スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&絶対に無限

2007-07-31 23:13:23 | 将棋
 王座戦の挑戦者決定戦。振駒で先手を得た久保利明八段は☗7六歩☖3四歩に☗7五歩の早石田を目指しました。
 名人戦第三局ではここで☖5四歩として相振飛車にした森内俊之名人でしたが今日は☖8四歩。ここから昨年の棋聖戦第三局でみられた,序盤早々に飛車角交換になる乱戦に進展。16手目の☖6二金(佐藤棋聖は☖7二金)でこの将棋からも離れました。
 ここから互いに玉を囲うことなく大駒を自陣に打ち合っての急戦。途中,先手が39手目の☗2六歩で桂得を確定させましたが,これを取っている暇もありませんでした。
 49手目の☗7二歩は軽妙な手。ここから先手がと金と馬,後手が龍を作り合って60手目に☖8七歩。先手は☗7七銀で金銀交換を挑み,後手は64手目に☖7四銀と部分的には馬を殺しました。ただ,結果的にはこの銀は働きませんでしたので,この☖7四銀か,その前の☖8七歩が,後手としては疑問であったのではないかと思います。
 ここで☗6一金。この後,71手目の☗6二とに☖同飛は☗7四馬があるので☖5四飛でしたが☗6一馬で馬が生還。ここでは先手が優勢でしょう。
 83手目の☗3四馬に☖同龍は☗9一とから☗3五香を狙うのだと思います。そこで☖同王でしたがそれでも☗9一と。これだけの乱戦にして駒の損得がありませんでしたがここで先手がついに香得。以下,89手目の☗6五歩もぬかりない手という印象で,91手目の☗3六香となっては大差。以下,☖4四王に☗4五飛で後手の投了となりました。詰んでいるわけではありませんが,どちらに逃げても☗5一飛成が詰めろとなります。
 久保八段の王座挑戦は6年ぶり。第一局は9月6日に指されます。

 王位戦の方は羽生王位の先手で相矢倉☗3七銀-☖6四角の形。封じ手の局面ですでに先手の桂損となっていますので,さすがに攻め続ける一手でしょう。

 明日は大井でサンタアニタトロフィーがあります。ここはシーチャリオット◎に期待。ベルモントノーヴァ○とベルモントギルダー▲が相手で,モエレソーブラッズ△とアンコーラ△。

 第一部定義六はいわずとしれた神Deumについての定義Definitioです。そこでは神は絶対に無限absolute infinitumといわれているわけですので,スピノザがこの定義に付した説明というのは,当然のことながら,絶対に無限というのはどのような意味であるのかということの説明であることになります。そこでここでは,ふたつあると考えられる無限といわれるもののうち,絶対に無限といわれるようなものはどのようなものであるのかということを先に考えていくこととします。
 そこでこの説明によれば,絶対に無限なものとは,その本性本性のうちに,個々の本性を表現するexprimereようなあらゆるもの,あるいは一切の否定negatioを含まないあらゆるものが属するということが分かります。事物が無限であるといわれることと,ある事物が何らかの意味で否定される,または否定され得るということの関係については,後に詳しく考えてみる予定でいますが,少なくともこのことから,無限であるものの本性のうちには,知性intellectusが矛盾なく概念するconcipereことができるようなどんな事物の本性も含まれていなければならないということが分かります。
 これをもっと具体的にいうならば,第二部定理六により,どんな様態modusの原因causaもそれが様態となっている属性attributumであり,したがってその様態の本性の原因もまたそうした属性であるということになりますから,絶対に無限であるといわれるものの本性のうちには,ありとあらゆる属性が含まれていなければならないということになります。いい換えれば,その本性のうちにすべての属性が含まれている場合に,それは絶対に無限であるということになります。
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将棋キャリア&第一部定義六説明

2007-07-30 20:54:11 | 将棋トピック
 以前に競馬キャリアプロレスキャリアについては書きましたが,僕の将棋キャリアはそれより古く,小学校の3年か4年のときにスタート。家族旅行先の旅館に盤と駒があり,そこで父に教わりました。駒の動かし方だけ教わって,すぐに指したのではないかと思います。つまり,指しながら覚えるという形で。旅行から帰った後,近所の書店で故・原田泰夫九段著の入門書を購入,それで勉強しました。その後,都合のよいことに学校で将棋ブームのようなものが起こり,小学校時代は毎日のように指しました。
 中学校は学区の関係で同級生が小学校時代とほとんど同じ。ただ,僕も含めてそれぞれ部活動などに忙しく,指すことはありましたが小学校の頃ほどでもなく,高校時代は,同級生と指したというのはただ1度だけであったのではないかと思います。大学時代は高校時代よりは指していますが,それでも年に数局という程度。ただ,この頃も雑誌を読んだりテレビを見たりはしています。
 就職直後は会社の寮生活を強いられた関係で,同期入社の同僚たちと仕事の後によく指しました。ただしこれも寮生活が終る,3ヶ月程度の期間。1年ちょっと前から対局型掲示板で1日1手だけ指していますが,これを別にすれば,僕はこれ以降は実戦というのをほとんど指していないです。
 というわけで,僕は将棋ファンといっても,指すファンというよりは観戦ファンです。ただ,前述の掲示板はありがたい存在。継続は力なりといいますが,これがあるおかげで現在の僕は1日に少なくとも何分かは将棋の手について考えます。これは棋力の維持とか向上ということを考えた場合には,意外とばかにならないことのように思います。

 明日は王座戦の挑戦者決定戦,森内俊之名人と久保利明八段の一戦があります。ここまでは森内名人の11勝7敗。久保八段は振飛車,森内名人が後手ならあるいは相振飛車もあるかもしれません。

