スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

国際自転車トラック競技支援競輪&仮定の話

2019-04-30 18:50:00 | 競輪
 28日に伊東温泉競輪場で行われた第9回国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びはブフリ‐グレーツァー‐トルーマンの外国,森田‐阿久津の関東,永井‐渡辺の中部で小川に小野。
 永井がスタートを取って前受け。3番手に小川,5番手にブフリ,8番手に森田で周回。残り4周のバックに入る前で森田が上昇。ブフリの横で併走。ブフリはそのまま内での併走を続け,残り3周のバックに入ったところでようやく下げました。下げたブフリはそのまま発進。前にいた森田,小川も動いていき,永井を叩いたのは小川。ホームでこの外からブフリが叩いて先行。そのまま打鐘,ホームと一列棒状が続き,バックから森田が発進。これを牽制したのが3番手のトルーマンで,トルーマンの後ろにいた小川がここでトルーマンの内に。車間を開けていたグレーツァーは最終コーナー手前から発進。そのまま後続との差を広げて優勝。小川に潜られたトルーマンも直線で極める形で1車身半差の2着に続いて外国勢のワンツー。森田の後ろから最後に捲り追い込んだ永井が小川を差して3車身差で3着。小川が半車輪差で4着。
 優勝したオーストラリアのマシュー・グレーツァー選手はグレードレース初優勝。ここはブフリが前を回っての番手戦という形になりましたので,斬り込まれない限りは大本命。ブフリはもっと早く引いてしまえばよかったように思いますが,それでもほかのラインを叩ききりましたので,楽な追走になりました。この時点で優勝はほぼ当確。小川を内に押し込めたトルーマンの走行も見事だったと思います。

 思惟の属性Cogitationis attributumは神Deusの本性essentiaを構成します。一方で無限知性intellectus infinitusは思惟の属性,すなわち神の本性を原因causaとして発生します。したがって,スピノザの哲学では無限知性は神の本性を構成することはありません。神の本性と無限知性の関係は,原因と結果effectusの関係なのです。まずこの点に留意しなければなりません。チルンハウスの誤解の一部はこうした誤解,つまり無限知性と思惟の属性いい換えれば神の本性とを混同していたという点にあると僕はみています。僕たちはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausと同様の誤解を犯してはならないのです。
 これを踏まえてスピノザは,なぜ知性が神の本性に属さないのかということを説明し,もしも知性が神の本性に属するなら,いくつかのおかしなことが帰結してしまうと説明しています。そしてその説明の中で,もし知性が神の本性に属すなら,真理veritasとものの形相的本性essentia formalisは,神の知性の中に客観的にobjectiveすなわち観念ideaとしてあるがゆえに,現にあるようにあるという主旨のことをいっているのです。
 ここも気を付けなければいけません。これは神の本性に知性が属するという仮定の下にいわれているのですから,スピノザ自身が自分の哲学的見解として,神の知性のうちにそれが観念としてあるから,いい換えればそれを原因として,ものの形相的本性や真理が現にあるようにあると主張しているのではありません。むしろスピノザの哲学的結論としては,その間には因果関係が存さないのです。これもチルンハウスの誤解の一部を構成していたと僕はみています。というか,書簡六十三を読む限り,誤解の大元はそこにあったのだと僕は理解しています。
                                        
 さらにいうと,これは事物の形相的本性の原因が神の知性のうちにあるのではないということだけを意味するのではありません。チルンハウスはおそらく人間の知性の原因が神の知性でなければならないという意見opinioを有していたと僕は理解しますが,それもまたスピノザの哲学では否定されます。ただしこれは,知性が神の本性に属さないということによって否定されるのです。これはとても紛らわしいのですが,神の本性である思惟の属性が人間の知性の原因であるということは,スピノザの哲学でも肯定されます。
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香港チャンピオンズデー&無限知性

2019-04-29 19:26:02 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で開催された昨日の香港チャンピオンズデー。今年は2レースに4頭の日本馬が遠征しました。
 チェアマンズスプリントプライズGⅠ芝1200m。
 ナックビーナスは好発。最初は4番手を追走。3コーナーにかけて2番手まで上がり,逃げた馬と並ぶ形で直線に。コーナーの時点ではすでに手が動いていたのですが,直線でもしばらくは前を追い掛けようとしていました。しかし残り200mで一杯となり,勝ち馬から4馬身半差で6着。香港はスプリント戦のレベルが高いので,この馬の日本での実績からすると苦戦は免れ得ないのではないかと思っていました。先行してしっかりと勝ちにいくレースはできましたから,上出来だったのではないでしょうか。
 クイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。
 やや出負けしたウインブライトは5番手集団の最内。リスグラシューはその集団の後ろの外。ディアドラはさらにその後ろを追走。コーナーではウインブライトはそのまま内を回り,リスグラシューは外から進出。ディアドラは馬群の只中でリスグラシューの後ろまで取りつきました。前で競り合っていた2頭の外に持ち出されたのがウインブライトで,リスグラシューは馬場の外から。ウインブライトが競り合う2頭を差し切り,後続の追い上げも封じてレコードタイムで優勝。リスグラシューは2着争いの競り合いに最後で負けて1馬身差の3着。ディアドラは馬群は抜け出しましたが時すでに遅しで4馬身4分の1差で6着。このコースは内枠が絶対的に有利。ウインブライトは1枠を引けたのが最大の勝因でしょう。騎手もそのメリットを最大限に生かす騎乗だったと思います。リスグラシューも4番枠でさほど悪くなかったのですが,結果的にやや大味な競馬になってしまいました。ディアドラは仕掛けが遅れてしまったという感は否めませんが,着差からして上位争いは難しかったろうと思われます。
 優勝したウインブライトは今年に入って中山金杯,中山記念と連勝中。3連勝で重賞6勝目。大レースは初制覇。父はステイゴールド。母の父はアドマイヤコジーン。日本馬の海外GⅠ制覇は先月のドバイターフ以来。香港では一昨年のクイーンエリザベスⅡ世カップ以来。
 騎乗した松岡正海騎手は2009年の天皇賞(春)以来となる大レース4勝目。海外重賞は初勝利。管理している畠山吉宏調教師は2013年のNHKマイルカップ以来の大レース2勝目。海外重賞初制覇。

 第一部定理一七の備考Scholiumで形相的本性essentia formalisという語が用いられるとき,ややこしくなってしまっている理由というのは,スピノザがこの部分で自分の考え方とは異なる見解opinioについて説明するときに,この語を用いているからです。これは神Deusの本性に知性intellectusが属するのだとすれば,神の知性と人間の知性は,同じように知性という記号で表現されるだけで,本物の犬と星座の犬ほどの違いがあることになるということを示す目的があります。ただ,ここではスピノザが形相的本性という語で何を意味しようとしているのかということを考察しているので,スピノザの主旨がどこにあるのかは関係ありません。ですがスピノザの思想と異なった見解を,この考察のためだけに示すと,無用の混乱を来すおそれがあります。なのでその点に注意して,入念に検討していきます。
                                   
