スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

NHK杯テレビ将棋トーナメント&観念と意志

2017-03-31 19:07:12 | 将棋
 26日に放映された第66回NHK杯テレビ将棋トーナメントの決勝。対戦成績は佐藤康光九段が1勝,佐藤和俊六段が2勝。
 振駒で佐藤康光九段の先手。佐藤和俊六段のノーマル三間飛車。最初から最後まで見どころが多い将棋になりました。
                                     
 穴熊を目指した先手が角を引いた局面。たまにある形で,☖2二飛が無難な手。ですが☖6二玉と上がったので☗2四歩☖同歩☗同角☖2二飛☗3三角成☖2八飛成☗4三馬の大乱戦に。まったくないわけではなく,有名な将棋だと第54期名人戦七番勝負第四局は部分的に同じ手順に進展しています。定跡では先手よしとされていて,実際に先手が悪い理屈はないと思いますが,勝つとなるとそれなりに大変なので,こうした指し方を選ぶ場合もあるということでしょう。本局はたぶん先手が二枚換えで飛車を取って攻めていったのがやり過ぎで,後手がよくなったと思います。
                                     
 第2図は☖2三歩と打って☖3一金から飛車を取りにいく方針でいけば後手がやれたようです。実戦は☖6四桂☗4四馬☖7六桂☗5九銀と進みました。感想戦の様子だと後手はこの銀引きを見落としていたようで,悲観してしまったようです。ですがそれでも☖2三歩と打てばまだ後手がよかったのではないでしょうか。悲観したために☖2三金と打ち☗同飛成☖同銀☗4三角成☖2八飛☗7七王☖2四飛成☗6六馬☖3八龍☗7六馬と,働きに乏しかった1六の角を馬にされた上に桂馬を取られ,ここは先手がよくなったと思います。ですがその後で先手が後手の龍を侵入させるような受け方をしたのは失着だったでしょう。
                                     
 第3図は後手が歩を垂らしたところ。ここから☗4四桂☖3三銀☗3二桂成☖同金☗同馬☖4八歩成☗2二歩☖5八と☗2一歩成と先手が一直線の攻め合いを選んだのは驚きの手順でした。
                                     
 第4図で☖6九とと金を取ると☗3三馬上は詰めろではないので本当に先手が勝てるのか微妙ではないかと思えます。ですがこの順は感想戦では検討されませんでした。おそらく両者が同じ読みをしていたからで,その推測が正しいならこの部分で先手が読み勝っていて,それが勝敗に直結したのではないかと思います。もちろんその読み筋は実戦の進行で,第4図から☖6八とと銀の方を取る手。☗3三馬上に☖6七とと捨て☗同王に☖3七龍の王手。合駒に歩を使えない先手は☗7八王と引き☖3八龍引と王手。今度は☗7八歩と打てますが☖3三龍☗同馬☖同龍で2枚の馬を消去できます。
                                     
 飛車1枚と角2枚ですから部分的には先手の大損。ですがこれが後手にとっての罠で第5図は☗4一飛と打つ手が厳しく,ここで先手の勝勢になったのだと思われます。
 佐藤康光九段が優勝。第56期と57期の連覇があり,9年ぶり3度目のNHK杯優勝です。

 思惟する力があるところには意志する力が必ずあります。そして思惟する力とは,真の観念idea veraであれ誤った観念であれ,ある人間の知性intellectusの現実的有actuale esseを構成する観念のすべてを意味します。つまりスピノザがいっているのは,観念があるところには必ず意志voluntasもあるということです。観念があるところに意志があるのであれば,意志があるところには必ず観念もあることになります。ただし,スピノザは思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念であるといっているのですから,意志があるところに観念があるということの意味を解する場合には注意は必要です。少なくともその主張から,意志が観念の原因となるということはあり得ないからです。
 論理的にいえば,観念は意志の原因ではあり得ることになります。ただしスピノザがそのように主張しているわけではありません。先走っていえば,スピノザはある観念の原因はそれとは別の観念であるといいますが,そのとき,たとえばAという観念がBという観念の原因であるという意味においては,Aという観念が意志の原因になるといえるのですが,Aという観念が,Aという観念そのものと関係する意志の原因であるということをスピノザは主張しません。ただ,Aという観念がある知性のうちに存在する場合には,このAの観念と関係する意志する力もその知性のうちに存在しているといっているだけです。もちろんこの場合のAの観念というのは,真の観念であっても誤った観念であっても同じです。
 これでスピノザが意志という思惟の様態とはどのようなものであると考えているかは概ね明らかにすることができるでしょう。すなわち観念があるのであれば何らかの意志があるのであって,何らかの意志があるということは観念があるということです。他面からいえば,観念というのは何らかの意志がなくてはあることも考えることもできないのであり,逆に意志とは観念がなければあることも考えることもできない思惟の様態なのです。つまりこの関係は,第二部定義二でいわれている事物とその事物の本性の関係と類比的です。つまり観念がある事物であるとみなされるなら,意志とはその観念の本性に類するものなのです。
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中日新聞杯名古屋大賞典&思惟する力

2017-03-30 19:32:49 | 地方競馬
 第40回名古屋大賞典
 好発だったモルトベーネを外からケイティブレイブ,カツゲキキトキト,ドリームキラリの3頭が交わしていき,一番外のドリームキラリが前に出ようというところ,ケイティブレイブが譲らず,ケイティブレイブが逃げてドリームキラリが外の2番手に。差が開いて控えたカツゲキキトキトが単独の3番手。この後ろはまた差が開いてトロヴァオとオールブラッシュが併走。下げたモルトベーネがピオネロと並んでその後ろに続くという隊列に。ハイペースでした。
 向正面に入るとピオネロが動いていき,カツゲキキトキトの後ろの4番手に。3コーナーの手前でドリームキラリは一杯。ケイティブレイブが単独で抜け出し,外の2番手までピオネロが進出。さらにその外をモルトベーネが追ってきました。しかし直線に入ってもケイティブレイブの逃げ足は衰えず,そのまま逃げ切って優勝。早めに動いたピオネロが1馬身半差の2着。3コーナーでドリームキラリが下がってきたために一旦控え,立て直して大外から追い込んだカツゲキキトキトが半馬身差で3着。この後ろは4馬身あり,最下位までばらばらの入線になっています。
 優勝したケイティブレイブ浦和記念以来の勝利で重賞4勝目。このレースは9頭のうち6頭は勝つチャンスがある馬という混戦模様。それぞれに一長一短があったのですが,この馬の場合は出走したJRAの5頭の中では地方競馬でのレース経験が豊富で,その点が大きく生きたものと思います。逃げなくてもレースができる馬なのですが,先手を取った方がより力を発揮できるということなのでしょう。今日のようなメンバー構成なら力量上位と考えておくのがよいようです。父はアドマイヤマックス。母の父はサクラローレル。母の半兄に1999年の北海道スプリントカップ,2000年のガーネットステークスと黒船賞と群馬記念とかしわ記念と朱鷺大賞典,20001年のガーネットステークスととちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ
 騎乗した福永祐一騎手と管理している目野哲也調教師は名古屋大賞典初勝利。

 人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseを構成する観念ideaが,真の観念idea veraだけではなく誤った観念も含まれるという点については異議はないでしょう。誤った観念とも関係する意志voluntasという思惟の様態cogitandi modiがどのようなものであるのかということが問題として残されることになります。第二部定理四九備考から引用した後半の部分で,スピノザはそれをどのような意味でいっているのかを明らかにしているのです。
                                     