 それから王位戦七番勝負の第三局初日。連敗している羽生王位はここで勝たなければ防衛が覚束なくなります。

 『エチカ』において事物が有限finitumであるということがどのような意味であるのかということについてはこれでいいだろうと思います。そこで今度は事物が無限infinitumであるということについてはスピノザはどのように考えているのかということが問題になってくるのですが,無限である場合については,有限である場合のように,『エチカ』の中にはきちんとした定義Definitioがありません。そこで,『エチカ』において無限という単語が初出するのは第一部定義六ですので,ここではそこから考えるということにします。ただし,この定義はあくまでも神Deumについての定義であって,現状の目的は,スピノザが無限ということをどのように考えているのかということを理解することにありますので,ここではこの目的に合わせて,第一部定義六そのものではなく,この定義に付せられている説明の方を扱います。したがってこの定義そのものの問題についてはここでは言及しません。
 「私は「自己の類において無限な」とは言わないで,「絶対に無限な」と言う。なぜなら,単に自己の類においてのみ無限なものについては,我々は無限に多くの属性を否定することができる<(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)>が,これに反して,絶対に無限なものの本質には,本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである」。
 説明ですからどうしても長くなるのは仕方がないといえるでしょう。この説明からして,少なくともある事物が単に無限であるといわれる場合には,自己の類において無限であるという場合と,絶対に無限absolute infinitumであるという場合の,ふたつのケースがあるとスピノザは考えているということが理解できます。
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福井記念&第一部定義二の意味

2007-07-29 22:31:41 | 競輪
 福井記念の決勝(動画)は,伏見選手がバンクレコードタイという記録を出して優勝となりました。
 かなりの牽制があった末に,永井選手の前受け。渡部選手が4番手,伏見選手が6番手で周回。残り2周のホームから伏見選手が上昇を開始し,バックでは永井選手を抑えました。さらに打鐘前に渡部選手が上昇していき,伏見選手を抑えて先頭に。打鐘から永井選手が発進すると,外の山口選手は何の抵抗もできずあっさり富永選手が番手を守り,永井選手がホームで渡部選手を叩くと,中部近畿の3人で前に出きりました。遅れた山口選手は友定選手の後ろに入って6番手。永井選手のダッシュがよく,渡部選手以下は少し切れ模様の一列棒状になったので,これは前で決まると思ったのですが,絶体絶命の7番手ながらバックの半ばから伏見選手が捲って出ると,直線も大外を伸びて届き優勝。伏見選手に合わせて4番手から捲った渡部選手も2着に届き,3着は伏見選手の番手の手島選手との接戦を,永井選手の番手の富永選手が制しました。
 優勝した福島の伏見俊昭選手は昨年6月の高松記念以来となる久々の記念競輪優勝。自力選手ですが,北日本は有望な若手が多く,最近は番手を回るケースも増え,今開催もここが初めての自力勝負。位置取りにはっきりと失敗した感じで,厳しいレースとなりましたが,冒頭にも書いたようにバンクレコードタイをたたき出したとのことで,やはり復調してきているのではないかと思います。
 期待した永井選手には残念なレース。牽制での発走となったので,前受けの際にも少し脚を使ったと思われ,それが最後の失速につながってしまったように思います。記念競輪を制覇する力はすでにあると思いますが,レース運行の仕方はもう少し勉強する必要があるかもしれません。

 第一部定義二というのは,定義なのですから当り前といえば当り前ですが,少なくともスピノザの哲学において,事物が有限であるということがどのようなことであるのかということを,完全に示していると思います。したがってこの定義の本文のいい方に倣っていうなら,ある事物がもしも有限であるのならば,それは自己の類において有限であるという意味であって,それ以外の意味においては,どのような事物も有限であるということはないということになると思います。
 そこで,自己の類というのが果たして何を意味するのかということが問題となってくるわけですが,これは僕が定義というよりは公理的性格を帯びた説明と考えるこの定義の最初の一文に続く部分で,ある物体はほかの物体によって限定され,同様にある思想はほかの思想に限定されるということによって有限であるといわれるのであって,物体が思想から限定されることがなければ,逆に思想が物体から限定されることもないとされているわけですから,要するに自己の類とは,それ自身と同じ属性を有するものの集合と考えるのが妥当であると思います。
 よって,この定義は,あるものXがあって,そのXがそれと同一の属性を有するほかのものに限定される,あるいは限定され得ると考えられる場合には,Xは有限であり,またXが有限である場合は常にこの場合に限られ,Xが異なった属性を有するものに限定されることによって有限であるということはないと理解するのが妥当であろうと思われます。
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一手損角換り考&第一部定義二

2007-07-28 21:29:58 | 将棋トピック
 初手から☗7六歩☖3四歩☗2六歩☖3二金(第1図)。後手の一手損角換り戦法の出だしです。最近だと棋聖戦第二局の佐藤棋聖,王位戦第二局の羽生王位,竜王戦挑戦者決定トーナメントの中原永世十段が採用しています。

 ここで先手は☗7八金☖8四歩☗2五歩(第2図)か単に☗2五歩(第3図)。棋聖戦の渡辺竜王と王位戦の深浦八段は前者,竜王戦の谷川九段は後者でした。どちらを選ぶかは好みでしょうが,☖8四歩とすれば後手が飛車を振る可能性はかなり低くなります。それを先手の得とみれば☗7八金を選んだ方がいいでしょうし,そうでもないと考えるなら単に☗2五歩でも問題ないと思います。
 
 先手が☗2五歩と突いたのをみて☖8八角成とするのがこの戦法の骨子。以下☗同銀☖2二銀(第4図か第5図)と進みます。
 
 これとは別の手順があります。☗7六歩☖3四歩☗2六歩に☖9四歩(第6図)。この戦法を採用することが多い丸山九段は,最近はこの手順が多いようで,先日の銀河戦Bブロック11回戦でもこう指しました(棋譜は囲碁・将棋チャンネルホームページ。左の番組紹介→銀河戦→Bブロック)。

 この場合,先手は☗7八金とは上がれません。☖4四歩から振飛車にすれば後手が一本取った形になります。また☗9六歩と受けた場合も,先手が居飛車穴熊に組みにくい意味があるので,後手は振飛車にするのが有力と思えます。
 したがって☖9四歩には銀河戦の木村八段のように☗2五歩とするのが普通。そこで☖8八角成☗同銀☖2二銀(第7図)。