 スピノザの哲学では,無限知性intellectus infinitusというのは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態です。これはスピノザが書簡六十四でいっています。そして直接無限様態は第一部定理二一の様式で生じます。つまり無限知性は思惟の属性の絶対的本性を原因causaとして生じるということになります。
 一般に,Xが属性の絶対的本性から発生するといわれるなら,Xは属性の絶対的本性そのものではありません。これは結果effectusというのはその原因とは本性の上でも存在existentiaの上でも異なるものであるがゆえに,原因に対する結果であるといわれ得るということから明白でなければなりません。第一部公理三には強い意味弱い意味とがあるのですが,このうちの弱い意味というのはこのことから公理Axiomaとして成立するのだといえるのです。よって,無限知性が思惟の属性の絶対的本性から生じる直接無限様態であるということは,無限知性は思惟の属性とは本性の上でも存在の上でも異なるものであるといわなければなりません。
 第一部定義四は,属性というのは実体substantiaの本性を構成するものだといっています。そして第一部定理一四は,実在する実体は神だけであるといっています。よって思惟の属性は神の本性を構成していることになります。第二部定理一は,思惟が神の属性であることを示していますから,確かに思惟の属性は神の本性を構成しているのです。
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天皇賞(春)&使用例

2019-04-28 19:08:01 | 中央競馬
 第159回天皇賞(春)
 ヴォ―ジュとメイショウテッコンが先手を主張。内だったヴォ―ジュの逃げとなりメイショウテッコンは2番手に控えました。3番手にカフジプリンス,パフォーマプロミス,ロードヴァンドールの3頭。6番手にチェスナットコートとグローリーヴェイズの2頭。この後ろは2馬身差でクリンチャーとフィエールマン。また2馬身差でリッジマンとユーキャンスマイル。3馬身差でケントオー。7馬身くらい離れた最後尾にエタリオウで1周目の向正面から正面に。この間にロードヴァンドールが単独の2番手まで進出しました。最初の1000mは59秒8のスローペース。
 ヴォ―ジュの逃げは3コーナーまで。ロードヴァンドールもここで一杯。メイショウテッコンが先頭になり,カフジプリンス,フィエールマンの3頭が雁行でコーナーを通過。フィエールマンをマークするように上がってきたグローリーヴェイズがこの直後に続き,2周目の向正面で一気に動いたエタリオウもその後ろに。直線に入るところでフィエールマンが先頭に。これに外からグローリーヴェイズが並び掛けていき,直線は抜け出した2頭の競り合い。追っていたグローリーヴェイズの方がフィニッシュを前に力尽き,優勝はフィエールマン。グローリーヴェイズがクビ差で2着。一旦は3番手に上がっていたエタリオウを内から差し返す形でパフォーマプロミスが6馬身差の3着。エタリオウはクビ差で4着。
 優勝したフィエールマン菊花賞以来の勝利で大レース2勝目。今年の1月以来の久々のレースでしたが,菊花賞のときはもっと長い休み明けで勝っていましたから,その点はあまり不安とは感じていませんでした。強敵はエタリオウとみていたのですが,まったくレースの流れに乗れなかったため,大きな差がつくことに。2着馬に迫られてはいますが,こちらはマークを受ける立場でしたから,少なくとも着差以上の能力差はあるとみていいでしょう。距離短縮にも対応はできますが,基本的には長距離馬とみておくのがよいと思います。父は第133回の覇者のディープインパクトで父仔制覇。Fierementはフランス語で誇らしげ。音楽用語です。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は皐月賞に続き大レース騎乗機会4連勝。第158回から連覇となる天皇賞2勝目。天皇賞(春)は初勝利。管理している手塚貴久調教師は菊花賞以来の大レース6勝目。天皇賞は初勝利。

 形相的本性essentia formalisという語は,『エチカ』ではあまり使用されないのですが,あまり使用されないというのは使用されることもあるという意味です。どのように用いられているのかだけ,確認しておきましょう。
 第三種の認識cognitio tertii generisは,神Deusのある属性attributumの形相的本性の十全な認識から,個物res singularisの本性の十全な認識へと進む種類の認識であるというように『エチカ』では説明されます。これは属性の形相的本性が知性intellectusによって認識されるものであるということ,いい換えれば,知性を構成するある観念の観念対象ideatumになっているということを意味します。つまりここでは属性の形相的本性は,観念されるものであるということが重視されているのだと僕は解します。なお,十全な認識というのは真の認識と同じことですが,ここでは第三種の認識が十全な認識すなわち真の認識として説明されているのであって,属性の形相的本性と真理veritasが関連付けられているわけではないと解するのが妥当だと思います。
 第二部定理八は,存在しない個物の観念ideaは,その個物の形相的本性が神の属性に含まれているのと同じように,神の無限知性intellectus infinitusのうちに含まれているという意味のことをいっています。これは個物の形相的本性が無限知性によって認識されているということ,いい換えれば,ある個物の形相的本性が,無限知性のうちにある観念の対象になっているということを意味することは確かです。しかし,第二部定理七系の意味というのは,神の無限知性のうちにある観念はすべて十全な観念idea adaequataであるということなので,個物の形相的本性を観念の対象としている観念は十全adaequatumであり,したがって真verumであるという意味合いの方が強いように僕には感じられます。ただしこの解釈については僕は論争しません。どちらを重視しても,ひどい間違いを犯しているということにはならないだろうと思うからです。ただ,ここでいわれている個物の形相的本性は,その個物の真理と関連付けられている可能性があるということは,否定することはできない事実だといえるでしょう。
 もうひとつ,第一部定理一七備考でも形相的本性という語が用いられています。この部分は内容がややこしいので入念に検討することにします。
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ヒューリック杯棋聖戦&観念の形相的本性

2019-04-27 19:22:20 | 将棋
 昨日の第90期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明二冠が23勝,郷田真隆九段が14勝。
 振駒で渡辺二冠の先手となり角換り相腰掛銀。先手から攻めていく将棋になりましたが,少し心細いところがあり,後手も反撃に転じました。
                                     
 後手が☖6七歩と王手で叩いて☗同金に桂馬を打った局面。ここで☗6六金と逃げるのは絶対手だったようです。
 目につくのは☖6四香ですがこれは☗同銀☖同銀☗3三香で先手が勝つそうです。また☖8一飛と回るのも有力そうですが,これも☗6四歩と打たれると攻め合いでは負けとのこと。なので☖8八角と打ちました。これには☗6七歩の一手。
                                     
 これにも☖8一飛が有力そうですが☗7七桂と打たれると先手が有利だそうです。なので飛車を回ることを前提するなら☖6六角成☗同歩☖8一飛だったのでしょう。そこで☗7八金と受けるのは後手が勝ちのようです。
 実戦は第2図から☖4五銀☗同歩☖6六角成☗同歩☖6七金☗5九王☖4六香で一気に寄せにいきました。ですがこれは☗5六銀と受けられて続かず,先手の勝ちになっています。
 渡辺二冠が挑戦者に。棋聖戦五番勝負は2013年以来となる6年ぶり3度目。第一局は6月4日です。

