スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ドバイ展望&無責任

2007-03-31 21:08:13 | 海外競馬
 いろいろあってずっと紹介できずにいましたが,日本時間今夜から明日未明にかけ,UAEのドバイでサラブレッドの国際レースが行われます。現地は快晴。レースの6時間前から観客も入っているようです。日本馬を中心に展望します。レース順にゴドルフィンマイルGⅡ(ダート1600)。基本的にサポートレースですので,超一流という馬が参戦するレースではありません。日本のフサイチリシャールは,ダートは未勝利ですが,2歳時に芝1600でGⅠ勝ち。昨年の暮れもGⅡを勝っているように能力が落ちてはいませんので,レースの性格上,勝つシーンがあってもおかしくはないと思います。UAEダービーGⅡ(ダート1800)。ここには日本からビクトリーテツニーが参戦しますが,当地での前哨戦が離されての2着の上,相手もさらに強化されますので,苦戦しそうです。ドバイゴールデンシャヒーンGⅠ(ダート1200)。ここにはアグネスジェダイとシーキングザベストの2頭。前者は当地の前哨戦が5着。後者も前者に比べて格段に強いとは思えませんので,ここも難しいのではないかと思います。ドバイシーマクラシックGⅠ(芝2400)。昨年はメルボルンカップ,有馬記念と2着が続いたポップロック。これは大いに勝機ありでしょう。強敵は共にイギリスのRed RocksとSir Percy,香港のVengeance of Rainあたりです。ドバイデューティフリーGⅠ(芝1777)。ここにはアドマイヤムーンとダイワメジャーの2頭。アドマイヤムーンは暮れに香港でPride相手に小差の2着。JRA賞最優秀短距離馬のダイワメジャーは天皇賞でそのアドマイヤムーン相手に完勝ですから両馬とも有力。このレースが日本の馬の勝つ可能性が最も高いと思います。メーンはドバイワールドカップGⅠ(ダート2000)。ここには今年になって川崎記念を勝ったヴァーミリアンが出ますが,アメリカのInvasorとPremium Tap,ドバイのDiscreet Catは相当に強そうですから勝つというのは困難ではないでしょうか。動画がアップされていれば結果についても明日,記事にします。

 この観点からスピノザ哲学における責任という概念について考える場合には,たとえば法というのがそうであるように,責任という概念が,個人の精神のうちで,共に共同体を構成する他者の自然権と対立する(結果的にそれが共同体の維持を困難にさせると考えられる上で)行為へとその個人を向かわせるような感情に対して,相反する感情を生じさせるようなものでなければならないということになります。このことからして,責任という概念は,好んで人間がそれを負いたがるようなものであってはならないということになるでしょう。もしそうであれば,それがほかのある感情に対して,相反する感情であるということが難しくなるからです。ということは,この場合には責任というものは,それがあるから人間がある行い(つまり責任を果たすといわれ得るようなこと)をなすような概念ではなくて,むしろそれを負うことがいやであるから,いい換えれば,あることをなした後に,そのことに対して責任を負わなければならないのがいやであるから,そのことをなさないというような概念であることになります。つまり,人間というのは元来が無責任(この観点から責任という概念を考える場合に)なものであるということがこの前提となっているといえるのではないかと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京浜盃&責任のあり方

2007-03-30 21:11:06 | 地方競馬
 28日の京浜盃の回顧です。
 先手を奪ったのはキョウバチャンプ。スローということはないですが,落ち着いた流れとなりました。トップサバトンはがっちりと2番手,アンバサンドは中団から後方でのレースとなりました。道中はさほど馬順の変化がないままに4コーナーへ。トップサバトンが直線の入口でキョウバチャンプを交わして先頭に立つと,迫ってきたのは2頭で,最内を突いたレッドドラゴンと,外から伸びてきたアンバサンド。この3頭で後続を大きく離しての叩き合いとなったのですが,スムーズに流れに乗って先に先頭に立ったトップサバトンが2頭の追撃を凌いで優勝しました。外のアンバサンドがゴール寸前でレッドドラゴンを捕えて2着,レッドドラゴンが3着でした。後続を離しての接戦ですので,この3頭はこの後の羽田盃でも上位争いをすることは必至でしょう。
 勝ったトップサバトンはここが南関東転入初戦。北海道2歳優駿以来の勝利。鞍上の御神本訓史騎手は前開催の東京シティ盃に続いての重賞制覇となりました。
 意外にも1番人気に推されたのはアートルマン(5着)でしたが,やや発馬が悪かった上に,道中はかかり気味。そうした敗因はありますがそれでも上位とはかなり離されていますので,このクラスの馬たちとと戦うのは初めてで,能力的にも足りなかったのではないかと思います。

 もう一度責任の発生に関する一般論に戻ってみれば,そこではある種の秩序,これはある共同体の秩序と置き換えることもできると思いますが,そうした秩序の維持のために責任という概念はあるとされていました。僕がこれを,スピノザの自然権に関する考え方と類似する点があるといったのは,スピノザの哲学に従って考えるならば,諸個人の自然権を最大限に確保するためには,確かに共同体というものは維持される必要があると考えられるからです。ただ,一般的には必ずしも共同体というものが,諸個人の自然権の拡大に寄与するために形成されるとは考えられてはいないと思いますので,スピノザの哲学からこの前提となることをしっかりと確認しておくことが重要です。責任の発生の一般論とスピノザの自然権の考え方は,類似しているといっても,相違点もやはりあると考える方が自然と思えるからです。
 しかし逆にいえば,この前提さえしっかりと押さえておくならば,この観点からひとつ,スピノザの哲学における責任という概念のあり方を考えることができるのではないでしょうか。つまり,法というものが自然権の確保(共同体の維持)に貢献するために作られるように,責任という概念もまた,そうした意味合いとしてあり得るということです。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋大賞典&法の効果の前提

