スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

フェアペギー&同様の虚構

2017-11-30 19:25:53 | 血統
 JBCスプリントを勝ったニシケンモノノフの母系はとても古くから日本で続いています。ニシケンモノノフの11代母に当たるフェアペギーが基礎繁殖輸入牝馬。ファミリーナンバー6。1902年にイギリスで産まれた馬で,1909年には小岩井農場に輸入されて日本で繁殖生活を送っています。1909年というのは明治42年です。
                                     
 これだけ長く続いている血統ですから,代表馬もいれば大レースの勝ち馬もいるのですが,これらはいずれも僕の競馬キャリアの始まる前。それどころか産まれる前のことです。僕は来月で47歳になりますし,競馬キャリアも30年以上になりますから,活力という点でいえばもう落ちてしまっている系統だといっていいでしょう。
 僕の競馬キャリアの中,すなわちここ30年でも,重賞を勝った馬というのはニシケンモノノフ以外には2頭しかいません。1頭が1998年にTCK女王盃を勝った笠松のトミケンクイン。もう1頭は2004年に京成杯を勝ったフォーカルポイントです。ニシケンモノノフの3代母の半弟にあたるステートジャガーが大阪杯を勝ったのは1985年。僕は産まれていますが,まだ競馬キャリアは始まっていません。これ以降,トミケンクインまで13年の歳月があり,さらにフォーカルポイントまで6年の歳月がありました。ニシケンモノノフは2013年に兵庫ジュニアグランプリを勝っていますから,フォーカルポイントからは9年の歳月があったことになります。
 この系統から出た大レースの勝ち馬というのは,戦後間もない1947年に秋の天皇賞を勝ったトヨウメを最後に途絶えていました。つまり70年間も大レースの勝ち馬が皆無だったのです。これだけ長い空白期間を経て大レースの勝ち馬が同一牝系から出るというのは,かなり異例のことになるのではないかと思います。

 第五部定理二九備考では,ものが二様の仕方で現実的なものとして概念されるといわれています。その条件となるのは,僕たちが第三種の認識cognitio tertii generisで第五部定理二三でいわれているあるものaliquidを認識することです。したがってこの限りでは,僕たちは物体corpusとしての円が延長の属性Extensionis attributumに包容される限りで存在しているということを認識するのであっても,その円を現実的なものとして認識していることになるでしょう。もちろん,スピノザが示すような仕方で僕たちの精神mensが円を十全に認識するとき,その認識は第三種の認識ではなくて第二種の認識cognitio secundi generisであるといわなければなりません。いい換えれば第二部定理四四系二でいわれている理性の本性natura Rationisに属する認識が,円という具体的な個物res singularisに適用される場合の認識であるといえます。しかしもしそれが第三種の認識と結び付くのであれば,それは同時に現実的な認識でもあることになるのです。
 ゲーテJohann Wolfgang von Goetheによる原型の認識というのは,第三種の認識と明らかに関連性がありました。なのでこの観点からは,原型というのは単なる形而上学的な観点でなくて,現実的な観点であった可能性もあります。少なくとも大槻がいっていることから類推するなら,ゲーテ自身はそのように解していたという可能性がかなり高いように僕は思います。ただこれはあくまでも『ゲーテとスピノザ主義』からの類推であり,僕には断定できませんので,この観点を僕は強調することはしません。
 スピノザは円の定義Definitioを直線の運動motusという虚構によって規定しました。しかしこのような虚構が許されるのであれば,同様の虚構もまた許されなければなりません。たとえばこの運動は,一回転するから円という図形の発生を示し得ますが,もし半回転だけするなら,つまり180°だけ運動するなら,円の発生ではなく半円の発生を示すでしょう。そしてこれが半円の発生を含む以上,これは半円のよい定義であるといわなければなりません。同様にこの半円が直線部分を軸にして一回転という運動をするなら,球という図形が形成されることになります。これもまた球という図形の発生を含むのですから,球のよい定義であり,これはスピノザ自身も認めていることです。
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勝島王冠&円の観念対象

2017-11-29 20:49:08 | 地方競馬
 第9回勝島王冠
 鞭を入れてクラトリガーがハナへ。イッシンドウタイが2番手で隊列が決まりかけた向正面で外からグレナディアーズが外を上昇,前まで並んで3頭で先行する形に。4番手にサブノクロヒョウ,5番手にオウマタイム,タイムズアロー,ディアドムスの3頭。8番手にハイテルカイトとシャドウパーティーとオリオンザジャパンの3頭。ここから差が開いて11番手はユーロビートとキープインタッチでその後ろにタマモネイヴィー。また差が開いてドレッドノート,ウマノジョー,デュアルスウォードという隊列に。最初の800mは50秒5のミドルペース。
 グレナディアーズに前は譲らなかったクラトリガーが先頭で3コーナーへ。ここから外をディアドムスが上昇し2番手に上がると,直線に入ってすぐに先頭。そのまま追ってくる馬たちとの差を広げていき4馬身差で快勝。クラトリガーはかなり粘り,勝ち馬を追ってきたサブノクロヒョウとの間に進路を取ったのがハイテルカイト。ハイテルカイトが一旦は2番手に上がりましたがサブノクロヒョウの外から追い込んだタイムズアローがハイテルカイトを捕えて2着。ハイテルカイトがクビ差の3着でタイムズアローのさらに外から末脚を伸ばしたタマモネイヴィーがクビ差で4着。
 優勝したディアドムスは2014年の全日本2歳優駿の勝ち馬。2歳時に重賞を2勝しましたが3歳なってからオープンでは頭打ち。4歳の夏に1600万に降級し,今年の1月に1600万を勝って以来の勝利。その後はオープンでは結果を出せなかったので今秋から南関東に転入してここが3戦目。今年の1月に準オープンを勝っていたのですから能力的には南関東重賞なら通用。初戦はおそらく距離が長く6着でしたが,前走は2着と力が発揮できることが証明されていました。能力ではもっと高い馬もいましたが,距離適性と斤量を考慮すれば優勝の最有力候補と考えられ,ここは順当な勝利といえるでしょう。重賞で通用するのは難しいのではないかと思いますが,南関東重賞はまだ勝てるのではないでしょうか。中距離の適性が最も高いのだろうと思います。父はジャングルポケット。母の父はアグネスデジタル。祖母がノーザンドライバーで4代母がロードマップ。Domusはラテン語で故郷。
 騎乗した愛知の岡部誠騎手は2014年の戸塚記念以来となる南関東重賞2勝目。管理している森下淳平調教師は南関東重賞はこれが12勝目。第4回,6回に続き3年ぶりの勝島王冠3勝目。

 精神の能動actio Mentisによる知的操作によって,その人間の精神mens humanaのうちに円の観念ideaが生じるなら,これは客観的有esse objectivumです。観念は有であって理性の有entia rationisは無ですから,観念といわれる以上はそれは有なのです。ただ,客観的有にはその対象ideatumとなる形相的有esse formaleがあるのでなければなりません。スピノザが示すような仕方で円の観念がある人間の精神のうちに生じる場合に,その対象となっている円の形相的有がどのようにあるといえるのかが,この問題では最大の課題として生じてくることになります。
                                 