 客観的有esse objectivumである観念ideaにも形相的本性essentia formalisがあるというのはどういうことかといえば,形相的本性は観念の対象ideatumになるという点から説明することができます。つまりある観念というのはそれ自体が観念の対象になるのです。これが観念の観念idea ideaeといわれるものです。いい換えれば,観念の観念とは,観念の形相的本性と一致している観念であることになります。
 第二部定理四三は,たとえばXの観念がある人間の精神mens humanaのうちにある場合には,この同じ人間の精神のうちにXの観念の観念もあるということを前提しています。これは僕たちは経験的に知っているので,前提として構いません。すなわち僕たちはある事柄を知っているなら,自分がそれを知っているということを知ることができるのであり,こうした関係は無限に続けていくことが,現実的にはそうでなくても,論理的には可能になっているからです。このために,Xの観念がXの真の観念idea veraである場合には,僕たちは自分がXの真の観念を有しているということを知ることができるのです。あるいは知ることになるのです。このために僕たちは,そのXの観念が真の観念であるか否かを懐疑することすらできないのです。
 これでみれば分かるように,自分が真の観念を有しているということを知るのは,観念の働きであるというよりは観念の観念による働きであるといわなければなりません。そして真理veritas一般というのは,個々の真の観念の集積であるのですから,真理一般を僕たちは観念の働きとして知るというよりは観念の観念の働きによって知るというべきだと僕は考えます。したがってこの点を重視するなら,真理は知られるものとしてある,他面からいえば自分が知っているということを知っているものとしてあるということになります。よって真理は客観的有としてあるのであって,形相的有esse formaleとしてあるわけではないということになるでしょう。いい換えれば,真理は知性intellectusのうちに存するものであり,知性を離れて知性の外部に真理はないというべきでしょう。
 現時点で僕は真理が客観的有としてのみあるという見解を採用しますが,これについては論争はしません。事物の形相的本性を真理とみなしても構わないです。
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女流王位戦&形相的本性

2019-04-26 19:08:13 | 将棋
 塩田温泉で指された昨日の第30期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は渡部愛女流王位が3勝,里見香奈女流名人が2勝。
 振駒で里見名人が先手となり5筋位取り中飛車。小競り合いの後で後手の渡部王位が穴熊に囲うという持久戦になりました。後手が中途半端な状況で仕掛けたように僕には思えたのですが,仕掛けは成立していたようです。
                                        
 後手が飛車を成り込んで先手が底歩を打った局面。
 ここでは☖8二龍と受けに回るのがよく,それなら先手は攻めの継続が難しかったとのことです。
 実戦は☖7五角打と攻め合いに出ました。後手がどう指してこようと先手は攻めるとすれば手順は決まっています。それが☗2一銀成☖同王に☗5六桂で,実際にそう進みました。これは受けていては勝つことはできないと判断したものでしょう。
                                        
 後手が7五に角を打った意味は,この局面で☖3七角成☗同金☖4八角成☗同金☖5九龍と攻め合えば勝てるということだったよう。ただ☖3七角成☗同玉☖5五金☗4四桂で勝てないと判断してしまいました。しかし実際にはその順で後手に勝ち筋があったようです。
 これは大きな判断ミスで,第2図から☖4二角☗同と☖同角で受けに回りました。ただこれは先手玉に対する攻め筋が消えてしまったため,これ以降は後手にとって勝ち味が薄い将棋になってしまいました。
 里見名人が先勝。第二局は来月8日です。

 スピノザの哲学では,ある事物が知性intellectusのうちに,いい換えれば観念ideaとしてある場合には,その事物が客観的にobjectiveあるといわれます。これに対してその事物が知性の外にある場合には,形相的にformaliterあるといわれます。真理一般veritasは真の観念idea veraの集積なのですから,第二部定理四三は,明らかに真理は観念としてある,客観的有esse objectivumとしてあるといっているように解せます。僕はこれについてはそのように解しても構わないし,そうではなく,真理というのは客観的有としてもあるけれども,形相的有esse formaleとしてもあるのだと解しても構わないと考えています。この見解についてここで説明しておきたいのです。
 Xが形相的有として,つまり知性の外に実在するとき,このXには固有の本性があります。これは第二部定義二の意味から明白であるといわなければなりません。Xの実在を必然的にnecessario定立するのはXの本性をおいてほかにはなく,逆にXの本性が除去されてしまえばXの存在existentiaも除去されてしまうからです。ここではこうした本性のことを,Xの形相的本性essentia formalisといっておきます。スピノザは『エチカ』ではあまりこの語を用いませんが,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』では使用されていて,それは概ねこれから示すような意味を有しています。
 このXの形相的本性は観念の対象ideatumになります。このとき,Xの観念がXの形相的本性に一致すると,それはXの真の観念であることになります。第一部公理六はそのようないい方こそしていませんが,『エチカ』に『知性改善論』をミックスさせると,この公理Axiomaは実はこのような意味を有していると解するのが妥当だと僕は考えます。しかるに真理というのが真の観念の集積であって,Xの形相的本性と一致する観念がXの真の観念であるなら,この形相的本性をXの真理とみなしても構わないと僕は考えるのです。したがって,もし真理というのが知性を離れて形相的有として存在するということを肯定する場合には,各々の事物の形相的本性が,各々の事物の真理であるというのが妥当だと考えます。
 ただし,形相的本性というのは形相的な事物だけが特有に有する本性ではありません。客観的有いい換えれば事物の観念にも,この意味での形相的本性はあるのです。
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羽田盃&前提

2019-04-25 19:04:25 | 地方競馬
 昨晩の第64回羽田盃
 どうしても逃げたいという馬がいなかったようで,枠なりに最内のトーセンボルガがハナへ。成行きのような逃げでしたが,2馬身ほどのリードに。2番手も2番のカジノフォンテンと3番のサクセッサーで併走。2馬身差の4番手にハナズボンダイ。また2馬身差の5番手がウィンターフェル。さらに2馬身差でステッペンウルフとフォルベルス。この後ろにジョーパイロライト,シビックヴァーゴ,オーシャンブラックの3頭。さらにミューチャリーとアギトでこの7頭は集団。2馬身差でホワイトヘッド。4馬身差でヤマショウブラック。2馬身差の後方2番手がアエノエンペラーで最後尾にフォルデュランという縦長の隊列。最初の800mは49秒7のミドルペース。
 向正面でサクセッサーが単独の2番手となり,3コーナーにかけて逃げたトーセンボルガと3番手のカジノフォンテンまでの差は4馬身くらいに。ここから差が詰まり,カジノフォンテンの外から上昇していったウィンターフェルまでの4頭が雁行でコーナーを回り,その後ろは外からステッペンウルフが追撃。前4頭の競り合いから抜け出したのはウィンターフェルで,これまでよりは真面目に走りましたが,馬群を縫うように進出し,最後はウィンターフェルの外に出てきたミューチャリーが目の醒めるような末脚で一気にウィンターフェルを抜き去って優勝。ウィンターフェルが5馬身差で2着。粘るカジノフォンテンは差したステッペンウルフが2馬身半差で3着。
 優勝したミューチャリー鎌倉記念以来の勝利で南関東重賞2勝目。鎌倉記念は時計も着差も圧巻の内容だったので,その後の2戦は物足りない感じを受けていました。たぶん鎌倉記念のときに体重を10キロ減らして激走したことによる反動が大きかったのでしょう。これが本来の能力を反映した結果なのではないかと思います。距離の延長がプラスになるかは分かりませんが,36秒台の末脚は強烈で,重賞でも通用する素質がある馬だと思います。母の従妹に2014年にオークスとローズステークス,2015年に中山記念,2016年にレッドカーペットハンデキャップを勝ったヌーヴォレコルト。馬名の英語表記はMutually。
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は京浜盃以来の南関東重賞35勝目。今月はマリーンカップで重賞も勝っています。第58回以来6年ぶりの羽田盃2勝目。管理している船橋の矢野義幸調教師は南関東重賞19勝目。第60回,63回に続き連覇となる羽田盃3勝目。