 この場合の後手もどちらを選ぶかは好みの問題かもしれません。丸山流は,先手の模様をみて居飛車にも振飛車にもでき,その分だけ先手の駒組を牽制できますが,一手損の上に端歩を突くので,立ち遅れるリスクを伴います。
 どちらの指し方をしても同様に一手損角換りといわれます。しかしこれだけ異なった手順が同じ名前で呼ばれているのは,いささか不思議な気もします。

 明日は福井記念の決勝。並びは伏見ー手島ー坂本の東日本,永井ー富永ー前田の中部近畿,渡部ー友定の四国中国で,山口は富永と競るようです。僕は永井選手に期待します。

 これは僕にとっては少しばかり意外なことなのですが,『エチカ』においては無限を意味するinfinitumよりも,有限を意味するfinitumの方が先に出てきます。そこでここでもスピノザが選んだその順序に倣って,まず事物が有限であるということが具体的にはどのようなことであるのかということを考えていくことにします。これは第一部定義二で,この定義Definitioは純粋に定義であるといい得るような最初の一文と,それについての説明から成っていると,僕は考えています。長くなりますがここではその全文を示すことにします。
 「同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる(Ea res dicitur in suo genere finita, quae)。例えばある物体は,我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに,有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない」。
 最初の一文が,事物が有限であるということについての純粋な定義であるとすれば,僕の考えでは,その説明にあたる残りの部分は,定義というよりは,ある公理的性格を帯びていると思います。その根拠となるのは,以前にテーマとして採用した第一部公理五であるということになると思うのですが,いきなり本来のテーマとあまり関係しないようなことを考えるのも変ですので,ここではこの問題については触れずに,先に進んでいくこととします。
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福ノ井賞&無限と有限

2007-07-27 22:31:29 | 競輪
 福井記念2日目優秀の福ノ井賞(動画)。並びは予想に反し,渡部が自力で富がつけ,空いた荒井に伏見ー遠沢でした。
 渡部選手も出ましたが,いつものように荒井選手がSを取って前受け。4番手に渡部選手,6番手に稲垣選手で8番手に手島選手。残り2周のホームから稲垣選手が上昇し,手島選手はこのラインを追走,バックで荒井選手を抑えました。打鐘から渡部選手も発進し,ホームで稲垣選手を叩き,ここで流したところを外から荒井選手の巻き返し。叩ききってこのラインの3車が前に出ました。稲垣選手と手島選手は不発。十分に車間を開けて直線から踏んだ伏見選手が荒井選手を差して1着。荒井選手が2着に粘り,4番手から少し早めに踏み出した渡部選手が3着になっています。
 荒井選手が逃げる形になり,さら脚で番手を回った伏見選手には絶好の展開。これなら勝って当然といえるでしょう。
 荒井選手はホームでスピードが緩んだときに躊躇なくいったのがよかったと思います。実質的には最もうまく競走をしたといえるのではないでしょうか。まったく結果的にということになりますが,荒井選手と渡部選手が協力したようなレースになりました。

 今日からの新しいテーマは,無限と有限についてということにします。つまり,事物が無限であるといわれるとき,スピノザの哲学,とくに『エチカ』においてはそれがその事物についてどういうことを意味するのか,同様に,ある事物が有限であるといわれる場合には,それはその事物がどういったものであるということを示しているのか,さらに,これらを一般的にではなくもう少し現実的に考えた場合に,具体的な意味で実在する無限であるものと,現実的な意味で実在する有限であるものとは,どういった関係にあると理解すればよいのか,いい換えれば,ごく普通に考えた場合には,無限であるということは有限であるということは,純粋に反対の意味を表すと受け取れますが,どのような意味で反対であると理解すればいいのか,といったような事柄を中心に考えていきたいと思います。確かに『エチカ』あるいはスピノザの哲学にあっては,有限であるということはそうではないとしても,事物が無限であるといわれる場合には,僕たちが普通に無限ということばで意味しようとするところと異なった部分,あるいはそれ以上の部分というのがあるようにも感じられるからです。
 これまでは,『エチカ』のある特定の部分をテーマとして示してきましたが,無限であるということと有限であるということを同時に示し,かつこのテーマに相応しいような部分というのがどうしても見当たりませんので,今回は単に無限と有限がテーマであるとしておきます。
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竜王戦&第二部定理一七備考まとめ⑤

2007-07-26 23:19:49 | 将棋
 詳しくは後日改めて書きますが,僕が将棋を覚えたのは中原誠名人の時代でした。その後,谷川浩司名人の時代へと移行したわけで,今日の竜王戦挑戦者決定トーナメント準々決勝は,個人的にも感慨深い一戦でした。
 これは振駒。先手は谷川九段で,中原永世十段の一手損角換り。先手が1筋の位を取って右玉。この形は一昨年の棋聖戦五番勝負第二局で,佐藤棋聖が羽生三冠を相手に指したのが印象に残っています。
 結果的にみると,この将棋は中盤の構想の段階で大勢が決してしまったようです。後手は46手目に△2二銀と引き,いわゆる地下鉄飛車の構想。実際,56手目の△1一飛までで組むことはできたのですが,その直前の先手の手待ちの仕方から考えて,これは先手が組ませたもの。この間に2歩を交換した先手が61手目に▲2四歩と垂らすと,後手からの△1四歩の仕掛けは遅く,封じられていました。
 ここからは先手の土壇場。77手目,▲2五桂の直接手でなく▲1六桂と矯めたのはおそらく好手。さらに85手目の▲2五桂が決め手に近い手。後手も飛車は成り込みましたが94手目に△8四角とここから王手せざるを得ないようでは苦戦は否めず,そのまま先手の快勝に終っています。
 このトーナメントは右の山の準決勝が羽生三冠と佐藤二冠の黄金カードになっていますので,その将棋もここで取り上げます。対局日はまだ決まっていないようです。