 円は物体corpusです。いい換えれば第二部定義一により延長extensaの有限様態すなわち個物res singularisです。個物の存在existentiaは第二部定理八系でいわれているような,ふたつの仕方で説明することが可能でした。このとき,この種の円の観念の対象が,時間的に持続するdurare限りで存在するといわれる場合の物体としての円であることはできないと僕は考えます。スピノザはこの円の定義Definitioが虚構であるというとき,それは現実的に存在する円がこの仕方で生起するのではないということをひとつの条件として示しています。これはこうして形成される円の観念は,現実的に存在する円の観念,十全な観念idea adaequataではないという意味だとしか解せません。なので現実的に存在し,持続するといわれるような円がその観念の対象であるということはできないのです。ということは,この仕方で形成される円の観念の対象は,円が延長の属性Extensionis attributumの中に包容されている限りで存在する円であろうと僕は考えます。
 これは消去法のような説明ですが,もう少し積極的に説明することもできます。僕たちはスピノザが示す仕方によって精神の能動によって円を客観的に形成するなら,それが真理veritasであるということは知ることができます。しかるに真理は永遠aeterunusから永遠にわたっての真理でなければなりません。一端が固定しもう一端が運動する直線によって描かれる図形が,昨日も円であったし今日も円であったから真理であるというわけではなく,それは常に真理でなければならないからです。ところが現実的に存在する事物は,昨日も存在しまた今日も存在しているから現実的に存在するといわれるのであり、永遠に存在するというわけではないのです。
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大山名人杯倉敷藤花戦&有の理由

2017-11-28 19:17:18 | 将棋
 26日に倉敷市芸文館で指された第25期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 駆け引きのある序盤から後手の伊藤沙恵女流二段の向飛車に先手の里見香奈倉敷藤花が居飛車で対抗という意外な戦型に。先手が左美濃,後手が銀冠で先手から先攻。仕掛けてよくなったわけではありませんが悪くもならなかったという感じだったのではないでしょうか。
                                     
 4六で先手の角と後手の馬が交換になった局面。後手が桂馬を得していますが先手も取り返すことはできそうなので難解な中盤といえると思います。
 後手は☖2九角と打ちました。これは悪い手ではなかったと思いますが,後手はこの後の進展には自信が持てなかったようなので,☖4七角と打って☖2九角成を狙った方がよかったかもしれません。
 ☗4八飛と逃げて☖3六桂に☗6八飛と逃げました。手順でいえば桂馬を打たせた形で,この交換は先手の得になっていた可能性が高いです。後手は☖4七角成と馬を作り先手は☗8五歩と突きました。
 これを☖同歩と取ると☗8四歩☖同銀☗3二歩成☖同金☗5一角☖7三銀☗4二角成☖同金が両対局者の一致した読み筋。その局面はまだ難解で,後手はそう進めるのが有力でした。しかし後手はその手順は悪いとみて☖5一金と受けました。結果的にいえば前述の手順で自身が悪いとみた大局観がよくなかったようです。
 ☗8四歩と取り込み☖同銀☗8五歩☖7三銀。そこで☗3二歩成☖5二飛に☗2五角と離して打ったのが好手順でした。
                                     
 第2図から☖5三飛は仕方ありませんが先手はと金で桂馬と香車を取る展開となりました。後手は先に得した桂馬をあまり働かない形で打ってしまっているため,ここでは先手がよくなっています。
 連勝で里見倉敷藤花の防衛第16期,17期,18期,19期,20期,23期,24期に続き三連覇で通算8期目の倉敷藤花です。

 円の定義Definitioが虚構であるということは,スピノザ自身がいっていることです。僕はこのいい方からは,スピノザの哲学において数学というのがどういう学問としてみなされ得るのかということがひとつの課題として生じてくるという考えをもっています。定義が虚構であるなら,あるいは虚構であることが許されるのであれば,数学の全体が虚構としての学問である,いい換えれば実在的な対象を有さないような学問であるという可能性を排除することができないのではないかとも思われるからです。ですがこのことについては今は考えません。たぶんいずれ考察の対象とする時期が到来するであろうといっておきます。
 一方,僕自身はすでにいったように,これは虚構であったとしても,知的操作によってあるいは精神の能動actio Mentisによって知性intellectusのうちにこのような円の観念ideaが発生するのであれば,それは理性の有entia rationisではなくて客観的有esse objectivumすなわち観念それも円の十全な観念idea adaequataであるという考え方を有しています。この理由についてはここで説明しておかなければならないでしょう。
 第二部定理七系の意味は,Deusのうちにある観念はすべて十全であるということです。そして第二部定理一一系により,人間の精神mens humanaは神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusの一部です。したがって,ある人間の精神の本性natura,essentiaを構成する限りで神のうちに円の十全な観念があるならば,その人間の精神のうちには円の十全な観念があります。他面からいえばその限りでその人間の精神のうちにある円の観念は,第二部定理七系でいわれている,神のうちに起こる観念と同一です。このことは,人間の精神というのは,その人間の精神という様態的変状modificatioに様態化した限りでの神であるということからも明らかでしょう。
 次に,再び第二部定理七系から分かるのは,もし神のうちにXの観念があるなら,つまりXの客観的有があるなら,Xは知性の外にも有としてある,すなわち形相的有esse formaleとしてもあるということです。したがって,人間の精神のうちに円の客観的有があるなら,その外来的特徴denominatio extrinsecaに着目せずとも,円が形相的有としても存在するということを,その人間は知り得ます。これは第二部定理三四第二部定理四三から明らかです。
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朝日新聞社杯競輪祭&定義の場合

2017-11-27 19:16:58 | 競輪
 小倉競輪場で開催された昨日の第59回競輪祭の決勝。並びは新田に諸橋,木暮‐平原の関東,山中‐渡辺の南関東,深谷‐金子の愛知で北津留は単騎。
 平原がスタートを取って木暮が前受け。3番手に北津留が入り,そのまま関東を追走。4番手に新田,6番手に深谷,8番手に山中という隊列で周回。残り3周のバックから山中が上昇。だれもこのラインを追わないままバックの出口からホームの入口にかけて木暮と山中が併走。ホームに入ると山中が木暮を叩き,そのまま誘導を斬りました。前から山中‐渡辺‐木暮‐平原‐北津留‐新田‐諸橋‐深谷‐金子の一列棒状に。このまま打鐘が入り深谷は発進しかけましたが新田も併せる構えを見せるとそれ以上は動かず,一列のままホームを通過。山中の成り行き先行のような形に。バックで新田が来る前に木暮が出たのですが,後ろの新田とはスピードが違いすぎました。諸橋がマークしきれなかったために単独の捲りになったものの力の違いを見せつけるように新田があっさりと前を飲み込んで優勝。平原の後ろから先に踏んだ北津留が大外を伸びて2車身差の2着。直線から踏んだ平原が半車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は7月のサマーナイトフェスティバル以来の優勝でビッグは8勝目。GⅠは6月の高松宮記念杯以来の6勝目。競輪祭は初優勝。このレースはメンバー構成上は深谷の先行が有力と思えましたが,木暮が平原の前を回るということで,あるいは木暮と深谷の先行争いもあり得るかと予想していました。それなら新田が有利であろうと思っていましたが,実際はまったく想定していなかった展開に。それでも新田にとって最大のライバルは深谷であった筈で,山中や木暮とは脚力が違いますから,深谷より前に位置できた時点で優勝が近づきました。僕としては高配当になってよかったのですが,山中が動いたときに深谷が追っていれば,新田がどう動いたかは分かりませんが,また違ったレースになったのではないかと思います。