 第二部定理四三から理解できるのは,数学がある命題に関して真理veritasを帰結させたとき,僕たちがそれを真に認識しさえすれば,僕たちはそれが真verumであることを知るし,かつそれが真であることを疑い得ないということです。そして現に数学はそうした真の命題を提示しているのであって,僕たちはそれを真に認識しています。ですから数学が数学的真理を明らかにしているということを僕たちは知っているのであり,かつそのことを疑い得ないのです。よってスピノザの哲学においては,数学が真理を明らかにするということは,無条件に前提していいと僕は考えます。そして前に示したことから分かるように,それは数学が真理獲得の方法を明らかにしているという意味でもあります。真理の獲得とその方法の獲得は一体化しているからです。数学が明らかにする真理は数学的真理であり,したがってそれによって明らかにされる方法は数学的方法といえるでしょう。したがって一般に数学的方法は,真理を明らかにする方法であることになります。他面からいえば数学的方法が真理を明らかにする方法であるということを僕たちは知っていることになります。よって数学的方法に従って物事を考えることができれば,僕たちは真理を獲得することができるでしょう。
                                   
 僕がスピノザにとって数学の意義というのは,真理を明らかにするということよりは真理を獲得する方法を明確にしてくれるということの方が大きかったと想定するのは,この理由からです。ただしここでは,この数学的方法というのがいかなる方法であるのかということが問題になります。というか,正確にいえば,スピノザがいかなる方法を数学的方法であるとみなしていたのかが重要になるのです。スピノザが認識していたその方法こそが,スピノザが何をもって数学といっているのかということと関係してこざるを得ないからです。
 しかしその検討に入る前に,第二部定理四三をもう少し入念に考察しておきます。というのは,真理というのが真の観念idea veraであり,かつ僕たちが真の観念をもてばそれをもっているということも知り,それを疑い得なくなるとすれば,真理は観念であるということになるからです。
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農林水産大臣賞典東京プリンセス賞&真理

2019-04-24 19:16:48 | 地方競馬
 昨晩の第33回東京プリンセス賞
 好発のリトミックグルーヴを外から追い抜いてアークヴィグラスがハナへ。追い掛けていったのはゼットパッションとトーセンガーネットの2頭で3頭で先行する形。控えた4番手にリトミックグルーヴ。5番手にダバイダバイ。6番手にグレースレジーナ。7番手はラブミーピンクとグランモナハート。9番手にエスケイエンジェル。10番手はフォルレイロとノーブルトリトン。4馬身差の最後尾にアストレアウイング。最初の800mは52秒4の超スローペース。
 残り1000mで前がペースアップ。ここから3頭が4番手を離していきながら3コーナーへ。3頭の中央にいたゼットパッションがコーナーの途中で脱落。直線に入ると一旦はアークヴィグラスが抜け出しかかりましたが,トーセンガーネットがしぶとく追ってきて,残り100mを過ぎてからアークヴィグラスを差し切って優勝。最後は力尽きる形でアークヴィグラスが2馬身差の2着。ゼットパッションが脱落したため4番手にいたリトミックグルーヴが流れ込む形で2馬身半差の3着。
 優勝したトーセンガーネット桜花賞からの連勝で南関東重賞3勝目。競走馬としての能力はアークヴィグラスに次ぐ2番手とみていましたが,距離適性はこちらが上位なので,こちらが勝つ可能性も少なからずあると思っていました。かなりペースを落として逃げたにもかかわらず粘り切れなかったあたり,アークヴィグラスには距離の壁があるようです。この後は東京ダービーに向うようですが,そこでも候補とはなり得るでしょう。ただ2000mへの距離延長は必ずしもプラスではないような気もします。父はアグネスデジタル。母の父はクロフネ。祖母のひとつ下の全弟に2004年にデイリー杯2歳ステークス,2005年にシンザン記念を勝ったペールギュント
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は桜花賞以来の南関東重賞制覇。東京プリンセス賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞36勝目。第31回以来2年ぶりの東京プリンセス賞2勝目。

 数学が真理veritasを明らかにするということ,これはここでは数学的真理という限定的な真理ですが,それを明らかにするということを無条件に前提してよいのかは見解が割れるところだと思います。ただ,スピノザの哲学について考えるconcipere場合には,こうしたことは無条件に前提してもよいと僕は考えます。
 スピノザの哲学において,真理というのは一般的なものとして考えることもできますし,個別的なものとして考えることもできます。ただし,絶対的な条件となるのは個別的な真理の方です。というのは,スピノザの哲学における一般的な真理,いい換えれば真理一般というのは,個々の真理の集積にほかならないからです。この関係はたとえば意志作用volitioと意志voluntasとか,観念ideaと知性intellectusの関係と同じです。個々の意志作用の総体が一般的な意味で意志といわれ,個々の観念の集積が知性といわれるように,個々の真理の集積が一般的な意味での真理を構成する要素になるのです。よって絶対的な意味での真理は,無限に多くのinfinita個別の真理の総体であるということになるでしょう。
 では個別の真理は何かというと,それは真の観念idea veraです。要するにAについての真理とはAの真の観念のことであり,Bについての真理とはBの真の観念のことを意味します。数学的真理というのもこのように構成されると解さなければなりません。たとえば命題Xについての真理とは命題Xの真の観念であり,命題Yの真理とは命題Yの真の観念であるという具合に,これは無限に多くということはありませんが,きわめて多くの数学的命題についての真の観念の集積が,一般的な意味における数学的真理を構成するのです。なお,ここではスピノザが数学ということで何をいわんとしているのかということは考慮しなくて構いません。たとえばスピノザが認めないような数学があったとしても,その数学の数学的真理もこのような仕方で構成されていなければならないという点は同じだからです。
                                   
 第二部定理四三は,ある人間の精神mens humanaのうちに何らかの真の観念があるなら,その人間は自分が真の観念を有しているということを知り,その観念が真の観念であるということを疑うことができないといっています。
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マイナビ女子オープン&数学の意義

2019-04-23 19:07:51 | 将棋
 明治記念館で指された昨日の第12期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 里見香奈女流名人の先手で西山朋佳女王のノーマル三間飛車。先手は天守閣美濃から米長玉型の銀冠。後手は四間に振り直して高美濃という持久戦。懐かしさを感じる戦型でした。それほど大きな差がつかない競り合いが終盤まで続きました。
                                        