 明日は福井記念2日目優秀の福ノ井賞。並びだけ予想しますと,伏見ー遠沢の東日本,手島ー坂本の関東,稲垣ー前田の近畿,荒井ー渡部ー富の西日本でしょうか。

 表象が力であるということを,僕たちが日常的に使うことばで示すなら,想像力ということばが最も相応しいのではないかと思います。しかしここで注意しなければならないのは,スピノザの哲学においては,表象としての想像は,想像する人間がそれが混乱した観念であるということを認識している限りで力であるといわれるのであって,その想像がそれ自体でその人間の役に立つかどうかということは,それが力であるとみなされることと一切の関係をもちません。したがって,その表象に認識の不足すなわちその観念が混乱した観念であるという認識の不足がない限り,小倉優子によるこりん星の表象も,羽生三冠による読み筋の表象も,まったく同一の意味で力であるといわれることになります。このことは,スピノザの哲学における,力と実在性の関係からもそうでなければならないことになると思います。逆にいうと,たとえばこりん星の否定ということは,この認識の不足の観点からいわれなければならないのです。
 また,同一の観点から,この認識の不足がない限り,どんな表象も同一の意味で実在性を有するといわれなくてはなりません。形相的には無である筈のこりん星の十全な観念というのは,たとえばことばの表象という形で神のうちにあります。つまりそれ自体では形相的には無の観念も,神のうちに実在的な観念としてあるといえます。したがって,表象という混乱した観念の実在性に言及することは,矛盾でも問題でもないということになると思います。
 これでまとめも終わりです。明日からはまた新しいテーマでいく予定です。
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王位戦&第二部定理一七備考まとめ④

2007-07-25 23:04:56 | 将棋
 昨日は1日目ということであまりに軽く考えていた王位戦七番勝負第二局ですが,よく考えれば封じ手の局面はすでに勝負どころで,僕が示したような手順は甘く,あれでは簡単に先手が勝ってしまいそうです。ということで羽生善治王位の封じ手は△4六歩。対して深浦康市八段は▲7四歩。
 ここから一直線に攻め合えば,△4七歩成▲7三歩成△3七と▲8二と△2八ととなるわけですが,深浦八段が▲7四歩と指し,羽生王位が避けたということは,この順は駒損でも手番を握って先手がよいということで両者の読みが一致したということでしょう。後手は△6四角と逃げ,先手もこれには▲4八金と逃げるよりなさそうです。
 この局面,僕には後手が忙しくみえますので,58手目の△6六歩はやんわりした手で意外に思えます。ここで▲6五歩はおそらく△8六角▲同歩△7七桂成▲同金で,角は取れても玉が薄いので後手が十分なのでしょう。深浦八段は▲7三角からと金を作りました。
 64手目の△5一金は次の▲7二とで飛車が死ぬだけにまた意外な手。70手目に△7七角と打ち込みましたが▲8一とと取られ,羽生王位はここから苦戦と感じられたようです。ただし検討陣は後手有望という見解でした。確かに74手目に△6一香と受けたあたり,△5一金が効いているようにも思えます。この後,▲5二角成と捨ててこの香車を抜いたのも,80手目に△6三角と受けたのも凄い手だと思います。
 ここから攻め合いになりましたが,102手目に△6八成銀と捨てて受けに回るようでは後手が苦戦。111手目の▲5二銀~▲3一銀というのが好手順で,最後は龍も捨てて即詰みに討ち取り,深浦八段の2連勝となりました。投了図以下,△4四玉▲4五歩△同銀▲5五金で簡単です。
 羽生王位のいうように,飛車を取って先手が優勢であるのなら,△5一金で,△4二金右として飛車が逃げるのは論外としても,△7七桂成~△3六桂と攻め合う順があるのかもしれません。これでも駄目ならそれ以前に問題があったということでしょう。
 連勝の深浦八段が,王位奪取に前進したといえますが,本当に大変なのはこれから。第三局は31日と1日に指されます。

 明日は竜王戦挑戦者決定トーナメント,左の山の準々決勝,中原誠永世十段と谷川浩司九段の一戦があります。準々決勝ですが,展望でも注目した中原永世十段の本選初戦ですし,もうこういう対戦を紹介する機会もそう多くはないと思いますので取り上げます。過去は谷川九段の55勝42敗となっています。

 明日から福井記念。復調ムードの伏見選手に注目しています。

 それではいかにして人間は誤謬からの脱却が可能なのかということが問題となってきます。もちろんXの十全な観念が人間の精神のうちにあるならば,その人間の精神のうちにXの混乱した観念が生じたとしても,それが十全な観念ではないということを知り得るでしょうから,そうした十全な観念による脱却というのが可能です。しかし人間の精神は有限ですから,これでは個々の誤謬からすべて脱却することは,むしろ不可能であるということになるでしょう。
 このときに助けになるのが,真理一般による脱却です。人間の精神のうちにたったひとつの真の観念があることによって,人間は真理一般の性質を知り,それによって真理の認識が可能となって誤謬から脱却できるというのがこの方法です。真理の規範,すなわち真理と虚偽とを明確に分かつことができるのは,虚偽ではなくて真理自身であるということ,そして真理だけであるということが,この脱却の根拠になります。
 これで,人間が,精神のうちに虚偽を抱えるということ,つまり人間の精神の少なくとも一部が虚偽によって構成されるということからはどうしても免れることができないとしても,誤謬から免れることができるということは明らかになったと思います。したがって,ここでテーマとした一文の中で,スピノザが表象が力であり得るといったこと,すなわち,虚偽は誤謬でない場合には力であり得るといったことは,不条理であるどころか妥当であるということになるのではないかと思います。
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スパーキングサマーカップ&第二部定理一七備考まとめ③