 スピノザは,事物の定義Definitioからはその事物のあらゆる特質proprietasが導かれることが好ましく,そのためには事物の発生が定義に含まれているべきであり,その条件を満たすのであればある種の定義は虚構であって構わないという考え方を有しています。
 この一例をあげれば,円とは,一端が固定し,一端が運動する直線によって形成される図形であるという,円の定義があります。知性intellectusの外に形相的にformaliter存在する円が実際にこのような仕方で描かれるのではないとしても,この定義は円の発生を含み,そのゆえに円のすべての特質をそこから導き出せるようなものになっているから,これは円のよい定義なのであるとスピノザはいいます。
 僕はこのような円が客観的にすなわち思惟の様態cogitandi modiとしてあるとき,それは円の十全な観念idea adaequataであると考えます。ただしこのためにはひとつだけ注意をしておかなければなりません。直線の本性essentiaのうちにはあるいは直線の特質のうちにも,それがここに示されたような仕方で運動するということは含まれていません。ですからこれを単に直線の観念としてみるなら,それは直線の混乱した観念idea inadaequataであるということになります。これが円の十全な観念であるのは,この直線の観念が円の観念と結び付く限りにおいてなのであって,その結びつきが解消されるなら,それは十全ではなく混乱しているのです。
 これらのことから分かるのは,この仕方で人間の精神mens humanaのうちに形成される円の観念は,あくまでも思惟作用,それも精神の能動actio Mentisに基づく思惟作用のうちにあるのであって,直線が物体corpusとして運動するということのうちにあるのではないということです。なのでこの観念は,実は形相的な対象を有していないと解することもできるでしょう。僕はこれが客観的有esse objectivumすなわち観念であるとみなしますが,場合によってはこの定義は観念としてではなく理性の有entia rationisとして精神のうちで成立するのであるという見方もあり得るであろうことは認めます。ただ十全な観念は真の観念idea veraとは異なり,観念の外来的特徴denominatio extrinsecaには依拠しませんから,確かに物体としての円がこのように発生するのでなくとも,この観念の対象ideatumとして円の形相的有esse formaleがあるといえると僕は考えています。
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ロンジン賞ジャパンカップ&第一部定理六

2017-11-26 19:37:14 | 中央競馬
 アイルランドから1頭,ドイツから2頭,オーストラリアから1頭が招待された第37回ジャパンカップ
 ワンアンドオンリーは逃げる気があったように見えましたが,発馬後のダッシュを欠いていたために先にハナに立っていたキタサンブラックがそのまま逃げることに。2番手にギニョールとディサイファ。追い上げたワンアンドオンリーは4番手になり5番手はシュヴァルグラン。その後ろにブームタイム,ソウルスターリング,シャケトラの3頭。さらにレイデオロとラストインパクト。11番手がヤマカツエースでその後ろにマカヒキとサトノクラウン。あとはアイダホ,サウンズオブアース,イキートス,レインボーラインの順で続きました。最初の1000mは60秒2のスローペース。
 わりと単調なレースとなり,3コーナーを回るとディサイファが単独の2番手,ギニョールが3番手となり,2番手と3番手の差が開くことに。ただ能力の違いがあるのでこの時点でキタサンブラックの手応えは楽。直線では追っていたディサイファを置き去りにして抜け出ました。これを追い掛けることができたのは2頭で,外の方に回ったレイデオロと,内目を回ってキタサンブラックとレイデオロの間を割ったシュヴァルグラン。レイデオロの勢いがよく見えましたが坂を上がったあたりで脚色が鈍り,真中のシュヴァルグランがキタサンブラックを捕えるとそのまま抜け出して優勝。レイデオロがフィニッシュ寸前でキタサンブラックを捕えて1馬身4分の1差で2着。キタサンブラックがクビ差で3着。
 優勝したシュヴァルグランは昨年のアルゼンチン共和国杯以来の勝利で大レースは初制覇。宝塚記念だけは2年続けて大きく負けているのですが,それ以外のレースは大敗といえる戦績はなく,ここも間違いなく好勝負はするだろうと思っていましたし,大レースを勝つ能力も確実にある馬だと見立てていました。3着と4着に4馬身も差がついたということは,ここは上位3頭の能力が上であったと考えるべきでしょう。好枠を引けてそれを生かすレースができたことで,大レース制覇まで辿り着くことができたということだと思います。中距離より長距離の適性が高いタイプではないでしょうか。父はハーツクライ。祖母がハルーワソングで3つ上の半姉が2012年にクイーンカップ,2013年にヴィクトリアマイル,2014年にヴィクトリアマイルを勝ったヴィルシーナ。ひとつ下の半妹が昨年の秋華賞と今年のドバイターフを勝っている現役のヴィブロス。Cheval Grandはフランス語で偉大な馬。
 騎乗したオーストラリアのヒュー・ボウマン騎手は日本馬に騎乗しての大レースはこれが初勝利。管理している友道康夫調教師はドバイターフ以来の大レース制覇。国内では昨年の秋華賞以来。ジャパンカップは初勝利で大レースは9勝目。

 理性の有entia rationisがある人間の精神mens humanaとだけ関連付けられる思惟の様態cogitandi modiであり,無であったとしても真verumではあるので,人間が何かを論証する場合には有益であるということの実例をひとつ示しておきましょう。第一部定理六は以下の事柄の論証Demonstratioを目指しています。
                                
 「一の実体は他の実体から産出されることができない(Una substantia non potest produci ab alia substantia.)」。
 この定理Propositioもまた,一の実体Una substantiaと他の実体alia substantiaという複数の実体が存在するのでなければ,実在的に意味を有することができません。
 スピノザによるこの定理の証明はすでに証明された定理を援用していますが,ここではそうした証明は目的に照らして適切性を欠いてしまうので,別の論証をします。これはスピノザが第一部定理六系を論証するときに用いる方法とほぼ同じです。
 実体Aが実体Bを産出するとするなら,実体Aが原因で実体Bは結果でなければなりません。これはそれ自体で明らかだといえるでしょう。したがって第一部公理四により,その場合は実体Bの認識cognitioが実体Aの認識に依存しているのでなければなりません。ところが第一部定義三が示すところによれば,実体はそれ自身によって概念されなければならないのです。よって実体Bの概念conceptusが実体Aの概念に依存するということはあり得ません。もし依存しているなら実体Bは単にことばの上で実体といわれているだけで,実際には実体ではないということになってしまうからです。したがって実体Aから実体Bが産出されることはありません。しかるにAもBも任意であり,すべての実体に妥当します。よってある実体が別の実体から産出されることはないのです。
 第一部定義三によって,僕たちは実体を概念することができます。いい換えれば実体の十全な観念idea adaequataを有することができます。このことにより,複数の実体というのを理性の有として仮定すれば,どの実体も別の実体から産出され得ないということを論証することができます。それは複数の実体が実在しようがしまいが同じことなのです。
 さらに,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの考え方に対して重要なのは,この種の理性の有は,単に論証に用いることができるということだけではなく,ある種の定義Definitioの場合にも有効であるということです。
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オールフォーロンドン&理性の有と観念

2017-11-25 19:27:28 | 血統
 先月の菊花賞を勝ったキセキは3代母が1982年にアメリカで産まれたオールフォーロンドンという馬で,輸入基礎繁殖牝馬になります。ファミリーナンバー22-b
                                     
 アメリカで1頭だけ牝馬を産んだ後に輸入。最初の活躍馬は1997年にファンタジーステークスを勝ったロンドンブリッジ。翌年の桜花賞でも逃げて2着に粘りました。
 ロンドンブリッジは繁殖牝馬となり,最初の産駒は競走馬として登録できませんでしたが,翌年の産駒,事実上の初産駒といってもいいかと思いますが,その馬が2004年にクイーンカップとオークスと京阪杯,2005年にマーメイドステークスを勝ったダイワエルシエーロです。さらに翌年に半弟として産まれたのが2005年にアーリントンカップ,2006年に京都金杯を勝ったビッグプラネットと,こちらでも成功しています。
 2008年のロンドンブリッジの産駒はレースには出走できませんでした。牝馬であったので繁殖入りは果たし,その馬がキセキの母となっています。
 ロンドンブリッジの3歳下の半弟はナリタオンザターフ。2001年に名古屋優駿を勝ちました。
 もう少し辿るとオールフォーロンドンの3代母から分枝が広がっています。2007年に福島記念,2008年に新潟記念を勝ったアルコセニョーラ,2005年に日経賞を勝ったユキノサンロイヤル,2015年に兵庫チャンピオンシップとレパードステークスを勝ったクロスクリーガーなどはいずれもその馬の子孫です。