 後手が銀を打った局面。ここで☗8七金と角取りに上がるのがよく,これを逃してからは後手がよくなったようです。ただ,この後で珍しい手が出ましたので,ここではそれを取り上げます。
 第1図から先手は☗8四歩と打って攻め合いにいきました。後手は☖同銀☗8五歩のときに手抜いて☖8八銀不成と金を取りました。先手は☗4八玉と早逃げして後手が☖7七銀不成と桂馬を取ったところで☗9八桂と打ちました。終盤でこんなところに桂馬を打って攻めていこうとするのはとても珍しいと思います。
 後手は☖6八銀不成と金を取って踏み込みました。第1図で打った銀が金2枚と桂馬を取ったことになります。先手は当然☗8六桂。8四の銀を取ってから7四まで跳ねられればかなりの迫力です。
 後手は受けるのではなく☖2六歩と垂らしました。ここで☗8四歩は☖2七金で負けなので☗2八歩。そこで今度は☖1一桂という手が出ました。
                                        
 この龍取りも珍しい手でしょう。そもそも☗9八桂とか☖1一桂というのは棋譜に現れるのも滅多にないと思います。
 第2図の先手は龍を逃げるほかありませんがそこで☖2三香が決め手となりました。
 西山女王が連勝。第三局は来月14日です。

 スピノザの哲学には独立した真理獲得の方法というのが存在しません。いい換えれば,真理veritasを獲得するという意味での方法論が,それ独自では存在しないのです。では僕たちはいかにしてその方法を知るのかといえば,それは真理を獲得することによって知るのです。真理を獲得するということと,真理を獲得する方法を知るということは一体化しています。つまり,真理を獲得した人間は真理を獲得する方法というのも同時に知ることになるのですが,もし何の真理も知らない人間が存在すると仮定するなら,その人間が真理を知るためにその方法だけを知るということはできないことになっているのです。
 よって,真理の何たるかを知るということは,真理を獲得する方法を知るということを同時に意味することになります。したがって,もし数学という学問が存在しなかったと仮定して,その場合には僕たちは現に知っているほどには真理の何たるかを知ることができなかったのであるとすれば,それは現に僕たちが知っているほどには,いかなる方法によって真理を獲得することができるのかということを知ることはできなかったということを同時に意味するのです。つまりスピノザの数学に対する肯定的な評価は,単に数学が僕たちに真理というものを教えてくれるということにあるのではなく,真理を獲得する方法も教えてくれるという点にも存しているのだと僕は考えます。
 真理を知ることと真理を獲得する方法を知るということは一体化しているのですから,どちらが重要であるかを決定することはできません。ただ,数学という学問が有する意義としていうなら,後者の方法論の方が大きいといっていいのではないかと僕は思います。というか,これでは僕が数学を評価しているかのようなので正確を期していえば,スピノザにとって数学が僕たちに与える意義は,数学が真理を教えてくれるということより,数学がどのような方法で真理を獲得できるのかを教えてくれるということの方が大きかったのではないかと僕は思うのです。
 これについては順を追って説明していきましょう。
 まず,数学が真理を明らかにする学問であるということは前提になります。
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桜花賞・海老澤清杯&数学への評価

2019-04-22 19:26:33 | 競輪
 昨晩の川崎記念の決勝。並びは吉田拓矢-平原の関東,松井-郡司‐志佐の神奈川,三谷-松岡の西日本で岩本と吉田茂生は単騎。
 松井がスタートを取って前受け。4番手に三谷,6番手に岩本,7番手に吉田拓矢,最後尾に吉田茂生で周回。残り3周のバックで吉田茂生まで連れて吉田拓矢が上昇すると,三谷も併せて出ていきました。バック後のコーナーで三谷が松井を叩き,そのまま誘導を外しました。吉田拓矢ラインに続いていた吉田茂生が単騎で上昇。ホームで三谷の前に出ると,やや車間が開きました。ここから三谷がまた差を詰めていき,吉田拓矢と松井も動いていくことに。吉田茂生の前に出た三谷を吉田拓矢がバックで叩き,さらにその外から松井が吉田拓矢を叩いて打鐘。4番手に吉田拓矢,6番手に三谷,三谷ラインに続いた岩本が8番手で吉田茂生が最後尾まで下がって一列棒状。バックで吉田拓矢が動いていこうとしましたが,先んじて郡司が番手捲りを敢行。そのままフィニッシュまで先頭を譲ることなく郡司が優勝。マークの志佐が4分の3車輪差の2着に続いて神奈川のワンツー。吉田拓矢がいけなかったので志佐の後ろにスイッチした平原が半車輪差の3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は前回出走の小倉のFⅠから連続優勝。記念競輪は昨年8月の小田原記念以来となる記念競輪5勝目。川崎記念は2017年以来の2勝目。このレースは松井が先行して郡司が番手捲りという展開が最有力。松井が前受けしたためゆっくりしていると突っ張られてしまうので,ほかのラインも早めに動かざるを得なくなりました。その点では前受けした作戦が奏功したといえそうです。松井は前回出走の福井のFⅠで完全優勝しているくらいの力がありますので,その選手が駆けてもっと力がある郡司に番手から出られてはほかのラインが太刀打ちできないのも仕方ありません。むしろ自力があって無風の3番手だったとはいえ,志佐がよく差を詰めたという印象です。駆け方の良し悪しは別に,南関東の自力型が結束すると決勝はほぼこういうレースになるので,車券の面では分かりやすくあります。

 僕が関心を抱くのは逆の方向です。つまり,集合論を支える形而上学としてスピノザの哲学が適切でないとしたら,スピノザの哲学の形而上学的背景から,集合論は否定されてしまうのではないかという点です。したがって,スピノザが数学について言及するとき,そもそも集合論のような数学は排除されている可能性が残るのです。よって,スピノザの哲学と数学との関連を考察するに先立って,スピノザが数学ということで,どのような学問のことを示そうとしているのかを確定させておく必要があります。これはいい方としては難解なので,もう少し分かりやすいい方をすれば,スピノザはどのような種類の数学を念頭に置いて,数学といっているのかということを確定させておくということです。
                                        
 最初に,スピノザにとって何が数学であったのかということと別に,基本的にスピノザが数学という学問にどのような意義を見出し,またどのように評価しているのかだけ暫定的にみておきます。これは,僕が『主体の論理・概念の倫理』を読む前から有していた見解なので,新たに発生した問題より先に説明しておこうという意図を含んでいますが,むしろこれに関して先に示しておいた方が,考察の展開の上でも分かりやすくなりますので,こちらを先に示すという意味の方が大きいです。ただし注意してほしいのは,これはスピノザの評価ですから,スピノザにとっての数学の評価です。つまりこの部分にも,スピノザが何をもって数学といっているのかということが入り込んではいます。ですがそれについてはこの部分では無視しても構いません。無視したとしても成立するように考察を展開させていくからです。
 基本的にスピノザは数学という学問に対しては肯定的です。なぜかといえば,スピノザは数学というのが僕たちに対して真理veritasの何たるかを明らかにしてくれるという認識cognitioを有しているからです。極端にいうと,もしも数学という学問が人間の世界に存在しなかったとしたら,人間は現に認識しているほどには真理というものを認識するcognoscereことができなかったであろうというくらい,スピノザは数学を肯定的に評価するのです。そしてこれは別の意味も持ちます。
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I love him③&個物の観念の場合