2007-03-29 20:50:37 | 地方競馬
 昨日の名古屋大賞典(動画)の回顧です。先手を奪ったのは地元のムーンバレイで,かなりゆったりとしたレースになりました。有力馬ではキクノアローが最も前で3番手,ブルーコンコルドは7・8番手,サイレントディールは10番手といったあたり。ほとんど隊列に動きがないまま2周目の3コーナーへ。まず5・6番手に位置していたアルドラゴンが進出を開始,ブルーコンコルドもこれを見るように外を進出。2頭でキクノアローまで交わして直線へ。ここからアルドラゴンがさらに伸びて優勝。ムーンバレイが2着に逃げ粘り,ブルーコンコルドは伸びを欠いて3着までと,波乱の決着になりました。優勝したアルドラゴンは今年の正月にオープン入りした6歳馬。オープンでの2戦は2桁着順に大敗していたので軽視しましたが,それはスプリント路線でのもので,むしろこうした距離の方がいいのかもしれません。ただここは有力馬の凡走に助けられた感もあります。絶妙のタイミングで仕掛けた藤田伸二騎手の好判断も光りました。同様のことは2着のムーンバレイにもいえ,こちら愛知の吉田稔騎手が絶妙のペースで逃げたということでしょう。ブルーコンコルドは追い出したときにややもたついた感があり,59キロの斤量がやや響いたと思われます。キクノアロー(4着)はもっと早く自分から動いてもよかったかもしれません。サイレントディール(10着)はここ2戦でしていた競馬ができずじまい。あるいはこの馬のウイークポイントである気性面での難しさを出してしまったでしょうか。

 スピノザの哲学における法の効果(法律に限らず,道徳や倫理も含めて)というのを具体的にいえば,ある共同体の内部において,その共同体を構成する各人の間で,ある人が自然権を行使すること,すなわちある何らかの行為が他者の自然権と衝突してしまう場合に,その行為を受動的に抑制させるということ,つまり,他者の自然権と衝突するその行為へその人を駆るような感情に対して,法から生じるような別の感情がより強力な相反する感情として作用するということにあるわけです。端的にいえばこれは,たとえばだれかを殺してやりたいという受動感情を,罰せられるのは怖い(いやだ)というような相反する受動感情によって抑制するということです。ただし,スピノザの哲学においてこれをいう場合に僕が絶対に理解しておかなければならないと考えることは,この効果は,共同体を維持することに役立つものではありますが,そのこと自体が目的とされているのではないということです。人間が共同体を構成するのは,そのことによって諸個人の自然権が拡大されるからなのです。スピノザの哲学においては共同体(現代でいえば国家)も法も,個人の自然権をより大きくするための手段のようなものであると僕は考えています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棋王戦&相反する感情

2007-03-28 22:54:01 | 将棋
 棋王戦五番勝負第五局。竜王戦第七局,王将戦第七局と後手になっていた挑戦者の佐藤康光棋聖ですが,今日は振駒で先手を得ました。先後は逆ですが出だしは第二局と同じ。15手目に▲2三歩と変化したので,飛車交換にはなりませんでした。に覗いたのが25手目の▲7九玉の局面。まだ形勢をどうこういうような局面ではないと思いましたが,森内俊之棋王の方が1時間も多く時間を使っているのは気になりました。3時にまた見ると39手目の▲5八金の局面になっていました。陣形は圧倒的に先手の方がよさそうでしたが,後手も歩得をを果たし,9筋の突き越しも生きているように思えましたので,指せなくはないのではないかと思いました。6時半前に見ると82手目の△3四歩の局面。どうしてこう進展したのかまったく分かりませんでしたが,ここは先手の玉を寄せるとなると相当に大変そうですから,先手の勝勢といえると思います。結果的にみると,長考を挟んでの47手目に▲4七角と打ったのが好手で,ここから銀損をしても飛車を素抜くという大技をかけたのが好判断だったということではないかと思います。△3四歩以降,89手目に▲1三龍と入ったのもおそらく好手で,以下は問題なく寄せきって佐藤棋聖の勝ち。3勝2敗とし,新棋王に輝きました。タイトル挑戦に4回連続で失敗していましたが,最後の最後で奪取。佐藤棋聖の棋王獲得はこれが初めて。保持している棋聖と合わせての二冠で,二冠は4年ぶりです。森内前棋王はこれでタイトルは名人のみに後退となってしまいました。

 第四部定義五の相反する感情を具体的に考えてみます。これはある同一の主体の中にある感情についていわれますので,たとえば喜びと悲しみが反対感情であるというようには一般的にいうことはできません。ここでは次のような例をあげます。ある人間がいて,この人間の中で,Aさんに対する愛とBさんに対する愛が両立し得ないと仮定します。もちろんこれは,必ず両立し得ないというものではありませんが,こうしたことを経験された方はいらっしゃるのではないかと思いますし,仮に経験していなくても,あり得ることと想像はできるのではないかと思います。この限りにおいて,この人のうちにあるAさんへの愛とBさんへの愛は相反する感情であるということになります。同じ愛という感情であるのになぜそれがひとつの主体の中で相反することがあり得るのかといえば,厳密にいえば,感情というのは対象の数と同じだけあるからです(第三部定理五六)。したがって,ある人のうちにあるAに対する愛とBに対する愛というのは,同じ愛と定義されるような感情であったとしても,実際には別の感情であると考えられなければならないのです。このために,ある人に対する愛と,別の人に対する愛が,僕たちを別の方向に引きずるということ(僕たちの中で両立し得ないということ)が起こり得るのです。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本選手権競輪&第四部定義五

