スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

残したかったもの&放棄

2013-01-31 18:44:58 | NOAH
 馬場は全日本プロレスをひとつのファミリーと考えていて,そのファミリーを貫く制度は戦前の家父長制であったというのが僕の理解です。もちろんそのとき,この制度における戸主に該当するのが馬場本人であるということが含意されているということはいうまでもありません。
                         
 そうであるならば,戸主である馬場は,自分が築き上げたもの,あるいは自分が残したものを,だれかに引き継がせる必要があったと考えられます。無論,馬場の不在と同時に全日本プロレスが終焉するというのもひとつの道ではあったでしょうが,僕は,馬場は仮にそうなってしまうのであればそれはそれで仕方がないと割り切っていたとは思いますが,できることならば全日本プロレスの存続を願っていただろうと判断しています。
 このとき,それを引き継ぐもの,要するにこの制度においては馬場の長男にあたる人物ですが,この人物が相続するべきものとして,ふたつのものがあったと僕は思います。ひとつは全日本プロレスという会社そのものです。そしてもうひとつは,馬場が展開してきたプロレススタイルです。僕がここで馬場のプロレススタイルといっているのは,馬場自身がフレッド・アトキンスから習得したレスリングの基礎も含みますし,あるいは後年の馬場がキャッチフレーズとした,「明るく楽しく激しく」を標榜するプロレスも含みます。いい換えればそれは,馬場が自分自身で,またプロモーターとしてリングの上で展開してきたすべてのものという意味です。
 馬場は全日本プロレスという会社についてはあまり多くのことばを残してはいません。ただ,晩年は明らかに多様化するプロレススタイルを憂いていたようで,プロレスとはこういうものでなければならないということに関しては,それ以前より明らかに多くのことを語っています。それはおそらくそれを残してほしいと願っていたからだといえるのではないでしょうか。たぶん馬場は,仮に全日本プロレスという団体が消滅することになったとしても,自分が信じたスタイルさえ残るなら,それでよいと考えていたのだろうと僕は推測しているのです。

 それでは,ある人間の身体の本性が変化することと,その人間の身体を組織する部分の合一のあり方が変化するということを,同一の事柄とみなすための条件というのは,具体的にはどのようなものであると考えればよいのでしょうか。これは非常に難解な問いであると思います。
 再び十全な観念と真の観念との場合で考えてみます。神の無限知性のうちにXの観念があるという場合,Xの十全な観念はXの真の観念であるという言明,また,Xの真の観念はXの十全な観念であるという言明は,誤謬ではないけれども単に命題の内容にだけ注意するなら,いずれも偽の命題であるというのが僕の解釈です。ただ,この場合には,Xの十全な観念とXの真の観念とを同一の事柄であるとみなすための条件が何であるのかということは,わりと容易に理解することができます。いうまでもなくそれは,その十全な観念も真の観念も,神の無限知性のうちにあるXの観念であるという点です。したがって,単にその関係という観点だけからいうならば,この条件というのは,本性と特質との関係で同じように命題について考察したときに導出した結論,すなわち特質は同じ本性から必然的に導かれる限りにおいて,同じ事柄の別の側面であるといえるということと,パラレルな関係にあるといえるでしょう。
 このことから推測できるのは,身体の本性の変化と,身体を組織している部分の合一の変化の場合にも,これらとパラレルな関係に当たるものが命題の背後にあり,それによってそれらは同一の事柄である,あるいは同一の事柄の異なった側面であるということになる筈です。
 僕にはここまでは理解できます。しかしその先は正直なところ不明です。つまり,身体の本性の変化と,この身体の合一のあり方の変化を,同一の事柄とみなすための背後の条件というのが具体的には何かということは,分からないのです。よって僕はこの点に関する考察については,少なくとも現時点ではこれ以上の深入りを放棄します。
 ただし,この放棄は,現状の課題についての考察の放棄というのとは異なります。なぜなら,実際に解明されるべきことは,この条件そのものが何であるかを確定させることではないと僕は理解しているからです。
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農林水産大臣賞典川崎記念&命題の内容

2013-01-30 19:04:50 | 地方競馬
 2013年最初の大レース。第62回川崎記念
                         
 手綱をしごいてタカオノボルの逃げ。2番手にワンダーアキュートでハタノヴァンクールがこれをマーク。やや出負けしたグラッツィアも内から追い上げて4番手のインに。カキツバタロイヤル,クリールパッションと,力量上位と思しき馬たちが前を独占。タカオノボルも逃げを確定させてからはペースを落とし,少し内を開けての逃げとなりました。
 2周目2コーナー手前でハタノヴァンクールが追い上げようとしたのにワンダーアキュートも呼応。向正面に入った付近でタカオノボルにバランスを崩す不利があり,この隙に内からグラッツィアが先頭に。ワンダーアキュート,ハタノヴァンクールと続きました。3コーナー過ぎからハタノヴァンクールが外を上昇。今度はワンダーアキュートが対応できず,ハタノヴァンクールが2番手に上がって直線。グラッツィアを交わしたハタノヴァンクールが先頭に立つと,コースチェンジして外に回ったワンダーアキュートが追い上げました。しかし半馬身差まで迫ったところがゴールで,ハタノヴァンクールの優勝。ワンダーアキュートが2着。1馬身半差の3着にグラッツィア。
 優勝したハタノヴァンクールは昨年7月のジャパンダートダービー以来の勝利で大レース2勝目。一般に3歳馬はよほどの大物でない限り,ダート戦では古馬相手に苦戦するのが普通。この馬もそうでしたが,前走で2着となっていて,伍して戦えるようになっていることは判明していました。そういう意味では2番人気だったのは意外で,順当な勝利といえるのではないでしょうか。今後もトップクラスで戦い続けていくものと思います。父はキングカメハメハ。4代母がナイスランディングで叔父に2010年の天皇賞(春)を勝ったジャガーメイル。Vainqueurはフランス語で勝者。
 騎乗した四位洋文騎手,管理している昆貢調教師はジャパンダートダービー以来の大レース制覇で川崎記念初勝利。

 この観点からするなら,Xの十全な観念はXの真の観念idea veraであるという言明のうちには,その本性が定義可能であるものは,その本性を定義することができないものであるということも含意されていなければならないということになります。しかしこの意味が不条理であるということはそれ自体で明らかです。よってこの点からも,僕はXの十全な観念はXの真の観念であるという命題は,偽の命題であると判断するのです。
 これは念のためにいっておきます。僕はとくに神Deusの無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusに限らず,ある知性のうちにXの十全な観念があるならば,それは同時にXの真の観念であるということを否定するのではありません。これは逆の場合も同様で,何らかの知性のうちにXの真の観念があるなら,それがXの十全な観念であるということも否定しません。また,ある有限な知性のうちにXの観念があって,それがその有限な知性とだけ関連付けられたときに混乱した観念であるといわれるならば,それが同じ条件のもとにXの誤った観念であるということも認めますし,それがXの誤った観念であるなら同時にXの混乱した観念であるということも認めます。僕がここで主張しているのは,Xの十全な観念はXの真の観念であるという命題に関してなのであって,実際に知性のうちにある観念そのもの,いい換えれば観念の形相についてではありません。
 スピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念,また真の観念と誤った観念の関係からして,もしもXの十全な観念はXの真の観念であるという命題を偽の命題と解するならば,Xの混乱した観念はXの誤った観念であるという命題,また,この命題の主語と述語を交換した,Xの誤った観念はXの混乱した観念であるという命題も,偽の命題と理解しなければなりません。もちろん僕はそのように解します。ただそれは,あくまでもそれを言明として含意されるべき内容を観点としてそう理解するのであって,現実的に存在する,このいい方は適当ではありませんが,存在する混乱した観念が誤った観念であるということを否定するというわけではありません。
 そしてこれらが偽の命題であるなら,背後の条件は必要になってきます。
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ゴールドカップレース&僕の解釈