 スピノザはそこで,思惟する力を知覚一般と置き換えています。ここでいわれている知覚というのは,人間の精神による認識cognitioのすべてを意味しているといえるでしょう。他面からいえば,思惟の様態の第一のものは観念であるのですから,ある人間の精神のうちにあるすべての観念を思惟する力と置き換えていることになります。すでに示したようにそうした観念には真の観念と誤った観念の両方が含まれるのですから,スピノザは現実的に存在する人間の精神が事物を誤って認識する場合にも,それは思惟する力のひとつであるといっているということになります。
 ただし,そうした思惟する力の源泉が意志であるとスピノザがいっているわけではありません。思惟の様態のうち第一のものが観念であって,意志もまた思惟の様態であるのなら,ある人間の精神の意志作用volitioが,その人間の精神のうちに観念が発生する原因であるということは論理的に不可能であるからです。原因は結果に対しては何らかの意味で「先立つ」存在でなければなりませんが,意志が観念に対して「先立つ」ということが論理的に不可能になっていますから,それは明白だといえるでしょう。よって,スピノザがいっている思惟する力というのは,文字通りに思惟する力なのであって,意志する力ではないという点には注意が必要でしょう。
 一方,備考の前半部分の解析から,真の観念だけでなく誤った観念にも,いい換えれば人間の精神のうちに発生するあらゆる観念に対して,意志という思惟の様態が関係しなければならないということは明らかになっています。なので思惟する力は意志する力そのものではありませんが,思惟する力があるところには必ず意志する力もあると考えなければならないのです。
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農林水産大臣賞典桜花賞&人間の知性の現実的有

2017-03-29 19:17:10 | 地方競馬
 笠松から1頭が遠征してきた第63回桜花賞
 シェアハッピーは出負け。スターインパルスがハナに立つと外からゴーフューチャーが追ってきて一時的に前に。しかし1周目の正面で内のスターインパルスがハナを取り返しました。1コーナーを回ってから差が開いていき,リードは3馬身ほどに。単独の2番手にゴーフューチャー。また5馬身くらい開いてアップトゥユーが3番手。この後ろはグラスサファイヤ,アンジュジョリー,ステップオブダンスの3頭が一団。少し開いてガロ。この後ろに巻き返してきたシェアハッピーとイクノチャンが併走という隊列に。前半の800mは48秒2で超ハイペース。
 3コーナーを回ってもスターインパルスの逃げ足は快調。ゴーフューチャーはついていかれなくなり,早めに追い上げてきたステップオブダンスが2番手に。直線ではスターインパルスも一杯になりましたが,ステップオブダンスはそれ以上に苦しくなり,逃げ切ったスターインパルスの優勝。スターインパルスの後から追ってきたグラスサファイヤがスターインパルスを外から捕えて4馬身差の2着。1馬身差の3着争いは最内を追い上げたガロ,中で粘ったスターインパルス,大外から末脚を伸ばしたシェアハッピーの3頭で接戦。制したのは大外のシェアハッピー。ガロがクビ差の4着でステップオブダンスはハナ差で5着。
 優勝したスターインパルスは昨年11月に遠征した水沢で岩手の重賞は勝っていますが南関東重賞は初勝利。いいスピードはあるけれどもそれを制御できず,暴走気味に走ってしまい末脚を欠くというレースが続いていました。ここは実力上位と目された馬が外目の枠に入り,こちらは内目の枠を引けたので,チャンスがあるのではないかと考えていました。今日も暴走といえば暴走だったのですが,発走してから正面に入るまでは制御が利いていたように思え,そこの部分が大きかったのではないかと思います。本質的にはスピードタイプで,スプリンターである可能性も高いとみています。父はサウスヴィグラス。母の半弟に2004年の兵庫ジュニアグランプリと全日本2歳優駿,2008年のクラスターカップ,2007年の船橋記念報知グランプリカップを勝ったプライドキム
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は昨年6月の京成盃グランドマイラーズ以来の南関東重賞制覇。桜花賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師も桜花賞初勝利。

 従来の哲学的伝統とはいっても,現代でも主流な見方と多くの同一性を有していることは前に説明した通りです。ですから第二部定理四九備考でスピノザが主張していることは,詳しく解析しておいた方がよかろうと思います。
                                     
 まず,スピノザの哲学において知性intellectusというのは個々の観念ideaの集積を意味します。次に,スピノザがここで明瞭判然という単語を用いているのは,たぶんデカルトのいう明晰判明ということが真理veritasの規準とされていることを意識したものだと思います。ですからここでいわれている明瞭判然な観念というのは,真の観念idea veraを意味すると解するべきだと思われます。したがって最初の一文の意味は,知性が真の観念の総体を意味するのであれば,意志voluntasが知性より広くわたることをスピノザは認めるという意味になります。もっとも,ここでいわれている知性というのは,人間の知性のことですから,人間の知性が真の観念だけで構成されているという場合には,人間の意志が人間の知性よりも広くわたることをスピノザは是認すると解する方がより正確だとはいえるでしょう。
 なぜその場合にはスピノザが意志は知性より広範であることを認めるのかということは,とくに何かを参考にせずとも明らかにできます。というのは,観念というのは外的特徴denominatio extrinsecaからみられるなら,真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかでしかないのですから,真の観念だけが知性を構成する場合には意志がその知性より広くわたり得るのは,誤った観念の分だけ広範であるという意味以外にはあり得ないからです。
 これだけのことからスピノザが考えていることがふたつ浮かび上がってきます。ひとつは,知性を真の観念の総体であると規定することは,少なくとも現実的に存在する人間の知性の場合には成立しないということです。いい換えれば,人間の知性の現実的有actuale esseを組織する観念は,真の観念だけではなく誤った観念も含まれているということです。さらに,その誤った観念の分だけ意志が知性よりも広くわたることを認めるのですから,意志というのが真の観念とだけ関連するものではなく,誤った観念とも関連するような思惟の様態cogitandi modiであるということです。
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蒲生氏郷杯王座競輪&第二部定理四九備考

2017-03-28 19:04:37 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた松阪記念の決勝。並びは吉田‐松坂の東日本に浜田,深谷‐浅井‐坂口の中部,古性‐東口の近畿に三宅。
 浅井がスタートを取って深谷の前受け。4番手に古性,7番手に吉田で周回。残り3周のバックを出たところから吉田が上昇。ホームで深谷を叩くと古性がこのラインを追走。引いた深谷が7番手の一列棒状でバックから打鐘を通過。ホームから深谷が発進。吉田も抵抗しましたがバックでは深谷が前に。ホームで深谷を先に行かせた古性は深谷ラインを追ってさらに外から捲る形。展開有利に番手から出た浅井を古性が捻じ伏せて優勝。浅井が半車身差で2着。古性マークの東口が4分の3車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は昨年12月の岸和田記念以来の記念競輪2勝目。深谷が前を取って引き,吉田が先行するというのは最も想定された展開。深谷が早めに発進したので捲りとはいっても先行争いに近いようなレースになりました。ホームでは動かず,深谷ラインを先に行かせてから踏んだのが優勝の要因に。前回は番手を回っての優勝で,今回は自力でのものですから,より高く評価できる優勝であったと思います。

 意志voluntasが思惟の様態cogitandi modiであって,思惟の様態のうち第一のものが観念ideaであるのなら,意志が観念より広きにわたることは不可能です。ただし,人間の精神mens humanaが何かを認識するという場合には,注意しなければならないことが残されています。というのは,人間の精神は必ずしも事物を真に認識するとは限らないからです。スピノザの哲学に則したいい方をすれば,人間の精神の現実的有actuale esseを構成する観念は,真の観念idea veraだけに限られるわけではなく,誤った観念も含まれているからです。真理veritasの規準をどこに置くかということを考慮の外に置けば,この点ではスピノザの哲学と従来の哲学的伝統は一致しているといえるでしょう。たとえば浅野がいうように,デカルトは真理の規準を観念の明晰判明さに求めたのですが,真理の規準を設定しなければならないということ自体が,人間の精神は必ずしも事物を真に認識するわけではないということを前提しています。もしも人間の精神が必然的に事物を真に認識するのであるとしたら,人間が認識したものは真である,スピノザ流のいい方をすれば,人間の精神の現実的有を構成している観念が真であるといえばすむことだからです。
 デカルトは方法論的懐疑を用いた人であり,この点では特殊であったといえるかもしれません。スピノザの哲学からすれば,疑う必要のない観念の真理性まで疑うような人であったからです。しかし人間の精神が事物を誤って認識することがあるという点だけでいえば,スピノザもそれを認めるのであり,いかにデカルトには特殊性があったとはいえ,従来の哲学的伝統からかけ離れた主張をしたわけでないことは確かだといえます。
                                     