2007-03-27 22:50:09 | 競輪
 25日に決勝が行われた日本選手権競輪の回顧です。加藤選手がSを取ったので村上選手の前受け。小野選手,小倉選手が並び,有坂選手と渡辺選手が続いて平原選手は7番手。残り3周のバックから平原選手が早めに上昇すると村上選手は引いて,残り2周の段階では平原選手の先行態勢に。打鐘で小野選手-小倉選手でインを突き,平原選手の後ろで番手戦。残り1周のホームから村上選手が発進,カマシきるかに思えましたが,平原選手自身がブロックにいき,村上選手が落車。これに加藤選手と渡辺選手も乗り上げてしまいました(3人とも再乗)。平原選手(失格)も車体故障を起こして後退したので番手の兵藤選手が逃げる形に。ここを後方でうまく落車を避けた有坂選手が自力発進。兵藤選手もそれほどスピードを上げていなかったのでこの捲りが決まってバックでは先頭に。兵藤選手の番手に収まっていた小野選手が切り替え気味に追走し,直線はふたりのマッチレースになりましたが,有坂選手が凌ぎきって優勝。2着入線の小野選手は,打鐘過ぎに追い上げた際,稲村選手に対する内側追い抜きがあったために失格。2着に兵藤選手,3着に稲村選手がそれぞれ繰り上がっています。優勝した秋田の有坂直樹選手は昨年のグランプリを制覇し,優秀選手にも選ばれましたが,GⅠはこれが初優勝。ここは玉野記念からの連続優勝で,今年も好調。この年齢になってからのこの活躍は本当に驚異的だと思います。おそらくレース前からどこかでチャンスがあれば自力捲りをと考えていたと思われ,その積極性が功を奏したのではないかと思います。村上選手と加藤選手には事故がなければ絶好の展開になったと思われ残念です。
 明日は棋王戦五番勝負第五局です。やはりまずは振駒が重要なポイントと思えます。
 名古屋では名古屋大賞典。JRA勢が強力で,ブルーコンコルド◎,キクノアロー○,サイレントディール▲の順。あとは兵庫のチャンストウライ△を。
 大井では京浜盃。こちらはかなりの好メンバー。アンパサンド◎とトップサバトン○の争いと思います。続くのがアートルマン▲で,ほかにレッドドラゴン△とザマローレル△も。

 法がある効果をもつのは,それがある感情に対する相反する感情として作用するからであるというのがスピノザの基本的な考え方といえると思います。ところでこの相反する感情というのは,やや特殊な概念といえるかもしれません。まず,たとえば喜びと悲しみ,あるいは愛と憎しみなどは反対感情といわれます。これは,語義的な意味で反対の感情ということです。したがって,これらの感情の関係は,真の観念と誤った観念,十全な観念と混乱した観念,あるいは十全な原因と部分的原因(第三部定義一)との間にある関係と同じであると考えていいと思います。第四部定理七でスピノザは「それと反対の」ということばを使っていますが,しかしこれはこうした意味での反対感情のことではなく,僕が相反する感情というところの感情のことです。では,その相反する感情とはどういう感情かといえば,それは第四部定義五で定義されています。「相反する感情ということを,私は以下において,人間を異なった方向へ引きずる感情のことと解するであろう。これは共に愛の種類である美味欲と貪欲のごとくたとえ同じ類に属するものであってもかまわない。この場合は本性上相反するのではなく偶然によって相反するのである」。同一の主体(人間)の中にふたつの感情があって,これらの感情がその人間を異なった方向に引きずる場合,いい換えればこれらの感情がこの主体のうちで両立(並存)するということができない場合,それらの感情は互いに相反する感情といわれると理解していいと思います。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女流名人戦&法の効果

2007-03-26 21:45:39 | 将棋
 女流名人戦五番勝負第五局。振駒で挑戦者の中井広恵女流六段が先手となり,相矢倉▲3七銀-△6四角の戦型になりました。常々いっているように相矢倉の将棋というのは僕には難しくて分からない部分が大きいのですが,一般的には,まず先手から攻めて,後手がそれに対してどこかでカウンターから反撃し,激しい攻め合いとなるわけです。この将棋も先手から攻撃を開始したわけですが,後手の矢内理絵子女流名人は,カウンターから攻め合いを目指すというより,どちらかといえばしっかりと受けきるという将棋になりました。これが可能になったのは,おそらく先手の攻めにどこかで無理があったためと思われ,そのために十分に受けてから攻撃に回れば勝てるという形勢になったからだと思うのですが,では先手の攻め方のどこが拙かったカといわれれば僕には分からないです。126手目に,△3三同玉となり,後手玉が上部に脱出できるような形になっている時点では間違いなく後手の勝勢。この後,決めにいく過程では検討陣から評判の悪い手もあったようですが,問題なく押し切ってそのまま後手が勝ちました。一旦は角番に追い詰められはしたものの,そこから連勝で3勝2敗とし,矢内名人の防衛。矢内名人はタイトル防衛はこれが初めてですが,現状では名実ともに女流の第一人者となったといえるのではないかと思います。今後はむしろ先行世代よりも,同世代やもっと若い世代との本格的な争いになっていくのではないでしょうか。なお,独立問題を担当している西村理事の見解から,独立がどういう形で収束するとしても,タイトルそのものについては大きな影響はないと考えてもよさそうです。