2007-07-24 22:28:10 | 地方競馬
 川崎のナイター競馬はスパーキングナイターという愛称。これは川崎でナイター競馬が開始されるときに,ファンの公募で決まったものです。僕は「闇競馬」というのがいいのではないかと思っていたのですが,さすがにそれは選ばれませんでした。というわけで,今日の第4回スパーキングサマーカップというのはこの愛称からつけられたレース名。今年から全国地方交流になりました。
 先手を奪ったのはベルモントソレイユ。これをキングスゾーンとシャイニールックが追っていきました。前半の800メートルは48秒5。かなりのハイペースといえると思います。この流れをキングスゾーンは果敢に3コーナー先頭。ベルモントソレイユはずるずると後退して競走中止。シャイニールックもついていけなくなり,代わってミツアキタービンが内,ブルーローレンスが外から進出してきました。しかし直線に入るとこれらの馬たちの争いを尻目に,最初は最後尾にいたルースリンドが外を一気の伸び。あっさりと捕えて3馬身差の快勝となりました。強気に乗ったキングスゾーンが2着,3着は内のミツアキタービン。
 勝ったルースリンドエルコンドルパサー産駒。中央未勝利で南関東に転入,その後も順調には使えなかったもののこれで17戦して11勝,2着4回。前走は大井記念2着で,南関東重賞はこれが初制覇。ここは距離がやや案じられましたが,確かに前半はあまりついていけず,ハイペースに助けられたというのも事実でしょうけど,3馬身という決定的な差をつけていますので,心配はなかったということなのでしょう。鞍上の内田博幸騎手は先月のグランドマイラーズに続く南関東重賞制覇。
 2着のキングスゾーンは強気の競馬をして,ルースリンド以外は押さえ込みましたのでまずまずでしょう。浦和だけでなく川崎でも好走できたのはひとつ,収穫であったと思います。
 3着のミツアキタービンはかつてはダイオライト記念で重賞を制覇,フェブラリーステークスでも4着に入ったほどの馬。当時の力はさすがにありませんが,今日は59キロを背負っていましたので立派な結果といえるでしょう。笠松の馬ですが,左回りの方がいいようです。
 シャイニールックには家賃が高かったでしょうか。ムーンバレイは遠征の経験が不足していたのが敗因であったと思います。

 深浦八段が11年前に羽生王位に挑戦したとき,第一局で先手を得て,▲9六歩という初手を指しました。その作戦は失敗に終りましたが,そのリベンジを目指して再び指すのではないかと個人的に注目していた王位戦第二局ですが,普通に▲7六歩でした。将棋は最もオーソドックスな一手損角換りに進展。封じ手局面は飛車を動かして角の逃げ場を作る一手に思えます。

 混乱した観念といえども,それ自体のうちには積極的に虚偽を構成する要素はないということから十分に推測できるように,仮に人間の精神のうちにXの十全な観念があるというだけでは,その同じ人間の精神のうちにあるXの混乱した観念が排除されるわけではありませんし,またXの混乱した観念,あるいはXの表象が,その人間の精神のうちに生じなくなるというものでもありません。このことは第四部定理一証明され,また,人間がを表象する場合の例からして,経験的にも確かであるといえるでしょう。
 こうなってくると,人間は虚偽あるいは誤謬から逃れることができないと結論されるように思われますが,ところがそうでもありません。なぜなら,第二部定理三五によって,僕が理解するところの虚偽と誤謬というのは,実は同一のものではなくて異なったものであるとされているからです。つまり表象=混乱した観念=虚偽は,それ自体では誤謬とはいわれずに,虚偽が人間の精神の一部を構成しているときに,さらにその虚偽に関する認識の不足がある場合にはじめて,その人間が誤謬を犯しているということになるのです。
 そしてこのように考えたときに,ここでテーマとして設定した一文の意味というのがみえてくると僕は思います。つまりこの一文でいわれている,そのものが現実に存在しないことを知っている認識こそが,第二部定理三五でいわれている不足している認識なのであって,逆にこの認識がある場合,つまり人間の精神の一部が虚偽によって構成されているけれども,その人間が誤謬を犯していない場合には,表象あるいは混乱した観念は,その人間にとっての力であるといえるのではないかということです。
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タニノギムレット&第二部定理一七備考まとめ②

2007-07-23 21:15:32 | 名馬
 牝馬として見事に今年のダービーを制したウオッカ母系についてはすでに紹介していますが,この馬の名前のもとになった父・タニノギムレットを今日は紹介します。
 ダートのデビュー戦は足元の影響もあって2着に負けましたが,休養後の2戦目で芝の未勝利戦を好時計で圧勝。明けて正月のシンザン記念を勝って重賞初制覇。さらに3月のアーリントンカップも制しました。
 この重賞2勝は武豊騎手でしたが,落馬で大怪我をしたため四位騎手に乗り換り,皐月賞トライアルのスプリングステークスを追い込み勝ち。重賞3連勝で皐月賞も1番人気に推されましたが,ここは追い込みきれずに3着でした。
 武豊騎手に戻って,NHKマイルカップに参戦。ここは直線で再三の不利を受けてしまい3着。ただ,この3着はよく3着まで来たという感じでした。異例のローテーションでダービーに出走。きっちり差し切って大レース優勝。つまりウオッカは,父娘でダービーを制覇したということになります。
 故障を発症してしまいこれで引退。この馬は松田国英調教師の管理ですが,松田厩舎の馬にはこういうケースが多いように感じられるのは残念なことです。
 ギムレットはカクテル。ウオッカとタニノギムレットは,生産牧場も馬主も同じで,父からの連想でウオッカと名付けられました。本来ならタニノウオッカとなるところですが,ウオッカはアルコール度数の高い酒なので,(名前を)割らない方がいいという判断から,単にウオッカとされたということです。

 明日は川崎でスパーキングサマーカップ。難しいですが力は東海勢が上とみて,愛知のムーンバレイ◎とキングスゾーン○。南関東勢はシャイニールック▲とルースリンド△。ブルーローレンス△や笠松のミツアキタービン△も。

 明日から王位戦七番勝負第二局。先手となる深浦八段の初手に個人的に注目しています。

 まずはこうした人間の精神mens humanaによる事物の表象imaginatioが,混乱した観念idea inadaequataであるということを証明しなければなりません。僕がいう表象の種類のうち,自分自身の身体corpusの知覚perceptioについては第二部定理二七によって,それ以外の外部の物体corpusについての表象,すなわち外部の物体の知覚および想像と想起memoriaについては,第二部定理二五によって,それらは証明することができます。
 ところで,人間の身体humanum corpusというのは,外部の物体によって刺激されるaffici適性がきわめて高い物体ですから,これらのことからして,人間の精神を現実的に構成している物体の多くは,実は十全な観念idea adaequataであるよりも,混乱した観念であるということが理解できるということになります。したがって,人間はこうした混乱した観念を,自らの精神のうちから排除することが可能であるかどうかということが,最初の問題になってくると思います。このときに重要になってくるのが,たとえそれが混乱した観念であるとはしても,観念がある知性intellectusのうちに,有限finitumであれ無限infinitumであれある知性のうちにあるといわれるとき,そこにはある積極的な意味が含まれているということを含意している,第二部定理三三であるといえると思います。つまりどんな観念も,それ自体のうちにある消極的なもの,すなわち虚偽falsitasとか誤謬errorといわれるべきものを抱えているというわけではないのです。
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ナイトライト&第二部定理一七備考まとめ①