 しかしこうした場合に,意志が観念より広きにわたるかということについては,スピノザはかなり特殊な主張をします。特殊なというのは,従来の哲学的伝統からは思いつかないような主張という意味です。スピノザは第二部定理四九備考の中で次のようにいっています。
 「もし彼らが知性を明瞭判然たる観念とのみ解するなら意志が知性より広きにわたることは私も容認する。しかし私は意志が知覚一般あるいは思惟能力一般より広きにわたることはこれを否定する」。
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高松宮記念&超越論的意志

2017-03-27 19:05:33 | 中央競馬
 昨日の第47回高松宮記念
 好発はシュウジでしたが内のラインスピリット,外のトウショウピストと3頭が並んで逃げるような競馬になりました。この後ろが少し離れ,好位に位置したのがセイウンコウセイとワンスインナムーン。中団の前列がソルヴェイグとナックビーナスで中列がレッドファルクスとクリスマス。この後ろをトーキングドラムが単独で追走し中団後列にティーハーフとスノードラゴン。後方グループの前からレッツゴードンキとメラグラーナとなりました。前半の600mは33秒8でハイペースの部類。
 前をいく3頭が内を開けて走行したので直線は馬群が横に大きく並ぶ形に。ずっとインを回り最内から脚を伸ばしたのがレッツゴードンキでその外にレッドファルクス。距離のロスが少なかったこの2頭が一旦は先頭と2番手に出たように思いますが,先行勢の後ろから外を回ったセイウンコウセイが末脚を炸裂させ,あっという間に突き抜けて優勝。1馬身4分の1差の2着にレッツゴードンキ。クビ差の3着にレッドファルクス。
 優勝したセイウンコウセイはこれが重賞初勝利。とはいえ今年に入って初挑戦のオープンを勝ち続く重賞も2着になっていて,このメンバーなら勝ってもおかしくない力がある馬とは思っていました。2着争いをした2頭は確かな力量があり,馬場の適性の差もあったのでしょうがそれらにスプリント戦では決定的といえる差をつけましたから,評価に値する内容だったと思います。スプリント路線は一時期よりレベルが低下していると思われますが,この馬がトップに立ったといってもいいだけの内容でした。父は2007年のJRA賞年度代表馬のアドマイヤムーン。祖母はパテントリークリア。母の半兄に1996年のNHKマイルカップを勝ったタイキフォーチュンなど。
 騎乗した幸英明騎手は昨年の川崎記念以来の大レース制覇。第38回以来9年ぶりの高松宮記念2勝目。管理している上原博之調教師は2007年のマイルチャンピオンシップ以来の大レース制覇で高松宮記念は初勝利。

 意志voluntasが神Deusの絶対的本性に属さないと主張すること自体が,従来の哲学的伝統に反する考え方であったと僕は思います。しかしこのことは,無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusを思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態だと主張したこと,すなわち知性もまた神の絶対的本性に属さないと主張したことについても同様であると僕は思っています。そしてここでは,主に人間の精神mens humanaによる事物の認識cognitio,能動的であれ受動的であれ,人間の精神が事物を認識することと,人間が意志を行使するということの間には直接的な因果関係は存在しないということを重点的に考察しますので,スピノザが神の絶対的本性に意志,神の意志が属さないと主張したことについては探求せず,人間の精神による事物の認識に関して,意志が観念ideaを超越するということはない,いい換えれば意志が観念よりも広くわたることはないと主張した点に焦点を絞ります。
                                     
 スピノザの考え方では,意志は単に思惟の様態cogitandi modiであり,第二部公理三から,思惟の様態のうち第一のものが観念なのですから,意志が観念を超越するということはあり得ません。むしろ観念が存在しなければ意志も存在し得ないということが帰結しなければならないからです。僕が従来の哲学的伝統の見解を,自由意志voluntas liberaを肯定したとはいわず,超越的意志を肯定したと記述したのはこうした理由からです。少なくとも人間の精神を構成する観念を思惟の様態と認めた上で,観念が思惟の様態のうち第一のものであると規定するなら,スピノザのように意志が原因となって観念が形成されるということはあり得ないと結論するのが自然です。そうでないなら,意志が思惟の様態のうち第一のものであると主張するか,思惟の様態の第一のものである観念を形而上学的に超越する意志が人間の精神の本性に属するかでなければなりませんが,それはどちらの場合も形而上学的な超越論を導入しないと帰結させられないと僕は考えるからです。
 第二の場合が超越論的であるのはそれ自体で明らかでしょう。しかし第一の場合も,意志が存在しないと観念は与えられないので,何ら観念がない状態で意志があることができると主張しなければならず,それは超越論に属すると僕は考えるのです。
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ドバイワールドカップデー&第二部定理四八

2017-03-26 19:15:01 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜から今日の未明にかけて開催されたドバイワールドカップデー。今年は6つのレースに10頭の日本馬が出走しました。
 ゴドルフィンマイルGⅡダート1600m。カフジテイクはほかの馬より少し遅れ気味の発馬。道中は後方2番手から。直線は外から伸びて勝ち馬から約6馬身半差の5着。自身が得意とする競馬に徹してのもの。自らレースを作っていけないのは弱みですが,この馬の特性から考えればかなり健闘したといっていい内容だったと思います。
 UAEダービーGⅡダート1900m。発走後はアディラートがハナでエピカリスが2番手。しかしエピカリスの方が内枠からの発走だったためコーナーワークでエピカリスの逃げになりアディラートが2番手からの競馬に。3コーナー付近で外から1頭が上昇してくるとアディラートは一杯になり勝ち馬からおよそ17馬身半差の12着。直線は逃げたエピカリスと上昇してきた馬とのマッチレース。直線で相手が外によれるところがあり,瞬間的にまた差が開いたのですが,その後でまた立て直されると伸びてきて,ハナ差だけ差されてエピカリスは2着。とはいえエピカリスは世界的にも相当な能力があるということは明らかにできたと思います。アディラートは現時点では能力が足りなかったといったところでしょう。
 ドバイゴールデンシャヒーンGⅠダート1200m。ディオスコリダーは伸び上がるような発馬。短距離戦でしたがすべての馬が集団を構成するレースの最後尾。直線でも離されていき勝ち馬からおよそ10馬身ほどの11着。この馬の場合は勝ち負けというよりレースにどこまで参加できるかが焦点と思っていました。その意味では発馬で不利があったのは残念でした。
 ドバイターフGⅠ芝1800m。ヴィブロスは発走後の直線で内に入れ中団に。ずっと内でじっとしていたので直線に入ったところでは後方3番手。そこから徐々に外に持ち出されて進路が開くと末脚を発揮。競り合っていた2頭を外からまとめて交わし優勝。
 優勝したヴィブロス秋華賞以来の大レース2勝目。芝の中長距離の日本馬はレベルが高いのですが,この馬の場合は秋華賞以降は休養し,中山記念に出走して5着だったので,古馬の牡馬を相手に力量が通用するだけの裏付けはまだなかったので半信半疑の面がありました。ここは好騎乗に助けられた面もありますし,メンバーのレベルもそこまで高くなかったとはいえますが,通用するということは明白になったと思います。今後も相応の活躍が期待できるのではないでしょうか。父はディープインパクト。祖母がハルーワソング。全姉に2013年2014年にヴィクトリアマイルを連覇したヴィルシーナ。半兄に昨年の阪神大賞典とアルゼンチン共和国杯を勝っている現役のシュヴァルグラン。Vivlosはギリシアの地名。
 日本馬による海外の大レース制覇は昨年の香港カップ以来。ドバイでは昨年のドバイターフ以来。騎乗した香港のジョアン・モレイラ騎手は昨年の香港ヴァーズ以来の日本馬に騎乗しての大レース制覇。管理している友道康夫調教師は秋華賞以来の大レース制覇。昨年のニエユ賞以来の海外重賞2勝目。
 ドバイシーマクラシックGⅠ芝2410m。サウンズオブアースはやや抑え気味の発馬。道中は外目の4番手を追走。超スローペースの瞬発力勝負になりましたが目立った伸び脚がなく勝ち馬から約10馬身差の6着。この馬は日本でもあまり安定して能力を発揮できていませんが,力を十分に出せばここまで負ける馬ではありません。チャンスもあると考えていただけにやや残念な結果になってしまいました。
 ドバイワールドカップGⅠダート2000m。アウォーディーは5番手の内。アポロケンタッキーはその後ろ。ゴールドドリームは最初は後ろよりでしたが徐々に外を追い上げアウォーディーの外。ラニは押しても押してもついていかれず馬群から離れた後方。このレースは現役世界最強と目される1頭が発走直後に両隣の馬に挟まれて後方から。その馬が3コーナー付近から進出していき,ここでアポロケンタッキーとゴールドドリームは手応えを失いました。アポロケンタッキーが勝ち馬から約20馬身半差の9着でゴールドドリームは約60馬身差の最下位。この2頭は世界を相手にこの距離のダートで戦うだけの力量に不足していたということでしょう。アウォーディーは直線で1頭分だけ外に出され,優勝争いには参加できませんでしたが外で並んでいた馬との競り合いは制して10馬身半差の5着。世界最強クラスとはさすがに能力差がありますが,まずまずの結果だったと思います。距離がもう少し長い方がより戦えるのではないでしょうか。ラニはずっと追われ通しでしたが最後まで諦めることはなく約15馬身半差の8着まで追い上げました。スピード不足は相変わらずですが,ついていかれるようになればある程度は通用するようになると思えるレースでした。