 スピノザの哲学において十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの相違,あるいは真の観念idea veraと誤った観念の相違は,ふたつの意味を有しています。ひとつは,十全な観念と真の観念は真理veritasであるのに対して,混乱した観念や誤った観念は虚偽falsitasであるということです。そしてもうひとつが,十全な観念や真の観念が有であるのに対しては,混乱した観念と誤った観念は無ということです。
 ただし,ここではひとつだけ注意が必要です。第二部定理七系の意味が示すのは,Deusのうちにある観念はすべて十全であるということです。そして第二部定義四から,十全な観念は真の観念が有する本来的特徴denominatio intrinsecaをすべて兼ね備えた観念ですから,第二部定理三二にあるように,どんな観念omnes ideaeであれ神に関連付けられるad Deum referunturなら真veraeの観念です。こうしたことは,十全な観念とか混乱した観念といわれる場合には,観念されたものとの関係を離れた観点からみられた場合であり,真の観念とか誤った観念といわれるならそれは観念対象ideatumとの関係すなわち外来的特徴denominatio extrinsecaという観点からいわれるのだということからも明らかでしょう。
 そして第一部定理一五から,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのですから,観念もまたそれがどんな観念あるいは何の観念であれ,神のうちにあるのでなければなりません。ですから本当の意味であるのは十全な観念あるいは真の観念なのであって,混乱した観念や誤った観念がそれ自体であるということはありません。他面からいえば観念は必然的にnecessario真理として,そして有としてあるということになります。
 ただし,第二部定理一一系の新しい意味から分かるように,もしある観念が単に現実的に存在する人間の精神mens humanaとだけ関連付けられる場合は,他面からいえば神とは適切に関連付けられないならば,その人間の精神の一部が混乱した観念あるいは誤った観念によって構成されるということがあるのです。そしてこの限りにおいて,こうした観念が虚偽でありまた無であるといわれるのです。
 理性の有entia rationisというのは,この関係でいえば,単に人間の精神とだけ関連付けられる思惟の様態cogitandi modiです。そしてそれは,真理であると同時に無であるのです。これが理性の有と観念の相違です。
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竜王戦&知的操作

2017-11-24 19:41:46 | 将棋
 昨日から越後長野温泉で指された第30期竜王戦七番勝負第四局。
 渡辺明竜王の先手で相矢倉。先手の早囲いに後手の羽生善治棋聖から動いていく将棋に。中盤の戦いになってから先手が無理をしているように僕には思えましたので,後手が作戦勝ちをしていたのかもしれません。その後,7筋に飛車を回ったあたりでは後手が優位に立っていたのではないでしょうか。そして最後に驚異的と感じられるような寄せが炸裂しました。
                                     
 後手が7六の金を取って王手をしたのに対して後手が歩を合駒し,飛車がひとつ寄って先手が銀を打った局面。ここで☖8八金☗6八王と決めてから☖6五飛と桂馬を取って☗3四銀と角を取らせました。厳密にいうと角を取るところでは変化するべきだったのかもしれませんが,先手の手順は自然であるようには思えます。
 ☖6六歩☗5六銀と拠点を作ってから取った桂馬を☖3六桂と打ちます。☗6五銀は先に☖6七金と打たれてから飛車を取られて負けなので☗3八飛はこの一手。そして今度は角を取らせた銀を☖3四銀と入手して☗6五銀に☖4八銀と打ちます。この局面で先手の勝ちになっているようです。
 ☗4四香☖4三銀の王手を利かせてから☗4八飛☖同桂成☗5七王で上部脱出を狙いますが今度は取った飛車を☖6八飛と打つのが妙手。
                                     
 第1図で持ち駒を☖8八金と打ってしまうのは,右側に逃げられた場合に働かなくなる可能性がある異筋の手なので,第2図までは想定の上で打ったのは間違いないと推測できます。ここまで見事に一連して流れる寄せの手順というのはそうそうお目にかかれないのではないでしょうか。
 羽生棋聖が勝って3勝1敗。第五局は来月4日と5日です。

 第二部定理七系から分かるのは,知性intellectusのうちに客観的にすなわち観念ideaとして有であるものは,その対象が知性の外に形相的な有として実在するということです。したがって,Aの観念が客観的有esse objectivumであれば,Aは形相的有esse formaleとしても知性の外に実在していることになります。スピノザはこうした客観的有のことを観念というのです。これでみれば分かるように,実際には無といわなければならないような思惟の様態cogitandi modiがある,無についてそれをあるというのは語弊がありますが,どういういい回しをしたらよいか分からないので無といわれる思惟の様態があるといいますが,この場合にはその思惟の様態は観念とはいい得ないことになります。第一部定義三は実体substantiaの定義Definitioで,実体は実在しますから,僕たちは実体の観念を有することはできます。しかし複数の実体は実在しないので,僕たちが『エチカ』の諸定理の中で複数の実体が存在するのでなければ実際は無について何事かを述べている論証Demonstratioについて,それを十全に認識し得るのは,純粋な知的操作によっています。あるいは,精神の能動actio Mentisから生じる思惟の様態は,その思惟の様態の本来的特徴denominatio intrinsecaを十全に表現するexprimereといういい方が可能であるとすれば,それは僕たちの精神の能動に依拠しているのです。
 このように,僕たちが純粋な知的操作によって何事かを把握するとき,それが有であるならその思惟の様態は観念であるといい得ることになりますが,無である場合には観念とはいわれ得ません。そしてそうした思惟の様態については理性の有entia rationisといわれることになります。いい換えれば理性の有とは,その対象を形相的には有さない十全な観念idea adaequataに類する思惟の様態です。そしてこの思惟の様態は,理性の有と名付けられているとはいえ,実在的な意味では無です。スピノザは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の附録として著した『形而上学的思想Cogitata Metaphysica』において,理性の有は非有であるといういい方をしており,こうした解釈は早い段階からスピノザの中で成立していたといえるでしょう。
 しかしながら,理性の有は,実在的有を探求する場合に,有益ではあるのです。それは理性の有が,混乱した観念idea inadaequataとはまた違った思惟の様態であるからです。
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農林水産大臣賞典浦和記念&定義との関連

2017-11-23 19:33:45 | 地方競馬
 第38回浦和記念
 タマモホルンがハナへ。これは僕の予想通りでした。2番手はバルダッサーレとヒガシウィルウィンで併走。4番手にマイネルバサラ。5番手がナムラアラシ。6番手はグランディオーソ。7番手にオールブラッシュ。この後ろがクリノスターオー,エンパイアペガサス,ストゥディウムの3頭。ここまでは一団でポイントプラスだけが取り残される隊列。前半の1000mは62秒7のハイペース。
 2周目の向正面に入るまで隊列にあまり変化がない単調なレース。ここからマイネルバサラが一気にスパート。ヒガシウィルウィンだけは対応しましたが,反応が鈍く,3コーナーを回るとマイネルバサラが先頭に立って後続とのリードを広げました。ナムラアラシとオールブラッシュの2頭が併走で,一旦はヒガシウィルウィンを交わして2番手に。コーナーで決定的な差をつけていたマイネルバサラがそのままリードを保って優勝。コーナーでは4番手に下がったもののコースロスなく内を回って巻き返したヒガシウィルウィンが6馬身差で2着。ナムラアラシとの競り合いを制したオールブラッシュが6馬身差の3着でナムラアラシが1馬身半差の4着。
 優勝したマイネルバサラは今年の3月に準オープンを勝った後,オープンは1戦しただけで降級。降級後の2戦は掲示板も確保できませんでしたが3戦目の前走を勝って再びオープンに昇級してここに出走。このレースは一線級の出走がなかったため,勢いのあるこの馬が勝つというケースもあり得ると考えていました。かなり大きな差をつけていますので,もう少し上の舞台でも戦える可能性はありますが,本当にそれだけの力量があるかどうかはもう少し見守っていきたいところです。
 騎乗した柴田大知騎手は浦和記念初勝利。管理している松山将樹調教師は開業から9年8ヶ月で重賞初勝利。