2019-04-21 19:01:24 | 歌・小説
 では,欲しがるものが手に入らなかっただけだと歌われていました。そしてでは,悪くてもゼロであってマイナスではないと歌われていました。これらは実は同じことを意味しています。どのような意味であるかも歌われています。

                                       

       それならば私は何も失わずに生きてゆけた

 確かにそうで,欲しがっているものを入手できなかったとしても,それは得られなかったというだけであって何かを失ってしまったというわけではありません。悪くてもゼロであったというのも同様で,それは得ることができなかったということは意味し得るでしょうが,失ってしまったということは意味し得ません。失ったのならゼロではなくマイナスですが,ゼロであるということは,得ることはできなかったけれども失うこともなかったということを意味するからです。
 歌い手は自分がこのような生き方をしていたということに気付きます。

       でも何か忘れたことがある
       でも誰も愛したことがない


 愛を求めてそれを得ることはできませんでした。ですがそれはマイナスではなくゼロだったのです。そしてゼロであり得たのは,愛を求めるだけで,自分から愛そうとはしなかったからなのです。もしそうしていたら,マイナスになっていたかもしれないのです。そしてここには,僕が「化粧」に読み込んだのと同じ意味があります。愛そうとしなかった,失おうとしなかった自分はバカだった,と。

 念のためにいっておきますが,僕が第二部定義七の意味として含ませるのは,個物res singularisの複合の無限連鎖と分割の無限連鎖です。つまり各々の無限連鎖が個物に妥当するということであって,物体corpusに限って妥当するということではありません。第二部定義七は個物一般に妥当する定義Definitioでなければなりません。したがってそれがどの属性attributumの個物であろうと,個物なら妥当するのです。物体は延長の属性Extensionis attributumの個物ですから,物体の複合の無限連鎖も物体の分割の無限連鎖も成立するのですが,延長の属性の個物である物体に限って第二部定義七がその複合および分割の無限連鎖を含意しているということを僕は主張したわけではありません。もっと広く,個物であるならどの属性の個物であろうと,複合の無限連鎖と分割の無限連鎖が成立すると主張しているのです。自然学Physical Digressionでは,というか自然学ですから当然ですが,スピノザはそこでは延長の属性の個物である物体についてのみ言及しています。僕もその部分を援用したため,物体についてのみ強調する考察になったと考えてください。
 もうひとついうと,第二部定理七によって観念ideaと観念対象ideatumの秩序ordoは一致するのですから,少なくとも物体について複合および分割の無限連鎖が成立するのであれば,物体の観念についてもそれは妥当します。よって思惟の属性Cogitationis attributumの個物である個物の観念,この場合は物体の観念ということになりますが,それについても複合および分割の無限連鎖が成立していることは間違いありません。そして第二部公理五により,僕たちが何か個物を認識するcognoscereということがあるなら,それは物体であるか個物の観念であるかのどちらかなのですから,これだけでも僕たちにとって十分といえるかもしれません。
 それでは再び数学に関連した考察に戻ります。
 すでにみたことから,スピノザの哲学が,集合論を支える形而上学を提示するということはありません。どのような形而上学が集合論を支えるのかということについては,僕は考察の中で推理はしたものの,はっきりとした結論を出すのは僕の能力を超過していますから控えます。そして,僕の関心はそれがどういう哲学であるかという点にあるのではないのです。
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希望と不安&ふたつの無限連鎖

2019-04-20 19:02:00 | 哲学
 第三部諸感情の定義一三説明でいわれていることがなぜ成立するのかを,改めて詳しく説明しておきます。同じことは第三部定理五〇備考でもいわれていますから,そちらの説明も同様になります。
                                   
 第三部諸感情の定義一二および第三部諸感情の定義一三から,希望spesと不安metusが反対感情であることは明白です。希望は喜びlaetitiaで不安は悲しみtristitiaですが,希望と不安の相違点はそこだけです。そして喜びと悲しみは第三部諸感情の定義二第三部諸感情の定義三から分かるように,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行するのか,それとは反対により大なる完全性からより小なる完全性へと移行するのかというのが相違点になります。つまり喜びと悲しみは反対感情です。よって希望と不安も反対感情であることになります。
 次に,希望は不確実と認識される観念ideaから生じる不確かな喜びであり,不安は不確実と認識される観念から生じる不確かな悲しみです。それらが不確かな喜びであったり悲しみであったりするのは,それを発生させる観念が不確実だと認識されているからです。これは,認識cognitioが確実であるなら感情は不確かにはなり得ないということから明白でしょう。
 よって希望を感じている人は,その喜びが不確実なものであることを同時に知っているので,それが確実に実現されることは希求しますが,実現されないことは忌避するでしょう。ということは忌避したい事柄に対する感情affectusを同時に有しているという意味であり,それは希望を感じている同じものに対する不安にほかなりません。よって希望を感じている人間は同時に不安を感じています。
 不安を感じている人間が希望を感じているということは,これと同じ理屈で説明できます。つまりそれが実現することは忌避しますが,実現しないことについては希求するのであり,そうした感情を有していますが,それは希望だからです。
 よってある希望を原因causaとして何らかの感情が生じるなら,その感情は同じものに対する不安からも生じるのです。同様にあるものに対する不安から生じる感情は,それに対する希望からも生じるのです。

 これで僕が第二部定義七の意味のうちに,個物res singularisの複合の無限連鎖のみならず,個物の分割の無限連鎖も含まれているとする根拠の説明はすべてです。つまり僕は,岩波文庫版旧版の115ページ,新版の139ページから始まる第二部自然学②補助定理七備考は,複合の無限連鎖については肯定しているけれど分割の無限連鎖については否定しているというように読解できるものの,実際にはそうでなく,飛躍をすること自体が目的となっている論理の積み重ねの出発点の仮定が否定していると読解できるだけであり,実際にそれを否定するような,最も単純な物体corpusが存在することをスピノザが肯定しているわけではないと考えるのです。あるいは,もし最も単純な物体が存在すると解するにしても,それはそれ以上は分割することができない物体というわけではないと解します。
 もちろんこれには異論もあるでしょう。ただ,複合の無限連鎖については明らかにこの備考Scholiumは肯定しています。一方,「アトム」の存在existentiaを認めないのであれば,たとえ最も単純な物体が存在するということについては肯定するとしても,それ以上は分割することができない物体というのが存在するということを認めるわけにはいきません。「アトム」とは,それ以上は分割することができない物体そのもののことであるからです。ですから最も単純な物体というのが「アトム」を意味するのであるとすれば,単にそれ以上は分割することができない物体の存在を認めないというだけでは不十分で,最も単純な物体も実在しないというべきだと考えます。そしてこれらのことが,第二部定義七のうちに含意されているのだということが,ここでの僕の主張の主旨です。よって僕は第二部定義七の意味を,今後はそこで示した通りに用いることにします。それが実際に定義Definitioの中に含意されていないのだとしても,意味として含まれている事柄についてはスピノザの哲学の中では正しくなければならないということは証明されていますので,僕が何らかの考察をするときにこの意味をもち出したとしても,そこに本当に含意されているかどうかが問題となるだけで,考察そのものの内容に誤謬を来すことはない筈です。
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叡王戦&出発地点

