スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ALSOK杯王将戦&字義通りの解釈

2023-01-23 19:28:43 | 将棋
 一昨日と昨日,花の里温泉で指された第72期王将戦七番勝負第二局。
                                        
 羽生善治九段の先手で相掛り。後手の藤井聡太王将が前例から離れる手を指し,先手が1筋から仕掛ける将棋に。後手の方から先手に角金交換を強要するような手順に進め,先手は取ったその金を8筋に打ちました。これは筋が悪いとされるような手ですが,後手玉が薄かったためになかなか効果的な手になりました。
 勝敗の分水嶺となったのは,2日目の昼食休憩を挟む長考で後手が銀を打って攻めこんでいった手。この局面では後手はまだ受けに回っておく必要があったようです。AIが推奨していたのは1段目に飛車を打つ手です。ただこの将棋は指し手をみれば分かるように,ここから先手玉がかなりきわどい変化の末に詰まないので先手が勝ちになっていますので,銀を打ち込んだ局面で先手の玉が寄るか否かという変化をすべて読み切るのは至難の業で,敗着といえるような手ではないと思います。むしろ藤井王将はこのような手で勝ちを手に入れることが多いので,余計に仕方がなかったのではないでしょうか。ひとつ間違えただけで負けになってしまう変化を,正しく応じることで勝ちにした羽生九段の受けが見事だったと思います。
 きちんと受け切ることができたのは,時間の余裕を十分に残していたためであり,ある意味ではタイムマネジメントの勝利といえます。また,そのように時間を残すことができたのは,そこまでの局園に至るまでの準備が周到であったからだともいえますので,その部分での勝利であるともいえるでしょう。
 羽生九段が勝って1勝1敗。第三局は28日と29日に指される予定です。

 第二種の認識cognitio secundi generisで事物を認識しようと第三種の認識cognitio tertii generisで個物res singularisを認識しようと,同じように精神の能動actio Mentisであって,認識された観念ideaは十全な観念idea adaequataです。ですからおそらくスピノザは自由の人homo liberと賢者の間に,意味の上で差異を与えているものと推測されるのですが,その差異を強調する必要はないだろうと僕は思います。いい換えれば,賢者を自由の人という意味で解しても,大きな問題が発生することにはならないであろうと思います。よって自由の人と賢者の間にあると推定される意味上の差異については,これ以上は追及する必要を感じません。
 第二部定理一一は,人間の精神mens humanaは個物の観念であるといっています。そして第二部定理一三において,その個物というのが,自分自身の身体corpusであることが明らかにされます。したがって現実的に存在するある人間の精神というのは,その人間の身体の観念であることになります。そして,個物の観念はそれが十全な観念であるとみられる限りでは,永遠aeterunusから永遠にわたって存在するのであり,いい換えれば存在することをやめないのでした。僕はこの観点から第五部定理四二備考で賢者は賢者としてみられる限りで存在することをやめないということの意味を探求し,このような意味でその文章を解釈することが可能であると結論しました。しかしながら,現実的に存在する人間の精神がひとつの個物の観念であるとするなら,それが十全に認識される限りでは,やはり永遠から永遠にわたって存在するのであって,存在することをやめるということはないでしょう。よって,もしも現実的に存在するある人間が,自分の身体の観念を十全に認識するcognoscereということがあるなら,その人間は賢者として存在することをやめないということを,本当に字義通りに解釈することができることになります。そして同時に,自分の身体の観念とは自分の精神のことなのですから,その人間は第二部定理二〇によって,その人間は自分の精神,自分の身体の観念という個物の観念をも十全に認識することになり,やはり賢者として存在することをやめないということを字義通りの意味で解せることになります。こうした解釈の可能性についても探っておくべきでしょう。
コメント
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