 諸個人の自然権を拡大するために形成される共同体において,かえって諸個人の自然権の間で対立なり軋轢なりが生じるとすれば,諸個人が自身の自然権の一部を放棄するような調整が必要であるということになります。それをどのように調整するのかとなったときにスピノザが注目するのは,この対立は,人間が受動的である限りにおいて生じるという点です。こうした受動感情は,それより強大な相反する感情によらなければ抑制できない(第四部定理七)というのがスピノザの考え方です。スピノザの考えでは,一般に法とか道徳といったものは,そうした効果を生み出すためにあるということになります。したがって,たとえばある共同体における法というのは,必ずしも理性的なものではなく,あるいは少なくとも共同体を構成する各人に対して理性的な効果を生じさせるようなものではなく,むしろある種の受動感情,とくに受動感情としての欲望について,それを抑制させるような効果を生み出すものであるということになります。これはたとえば,刑罰に対する恐怖の感情が,その刑罰の対象となる行為に対する欲望を抑制させるというようなことと考えていいでしょう。人間は受動的であるということからは逃れられないわけですから,ここには確かに法の効果というものがあるというのがスピノザの考え方だと僕は理解しています。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松宮記念&自然権の放棄

2007-03-25 21:35:53 | 中央競馬
 第37回高松宮記念
 一斉の発馬。ダート路線から転戦してきたディバインシルバーが逃げ,エムオーウイナーがこれに続く展開。前半の600メートルは33秒8で,重馬場というコンディションを考慮するとやや早めのミドルペースでしょうか。僕が期待したシーイズトウショウは好位のイン,プリサイスマシーンとスズカフェニックスは中団の前目を前後するような位置取りでレースを進めました。
 直線に入るとディバインシルバーは一杯となり後退。シーイズトウショウが最内から一旦は抜け出す構えでしたが,馬場の中央から鋭い脚で抜けてきたのがスズカフェニックスで,あっという間に後続に2馬身半という,この距離にしては圧倒的な差をつけて快勝となりました。
 馬はGⅠはこれが初勝利。鞍上の武豊騎手は昨年暮の有馬記念以来のGⅠ制覇で,これで20年連続のGⅠ勝ち。重馬場の影響かタイムは1分08秒9とかなり平凡で,ここ数戦で使っていたほどの末脚を出したわけでもないのですが,この着差ですから,もっと高いレベルで戦える馬かもしれません。
 2着は突き放されはしたものの後を追って伸びてきたプリサイスマシーンが確保するかと思いましたが,大外からペールギュントに強襲されての3着まで。
 ペールギュントの好走は正直なところびっくり。母がツィンクルブライドですので,平坦のこの距離が合っていたということなのでしょうが,この時計ですので,どの馬が来ても不思議はないのかもしれません。
 シーイズトウショウはうまいレース運びであったと思うのですが,馬場の中央から外を通った馬ばかりが上位を占めていますので,今日の馬場状態が内を回った馬には不利であったようです。

 明日は女流名人戦五番勝負第五局。勝った方が名人ですから両対局者にとって大きな一番であることはいうまでもありませんが,世代闘争という面からも大きな一局といえそうです。

 人間が完全に能動的であるということはできないということ,つまり人間は受動状態から完全に逃れることはできないということは,諸個人の本性が現実的には異なるということを意味します。そこでそれらの異なる本性の必然性から各人があることをなせば,つまりそれは各人が拡大された自然権を行使すればということですが,そこに軋轢や対立が生じるということになります。もちろん絶対にそうなるというものではないでしょうが,少なくともこの限りで,いい換えれば人間というのは受動的である限りで,相互に対立的であり得るということになるのです(第四部定理三四)。
 僕はこの事実の中に,共同体の内部においては各人が自分自身の自然権の一部を放棄しなければならないということの契機があるのだと考えます。ただし,ここで重要となってくるのは,この自然権の放棄は,必ずしも自然権の縮小を意味はしないということです。なぜなら,共同体において人間の自然権は,その人間が自然状態に置かれているよりも現に拡大しているのです。したがって,その拡大された自然権の一部についてはたとえそれを放棄したとしても,自然状態にあるよりはやはり自然権は拡大されているからです。あるいは逆に,自然権の一部を放棄してもなお,自然状態にあるよりは各人の自然権が拡大されているのでなければ,人間が共同体を形成する意義はないということになると思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グローバルハードコア&自然権の拡大

2007-03-24 20:43:42 | NOAH
 白のGHCの新チャンピオンになった志賀選手はその後,川畑選手,太田選手,神風選手を相手に防衛。このうち初防衛戦で敗れた川畑選手はルール(何でもありなので)によってパンチパーマになったのですが,これを機に意気投合。志賀選手はベルトを川畑選手とのチームで獲得したいという意向で,タイトルを返上。改めてタッグの選手権として前シリーズに4チームが参加してのトーナメントが行われました。決勝(といっても一回戦が準決勝ですが)に進出したのは志賀選手と川畑選手のチームと,潮崎選手と谷口選手のチーム。先月の17日に有明で行われたこの試合は,若くキャリアの浅いふたりに志賀選手が捕まって苦戦したのですが,最後は谷口選手に川畑選手がなんとムーンサルトプレス(川畑選手のこの技は僕は初めて見ました)を決めて3カウントを奪取。目論見通りにこのチームで戴冠ということになりました。川畑選手はNOAH旗上げ時の全日本プロレスからの移籍組ではなく,途中からNOAH所属になったレスラーですが,NOAH参戦後だけでなく,レスラー生活でも初のベルト獲得だったようです。流れの中でややスムーズさを欠くようなところがあって,それが改善されればトップとはさすがにいかないでしょうが,もう少し上のランクまではいけるのではないかと思っています。タッグの選手権になったのですからベルトも当然2本と思いきや1本のまま。そのうちまたシングルのタイトルになるのかもしれません。
 明日は高松宮記念。この路線はレベルが高くないので難しいです。僕の狙いはシーイズトウショウ◎。プリサイスマシーン○とスズカフェニックス▲が相手で,スリーアベニュー△も。
 日本選手権競輪は決勝。平原-兵頭-稲村の関東と村上-加藤の近畿中部に小野-小倉の西国が続く2分戦。有坂は西を追走し,渡辺は位置を決めずに。すんなりなら加藤選手◎と村上選手○で考え,平原選手▲を絡めたいです。一発なら渡辺選手△でしょうか。