2007-07-22 20:18:45 | 血統
 シンガポール航空国際カップGⅠを制したシャドウゲイト。この馬の母系も,ある程度の歴史を日本で刻んでいます。
                
 日本での祖となっているのは1953年にイギリスで産まれたナイトライト(22-d)という馬。現在まで続いているのは主に3系統あるのですが,最も繁栄しているのは,日本に来て最初に産んだナイトアンドデイから続く系統。社台を中心に子孫を増やし,シャドウゲイトもこの系統に属します。このナイトアンドデイの系統も主にふたつに分かれ,そのうちのひとつが今回シャドウゲイトが出たシャダイプリマの系統ということになります。
 重賞で活躍した馬は多いのですが,大レースを制覇したのはこの系統ではシャドウゲイトが2頭目。前の1頭は,同じシャダイプリマの系統に属するダイナコスモスという馬で,1986年の皐月賞を勝っています。これはちょうど僕の競馬キャリアの始まったダービーの直前の皐月賞なので,後に後ろを離して抜け出した2頭による叩き合いを制したビデオ映像は見ていますが,ライブでは知りません。つまり僕の競馬キャリアの中では,シャドウゲイトがこの系統の初の大レース勝ち馬ということになります。
 祖先が輸入されて20年以上が経ってようやく大レースの勝ち馬が輩出。そしてまた20年以上経過して2頭目の大レース勝ち馬として海外のGⅠを勝つ馬が出る。こうしたことを経験できるのも競馬の楽しみのひとつです。

 今回は『エチカ』第二部定理一七備考,とりわけその中の一文についてそれをテーマに設定して考えてみました。そこにおける問題の所在というのは,人間の精神mens humanaが事物を表象するimaginariというのは,人間の精神のうちにある混乱した観念idea inadaequataが生じるということだと考えられるにも関わらず,スピノザが,ある場合にはそれを人間の精神の力potentiaであるとみなしているという点です。つまり,混乱した観念は十全な観念idea adaequataとの対比でいえば,有と無の関係において無に属するものであり,また,スピノザの哲学における力と実在性の考え方からすれば,混乱した観念は無,すなわち非実在的なものですから,それは最も無力impotentiaであるようなもの,力といわれるのとは反対の意味で無力なものであると考えられるべきであるのに,ここでは,ある条件つきとはいえ,それを力とみなしているという点に関係しています。
 このためにはまず,表象imaginatioというものの性質について考えることが不可欠であるといえます。僕がスピノザがいうところの表象の種類として理解するのは,一般的なことばでそれをいうなら,知覚perceptio,想起memoria,想像のみっつであって,そのうち知覚については,自分自身の身体corpusの知覚については第二部定理一九,それ以外の外部の物体corpusの知覚に関しては第二部定理一七,想起に関しては第二部定理一七系,想像に関しては『エチカ』においてはそれ単独の説明はないものの,想起と同じ第二部定理一七系によって,それがいかにして人間の精神のうちに生じるのかということを説明することができます。そしてこれらはすべて,第二部定理一六系二と関連付けられると思います。
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サマーナイトフェスティバル&混乱した観念の実在性

2007-07-21 22:38:08 | 競輪
 今年で3回目を迎えたサマーナイトフェスティバル。日本語だと夏の夜祭。決勝の並びは,伏見ー鈴木の東日本,永井ー浜口ー前田の中部近畿,三宅ー小倉の瀬戸内と,手島に小野。
 Sを三宅選手が取って前受け。3番手に伏見選手,5番手に手島選手,7番手から永井選手で周回。永井選手の動きは早く,残り2周半くらいから一気の上昇。そのままホームで前を抑えました。手島選手がこれを追って,永井,浜口,前田,手島,小野,三宅,小倉,伏見,鈴木で一本棒。打鐘から永井選手はそのまま発進。このスピードがほとんど衰えなかったので4番手以降の自力選手はほとんど動けず見せ場なし。結局,直線で番手から発進した浜口選手が永井選手を差し切って優勝。永井選手が2着。バック9番手となった鈴木選手もよく伸びましたが,浜口選手と永井選手の中を割った前田選手が写真判定の3着に食い込み,中部近畿の上位独占となりました。
 優勝した岐阜の浜口高彰選手は長く中部の司令塔として活躍してきたベテラン選手。2001年の全日本選抜以来のビッグ制覇。今日は永井選手の先行が予想され,あるいは競りもあるかと思われたのですが,無風で回ってこられたのが最大の勝因でしょう。
 むしろ賞賛されるべきは先行して2着に残った永井選手の方で,早めに抑えた後,あまり流すことなく先行し,それで後ろの動きを封じてしまったのですから大したものです。もとより期待の大きかった選手ですが,ここにきて本格化してきたと感じさせます。

 混乱した観念があるといい得るとしたら,それは人間の精神のような,有限である知性のうちにのみあるのであって,神の無限知性のうちにはないということは,第二部定理七系の意味から明らかです。そこでこの場合に,ある有限知性のうちにある混乱した観念を,それ単独でみるならば,これはまさに十全な観念がであるのに対して,無であるということになるのであって,したがって本来は,混乱した観念があるということさえ不条理であるということになります。
 しかし混乱した観念というのは,実際にはそれ単独では考えてはいけないような観念なのです。これが,たとえば第二部定理一一系の意味が明らかにしていることだと僕は思います。すなわち,ある人間の精神のうちにXの混乱した観念があるというのは,神との関係で考えた場合には,神のうちにXの十全な観念があるということを意味しているのです。これはXが,こりん星のような明らかに形相的な意味で非実在的である,つまりであると考えられる場合でも同様であるということは,別の観点からすでに説明しました。
 表象の実在性というのは,これと同じ方法で説明ができると思います。そしてもちろんそれは,表象の対象がどのようなものであっても同一であるということになります。したがって,羽生三冠による読み筋の表象と,小倉優子によるこりん星の表象が同一の意味で力とみなされなければならないように,それらは同一の意味で実在的であるといえることになると思います。
 このテーマはこれで終了です。明日からまとめに入ります。
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日テレ杯&表象の実在性