2019-04-19 19:04:37 | 将棋
 13日にウトロ温泉で指された第4期叡王戦七番勝負第二局。
 高見泰地叡王の先手で永瀬拓矢七段の横歩取り☖8四飛。早い段階から戦いが始まり,開戦してすぐのところは後手の方がやれそうと思ったのですが,実際に進んでみると先手の方が指しやすくなっていたのではないかと思います。ただ,先手がもたついてしまったようで,僻地にいた後手の銀が先手の馬と交換になるという進展になり,後手がだいぶ巻き返しました。
                                        
 後手が歩を取って4四の飛車を走った局面。ここで先手は☗7七王と逃げたのですが☖3七馬とされました。取ると飛車に成られてしまうため☗4七歩と受けたものの☖6六飛と切られ☗同歩に☖5五馬と引かれました。
                                        
 この局面は2枚の馬が存分に働いて後手の勝勢となっています。こうなってしまうのなら先手は第1図ですぐに☗4七歩と打ってしまった方がよかったようです。それには☖6六飛☗同歩☖5七香成ないしは☖5七馬とする手があり,実戦はそれを避けたのでしょうが,1九の馬を使わせないことの方が重要だったと思われます。
 永瀬七段が連勝。第三局は来月4日。持ち時間は3時間になります。

 この論証Demonstratioによって,岩波文庫版旧版の115ページ,新版の139ページから始まる第二部自然学②補助定理七備考に,飛躍が含まれていることは,『エチカ』そのものから明らかになっていると僕は考えます。したがって,物体corpusが別の物体と協同してより複雑な物体を組織し,そうして組織された物体もまた別の物体と協同してもっと複雑な物体を組織し,そうして組織された物体もまた,という論理の積み重ねによって,延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態の認識cognitioに至るのではありません。このような論理の積み重ねに究極の地点があると仮定するなら,それは延長の属性の間接無限様態以外にはあり得ないという仕方で,間接無限様態の認識に至ることができるのです。いい換えればこの場合の間接無限様態の認識は,論理的な積み重ねと無関係に発生するのです。そしてそのために,延長の属性の間接無限様態がいかなるものであるのか,すなわちそれは無限に変化しつつも同一の形相formaに留まる全宇宙の姿facies totius Universiであるという認識が,前もって要請されているといえるでしょう。
 これは認識の到達点のあり方です。これと同じことが,出発点にも含まれていると僕は考えるのです。この論理の積み重ねの出発点は,最も単純な物体によって組織されている個体でした。単に最も単純な物体から始めずに,それによって組織されている個体から始められていることにも理由はあるかもしれませんが,ここではその詮索はやめておきます。このとき,最も単純な物体といわれているのは論理の積み重ねの最初の地点として最も適切なものとして示されているだけであって,実際にそうした物体が存在するということをスピノザが認めているわけではないと僕は考えるのです。ちょうど到達地点が,そういうものがあるとすればという明らかな仮定によって成立しているのと同じように,出発地点も,そうしたものがあるとすればという仮定によって成立しているのではないでしょうか。そしてそうしたものを仮定する理由は明白です。延長の属性の間接無限様態の認識を帰結させるために,論理の積み重ねの出発地点として最も適切な物体は何かといえば,最も単純な物体以外にはあり得ないからです。
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サッポロビール盃マリーンカップ&飛躍の論証

2019-04-18 19:12:26 | 地方競馬
 昨晩の第23回マリーンカップ。7頭がゲートに入ったところでチークスが暴れたため発走のやり直し。チークスは無事でしたが,前扉を開けて飛び出してしまったオウケンビリーヴが左の後ろ脚に外傷を負い,競走除外となって7頭。
 ナムラアヴィはタイミングが合わずに5馬身の不利。チークスが逃げられるかどうかに注目していましたが,逃げることはできず,アイアンテーラーがハナへ。リエノテソーロ,ラーゴブルー,チークス,ベニアカリ,エミノマユアクの順で1周目の正面を通過し前6頭は一団。向正面に入ると内からラーゴブルーが外のリエノテソーロに並び掛け,2番手は2頭。4番手のチークスと5番手以降の差が開いていきました。前半の800mは50秒6のスローペース。
 3コーナーを回るとチークスも脱落し前3頭の争い。コーナーで外を回ったリエノテソーロが直線の入口では単独の2番手でしたが,そこまでで一杯。内を回ったラーゴブルーは直線ではアイアンテーラーとリエノテソーロの間に。こちらはフィニッシュまで脚を使って粘るアイアンテーラーを差し切って優勝。アイアンテーラーが1馬身半差で2着。リエノテソーロは2馬身半差で3着。
 優勝したラーゴブルーはここが東京シンデレラマイル以来の実戦。3連勝で重賞初制覇。時計面での裏付けはなく,戦ってきたメンバーも強力とはいえなかったので,ここでも通用すると断定はできませんでしたが,昨年の夏に重賞を使ったときより強くなっているのは間違いないと思えましたので,通用しておかしくはないというレベルには達していました。巧みな騎乗で,斤量も1キロだけ有利であったとはいえ,重賞の勝ち馬2頭にはっきりとした差をつけて勝ちましたので,そういうレベルに達していたという見方をしていいでしょう。このようなレースができるのであれば,距離の延長にも対応できるのではないかと思います。父はハーツクライ。母の父はキングカメハメハ。4つ上の半姉に2013年にフローラステークスとローズステークスを勝ったデニムアンドルビー。Lago Bluはイタリア語で青い湖。
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は2008年の東京盃以来の重賞3勝目。マリーンカップは初勝利。管理している川崎の内田勝義調教師は開業から31年10ヶ月で重賞初勝利。

 このような論理的飛躍が含まれているということは,『エチカ』そのものを援用して論証することができると僕は考えています。ただしこのためには,ある物体corpusがほかの物体と協同して組織する個体は,もとの物体よりも複雑な個体ではあるけれどもやはり物体である,つまり延長の属性Extensionis attributumの個物res singularisであるということは前提としておいてください。
                                   
 第四部公理は,どんな個物にもそれを破壊し得るほかの個物が必ず存在するという意味のことをいっています。物体は延長の属性の個物ですからこの公理Axiomaが妥当しなければなりません。したがってある物体が存在するなら,その物体を破壊し得るほかの物体が必ず存在することになります。
 ここからふたつの方法で同じことを結論することができます。ひとつは,ある物体が存在するなら,必ずそれとは別の物体も存在するということです。つまりどんなに複雑に組織されていようと,それが物体である限りはそれとは別個の物体もまた存在するのです。この公理ではその別個の物体は,最初の物体を破壊し得るものとして規定されていますが,別に存在する以上は,最初の物体と別個の物体は協同することによって各々より複雑な個体を組織し得る筈です。そしてこの関係は無限に進むでしょう。つまり,物体が存在するならそれとは別の物体もまた必ず存在するという関係は無限に進むのであり,よって物体がそれとは別の物体と協同してより複雑な物体を構成するという関係も無限に進むのです。よってこの公理から,物体の複合の無限連鎖が結論され,延長の属性の間接無限様態は出現することがありません。公理は物体に限らずすべての個物に当て嵌まるので,この結論もまた延長の属性だけではなく,すべての属性に当て嵌まります。
 もうひとつは,そもそもこの公理は,個物が可滅的であるということを意味しているということです。物体は個物なのですべての物体は可滅的です。いい換えればそれは無限infinitumではありませんし永遠aeterunusでもありません。ところが第一部定理二二により間接無限様態は永遠でありかつ無限でもあります。よってそれがどれほど複雑に組織されていようと,物体であるなら間接無限様態ではないのです。
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クイーンエリザベスステークス&論理的飛躍