 人間の精神mens humanaが理性ratioを行使すれば,必然的にその精神のうちに何らかの観念ideaが発生することになります。このことは哲学的伝統あるいは現代でも主流の認識論と,スピノザの哲学との間でも一致します。そこでこれを統一的な規準として考察を開始します。
 もし人間が意志することによって理性を行使できるのであれば,その分だけ意志voluntasは観念より広きにわたることができます。意志が観念の原因となっているのですからこれは明らかでしょう。なおかつ,この場合には人間が何を意志し,何を意志しないのかということを選択することも可能であるということが実際には前提されているので,人間は何を認識し何を認識しないのかということ,他面からいえばどんな観念を形成しどんな観念を形成しないのかということも,意志によって決定し得ることになります。僕はここではこのような意味での意志を,観念を超越するという意味において,超越的な意志といいます。
 スピノザは意志という思惟の様態cogitandi modiが存在するということは認めますが,この種の超越的意志は認めません。そしてこの超越的意志は,いわゆる自由意志voluntas liberaというものですから,スピノザは自由意志を認めないというのとこれは同じです。このことは第二部定理四八に示されています。
                                     
 「精神の中には絶対的な意志,すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され,この原因も同様に他の原因によって決定され,さらにこの後者もまた他の原因によって決定され,このようにして無限に進む」。
 この定理Propositioは,人間の精神の中に自由な意志が存在しないことを示そうとしています。しかし絶対的な意志,すなわち自由意志が存在しないということは,その主体を人間と規定しても神Deusと規定しても同じことです。つまりスピノザは,無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusは思惟の無限様態modus infinitusであって神の絶対的本性ではないと主張するのと同じように,意志もまた思惟の様態であって,神の絶対的本性には属さないと考えるのです。このことは第一部定理三二で,意志が強制された原因といわれることから明白ですが,第一部定理三二系一からなお明瞭だといえるでしょう。
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印象的な将棋⑬-3&哲学的伝統

2017-03-25 19:22:52 | ポカと妙手etc
 ⑬-2の第2図でも最善手は☗9一角成なのかもしれません。ですがそれは前にも指せたのに指さなかったのですから,より厳しくなっているここで指すのは変調です。☗7八金と上がったのは流れとしては一貫しているといえるでしょう。
                                     
 後手は☖4六飛☗同歩と飛車角交換を挑み☖3九角と打ち込みました。4筋と7筋の両方の突き捨てが最大限に生きる展開で,ここで後手が優位に立ったといえそうです。
 ☗2七飛と浮いたのは3段目に利かせて最も粘り強い指し方だったと思います。後手は当然☖7五角成。
 次に☖7六歩と打たれてはひどいので相手の打ちたいところに打ての☗7六歩は仕方なかったと思いますが,☖7七桂成☗同金寄に☖7六馬と打った歩を取られる展開になってしまいました。
                                     
 第2図は後手の勝勢に近いところまでいっていると思います。この後,先手にびっくりするような一手が飛び出しましたので,そこまでは紹介します。

 浅野がいっている理性ratioの行使と意志voluntasを切り離せないものとみる哲学的伝統とは,ごく単純にいえば,人間は意志作用volitioによって理性を行使することができるという意見opinioです。この場合,因果関係で示すなら,理性を行使しようとする意志作用が原因となって,結果として精神mensが理性を行使するということになるでしょう。たとえばデカルトの哲学では,理性を行使することによって欲望cupiditasを統御するということが倫理の第一規準になっています。このとき,理性の行使に主体の排除が貫徹されていたら,他面からいえば主体の意志によって理性を行使することが不可能とされていれば,この倫理の規準は成立しようがありません。つまりデカルトの哲学においても,意志作用が理性の原因となり得るということが前提されていると考えなければなりません。
 このようなデカルトの規準は,デカルトが近代哲学の父といわれる理由のひとつを示していると僕は思います。というのも,この種の見解というのは,現代においても一般的には主流な認識論であると僕には思えるからです。つまり浅野はスピノザが哲学的伝統に反したといっているのですが,スピノザの哲学が反しているのは,単に哲学的な伝統というよりも,現代における主流な見解に対しても同様であると僕は考えています。このためにスピノザの哲学における主体の排除を正しく理解することが,スピノザの哲学を正しく解釈するために重要な要素となると僕は考えているのです。
 スピノザは理性の行使に対して意志が原因となるということを否定しました。これは哲学的伝統ないしは現代においても主流な見解からすれば,意志あるいは意志作用自体をスピノザは否定したととらえられて不思議ではありません。しかし実際にはスピノザは,意志作用という思惟の様態cogitandi modiが存在するということ自体は肯定します。だからスピノザの認識論の特徴を,僕は主体の排除といい,意志あるいは意志作用の排除とはいわないのです。ただ,スピノザの哲学における意志そして意志作用は,主流な見方とは異なった思惟の様態であることは,ここまでの説明から自明でしょう。つまり意志あるいは意志作用とは何かが問題となります。
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勇気&主体の排除

2017-03-24 19:31:07 | 哲学
 第三部定理五九備考では,「精神の強さfortitudo」が勇気animositasと寛仁generositasとに分類されていました。簡単にいえば自分の利益に関係する「精神の強さ」が勇気であり,他者の利益にも関係する「精神の強さ」が寛仁です。「精神の強さ」全般および寛仁と同様に,勇気もまた僕たちは通常は欲望cupiditasとは解さないでしょうから,この点で注意が必要なのは同様です。そしてさらに勇気の場合には,自己の有を維持しようとする欲望なので,別の注意も必要とされます。
                                     