2013-01-29 19:05:32 | 競輪
 2013年のS級S班の過半数を超える5人が参戦した京王閣記念の決勝。並びは山崎-佐藤の福島,武田-阿部の関東,村上ー三谷-志智の近畿中部,北津留-菅原の九州。
 大外でしたが佐藤がSを取って山崎の前受け。3番手に村上,6番手に武田,8番手から北津留で周回。北津留の上昇は早く,残り3周のバックから。コーナーでは山崎と並んでホームで叩きました。続いていた武田がバックにかけて北津留を叩くとバックでは村上がさらにその上を叩いて先頭に。打鐘から北津留がまた巻き返していき先行に。3番手が村上,6番手に武田,8番手に山崎の一列棒状。武田が動き,それを制して村上,これに併せて菅原と,捲り合戦に。つばぜり合いとなった村上と菅原は力で村上が出ましたがこれで力尽き,直線は外から武田で大外から捲り追い込んだ山崎。しかし大きく開いた村上と武田の間を脚を溜めていた志智が鮮やかに突き抜けて優勝。4分の3車身差の2着は大外の山崎。武田は4分の1車輪差で3着。
 優勝した岐阜の志智俊夫選手は11月の大垣記念以来の記念競輪3勝目。ここは4分戦でただひとり3番手と,位置には恵まれませんでしたが,ラインの村上は必ず仕掛ける選手ですから,うまく脚を溜めればチャンスはあるのではないかとみていました。展開が絶好となり,コースもがらりと開いてラッキーな面はありましたが,それにしても素晴らしい伸び脚でした。もう40歳ですが,競輪レーサーとして,最もよい時期を迎えているといった印象です。

 背後の条件が不要であるという考え方が成立し得るということは僕も認めます。しかし僕自身はこの解釈は採用しません。僕はむしろ,神の無限知性のうちにXの観念があるとして,Xの十全な観念はXの真の観念であるという言明,ならびにこの言明の主語と述語とを入れ替えた,Xの真の観念はXの十全な観念であるという言明を,共に,それ自体でみられるならば,偽の命題であると解します。
 僕がそのように考える理由というのは,主語と述語がどちらの場合であっても同様です。ここではXの十全な観念はXの真の観念であるという言明の方で説明します。
 仮にこの言明を真の命題であるとみなした場合,そこには,Xの観念が十全な観念であるならば,それは真の観念であるということが含意されます。このこと自体は真理ですから,この言明に含まれる意味がこれだけであると考えるなら,この命題は真の命題であるとしか理解できません。しかし僕の考えでは,この言明に含意されるべき内容は,このことでは,あるいは少なくともこのことだけではありません。僕はこの言明のうちには,Xの観念の内的特徴はXの観念の外的特徴であるということが含まれなければならないと理解します。そしてこのように理解する限り,これは一般的な意味において,ある事物の内的特徴とはその事物の外的特徴であるという言明と同じだけの主張をしているということになります。しかしこれが偽の命題であるということは明白であり,これに関しては何も説明は必要ないでしょう。よって僕は,Xの十全な観念はXの真の観念を,それ自体でみられる限り,偽の命題であると解することになります。
 僕はかつて第二部定義四をテーマに設定し,詳しく考察しました。スピノザの哲学では,事物の定義には定義される事物の本性と発生が含まれなければならないということになっています。したがって第二部定義四には十全な観念の本性が含まれています。そしてその考察の中でもいったことですが,真の観念というのは第一部公理六で,公理として示されています。つまりそれは外的特徴によって把握されるので,本性を示すことができないようなあるものです。この点も今回の解釈と関係しています。
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熊本時代&背後の条件

2013-01-28 18:38:02 | 歌・小説
 夏目漱石は1892年5月に東京専門学校の講師となり,翌年の10月からは東京高等師範学校の英語教師も兼任。1895年にこれらの職を辞し,松山中学の教師に。さらに翌年の4月にはこれも辞し,熊本の第五高等学校講師に赴任しました。1900年5月に文部省からイギリス留学を命ぜられるまで,4年ほどを漱石は熊本で暮らしています。
 この間の1898年4月,奥太一郎という人物がこの第五高等学校に講師として着任しています。これは漱石の推挙によるもの。奥は津山の中学校で教鞭をとっていたとのことで,異例の抜擢であったかもしれません。自身が推挙したくらいの人物ですから当然ながら一方ならぬ付き合いがありました。1899年の元旦から,宇佐,耶馬渓,日田,吉井,追分と長い旅行をふたりでしています。
                         
 『漱石の道程』によれば,この奥太一郎というのはクリスチャンだったそうです。高木文雄は,奥は漱石に聖書を勧めるようなことはしなかっただろうといっています。ただ,旅行中には奥が聖書を読むこともあっただろうし,祈ることもあった筈で,漱石もそういった姿は目の当たりにしたであろうと推測しています。漱石は学生時代にはすでに聖書を読んでいたのですが,この時期に再読しています。高木はそれは講義のための必要に迫られたからであったかもしれないとはいっていますが,奥の影響がなかったとはいえないと考えているようです。
 また,この当時の熊本に,ノットという女性宣教師がいました。この宣教師と漱石の間にどういった関係があったかは僕には分かりません。ただ,同僚の英語教師であったファーデルの紹介で,漱石は娘を訪ねてきたこのノットの母親とは会ったことがありました。そして奇遇なことに,漱石が留学のために乗った船に,このノットの母親も同乗していました。ふたりは船内で何度か面会しています。漱石はこの人からケンブリッジへの紹介状をもらったそうですから,僕にはよく分からないのですが,それなりの人物であったと考えてよいのではないかと思います。

