スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典エンプレス杯&第四部定理四五証明

2018-02-28 19:08:08 | 地方競馬
 キヨフジ記念の第64回エンプレス杯
                                     
 クラカルメンは発馬で躓き大きく離されました。騎手が戻って今日はプリンシアコメータが逃げるだろうと思っていたのですが,先手を奪ったのはサルサディオーネ。プリンシアコメータは2番手で3番手にアンジュデジール,ステップオブダンス,ミッシングリンクの3頭。6番手にラインハートとワンミリオンス。この後ろは離れて7番手にエミノマユアクで8番手がジュンアイノキミとティルヴィング。また離れてクラカルメンで1周目の向正面を通過。正面に入ると隊列が凝縮。3番手はアンジュデジールとミッシングリンクとなり,5番手にラインハート,ステップオブダンス,ワンミリオンスでここまで先行集団。中団がジュンアイノキミ,ティルヴィング,エミノマユアクの3頭で最後尾にクラカルメン。1周目の向正面の分だけのハイペース。
 2周目の向正面に入ってティルヴィングは先行勢の直後に。あとは離れてエミノマユアク,ジュンアイノキミ,クラカルメンで,それぞれの差も大きくなりました。3コーナーを回ってサルサディオーネが差を広げにかかり,ついていったのがプリンシアコメータ。内にアンジュデジール,外からワンミリオンス,アンジュデジールの後ろにラインハートで勝負圏内はこの5頭。直線に入ってもサルサディオーネとプリンシアコメータの差はなかなか詰まっていかず,プリンシアコメータの外からアンジュデジールが伸び,内の2頭を捕えて優勝。プリンシアコメータがフィニッシュでようやくサルサディオーネに追いつき,2着は大接戦。写真判定の結果,プリンシアコメータが1馬身半差で2着。サルサディオーネはハナ差の3着。
 優勝したアンジュデジールは昨年のスパーキングレディーカップ以来の勝利で重賞2勝目。プリンシアコメータに対しては分が悪かったのですが,それはおそらくプリンシアコメータは逃げて持ち味を発揮する馬で,過去の対戦時はそういう展開になっていたからだったのでしょう。またこちらは4歳で,成長力もあったとも解せそうです。戦績からは川崎コースに高い適性がありそうなので,他場で割り引く必要まではないかもしれませんが,川崎では少し増しておくのがよいかもしれません。父はディープインパクト。母の半弟に昨年の川崎記念を勝っている現役のオールブラッシュ。Ange Desirはフランス語で天使の欲望。
 騎乗した横山典弘騎手は第42回と43回の連覇があり,22年ぶりのエンプレス杯3勝目。回数と年数の差が合っていないのは,当時は夏に行われていたため。管理している昆貢調教師はエンプレス杯初勝利。

 第四部定理三五によれば,人間は理性ratioに従う限りで本性naturaの上で一致します。一方,第三部定理三九によれば,人間はある人間を憎む限りで,その人間を滅ぼそうとします。つまり人間は別の人間を憎む限りで,自分の本性と一致するものを滅ぼそうとするのです。このゆえにスピノザは憎しみodiumを一律的に否定します。だから第四部定理四五では,憎しみは善bonumではあり得ないといわれているのです。
 ただし,第四部定理四五を証明する上では,これだけではまだ不十分なところがあります。というのは,本性が一致するものを滅ぼそうとすることは善ではあり得ないということは,それ自体で明らかであるとはいえないからです。したがってこの部分も明らかにしておかなければなりません。
 このことの根拠となるのは第四部定理三一です。この定理Propositioから理解できるように,たとえばBの本性がAと一致するのであれば,BはAにとっては必然的にnecessario善です。もちろん同時に,この場合にはBにとってAは善であることになります。しかるに人間の本性natura humanaは人間が理性に従う限りでは必然的に一致するのですから,すべての人間が理性に従う限りにおいて,人間は人間に対して必然的に善であるということになります。そのことを具体的に示しているのが第四部定理三五系一であるということになります。この系Corollariumでは,善であるとはいわれずに有益であるといわれていますが,すでに示したように,有益であると確知するcerto scimusものが善なのですから,これは善である,系の文章に倣えば,人間にとって理性に従う人間ほど善なるいかなる個物res singularisも自然のうちには存在しないということになるでしょう。まして,人間は理性に従う限りでは,これらのことを単に確知するというよりは真に認識するのですから,Aという人間が理性に従っているなら,Aは自分にとって最も有益な個物,いい換えれば最も善である個物は理性に従う別の人間であるということを真に認識するということになります。
 よって,憎しみは,人間にとって最も有益であるべき個物,最も善である個物を滅ぼそうとする感情affectusです。したがってこの感情が善であるということ,有益であるということはあり得ないのです。
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鶴田のひとり急所打ち&第三部定理二八

2018-02-27 19:23:46 | NOAH
 三沢と鶴田の試合の前に,ジャンボ・鶴田に対する馬場の説得があったということは事実であったにせよ,その説得の内容について柳澤が『1964年のジャイアント馬場』の中で示している推測は誤りであるということの根拠をここに示しておきます。何度もいっていることですが,この推測は柳澤が著書の全体の中で論述している内容とは矛盾しているのであり,よってこの推測が誤りであるということは,むしろ著書全体の正当性を補強することになります。
                                
 ごく単純にいえば,もしも柳澤の推測が正しいと仮定するなら,鶴田は試合を決着させる方法としての「ひとり急所打ち」というギミックを,馬場から説得されるまで知らないでいたということになります。ですがこの仮定自体が誤りなのです。いい換えれば鶴田はそういうギミックの存在をすでに知っていました。なぜなら現に鶴田自身がそれ以前に,この「ひとり急所打ち」を用いることによって試合に負けていたという事実があるからです。
 これはネイチャーボーイがNWA王者時代で,鶴田がフレアーに挑戦した試合です。その試合は三本勝負で,たぶん一対一となった後の三本目で,鶴田がドロップキックのような飛び技の攻撃を仕掛けたときにフレアーがそれを避け,鶴田はトップロープに急所を打ち付けて悶絶。そのまま3カウントを奪われてタイトル獲得に失敗しました。僕の記憶の中にはあやふやな部分があり,おそらく1981年10月4日の蔵前国技館での試合ではないかと思いますが,もしその試合でなくとも,フレアーがNWAのチャンピオンで,鶴田がそれに挑戦した試合の中に,このような結末を迎えた試合があったことだけは確実です。
 ですから,馬場が鶴田を説得するとしても,このような説得をすること自体があり得ないですし,まして鶴田が初めてそれを知って受け入れたということは絶対にないです。そもそもこれはこの試合の柳澤による解釈に沿ったもので,僕の解釈とは異なるのですが,もし柳澤の解釈が正しいとしても,説得に関する推測は誤謬です。

 第三部定理三九は,人間の現実的本性actualis essentiaは喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するということを理解していれば証明Demonstratioは難しくありません。スピノザの論証にはこの現実的本性を示す定理Propositioとして第三部定理二八が援用されていますので,ここでもその定理をみておくことにします。
 「我々は,喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める」。
 スピノザが努めるconariというときには,努力するという意味であるよりそういう傾向を有する,あるいはそういう現実的本性を力potentiaとして有するという意味で,コナトゥスconatusについて言及しようとしています。つまりこの定理は,僕たちは喜びを齎すと表象するimaginariことを希求し,悲しみを齎すと表象することに対してはそれを忌避する,あるいは破壊するという現実的本性を有しているということを含意しています。
 憎しみodiumは第三部諸感情の定義七にあるように,外部の原因cause externaeを伴った悲しみです。つまり僕たちが憎しみを感じるということと,そのときに表象されている外部の原因が自分に悲しみを齎していると認識されるということは,それを感情affectusとしてみるか認識cognitioとしてみるかというだけの相違しかありません。よってAを憎むということはAを悲しみの原因として認識しているということであり,この定理に従えば,僕たちはAを忌避しまた破壊しようとする現実的本性を有しているということになります。これで第三部定理三九の前半部分は証明されています。
 ただしこのとき,Aを破壊することによってAを憎むこと以上の悲しみが自分に降りかかる,いい換えればAの存在以上の害悪を自分が被ると表象するなら,僕たちはAを忌避しまた破壊することを断念します。なぜなら小さな悲しみより大きな悲しみの方が避けるべき悲しみであるなら,大きな悲しみが到来することを忌避するのが僕たちの現実的本性であるということも,この第三部定理二八によって明らかだからです。
 なお第三部定理三九でいわれている愛amorについては,外部の原因を伴った喜びであるということから同じ仕方で証明できます。
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アルパカル&第三部定理三九