 第三部定理七から分かるように,現実的に存在する人間が自己の有に固執する傾向を有するのはその人間の現実的本性actualis essentiaです。そして第三部定理九により,僕たちのこうした現実的本性は,十全な観念を有する限りでも混乱した観念idea inadaequataを有する限りでも妥当します。したがって,僕たちは十全な観念に従おうとも混乱した観念に従おうとも,基本的に自己の有には固執するのです。勇気は理性ratioに従って自己の有に固執することなので,十全な観念に従ってある行為をなそうとする欲望は勇気ですが,混乱した観念に従ってそれと同じ行為をなそうとする欲望は勇気ではありません。つまりそれがどういう欲望であるかによって勇気であったりなかったりするのでなく,どんな観念に従った欲望であるかによって勇気であったりなかったりするのです。
 そしてこの区分によれば,通常は勇気とみなされることが勇気ではなく,逆に勇気ではないとみなされることが勇気であるという場合も生じ得ます。たとえば戦闘に挑む者は一般的には勇気があるとみなされ,逃走する者は一般的には勇気がないとみなされます。しかし理性に従って,戦闘行為が自己の有の維持に不利益であると判断することによって逃走する者は,この区分においてはむしろ勇気があるということになります。逆にたとえば名誉gloriaを得ることを期待して戦闘に挑むのなら,その名誉欲ambitioという欲望は勇気であるとはいわれ得ないことになるでしょう。
 このように,スピノザの哲学でいわれる勇気はかなり特殊です。この点を誤って解釈しないようにする注意が常に必要であると思います。

 ここでスピノザの哲学について僕がいう主体の排除について,改めてまとめておくことは無益ではないでしょう。これは多角的な観点を含んでいるからです。
 まず第二部定理一一系でいわれているように,人間の精神は神の無限知性の一部Mentem humanam partem esse infiniti intellectus Deiです。いい換えればある人間Aの精神とは,Aの精神の本性を構成する限りでの神です。よってAによる事物の認識cognitioとは,Aの本性によって説明される限りでの神による認識です。この意味においていかなる人間も認識という作用の主体であることはできません。
 では神は認識の主体であり得るのかといえば,そうでもありません。なぜなら無限知性とは,第一部定理二一の様式で発生する神の思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態であるからです。いい換えればそれは神の本性が与えられれば必然的に生じる様態なのです。つまり無限知性は神の本性に属するものではありません。神は神自身の必然的法則によって生じる自己原因causa suiですが,それと同一の必然性necessitasによって生じる様態として無限知性はあるのです。いい換えれば神と無限知性には,原因と結果という関係でだけがあるのであり,神の意向と無限知性は関係を有しません。このような仮定は無意味ですが,もし神があるものについては認識しないと意志したとしても,そうしたものの観念は必然的に発生しなければなりません。この意味において神もまた認識の主体であるとはいえないのです。
 さらに,あらゆる観念は神の本性の必然性によって発生するのですから,これは神に限らず,ある有限な知性が何かを認識するという場合にも妥当します。すなわち,ある知性は,何を認識し何を認識しないのかということについて選択権を有しません。神の本性の必然性に則しているなら知性はそれを必然的に認識します。しかし神の本性の必然性に反しているなら,知性がそれを認識することは不可能です。この意味において,何かを認識するものを主体と措定する限り,認識は主体の意向と無関係に発生します。いい換えればこれは,認識の主体は存在しないというのと同じです。
 これは認識に限らずあらゆる思惟作用に該当します。たとえば愛の主体なるものも存在し得ません。
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ノボジャック&精神と思惟作用

2017-03-23 19:22:22 | 名馬
 先週の黒船賞で重賞初制覇を達成したブラゾンドゥリスの父はノボジャック。ノボジャックの産駒にとっても重賞初勝利でした。
 2歳の9月に芝の新馬戦を2着すると続くダートの未勝利戦で初勝利。ダートの条件戦を2着して出走した京王杯3歳ステークスで2着。朝日杯3歳ステークスに挑戦しましたが8着でした。
 3歳2月にダートのオープンで優勝。続くオープン戦は距離が長く5着。NHKマイルカップに出走するもイーグルカフェの最下位に大敗。このレースを最後に美穂から栗東の森秀行厩舎に転厩しました。
                                     
 転厩初戦となった根岸ステークスで古馬を相手に3着。芝のCBC賞は8着。4歳になってガーネットステークスは5着でしたが次のオープン特別を勝ってフェブラリーステークスへ。ですがこのレースは13着でした。
 ここから快進撃が始まります。黒船賞で重賞初制覇を達成すると群馬記念をレコードで制覇。さらに北海道スプリントカップもサウスヴィグラスを2着に降してレコードで優勝。クラスターカップと東京盃も制し重賞5連勝で挑んだ記念すべき第1回JBCスプリントを勝って大レースの勝ち馬に名を連ねました。
 大レースを制したことで斤量を背負わされるようになり,苦難の道が始まります。暮れのとちぎマロニエカップは2着。5歳になって根岸ステークスはサウスヴィグラスの8着。フェブラリーステークスは斤量は楽でしたが距離が長くアグネスデジタルの10着。黒船賞はサウスヴィグラスに1秒以上離されての2着。ようやく次の群馬記念を勝って連覇を達成するも北海道スプリントカップはサウスヴィグラスの5着。連覇を狙ったJBCスプリントもスターリングローズの3着でした。そして全日本サラブレッドカップも5着。
 6歳になり根岸ステークスがサウスヴィグラスの3着。間を開けて黒船賞を2度目の制覇で重賞8勝目。この後,7歳の暮れまで現役を続けましたが14戦して勝利を積み重ねることはできませんでした。
 対戦成績から分かるように,本格化して以降のサウスヴィグラスには分が悪く,同じようなダートのスプリンターとして種牡馬入りすれば,配合に不自由がない限りはサウスヴィグラスの方が選ばれることになります。したがって恵まれた種牡馬生活を送ることは当初から難しいだろうと想定された馬。重賞の勝ち馬が輩出したのですから,一応は成功したといってもいいのではないかと思います。

 当該部分の浅野の論考の中心は,スピノザが哲学の伝統としてあった人間による事物の認識cognitioを否定したという点にあります。具体的にいえば理性ratioの行使と意志作用volitioとの間に強固な関係を構築していた伝統に対し,スピノザはその関係を切断したという点にあります。
 スピノザの哲学において,現実的に存在するある人間の精神mens humanaが理性を行使することと,その人間の精神が働くagereことは同じ意味です。要するに理性とは精神の能動にほかなりません。スピノザは理性の行使と意志作用は無関係であると主張したのですから,それは精神の能動は,その能動作用をなす精神の意志作用と無関係に発生すると主張したことになります。これが浅野の論考の中心部分です。したがってここで浅野が主張しようとしていることは,何らかの主体を想定して,その主体の意向によって理性が行使されるということはないということです。これはスピノザが認識を純粋な受動と主張したことに合致するものだと僕は考えます。なので僕は浅野の見解は僕の見解と一致していると解するのです。
 このことを僕は,スピノザの認識論において主体の排除が主張されているといういい方で説明してきました。上野修が『スピノザの世界』でいっているように,スピノザの哲学ではまず精神なるものがあって,その精神が思惟作用をなすのではありません。むしろ精神などは存在しなくても思惟作用は存在するのです。そして第二部公理三により,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念ideaなのですから,これは精神などなくても観念はあるというのと同じです。浅野がいっているのは,そのようにして生じる観念のうち特定のものをいくつか集積したものが,ある人間の精神といわれているのだということです。繰り返しになりますが,精神があってそれが思惟作用をするのではありません。むしろ思惟作用が「先立つ」のであり,それによって精神なるものが構成されているのです。
 スピノザの哲学では知性intellectusとは個々の観念の集積です。そして精神と知性は,同じものを異なった観点から把握した思惟の様態です。観念の集積から知性が構成されるのなら,精神も同じように構成されるといえるでしょう。
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京急電鉄賞京浜盃&認識論の変更

