1度くらいでした。ちなみに父は手術後しばらくの間は食事はなしで点滴のみ。その後,お粥から徐々に食べ始め,最終的には何を食べてもよいという状況まで回復したのですが,食べる量というのは入院前の身体の不調を訴えていた時期から比べても激減していました。
 袋の付け替えは入院中は看護師がやってくれますが,退院したら僕のインスリン注射と同様に自分でやらなければなりません。ということで入院中に練習したようですし,また,母もそのやり方を看護師から教わったようです。状況的に父は動けなくなるということも考えられましたので,これは必要なことでした。
 ところで,このように人工肛門をつけても,尿は出るのです。腸から中腹部へ管を通しているのになぜ尿だけは出るのか僕には不思議でしたが,とにかく出るものは出る。ということで,父は人工肛門はつけましたが,だからトイレに行くことがなくなったというわけではありませんでした。
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その後のシーク&手術

2010-09-17 12:24:13 | NOAH
 僕のプロレスキャリアが始まった年は,アラビアの怪人はマーク・ルーインとのコンビで年末の世界最強タッグ決定リーグに参加していました。このリーグ戦は,後で詳しく書くことになるでしょうが,ブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカのチームが優勝しています。そしてこれを最後に,僕は少なくとも日本テレビの全日本プロレス中継においてはシークを観ていないので,たぶん全日本のリングには上がっていないのではないかと思います。前に説明しましたように,シークはプロレス的な技というのを試合の中ではほとんど繰り出しませんでしたし,相手の技を受けるということもしませんでしたが,これはもしかしたら年齢的にそういう動きをすることがすでに困難になっていたからかもしれず,もう全日本に呼ばれなくなった,要するにこれは馬場から呼ばれなくなったという意味ですが,それにはそうした事情もあったかもしれません。
 しかし,僕はシークを生で観ているのです。これは学生か,そうでなければ卒業して就職してすぐの頃。元全日本プロレス所属で1度は引退した大仁田厚が旗揚げしたFMWでのことです。
 僕のプロレスキャリアが始まって10年以上は経過していたので,すでに開始の時点で年齢的に難しくなっていたと考えるなら,この頃はさらに年をとっているわけですから,正直にいって試合の内容はまあひどいものでした。全日本の頃はまともなプロレスはしないといっても,リングには上がっていたわけですが,この頃は場外戦に終始し,リングに上がるということ自体が少ない。ですから試合時間も元々が長い方ではありませんでしたが,極端に短くなりました。
 そういう意味では,プロレス自体はまったく面白くも何ともなかったのですが,それでもファンクスと激しい抗争をかつて繰り広げた,シークという半ば伝説的なレスラーを,この目で見ることができたというのは,貴重な経験であったと思います。

 翌6月10日。の手術の日です。ダウン症の妹はパンを作る作業所に通っていまして,ひとりで行かれないことはない,というか帰りは基本的にひとりでバスを乗り継いで帰ってくるのですから,行きもひとりで行かれるのですが,癲癇の発作のために朝は体調が悪くなることがあるためにいつも母が送っていました。一方,みなと赤十字病院で手術が行われる場合,緊急である場合を除けば午前9時から。父は朝一番で手術という予定になっていましたので,母はこの日は朝の早いうちから病院へと向いました。したがって妹を作業所まで送り届ける役目が僕に回ってきまして,僕はこれを済ませてから病院に向かいました。作業所というのは,位置関係でいいますと僕の家とみなと赤十字病院との間にありますので,それ自体はさして大変なことではありませんが,僕と妹が家を出たのは8時50分頃でしたし,僕の場合はバスで送るということになりますから,当然ながら手術の開始前には間に合わず,父の顔をみておくことはできませんでした。
 このとき父は6階に入院していました。みなと赤十字病院の手術室は3階にあったのですが,3階には患者の家族が待っていることができるような場所はありません。よって僕はすでに手術が始まっていることは知っていましたから,3階は素通りして6階へ向かいました。ただ,父の病室にはだれもいませんでしたので,そのまま同じ階の談話室へ。そこには母と父のふたりの兄夫婦の5人がいまして,僕も合流しました。なお,父の病室は4人部屋でしたが,その部屋の構造は,僕が入院した8階の内科病棟とやはり同様でした。少し狭く感じられましたが,たぶん気のせいでしょう。
 僕たちに手術の終了が告げられたのは12時前くらいだったと思います。僕たちは3階に向い,執刀した外科のО先生の話を聞きました。手術自体は成功。開腹しましたのでついでに少し調べたところ,やはり癌は肝臓や腹膜へと転移しているとのことでした。それから病室が7階へと移動するので,そちらへ向うようにとの指示。僕たちはこの時点ではまだ父に会うことはできず,会えたのは7階の新しい病室に戻ってからでした。少し話をしたのですが,やはり父も疲れているようでしたので,そのまま病院の食堂で昼食を摂って帰りました。
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トゥインクルレディー賞&告知の問題