2019-04-17 19:24:11 | 海外競馬
 13日にオーストラリアのランドウィック競馬場で行われたクイーンエリザベスステークスGⅠ芝2000m。
 クルーガーは1番枠からの発走。ラチとゲートが離れていたため,発馬後すぐに内ラチに寄せていきました。その間に外から前に行った馬がいて,5番手の内という位置取り。4番手と5番手は間隔があり,前4頭と後ろ5頭で集団という隊列。そのままコーナーでも内を回り,外を上がっていった馬がいたため一時的に6番手になりましたが,コーナーワークで直線の入口では2番手の内。そこから開いていた最内を突いて伸びて一旦は先頭。残り200m付近で大外を伸びた勝ち馬に並ばれるとそこから少しずつ差を広げられていき,1馬身半差の2着でした。
 先週のレースを使った後,距離が伸びた方がいいという騎手の進言があったため,連闘でここに出走することになりました。勝ち馬は世界最強馬の1頭で,それを相手に現地に乗り込んで勝てというのはかなり難しい要求。それを考えると3着馬に2馬身半の差をつけての2着というのはベストに近い結果だったといっていいのではないでしょうか。騎手がとても上手に乗ったのも事実ですが,ランドウィック競馬場の馬場に対する適性はかなりのものなのでしょう。日本での近走からすると予想できないほど上々の遠征であったと思います。

 考察の対象としている第二部自然学②補助定理七備考のスピノザの主張には,ある論理的な飛躍が含まれているということを僕は以前に示しました。ここでは,現在の考察に見合う形で,この飛躍を別の仕方で説明します。
                                   
 個物res singularisは,あるいは物体corpusは,ほかの物体と協同することによってより複雑な物体を組織します。この最初の物体はどんな物体と考えても構いません。どのように考えても,組織されることになるのは複雑な物体,すなわち延長の属性Extensionis attributumの個物であることに違いはないからです。するとこの物体も物体であるからには,ほかの物体と協同してさらに複雑な物体を組織するのです。この関係は,組織されるのが物体である限り,延々と継続していくことになります。他面からいえば,こうした論理の積み重ねによって,ひとつの個体としての物体的な自然,すなわち延長の属性の間接無限様態の認識cognitioに至ることはできないのです。
 第一部定理二八第二部定理九でスピノザが「無限に進む」というとき,そこにはある消極的な意味が含まれていました。すなわちある結果effectusからその原因causa,それの原因,さらにその原因というように辿っていったとしても,この連鎖は無限に続くだけであり,最終的な原因に辿り着くことは不可能であるというのがその意味でした。これと同じことがこの備考Scholiumの場合にも本当は当て嵌まるのです。つまり,物体がある物体と協同してより複雑な物体を組織し,その物体もまたほかの物体と協同してもっと複雑な物体を組織するという関係は無限に進むのであり,最終的な到達点が生じることはありません。よってそのような論理の積み重ねによって間接無限様態の認識に至るわけではなく,僕たちがこの思考によって間接無限様態の認識に至ることができるのは,もしそうした関係に究極の最終地点があると仮定すれば,それは間接無限様態以外にはあり得ないということを結論するからなのです。ここに論理の飛躍があることは明白でしょう。もし前もって僕たちに間接無限様態がいかなるものであるのかという認識があるのでなければ,この結論を僕たちは得ることができず,論理的には複合の無限連鎖が無限に続いていくだけだからです。
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マイナビ女子オープン&最も単純な物体

2019-04-16 19:14:46 | 将棋
 9日に鶴巻温泉で指された第12期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女王が1勝,里見香奈女流名人が5勝。これには叡王戦とNHK杯の予選が含まれます。
 振駒で西山女王の先手で三間飛車。里見女流名人が向飛車に振っての相振飛車。中盤の戦いで先手が押さえ込まれてしまい苦戦を招きました。
                                        
 後手が☖2七歩成と銀を取って王手し,先手が1八にいた王で取った局面。
 ここで☖7八銀と打てば先手は飛車を横に逃げるほかなく,☖8七銀成から角を入手すれば,手数は長くなっても後手の完封勝ちといえる将棋になっていました。
 実戦は☖6七歩成と指しました。使えそうなと金を作れるのですから大きな手なのですが,このために先手の角の利きが通ってしまったので☗5五金という勝負手を与えてしまいました。精査すると後手は悪くなったわけではありませんが,勝つのはすでに容易ではなくなっています。
 ☖7八と☗5四金☖同銀上と進み先手は☗9三桂と打ちました。これが詰めろで後手は☖8三玉。
 ここで☗6六飛とただのところに浮く手が飛び出しました。☖同銀☗同角は先手有望の変化。ということで☖5九角成と逃げました。先手はそうしておいてから☗6五飛。
                                        
 これを☖同銀と取れば難解な戦いが続いたのですが☖同桂。これには☗6四銀と縛り,先手の勝ちになっていました。
 西山女王が先勝。第二局は22日です。

 反論が容易に予想できるので,前もって弁明しておきます。
 旧版の115ページ,新版の139ページから始まっている第二部自然学②補助定理七備考で,スピノザは認識cognitioの終焉地点として,延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態である,ひとつの個体としての全自然を示しています。そしてこの認識の開始地点は,最も単純な諸物体からのみ組織されている個体となっています。この開始地点の個体は,明らかに分割することが可能な物体corpusです。これは諸物体から組織されているといわれているのですから,本性essentiaが異なるいくつかの物体すなわち延長の属性の個物res singularisに分割することが可能であると認めなければなりません。ですが,そうして分割されたいくつかの物体は,最も単純であるといわれていますから,さらに分割することが不可能であるように思えます。いい換えればスピノザは,それ以上は分割することができない物体というのがあって,しかもそれはひとつではなく,数的にいい換えれば様態的に区別されるいくつかの最も単純な物体,ここでいうそれ以上は分割することができない物体があるということを認めているように解せるのです。
 これはそのままそう解しても問題ないと僕は思います。というのはこれは実際にそういう物体があるということをいいたいわけではなく,認識の開始地点として理念的にそのようなものを想定しているだけだと考えるからです。むしろスピノザがこのようないい方をすることで何かを意味したいのであるとすれば,それは現実的に存在する個物,備考Scholiumに適合させれば現実的に存在する物体について言及しようとしているということだと僕は考えます。いい換えれば,現実的に存在する物体のうちに,最も単純な物体というのを想定し,そこから認識を開始すれば,そうした物体の複合を認識していくことによって,ついにはひとつの個体としての全自然の認識に至るのだということをスピノザはいいたいのであり,それ以上は分割することができない最も単純な物体というものが,神Deusの属性に包容されてであれ現実的にであれ,実際に存在するということを主張したいわけではないと僕は考えるのです。
 なぜそう解するのかも説明します。
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