 実在的には無であるとしかいいようがない事柄を概念notioとして呈示し,それを考察に用いることが無意味でないことは,『エチカ』のテクストそのものが是認していると僕は解します。たとえば第一部定理二は,複数の実体Substantiaeが存在してそれらに共通点がないのでなければ実在的realiterには無です。そしてスピノザは複数の実体の実在を認めないのですから,実際に無について何事かを論証しているのです。ところがこれが定理Propositioとして加えられているのは,このような論証Demonstratioを経ることによって,存在する実体は神Deusだけであるという第一部定理一四を明らかにすることができるからです。つまり第一部定理二は,その意味では有意味です。少なくともスピノザにとっては有意味であるといわなければならないでしょう。同様に第一部定理四とか第一部定理五,第一部定理八なども,複数の実体が存在するのでなければ実在的には無意味な定理ですが,論証のためには有益であるのです。
                                 
 こうしたことが可能になっているのは,スピノザがある種の定義Definitioは唯名論的であって構わないと考えていることと関連していると僕はみています。そうして定義されたものが知性intellectusによって正しく概念できるのであれば,唯名論的に定義されたものについては,実在的にいわれるかいわれないかと無関係に,知性はそれを真に認識していることになるからです。しかしここでは定義論については触れません。一点だけ,スピノザの哲学では,真理veritasが真理であるということを保証するのは十全な観念idea adaequataであって真の観念idea veraではないということ,他面からいえば観念の本来的特徴denominatio intrinsecaであり,外来的特徴denominatio extrinsecaではないということだけいっておきます。ゲーテの例と関連させていえば,ゲーテが何らかの仕方で植物実体,あるいは象徴的植物とか植物の原型といったものを定義し得るのであれば,知性はその定義によってそうしたものを十全に認識でき,かつそれが真verumであることも知ることができるのです。そのためにはそうしたものが実在する必要はないのです。
 ただし,事物の定義や観念と関連させる場合には,有と無の関係はもう少し考えておく必要があります。それは客観的有esse objectivumと形相的有esse formaleの関係についてです。
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リコー杯女流王座戦&無の有意味性

2017-11-22 19:32:23 | 将棋
 静岡で指された第7期女流王座戦五番勝負第三局。
 里見香奈女流王座の先手で5筋位取り中飛車。加藤桃子女王は超速銀で対応。6筋で銀が向かい合う形から先手が新しい仕掛けを敢行。この成否は僕には分かりませんが,その後で後手が一方的に受けに回らなければならない対応をし,駒得にはなったものの勝ちにくい展開になったという印象です。
                                     
 先手が桂馬を打った局面。ここで4四の地点が受からなくなってしまったので☖3五歩と催促しました。もっともこれには☗4四桂と跳ねることになりますから,攻め方を限定したという意味はありそうです。
 ここでは受けに回る手もあったかと思いますが☖4八歩☗同金☖2四桂で攻め合いを目指しました。ただ☗4七銀と受けておくのが冷静な対応で,先手は桂馬を渡すことができます。
 そこで☖7五角と打ちましたが構わず☗3二桂成☖同金☗4四銀打と攻め込まれ,角を打ったからには☖同角☗同銀☖6六角でなければいけないのですがそれは無理とみて☖4二歩と受けることになりました。
                                     
 ここから先手は☗6七金と上がって7五の角を取ることに成功。安全に勝つことを最大の目標にするような指し回しになったので手数は長引きましたが,後手にはあまりいいところがありませんでした。
 里見王座が勝って1勝2敗。第四局は来月8日です。

 おそらくゲーテJohann Wolfgang von Goetheはある実体substantiaと別の実体が存在するなら,それらは実在的に区別distinguereされなければならないということを理解しています。ただ,スピノザの哲学ではこれは実在的な意味を有しているわけではありません。第一部定理一四に示されているように,存在する実体はDeusだけなので,実在的な意味においてある実体と別の実体が区別されるというケースは生じ得ないからです。ただ,第一部定義六から分かるように,神Deumの本性essentiamは無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されます。したがって,実在的区別という区別自体が実在的な意味を有さないわけではありません。ある属性と別の属性,たとえば延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumは実在的に区別されるからです。
 なので,動物実体とか植物実体というのは形而上学的な意味しか有し得ませんが,動物属性とか植物属性というなら,スピノザの哲学に照合する限りではこれを実在的に解し得るということはできます。ただし,実際にゲーテがそう解しているとは僕は考えません。原型とメタモルフォーゼの内的法則というのは,あくまでも全自然,といっても延長の属性にのみ妥当する全自然のことではないかと僕は推測しますが,その限りにおいて無限に多くのものすなわち物体corpusを生成するというのが,この点についてゲーテが実在的に解しているところでしょう。象徴的植物という原型とそのメタモルフォーゼによって無限に多くの植物が生起するということを,実在的に考えているわけではないと思います。
 ではこのような考え方が,自然学全般においては有意味ではあるけれども,植物学に限定した場合には無意味に帰してしまうのかといえば,僕は必ずしもそうは考えないのです。植物実体あるいは植物の原型としての象徴的植物というのは,実在的にいえば有ではありません。すなわち無です。いい換えれば実在性realitasを有し得る何かではありません。しかし僕たちが何事かを論証していくために,実在的には無であるものを概念notioとして利用していくということは,有意味であると僕は考えます。そしてこの場合には,ゲーテが植物学を探求していくために,それが大いに有意味であった,あるいは大きな役割を果たし得たと思うのです。
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農林水産大臣賞典兵庫ジュニアグランプリ&調和

2017-11-21 19:19:17 | 地方競馬
 第19回兵庫ジュニアグランプリ
 逃げて連勝中のハヤブサマカオーがここも先手を奪いました。2番手はレナータとモリノラスボス。4番手にショコラパフェで5番手がアスターソード。6番手にソイカウボーイ,クラウンエンジニア,タガノアム。ここまでは集団。少し離れてエムティストロフィとリコーパイソン。また少し開いてスウォナーレとスリルトサスペンスという隊列。ハイペースでした。
 向正面に入るとモリノラスボスの外にアスターソードが上がってこの2頭で2番手を併走。レナータとショコラパフェは3番手から離れ出し,ソイカウボーイが外からぐんぐんと上昇。3コーナーを回るとアスターソードがモリノラスボスの外から捲り気味に追い上げ,単独の2番手まで上昇するとハヤブサマカオーと雁行で直線に。勢いはアスターソードだったのですがここからハヤブサマカオーがしぶとく粘り,この時点での差をフィニッシュまで保ったまま逃げ切って優勝。クビ差の2着にアスターソード。2馬身差の3着にソイカウボーイ。
 優勝したハヤブサマカオーは3連勝で重賞初制覇。新馬が大差勝ちで2戦目も4馬身差でのレコード勝ち。ダートではJRAの2歳馬でトップかもしれない戦績ですので,能力最上位は疑い得ないところでした。2戦とも逃げ切りでしたから,先手を奪えない場合にどうかというのが課題でしたが,持ったままで楽に先手を奪うことに成功できました。これまでが大きな差をつけての楽勝でしたから,接戦となってしぶとさをみせたのは収穫だったと思います。ただ逃げられなかった場合の課題はまだ残っているとみておくべきかもしれません。祖母は2000年に関東オークスとクイーン賞,2001年にマリーンカップとスパーキングレディーカップ,2002年にマリーンカップとマーキュリーカップとエルムステークス,2003年に浦和記念を勝ったプリエミネンス
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している伊藤圭三調教師は兵庫ジュニアグランプリ初勝利。