2010-09-15 20:34:58 | 地方競馬
 実力伯仲の上にハンデ戦ということで,馬券的にはかなり難解なレースと思われたトゥインクルレディー賞
 先手を奪ったのはチヨノドラゴン。キョウエイトリガー,タッチブライト,エロージュの4頭はほぼ固まってレースは進みました。前半の800mは49秒0。ハイペースといえども猛烈ではありませんが,集団での先行でしたので先行勢には苦しかったと思います。
 この4頭の直後にいたヒロアンジェロは4コーナーでは自然と前に。外からこれをマークするようにテイエムヨカドーが上がり,内からエロージュが盛り返して3頭の叩き合い。真中のヒロアンジェロが最後まで抜かせずに優勝。エロージュが2着。テイエムヨカドーは一杯となり,変わって大外を追い込んだフサイチミライが3着。
 優勝したヒロアンジェロは昨夏までにJRAで2勝をあげて北海道に転入。5戦4勝で昨年暮れには南関東へ。南関東での2戦は4着,3着でしたが,昨年の道営記念で2着になっているくらいですから,ここでも通用する裏付けはありました。8ヶ月ぶりとなった前走を叩いて調子も上向いていたのだと思います。父はグラスワンダー
 鞍上は大井の坂井英光騎手。5月の川崎マイラーズ以来となる南関東重賞制覇。管理しているのは大井の鷹見浩調教師。トゥインクルレディー賞は共に初制覇となりました。

 ここでひとつ僕たちに大きな問題が生じました。すなわち外科のО先生が僕たちに告げたこの事実を,に対しても告知するかどうかという問題です。
 まず,父は自分が大腸癌であるということについては自分自身で疑っていました。したがって大腸癌,具体的に横行結腸癌であるということについてはそれを秘匿するという選択はあり得ませんでした。というかこれは現実的に無理な選択と思えたのです。
 また,最初に行った病院で預金の状況や生命保険についてメモ書きしたところをみますと,自分が死ぬということについても,ある程度の可能性を感じていたのだろうと思われます。僕も2008年の暮れには自分のというものをリアルなものとして感じましたが,おそらくそれと同じような感覚が,この頃の父にはあったのではないかと思うのです。
 しかし一方で,父は自分が大腸癌であって,それ以上の転移がないならば,それは治るものだと思っていたふしがあります。あるいは完治はしないまでも,まだまだ生きられると思っていたようなのです。
 実をいうと同居している母の母は大腸癌なのです。これを告げられたのはもう何年も前のこと。祖母の場合もやはりその癌自体は切除することができないほどの大きさでした。一方,大正生まれという年齢的なことを考えれば,抗癌剤治療というのも断念せざるを得ませんでした。つまり癌は放置状態なのです。それでも転移もせずに,またその癌自体もそれ以上は進行せず,現在まで生きています。もちろん癌の進捗というのは,個人差がありますし,一般的に老齢になればなるほどゆっくりになるようですから,父の場合と同様の比較はできませんが,それでも身近にこのような実例があるのですから,父が大腸癌だけであればまだまだ生き続けられると思ったとしても,それは不思議なことではありませんでした。
 そしてもうひとつ,抗癌剤治療は通院で行う,すなわち1度は間違いなく退院してくるという事実がありました。退院できる以上は,その前提として,病の完治があった方がよいのではないかというのが僕たちの判断でした。したがって,大腸癌であるということは父に告げるけれども,転移のことや余命のことは秘匿しておくという選択になったのです。
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防府記念&スケジュール