2017-03-22 19:23:28 | 地方競馬
 第40回京浜盃。バリスコアは左後ろ足のフレグモーネのため出走取消で13頭。真島大輔騎手は急性腎不全のためバンドオンザランは本橋騎手に変更。
 逃げたのはバンドオンザラン。発走後はローズジュレップとピンクドッグウッドが並んでいましたが,最初のコーナーワークでローズジュレップが単独の2番手になり,ピンクドッグウッドが3番手に。リアルファイトが4番手で5番手は内のマルヒロナッツオーと外のヒガシウィルウィンの併走に。ここまでおよそ4馬身圏内の集団。ここから少し離れてブラウンレガートとカンムル。この後ろはまた差が開きました。ミドルペース。
 3コーナーを回るとピンクドッグウッドが上がっていったために前のローズジュレップもそれに対応。逃げたバンドオンザランと雁行状態になりましたがコーナーの中途でバンドオンザランは一杯になり,ローズジュレップとピンクドッグウッドが並んで直線に。外のピンクドッグウッドがこの競り合いを制して単独の先頭に。これをさらに外から伸びたヒガシウィルウィンが差して優勝。1馬身4分の1差の2着にピンクドッグウッド。粘るローズジュレップをヒガシウィルウィンの外から伸びたブラウンレガートが捕えて2馬身半差で3着。ローズジュレップはクビ差で4着。
 優勝したヒガシウィルウィンは前走のニューイヤーカップから連勝で南関東重賞は2勝目。今日はローズジュレップとピンクドッグウッドの競り合いに乗じたところはあったものの,これだけの差をつけての快勝ですから,今年の南関東クラシックの主役の座に立ったのは間違いないでしょう。戦績からは距離延長を苦にするタイプとは思えませんので,東京ダービーまでは好走を期待してよいものと思います。父はサウスヴィグラスプロポンチスグランドターキンの分枝で半姉に昨年の東京湾カップを勝っている現役のディーズプリモ
 騎乗した船橋の森泰斗騎手ユングフラウ賞以来の南関東重賞制覇。第35回,39回に続き連覇となる京浜盃3勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第24回と29回を勝っていて11年ぶりの京浜盃3勝目。

 浅野はスピノザの哲学の認識論は,レインスブルフRijnsburgに住んでいた時代からハーグに住むようになるまで,基本的に変更されていないと考えていると僕は解します。
                                     
 スピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』では,認識cognitioを純粋な受動と主張していました。これに対して『エチカ』では精神の能動actio Mentisが認められるようになっているので,その認識論にある重大な変更が加えられたという解釈は成立します。こうした解釈の代表として『破門の哲学』があげられるでしょう。
 ですが僕はそのようには解しません。つまり僕の見方では,浅野の見解と僕の見解は一致するということです。というのも,『エチカ』で是認されるに至った能動とは,たとえばある知性intellectusが現実的に存在しているとして,その知性が十全な原因causa adaequataとなって何らかの思惟の様態cogitandi modiを発生させるという場合のことだからです。いい換えればそこにその知性の主体の意向が介在しないという点においては,これは一般的にいえば能動であるというより受動であると解せるでしょう。精神の能動が精神が十全な原因である場合をいうのに対して,精神の受動とは精神が部分的原因causa inadaequata,causa partialisとなっている場合のことをいうのですが,どちらの場合であれ,思惟作用それ自体は主体の意向とは無関係に,必然的な法則によって発生するという点で相違はありません。つまり精神が自動機械automa spiritualeであるという点では,能動といわれる思惟作用も受動といわれる思惟作用も同様であるのです。
 このとき,純粋な受動に対して精神の能動が認められるようになったということを重視するなら,認識論に重大な変更が加えられたということになります。しかし,認識が純粋な受動であるといわれていることの意味を,精神は自動機械であるということを強く主張することであると解するなら,認識論には特段の変更が加えられたとはいえないことになります。要するにどこを重視するのかということから相違が生じるのであり,変更があったとする見方も変更はなかったとする見方も,同じように成立はするのであって,どちらかが正しくてどちらかが誤った見方であるということはできないだろうと僕は考えます。
 浅野の見方をどう解するべきかを考えましょう。
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棋王戦&度合

2017-03-21 19:11:33 | 将棋
 宇都宮市で指された昨日の第42期棋王戦五番勝負第四局。
 渡辺明棋王の先手で相矢倉。ただ先手が早囲いで後手は趣向を凝らした銀矢倉になりましたので,通常の相矢倉とは異なった戦型といえるでしょう。
                                     
 先手が棒銀に出たところ。ここで後手の方から☖4五歩と仕掛けていきました。後手の構えはどちらかといえば受け身型で,攻撃力が高い形ではないのでこれは意表の一手でした。
 先手は☗3七銀と出たばかりの銀を引き☖4六歩の取り込みに☗4八飛と回りました。手損ですが自然な応対と思えます。後手は☖8五桂☗8六銀といつでも使えたであろう権利を行使してから☖4四銀直。銀矢倉の銀で攻める手ですからこれも驚きの一手。
 先手は☗6五歩☖8二角と追ってから☗4六角。後手は☖5五歩と4六の地点での交換を拒否。先手は☗4五歩☖同銀と呼び込んで☗5五角。8二での交換は後手の形が悪くなるので☖同角☗同歩は必然であったと思います。
 銀取りが残っているので☖4六歩と打つのも当然。先手も☗同銀☖同銀☗同飛と捌かなければいけないところ。手番を得た後手が☖2八角と打ちましたので☗3七角はこの一手の受け。後手が☖3九角成と馬を作って先手は☗2六角と活用。
                                     
 この角が金に当たっているため☖4四歩と受けなければなりません。しかし馬を作っているからまずまずの変化でしょう。先手が☗3七桂と活用した後,後手は作った馬を2六の角と交換しにいったのが悪く先手の勝ちにはなりましたが,第2図で後手も十分ということは,改良の余地もありそうですから,有力な作戦になるかもしれません。先手側も対応が求められるところでしょう。
 渡辺棋王が勝って2勝2敗。第五局は27日です。

 デカルトが真理veritasの規準をどこに求めたのかを考察の対象から外す際には,以下の点に留意してください。
 スピノザの哲学では,観念ideaが内的特徴denominatio intrinsecaからみられるなら,十全な観念と混乱した観念のどちらかです。外的特徴denominatio extrinsecaからみられるなら,真の観念と誤った観念のどちらかです。このとき,スピノザがデカルトの規準が十分ではないと考えたということは,デカルトがその規準を後者に求めたことと関係します。要するにスピノザはそれは本来は前者に求められなければならないと考えたのです。このことは重要ですから考察の対象外とはなりません。ただそれをデカルトの哲学と関連付けて説明しないというだけです。
 スピノザが観念を明瞭判然と形容する場合には,内的特徴と関連させるなら,それが十全な観念を意味する場合もあるし,混乱した観念idea inadaequataを意味する場合もあります。どちらであるかということは,スピノザがその形容を用いる場合の文脈に合わせて解する必要があります。つまり明瞭判然という形容自体がスピノザの哲学を解するにあたって躓きの石となり得るのです、こうした注意は,たとえば入門書である『知の教科書 スピノザ』を読む場合にも必要だということはすでに説明した通りです。
 なぜこのようなことになるのかといえば,一口に混乱した観念といっても,その混乱の度合には差があるということをスピノザが認めているからです。すなわち,混乱の度合が低い混乱した観念は,きわめて混乱している混乱した観念よりは明瞭判然であるといういい回しがスピノザの哲学では許容されるのです。
 混乱した観念は,外的特徴から見た場合には誤った観念です。したがって,混乱の度合に相違があることを認めるということは,誤りの度合に相違があることを認めるのと同じです。つまり,観念の対象ideatumをそれほど誤らずに反映させている誤った観念は,観念の対象をひどく異なって反映させている誤った観念よりは明瞭判然としているといういい回しもまた許容されねばなりません。このとき,真理の規準が,観念されたものをどう反映させているかという点には存さないということは重要で,それは考察の範囲内になるということです。
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ウィナーズカップ&除外点