 仮構された植物実体から無限に多くのinfinita植物が生起し,同様に仮構された動物実体から無限に多くの動物が生起することはあり得ないということは,第一部定理一六の意味により明らかになったといえるでしょう。植物実体と動物実体が実在的に区別distinguereされるということは無理があるからです。したがってゲーテJohann Wolfgang von Goetheは原型とメタモルフォーゼという内的法則によって自然は無限に多くのものを産出するといっているので,この場合は自然から産出される無限infinitumが,各々の実体substantiaから産出される無限の総体によって構成されなければならなくなってしまうからです。
 ただ,僕はここでゲーテを非難しようという気は毛頭ありません。そもそもこのことは,実在的に考えずとも,単に形而上学的に考えて明らかだからです。というのも第一部定理二により,ある実体と別の実体は実在的に区別されなければならないのですが,動物実体と植物実体を実在的に区別することはできません。これをいうためには動物と植物の間に共通点がないと主張しなければならないので,それ自体で不条理であることは明らかでしょう。他面からいえば,仮構はあくまでも仮構であって,植物実体にせよ動物実体にせよ,それは実際には実体ではありませんし,したがって第一部定義四によってその本性essentiamを構成している属性attributumでもありません。この程度のことをゲーテが弁えていない筈はないのであって,だからゲーテは,自然は原型とメタモルフォーゼという内的法則によって無限に多くのものを産出すると考えたのであり,植物原型とメタモルフォーゼから無限に多くの植物が生起するとはいわなかったのです。つまりゲーテは確かに実体と実体の変状substantiae affectioという考え方の下に,原型とメタモルフォーゼという内的法則を編み出した可能性があるのですが,そのときに各実体および各属性が実在的に区別されなければならないということを忘れていたわけではないと僕は解します。ゲーテがここでいっている自然は,スピノザがいう自然とは異なり,延長の属性Extensionis attributumという意味に限定されると思いますが,延長の属性から無限に多くの物体corpusが産出されるという点は,影響の有無は別に,スピノザの主張に調和していると思います。
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JT将棋日本シリーズ&第一部定理一六の意味

2017-11-20 19:21:59 | 将棋
 幕張メッセで指された昨日の第38回将棋日本シリーズの決勝。対戦成績は豊島将之JT杯覇者が8勝,山崎隆之八段が5勝。
 振駒で山崎八段が先手になり相掛かり。序盤に先手が3筋の歩を突いたので後手の豊島JT杯が横歩取りの要領でその歩をさらうという乱戦。後手は角道を開けない石田流のような構えから美濃囲いに組み,5筋に飛車を戻したので,途中からは後手の中飛車で始まったかのような将棋になりました。中盤で後手が1筋で香車を捨てて歩を入手し,その歩で銀を取ってからは後手がよかったと思うのですが,なかなか決めるというところまでいくことができませんでした。
                                     
 先手が4八にいた飛車で銀を取った局面。これは後手玉を攻めるために銀を入手したという手ですが,詰めろになっているわけではありません。なので詰めろの連続で攻めれば後手が勝ちます。飛車が8段目から動いたので☖6八銀が生じていて,そう打たれれば負けではないかと先手は思っていたようです。またもっと格好よくいくなら☖8六銀と打つのもあったのではないでしょうか。ところが後手は☖同桂と取ってしまいました。先手は☗9三桂成。
                                     
 この手でいきなり逆転しました。第2図は後手玉が簡単な詰めろで先手玉は詰まず,先手の勝ちになっています。後手は☗9三桂成をうっかりしていたとのことですが,豊島JT杯クラスであればいかに30秒将棋でも,大ポカの部類に入るのではないかと思います。
 山崎八段が優勝。2015年度の叡王戦以来となる7度目の棋戦優勝。日本シリーズは初優勝です。

 第一部定理一六は,神の本性divinae naturaeから無限に多くのinfinitas仕方で無限に多くのものが生起するといっています。これを僕は,延長の属性Extensionis attributumからは無限に多くの物体corpusが生起するし,思惟の属性Cogitationis attributumからは無限に多くの観念ideaが生起すると理解します。なお,スピノザの哲学では属性が無限に多くありますから,このことは延長の属性と思惟の属性に限られることではありません。ある単一の属性からは,その属性の個物res singularisが無限に多く生起すると解するということです。
 無限に多くの物体が生起し得て,無限に多くの観念も生起し得るのに,神の本性から無限に多くのものが生起するというのは不自然ではないかと思われる方がいるかもしれません。神の本性から生起する無限に多くのものは,各々の属性から生起する無限に多くのものの総体であり,これだと無限に多くのものが無限に多くのものの総体によって構成されることになってしまうと思われるからです。ですが,僕はこれは矛盾していると考えません。というのは各々の属性というのは実在的に区別されるのであって,第一部公理五により,そうしたものの間では一方を認識することによって他方を認識することができないからです。したがって,無限に多くの物体を認識するということと無限に多くの観念を認識するということは別個になされねばならず,一方の無限によって他方の無限を理解することは不可能です。したがって,延長の属性から無限に多くの物体が生起するということは,真の意味で神の本性から無限に多くのものが生起するということと同じ意味でなければなりませんし,同様に思惟の属性から無限に多くの観念が生起するということも,神の本性から無限に多くのものが生起するということに同じ意味でなければならないのです。
 またこのことは,第一部定義四により,属性attributumが実体substantiaの本性essentiamであることからも明らかでしょう。つまり延長の属性も思惟の属性も,同じように神の本性として僕たちは認識します。したがって神の本性から無限に多くのものが生起するのであれば,延長の属性からは無限に多くの物体が生起しなければなりませんし,思惟の属性からは,無限に多くの観念が生起しなければならないのです。
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マイルチャンピオンシップ&形而上学と実在

2017-11-19 19:29:57 | 中央競馬
 第34回マイルチャンピオンシップ
 出走したレースではほぼ逃げているマルターズアポジーが今日も先手を奪いました。2番手にヤングマンパワーとダノンメジャー。4番手にムーンクレスト。5番手にはアメリカズカップ,レーヌミノル,ウインガニオンの3頭。8番手にエアスピネルとジョーストリクトリ。10番手はサングレーザーとイスラボニータ。12番手がレッドファルクスとクルーガー。14番手にガリバルディ,ペルシアンナイト,グランシルクの3頭。17番手にサトノアラジン。ブラックムーンは離れた最後尾。前半の800mは46秒7のミドルペース。
 直線に入るところではマルターズアポジー,ダノンメジャー,ムーンクレストの3頭が雁行。これらの外からレーヌミノルが直線に入ってから交わして一旦は先頭に立つも,さらに外からエアスピネルが勢いよく伸びてきて抜け出しました。これは勝ちパターンかに思えましたが大外から伸びたサングレーザーとの間に進路を取ったペルシアンナイトがぐんぐんとエアスピネルに迫り,馬体を並べてのフィニッシュ。最後のところで交わしたペルシアンナイトが優勝。エアスピネルがハナ差で2着。サングレーザーが半馬身差で3着。
 優勝したペルシアンナイトはアーリントンカップ以来の勝利で大レース初制覇。アーリントンカップは非常に記録面での価値が高いレースでした。春はクラシック路線に向いましたが秋になってマイル路線に転戦。結果的にマイラーとしての優秀性を示すことに。このレースは3歳馬は苦戦する傾向にあり,これまで33年の歴史の中で勝ったのはサッカーボーイタイキシャトルアグネスデジタルの3頭だけ。おそらくこの馬も日本の競馬界を代表するような1頭となっていくのではないでしょうか。母の全兄にゴールドアリュール
                                     