 人間は,ひとりの場合よりもふたりで協力する場合の方がより多くのことをなすことが(なし得ることが)できます。これはそれ自体で明らかだと思います。そこでさらに多くの人数が協力することによって,さらにより多くのことをなすことができるわけです。こうしたことを主眼として形成される集団が共同体であるというのがスピノザの考え方だと僕は思います。なお,ここで共同体というのは,厳密に社会学的な意味(社会と対立するような意味)ではなく,社会とか国家なども含む広い意味での共同体です。したがって,実際にそのような状態というのがあるのかどうかということは別にして,もしも人間がばらばらに各々が孤独のうちにあるような状態というのを人間の自然状態と仮定し,この自然状態のうちにある人間と,共同体のうちにある人間とを比較するならば,共同体のうちにある人間の方が自然状態のうちにある人間よりもずっと多くのことをなし得るわけですから,スピノザの自然権の考え方からして,人間は自然状態にあるより共同体のうちにある方が,より強大な自然権を有しているということになるのです。逆にいうとこれは,共同体というのは個人の自然権の拡大に寄与するために形成されるということですから,その機能を果たさないような共同体は存在する意味がないということになりますが,これについては政治学や国家論の課題ですのでここでは割愛します。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棋王戦&個人の本性

2007-03-23 23:26:47 | 将棋
 棋王戦五番勝負第四局。今日は午前中にネット環境にあったので,対局開始から11時頃まで観戦しました。森内棋王の先手で,後手の佐藤棋聖が一手損角換りの向飛車。端の形が違いますが戦型としては王将戦第七局と同じ。そのときより早い段階で先手が▲6五角と打ったので,序盤早々から大乱戦になりました。この展開,先手が作った馬を金と交換し,この金を打って後手の生角と交換するわけですから,部分的にいえば先手が随分と損をしているということになると思うのですが,歩得が残りますし,玉の形も先手の方がいいように思いますから,悪くはないのでしょう。僕は27手目の▲4六歩までしか見られませんでしたが,有利・不利はともかく,少なくとも模様として先手が悪いということはないだろうと思いました。あとは対局終了まで見られませんでしたが,この将棋は感想戦にある通り,46手目の△4四角が敗着で,ここから角を切って51手目に▲3一飛成と飛車取りで龍を作ったところでは先手が優勢でしょう。トッププロとしては珍しいと思えるくらいの重大な錯覚が佐藤棋聖にあったようですが,ここからはおそらく完璧な指し回しで森内棋王の勝利。ということで2勝2敗の五分となり,決着は最終第五局に持ち越しとなりました。今シリーズはずっと先手が勝っているということもあり,最終局は振駒になりますので,それがひとつ大きなポイントになりそうです。28日に指されます。

 エチカでは個人の本性(人間の本性)というのは,能動的な場合と受動的な場合のふたつの観点から考えられているといえるように思います。前者は理性という観点で,後者は受動感情としての欲望(欲望という感情は,必ず受動的であるというわけではありません)という観点だといえます。人間が理性(能動的にみられた場合の人間の本性そのもの)に従う場合,すべての人間は必然的に一致します(第四部定理三五)。したがってこの場合,その本性から必然的に生じることも各人において完全に一致するということになります。よって,スピノザの自然権の考え方からして,万人に同じだけの自然権があるということになると思います。しかし,受動感情としての欲望という観点から人間の本性を考えた場合(第三部諸感情の定義一),たとえば人間は同一の対象から異なった仕方で刺激されるということがあります(第三部定理五一)ので,本性の必然性から生じることは,各人によって異なりますし,また,同一の人間であっても,時によって,あるいは場合によって異なるということがあり得るでしょう。ですからこの場合は,各人の自然権というのは,その受動のあり方に応じて異なるということになります。そしてエチカの大原則として,人間が完全に能動的であるということは不可能ということになっていますので(第四部定理三,四),基本的に,人間が有する自然権というのは,拡大することもあるし縮小することもある,そういう動的で実在的な概念であるということになるのではないかと思います。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜花賞&自然権

2007-03-22 21:50:16 | 地方競馬
 昨日の第53回桜花賞の回顧です。
 僕が期待したタガタメが大きく出遅れ。逃げ馬ですので鞍上の山口竜一騎手がいうようにこの時点でレースを終えてしまいました。それでも6着まできたのは力の証明でしょう。
 好発はマルノマンハッタンで,正面では逃げるかの態勢でしたが,外からパチョリ,さらにエアショセットが行ったので,内内を5・6番手まで下げました。向正面では行った2頭が後続をやや離す展開に。前半の800メートルが49秒2で,出走した馬のレベルを考えれば極度のハイペースだったと思います。競り合いは3コーナーまで続きましたが,エアショセットが後退。ここを再びインからマルノマンハッタンが追い上げてきて,4コーナーではパチョリの外に体を併せて抜け出しました。マルノマンハッタンが追い上げたのと同じコースを後ろから追ってきたのがアグネスターフで,こちらは直線ではパチョリの内へ。この2頭が後続を離しての競り合いになりましたが,マルノマンハッタンが半馬身凌いで優勝。アグネスターフが2着で,5馬身差の3着にはパチョリが粘りました。浦和の1600メートルはコース形態から内枠が断然有利ですが,ここはその3頭での決着。
 優勝したマルノマンハッタンはデビュー勝ちの後,中央の芝のレースは大敗でしたが南関東に戻って連勝。それ以降は調子を崩したか3連敗でしたが,前走のトライアルではカネショウバナナの2着になっていて,復調していたようです。ただこのレースはこの馬には初騎乗となった石崎隆之騎手の手腕が大きかったようにも思います。
 なお,ブラックムーンは競走中止でしたが,高橋華代子さんのレポートでは厩舎には戻ったようですので,最悪の事態には至らなかったものと思います。