2017-03-20 19:17:25 | 競輪
 被災地支援競輪として高松競輪場で開催された第1回ウィナーズカップの決勝。並びは平原‐武田‐木暮の関東,郡司‐中村の南関東,稲垣‐稲川‐東口の近畿で原田は単騎。
 少し牽制が入りましたが平原がスタートを取って前受け。4番手には稲垣がいましたが原田が上昇してくると位置を譲り,原田が4番手,稲垣が5番手,郡司が8番手の周回になりました。残り2周のホームの手前から郡司が上昇。そのままホームで平原を叩いて前に。後方になった稲垣が巻き返し,バックで郡司を叩くと打鐘からそのまま抑え先行に。郡司が4番手,平原が6番手,原田が最後尾の一列棒状に。バック手前から平原が捲っていこうとしましたが前にいた郡司が先捲り。マークの中村とふたりで捲り切って直線。郡司の外から中村が詰め寄りましたがぎりぎりで残した郡司の優勝。中村が8分の1車輪差の2着で南関東のワンツー。南関東を追う形になった平原は両者の間を割ろうとしましたが,これは脚が残っていなかったための苦し紛れの進路選択だったかもしれません。入れるだけの進路も開かず流れ込むような形で1車身差の3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は昨年8月の小田原記念以来のグレードレース優勝でビッグは初勝利。FⅠでは常に優勝しているような印象で,記念競輪でもコンスタントに決勝に乗るような近況。脚を使って後ろを回る選手の優勝に貢献するようなレースも多くなっていましたから,ビッグにもいずれは手が届くだろうとみていましたが,わりと早く達成できました。後方からの周回になりましたが,迷わず平原を叩き,近畿ラインの4番手を取った作戦が功を奏したというところでしょう。稲垣も平原も強い選手ではありますが,稲垣の4番手なら捲れる位置ですし,平原も先捲りの上をいくのはなかなか大変なクラスの選手までは成長しているということだと思います。レース全体でいえば,関東追走に終始することになってしまった原田の走行がやや意外でした。

 『スピノザ 共同性のポリティクス』の第5章のこの部分の中に,考察しておきたいことがいくつか含まれています。ここからそれらを順に探求していきますが,その前に,ふたつの点については考察の対象から外しますので,除外される部分と,除外する理由を簡潔に説明しておきます。
                                     
 この部分が,スピノザの哲学における認識論の基本的要素と関連していることはそれ自体で明らかであるといえます。浅野はそれを第二部定理七と関連させて説明しているのですが,この定理Propositioがどのような意味において認識論の基本的要素と関連するのかについては考察しません。この考察を『エチカ』から帰結させる場合には,絶対に第二部定理七を援用しなければならないとは僕は考えません。また,浅野が絶対にこの定理を援用しなければならないと考えているかどうかも不明です。しかしもし浅野がそのように考えているのだとしても,僕にとって重要なのは,スピノザの認識論がどのように基礎づけられているのかという結論の部分なのであり,論述の過程がどうなっているのかということは重要視しません。なので浅野が認識論の結論をどう考えているのかについては考察しますが,その結論がどのような仮定で導出されているのかということは考察の対象から除外します。
 もうひとつ,デカルトの哲学で真理veritasの規準が観念ideaの明晰判明さに求められているということについて,スピノザが十分ではないと考えたということについても考察しません。そのこと自体は間違っていないと思いますが,この点に関しては,デカルトの哲学と関連付けなくても,スピノザの哲学の範疇だけで考察が可能であると僕は考えるからです。すなわち,この明晰判明ということは,岩波文庫版の訳に従えば,スピノザが観念を明瞭判然と形容する場合と同じであると僕は考えます。つまりスピノザ自身が,観念を明瞭判然と形容する場合があるのですから,そのように形容された観念がどのような観念であるのかということを考察することによって,これが真理の規準としては不十分であるということは説明できるからです。なのでこれをデカルトの哲学と関連させて考えることを僕は除外します。
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ブレーン&理性と意志

2017-03-19 19:39:31 | NOAH
 三沢と鶴田試合までの過程で,馬場が三沢の勝利を決断するのには,ブレーンからのアドバイスが大きく影響したという主旨のことが『1964年のジャイアント馬場』には書かれています。ここでブレーンとされているのはふたりいて,ひとりは当時の週刊プロレスの編集長であったターザン山本,もうひとりが同じく週刊プロレスで全日本プロレス担当の記者であった市瀬英俊です。
                                    
 ふたりがメディアの立場であったにも関わらずブレーンでもあったということは間違いない事実と断定できます。当時はそう公言こそしていませんでしたが,全日本プロレスは東京での興行の終了後,馬場は必ず特定のホテルで夕食を摂り,その場に山本と市瀬が出掛けて,プロレス談義をするということは本人たちも明かしていたからです。山本は,馬場はたくさん食べる人を好んだので自分も目一杯に食べたけれども,どんなに食べても心配する必要はなかったとし,その理由は料金はすべて馬場が支払ったからだということも明かしていました。少なくとも両者が馬場から利益供用を受けていたことは間違いありません。また,後には同席していた馬場夫人が,とくに市瀬はファンの目線を有していたから,助言は大いに役立ったと証言していますから,ブレーンであったことも確実といっていいでしょう。
 こうした理由から,僕は山本や市瀬がこの当時の全日本プロレスに関して何かを証言しても,全面的には信用しません。実際に利益を提供されていたこともそうですし,天龍源一郎の離脱後に全日本プロレスが最良の時代を迎えたことについて,両者とも自分の貢献もあったという自負心を抱いているであろうからです。
 ただ,馬場の決断にこのふたりの助言が影響したのは間違いないと思います。山本は,この試合は三沢が勝たなければならないと馬場に言ったと証言していて,確かに山本なり市瀬なりがそれがよい選択であるという提言を馬場に対してなし,それを受けた馬場が熟考して決定したのだろうと推測します。三沢を勝たせるという決断は,馬場の思考からは出てくるようなものとは僕には思えないからです。

 『スピノザの生涯』に関係する考察の中で,浅野俊哉の『スピノザ 共同性のポリティクス』を紹介しました。この論文集の簡潔な紹介からもお分かりいただけるでしょうが,この中には僕の力では論じられないものが多く含まれています。しかし哲学と関係する論考内容の中には,僕が過去に扱ってきたものと大きく関係するものが含まれています。せっかくの機会ですので,ふたつほどここでまとめて考察しておきたいと思います。
 第5章の中に,第二部定理七がどういう事態を意味しているのかということについての浅野の考え方が示されています。それによれば,あらゆる出来事というものは,それを出来事として把握する主体の意向とは無関係に,自ずから人間の精神mens humanaのうちに生起してくるものなのであって,そのようにして把握される出来事についての観念ideaの総体のことがその人間の精神であるといわれています。哲学の世界では伝統的に,理性ratioを行使するというときに,意志voluntasの役割が切断できないものとして規定されているのですが,スピノザの哲学では,人間の精神が理性を行使することによって出来事を認識するという場合においても,それは精神が主体的に行う作業ではないと主張されることによって,その伝統が破棄されているのです。すなわち,理性と意志は,もし関係をもつとしても,ある人間がその意志によって理性を行使するという意味においては,無関係であると規定されているのです。
 このことは,真理veritasとはどういう意味において真理であるといえるのかということと関係してきます。そして同時に,第二部定理四九系でいわれている,意志と知性intellectus,すなわち個々の意志作用volitioと個々の観念の同一性にも関係してくるでしょう。デカルトはある観念が真理であるという条件を,その観念が明晰判明であるということに求めていました。スピノザの哲学ではこの明晰判明というのが,明瞭判然に妥当すると考えるのがよいと思います。しかしデカルトのような考え方は,スピノザにとっては十分ではありませんでした。なぜならこの考え方は,ある観念が何を起成原因causa efficiensとして,どのような過程で発生するのかということを示すことができないからです。
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海と宝石④&虚偽の証言