 これらのことを前提に,神の無限知性のうちにXの観念があると仮定します。このとき,Xの十全な観念はXの真の観念であるという言明は,それ自体でみられた場合に,真の命題であると考えられるべきなのでしょうか,それとも偽の命題であると考えられるべきなのでしょうか。
 一見したところ,これは真の命題であるとしかいいようがないように思われます。そして僕は,そのように理解することを否定はしません。たとえば第二部定理三二の論証においてスピノザは,これを第二部定理七系の意味に訴えています。つまり論理構成としては,神のうちにある観念はすべて十全な観念であり,よって真の観念でもあると理解されるような手続きとなっているのであって,これでみるなら十全な観念は真の観念であるという言明が,真の命題であると理解しない限り,証明として成立しなくなると考えられるからです。なお,実際にはただ十全な観念が真の観念であるという命題のみが真の命題であればよいというわけではなくて,この主語と述語を入れ替えた,真の観念は十全な観念であるという命題も同時に真の命題である必要があります。つまり一般的にいえば,AとBが端的に同じ事柄の別の側面であるとみなし得る場合に,AはBであるという命題だけが真の命題であれば事足りるというものではなく,BはAであるという命題もまた真の命題であるという必要があります。しかしこの場合には,主語と述語を置き換えた,真の観念は十全な観念であるという言明もまた,真の命題であると理解されなければなりません。この場合は十全な観念は真の観念であるという命題を真の命題であるとみなすということのうちに,真の観念は十全な観念であるという命題も真の命題であるということが含意されていると解されなければならないからです。つまりこれは完全に条件を満たしているということになります。
 この理解だと,AとBが同じものであるとみなされるために,それ以外の条件というのは不要であるということになります。つまり身体の本性に変化が生じることと,身体を組織する部分の合一のあり方が変化するということを,同じ事柄とみなすための条件はないということです。
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印象的な将棋②&命題の背後

2013-01-27 18:36:18 | ポカと妙手etc
 第55期王将戦七番勝負第五局から。
 初手▲7六歩に対して△3ニ金。これはやや挑発的な手ですが,稀に見られます。これに対しては▲5六歩と突くのが最善とされ,この将棋もそう指しました。以下△3四歩▲5五歩△6二銀▲5八飛△4二銀▲4八王で,ここまではこの形ではよくある進行。
                         
 ここで驚愕の一手が出たのでこの将棋は印象に深く刻まれています。それが△5四歩。相手が中飛車で自分が居玉ですから,普通はあり得ない手ですし,思いつくこともないような手ではないでしょうか。実戦は▲5四同歩△8八角成▲同銀△4五角▲7八金△2七角成▲5三角△5二金▲8六角成で,歩の損得なく双方が馬を作り合う手将棋に進展しました。
                         
 第2図は確かに後手を持っても指せないということはない局面には感じられます。しかし第1図からの△5四歩というのは,あまりに大胆すぎる一手だという思いは今でも変わることはありません。

 AとBが共にXの特質を構成するという点において同一のものとみなされるのであれば,AはBであるという命題を真の命題として成立させるのはXであるということ,これが本性と特質とを命題として立てた場合の結論であるということになります。実際,砂糖の場合でいえば,白いものは甘いものであるという言明,また円柱の場合でいうなら真上からみて円であるものは真横からみて長方形であるという言明は,それ自体としてみられるならば,偽の命題であるとしかいいようがありません。しかし各々が砂糖の,あるいは円柱の特質であるとみられる限りにおいては,真の命題,あるいは少なくとも部分的に真理を表現している,あるいは説明している記述であると考えることができるわけです。
 ところで,身体の本性に変化が生じるということと,その身体を構成している部分の合一のあり方に変化が起こるということは,それ自体では同じ事柄の本性から必然的に帰結する特質であるとは必ずしもいえません。ですから,本性と特質との間にある関係から導出したこの結論を,そのまま利用するということはできません。したがって今度は,単に一般的な意味においてAとBとが同一の事柄の異なった側面であると理解されるような場合にも,AはBであるという命題が真の命題として成立するための条件として,本性と特質の場合のようなXなるものが,背後に必要とされるのか否かを探求しなければなりません。
 この場合には,スピノザの哲学には,例として採用できる非常に相応しい概念があります。それは,十全な観念と真の観念との関係です。すなわちたとえば神の無限知性のうちにある観念があるとして,それはある一面,具体的にはその内的特徴から説明されるならば十全な観念であり,また別の一面,その外的特徴から説明されるならば真の観念であるわけです。いい換えれば十全な観念と真の観念とは,同じ事柄の本性から帰結するような特質であるとはいえませんが,同じある観念の,異なった側面であるといえるわけです。もちろんこのとき,僕は一般的な意味において観念といっているのではなくて,たとえばある観念,Xの観念というものをその標的にしていることは,十分に注意しておいてください。
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人間発電所&本性と特質

2013-01-26 19:09:46 | NOAH
 馬場の三大タイトル挑戦のひとつ,WWWFの王者は人間発電所といわれたブルーノ・サンマルチノ。馬場は1961年7月に最初のアメリカ武者修行に出発。秋にニューヨークに転戦してフレッド・アトキンスと出会いました。サンマルチノはこの当時からニューヨークにいたのですが,まだ駆け出しのグリーンボーイ。控室の端で馬場とふたりで小さくなっていたと馬場は回顧しています。また,ふたりでジムにトレーニングに行ったりするような仲でもありました。サンマルチノはイタリア人,馬場は日本人で,ふたりとも英語がそんなにうまくなかったということも,ふたりを意気投合させた要因であったのかもしれません。
                         
 そういった意味ではふたりはライバルでしたが,同時に固い友情で結ばれてもいました。馬場が日本で小さな自動車に乗っているのに驚いたサンマルチノが船で大型車をプレゼントとして贈り,馬場はそれが廃車になった後も一貫して同じ車種に乗り続けたというのは有名なエピソード。また,WWWFは後にWWFと改称した後,新日本プロレスと提携しました。このため所属選手は新日本プロレスで仕事をしたのですが,サンマルチノだけはオーナーであるビンス・マクマホンの意向に従わず,新日本には参戦せず,全日本プロレスで仕事をしました。もっともこれは,サンマルチノがそれだけ偉大なレスラーで,オーナーの意向すら拒絶できるような存在であったということでもあります。
 1981年の10月にサンマルチノは全日本プロレス創立10周年記念の興行に参戦。ここで馬場と組んで,インドの狂虎上田馬之助のコンビと対戦しています。ちょうど僕のプロレスキャリアが始まった頃のことですが,僕はこの試合は後にビデオで視ただけ。それどころかもう一試合,これはおそらく1968年8月の日本プロレスでの馬場戦だと思うのですが,それだけしか僕はサンマルチノの試合を知りません。だからどういったレスラーであったかは,残念ながら判断できません。ただ,この馬場とのシングルマッチは,非常に素晴らしい試合でした。ごく単純な技だけで観客を魅了することができるレスラーであったのは間違いないと思います。