2018-02-26 19:01:05 | 哲学
 『スピノザ―ナ15号』の高木久夫の論文では,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の中にはある捏造が含まれていると指摘されています。これはスピノザが第十五章の冒頭で,聖書に理性ratioが従うべきだと主張する懐疑論者scepticiと,逆に聖書が理性に従うべきだと主張する独断論者dogmaticiの双方を批判していることと関連します。高木の論文を読む限り,確かにある種の捏造があったとするのは事実だと僕は考えます。しかしそれより先に,それと関連した別の事項について,高木の論文だけでは分からないことがありますので,これを解説しておきます。
                                     
 スピノザは『神学・政治論』の中で,独断論者の代表としてマイモニデスMoses Ben Maimonidesをあげています。そしてマイモニデスの論旨については,第七章で詳しく批判しています。こちらの方は問題ありません。これに対して懐疑論者としてはAlpakharという人物をあげています。
 このAlpakharというのはラテン語名なのですが,アラビア語名をラテン語に翻訳するとき,この訳名は違和感があると高木は唱えています。なので高木は,『神学・政治論』に忠実に訳すならこの名前はアルパカールということになるけれども,論文の中ではアルファカールというべきだと主張しています。つまり捏造以前の段階で,一種の誤訳があったとみているわけです。
 ただ,この高木の主張は正当であるといいきれない面があるのです。僕が使用している『神学・政治論』は光文社版で,訳者である吉田量彦は,アルパカルと,スピノザのラテン語版に忠実に訳しています。そしてこの部分には訳注が与えられていて,この人物の表記は不統一であるとしています。アルファカールあるいはアルファカルという例示はありませんが,アルファハルという,高木の指摘にはない表記が一例として示されています。
 マイモニデスと比べると,この人物はさほど有名な人物ではありません。そのために表記の不一致が生じているのだと思います。ですから高木が主張しているように,必ずしもスピノザがおかしな翻訳をしたというようには解さなくてもいいのではないかと僕は判断します。

 それが諸悪の根源となるような感情affectusなら,第四部定理四五にあるように,憎しみodium,なお特定すれば人間の人間に対する憎しみは善bonumすなわち有益ではあり得ません。もちろんそれ自体で悪malumといってもいいでしょうが,それ自体が悪であるということより,悪を産出する感情であるということを強調したかったために,スピノザはそこではあえて人間の人間に対する憎しみをそれ自体では悪とはいわずに,人間にとって善ではあり得ないといったのだという想定は,あり得ない想定ではないように僕には思えます。
 いずれにせよこれは僕の想定で,スピノザの真意がどこにあったのかということまでは分かりません。ただ,人間の人間に対する憎しみが,人間にとって諸々の悪すなわち有害を産出する感情であるとスピノザがみていたということは間違いないと僕は考えます。そしてなぜそれが人間にとって諸悪の根源であるのかということについての根拠としては,ふたつのことがあげられます。
 そのうちのひとつは第四部定理三五で,人間は理性ratioに従う限りでは,すなわち能動的である限りではその本性naturaが必然的にnecessario一致するということです。この定理Propositioはたとえば第四部定理七〇備考で,自由の人homo liberが無知の人の親切をできるだけ避けるようにするのであって,絶対に避けようとするのではないということの根拠にもなっていましたが,それと同じような意味において,憎しみが諸悪の根源であるということの根拠になるのです。
 もうひとつの根拠になるのが第三部定理三九です。そこでは次のようにいわれています。
 「ある人を憎む者はその人に対して悪〔害悪〕を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合にはこの限りではない。また反対に,ある人を愛する者は同じ条件のもとに,その人に対して善〔親切〕をなそうと努めるであろう」。
 これでみれば分かるように,ある人間Aが別の人間Bを憎めば,AはBに害悪すなわち悲しみtristitiaを与えようとします。しかしもしAもBも理性に従っていると仮定するなら,AとBの本性は一致します。つまりAは本性が一致し得るものに害悪を与えようとするのです。
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春日賞争覇戦&諸悪の根源

2018-02-25 20:36:11 | 競輪
 奈良記念の決勝。並びは早坂‐竹内の宮城,武田‐河野の茨城,永井に香川,三谷竜生‐三谷将太‐稲垣の近畿。
 早坂がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に三谷竜生,6番手に武田,8番手に永井で周回。残り3周のホームで武田から上昇。これに併せて三谷竜生も発進。早坂は引きました。三谷竜生が誘導の後ろに入って武田は外。さらにその外を永井が上昇。バックで誘導を斬ったのは永井。武田が香川の後ろに入り,三谷竜生は河野の後ろに。早めに引いた早坂はこの隊列になってから残り2周のホームの入口から発進。打鐘で永井を叩いて早坂のかまし先行に。叩かれた永井は動けず,ホームから武田が発進。しかしバックで竹内の牽制を受けて失速。後ろからになった三谷竜生はこのあおりを受けたもののよく立て直して再び踏むと,竹内を捲り切って近畿勢の争いに。それぞれの差は詰まったものの並びは変わらず,優勝は三谷竜生。三谷将太が半車身差で2着。稲垣が1車輪差の3着で近畿勢の上位独占。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は高松記念以来の優勝で記念競輪2勝目。このレースは三谷竜生がどのような走りをするのかが焦点。自分が勝つようなレースをすればラインの厚みが生きそうですし,逆に後ろを引き出すようなレースをすれば稲垣が突き抜けるという結果まであるのではないかとみていました。どのような展開になると予想していたかは分かりませんが,結果的には自分が勝てる展開に。力を出しきった上での優勝で,こういう勝ち方は価値が高いと思います。

 第四部定理四五でいわれている事柄についてもうひとつ目を向けておきたいことがあります。それはこの定理Propositioにおいて,憎しみodiumが善bonumではあり得ない,すなわち有益ではあり得ないといわれているのであって,それ自体で悪malumである,つまりそれ自体で有害であるとはいわれていないことです。確かにスピノザの哲学における善悪は,複数のもの比較の上で成立する概念notioですが,あるものが善あるいは有益ではないからといって,それは悪であるすなわち有害であると断定できるものではありません。実際にあるものは僕たちにとって,善ではないけれども悪でもないということ,いい換えれば有益ではないけれども有害でもないということは大いにあり得るからです。したがってこの定理はその文言自体でいえば,憎しみ,といっても第四部定理四五備考にもあるように,それは人間の人間に対する憎しみに限定されるわけですが,そうした憎しみについて絶対的な意味で否定しているわけではなく,部分的に否定しているにすぎないと解する余地があることになります。
                                
 結論からいえば,スピノザは人間の人間に対する憎しみを部分的に否定しているのではなく,絶対的に否定していると僕は解します。いい換えればある人間がほかの人間を憎むことは,当事者だけでなくて人間全体にとって有害であるといっているのであり,有益なことではあり得ないといっているのではないと解します。もっとも僕はすでに示したように,スピノザは憎しみについては一律的に否定していると解しているのですから,この定理の文言を僕がそう解するということは,当然といえば当然であるかもしれません。
 ではなぜスピノザはここで,それを絶対的な否定とはっきりと解せるような文言では記述せず,部分的な否定とも解せるような記述の仕方をしたのでしょうか。このことについては僕は確たることはいえませんが,スピノザは人間全体にとって有害であること,いい換えれば人間全体にとっての悪である事柄の根源的な感情affectusとして憎しみをみていたからではないかとは思います。いい換えれば絶対的な否定を産出する諸悪の根源の感情として憎しみをみていたのではないかと思うのです。
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棋王戦&第四部定理四五備考