2017-03-18 19:09:52 | 歌・小説
 に続く二行は以下のような歌詞になっています。僕にとって最も謎多き二行です。
                                     

     臆病な小石の 泣きごとを
     まだ ひなのかもめが くわえてゆく


 全体的な意味は分からないので,部分的に解明します。
 にあるように,冒頭の女のことばを聞いていたカモメが存在しました。それは複数形でしたので,その中にまだ雛のカモメがいたのでしょう。そのカモメが何かを嘴に挟んで飛んでいくのは間違いないところです。
 臆病というのは普通は人間,広く見積もっても動物に対する形容です。したがってこの形容は女に対してなされていると解するのが妥当と僕は思っています。実際に①では臆病な女と歌われていました。
 人間の女を雛のカモメがくわえていくということはあり得ません。ですからカモメがくわえていったのは石と解するべきでしょう。
 この石はおそらく①で歌われていた宝石です。宝石は人間にとっては宝石でしょうが,カモメにとっては価値があるものではありません。なので宝石が小石といい換えられるのは,女の視点からカモメの視点に移行したという意味では僕には納得できます。
 でもこれ以上のことは僕には読解不能です。とくに,だからどうしたということがさっぱり分かりません。カモメが宝石をくわえて飛んでいきましたという報告を受け取っても,リアクションに困るのです。
 さらにのリフレインに続きます。ここでも,だから,というのがどこから出てくるのか分からないのです。

 僕はケッテルリンフへの助言は事実であったと思っています。したがってスピノザがしばしばコルデスの説教を聞きにいったことは事実でなかったと判断します。もしスピノザがそうしていたら,助言の逸話が発生する契機となる,ケッテルリンフの自身の宗教に対する不安metusが発生することがないと思うからです。ですからこのことについてスぺイクは,コレルスJohannes Colerusに対して虚偽の証言をしたと思っています。
 そしてこうした考察から確実と考えられるのは,少なくともスぺイクが虚偽の証言をコレルスに対してなしたことはあったのだということです。なぜなら,ケッテルリンフへの助言と,スピノザがしばしば集会に参加したということは両立し得ないと考えられるからです。すなわち,ケッテルリンフへの助言が事実なら,しばしば集会に参加したというのは虚偽でしょう。これが僕の見解ですが,事実としてスピノザがしばしばコルデスの説教を聞きに行っていたなら,ケッテルリンフへの助言は虚偽であると思われます。そうでないのなら両方とも虚偽なのであって,両方が事実であったということはあり得ないと思います。
 したがって,フロイデンタールJacob Freudenthalがいっているように,証言者としてのスぺイクが事実だけを語ったということはないだろうと思います。いい換えれば,証言者としてのスぺイクの信憑性には疑義があるというフロイデンタールの指摘は,確かな合理性が含まれているものだと判断します。ただ僕の見解ではそれは,スぺイク自身の人間性に由来するものではありません。他面からいえばスぺイクは虚言癖のある人間であったということを意味するのではありません。スピノザのことを敬愛しまた尊敬していたスぺイクには,スピノザについて好印象を抱いてもらいたいという欲望cupiditasがあったので,その欲望が虚偽の証言の原因となったのだと考えます。けだしスぺイクの精神mensのうちにあるスピノザの観念ideaは,スピノザの現実的本性actualis essentiaよりスぺイクの現実的本性をより多く含む思惟の様態cogitandi modiであり,かつ欲望とは,受動状態における人間の現実的本性にほかならないからです。
 『スピノザの生涯』についての考察はこれで終えますが,別の考察を続けます。
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王将戦&ケッテルリンフの不安

2017-03-17 19:13:46 | 将棋
 14日と15日に浜松市で指された第66期王将戦七番勝負第六局。
 久保利明九段の先手で中飛車模様の立ち上がりでしたが郷田真隆王将が5筋の位取りを許さなかったので一転して角道オープン向飛車に構えました。この将棋は後手の序盤の構想が悪かったために千日手を目指すこともできなくなり,その後も小さなミスを重ねてしまったために最終的に大差で先手が勝つという内容だったと思います。
                                     
 先手が8筋の交換に備えたところ。当然1筋に飛車を回ることが考えられます。ここで☖9四歩と突いたので☗1九飛と回られ☖2三金と受けることになりました。しかしこう受けなければならないのでは形が悪すぎるので,第1図では☖2一王と引き,それでも☗1九飛なら☖2二銀という形で受ける方がよかったように思います。先手が仕掛けないのなら☖2三銀~☖2二王と組み替えることもできたかもしれません。
 端を受けられたので先手は☗6九飛と転換。ここから☖3二銀☗6五歩☖同桂☗同桂☖同歩☗同飛☖6三歩☗6四歩☖同歩☗同飛と先手は好調な手順。後手が☖5三角と打つのは止むを得なかったと思いますがここに角を使わなければいけないのでははっきりと苦戦でしょう。先手は☗6九飛と引き上げ☖6三歩に☗7七金と遊び駒を使いにいきました。
                                     
 ここで☖6四角と上がっていますが,後の展開から考えるなら☖8六歩☗同歩☖6四角の方がまだよかったかもしれません。実戦は☗6六金と上がられ☖5三桂と桂馬まで使わされることになってしまいました。先手は☗5五歩。
                                     
 ここで☖7三角と引きましたが☗7五歩☖同歩☗7四歩とされてもう取り返せないくらいの差になってしまいました。代替案ももう難しい局面になっていそうですが,それでも☖8六歩と突いておくくらいの方が実戦よりはましだったかもしれません。
 4勝2敗で久保九段が王将を奪取第59期60期以来,6年ぶり3期目の王将位です。

 前にもいっているように,ここに示しているのは僕の見解opinioであり,史実そのものではありません。史実そのものを決定することはだれにもできないと僕は考えていますので,僕の見解が史実であるという主張をしたいわけでもありません。たとえ僕が断定的な語尾を用いる場合でも,それは僕の私見が述べられているだけであるということに十分に注意を払っておいてください。ですから僕とは異なった見解を有する方もいらっしゃるでしょうし,そうした見解についてそれは誤りであるということを強く主張する意図は僕にはありません。
 ケッテルリンフへの助言の逸話は,僕は史実であった可能性が濃厚だとみています。その理由は,この逸話の中には,スぺイクコレルスJohannes Colerusに対して証言するには不都合な事柄が前提されているからでした。これは前に説明した通りです。そしてその不都合な事柄というのは,スピノザはキリスト教に対する信仰心を抱いていなかった,あるいは抱くことがなかったということでした。そういう精神mensを有したスピノザが敬虔pietasで幸福な生活を送っているのを見たケッテルリンフは,まさにそのゆえに自分のルター派への信仰fidesに対する疑問を抱き,その信仰を継続することへの不安metusを感じたから,自身の信仰の継続についてスピノザに助言を求めることになったのです。
 もしコレルスの伝記にあるように,スピノザがしばしばコルデスの説教を聞きにいくような人であったなら,ケッテルリンフはそのような不安を感じることはなかったのではないかと僕は考えます。なぜなら,たとえスピノザがスぺイクやその家族に無信仰を公言するようなことがあったとしても,しばしば説教を聞きにいっているのであれば,ケッテルリンフはそのためにスピノザは敬虔であり幸福であるのだと認識できるからです。というよりも,自身の信仰に対して不安を感じるような思慮がケッテルリンフにあったのだとしたら,それはケッテルリンフはそれだけ篤い信仰心を有していたということの裏返しなのですから,ケッテルリンフは必ずそのように認識しただろうと僕は考えます。ですからこれらふたつのエピソードが,両立するとは僕には考えられないのです。
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