 本性essentiaと特質proprietasという関係を生かすという意味で,さらに別の例で考えてみます。
 円柱というのは,一面から,たとえば真上からみられるならば円であり,別の一面,たとえば真横からみられるならば長方形です。このことは円柱の本性さえ与えられるならば,必然的にnecessario帰結しなければならないことです。したがってこれは円柱が円柱である限り,必然的に有している特質であると考えて差し支えないでしょう。
 このとき,円柱は真上からみられるならば円であるという言明は真の命題です。同様に,円柱は真横からみられるならば長方形であるという命題も,真の命題です。一方,真上からみられるならば円であるということが,円柱を部分的に説明していることは間違いありません。また,真横からみられるならば長方形であるということが,円柱を部分的に説明しているということも,間違いないといえます。つまり砂糖の場合と同じことが,円柱の場合にも妥当しているということになります。
 スピノザの哲学においては,第二部定義二により,事物の本性というものは,事物を十全に表現します。あるいは事物を十全に説明します。これに対して特質というのは,その本性から帰結する事柄なので,事物を十全に表現したり説明したりすることはありません。しかしそれは本性を原因causaとして必然的に帰結する事柄ではありますから,特質は部分的に,あるいは断片的には事物を説明しますし,また表現します。僕が示した砂糖と円柱の命題が,いずれも真の命題であって,偽の命題ではないのは,このことに依拠しているといえるでしょう。というか,僕がこのことに依拠するような仕方で説明したからだといえなくもありません。
 さて,問題は,このようにして事物の本性から必然的に導かれるような各々の特質というものが,どのような意味においては同一の事柄を構成している,あるいはもっと端的に,同一の事柄であるとみなし得るのかという点にあります。ここでの条件探索の問いは,少なくとも僕の中では,具体的にはこのような問いとなって現れるのです。
 しかしこの問いの答えは,一見して明らかです。事物の特質は,同一の事物の特質であるという点で共通しているといえるからです。
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代助&砂糖

2013-01-25 18:55:56 | 歌・小説
 夏目漱石の小説の中で,戦前の家父長制の影響というものが最も色濃く反映されているのは,『それから』ではないかと思います。
                         
 『それから』の主人公である長井代助は,長井得の次男です。この得というのは,かつては役人でしたが,辞めてから実業の世界に入り,物語が進行する時点ではかなりの財産家になっています。代助は次男ですから兄がいますが,これは誠吾といって,卒業後に父の会社に入社,具体的には示されていませんが,この時点でこの会社の要職に就いています。すでに梅子という妻があり,誠太郎と縫という兄妹を儲けています。誠太郎がすでに15歳という設定ですから,誠吾の結婚はそれより前と考えなければなりません。
 代助はいわゆる高等遊民で,父の援助で,稼ぐための仕事はせずに生きています。誠吾が卒業してすぐに父の会社に勤めるようになったのは,ゆくゆくはこの会社を父から継ぐためであるでしょう。このことは得と誠吾との間の了解事項といえます。実際に得は,すぐにでも自分は隠居して,誠吾に会社を継がせてもいいというようなことを言っています。ただ,この時点では会社の経営が順風満帆とはいえないので,それに一段落をつけてから継がせる意向なのです。
 誠吾が得の会社に勤務し,代助が高等遊民であるのは,誠吾が長男で代助が次男だから可能なことといえます。ではこの関係における代助の存在意義は何かといえば,もし誠吾に万一のことがあった場合のスペアにすぎません。
                         
 これは石原千秋が『反転する漱石』の中でいっていることですが,このように考えるならば,代助という名前自体がそもそも次男という存在を象徴するようなネーミングであるといえます。つまり家督であれ会社であれ,それを全面的に相続する立場として長男の誠吾がいます。しかしこの時代,ひとりの子どもを立派に成人させるということは,現代とは比較にならないくらい大変であった筈なのです。だからその予備的存在として,もしものときには代わって助ける者というのが,次男である代助の存在意義なのです。
 僕はおそらく漱石はこれを念頭にして,『それから』の主人公を代助と名付けたものと考えています。

 ごく簡単な例で,この一般命題を成立させているふたつの条件が正しいということをみておきます。
 砂糖は一面からみれば,すなわち色という面からみるなら白いものです。また,別の面,味という面からみるなら甘いものです。このとき,砂糖は白いという命題,また砂糖は甘いという命題は,真の命題です。もちろん厳密にいうなら白くない砂糖とか甘くない砂糖というのもありますが,ここではそれはレアケースとして無視します。このくらいの無視は許されると考えるからです。よって第一の条件の方は正しいことが確認されます。
 一方,白さというものが砂糖の一面を説明するということ,また,甘さというものも同じように砂糖の一面を説明するということも,また正しいと理解します。この場合にも第一の条件と同じように,無視しなければいけないようなレアケースがあるということは僕は認めますが,やはりこの無視は許容範囲内であると判断します。したがって,第二の条件も正しいということが確認されました。
 本当は,論理的な記述を行おうとする場合には,白さとか甘さといったような,本来は形容詞として用いられるべき語句を使用するのはあまりよい例とはいえません。ある事物を白いと認識すること,また甘いと認識することは,第二部定理一七でいわれている表象なのであって,真理を構成するものではないからです。ここであえてこうしたことを例示しているのは,それが分かりやすいであろうという意図以上でも以下でもありません。また,現在の考察課題は命題の条件を確認することなのであって,砂糖に関する何らかの真理を確定させることではありませんから,この例を使っても問題はないものと思います。
 このとき,僕は白さや甘さというものを,砂糖の本性から必然的に帰結するような特質であると理解します。このこともそれ自体でみれば論理的に大いに問題があるでしょうが,それに関しては過小に評価します。僕が示しておきたいのは,甘さや白さを砂糖の特質とみなせるのかどうかということではなくて,Xは一面からみればあAであり,一面からみればBであるという命題が真の命題である場合の,XとAおよびBとの関係をこの仕方で限定させるという点にあるからです。
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王将戦&条件探索

2013-01-24 18:59:56 | 将棋
 佐賀市が舞台となった第62期王将戦七番勝負第二局。
 渡辺明竜王の先手で佐藤康光王将の一手損角換り4~ダイレクト向飛車。先手が9筋の位を取り,後手が美濃囲いから先攻。千日手が懸念されましたが先手が打開。その後,封じ手の直前で後手に見落としがあったものと推測します。
                         
 ここは△1四角と逃げておくべくべきだったと思われますが△3五歩。対して▲4五歩と突き,これで先手が優位に立てているようです。
 それが封じ手の局面。その後の展開でいえば,先手の指し方にはやや性急に感じられるところがありました。また後手は自ら飛車銀交換の駒損をしましたが,それは明らかにまずかったように思います。以降は後手の攻めが続かず,先手が押し切りました。
 渡辺竜王が連勝。第三局は来月13日と14日です。