2018-02-24 19:31:17 | 将棋
 北國新聞会館で指された第43期棋王戦五番勝負第二局。
 永瀬拓矢七段の先手で角換り。先手の早繰り銀に後手の渡辺明棋王が腰掛銀で対抗。戦型自体が後手に分のあるもので,中盤はリードしていたのではないかと思います。
                                     
 先手が歩を打った局面。ここは☖同桂か☖同銀の二択と思われますが☖同銀の方を選びました。となると先手は☗2五桂の一手で☖2四銀。ここも先手は☗3三歩と打つほかないと思います。後手は☖同桂☗同桂☖同王と進めました。最後は☖同銀もあるのでしょうが,後手の対応は素直なもので,このように応じて悪くないと判断していたのだと推測します。そしてその推測が正しければ,誤算あるいは見落としがあったということでしょう。
 先手が☗5一角と打って王手を掛けたのに対しても☖4二銀と最も素直に応じました。
                                     
 ここで先手は角を逃げずに☗2五歩と打ちましたが,後手はこの手を軽視していたのではないかと思います。
 ☖3五銀と逃げて☗1五角と打たれるのはひどいので論外。☖5一銀と角を取りたいところですが☗2四歩☖同歩☗3五角と飛車取りに打たれていけないようです。4六の飛車は第1図の少し前に,先手が反撃に出る直前に9六から回ってきたものですが,後手はそのあたりの攻め方にすでに問題があったのかもしれません。
 ☖2五同銀は消去法で選ばれたような手。それでも先手は☗1五角の王手を入れて☖2四桂に☗2五飛と銀を取りました。
 ここも☖5一銀と角を取ってしまうと☗3五銀と飛車取りに打たれて後手がいけないようです。なので☖3四銀と飛車取りに上がって受けたのですがそこで☗4二角成と切られました。
 これを☖同王と取ると☗2四飛と飛車の方を切られて王手飛車を喰らいます。なので☖同金としましたが☗2二銀とただのところに打つのがうまい一手。これも☖同王だと同じ手順で今度は飛車金両取りを喰らいます。よって☖4三王と逃げましたが☗5五桂☖同金☗同飛で飛車が生還しました。
                                     
 第3図まで進むと互いの玉の危険度と駒の損得の差で先手がはっきりとよくなっています。この将棋はここから後手がよく追い込みましたが届かず,先手の勝ちになりました。
 永瀬七段が勝って1勝1敗。第三局は来月11日です。

 第四部定理四五は,単に憎しみodiumが善bonumではあり得ないといっているのではなく,決して善ではあり得ないと強調されています。したがってこの強調部分に重きを置けば,憎しみは単に有益ではあり得ないのではなく,絶対に有益ではあり得ないということになります。このゆえにスピノザは憎しみを一律に否定すると僕は解します。そして憤慨indignatioもまた憎しみの一種であるがゆえに,不安metusとは異なり総じて否定的に記述されることになるのです。よって憤慨には正当も不当もなく,むしろそれは一律的に有害で否定されるべき感情affectusであるということになるでしょう。
 なお,ここでいわれている憎しみは,人間の人間に対する憎しみだけを意味しています。人間以外のものが憎しみを感じるといっていいかは不明ですが,そのことは眼中に置かれていません。また逆に,人間が憎しみを感じるのだとしても,それは人間に対する憎しみにだけ重点が置かれているのであって,人間以外のものに対する憎しみについていわれているのではありません。このことはこの定理Propositioの直後に示されている短い備考Scholiumから分かります。
 「私がここならびに以下において,憎しみを人間に対する憎しみとのみ解することに注意されたい」。
 これはどういうことかというと,それが決して善ではあり得ないということ,あるいは絶対に有益ではあり得ないということが,何にとって善ではなくまた何にとって有益ではあり得ないかということと関係します。いうまでもなくそれは,人間にとって善ではあり得ないし,人間にとって有益ではあり得ないということです。要するにスピノザはそのことをここで示したかったのであり,そのために憎しみを人間による人間に対する憎しみに限定しているのです。注意しなければならないのは,第三部諸感情の定義七により,外部の原因の観念を伴った悲しみtristitia, concomitante idea cause externaeはすべて憎しみといわれるのですから,人間は人間だけを対象として憎しみを感じるわけではありません。したがってもしも人間が人間以外のものに対して憎しみを感じるなら,それは必ずしも善ではあり得ないとはいえないことになりますし,同様に有益であり得ないとも断定できないことになります。
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南三条②&善と有益

2018-02-23 19:01:45 | 歌・小説
 「南三条」は,シチュエーションだけでいえば長い人生の中のほんの5分とか10分の短い場面が切り取られています。ただその間の出来事が,歌い手である女のある恋物語と連関しています。女がそれを歌うことでこの楽曲のダイナミズムは成立するのですが,そのダイナミズムは聴き手の中に生じるだけでなく,歌い手自身の中にも発生しています。というより,歌い手にとってその短い時間の中でそれまで思い込んでいたことが覆されるために,聴き手にとってもどんでん返しが生じたかのように思えるようにできているのです。
                                     
 女は地下鉄の駅に向かう人通りの多い通路を歩いています。そのときに,かつては知り合いであったけれども今は縁遠くなっている女がその女を見つけるのです。

     突然袖引かれ見れば
     息をきらしてる笑顔
     なんてなつかしい,と汗かいて
     忘れたい忘れないあの日の女


 見つけた方の女は,歌い手である女を見つけて,少し遠くの方から走ってきたのでしょう。「なんて懐かしい」ということばからも,その女が歌い手に会いたいと思っていたことは分かります。けれども歌い手にとってはこの女は,忘れたいけれども忘れられないような女であったわけです。

     流れてゆく人の流れ何ひとつも知らなくて
     ただ二人は親しそうに見えるだろう


 聴き手はしかし,この時点ですでにこのふたりの間にはかつて何事かがあったのだということは分かります。それが何であったのかということは,歌い手がそう思い込んでいたことなのですが,でも事実はそれとは違っていたのです。

 スピノザは第四部定義一で,我々が我々にとって有益と確知するcerto scimusものが善bonumであるといっています。このいい方は,我々にとって共通する善があるということを仄めかしているといえますが,実際に意味しているところは,ある人間が自分にとって有益であると確知するものがその人にとっての善であると解しておくのがよいでしょう。第四部定理八では,善は人間にとっての喜びlaetitiaの認識cognitioであるという意味のことがいわれ,何に対して喜びを感じるのかということは,その喜びが受動passioである限り,第三部定理五一によって人それぞれであるからです。したがって,ここで確知するといわれていることについても,それは真に認識するあるいは十全に認識するという意味ではなくて,それが有益であることが確実であると思う,いい換えればそれについて疑いを有さないという意味に理解しておくのがよいだろうと思います。
 よって,ある人間がXについて,それが自分にとって有益であると疑わないのであれば,それはその人にとっての善です。逆にいえばその人が善であることを疑わないようなものは,その人が自分にとって有益であるということを疑っていないようなものです。ですからそれが真に認識されていようが誤って認識されていようが,善であり得ないものは有益ではあり得ません。したがって第四部定理四五は,憎しみodiumという感情affectusが善ではあり得ないということをいっているのですが,同時にそれは有益ではあり得ないということも意味しているのです。
 なおかつ,これは定理Propositioですから,第二種の認識cognitio secundi generisに基づいていわれているのです。なので憎しみが善ではあり得ないということは真理veritasのひとつなのです。つまり憎しみが有益ではあり得ないということも真理のひとつであることになります。そして真理というのは万人に共通します。したがって憎しみという感情が善ではあり得ないということ,いい換えれば有益ではあり得ないということは万人に共通するのです。要するにAという人間がBという人間を憎むとき,それはAにとってもBにとっても善でも有益でもあり得ないというだけでなく,AでもBでもない人間にとっても善でも有益でもあり得ないのです。
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王将戦&第四部定理四五