2010-09-14 18:49:13 | 競輪
 GⅠからほどよい間隔ということもあり,S級S班が5名参加してきた防府記念の決勝(動画)。並びですが,まず神山に岩津,海老根-中村の千葉,柴崎-山口の中部,井上-西川の九州で,三谷は単騎。
 細切れ戦ということもありSは取り合い。誘導の後ろを確保したのは岩津で,神山の前受け。柴崎が3番手,井上が5番手,三谷を挟んで海老根が8番手という周回に。まず海老根の上昇に三谷がスイッチ,さらに井上も追って,海老根が誘導を斬って前に出たところで井上が海老根を叩いてイン斬り。これを柴崎が叩いて先行態勢に入ったところ,神山が外を上昇。三谷は山口の後ろに入り,中団は井上が確保。海老根は後方。柴崎と神山の先行争いは柴崎。バック3番手から三谷が行きましたが,その上を井上。さらに後方の海老根もきて捲り合戦。井上が捲りきって優勝。最後尾から海老根に乗って追いこんだ中村が2着に差し込み,井上マークの西川が3着。
 優勝した長崎の井上昌己選手は一昨年の競輪グランプリを勝った後は不振に陥りグレードレース優勝から見放され,今年はS級S班も確保できていませんでした。年齢的にも極端に落ち込むことは考えにくく,個人的には不思議に思っていました。これが復調のきっかけとなるのでしょうか。記念競輪優勝は一昨年8月の別府記念以来で通算4勝目です。

 この日の外科のО先生から僕たちへの説明は,翌日の手術のことがすべてではありませんでした。すぐに着手しなければならないのは,人工肛門の創設でしたが,その原因となっている横行結腸癌に関しても治療が必要ですので,そのスケジュールに関しても説明があったわけです。
 基本的に,癌というのは,完治を目指すということになれば,それを完全に切除するという必要があります。しかしその手術というのは大変なものですから,患者にある程度の体力があるのでなければなりません。の場合,翌日に人工肛門を取り付ける手術がありますから,すぐに癌を切除する手術を行うことはできないであろうということは,別に外科のО先生の説明がなくても,僕には理解できることでした。しかし,父の場合には,さらにこれとは別の大きな問題があったのです。
 癌を切除するといっても,それはある程度の大きさであるから可能なのです。しかし父の場合は,腸閉塞を生じる寸前まですでにこの部位の癌が肥大化していました。この状況では切除できないのです。切除するためには切除できるだけの大きさにまでこの癌を小さくする必要があるので,癌を切除する手術の前に,抗癌剤による治療が必須とのことでした。ただし抗癌剤の治療というのは強度な副作用を伴いますので,やはり患者にある程度以上の体力が必要。したがって,人工肛門創設の手術の直後から抗癌剤治療に入るということは不可能。ではいつから開始できるのかといえば,それは父の体力の回復次第ですから,はっきりといつから始められるということはいえないというのが外科のО先生の説明でした。なお,抗癌剤の治療は通院でも可能なので,まず人工肛門を取り付け,体力の回復を待って退院。そして通院という形で抗癌剤治療を行い,それで癌が切除することができる程度の大きさになったら再び入院して手術をするというのが治療のスケジュールとなったのです。
 ただし,前にもいったように父の癌は,この時点ですでに身体のほかの多くの部分にも転移してしまっていました。なので,このスケジュール通りに治療を行い,それがすべてうまくいったとしても,父の余命は3ヶ月程度ではないかというのがО先生の判断でした。つまりこれが6月4日のことですから,余命は最長でも9月上旬までと僕たち3人は説明されたわけです。
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フォワ賞・ニエユ賞&横行結腸癌