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手は先週のエリザベス女王杯に続いての大レース制覇。マイルチャンピオンシップは初勝利。管理している池江泰寿調教師は安田記念以来の大レース制覇。マイルチャンピオンシップは初勝利。

 原型を植物実体あるいは植物属性と仮構し,メタモルフォーゼをその変状affectioと解した場合に,原型とメタモルフォーゼによって無限に多くのinfinitaものが生起するということは,植物実体あるいは植物属性の変状によって無限に多くの植物が生起するという意味でなければならないことになります。これはスピノザの哲学の範囲においては無理がある考え方です。
 単純にいって,植物実体とか植物属性の存在がスピノザの哲学では許容されません。これは第二部公理五から明白です。とはいえ,このことは植物学というのを綜合的にないしは演繹的に探求するためにはどうすればよいかという方法論と関係するのであって,これは別に後で僕の考え方を説明します。端的にいっておけば,僕はこれを方法論としていうなら,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheにとっては有用なことであるということは認めます。また,スピノザもこれを方法論として全面的に排除はしないと推測します。というのは,大槻がいっているところによれば,ゲーテの自然学は経験科学というよりは形而上学なのであって,形而上学的な方法論というのは,実在的なものを考えるためには,たとえそれが実在的ではない場合でも有用である場合があると僕は考えるからです。
 ただ,現実的には諸々の植物が存在するのですから,無限に多くの植物が生起するという点については,実在的に考えなければならないというのは一理ある主張と僕は思います。ですが実在的にゲーテがそう主張したとしたら,無限に多くの植物が生起するということはあり得ません。無際限な植物が存在し得ても,それは数としては有限finitumでなければならないのです。
 これはたとえば,もしもこのような植物実体あるいは植物属性が存在するなら,それと同じように動物実体あるいは動物属性というのも存在しなければならないということから明白です。もしも植物の原型とメタモルフォーゼによって無限に多くの植物が生じるのなら,動物の原型とメタモルフォーゼによって無限に多くの動物が生じなければならないことになるでしょう。これが両立するためには,植物実体ないしは植物属性と動物実体ないしは動物属性の間に,共通点があってはなりません。
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ルーラーシップ&類比

2017-11-18 19:32:57 | 名馬
 先月の菊花賞を勝ったキセキの父は,キセキと同じように角居勝彦調教師が管理していたルーラーシップです。Rulershipは統治者の位。
                                     
 父がキングカメハメハで母はエアグルーヴパロクサイドシャダイフェザーの分枝です。
 2歳の暮れに新馬戦を勝利。1月のオープン2着を挟んで3月に条件戦で2勝目。毎日杯はダノンシャンティの5着に敗れましたがプリンシパルステークスを勝ってダービーへ。ここは5着でした。
 この後,休養があって復帰は12月。鳴尾記念で重賞初勝利。有馬記念に出走するもヴィクトワールピサの6着。
 年が明けて日経新春杯で重賞2勝目。ドバイに遠征して出走したドバイシーマクラシックは6着。帰国して金鯱賞で重賞3勝目。宝塚記念は5着でした。
 また休養に入り復帰は有馬記念。さすがに人気はありませんでしたが4着と力のあるところはみせてくれました。
 5歳初戦となったアメリカジョッキークラブカップで重賞4勝目。日経賞で3着になった後,香港に遠征してクイーンエリザベスⅡ世カップで大レース制覇を達成しました。帰国して出走した宝塚記念は2着。
 秋は天皇賞,ジャパンカップ,有馬記念と出走していずれも3着。これで現役を引退しました。
 競走生活の中盤あたりから,ひどく出遅れるケースが目立つようになりました。日本で大レースを勝つことができなかったのは,それが大きく影響したといえるでしょう。
 大レースは香港での1勝だけですが,血統が血統だけに種牡馬としての期待は大きいです。キセキの菊花賞は産駒の初の大レース勝ちであると同時に初の重賞制覇でもありました。大レースの勝ち馬が輩出するというのは偉大なことではありますが,僕としては現状はやや物足りなさも感じています。

 ゲーテJohann Wolfgang von Goetheのいう原型がスピノザの形而上学の実体substantiaに該当するのであれば,メタモルフォーゼは様態modiすなわち実体の変状substantiae affectioに該当することになります。そもそも変状というのとメタモルフォーゼというのとは,語のニュアンスとして似通ったところがありますから,単にその点だけを考慮したとしても,このような類比的関係を想定するのに無理があるとはいえないことになろうかと思います。
 したがって,原型というのは,植物学に限定するなら原植物あるいは象徴的植物ということであり,これが前には第三種の認識cognitio tertii generisで認識された植物一般の本性essentiaという形式でスピノザの哲学との関連性を指摘し得たわけですが,この部分では,原型とは,同様に植物学に限定する限りでは,いわば植物実体という実体としてスピノザの哲学に関連し,なおかつメタモルフォーゼというのはその植物実体が変状した個々の植物であるというような形式で,スピノザの哲学と関連しているという仕方で関連性を指摘できるようになっているのです。
 ただし,僕はここでも次のことはいっておきます。ゲーテはシラーとの会話の中で,象徴的植物をスケッチしてみせたのでした。僕はそのとき,精神の眼によって認識される対象を絵として,いい換えれば形状があるものとして描くことができるということについては懐疑的であるといいました。それと同じように,仮にゲーテが植物実体なるものを仮構したとした場合でも,実体なるものをスケッチし得るということについては僕は同様に懐疑的です。端的にいうと,物体corpusというのは形状があるものなのでスケッチすることができるということを僕は認めますが,だからといって物体的実体substantia corporeaなるものをスケッチすることが可能であるとは僕は考えません。これと同じようなことが植物に限定した場合でも成立しなければならないのであって,おおよそ実体として認識されるものをスケッチするということに関して,僕はすべからく懐疑的であるということです。
 それから,この類比に関してはいくつかの注意が必要です。まず第一に,ゲーテが自然は原型とメタモルフォーゼという内的法則によって無限に多くのinfinitaものを産出するといっている点です。
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霧島酒造杯女流王将戦&第一部定理二

2017-11-17 19:20:28 | 将棋
 11日に囲碁・将棋チャンネルで放映された第39期女流王将戦三番勝負第二局。対局日は10月19日。
 里見香奈女流王将の先手で双方の思惑が絡み合った末の序盤戦から力戦の相居飛車に。後手の伊藤沙恵女流二段が腰掛銀からの右四間飛車,先手は後手の銀冠に対して早繰り銀の形になりました。先手から仕掛けて一時的によくなったと思いますが,攻め急いだ上に緩手のような受けもあり,逆転を許すことに。
                                     
 後手が5七に歩を成り捨てたところ。ここは再び☖5六歩と打つ手も有力で,それを選んでいればかなり違った展開になっていたでしょう。実戦は☖7三桂と龍取りに跳ねて☗8三龍と進みました。これも使えていない桂馬を使うので悪くないのですが,その代償に先手の龍が攻めに使える余地が出てきて,これが最終的に後手のデメリットになってしまいました。
 この局面でも☖5六歩はあり,やはり違った展開となった筈ですが,桂馬を使いにいった以上は実戦の☖6五桂が自然だったと思います。
 この手は詰めろにはなっていません。なので手番は先手です。目につくのは☗4五角と詰めろに打ちつつ受けにも利かせる手で,先手がそう指していたら後手の次の一手も違ったものになりました。ですが実戦は☗4一銀とただ攻めるだけの詰めろを掛けました。
 ここで後手は☖6三金とただのところに引きました。9七に角が利くようになるのでこれは詰めろ逃れの詰めろです。先手の指し手が☗4五角だった場合,この手は詰めろ逃れですが詰めろではないので☗同龍で無効。なので違った展開だった筈なのです。
 この手の後で☗4五角が指されました。これも詰めろ逃れの詰めろ。☖7七桂成☗同桂のときに☖6七歩成☗同王☖6六銀のような手が成立すればいいのですが玉が逃げて届きません。結果的に後手は受けに回らざるを得なくなり,☖5四銀と打つことに。
                                     