2018-02-22 19:10:34 | 将棋
 19日と20日に尼崎で指された第67期王将戦七番勝負第四局。
 豊島将之八段の先手で久保利明王将の向飛車に先手も向飛車に振っての相振飛車。後手が端から攻めて主導権を握る展開で,先手としてはつまらない将棋にしてしまったかもしれませんが,後手も端を食い破ったというわけではなく,終盤まで難解な一局になりました。
                                     
 後手が7三の銀を立って受けた局面。感想戦の内容からするとここで先手は諦め半分だったようですが,まだ難しかった模様。実戦の☗5四歩は最善の勝負手でした。そこから☖8九飛成☗4九歩と進展。
 先手はそこで☖2九銀。ここはできれば☖2九角と打ちたいのですが,それは無理で仕方がなかったとのこと。先手は☗4八玉と逃げましたが,後の手順から考えると☗3九玉と逃げるのは危ないようで有力だったかもしれません。以下は☖2八角☗4二馬☖1七香成で第2図。
                                     
 ここから☗6三銀成☖同王☗5三歩成と攻めていったので,後の☖4一飛が厳しい王手になり後手が勝ちました。第2図では☗5三歩成☖同金☗6一金☖7三王☗5三馬と攻める順があり,この手順なら銀を渡さずにすむのでまだ難しかったと思われ,先手はそちらを選ぶべきだったようです。もしそれで先手が勝つようなら,後手は☖2八角~☖1七香成と進めたのは危険で,どこかで☖5四歩と手を戻すべきだったということになるのでしょう。
 久保王将が勝って3勝1敗。第五局は来月6日と7日です。

 考察を本題に戻します。
 ある為政者Aがいて,BというジャーナリストがAを批判するとき,Aの支持者であるCが,Aが害悪を受けた,いい換えれば悲しみtristitiaを感じたと表象してBを憎むなら,これはCのBに対する憤慨indignatioです。これは第三部諸感情の定義二〇で示されていることに合致しているからです。
 このとき,Bが正当な理由からAの施策を批判したと認められるなら,CのBに対する憤慨はただCがAを支持しているということだけを理由とした不当な憤慨であり,逆にBが不当な理由から,たとえばAを貶めようという目的からAの施策を批判したと認められるなら,CがAの支持者であるか否かとは無関係に,CのBに対する憤慨は正当なものであるというように思われる方が多いのではないかと僕は推測します。憤慨という感情affectusはCの表象imaginatioから生じるので,どちらの場合もあり得るということは確実です。ところが,僕の考えでいうと,スピノザの哲学に則して憤慨という感情について評価を下す場合は,このような評価は危険なのです。ごくシンプルにいますが,憤慨という憎しみodiumには,正当も不当もないのです。
 僕は,排他的思想を産出しやすい感情として,憤慨のほかに不安metusをあげ,そちらについてはすでに見解を示し終えました。その考察の中でも示したことですが,スピノザは恐怖metusという感情については,第四部定理五四備考において,その感情の有用性についても語っています。いい換えれば不安については,全面的には否定していないのです。ところが憤慨に関していえば,スピノザはこの感情を概して否定的に記述し,肯定的な評価を与えません。したがって,ある人間が不当な理由から別の人間を貶めようとしているからといって,貶めようとしているその人間に対して憤慨していいというものでは必ずしもないのです。
 このようになっている理由はわりと明確で,それは憤慨が憎しみの一種であるというそのことから生じます。スピノザは憎しみに対しては一律に否定的なのです。その理由を知るため,第四部定理四五を検討します。
 「憎しみは決して善ではあり得ない」。
 善bonumであり得ないなら有用でもあり得ません。
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東京中日スポーツ賞金盃&メカニズム

2018-02-21 20:38:46 | 地方競馬
 第62回金盃。キャッスルクラウンは騎手への連絡が不十分であったために本田正重騎手から瀧川騎手に変更。僕の推測ですが,本田騎手は52キロでの騎乗が困難であるのに,負担重量のことが知らされていなかったということでしょう。また,本橋騎手は腰の捻挫のためキープインタッチは笹川騎手に変更。真島大輔騎手は体調不良のためキスミープリンスは山本聡哉騎手に変更。御神本騎手は4レースの騎乗後に風邪でウマノジョーは町田騎手に変更。
 発馬してすぐにシャドウパーティーは控えました。先手を奪ったのはグルームアイランドで2番手にアサクサスターズ。1周目の正面に入って3番手にサブノクロヒョウとキングニミッツ。5番手にクラージュドール,レーザー,ユーロビートの3頭。8番手にキープインタッチとオリオンザジャパンでここまでは集団。差が開いて中位をキスミープリンスがぽつんと追走。また差があってエンパイアペガサス,モズライジンの順で続きその後ろにタマモネイヴィーとウマノジョー。大きく開いてキャッスルクラウンとシャドウパーティーが並んで最後尾という隊列に。最初の1000mは65秒3のスローペース。
 2周目の向正面でも目立った動きはなく,3コーナーではグルームアイランドとアサクサスターズは差が詰まり,キングニミッツとは一時的に差が開きました。その後ろにクラージュドール,オリオンザジャパン,タマモネイヴィーでコーナーを通過。直線に入るとキングニミッツの外に進路を取ったクラージュドールが前の2頭も抜いて先頭に。これに大外からウマノジョーが襲い掛かりましたが,ウマノジョーが外によれ加減だったこともあり,クラージュドールには及ばず,直線先頭のクラージュドールが優勝。ウマノジョーが1馬身差で2着。クラージュドールに抜かれるときには気難しさを出したのかもたついていたキングニミッツが,抜かれた後で盛り返し,2馬身半差の3着。
 優勝したクラージュドールは前々走のオープンが南関東転入13戦目での初勝利。南関東重賞はこれが初勝利。ただこの馬はJRAで1600万を勝っていて,転入後は南関東重賞だけでなく重賞でも入着がありましたから,ここは優勝候補の1頭。今日はいい位置を取り,あまりコースロスなく回ってきた鞍上の手綱捌きが大きくものをいっての優勝だったと思います。これからも勝ったり負けたりということになるのでしょうが,一般的な評価よりは力がある馬とみられ,馬券には組み込んでおきたい馬というのが僕の評価です。父はキングカメハメハ。母は2004年にローズステークス,2005年にクイーンステークスを勝ったレクレドール。4代母がロイヤルサッシュ。Courage d'Orはフランス語で金の勇気。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手は昨年のロジータ記念以来となる南関東重賞25勝目。金盃は初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は第56回,57回に続き5年ぶりの金盃3勝目。南関東重賞は15勝目。

 意志voluntasと自由libertasが調和してそれらが必然と対置されるという認識cognitioが主流なのは,人間にそうした意志の主体を還元するからです。端的にいうと,「人間は自由な意志によって働くagereものである」という言明を,自分自身について表象したときに真verumであると錯覚してしまうため,それがすべての人間にとって真であるとも思い込んでしまうのです。その結果として生じるのが第三部定理四九備考でいわれている事柄です。
                                
 これが,同一の害悪を受けた場合,いい換えるなら同じ程度の悲しみtristitiaを与えられた場合に,それを与えた対象が自然であると表象するimaginari場合より,人間であると表象した場合の方がより強い憎しみodiumを感じるメカニズムです。すなわち,自然現象は必然的にnecessario自分に被害を与えます。よってそれは自然そのものによっては避け得なかったことと表象されます。人間についてもまた本当はそれと同じなのですが,人間を自由な意志の主体であると表象する限りでは,人間は意志によって被害を与えたと表象されることになります。よってそれはその人間によって避けることが可能であったと表象されます。このゆえに人間は,害悪を被ったときには自然よりも人間の方を強く憎むことになるし,逆に恩恵を受ける場合は人間の方をより強く愛することになるのです。
 実際には第一部定理三二にあるように,意志というのは自由な原因ではなくて強制された原因です。なおかつ第三部定理二にあるように,精神mensが意志を駆使することによって自分の身体corpusをある運動motusや静止quiesに決定するということも不可能です。つまり「人間は自由な意志によって働くものである」という命題は偽の命題です。いい換えれば自然が必然的に恩恵や害悪を与えるのと同じ自然法則で,人間も恩恵や害悪を与えているのです。これは自然法則というのは自然のうちで唯一であるということ,他面からいえば第一部定理一四系一により神Deusは唯一であるということと,第四部定理四により人間は自然の一部Naturae parsであるということからも明白でなければなりません。この定理Propositioの意味として,人間は受動passioを免れ得ないということがあるので,憎しみを感じるのは仕方ありませんが,その憎しみを弱めることは可能なのです。
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たちあおい賞争奪戦&第三部定理四九の意味

2018-02-20 19:01:26 | 競輪
 静岡記念の決勝。並びは吉田‐平原‐神山の関東,和田に成田,古性‐村上の近畿,取鳥に大槻。
 吉田,和田,神山の3人がスタートを取りにいき,誘導の後ろには最内の吉田が入ってそのまま前受け。4番手に和田,6番手に取鳥,8番手に古性の周回に。残り3周のホームの出口から早くも古性が上昇。バックで吉田を叩いて誘導の後ろに入りました。コーナーでは和田も上昇。ホームで古性を叩き,誘導の後ろは和田に。この外を取鳥が上昇。吉田も続こうとしましたが古性がうまく阻み,バックでは取鳥が前に出て,3番手に古性,5番手が内の和田と外の吉田で併走のような隊列となって打鐘。外併走から吉田が発進していったものの,1コーナー付近で古性が牽制。バックに入って古性が捲っていくと吉田は失速したので平原が自力で発進。大槻の牽制をかいくぐった古性がバックで捲ると大槻は村上と競り,さらにその外まで追い上げた平原と3人が併走するような形に。この競り合いを尻目に古性がそのまま粘って優勝。大槻の牽制を耐え抜いた村上が4分の3車輪差の2着に続いて近畿のワンツー。4分の3車身差の3着は後ろから内目を回って追い上げた和田,取鳥マークの大槻,和田マークの成田,捲り切れなかった平原,平原マークの神山による争い。これを制したのは神山。大槻が8分の1車輪差の4着。平原は4分の1車輪差で5着。和田が8分の1車輪差の6着で成田がさらに8分の1車輪差の7着。
 優勝した大阪の古性優作選手は昨年10月に久留米で開催された熊本記念以来の優勝で記念競輪4勝目。静岡記念は初優勝。このレースは平原に任された吉田が,先行するか先行できずとも早めに巻き返していくだろうから平原が有利と想定していました。ところが各ラインが吉田の動きをマークするような競走になったため,吉田は発進はしたものの展開的にはかなり無理な競走に。誘導が退避する前から目まぐるしく隊列が変化したことで,吉田は経験不足を露呈するようなレースになりました。古性もまた若い選手で,吉田ほどではなくてもレース経験が豊富というわけではないのですが,とてもうまく立ち回って絶好の位置を確保。その競走の巧みさが結果に表れたというレースであったように思います。これだけ上手に立ち回れるのなら,ビッグを制覇するのもそう遠いことではないのではないでしょうか。

 第三部定理四九では自由libertasと強制という意味での必然が対置されているのですが,自己の本性naturaの必然性necessitasによって存在しまた働くagere自由と必然は調和し,それらが意志voluntasと対置されると解した方が,この定理Propositioのスピノザの哲学に則した真の意味を理解しやすいと僕は思います。一方,自由と意志が調和し,それが必然と対置するという認識cognitioのあり方が主流であるということから,今度はこの定理の裏の意味が出てくるのです。
                                
 この定理では,自由であると表象するimaginariもの,といういい方がされています。これは真の意味に則していうと,第一部定理一七系二により,自由であるのは神Deusだけである,いい換えればたとえば人間は自由ではないのですが,もしもたとえば人間を自由なものとみなすならという意味になります。ですがこのときに,たとえば人間が自由な意志の主体であるというようにみなしたとしても,その人間を自由なものと表象していることになるのです。この場合,自由という語が含む意味は,第一部定義七と異なってきます。というのは人間が自由な意志の主体であるがゆえに自由であると表象することと,人間は人間の本性の必然性によって存在しまた働くものと表象することは違うことだからです。しかし,自由の定義Definitioから逸れる仕方で人間を自由なものと表象しても,第三部定理四九は成立するのです。要するにヤコービFriedrich Heinrich JaobiやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは自由をスピノザとは異なった仕方で解釈していますが,かれらのように解釈する場合にも,真の意味とは異なっているけれどもこの定理は成立するのです。いい換えれば,たとえどのように自由と必然を解釈しようとも,自由なものに対する愛amorや憎しみodiumは,必然的なものに対する愛や憎しみより,その他の条件が同一なら強くなるのです。これがこの定理の裏の意味と僕がいうものです。
 よって,第三部定理四九備考もまた,自由をどのように解釈しようと同じように成立します。すなわち意志を自由なものとみなすなら,人間を意志の主体とみなす限りで人間を自由なものであると表象しているのと同じです。よって人間のことをそう表象するなら,人間はほかのものより相互に対してより強く愛し合いまた憎み合うでしょう。
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理性の導き&自由と必然と意志

2018-02-19 19:11:02 | 哲学
 『スピノザ―ナ15号』の矢島直規の論文は,副題が「ヒュームのスピノザ主義」となっている通り,ヒュームDavid Humeの哲学についての論考です。僕はヒュームは読んだことがありませんので,ここから記すことのうち,ヒュームの哲学に関する事柄は,すべてこの論文に沿ったものだと理解してください。矢島のヒューム解釈が正しいかどうかも僕には不明ですが,スピノザの哲学との関連では興味深く思えるところがあったので,これは何回かに分けて紹介します。
                                       
 矢島によれば,第一種の認識cognitio primi generisが十全adaequatumではないということ,つまり混乱した観念idea inadaequataであるということでスピノザとヒュームは一致しています。しかしその認識が,習慣の基礎として位置づけられるなら,他面からいえば多くの人びとの間で共有されるようになると,それは十全な認識へと変化するというのがヒュームの考え方だそうです。これに対してスピノザは,人間をして十全な認識へ導くものは理性ratioであり,この部分でヒュームとスピノザの間には相違があると指摘しています。いわば習慣と理性の対立が,ヒュームとスピノザの対立であると矢島はみているわけです。
 矢島の論文を読む限り,なぜヒュームが理性を否定し,習慣を重視するのかは僕には何となくわかります。ですがそれは次回にして,ここでは理性の導きについて,僕の考え方を示しておきたいです。
 人間を十全な認識に導くのが理性であるというのがスピノザの考え方だというのは正しいと僕は考えます。第二部定理四一第二部定理四二がその論拠です。ただし僕は,理性の導きによって第一種の認識が十全になる,いい換えれば第一種の認識が第二種の認識cognitio secundi generisになるとは考えません。理性の導きは理性にのみ関連するのであって,第一種の認識とは別だと考えるからです。
 矢島のいい方だと,Xの混乱した観念が理性の導きでXの十全な観念idea adaequataになるといっているように解する余地があります。僕はそれは否定します。Xの混乱した観念がXの十全な観念になるのではありません。Xの混乱した観念とは別に,Xの十全な観念が発生するのです。

 第三部定理四九証明で示されていることが,この定理Propositioをスピノザの哲学に沿って解釈した場合の意味,いわば真の意味になります。そしてこれを解するにあたって最も注意しなければならないのは,スピノザが自由なものというとき,それが自由な意志voluntasによって働くagereものを意味していないということです。これは第一部定理三二から明白といわなければなりません。そこでいわれていることを第一部定義七に該当させるなら,意志は自由に働くものではなく,強制されて作用するものであるということになるからです。
 実はここのところに,スピノザが必然を多様な意味で用いている理由のひとつがあるのではないかと僕はみています。第一部定義七は,確かに自由なものと強制されたものとしての必然を対置させています。しかしそれは,意志の自由libertasと強制された必然を対置しているのではありません。むしろ自由と強制された意志は対置されるのです。一方,スピノザは自己の本性naturaの必然性necessitasのみによって存在しまた働くもののことを自由というのですから,この意味においては必然は自由と調和します。すなわち自己の本性の必然性のみによる自由と,強制された必然的なものとしての意志は対置するのです。
 このように分かりにくくなっているのにはたぶん理由があります。それはおそらくスピノザは,自分は自由と意志を対置するものと解するけれども,一般には自由と意志は調和的で,それが必然と対置されると認識されていると解していたからです。実際,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizやヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが神学的観点からスピノザの哲学を否定するとき,スピノザの哲学では神Deusが必然的なものに貶められていて,自由な意志の裁量の余地がないというのが大きな理由でした。つまりかれらは自由と意志が調和し,それが必然と対置すると認識していたのです。そしておそらく,現在でもこのような認識cognitioのあり方の方が多数派を占めているのではないかと僕は思います。ですからスピノザは一般的認識に見合うように自由と必然が対置するといういい回しもしていますが,僕は,スピノザの哲学では自由と必然が調和し,それらが意志とは対置すると解しておくのがよいだろうと考えています。
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フェブラリーステークス&第三部定理四九証明

2018-02-18 19:07:19 | 中央競馬
 大井から1頭が遠征してきた第35回フェブラリーステークス
 先手を奪ったのはニシケンモノノフ。2番手にケイティブレイブ。3番手にノボバカラとテイエムジンソクで5番手がララベル。この5頭が先行集団。4馬身ほど開いてベストウォーリアが6番手でその後ろにロンドンタウンとインカンテーション。また2馬身ほど開いてサンライズノヴァ。その後ろにアウォーディーとメイショウスミトモ。さらにレッツゴードンキとゴールドドリームが続き,後方にサウンドトゥルー,キングズガード,ノンコノユメの3頭。前半の800mが45秒8という超ハイペースになったこともあり,隊列は縦長になりました。
 直線手前でニシケンモノノフにケイティブレイブが並び掛け,直線に入ると先頭が入れ替わりました。しかし外からゴールドドリームの伸び脚が目立ちまず先頭に。追ってきたのは馬群を捌いてすぐ内から迫ったインカンテーションと,後方から大外を回ったノンコノユメ。ラストはこの3頭の争いになり,大外のノンコノユメが差し切って優勝。一旦は抜け出していたゴールドドリームがクビ差で2着。インカンテーションは及ばずクビ差の3着まで。
                                
 優勝したノンコノユメは前哨戦の根岸ステークスから連勝。大レースは2015年のジャパンダートダービー以来となる2勝目。それ以降も2016年の夏ごろまではそこそこ走っていたのですが,その後は低迷。しかし前走は58キロを背負いながらレコードタイムで優勝と復活の兆しをみせていて,ここも優勝候補の1頭とみていました。武器が末脚なので,展開によっては不発というケースもあるのですが,一時期の低迷は完全に脱したとみてよさそうです。ジャパンダートダービーを勝ったとはいえ,距離もあまり長くない方がよいのでしょう。今日は良馬場でしたが,馬場は悪くなった方が相対的には有利になるという馬だと思います。母の父はアグネスタキオン。3代母がビューパーダンス。祖母の4つ上の半姉に1995年に新潟大賞典と新潟記念を勝ったアイリッシュダンス
 騎乗した内田博幸騎手は一昨年の東京大賞典以来の大レース制覇。第26回以来9年ぶりのフェブラリーステークス2勝目。管理している加藤征弘調教師は2015年のジャパンダートダービー以来の大レース3勝目でフェブラリーステークスは初勝利。

 本題からは逸れますが,次のこともいっておきたいです。
 僕たちは与えられる害悪の大きさが同じなら,いい換えれば感じる悲しみtristitiaの程度が同じなら,自然に被害を与えられて自然を憎む場合より,他人に被害を受けて他人を憎む場合の方が,より強い憎しみodiumを抱きやすくなっています。これは害悪を受けるのが自分の場合であれ,第三部定理二二の例のような他者の悲しみに感情の模倣affectum imitatio,imitatio affectuumをする場合であれ同様です。これも必然的なメカニズムすなわち自然法則によってそうなっているのです。
 スピノザは第三部定理四九で,必然的なものに対する憎しみより自由なものへの憎しみが強いといっています。ここにはスピノザの哲学に沿った真の意味と,そこから外れた裏の意味が含まれていると僕は考えます。
 スピノザが必然というとき,僕たちの語彙からすればそれは必ずしも統一的でなく,みっつのパターンに分類できます。第三部定理四九でいわれている必然は,第一部定義七で強制といわれている場合の必然を意味します。これはこの定理Propositioでいわれている必然が,自由libertasと対置されていることから明らかだといわなければなりません。
 すると,自由の定義Definitioにより,自由なものはそれ自身の本性naturaによってのみ働きます。したがってその働きによってある人が害悪を受けた場合,つまり悲しみを感じた場合,その人はそのものの観念ideaだけを伴った悲しみを感じることになります。一方,強制されるものは,ほかから決定されて作用します。よってその作用によってある人が害悪を被る場合,つまり悲しみを感じる場合には,その人はそのものの観念だけを伴った悲しみを感じるのではなく,それにそのように作用させたほかのものの観念も伴った悲しみを感じることになります。仮定によれば悲しみの程度は同一です。したがって,自由なものの働きから受ける悲しみは,その悲しみの原因としての対象がすべてその自由なものに集中します。一方,強制されたものの作用によって感じる悲しみは,その悲しみの原因としての対象がいくつかに分散します。よって自由であるものに対する憎しみの方が,強制されたものに対する憎しみより,相対的に強くなるのです。
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朝日杯将棋オープン&憤慨

2018-02-17 19:24:13 | 将棋
 有楽町朝日ホールで指された第11回朝日杯将棋オープンの決勝。広瀬章人八段と藤井聡太五段は公式戦初対局。
 振駒で藤井五段が先手になり角換り相腰掛銀。後手の広瀬八段が新趣向を披露する将棋に。
                                     
 先手が仕掛けた局面ですが,この仕掛けは成立しているというのが見解として定着していたのではないかと思います。
 ここで☖5二王と寄ったのはおそらく新手。たぶん研究していた手だったのだろうと推測します。先手が知っていたかどうかは分かりませんがうまく対応しました。
 まず☗2五桂と跳ねます。これには☖2二銀もなくはないと思いますが☖2四銀と受けました。そこで☗4四歩の取り込み。このときに☖4一飛と回るのが後手が王を寄ったときからの狙いです。
 ☗7五歩☖同歩☗7四歩で後手は桂損が確定しますがそこで☖4四飛。先手は歩がないので受け方が難しいというのが後手の主張。
 先手は☗4七銀と引いて受けました。次に☗8二角の狙いがあるので香車を受けて☖4一飛。そこで☗6七角と打ったのが両睨みの好手で,ここで先手がリードを奪ったのではないかと思います。
                                     
 第2図以降は先手が攻め,後手が受けるという展開に終始。終盤で才能を感じる手が出ました。
                                     
 後手が桂馬を打って7三を受けた局面。ここで☗5六銀とこの銀を使いにいきました。ただこの手は☖3七角があるだけに危なくみえます。角は取れませんし,6四の成銀をとられてもいけないのでどうするのかと思っていたのですが,☗7三歩成☖同桂☗同成銀☖同金☗同桂成☖同王と清算してしまい,☗4四桂と打つのが見事な返し技でした。
                                     
 ☖同飛は☗4五歩で困るので☖2六角成でしたが☗3二桂成と金を入手でき,大勢が決しました。
 藤井五段が四段昇段から約1年4ヶ月半で棋戦初優勝。同時に六段昇段。この棋歴で全棋士参加棋戦での優勝は快挙にほかなりませんが,藤井新六段の棋士人生においてはこれはほんの序曲にすぎないのでしょう。

 Xという国家Imperiumにある政治的指導者Aがいると仮定します。同じX国の国民であるジャーナリストBが,Aの施策に対して批判的な論述を展開したとしましょう。このとき,Aの支持者であるCが,BがAを攻撃したとみなしてBを憎むとき,CはBに対して憤慨していることになります。スピノザが害悪というのは,悲しみtristitiaを齎す事象のことをいうのであり,Bの論述によってAが悲しみを感じるとCが表象するimaginariことはあり得ます。そしてこの場合には第三部定理二二によってCはBを憎みます。つまりこうしたことは現実的に生じます。かつこれは第三部諸感情の定義二〇の条件に合致した憎しみodiumです。よってこれはCによるAに対する憤慨indignatioであることになります。
 ここでひとつだけ,憤慨という感情affectusを理解するにあたって注意しておかなければならないことを示しておきます。
 ある人間に悲しみを齎すのは,他の人間だけとは限りません。たとえば自然災害がある人間に悲しみを齎すことはあります。これは経験的に僕たちが知っているところでしょう。そこでもし僕たちが愛する者がある自然災害によって悲しみを感じている,いい換えれば自然災害によって被害を受けたと表象するなら,僕たちは同じ理屈でその自然災害に対して憎しみを感じるのです。このことも僕たちは経験の上で知っているといっていいのではないかと思います。このときに,僕たちはその自然災害に対して憤慨しているということは,語法の上で大きな過ちを犯しているとは僕は考えません。ただ,スピノザの定義Definitioによれば,憤慨という感情は,人間を対象とした場合についてのみいわれることになっています。なので,この自然災害に対する憎しみは,憤慨とはいえないことになります。
 スピノザは,この憤慨とその反対感情である第三部諸感情の定義一九の好意favorについて,通常の用法では別の意味を有するということは知っているけれども,目的は語の意味を説明することではなくて,感情の本性naturaを説明することにあるからこれらふたつの名称を用いるという主旨のことをいっています。憤慨と好意を解する際には,ことばと観念が異なるということに注意しておかなければなりません。
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小鹿の雑感④&自己の害悪と他者の害悪

2018-02-16 19:05:22 | NOAH
 小鹿の雑感③の続きです。
 天龍源一郎によれば,入団したときに付き人がいたのは馬場だけであったそうです。天龍はそれを疑問に思い,なぜそうなっているのかを馬場に尋ねたそうです。すると馬場は,派閥ができるからダメなのだと答えたそうです。何年かしてからほかの選手にも付き人がつくようになり,たとえば三沢光晴ジャンボ・鶴田の付き人を経験していたのですが,付き人制度が復活したのはザ・グレート・カブキの助言によるものであったと天龍は言っています。カブキが何も発言することなく別の話題に移行しているので,真相は不明の部分もあります。天龍は1976年に全日本プロレスに入団し,カブキは1978年には海外で仕事をするようになっていますので,天龍の発言が真実なら,付き人制度の復活はその間の出来事であったことになります。
 馬場は全日本全体が,自分を父とするファミリーであることが理想だったので,派閥ができることを嫌っていたという天龍の発言は真実味があるように僕には感じられました。ただ,全日本プロレスは設立の経緯から,実際には派閥めいたものが存在していたと考えておくのがよいでしょう。これは小鹿の雑感①における天龍の発言からも裏付けられるように思います。そしておそらく馬場自身もそのことは理解していたものと思います。実際にグレート・小鹿は全日本プロレスからリストラされるような形で離脱しましたが,小鹿のパートナーであった大熊元司は,死ぬまで全日本プロレスの現役選手として仕事を続けました。これはこのふたりはタッグパートナーではあったけれども,派閥は異なっていたからではないでしょうか。これは僕の想像ですが,全日本プロレスには馬場を父とするファミリーという団体の形態を,是とする派閥と非とする派閥があったのだと思います。大熊は前者に,小鹿は後者に属していたのではないでしょうか。
 カブキはクツワダと組んでいました。クツワダは,後に反旗を翻しましたが是とする選手で,カブキはたぶん非としていた選手です。馬場は意図的にそういうチームを組ませていたという可能性もあるように思いました。

 排他主義者は悲しみtristitiaに隷属した人間で,その排他思想を産出しがちな悲しみが不安metusであるということの考察は,これで終了とします。まとめれば,ある人間が別の人間あるいは特定の人間集団に恐怖metusを感じるとき,その人はその不安の対象に対して排他的感情を有していることになります。この条件下ではこれはこの人に特有であり,思想としては大きな力potentiaをもつものではないかもしれません。しかし同じような恐怖を感じる人が増えれば増えるほど,それは思想としての力を増してくることになります。このゆえに,他の人びとに対してあえて不安を扇動する迷信家も存在してくることになるのです。なおかつ不安と希望は表裏一体の感情affectusであるため,人間の現実的本性actualis essentiaは,条件が同一であるなら希望spesという喜びlaetitiaによって恐怖という悲しみを排除するようになっています。これら両感情は,その定義Definitioから明らかなように,必然的にnecessario混乱した観念idea inadaequataを伴った感情です。ですから希望で不安を排除したとしても,それが虚偽falsitasであるということを知っているなら,要するに真理の規範に自覚的であるなら,その人は排他的思想を有することはありません。あるいは,排他的思想を有するに至っても,その思想が虚偽である,誤っているということを自覚します。しかしもしその虚偽を真理veritasとみなす誤謬errorを犯すなら,人は勇気animositasについて錯覚し,寛仁generositasについてそれ自体で憎む,高慢superbiaに隷属した人間になるのです。そしてその誤謬を共有する人びとは,同じように高慢でありつつ互いが互いの阿諛追従の徒であるとみなされ,仲間とか同志といった関係が構築されます。これにより,そうでない人びとに対する攻撃的傾向は,さらに顕著になってくるようになっているのです。このゆえに僕は,不安という感情は排他的思想を産出しやすい感情であると考えています。
                               
 僕は排他的思想を産出しやすい悲しみはふたつあるといいました。では不安ともうひとつは何かというと,第三部諸感情の定義二〇に示されている憤慨indignatioがそれに該当します。不安が自分に対する害悪と関係するなら,憤慨は他者に対する害悪と関係しています。僕が恐怖と憤慨を代表的に分類するのは,その違いに重きを置くからです。
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フサイチリシャール&第四部定理五七の意味

2018-02-15 19:21:26 | 名馬
 7日の報知グランプリカップを勝ったリッカルドの父はフサイチリシャールです。
 父はクロフネ。母が1999年にシンザン記念と桜花賞トライアルの4歳牝馬特別,2000年にダービー卿チャレンジトロフィーとマーメイドステークスを勝ったフサイチエアデール。ひとつ上の4分の3姉が2005年にクイーンカップを勝ったライラプス。Richardはブランデーの名前。
 2歳9月にデビュー。新馬は2着で2戦目で初勝利。3戦目にオープンも勝って東京スポーツ杯2歳ステークスをレコードタイムで制して重賞初制覇。さらに朝日杯フューチュリティステークスで大レース制覇を達成。この年のJRA賞の最優秀2歳牡馬に選出されました。
 3歳初戦の共同通信杯はアドマイヤムーンの2着。スプリングステークスも2着で皐月賞は5着。NHKマイルカップが6着でダービーは8着。この春は尻すぼみの戦績でした。
 秋の初戦は神戸新聞杯で4着。ダート路線に切り替え武蔵野ステークスに出走して5着。ジャパンカップダートは13着に大敗。また芝に戻って阪神カップを制しました。
 4歳初戦の京都金杯は13着と謎の大敗。ドバイに向かってダートのゴドルフィンマイルに挑戦するも6着。帰国して出走した京王杯スプリングカップは5着。CBC賞で12着に敗れてこの春のキャンペーンは終了。
 秋の初戦はセントウルステークスで12着。スワンステークスは2着に頑張ったもののマイルチャンピオンシップダイワメジャーの12着。連覇を狙った阪神カップはスズカフェニックスの12着でした。
 5歳初戦は阪急杯で8着。そして出走したのが高松宮記念。個人的に思い出深いレースです。
 関連性などまったくなさそうなのですが,東京スポーツ杯2歳ステークスを好走した馬が高松宮記念に出走すると好走するという傾向があります。そこで僕はこのレースでこの馬を狙いました。直線で先頭に立ち,これは勝ち負けではないかと思ったところで急激に失速。レース直後は非常に不可解な思いだったのですが,レース中に故障を発生したからでした。それがなければ,という思いは10年近くが経過した今でもあります。結果的にこのレースで現役生活を終えることになってしまいました。
 成績だけみると早咲きで,3歳以降は確たる結果を残せなかった馬。2015年産まれの現役馬までは残っていますが,リッカルドが代表産駒になるという可能性が高いのではないかと思います。

 第四部定理五七を解するにあたって注意しておかなければならないのは,高慢superbiaという感情affectusに支配されている人間と,その人を過大に評価する阿諛追従の徒が,別々に存在するとは限らないということです。むしろ同じ人間が,高慢に隷属した人間であり,また阿諛追従の徒であるということもあるのです。
                                
 阿諛追従の徒を,僕は高慢な人物を過大に評価する人間であると解します。ただ,第四部定理五七備考にあるように,他者を過少に評価して相対的に自身を過大に評価している人間も高慢といわれるのと同じで,高慢な人間のことを過大に評価しないにしても,その人が過少に評価している人のことをその人と同じように過少に評価するなら,総体的にはその人を過大に評価していることになりますから,これもまた阿諛追従の徒といわれなければなりません。したがって,Aという人間がXという民族に排他的感情を有することによって排他的思想を有し,このためにXという民族に属する人のことを,その民族の人間であるということを理由として過少に評価するなら,Aという人間は高慢であることになります。このとき,Bという別の人物が,Aと同じような排他的感情および排他的思想を有し,かつAと同じ理由によってXという民族に属する人のことを過少に評価するなら,Bもまた高慢であるといわれますが,同時にこの人はAのことを相対的に過大に評価していることになりますから,Aの阿諛追従の徒であるということにもなります。同じことはAについてもいえるのであって,Aは単に高慢であるだけでなく,Bにとっての阿諛追従の徒であることになるのです。このようにして同じ対象に排他的思想を有する複数の人物は,高慢な人間であると同時に,互いに互いが阿諛追従の徒であることにもなります。そして第四部定理五七により,高慢な人間は阿諛追従の徒のことを愛するのですから,AはBを愛し,BはAを愛するでしょう。一般に排他的思想を有する人は,同じ思想を有する人びとと徒党を組みがちですが,そうなるのにはこのような必然的なメカニズムが働いているといえるでしょう。阿諛追従の徒とは,同志とか仲間という意味でもあるのです。
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ユングフラウ賞&精神の弱さ

2018-02-14 19:02:33 | 地方競馬
 桜花賞トライアルの第10回ユングフラウ賞
 先手を奪ったのはエターナルモール。向正面では後続に2馬身から3馬身くらいのリードをつけての逃げになりました。2番手にはポッドジゼルとストロングハート。4番手にシェーンリート,グラヴィオーラ,ヨシノファルコンの3頭。この後ろは差が開いてゴールドパテック,ハタノサンドリヨン,クロスウィンド,リンノストーン,ベニアカリ,ピースフルジョイの順で追走。最初の600mは36秒2のハイペース。
 3コーナーを回るとストロングハートがエターナルモールとの差を詰めにかかり単独の2番手。外から捲るように追い上げたグラヴィオーラがポッドジゼルと並び,その後ろからゴールドパテック。ハイペースで逃げたエターナルモールも最後は14秒台と一杯になっていましたが,追い上げてきた馬たちも差し届くほどの脚は使えず,逃げ切ったエターナルモールが優勝。直線の入口では外に膨れるところをみせたグラヴィオーラがそれでもストロングハートは捕えて1馬身半差の2着。ストロングハートが2馬身半差の3着に粘り,ゴールドパテックは4分の3馬身差で4着。
 優勝したエターナルモールは昨年7月にデビュー。2戦目で初勝利をあげ船橋に遠征した3戦目で2勝目。東京2歳優駿牝馬は大敗したものの先月の浦和開催で3勝目。4勝目で南関東重賞初制覇となりました。ここは前走で浦和を経験していた強みが出たという感もありますが,2着,3着,4着と実力上位と目された馬が入っていますので,評価しないというわけにはいかないと思います。桜花賞は枠順の有利不利が大きいコース設定ですが,内枠の方を引ければチャンスもあるのではないでしょうか。父はエスポワールシチー
 騎乗した短期免許期間中の吉原寛人騎手ゴールドカップ以来の南関東重賞制覇。ユングフラウ賞は初勝利で南関東重賞は23勝目。管理している大井の宗形竹見調教師は第2回以来8年ぶりのユングフラウ賞2勝目で南関東重賞もこれが2勝目。

 スピノザは第三部定理二六備考で,高慢superbiaは狂気の一種と断じています。ですから第三部諸感情の定義二八のように,自分について正当以上に感じている人はすべからく狂気に陥っているといえます。同時に,第四部定理五七備考に示されているように,他人を正当以下に評価することによって,相対的に自身を過大評価している人間も,狂気に陥っているといわなければなりません。つまり排他的感情によって排他的思想を有し,このためにその対象となっている個人あるいは人間集団を過少に評価する排他主義者は,狂気の人であるとスピノザはいっていると解して構わないのです。よって,もしふたりの人間あるいはふたつの人間集団が,互いに互いを過少に評価して,一方が他方を,また他方が一方を排斥しようとしているなら,これは狂気と狂気がぶつかり合っているといえるでしょう。このふたりあるいはふたつの人間集団を融和に導くのが著しく困難であるということが理解できると思います。
                                
 さらに,排他主義者が狂気の人であるということは,別の観点からもいうことができます。それが第四部定理五七でいわれている,高慢な人間の特質proprietasです。ここから分かるように,高慢に隷属している排他主義者は,自身の排他的思想に同調する人のことを愛し,それを否定する人のことを憎むのです。そしてこの定理Propositioでいわれている寛仁generositasは,第三部定理五九備考でいわれている「精神の強さfortitudo」という能動的な欲望cupiditasのひとつです。したがって理性ratioに従う自由の人homo liberはこの欲望を必然的にnecessario有することになります。ですから,高慢な排他主義者は,単に排他的思想の対象者を憎むというだけでなく,自由の人のことも憎むのです。
 「精神の強さ」は勇気animositasと寛仁に分類されています。すでに示したように,排他主義者は勇気については誤謬errorを犯しています。そして寛仁についてはそれ自体で憎むような人なのです。いい換えれば「精神の強さ」とは正反対の感情affectusあるいは性質を有している人だといって間違いありません。あえていいますが,排他的思想をふりかざす人は,その当人の「精神の弱さ」を証明しているようなものなのです。これも狂気のひとつといえるのではないでしょうか。
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