2010-09-13 19:06:01 | 海外競馬
 ヨーロッパの競馬の秋の最大のレースは来月3日にフランスのロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞。今年は日本から2頭が渡仏。日本時間昨日深夜に同じ芝2400mの前哨戦があり,2レースに1頭ずつ参戦しました。
 まず3歳馬によるニエユ賞GⅡ。ここには今年の皐月賞を優勝したヴィクトワールピサ。このレースはペースメーカーがいましてその馬が引っ張る形。出走した7頭はほぼ一団。ヴィクトワールピサは中団からレースを進め,最後の直線に入るところでは一旦は最後尾まで後退。そこから大外に持ち出されていい感じで上がってきたのですが,直線半ばでは力尽きる形となり4着。レースぶりからは距離が少し長いのではないかというような印象を受けました。
 続いて4歳以上のフォワ賞GⅡ。こちらには宝塚記念を優勝したナカヤマフェスタが出走。このレースは勝ち時計がニエユ賞より5秒以上も遅いことからもうかがえるように超スローペース。掛かり気味の6頭がほぼ一列に並ぶようなレース展開で,ナカヤマフェスタは3番手から。直線で前の2頭に外から並び掛けていくというレースになりましたが,逃げた馬が驚異的と思えるような粘り腰を発揮し,捕まえきれずに2着。ただ,宝塚記念は人気薄での勝利ではあったものの,それがフロックではなかったということだけは示すことができたのではないでしょうか。
 本番となる凱旋門賞は日本時間で10月3日深夜。当然ながら前哨戦より強いメンバーとなりますので,厳しい戦いとなることが予想されますが,力を十分に発揮できる状態で出走してほしいと思います。

 検査の結果,は一刻の猶予もならないという状況でしたので,すぐに手術をする必要がありました。このために9日の水曜に主治医であり執刀医でもあるО先生から病院に呼び出されました。なお,あらかじめ説明しておきますが,僕は網膜症の検査でО眼科に通っていますので,そこのО先生,そしてこの主治医のО先生,さらに後にもうひとり別のО先生というのが出てきます。混同の恐れもありますので,この主治医に関しては,みなと赤十字病院の外科のО先生と表記することにします。
 実は9日の午後というのは僕はどうしても外せない仕事がありました。ただ,これは,遅くとも午後の5時半までに現地に到着できれば何とかなるという性質のもの。もちろん早ければ早い方がよかったわけですが,外科のО先生の説明は正午からという予定でしたので,出席することが可能でした。もちろん医師というのは,それも外科医ともなれば突然に思いがけない仕事が入ることもあるでしょうが,現地までは1時間もあれば行けましたので,大丈夫という判断だったわけです。母と父の長兄のふたりが同席しました。
 僕は父が入院してからまだ病院に行くことができていませんでしたので,先に父を見舞い,呼ばれるのを待っていましたが,予定の正午から10分も過ぎないうちに看護師がやってきまして,О先生が待つ手狭な会議室という感じの部屋に向かいました。片側に僕たち3人,向いにО先生と看護師のふたりでした。
 父の病名ですが,大腸癌でした。もっと部位を細かくいえば横行結腸癌。ただし,これはあくまでも元となった病気であり,肝臓や腹膜,肺にも転移している可能性が濃厚であるとのこと。ただ,この時点で最大の問題は,大腸の癌がかなり肥大化しているために便の通りが悪くなっているということ。これが父の便秘の原因でした。腹が張っているのは便が溜まっているからであり,これは腸閉塞を生じる一歩手前の段階。これを放置すれば6月中はまず保たないということでしたので,癌の治療をするよりもまず人工肛門を作る手術が必要とのこと。この手術を翌11日の午前9時から行うということになりました。
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ストーリー展開&入院

2010-09-11 11:46:44 | 歌・小説
 これまで,夏目漱石の『明暗』におけるドストエフスキーからの影響というのをいくつか僕なりに示してきました。しかし,僕が考えている最大の影響というのはもっと別のところにあります。それは,ごく簡単にいうならば,ストーリーの展開の仕方です。
                         
 これは何度もいってきていることですが,夏目漱石は途中から朝日新聞に入社し,小説を新聞小説という形で記してきました。したがって,ひとつの小説が始まって終るまで,たとえば半年とかの時間が経過するわけです。漱石自身がそのことをどの程度まで意識していたのかは分かりませんが,おそらくはそのこともあって,漱石の小説というのは,始まりから終わりまでに,ある程度の時間が経過します。いい換えれば,小説の中の時間の流れというのがゆったりとしているのです。
 ところが,『明暗』は別です。これは未完の小説ながら,漱石の小説としては最長のもので,したがってそれまでの漱石の小説のパターンからすれば,小説内の時間の経過もまた最も長くなっているというのが普通でしょう。しかし,『明暗』の中に流れている時間の幅は,存外に短いのです。
 小説自体は非常に長いのですから,その中で生じている出来事というのは,当然ながら漱石のほかの小説と比べても多くはなっています。そしてその多くの出来事が,それまでの漱石の小説よりも短い時間の中で生じている。いい換えれば『明暗』というのは,漱石のほかの小説には例がないくらい時間の経過が濃密なのです。
 そしてこの時間の流れの濃密さというのは,僕はドストエフスキーの小説のひとつの特徴であると考えています。『明暗』が長いといっても,『罪と罰』ほどではありませんし,『カラマーゾフの兄弟』などはもっと長いものです。ではその中でどれくらいの時間が経過しているのかというとこれが驚くほどに短い。たとえば『罪と罰』ですと,エピローグとなっている部分を除いた主要部分でおよそ2週間。この時間の濃密さは漱石の小説とは明らかに一線を画しています。
                         
 『明暗』において漱石がそれまでの小説にはないくらい濃密な時間を描いたこと。それは明らかに漱石がドストエフスキーを意識した結果だと僕は思うのです。

 このときが向かった病院,すなわち僕が初めて救急車に乗ったときに搬送されていった病院であり,また父が腸ヘルニアのために夜中に行った病院ですが,その当時よりもおよそ1キロほどになるでしょうか,僕の家の近くに移転しています。午後の診察は1時半からということで,到着したのがその前であったため,少し待たなければならないという状態でした。なお,僕は家で留守番をしていたわけですから,このあたりのことはすべて付き添った母から後になって聞いた話です。
 これは主に腰痛ですが,待っている間に父はひどく痛がったそうです。そして母から紙とペンを借りて,自分の貯蓄の状況やカードの暗証番号,生命保険などについてメモをしたそうなので,父自身はかなり重大な状況であるという自覚がこの時点ではあったのでしょう。なお,このメモは後に僕が受け取りました。残念ながらというべきでしょうが,大変に役に立ったメモとなりました。
 この状況を通りがかった看護師が目撃し,それほど悪いのであれば先生に頼んで時間前に診察することを提案。したがって1時半前には診察となったそうです。医師は状態をみて,詳しい検査が必要と判断,レントゲンやCTなどの検査をしたので,これでかなり時間がかかったようです。この検査の結果が思わしくなく,すぐに入院した方がよいということになったのですが,開いているベッドがないということで,みなと赤十字病院へと回されることになりました。これは父の希望でもありましたし,また同時に家族の願いでもありましたから,やはり救急車を呼ばずにわざわざこの病院へ連れていったのは成功だったといえるでしょう。なお,みなと赤十字病院へは,父は母の自動車ではなく救急車で運ばれ,母がその後を追ったそうです。
 この病院での検査の結果はCDロムに記録として残され,当然ながらそれもみなと赤十字病院の医師に渡されたのですが,みなと赤十字病院でもやはり同様の検査を行ったため,また多くの時間が費やされました。病院の検査でそうも異なる結果というのが出る筈もありません。やはりここでも結果は思わしいものではなく,父はそのまま入院するということになりました。
 母がようやく家に戻ったのは午後8時くらいではなかったかと思います。つまりそれだけの時間がかかったということ。母は僕に相当に悪いようだということだけを告げて,入院のための準備を済ませ,再びみなと赤十字病院へと向かいました。よってこの段階では僕はまだ父の病名を知らずにいました。
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王座戦&家庭の事情

2010-09-09 21:31:29 | 将棋
 とくに王座戦となると超人的な強さを発揮し続けている羽生善治王座に藤井猛九段はどう挑むのか。第59期王座戦五番勝負が開幕しました。対戦成績は羽生王座が29勝,藤井九段が14勝。千日手が2局あります。
 振駒で羽生王座が先手。藤井九段は四間飛車から角交換。後手が3筋の位を取り,先手が2筋,後手が4筋の歩をすんなりと交換するという珍しい形に。互いに玉を十分には囲わないままというか囲えないまま本格的な戦いに突入して飛車交換となりました。
                         
 手番は先手なので先に▲3二飛。後手も△2九飛▲5二金と俗に打ち込んだのに対して△8五桂。▲6八金寄△6一香と互いに受けの手を指してさらに先手は▲8六銀(第2図)と逃げました。
                         
 これで後手からは適当な継続手がなく,困っていたよう。ということは飛車交換から桂馬を打って攻め合った判断が誤りだったということではないかと思います。この後,たぶん先手に見落としがあったのではないかと思いますが,うまく修正してそのまま押し切りました。
 羽生王座が先勝。前人未到の19連覇に好発進。第二局は22日です。

 糖尿病や糖尿病性網膜症でお世話になっていたみなと赤十字病院で診察を受けたいということは,の希望ではありましたが,これは同時に僕たち家族の願いでもありました。これには僕の家庭の事情というのが左右しています。
 すでに何度か説明していますように,この時点で僕の家には父も含めて5人が暮らしていました。そのうち祖母,母の母は要介護4。これはもとをただせば僕がまだ学生の頃でしたから,今から20年ほど前に脳内出血で倒れたときの後遺症。その後もいくつかの疾病に罹患した末,現在のような状況に至っています。また,僕には6歳下の妹がいますが,彼女はダウン症という重度知的障害。ふたりとも,常に保護が必要な状態というわけではありませんが,5人のうちのふたりは日常的になにがしかの介助は必要だったのです。このために,もしもすぐに救急車を呼んで,万が一どこか遠くの病院に運ばれてしまい,そこで入院などということになれば,家族の負担,この場合は要するに僕と僕の母の負担ということになるわけですが,これがかなり大きくなってしまいます。みなと赤十字病院の場合,歩いて行くというには少しばかり距離がありますが,車ならば家から15分もあれば着きますから,そんなに遠いというわけではありません。また,入院した際の介護が手厚く,家族の付き添いというのはまったく必要がありませんでしたので,そうした面の負担も軽減できることは明らかでした。もちろん父自身もこうした家族の状況というのは熟知していたわけですから,医療の態勢とか診察を受けているとかいったことをどうこういう以前の問題として,みなと赤十字病院を希望したのはごく自然なことであったと思います。
 6月5日に父が下りてきたのは午後になってから。それから病院の手配などもしましたので,実際に病院へと向かったのは午後1時前後だったのではないかと思います。僕は免許を持っていないので,母が運転も兼ねて父に付き添い,僕は自宅で待機することになりました。このとき,祖母はショートステイで不在でしたので,家に残ったのは僕と妹のふたりだけだったということになります。
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