 明日は棋王戦五番勝負の第四局。4連続でタイトル挑戦に失敗した佐藤棋聖に残るのはこれだけとなりました。

 これは目的論的な説明なのですが,責任の発生についての一般論のうちには,スピノザが自然権jus naturaeについて考える場合に類似した観点が含まれていると僕は感じています。もっとも,自然権という概念notioは,どちらかといえば政治学の文脈で用いられますので,『エチカ』で詳しく考察されているというわけではありません。ただ,第四部定理三七の備考二で「人はみな最高の自然権によって存在し,したがってまた各人は自己の本性の必然性から生ずることを最高の自然権によってなすのである」とスピノザがいっている部分は,わりに印象的です。
 僕はこの中には,まずスピノザの自然権という概念に対する基本的な考え方が含まれていると思います。一般に自然権を代表とするような権利というものは,ある名目的なものとして,諸個人に平等に与えられているものと考えられています。しかしこれでみればスピノザはむしろ,自然権とは諸個人が存在し,そしてあることをなすということそのもの,すなわち実在的なものであると考えているように思います。そして,人間がなすという事柄が自然権そのものだということになれば,もしも諸個人の必然性necessitasから生じることに差異がある場合には,諸個人に与えられている自然権もまたそれに応じて異なるということになるのではないかと思うのです。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒船賞&文脈からの類推

2007-03-21 22:36:23 | 地方競馬
 第10回黒船賞(動画)。
 ロッキーアピールの逃げを想定していたのですが,ストロングボスが叩いてこれを制して逃げました。ロッキーアピールは2番手の外。人気のJRA勢はリミットレスビッドが5番手,これをマークするようにメイショウバトラーが外の6番手,ニホンピロサートは内で7番手という位置取りでした。詳しいラップは分かりませんが,この距離ですからスローペースということはなかったと思います。
 3コーナー手前からリミットレスビッドが進出開始,これに押してメイショウバトラーがついていって,ストロングボスは後退。4コーナーではロッキーアピール,リミットレスビッド,メイショウバトラー,内から進出してきた愛知のキングスゾーンが並ぶ態勢。大外のメイショウバトラーがまず脱落して,リミットレスビッドが抜け出すと,内からキングスゾーンが2番手に。そこに馬場の中央からニホンピロサートが差してきました。結局,リミットレスビッドが優勝。ニホンピロサートが2着に届いて,キングスゾーンが3着に健闘。以下,ロッキーアピール,メイショウバトラーという着順でした。
 勝ったリミットレスビッドは暮れの兵庫ゴールドトロフィー以来の勝利。メイショウバトラーに1番人気は譲っていましたが,この距離ではこちらの方が上のようです。概ね実力馬が上位を占め,順当な決着。キングスゾーンはずっと長めの距離を使っていたので今日は軽視していたのですが,むしろこのくらいの距離の方がいいのかもしれません。

 責任ということばが一般的にどういった文脈で用いられるのかということを考えてみます。
 たとえば,何年か前にイラクで日本人が人質になったときに,それは人質になった人の自己責任であるというようなことがいわれましたが,これなどは責任(自己責任)ということばが使われる典型的な例なのではないかと思えます。つまり責任(自己責任)ということばは,多くの場合はある客観的な状態を示すために用いられるのではなくて,だれそれには責任があるという文脈の中で,その主語にあたる当人の価値基準を示すために用いられるのです。この場合は,この価値基準を否定する,あるいは低下させる文脈ですが,逆に,だれそれは立派に責任を果たしたという場合でも,やはり何らかの価値を含む中で責任(自己責任)ということばが用いられているということは同様なのではないかと思います。
 このように考えてみると,責任ということばは,それ自体の中にだれかが罰せられなければならない(法的な刑罰であるかどうかは関係なく),あるいはだれかは十分に罰せられたという意味を含んでいるように思えます。ですから,欲望を直接の原因として責任という概念が生じると仮定した場合には,人間の中にある他人を裁きたいとか罰したいという欲望を合理的に充足させるための手段のひとつとしてこの概念が生じてくるという分析は,突拍子もないような感じもするのですが,意外に正しいことをいっているのではないかと僕には思えます。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王将戦&原因としての欲望