 ここでまた一般論を導入します。
 Xは一面からみられた場合にはAであり,別の一面からみられる場合にはBであるという命題があり,この命題が真であると仮定します。これから考察していくのは,このときにAとBが同一の事柄であるということが,無条件に成立するのか,それともある条件のもとに成立するのかということです。そしてこれを考察する目的は,身体の本性が変化することと,身体を組織する部分の合一のあり方が変化するということが,同一の事柄の異なった側面であると主張する場合には,この命題に則して考えられなければならないと僕は理解するからです。したがってAとBを同一の事柄とみなすために,何らかの条件が必要であるのなら,身体の本性の変化と身体を組織する部分の合一のあり方の変化を同一の事柄とみなすために,それと同じだけの条件が必要になるでしょう。
 まず,上述の一般的命題は,おおよそ以下にあげるふたつの事柄は満たしていなければなりません。いい換えればそれが最低でも必要条件です。第一にそれは,XはAであるという命題が,それ自体としてみられるならば,真の命題であるということです。同様に,XはBであるという命題も,それ自体でみられるならば真の命題でなければなりません。第二に,Aは少なくとも部分的にXを表現する,ないしはAは少なくとも部分的にAを説明するという命題は,真の命題でなければなりません。そして同じように,Bは少なくとも部分的にはXを表現する,あるいは説明するという命題も,真の命題でなければなりません。
 本来は一般論として考える場合,説明とか表現という語句を用いるのはあまり好ましいことではありません。ただ,後の考察との兼ね合いから,ここではあえてスピノザの哲学において頻繁に用いられるこれらの語句を使いました。ここではそれ以上の意図はありません。また,それが単に命題としてみなされる場合,あるいは具体的な現象,ここでは形相的と客観的を使い分けた上での形相的な現象を含意させますが,そうした現象としてみられる限り,何かここに特殊な意味があるとは考えなくても構いません。
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TCK女王盃&知覚の内容

2013-01-23 18:44:00 | 地方競馬
 大井競馬は今週が2013年の開幕。今日は第16回TCK女王盃
 レッドクラウディアの逃げは予想されたものでしたが,やや押してのものでした。エミーズパラダイス,メーデイアの2頭は差がなく追走。最初の800mは49秒6で,これはミドルペースに近いくらいのハイペースでしょうか。
 後方である程度の動きはあったものの,前の3頭はひと固まりのまま3コーナーへ。ここからメーデイアが外を進出するとエミーズパラダイスは後退。レッドクラウディアとメーデイアの2頭が並んで直線に。少しの間は並んでいましたが,外のメーデイアの脚が優り出し,最後は5馬身の差をつけての完勝。差されたレッドクラウディアは苦しくなり,中団から末脚を伸ばしたアクティビューティが2着。さらに2馬身遅れてレッドクラウディアは3着。
 優勝したメーデイアは昨年暮れに1000万を勝った後,今年に入って牡馬相手の準オープンで2着。牝馬重賞なら通用するのは間違いなく,個人的にも注目していた1頭でした。しかしこの圧勝劇は呆気にとられるほどの強さ。5歳ですがキャリアはまだ浅く,緒戦を除けばすべて5着以内,それも1度の5着を除けばすべて3着以内と,明らかに底を見せていない上に,上積みも見込めます。ここはこの路線のトップの参戦はありませんでしたが,そのグループに加わったと考えてよいだろうと思います。父はキングヘイロー。姉に2006年の福島牝馬ステークスを勝ったロフティーエイム。Medeiaはギリシア神話に出てくる王女の名前。
 騎乗したのは浜中俊[すぐる]騎手で管理しているのは笹田和秀調教師。共にTCK女王盃初勝利。

 やや複雑になってきた感がありますので,簡単にまとめておきます。ここでは人間の身体humanum corpusと,その身体を組織している部分の中に起こることとの関係で説明します。
 まず,身体を組織している部分の中に何事かが生じることによって,部分の合一unioのあり方に変化がもたらされる場合,第二部自然学②定義の意味により,その身体自体の本性essentiaにも変化が生じます。したがって第二部定理九系により,このことに関係する何らかの観念ideaが,その身体の観念の本性によって説明される限りでの神Deusのうちに生じます。いい換えれば第二部定理一一系の具体的意味により,その人間の精神mens humanaが何事かを知覚するpercipereことになります。
 このときに,もしも身体を組織する部分の中に起こることが原因causaであり,身体の本性に変化が生じることが結果effectusであると理解した場合には,人間の精神は,単に自分の身体の本性に何らかの変化が生じたということだけを知覚します。逆にいえば,自分の身体を組織している部分の中に生じた現象が具体的にどのようなことであるのかということに関しては,それを知覚することが不可能であると考えなければなりません。
 しかし一方で,部分の中に起こることと身体の本性に変化が生じることは,因果関係によって接続される事柄ではなく,同じ事柄のふたつの観点であると理解することも可能です。そしてこの場合には,人間の精神が,自分の身体を組織している部分の中に起こる現象を,具体的に知覚することが可能であるとみなすことができます。
 ただしこれは,そうみなすことが可能であるという意味であって,そうみなさなければならないというわけではないと僕は考えています。すなわち,ふたつの事柄が因果関係で結ばれる場合には,人間の精神による具体的な認識内容のうちに,自分の身体の部分の中に起こる現象の知覚perceptioは含まれることができないのですが,仮にそれらが因果関係によって結ばれないような,同一の事柄の両面であるとみなした場合にも,同じように人間の精神による具体的な認識内容のうちに,自分の身体の中に起こることの知覚は含まれないと考えることも可能であると僕は考えているのです。
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たちあおい賞争奪戦&ひとつの結論

2013-01-22 18:41:57 | 競輪
 場合によっては雪で順延という事態も危惧された静岡記念の決勝ですが,それは杞憂で日程通りの施行となりました。並びは鈴木ー菊地-山田の北日本,神山-新田-林の東日本,藤木ー松岡の西日本で深谷が単騎。
 スタートは松岡が取って藤木が前受け。神山が3番手,鈴木が6番手,最後尾に深谷で周回。まず鈴木から上昇すると,残り2周のホームで藤木があっさり引いて鈴木が前に。これを神山がバックで叩くと打鐘から先行。4番手が内の鈴木と外の深谷で併走に。引いた藤木が発進するとバックで深谷も併せるように発進。しかし両者の捲りが届く前に新田が満を持して番手発進。追走した林とのマッチレースになり,4分の1車輪だけ凌いだ新田の優勝。林が続いて南関東のワンツー。展開上,脚を溜めることになった鈴木が4分の3車身差の3着。
 優勝した静岡の新田康仁選手は2010年の伊東温泉記念以来となる久々の記念競輪11勝目。静岡記念は2007年に優勝があり,6年ぶりの2勝目。なかなか本人が思うような成績を残せていなかったのですが,昨年の暮れあたりから復調を感じさせるような内容のレースが多くなっていました。ここは地区は違っても神山が頑張ってくれたことが大きかったとはいえますが,まだ上位での活躍が望める選手であるということは,間違いないと思います。