2007-07-20 23:38:49 | NOAH
 NOAHの先シリーズでは,6チームが参加しての日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグも行われ,日本武道館大会では公式戦2試合が行われました。
 まず先に行われたのが丸藤選手とDDTの飯伏幸太選手のチームと,KENTA選手とフリー(といってもNOAHには毎シリーズ参戦していますが)の石森太二選手のチームの試合。この試合は素晴らしい試合でした。この日は関東地方に台風が接近していて,湿度が高かったという影響で,ロープが滑りやすくなっていたと思われ,そのためにひやりとする場面も見受けられましたが,とにかく全員が20代ということもあり,ほとんど動きの止まることのない試合。その中でも,この日は石森選手の動きのよさが僕には目立って感じられました。試合の方はKENTA選手がGo2スリープで飯伏選手を降しています。勝てば優勝だった丸藤組はこれで脱落。
 こうなると次の,現GHCジュニアタッグ王者の鈴木鼓太郎選手とリッキー・マルビン選手組と前王者のブリスコ兄弟の試合が注目の的に。勝った方がKENTA組と優勝決定戦という一番でしたが,これが時間切れの引分けとなり,そのままKENTA組の優勝となってしまったために場内が珍しいほど騒然としました。
 表彰式,記念撮影の後,KENTA選手がマイクアピール。ここで王者組挑戦を表明しましたが,この中で,王者組がまずい試合をしたから場内の雰囲気が悪くなったという趣旨のことをいったのは,単にアピールとしてだけではなく,この雰囲気を沈静化させるという意味でも効果的であったと思います。

 明日はサマーナイトフェスティバルの決勝です。発走は8時半です。

 最後にもうひとつ,次の問題を解決しておきます。たとえば羽生三冠の精神のうちにある読み筋の表象も小倉優子の精神のうちにあるこりん星の表象も,その表象が力であるといわれる場合には,力の同一性がなければ,すなわち,それらは同じ意味において力であるといわれなければなりません。ところで,力と実在性というのは,スピノザの哲学においては第一義的な意味で関係していますから,それらが同じ意味で力であるといわれる場合には,同じ意味で実在的であるといわれなければならないということを意味します。しかし表象というのは混乱した観念で,混乱した観念は有と無の関係では無である,すなわち非実在的であるということですから,これは非実在的なふたつのものについてそれが力である,すなわち,第一義的には最も無力,力と反対の意味で無力とされなければならないものについて力であると規定しているので,部分的には不条理であるという問題です。
 混乱した観念が十全な観念の反対の意味においていわれるとき,十全な観念が有であるのに対して混乱した観念が無であるということは,スピノザの哲学におけるいわばひとつの基本原則のようなもので,これを覆すことはできないと僕は考えます。そもそもここでのテーマというのは,第二部定理一七備考の一文の中で,スピノザが,第一義的には無力と解されなければならないもについて,それを力であると規定しているということから出発しています。これに対する結論はもう出ていると僕は考えていますが,もう一度,この点について説明して,このテーマを終わらせることにします。
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黒への挑戦&力の現実性

2007-07-19 21:23:04 | NOAH
 シリーズ中に挑戦権の獲得に成功したの王者である志賀賢太郎選手と川畑輝鎮選手。この大一番を控え,川畑選手は単独で山篭りに入りました。秋山選手はいまどき山篭りといっていましたが,いかにも昭和のレスラーの香りを漂わせる川畑選手らしく,僕などはいいのではないかと思いました。
 いつもは北島三郎の兄弟仁義で入場してくるふたりですが,この日は鳥羽一郎の兄弟船。試合の方は前半は志賀選手が捕まってしまい,ほとんど一方的といえる内容でしたが,その後,力皇選手が脳震盪を起こすというアクシデントがあったようで,秋山選手が孤立。それもあって,僕が想像していたよりはずっと試合らしくなりました。少なくとも僕が心配していたように,武道館の雰囲気に飲まれてしまうということはふたりともなかったように思います。とくに川畑選手の奮戦は目を瞠るだけのものがありました。
 ただ,最後は力の差を見せ付けられる形で力皇選手の変型の無双の前に川畑選手が轟沈。それでも,今後に期待を抱かせるだけの内容はあったように思え,この点は収穫だったといえる一戦であったと思います。しかし川畑選手は試合後に救急車で病院に運ばれたとのことで心配です。

 明日からは2日制のGⅡ,サマーナイトフェスティバル。今年は松戸です。

 小倉優子の精神のうちにあるこりん星の表象も,棋士の精神のうちにある読み筋の局面の表象も,その表象が混乱した観念であるという認識と共にある限り,力という観点からは,力の同一性を有しているということは,力と実在性についての考え方からしても,これでよいと僕は思います。しかし,これらをそれぞれにとっての力であるとみなす場合に,もうひとつ,注意しておかなければならないことがあると僕は考えています。スピノザの哲学においてにはもうひとつの性質,いわば,力の現実性という性質があるからです。
 スピノザは力というものを常に現実的なものと解し,可能的なものとしては認めません。したがって,棋士,たとえば羽生三冠に局面を読む力があるというとき,これは実際に局面を読んでいるときの,もちろんこれは対局しているという場合には限らず,将棋について考えている場合であれば構わないわけですが,そのときに実際に読んでいる場合の羽生三冠にそういう力があるという意味であって,そうでない場合の羽生三冠にその力があるということはできないということになります。なぜ力はそのように現実的なもので,可能的なものと考えられてはならないかということはまた別の問題なのでここでは扱いませんが,僕がここで棋士にとっての力とか,小倉優子にとっての力とかいう場合には,このような意味を含んでいるということは理解しておいてください。
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91歳対決&力と実在性

2007-07-18 21:12:24 | NOAH
 バイソン・スミス選手を相手に防衛した三沢光晴選手の4度目の防衛戦は,挑戦者に田上明選手を迎え,16日の日本武道館大会で予定通りに行われました。
 三沢選手と田上選手はほとんどのシーンでチームを結成するよりは戦うことの方が多かったわけですが,三沢選手が全日本の社長を辞任し退社した当時,田上選手は選手会長として選手をまとめる立場にあり,三沢選手のNOAH旗揚げとともにほとんどの選手をこちらに移籍させたわけで,そういう意味での信頼関係はずっとあったと考えていいでしょう。すでに三沢選手が45歳,田上選手も46歳ということで,常識的に考えればこういう大舞台での対決というのはこれが最後になるであろうことが予想されますので,僕としても感慨深い試合でした。
 入場時,田上選手の表情からは緊張の色を感じ取ったのですが,試合になればそれも別。両者がどういう思いで戦ったのかは僕などには想像できませんが,共にトペを出し合うなど,攻撃するにしろ相手の技を受けるにしろ,何となく試合そのものを楽しんでいるという印象を強く受けました。
 最後はブレーンバスターのように担ぎ上げてのエメラルドフロウジョンを決めて三沢選手の防衛。武道館のメーンのGHC戦では,勝利選手がリング上でインタビューを受けるのが恒例ですが,この日の三沢選手はかつてみたことがないほどにえらくハイテンションの上に上機嫌。これもかなり印象的でした。次の防衛戦には高山選手を推す声がファンの間から上がりましたが,これはまだ未定です。

 確かに,棋士による読み筋の表象と,小倉優子によるこりん星の表象が,それが力であるといわれる場合に,同一性を有していなければならないということは,どことなく不自然な感じを受けなくもありませんし,そういう印象という点に関しては,僕自身もそのように感じないわけではありません。しかし,あるものに力があるということは,部分的にはそのものについてのある完全性を含意し,『エチカ』においては事物の完全性というのがその事物の実在性と同一の意味であるという第二部定義六に鑑みれば,これは確かにそうでなければならないと僕は考えるのです。
 僕は事物の実在性というものをスピノザの哲学において考えるとき,それは力という観点からみた限りで,その事物の本性そのものにほかならないと思っています。したがってあるものにある力があるということは,第一義的には,そのあるものにある実在性があるということを意味しなければなりません。よって,Aの力とBの力に何らかの差異を認めるとするなら,Aの実在性とBの実在性の間に何らかの差異を見出さなければならないということになります。
 ところが,棋士の読み筋も,小倉優子のこりん星も,実在性という観点から考えるならばそこには一切の差異を見出すことができません。だから,棋士による読み筋の表象というのが,棋士にとってある力であるといわれるのであれば,それとまったく同じ意味において,小倉優子のこりん星の表象も,小倉優子にとっての力であるといわれなければならないと思うのです。
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四日市記念&力の同一性

2007-07-17 21:04:18 | 競輪
 台風の影響を考慮して,昨日に1日順延された四日市記念の決勝(動画)。
 Sは渡辺選手が取って佐々木選手の前受け。以下,3番手に井上選手,5番手に小嶋選手,8番手から成田選手で周回。残り2周のホームで上昇してきた成田選手が佐々木選手を抑えると,小嶋選手がこのラインを追走し,さらに成田選手を抑えました。4番手は内で成田選手,外で井上選手の併走。打鐘過ぎから井上選手が発進。前の小嶋選手もこれに合わせて発進し,先行争いになりましたが,これは岩見選手のブロックも効果的で小嶋選手の先行になりました。ところがブロックにいっていた岩見選手は離れてしまい,小嶋選手マークというより第二先行に近い形に。ここを後方から佐々木選手と渡辺選手で一気の捲り。千切っていた小嶋選手,最後は疲れたのか流したのか分かりませんが失速したので詰め寄られましたが,貯金がものをいい逃げ切って優勝。捲った佐々木選手が2着で渡辺選手が3着という結果でした。
 優勝した石川の小嶋敬二選手は寛仁親王牌に続いての優勝。記念競輪に限れば2月の当地・四日市以来。岩見選手のアシストが大きかったのも事実ですが,逃げ切ってのものですから立派。年齢的には衰えてきてもむしろおかしくないと思えるのですが,今が全盛期と感じられるような強さ。一体これがいつまで続くのか,興味深いところです。

 棋士が局面を多く読むということは,スピノザの哲学の考え方からすれば,それが対局の勝利に結びつくから棋士の力とされるのではなくて,単にまだ出現していない局面の表象を,その棋士が混乱した観念であると認識しているからこそ力とされるわけです。僕たちがこれを確かに棋士の力であると思いやすいのは,むしろそれが勝利に結びつきやすいから,つまり対局を勝利するのに役立つと考えるからですが,実際にはこのことは,表象が力とされることには何の関係もありません。つまり一般的にいうならば,ある人間の精神のうちにある事柄が表象されるとき,この表象がその人間に役に立つか立たないかということは,その表象が力とされることとは一切の関係がないのです。
 そこでこのことに注意するなら,もしもこの観点において棋士が局面を読む表象が棋士にとっての力であるということを認める場合には,それを認めるのと同じ論理構成によって,たとえば小倉優子がこりん星を表象することも,あるいはある人間がペガサスを表象することも,少なくともそれが混乱した観念であると認識されている場合には,同じように力であると認めなければならないことになります。確かに棋士の局面の表象はそれ自体で勝利に役立つのに対し,小倉優子によるこりん星の表象は,それ自体では何の役にも立たないでしょうが,役立つかどうかということと,それが力であるとされることは何の関係もないからです。
 したがって,表象が混乱した観念であると認識されている場合に,それが表象する人間の力であるといわれる場合,この力の意味はどんな場合においても同一であるということになります。すなわち,棋士による局面の表象が棋士にとっての力であるといわれるのとまったく同様の意味において,小倉優子によるこりん星の表象は小倉優子にとっての力であるといわれなければならないのです。
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