2007-03-20 22:06:56 | 将棋
 王将戦七番勝負第七局。昨日の段階で独創的な戦いになったといいましたが,佐藤棋聖の指し方はかなり意外性のあるものだったようで,渡辺竜王も図面を使って解説されていました。2日目に入って封じ手(39手目)は▲7八金上。ここから後手が左辺(先手から見て盤面の右側)の厚みを生かして押え込みにかかったのに対し,先手は封じ込まれる前にと左側から攻めかかりました。この展開の中で,53手目に▲9四歩と垂らしたのが一見するとぼんやりしているようですが,好手だったのではないかと思います。ここから先手は桂得に成功。さらに75手目に▲8三飛成とした局面では圧倒的優勢に立っているものと思います。僕は今日は7時前まで一度もアクセスする時間がなかったのですが,それは▲5三銀と打ちこんだところ。ここからは即詰みですので,本当に終りの場面だけでした。ただこれが107手目ということですので,後手もかなり不利な局面から随分と頑張ったようには思います。佐藤棋聖としては作戦がうまくいかず,一方的な敗戦となってしまいました。これで羽生王将が4勝3敗で防衛。王将獲得が通算10期となって,永世王将の称号も獲得しました。永世王将は大山一五世名人に続く2人目。大山永世王将は王将獲得20期ということで,羽生王将はまだ半分ですが,年齢を考えれば,少なくともそれに迫るところまではいけると思います。
 明日は高知で黒船賞。ここはリミットレスビッド◎,メイショウバトラー○,ニホンピロサート▲のJRA3頭が強力。ほかでは川崎のロッキーアピール△。
 浦和では桜花賞があります。こちらはタガタメ◎に期待。ブラックムーン○とアグネスターフ▲が相手で,カネショウバナナ△とパチョリ△も。

 人間には他人を裁きたい,他人を罰したいという欲望があって,この欲望をあたかも合理的に充足させる手段として,裁判や刑罰(犯罪)といったものが制度化された。この一環として,犯罪を犯した人間を刑罰に処し得るような概念として責任という概念も形成されることになった。これは,スピノザの哲学よりは,どちらかといえばニーチェとかフーコーといった思想家の考え方に近いものではないかと思いますが,このような考え方というのは,確かに因果論的な発生を含むような仕方で責任という概念を説明しているといえるのではないかと思います。同様に,ある何らかの秩序については,それを維持したいという欲望が人間のうちに発生することによって,それを維持させるための一手段として,責任という概念が産出されるに至ったと考えても,やはり同様に責任という概念の発生を,目的論的にではなく,因果論的に説明しているといえるのではないかと思います。いずれにしても,責任の一般論の中にはある誤謬があるのであって,そうであるからには第二部定理四〇の意味からして,発生の原因の方も誤った観念(混乱した観念)ですので,それが何かを特定することにはさしたる意味もないと思いますが,こうした方法が,責任の発生を因果論的に説明するひとつの方法であることは間違いないでしょう。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

順位戦回顧&因果論と目的論

2007-03-19 20:59:40 | 将棋トピック
 16日のB級1組一斉対局をもって,今年度の順位戦が終了しました。今日はクラス別に回顧してみます。まずA級。優勝(名人挑戦)は郷田九段。日本シリーズ準優勝はあったものの,他棋戦ではそうも活躍したとはいえない1年で,うまくここに勝ち星が集まった感があります。それでもこれだけのメンバーの中で1局を残した時点で優勝を決めたのは立派の一語。名人戦でどのような時間の使い方をするのかに興味があります。降級は深浦八段と阿部八段。このうち深浦八段はA級は2期とも4勝5敗で降級。まだ下位クラスのころは9勝1敗の頭ハネ(順位の差で昇級できず)を食らった経験もあり,順位戦という棋戦にツキがない感じです。B1は木村七段と行方七段が昇級。ここはこのふたりと鈴木八段が力上位と思え,この3人での昇級争いになりましたので順当かと思います。降級は野月七段と森九段。B2は渡辺竜王と杉本七段が昇級。渡辺竜王は大本命ですし当然ですが,全勝は見事です。杉本七段も竜王戦は1組(今年も緒戦突破)ですので順当とはいえますが,先崎八段や山崎七段が早々に脱落したのは意外でした。現役最古参の加藤九段が7勝3敗と奮闘しました。C1からは松尾六段と橋本七段が昇級。両者とも実力者です。とくに橋本七段は竜王戦1組で,2年連続の昇級は見事でした。C2は昇級枠が3人で,片上五段,広瀬四段,上野四段。このクラスは人数も多く,そのために順位が大きく左右しますが,今年はこの3人だけが9勝1敗で,わりとすっきりした形に収まりました。こちらでは現役最年長の有吉九段が7勝3敗と奮戦しています。
 王将戦は羽生王将が先手で,一手損角換りから後手の向飛車。かなり独創的な戦い方になったという印象です。
 明日から平塚で日本選手権競輪(ダービー)が始まります。6日間の長丁場です。

 スピノザが因果論だけを論理として認める背景には,目的論を排除するという意図があります。たとえば人間が汗を掻くときに,体温を調節するために汗を掻くといえばこれは目的論的説明で,暑いから汗を掻くといえばそれは因果論的説明ということになります。スピノザの考え方では,目的というのは結果が生じた後に,始めて明らかになるようなことで,そこには事物の発生は含まれないということになっています。確かに,体温を調節するために汗を掻くといっても,体温を調節する必要がなければ汗は掻かないでしょうから,そのことの中に汗を発生させる原因は含まれてはいないといえます。むしろこれは,何らかの別の要因(たとえば暑いということ)によって人間が汗を掻き,その後になって発見が可能になる事柄であるといえます。そこで,これを責任という概念の一般的な発生に関する考え方に当てはめてみると,ある何らかのシステムを維持するために個人には責任という概念が与えられるという考え方は,確かに責任の発生を含んでいるようには思えるのですが,明らかにシステムの維持という目的のために責任という概念があるといっているわけですから,スピノザが否定した目的論的な考え方であるとも考えられます。そこでもっと確かに因果論的であるといえるような仕方で責任という概念が発生するというあり方とはたとえばどのようなあり方であるのかを考えてみることにします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上田馬之助&責任の発生