 自転車の場合について記述しているのは,再三にわたっていっているように,それが人間の身体と同様に,複数の物体によって組織されているひとつの物体だからです。つまりこれは人間の身体の場合について考えるための手段にすぎません。別の一面の自転車についての結論を人間の身体に対して当てはめるならば,もしも人間の身体を構成している部分に何事かが生じることによって,部分の合一のあり方に変化が生じるなら,これはその人間の身体の本性に変様が生じたというのと同じ意味になります。よってそのことの観念が,人間の身体の観念を有する限りでの神のうちにあるということになります。しかるに第二部定理一三からして,人間の身体の観念を有する限りでの神というのは,その人間の精神にほかなりません。よって,もしもある人間の身体のうちに何事かが生じ,そのことによってその身体そのものの本性に何らかの変化が生じた場合には,その人間の精神は,その生じた何事かを認識するという結論を得ることができます。第二部定理一二の新しい意味に則していうなら,概念と知覚とを明確に分けた上で,人間の精神は,この場合には自分の身体の中に起こったことを知覚するということになるでしょう。
 ただし,この結論というのはあくまでもひとつの結論にすぎないのであって,僕はむしろ強力に推すことをためらわざるを得ないような結論です。その理由のひとつは,これはあくまでも別の一面なのであって,人間の身体を構成する部分に起こることが原因で,その身体の本性に変化が起こることはその結果であるとみなした場合には成立しないという点にあります。この点に関しては自転車の場合だけで説明し,人間の身体に該当させるような考察は行っていませんが,自転車の場合に妥当することは人間の身体にも妥当するとしたら,こうした結論になるということは,これ以上の説明は不要かと思います。
 さらにいえば,人間の身体を構成する部分の合一に変化が生じるということと,人間の身体の本性に変化が起こるということを,同じ事柄の別の面であると解釈したからといって,必ずこのような結論を得られるとも僕には思えないのです。
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仲間割れの事情&別の一面

2013-01-21 18:46:05 | NOAH
 僕が考えるブロディとスヌーカの仲間割れの事情というのは,ごく簡単にいうなら,超獣の正式なパートナーを,スーパーフライから不沈艦へと,ごく自然な形で移行する目的であったということです。
 ブロディとハンセンというのは大学では先輩と後輩という間柄で,敵対するということは不自然です。しかしこのチームにスヌーカまで加わっては,チームとしての力量というものがあまりに強大になり過ぎます。そこで力量があまり不均衡にならないように,外国人チームの再編成が必要であり,そのためにブロディとスヌーカは仲間割れしたのではないかというのが僕の推測です。
 チームの力の不均衡というのは,戦っている選手は考えないわけではないでしょうが,むしろそれを考慮に入れるのはプロモーターの方であるというのが自然であると思います。つまりブロディとスヌーカの仲間割れというのは,ハンセンやブロディ,そしてスヌーカが発案したというのではなく,プロモーターである馬場の意向だったのではないかと僕は考えているのです。
 ブロディはいかにトップレスラーであるとはいえ,過度であるといっていいほどのエゴイズムを持っていました。ですから基本的にそれがプロモーターの意向であるからといって,簡単に従うような選手ではなかったものと思います。ブロディと仲が良かったザ・グレート・カブキは,ブロディには信頼しているプロモーターが3人いて,馬場はそのうちのひとりであったといっていますが,仮に僕の推測が正しく,これが馬場の意向によるものであったとしても,ただそれだけでブロディが従ったものとも僕には思えません。
 実はブロディとスヌーカは,共に全日本プロレスで仕事をする以前は,アメリカでは戦っていました。このふたりを組ませたのは馬場が最初だったのです。それではっきりとした成功を収めることになりましたから,ブロディとしても従いやすかったという面はあったでしょう。さらにいえば,ハンセンをパートナーにすることで,さらに地位を向上させることも可能であったように思えます。だから少なくともブロディにとって,仮に馬場の意向があったとして,それは汲みやすかったものと思います。

 他面からいうならば,タイヤが留め金から外れて脱輪することと,その自転車の本性に変化が生じるということは,完全に一致する事柄を別の角度から説明していると考えることも可能でしょう。すなわちそれをタイヤや留め金という観点から説明するならばタイヤが留め金から外れるということであり,そのタイヤと留め金によって一部を組織されている自転車という観点からみるならば,その自転車が自転車としての機能を喪失すること,つまり自転車の自転車としての本性に変化が生じたということであると主張することに,はっきり無理があるようには僕には思えません。
 ただ,こちらの面から説明した場合には,タイヤが留め金から外れるということが原因であって,自転車の本性の変化がその結果として生じたということはできなくなるように思います。というのも,この場合にはこれらふたつの事柄は,同じ事柄を異なった観点から説明していると主張しています。したがってその一面が原因であり,もうひとつの面が結果であるということは,結局のところは同じひとつの事柄が原因でもあり結果でもあるということになります。すると第一部公理四からして,この事柄を理解するためにはこの事柄だけを認識するだけで十分であるということになるでしょう。いい換えればこの事柄を十全に認識するためには,この事柄以外の何も概念する必要がないということになります。つまりこれは第一部定義三により,この事柄は実体であると主張していることにほかなりません。タイヤが留め金から外れることとか自転車の本性に関してこれをいうことが不条理であるということは,とくに説明するまでもない筈です。よってそれが原因と結果を構成するから,タイヤが留め金から外れること自体の観念は,自転車の観念を有する限りでは神のうちにはあることができないということは,この面からそれらを理解するという場合には,成立しないということになります。
 だから逆にいえば,この面からは,自転車の観念を有する限りでの神のうちに,タイヤが留め金から外れることの観念があるということも,十分に可能になっていると思います。そのこと自体が自転車の本性の変化そのものであるといえるからです。
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ユニバーサル杯女流名人位戦&具体的な認識内容

2013-01-20 19:17:19 | 将棋
 関根名人記念館で指された第39期女流名人位戦五番勝負第二局。
 上田初美女王の先手で里見香奈女流名人の阪田流向飛車という意表の戦型。この形は後手の棒金がどう捌けるかが焦点となります。駒損で馬を作らせるという代償がありましたが,金は捌けて飛車も成り込めましたので,作戦としてはまずまずだったのではないかと思います。
 寄せ合いになったところは後手が良く,勝勢といってもよいような局面も現れていたと思いますが,先手も土俵際で踏ん張り続けました。後手の指し方は渋くなったり豪快になったりで,よくいえば緩急自在,悪くいえば首尾一貫していなかったようには感じられます。
                         
 先手が角を打ち込んだところ。詰めろではないと思うので,受ける必要があったのかどうか不明ですが,△5二金と打ちました。▲8六歩と突いたのに対して△5六歩というのは驚きの一手。当然▲8五歩と銀を取り,これは詰めろ。もっともこれはうっかりではなく,△5五角と打つのが返し技。飛車成りの方を防ぎたいように思えたのですが,▲3五角成と,歩成の方を受けました。対して馬筋をずらしに△3四歩と打ったのですが,この手はぬるかったようです。すかさず▲4五飛と打たれました。
                         
 まだはっきり悪いとはいえないのかもしれませんが,後手の攻め駒は少なくかなり難しくなっているのは間違いありません。△8六銀と打つか,△6六角と取るかのほぼ二択と思えますが,実戦は後者。ただこれは足りず,先手の勝ちとなっています。
 上田女王が勝って1勝1敗。タイに戻したこともそうですが,対里見戦初勝利という意味でも大きな一局。第三局は来月3日です。

 現実的に存在する自転車のタイヤが留め金から外れるとすれば,第一部公理三を持ち出すまでもなく,何らかの原因から生じます。そこでここでは,ある外部の物体による圧力を受けた結果として,このことが生じたと仮定してみます。
 この現象の観念が第二部定理九によって説明されなければならないということは,タイヤに空気が挿入されることの観念の場合と同じです。そこでそのときと同じようにこの無限連鎖を辿っていったとして,やはり自転車そのものの観念はそこには登場してこないように思えます。よってこの現象の観念は,タイヤの観念を有する限りでの神,留め金の観念を有する限りでの神,またその合一に外圧を与えると仮定されている物体の観念を有する限りでの神のうちにはあるでしょうが,自転車の観念を有する限りでの神のうちにはないと結論しなければなりません。
 そこでもしも,これが原因となって自転車の本性に変様が生じるという結果が生じるのであれば,すでに説明した理由によって,その変様の原因となっている,タイヤと留め金の合一の変化自体の観念は,自転車の観念を有する限りでの神のうちにはあることができないということになります。もちろん僕が主張しているのは,この場合に,自転車の観念を有する限りでの神のうちに何の観念も生じてこないということではありません。ここではタイヤが脱輪することによって自転車の本性が変化するということを前提として考察しているのですから,少なくともその本性に何らかの変化が生じたということに関しては,自転車の観念を有する限りでの神のうちにあるのであなければなりません。したがって,自転車の観念を有する限りでの神のうちに何が具体的に認識されるのかというなら,それは自転車の本性にある変化が生じたという現象の観念なのであって,タイヤが留め金から外れたということそのものの観念ではないということになるでしょう。
 ただし,これは一面の見方です。いい換えれば,タイヤが留め金から外れることが原因であって,自転車の本性に変化が生じるということがその結果であるということに,僕は確信をもっているというわけでもないのです。
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表彰選手&タイヤと留め金

2013-01-19 19:06:57 | 競輪
 2012年の競輪の表彰選手は16日の発表でした。
                         
 最優秀選手賞は茨城の武田豊樹選手。東王座戦,高松宮記念杯,サマーナイトフェスティバル,競輪祭とビッグ4勝。久留米記念,高知記念,西武園記念,福井記念,松戸記念,取手記念と記念競輪も6勝。近年ではまれにみる好成績で,当然の選出です。賞金こそ3位でしたが,競走得点,勝率,連対率,優勝回数はすべてトップ。特筆すべき1年であったといっていいと思います。2004年に優秀新人選手賞,2005年に優秀選手賞,2009年も優秀選手賞で2010年2011年は特別敢闘選手賞。4年連続6回目の受賞です。
                         
 優秀選手賞は2名。まず京都の村上義弘選手。何といってもKEIRINグランプリ優勝が大きかったです。グランプリ優勝者はさすがに表彰対象になるべきで,順当でしょう。大宮記念も優勝。獲得賞金トップ。2002年と2003年,2010年と2011年に優秀選手賞に選ばれていて,3年連続5回目の表彰。
                         
 もうひとりは福島の成田和也選手でした。日本選手権で優勝。年間を通じての優勝回数を勘案すれば別に候補もいたと思うのですが,獲得賞金でMVPの武田を上回る第2位であったことが決め手になったものと思います。国際賞は過去に受賞していますが,それ以外の部門では初の表彰。
 優秀新人賞は徳島の原田研太郎選手。昨年のこの部門は低調だったと思います。失礼ながらこの受賞は意外でしたが,ではだれが相応しいかと問われれば,思い当たる選手も不在です。競輪は選手数の減少に歯止めがかからず,個人的にはその点はやむを得ない面があると思っていますが,中間や底辺のレベルアップを図るような施策が必要になっていると考えています。
                         
 特別敢闘選手賞は愛知の深谷知広選手。西王座戦で優勝し,立川記念,高松記念,川崎記念で優勝。目立ったのは上半期だけといえなくもありませんが,競走得点は第2位ですから表彰には十分に値するでしょう。2010年が優秀新人選手賞で,2011年は優秀選手賞と特別賞。3年連続3度目の表彰。
                         
 特別賞に福井の脇本雄太選手。昨年はグレード制覇はなく,異例といっていいのではないでしょうか。この選手はビッグを優勝する選手と考えていて,表彰はその後でも遅くなかったと思っています。
 国際賞とガールズ競輪は割愛。対象にならなかった選手で印象に残っているのは,佐藤友和選手と浅井康太選手,そして長塚智広選手です。

 これをまた自転車とタイヤの場合で考えてみます。ただ,タイヤに空気を入れることは,自転車の本性に関してはそれを変化させるような現象ではありませんから,この場合には利用することができません。そこで今回は,タイヤの留め金が外れてしまって脱輪したという場合を想定します。
 まず第一に,このことはタイヤと留め金,これらふたつは自転車という一物体を構成する各々の部分としての物体ですが,これらの合一の様式に変化が生じたということです。つまり第二部自然学②定義の意味において,自転車の本性に属する物体に変様が生じたということです。ですからこのことに関係する何らかの観念が,自転車の観念を有する限りで神のうちにあるということは,僕には確実なことと思えます。
 一方,この具体的な変様,すなわちこの場合にはタイヤの留め金が外れたということですが,このことの観念が,タイヤの観念を有する限りで神のうちにあるということ,また留め金の観念を有する限りで神のうちにあるということ,このふたつもまた確実なことだろうと僕は思います。ではこの観念が,単に自転車の観念を有する限りで神のうちにあるといえるのかといえば,僕はこれには確信をもってそうであるとはいいきれないのです。
 僕がこれに確信を抱くことができないのは,ある事物の本性に何らかの変化が生じるということ自体と,その変化が生じる具体的な現象というのは,明らかに分けて考えることもできるように思えるからなのです。この場合でいいますと,タイヤが留め金から外れることによって自転車の本性が変化します。このときに,タイヤが留め金から外れることが原因であって,自転車の本性が変化することはその結果であるということに無理があるというようには思えません。すると第一部公理四により,自転車の本性の変化の認識が,タイヤが留め金から外れることの認識に依存しなければならないということになります。であるならば,後者の認識が自転車の観念を有する限りで神のうちにあるためには,前者の観念もまた自転車の観念を有する限りで神のうちにあるのでなければならないと思えます。しかしこれがはっきりとそうであるとはいえないと思うのです。
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NARグランプリ&新たな疑問

2013-01-18 18:55:25 | 地方競馬
 2012年のNARグランプリは15日に発表されました。
 年度代表馬は東京盃を勝った笠松のラブミーチャン。昨年は大レースの勝ち馬がなく,重賞の勝ち馬も僅かに3頭という低調だった地方競馬。その中では最も格上と思えるレースを制しましたので,順当なところでしょう。名古屋でら馬スプリントと習志野きらっとスプリントも制覇。部門別では最優秀4歳以上牝馬と最優秀短距離馬。2009年の年度代表馬,2011年の最優秀4歳以上牝馬で,2年連続3度目の受賞。
 2歳最優秀牡馬は船橋のジェネラルグラント。これは大レースの2着が評価されたもので,妥当でしょうか。船橋所属としてはその1戦だけで,移籍前にはサンライズカップを制しています。今年の南関東クラシックの主役の1頭でしょう。
 2歳最優秀牝馬はエーデルワイス賞を勝った北海道のハニーパイ。この馬はこの部門の最強馬ではないと思うのですが,重賞を制しましたので選出自体は当然。リリーカップも勝っています。川崎に移籍してこちらもクラシックを目指すのでしょうが,スプリンターなのではないかと思えます。
 3歳最優秀牡馬は大井のアートサハラ羽田盃を勝って,大レースでも3着となりましたので,この馬の選出も妥当でしょう。秋が今ひとつの成績となってしまったのは残念で,復活に期待したいところ。
 3歳最優秀牝馬は関東オークスを勝った船橋のアスカリーブル。この馬も部門最強かどうかは意見が分かれるところでしょうが,数少ない重賞の勝ち馬なのですから,選ばれて当然でしょう。ユングフラウ賞,東京プリンセス賞,黒潮盃,戸塚記念と南関東重賞も4勝していて,成績的には文句なしです。
 4歳以上最優秀牡馬は船橋のフリオーソ。昨年は4戦して未勝利でしたが,大レースで2着と3着があり,これだけの実績を残した馬がほかにはありませんから,この馬を選ぶほかありません。2006年が2歳最優秀馬,2007年2008年は年度代表馬,2009年は4歳以上最優秀馬で2010年と2011年は年度代表馬。実に7年連続7度目の受賞で引退となりました。
 最優秀ターフ馬は該当馬なし。ばんえいは割愛します。
 ダートグレード競走特別賞はかしわ記念南部杯を制したエスポワールシチー。傑出した馬が不在で難しかったと思いますが,地方での大レース2勝が評価されるのは自然なことに思えます。2009年以来3年ぶり2度目の受賞。

 ふたつの観点があるということが,タイヤに空気が入って膨張することの観念ideaが,タイヤの観念を有する限りでは神Deusのうちにあるけれども,自転車の観念を有する限りでの神のうちにはないということと,関係しているということは確かでしょう。ただこのことについては,僕がそう感じることの根拠を別の形で示しましたので,これ以上は補足しません。いずれにしても,自転車の観念を有する限りでの神のうちに,その自転車の一部を組織しているタイヤの中に起こることの観念がないということであれば,このことは自転車と同様に,いくつかの物体corpusによって構成されている人間の身体humanum corpusの場合にも,同じ関係が当てはまるであろうこと,すなわち人間の身体を組織している部分の中に何かが起こっても,それはその身体の観念の本性naturaによって説明される限りでの神,つまりこれがその人間の精神mens humanaを意味しますが,その人間の精神によって知覚されない場合があるということを明らかにできれば,僕としては十分です。
 ところで,このように考えを進めていくと,どういった現象に関しては,全体の観念を有する限りでの神のうちにその観念があるといえるのかということが疑問として生じてきます。そしてそれはおそらく,次のように考えられるのではないかと思います。
 全体を組織している部分は,ほかの部分と合一している限りにおいて,その全体の本性に属します。したがって,ある部分の中に何事かが生じて,そのことによってほかの部分との合一unioに変化がもたらされるのであれば,少なくともその観念は全体の観念を有する限りで神のうちにあるといわれなければならないでしょう。というのは,合一が全体の本性に属するのであれば,合一のあり方自体の変化というのは,要するに全体の本性が変化することであると考えられるからです。
 ただ,このとき,全体の観念を有する限りで神のうちにある観念というのは,それ自身の本性に変化がもたらされたということの観念なのか,その変化を生じさせた,部分の中に生じたこと自体の観念なのかということは問題になります。つまりこの場合でも,全体を構成する部分の中に起こることの観念が,全体の観念を有する限りでの神のうちにあるということに直結はしないと思うのです。
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ユニバーサル杯女流名人位戦&ふたつの観点

2013-01-17 18:39:21 | 将棋
 14日に出雲文化伝承館で指された第39期女流名人位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人の5戦5勝。
 出雲市長による振駒で里見女流名人の先手。上田初美女王は相手が居飛車なら振飛車,振飛車なら居飛車の対抗形を好むという印象をもっていたのですが,この将棋は相振飛車になりました。序盤の駒組で先手がうまくやり,戦いに入った時点で先手が優位。後手が勝負手を繰り出していくというのが全般的な進展であったと理解しています。勝負は最終盤で決しました。
                         
 王手で金をただ取らせるという手は普通はなく,ここは△6三同金が最も自然。しかし残っていた時間を投資して△3五香と打ちました。完全に読み切っていたというわけではないようですが,これは好手でここから後手の勝ち筋のようです。▲6二歩成△同飛▲6三歩△同飛▲5二銀まで,先手としてはこう進めるほかないように思えます。これを放置して△3六香。先手は▲6三銀成△同玉としてから▲4六歩と受けに回りましたが,これが後手の盲点になっていたようです。以下△3九飛▲4七王△3七香成▲同金。
                         
 ここから△4九飛成▲4八金打△5六銀としたのですが,この順が敗着に。ここでは単に△5六銀と打っておけば,▲同王は詰み,▲3六王なら先手玉を必死に追い込み,そのときに5六に打った銀が効いて後手玉が詰みを逃れているようです。簡単に読めるような順ではなく,仕方がなかったとは思いますが,せっかく踏み込んで勝ちに持っていった後手にとっては残念な一戦となってしまいました。
 里見名人が先勝。第二局は20日です。

 これらの前提と条件から,Xという物体がAとBというふたつの物体によって組織されているという場合に,Xの観念を有する限りで神のうちにAの観念があるという言明が,どのような意味において成立するのかということが明らかになります。すなわちそれは,あくまでもAがBと合一することによってXの本性に属するという観点の下に成立するのであって,もしもこの合一を度外視し,Aを単なるひとつの物体Aとしてみるのであれば,それは成立しません。その場合には,Aの観念というのは,ただ神がAの観念を有する限りで神のうちにあるといわなければならないでしょう。なぜならば,Xの観念を有する限りでの神というのは,Xの観念の本性によって説明される限りでの神というのと同一です。ですから,Xの本性に属するような事柄に関しては,そのすべてがXの観念を有する限りでの神のうちにあることになります。これを否定するならば,神がXの本性によって説明されなくなってしまうからです。しかるに,AはBと合一しているという観点ではXの本性に属しますが,この合一から離れてただ単なる物体AとしてみられるならばXの本性には属しません。よってAが前者の相からみられる場合にはAの観念はXの観念を有する限りでの神のうちにあるのでなければなりませんが,後者の相からみられるのであれば,Xの観念を有する限りで神のうちにあるというのは,むしろ不条理であるということになるのです。
 再びこのことを自転車とタイヤの関係として説明してみます。タイヤは,たとえばギアやチェーン,ブレーキやペダルといった自転車を組織するほかの部分と有機的に連関しているとみられる限りにおいては,自転車の観念を有する限りで神のうちにあります。この場合にはタイヤは自転車の本性に属していると理解されなければならないからです。しかしそうした諸部分との有機的連関を無視して,単にひとつのタイヤとして眺められた場合にはそうではありません。この観点ではタイヤは自転車の本性には属さないからです。つまりこの相の下においては,自転車の観念を有する限りでの神のうちには,タイヤの観念はないといわなければならないでしょう。
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