 ですがこの手は一時凌ぎ。☗同角☖同金と進んで後手玉は即詰みでした、
 連勝で里見女流王将が防衛。第32期,33期,34期,37期,38期に続く三連覇で通算6期目の女流王将位です。

 様態的変状modificatioに様態化した神DeusをゲーテJohann Wolfgang von Goetheのいう原型とメタモルフォーゼにそのまま当て嵌めると,メタモルフォーゼした原型ということになるだろうと僕は思います。ただこのとき,神を原型とそのまま等置してしまうのは無理があると僕は考えています。なぜならこの考え方は,シラーとの会話の中であった象徴的植物と大いに関連しているのであって,原型あるいは原植物ともいわれている象徴的植物を神と解するのは無理があるだろうからです。
 大槻は前に紹介した部分において,ゲーテが理念を目で見ると言っていることは,精神の眼で見るという意味であるという主旨のことを主張したドロテーア・クーンの考え方に対して,それはその通りであるけれども,ゲーテにとっての自然科学とは,近代的な意味における純粋な経験による科学ではなく,自然の形而上学であったと補足していました。この考え方自体が,スピノザとロバート・ボイルRobert Boyleとの間で交わされた論争から類推するに,ゲーテはスピノザ寄りの立場であったということを窺わせるのですが,ここではそれが形而上学であったと大槻がいっている点に僕は着目したいです。スピノザの哲学においては神というのは,形而上学的存在でないとはいいませんが,どちらかといえば実在的な意味を大きく有します。それに対して,単に実体substantiaといわれるなら,これは形而上学的観点の方が優勢になります。なぜなら,たとえば第一部定理二では次のようにいわれるからです。
 「異なった属性を有する二つの実体は(Duae Substantiae diversa attributa habentes)相互に共通点を有しない」。
 この定理Propositioが実在的であるためには,少なくともふたつ以上の,複数の実体が実在するのでなければなりません。同じようなことは第一部定理四とか第一部定理五,第一部定理八などの,第一部の最初の方に出てくる諸定理に該当するものが多く含まれています。ところが論証Demonstratioが進んでいくとついに第一部定理一四で,実在する実体は神が唯一であるとされます。したがってそれらの諸定理は,実在的に何か意味をもっているわけではなく,あくまでも形而上学的な論証のためのものでしかなかったことが分かります。原型とは,このような意味での実体ではないでしょうか。
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マイルグランプリ&別の関連性

2017-11-16 19:28:23 | 地方競馬
 昨晩の第24回マイルグランプリ
 発走後の正面で先行する意欲を見せたのはレガルスイ,ミヤジマッキー,テムジン,ケイアイレオーネの4頭。最内のレガルスイが抜け出して向正面の入口あたりでリードは2馬身。2番手はミヤジマッキーとケイアイレオーネで併走になりました。1馬身差でトーセンハルカゼとトロヴァオ,1馬身差で控えたテムジンとセイスコーピオン,また1馬身差でサクラレグナムまでが続き,2馬身ほど開いてオリオンザジャパン,1馬身差でシャドウパーティーとインフォーマー。2馬身差でソッサスブレイが単独で追走。また2馬身差でドレッドノートとコンドルダンス,1馬身差でキープインタッチとなり,デュアルスウォードは離されました。前半の800mは50秒1のミドルペース。
 レガルスイのリードは徐々に詰まっていき,3コーナーを回るとトーセンハルカゼがレガルスイの内から並び,レガルスイ,ミヤジマッキー,ケイアイレオーネ,トロヴァオの5頭がほぼ並ぶ形に。レガルスイとミヤジマッキーはここから脱落。距離ロスなく回ったトーセンハルカゼが直線で単独の先頭に立つと,これら5頭の後ろで機を窺っていたセイスコーピオンが,伸びあぐねるケイアイレオーネとトロヴァオの間から進出。そのままトーセンハルカゼも差し切って優勝。トーセンハルカゼが1馬身半差で2着。ケイアイレオーネが4分の3馬身差の3着でトロヴァオは1馬身4分の1差で4着。
 優勝したセイスコーピオンは昨年の勝島王冠以来の勝利で南関東重賞3勝目。第23回に続いてマイルグランプリ連覇。昨秋はそのまま南関東のトップクラスまでいくのではないかと思える内容でしたが,暮れのオープンで2着に負けてしまい休養。今年の5月に復帰後は,それまでより楽なメンバーと思われたレースでも勝ちきれていませんでした。ここにきてようやくかつての調子を取り戻せていたということなのでしょう。休養後のレース内容からは,もう少し距離を伸ばした方がいいのではないかとみていたので,ここでの復活は驚きだったのですが,どうやら見誤っていたようです。今年は間隔が短いので前年に勝った勝島王冠を使ってくるかは分かりませんが,状態を維持することができるならまたこの路線で活躍することが可能だと思います。父はデュランダル。母は2004年にローレル賞を勝ったスコーピオンリジイ。祖母の半弟に2001年にラジオたんぱ賞を勝ったトラストファイヤー
 騎乗した高知の赤岡修次騎手優駿スプリント以来の南関東重賞2勝目。管理している川崎の八木正喜調教師は南関東重賞7勝目。マイルグランプリは連覇で2勝目。

 前に紹介したシラーとの会話で原型とメタモルフォーゼが言及される部分では,原型が象徴的植物で,それは第三種の認識cognitio tertii generisによって認識された植物の本性essentiaであるという観点から,スピノザの哲学との関連性を指摘しました。当該部分でも原型は直観的に認識されると記述されていて,第三種の認識が直観知といわれることに鑑みれば,この観点も失われているわけではありません。しかしこの部分では,直観的に認識されるものとしての原型を,もっと別の形で解することができるようになっていて,この解し方もまた,スピノザの哲学との関連性を指摘できるものになっていると僕には思えます。
                                     
 大槻によれば,ゲーテは原型とメタモルフォーゼという内的法則によって自然は無限に多くのinfinitaものを産出すると主張しています。『エチカ』において無限に多くのものの産出を説いているのは第一部定理一六です。この定理Propositioでは,神の本性の必然性からex necessitate divinae naturae無限に多くのものが生じるといわれています。したがってゲーテJohann Wolfgang von Goetheのいっている原型とメタモルフォーゼの内的法則というのを,神の本性の必然性と解するなら,ゲーテのいっていることとスピノザのいっていることはまったく同じであることになります。そしてこの場合にゲーテがスピノザの哲学から何らかの影響を受けたのであるとしたら,ゲーテは神の本性の必然性を,原型とメタモルフォーゼの内的法則というように,具体的に理解したということになります。もちろんそういう可能性もありますし,これはこれでなかなか興味深い観点であると僕は思いますが,ここではこの点については詳しく言及しません。内的法則が神の本性の必然性と類似しているということよりも,原型とメタモルフォーゼという考え方が,スピノザの形而上学から影響を受けていると思われる面があり,僕はそちらの方になお深い関心を抱くからです。
 第一部公理一の意味から明らかなように,自然のうちには実体substantiaと実体の変状substantiae affectio以外には何も存在し得ません。そして第一部定理一四により神以外の実体は存在しないのですから,自然のうちには神と神の変状以外には何も存在しません。さらに神の変状とは,様態的変状modificatioに様態化した神のことです。
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