2007-03-18 20:18:48 | NOAH
 今月のG+のプロレスクラシックでは,1983年3月のジャイアント馬場選手と上田馬之助選手の試合が放映されています。
 上田選手が凶器を出した後,馬場選手がスタンディングで上田選手の左腕を取り,体重をかけてマットに押し潰すと上田選手は左肩を脱臼。馬場選手はそれに気付いていたと思うのですが,あとは延々とその攻撃を繰り返し,レフェリーストップで馬場選手の勝ち。
 馬場選手は本来はこういうセメント的試合は嫌いな筈で,僕のプロレスキャリアの中でも不可解な試合のひとつでしたが,この経緯について,当時のレフェリーを務めた現GHC管理委員長のジョー樋口さんが著書で明かしています。
                         
 この試合が行われたシリーズは米国遠征で馬場選手は全戦欠場の予定でした。上田選手はそれに腹を立て,馬場選手が出ないなら自分もシリーズの後半をボイコットすると言い出して実現したのがこの試合。馬場選手というのは常識人で,契約違反を嫌います。そこで契約違反を口にした上田選手には制裁が必要と考え,このような試合になったようです。その理由も,制裁をリングの上でやったというのもなるほど馬場選手らしいエピソード。試合の前には「腕か脚を折ってやる」という主旨の発言をしていたようで,まあプロレスラーはこんなことをよく言いますが,実際にはやらないもの。逆に馬場選手は滅多にこんなことは言わない選手で,それを有言実行したというのもまた馬場選手らしいエピソードだと思います。

 明日から王将戦七番勝負第七局。また振駒になりますので,どちらが先手を得るかがまず最初の注目点です。

 一般論の中には,責任という概念があることの前提は含まれていますが,責任という概念の発生が含まれているとはいえません。仮に人間に自由意志があり,その自由意志によって自分の身体を動かし得るとしても,だから責任という概念が発生しなければならないような理由はこの中には見出せないからです。
 そこで,これについてもやはり一般的に考えれば,責任というのは法的責任とか道義的責任とかいわれるように,明文化された法律であれ,そうではないような道徳あるいは倫理であれ,ある何らかの秩序なりシステムなりが乱された場合に,それを乱した人間について問われるものです。そしてそのときに,人間は自由意志があり,それによって行為するのだから,それを乱した行為がその人間の自由な領域に属すると考えられ,その人間が自身の行為に対して何らかの責任を負うということになります。したがってこれを逆に考えれば,ある種の秩序やシステムは保持されるべきものであって,そのためにそれを侵した人間には何らかの懲罰が必要で,この懲罰を合理的なものとするように個人に与えられるのが責任という概念(責任を負うということ)といえるのでしょう。
 なぜ人間は責任を負えるのかという問いに比べると,なぜ人間は責任を負わなければならないのかという問いは,一般的に問われた場合には答えることがむしろ難しいのではないかと僕は思うのですが,大方はこのような意見に集約されるのではないかという気がします。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分裂の危機&因果論

2007-03-17 21:58:00 | 将棋トピック
 昨日,現状での将棋連盟からの独立に反対という女流棋士が記者会見を開いたようです。この内部対立は,独立するか残留するかではなく,喧嘩しても独立するか円満に独立するかの対立に思えます。独立という点で一致しているのなら,折り合うことも可能かと思えます。もうすでに寄付を集めているわけですから,「残留」希望の棋士が主張するようにすべてを白紙に戻すということは準備委員会としてもできないでしょうが,ただ説得するというだけではこの棋士たちを納得させることはできないと思えますので,独立後の新法人が連盟と良好な関係を保ち得る何がしかの手段を講じなければ,中井委員長がいうように分裂を回避するのは困難な情勢かと思います。一方,この棋士たちは本来は残留ではなく円満な独立を望んでいるのですから,連盟にもそれなりの責務があります。連盟は準備委員会との話し合いを拒否しているようですが,これは要望と変わらぬ感情的姿勢というべきで,むしろこの棋士たちが安心して独立できるように,可能な限り一致点を探すべく対話を繰り返すべきでしょう。この棋士たちに「残留」を希望させてそれで問題解決というならこれはひどく無責任な話だと思います。円満な独立というのは,僕が考える最善の方法であり,多くの将棋ファンにとっても同様なのではないかと思います。この棋士たちはその最善の結果を模索した人たちであるといえるわけですから,結果的にこの棋士たちが今回の騒動の最大の被害者になってしまったなどということだけはないようにしてもらいたいです。

 第二部定理四〇に関連する考察が当初に思っていたよりも長引いてしまいましたが,これについてはこれで終わりということにして,またテーマである責任論に戻ることとします。さて,これを考えていく前提というのは明らかになっているわけですが,これだけですとどこから手をつけていいものか分かりません。そこで,これをスピノザの哲学,なかんずくエチカに訴えて考えていくわけですから,まずはスピノザ哲学の原点に立ち返ってみることにします。それはいうまでもなく,この哲学全体を貫いているただひとつの原理(論理)といって差し支えない因果論で,エチカでいうなら第一部公理三ということになります。ここから,仮に人間に責任という概念が生じてくるのであれば,そこにはその概念が生じてくるだけの原因があるということが分かります。そこで,責任という概念がいかにして発生するのかを考えるということがまず第一であるということになりますが,第一部公理三は真理について妥当であるだけでなく虚偽についても妥当である,すなわち,十全な観念にのみ妥当であるだけでなく混乱した観念にも妥当であるということになりますから,まずはそれには誤謬はあるわけですが,考察の契機にはなるでしょうから,責任という概念の一般論においては,どのようにこの概念が発生し得るのかということを考えてみたいと思います。
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする