スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑫-5&スピノザの誤謬

2017-01-31 19:08:55 | ポカと妙手etc
 ⑫-4の第2図の後手の次の一手は☖3七桂でした。
                                     
 桂馬は敵陣の一段目と二段目に打つことはできません。三段目に打つ手は,詰ます場合を除くとあまりいい手でないケースが多く,とくにこの将棋のように中盤で打つのはやや考えにくいところがあるのではないかと思います。
 ☗同銀は☖4七飛成があるので取ることはできず,飛車が逃げるほかありません。☗2八飛は☖4九桂成で角の行き場がありませんから2六か2七ですが☗2七飛と逃げました。
 これには☖4九桂成と追撃。先手は☗2八角と逃げるほかありません。そこで☖4八成桂と使うことができます。
 ここで☗1六歩と取る手はあったのではないかと思います。☖3八成桂なら☗1七角と逃げられるからです。ただ☖4七成桂☗同飛に☖5八銀と打たれる順があり,☗5六金と上がったのはそれを嫌ったためでしょう。
 後手は☖4七成桂☗同飛で駒損を回復。そこで☖1五角と出ました。これは角を成る狙いですが,☗4九飛と引くと☖4七歩と垂らされます。仕方がないので☗3七桂と打ちました。
                                     
 第2図は駒の損得はなく,むしろ先手が香得を果たせそうですが,あまりに愚形。後手の指し回しが光った一局になりました。

 異性愛であろうと同性愛であろうと,また愛するのが男であろうと女であろうと,恋愛の現実的本性actualis essentiaは受動passioに従属したものです。ですが能動的な愛amorというのが不可能なこと,同じことですが非現実的なことというわけでもありません。つまり第四部付録第二〇項は,現実的に可能でないことについて言及しているとは僕は考えません。したがって,きわめて厳しい条件の下にというべきかもしれませんが,スピノザの哲学的見解が結婚を否定するものではないと僕は考えるのです。よってスピノザが結婚しなかった理由も,自身の哲学的見解から帰結したものであったとは考えません。
 一方,『国家論Tractatus Politicus』において女は本性の上で男と同等の権利jusを有さないというときには,スピノザは明らかに女は理性的であることができないといっていると僕は考えます。よってその間の齟齬も埋めようがないと僕は考えます。したがって,スピノザはこの点に関しては批判されなければならないと僕は考えます。要するに僕は,フロイデンタールJacob Freudenthalがそうしたように,第三部諸感情の定義六のように愛という感情affectusを定義したことについて咎める必要はないと考えます。ですがその愛の定義Definitioも含めたスピノザの哲学的見解と相容れないものがスピノザの主張には含まれているという点において,スピノザは咎められなければならないと考えるのです。すなわち,スピノザは『エチカ』において誤った哲学的見解を示したか,さもなければ『国家論』において哲学的見解と相反する政治論を展開したかのどちらかです。
 虚偽と誤謬の関係について先んじていっておけば,『エチカ』が誤りである場合にも『国家論』が誤りである場合にも,スピノザは単に虚偽falsitasをそこで表明したのではなく,誤謬errorを犯したのだと僕は考えています。いい換えればどちらが誤りの場合においても,その誤りを犯した方では,スピノザはある虚偽を真理veritasであると思い込んでいたのだと僕は考えます。
 スピノザがどちらで誤謬を犯したと僕が考えているのかということは,ここまでの論考からお分かりいただけるでしょう。僕はスピノザが独身を通した理由を,哲学的見解に依拠したものではないと考えているからです。
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岡田美術館杯女流名人戦&恋愛の現実的本性

2017-01-30 19:02:13 | 将棋
 関根名人記念館で指された昨日の第43期女流名人戦五番勝負第三局。
 上田初美女流三段の先手で里見香奈女流名人のごきげん中飛車。①-Aから4筋で銀が向かい合う形。この形は持久戦になるケースも多いのですが,後手が早くに9筋の位を取り,先手が穴熊を断念したことで別の将棋になりました。
                                     
 後手が玉をひとつ寄った局面。ここで☗9五銀と取りました。左の銀を8六に進出させたのはこうして端から逆襲する狙いだったと思われ,その狙いに則した手だったのでしょうが,結果からすると方向を誤っていたのかもしれません。
 中央が薄くなったので☖6五歩☗同歩と突き捨てておいて☖7二銀と囲いを完成させました。先手は☗8六銀と戻っています。収まれば一歩を得して端からの反撃もあるので先手がいいでしょうが,そうはなりませんでした。
 ☖5六歩☗同歩と勢いをつけてから☖6五金。先手は☗7五銀。この手がここで最善であったなら,先手は歩得のプラスより手損のマイナスの方が大きかったのではないかという気がします。
 ☖5六金☗同金☖同飛で金交換。そこで☗6七金と上がったのは☖7六飛を防いだものでしょう。しかし後手は飛車を逃げずに☖5五銀と出てきました。
 感想ではここで誤算があったとのことなので,もしかしたら☗5六金と取れると思っていて,読み直して拙いと判断したのかもしれません。ただそれがダメなら☗同銀☖同角☗同角☖同飛の総交換に応じるほかなかったようです。
                                     
 第2図は桂香以外のすべての駒が捌けた形。玉は後手が固く,飛車の成り込みが残っているので先手は受けるほかなく,実質的な手番も後手にあります。したがってここでは後手が優勢といっていいでしょう。
 里見女流名人が勝って1勝2敗。第四局は来月5日です。

 スピノザの男の現実的本性essentia formalisについての認識は,第四部付録第二〇項に影響を及ぼします。そこでスピノザは結婚する両者を男と女に限定し,その両者の精神の自由にも基づく場合に,結婚は理性ratioと一致するといっていたのでした。ところが『国家論Tractatus Politicus』におけるスピノザの男の現実的本性の認識,とりわけ女が観念の対象ideatumになる場合の男の精神の現実的本性の認識というのは,精神の自由に基づく,いい換えれば精神の能動actio Mentisであるどころか,もっぱら精神の受動passioに隷属しているというものです。したがって『エチカ』では明らかに男も女も理性的に異性を愛することができるということが前提となっているのに,『国家論』では男が女を愛することについては,理性的であるのはむしろ例外的であるかのように語られているのです。
 政治論を排除して純粋に哲学的に考察するなら,それらの言及はひどく矛盾するわけではありません。それどころか両立させることすら可能でしょう。なぜならスピノザは第五部定理四二備考,『エチカ』の最後の一文で,高貴なものは稀であってまた困難であるpraeclara tam difficilia, quam rara suntという主旨のことをいっているからです。すなわち男の現実的本性からして,女を理性的に愛するということは,稀であって困難であると解することができるわけです。したがって『国家論』における記述はこれと一致するでしょう。一方,稀であったり困難であったりすることは,不可能であるという意味ではありません。なので男が理性的に女を愛するということも,現実的にはあり得るわけです。したがってその条件を満たす限りで結婚は理性と一致するという『エチカ』の記述も,不可能なこと,いい換えれば非現実的なことについて言及しているというわけではありません。
 スピノザは女の現実的本性についてはこのような仕方で具体的には語っていないので,それをどのように認識しているかは不明です。ただ,異性に対する愛amorについては,男について妥当である事柄は女についても妥当だろうと僕は考えます。また,これらの事柄は,単に異性愛についてのみ妥当であるというだけでなく,同性愛の場合にも妥当すると僕は考えます。いわばそれは恋愛の現実的本性なのです。
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いわき金杯争奪戦&男の現実的本性

2017-01-29 19:14:53 | 競輪
 被災地支援競輪として実施されたいわき平記念の決勝。並びは新山-渡辺-菊地の北日本,古性-村上の近畿,山田-園田の九州で松谷と香川は単騎。
 山田がスタートを取って前受け。3番手に新山がいましたが,上昇してきた松谷が園田の後ろに入り3番手。新山は4番手となり,7番手に古性,最後尾に香川という周回に。残り3周のバックから古性が香川まで引き連れて上昇開始。コーナーで山田とほぼ併走に。早めに引いた新山はすぐさま巻き返し,残り2周のホームでは先頭に。うまく立ち回った松谷が菊地の後ろ。5番手に古性,7番手に香川,8番手に山田の一列棒状に変化し,バック,打鐘,残り1周のホームまで通過。バックに入って古性が発進。渡辺は車間を開けて待ち構えていたのですが,渡辺の後ろの菊地が牽制すると古性は落車。これに村上と香川も巻き込まれて落車。渡辺はコーナー手前から自力で発進。菊地は追えず松谷が追うことになったものの,余裕綽々の渡辺が優勝。松谷が1車身半差で2着。後方からの捲り追い込みになった山田の後ろから,直線で松谷と山田の間に進路を取った園田が4分の3車輪差で3着。村上と香川は再乗。古性は棄権。菊地は失格の裁定でした。
 優勝した福島の渡辺一成選手は昨年2月の全日本選抜競輪以来のグレードレース優勝。記念競輪は一昨年6月の取手記念以来となる7勝目。いわき平記念は初優勝。ここは脚力最上位。それでいて優勝できる力がある新山の番手を回りましたので,絡まれることがない限り勝てるだろうとみていました。新山がいいタイミングで発進したので残り2周から1周以上にわたって一列棒状の展開が継続するという最高の展開に。アクシデントがなかったとしても優勝は間違いないところであったでしょう。

 『国家論Tractatus Politicus』でスピノザが主張していることは,別の観点から解釈することも可能になっています。というのもスピノザは,女が本性の上で男と同等の権利jusを有さないと述べた次の段落で,男は概ね官能的感情によって女を愛すること,そして男にとって女の才能および知恵は外見の美しさであること,さらに男は愛する女がほかの男に好意を示すことを極度に嫌うということを列挙しているからです。要するに男は女を外見上の美醜によって評価し,情欲に基づいて愛し,その愛amorの対象となった女がほかの男に好意を示したら第三部定理三五にあるように,その男のことをねたみ,女に対してはやきもちzelotypiaという心情の動揺animi fluctuatioaを抱くのだといっているのです。これがスピノザによる男の現実的本性actualis essentiaの認識であったといえるでしょう。
                                     
 もし女が民主政治に参加してはならない理由としてこのことを解するなら,これは男の現実的本性だけを考慮に入れていて,女の現実的本性については何も顧慮していないので,暴論だと結論して差し支えないでしょう。確かにこうした理由からは,スピノザが述べているように,女が民主政治に参加すれば平和を損なうことになるでしょう。ですがそこでいわれている平和とは,実に男にとっての平和にすぎないのであって,女にとっての平和とは何かという視点を欠いたものです。ですから政治論の一貫としてこう主張をすることは問題外だといっていいと僕は思います。
 ですが,この主張は,もし男の現実的本性がそのようなものであるということを示したという意味においては,著しく妥当性を欠いたものであるとは断定できません。しかるにここに示されている情欲も美醜による評価もねたみinvidiaもやきもちも,すべて受動passioによるものであって,能動actioによるものではないのです。ということは,スピノザは男は受動によって女を評価し,その評価に適う女を愛し,評価に適った女の言動によって愛以外の受動感情に隷属し,心情の動揺を抱くというように男の現実的本性を認識していたことになります。したがって,女が本性の上で男と同等の権利を有していないということも,精神の能動actio Mentisという観点からだけで評価はできないことになるでしょう。
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馬場へのショルダースルー&スピノザ思想の矛盾

2017-01-28 19:18:54 | NOAH
 前年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦でハンセンの乱入があり,試合後の乱闘の最中にハンセンの流血がありました。不沈艦は翌年の1月のシリーズに特別参加。初戦で阿修羅・原を一蹴。迎えた最終戦が馬場とハンセンの初対決でした。シリーズの間にふたりはタッグ戦で戦っていたかもしれませんが,どのようなスタイルでプロレスをするのかはよく分かっていなかった可能性があります。
 馬場はショルダースルーを掛けられたら,受けるか拒否するかの二択であったと僕は解します。このとき,拒否するという選択肢があることは仕掛けるハンセンも理解していた筈です。拒否された場合,攻守が交代します。つまりショルダースルーという技は,スムーズに攻守交代するための技という一面があり,ハンセンはそれを狙って仕掛けた可能性も否定しきれないと僕は思うのです。
 プロレスファンなら知っているでしょうが,ショルダースルーは,仕掛けられた場合に受けも切り返しもせず,絶対に拒否するという選手が存在します。少なくとも当時は存在しました。ハンセンと馬場はそこまで多くの対戦をしていませんでしたから,そもそも馬場がショルダースルーを受ける選手であるかをハンセンは知らなかったかもしれません。というのも,これも一般的にいいますが,ショルダースルーを必ず拒否する選手は,ほぼ馬場のような大型選手に限定されるからです。なのでこのときハンセンは,拒否されることを前提にショルダースルーを出したのかもしれないのです。
 馬場がそれを拒否せずに受けたのは,受けることができるということを知らしめるためであったかもしれません。それはもちろん,ハンセンに対して知らしめるという意味であると同時に,ファンに対して知らしめるという意味でもあります。現にこのとき,馬場のプロレススタイルをよく知らないファンも多く観戦していたと思われますから,あえてショルダースルーを受けてみせるということに意味があったと考えられるからです。
 もちろん真相は分かりません。普通のプロレスの攻防のワンシーンにすぎなかったかもしれません。でも僕にとってはあれはあの試合の中の特別なシーンのひとつなのです。

 もうひとつ,僕にはとても重大に思える点が含まれています。
 スピノザは第四部付録第二〇項で,両者というのを男と女,すなわち一方が男で他方が女に限定した上で,その両者の愛amorが精神の自由に基づくなら,結婚は理性ratioと一致することが確実だといっています。ここで精神の自由といわれているのは,スピノザの思想のうちにある広い意味での人間的自由ではなく,能動的自由に限定されなければなりません。理性というのは人間が十全な原因causa adaequataとなった場合の認識,いい換えれば人間による能動的な認識のことを意味するので,この精神の自由を能動的自由と解さなければ、それが理性と一致することには絶対にならないからです。
                                     
 したがってこれが成立するためには,男も女も同じように能動的であり得る,いい換えるなら理性的であり得るということが前提されていなければなりません。仮に男だけが精神の能動actio Mentisを発揮することができたり,逆に女だけが精神の能動を発揮することができるのだとすれば,男と女に限定された両者の愛が精神の自由に基づくということは不可能であるからです。つまりスピノザはここでこのように述べるときには,精神の能動を発揮できるか否かについて,男であるか女であるかは無関係であると暗黙裡に考えているのです。
 ところが,『国家論Tractatus Politicus』の中には,明らかにこの前提に反すると思われる部分が含まれています。
 『国家論』はスピノザの死によって中途で終了してしまいました。ですがその最後の部分,第一一章第四節で,民主主義政治に女が参加するべきかどうかを検討するとき,スピノザはそれに否定的な見解を示しています。そしてその理由を,女は本性の上で男と同等の権利を有していないからだと説明しています。
 スピノザの政治論で権利jusといわれるとき,それは哲学的な意味における力potentiaを意味します。現実的に存在する人間にとっての力というのは,能動つまり現実的に存在する人間の理性を意味します。これは第四部定義八から明らかです。したがってスピノザはここでは,女は理性的であることができないと主張しているに等しいのです。そしてこの矛盾はおそらく解消することが不可能です。
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白夜の主人公&同性愛

2017-01-27 19:17:22 | 歌・小説
 『白夜』の主人公も『貧しき人びと』のマカールと同様に広い意味でのコキュです。ですがマカールとは違い,この主人公には秘められた寝盗られ願望があったと解することが可能だと僕は考えます。
                                     
 主人公の男は空想の中で生きているような26歳の男です。この男がナースチェンカという少女に出会い恋をします。この恋自体が男にとっては異常な出来事だったと僕は思います。ですがここではそのとき男の中で空想の世界と現実の世界に何らかの一致があったのだと解しておきましょう。
 ナースチェンカには将来を誓い合った学生がいます。物語はペテルブルグで進行していますが学生はモスクワに行って消息不明です。しかし帰ってくるということばをナースチェンカは信じています。そこで男はふたりを再会させるために奔走します。これに傾ける男の努力は尋常ではないといえます。なぜなら学生は現実世界の男にとっては明白な恋敵であり,男に不幸を齎しかねません。さらに男は学生とは会ったこともないので,素性を知りません。つまりナースチェンカに相応しい相手であるかどうか,客観的には分かっていないのです。男はもしナースチェンカがその学生を愛しているなら,ナースチェンカに気付かれないように,ナースチェンカの重荷にならないような愛し方をしたいのだという主旨のことをいっていますが,その発想には寝盗られ願望の原型のようなものがある気がしてなりません。
 学生と再会したナースチェンカは躊躇なく学生を選び,男はコキュになります。コキュになった男は現実と空想が切断されるのですから,きっとまた空想の中で生きていくことになるのでしょう。もしかしたらずっと空想の中で生きてきた男は,その空想の世界に帰りたいという欲望を,自身の気付かないうちに有していたのかもしれません。その場合には,ナースチェンカを失う必要があります。この意味で僕は,この男には秘められた寝盗られ願望があったのかもしれないと思うのです。

 第四部付録第二〇項は,同性愛を否定しているように読解できます。両者の愛amorというとき,わざわざ男と女といい添えられているからです。
 僕の考えをいえば,たぶんスピノザはこれを記述するとき,同性愛という愛の形についていっかな念頭に置いていなかったのではないでしょうか。なぜなら,実際にはこの項は,異性愛とか同性愛といわれるような愛の形について何かを主張しているわけではなく,結婚について言及しようとしているからです。いうまでもなくスピノザが生きていた時代には,同性間の結婚というのは制度の上で認められていませんでした。だから結婚について何かを語ろうとするとき,スピノザが同性愛を念頭に置かないのは自然なことと僕には思えるからです。
 では同性愛というのがスピノザの哲学からみた場合に否定されるかと問うなら,スピノザの哲学がそれを否定することは困難であるというのが僕の見解です。なぜなら,第三部諸感情の定義六の意味というのは,現実的に存在するある人間が,外部の原因の観念idea causae externaeを伴って喜びlaetitiaを感じるなら,その観念の対象objectumが何であれその感情affectusは愛といわれるということであるからです。したがってその観念の対象が人間である場合,同性であろうと異性であろうと同じように愛といわれなければなりません。ですから同性愛も異性愛も同じように愛といわれなければならないか,さもなければどちらも否定されなければならないかでなくてはなりません。ですが異性愛が否定されるということは第四部付録第二〇項から考えられません。よって同性愛を否定することも不可能であると僕は考えるのです。
 もちろんこれは僕の見解であって,スピノザがそう考えていたというものではありません。もし結婚をあくまでも制度上の事柄とみなすなら,同性婚が制度として認められていない場合には,第四部付録第二〇項の文言通りに解してよいでしょう。しかしそれが認められる場合には,両者というのを男と女に限定する必要はありません。また,結婚を制度上のものでなく,ある人間と別の人間の関係とみなす場合にも,両者を男と女に限定しなくてよいだろうというのがこの件に関する僕の結論です。
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書簡三十五&第四部付録第二〇項

2017-01-26 19:25:10 | 哲学
 1667年1月7日付の書簡三十四フッデJohann Huddeに送った後,スピノザとフッデとの間で何通かの書簡のやり取りがありました。2月10日付でフッデが送ったのですが,そこに書かれている質問の意味がスピノザには理解できなかったようです。おそらくスピノザが質問の主旨を確認する手紙を送り,フッデは3月30日付でそれに対する返信を送りました。4月10日付でスピノザがその質問に答えたのが書簡三十五です。
                                     
 この書簡の主題はひとつだけです。自己のpotentiaによって存在するものは「唯一」であるか否かということです。フッデの質問の主旨がそういうことだとスピノザにも理解できたので,スピノザはそれを肯定する解答,すなわち自己の力によって存在するものは「唯一」であることを肯定し,かつそれを論証しています。
 スピノザは論証のために6つの前提を示しています。
 一 自己の力によって存在するものは永遠aeterunusでなければならない。
 二 自己の力によって存在するものが部分から合成されることはない。これが成立するのは,部分から合成された全体の認識には,部分の認識が「先立つ」からだとスピノザはいっています。
 三 自己の力によって存在するものは無限infinitumである。
 四 自己の力によって存在するものは不可分的である。
 五 条件一ないしは条件三を満たすものは最高に完全summe perfectumである。
 六 条件五を満たすものが存在しないのなら何も存在し得ない。
 自己の力によって存在するものは第一部定義一により自己原因causa suiです。そして第一部定理七により実体substantiaは自己原因です。そして第一部定理一四により神Deusのほかには実体は存在しません。つまりフッデの質問は,スピノザからすると,神は「唯一」であるか否かという質問と同じです。最後の条件六は第一部定理一一第三の証明と同じです。つまりスピノザはここで,名目的にではなく実在的な意味でフッデの質問に答えたことになります。

 哲学的見解だけに絞って,スピノザが結婚を否定していなかったということを示すためには,第四部付録第二〇項を参照するのがよいでしょう。
 「結婚に関して言えば,もし性交への欲望が外的美からのみでなく,子を生んで賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら,その上もし両者ー男と女ーの愛が外的美のみでなく特に精神の自由にも基づくとしたら,それは理性と一致することが確実である」。
 条件付きではありますが,スピノザが結婚をそれ自体で否定していないことはここから明白であるといえます。ましてここでは結婚が理性ratioと一致することが可能であるといわれているわけではなく,理性と一致するのが確実だといわれているわけですから,スピノザが示しているふたつの条件が満たされるなら,結婚することはむしろ奨励されているとさえ解することができると思います。ついでにいいますと,賢明に教育しようとする愛amorから生ずるとしたら,ではなく,賢明に教育しようとする愛からも生ずるとしたら,といわれ,精神の自由に基づくなら,ではなく,精神の自由にも基づくなら,といわれているので,単に結婚が肯定されているというだけでなく,性交も肯定されていると解することもできるかと思います。
 したがって,スピノザが独身を貫き通したことが,スピノザの哲学的見解による帰結であったとは僕には考えらえません。なぜスピノザが結婚するという選択をしなかったかは分かりません。ここで示されている条件を満たす相手と出会えなかったからかもしれませんし,経済的条件が結婚を許さなかったからなのかもしれません。あるいはもっと別の理由があったからかもしれません。ただ,少なくともスピノザの哲学的見解に結婚を全面的に否定する要素は含まれていないということ,そしてスピノザは独身者を優遇し既婚者を排斥するような態度を行動の上でもとらなかったということのふたつは確実であると僕は解します。つまりスピノザが独身であったということとスピノザの哲学的見解との間には,明確な因果関係は存在しないと判断するということです。
 この項については別の観点から考察したいことが含まれます。
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農林水産大臣賞典TCK女王盃&親友たち

2017-01-25 19:21:36 | 地方競馬
 第20回TCK女王盃。ルメール騎手が日曜のアメリカジョッキークラブカップで落馬し負傷したため,タマノブリュネットは真島大輔騎手に変更。
 タマノブリュネットは外によれるような発馬。マイティティーとディアマルコの2頭は共に逃げたかったようで先陣争い。1コーナーからのコーナーワークでマイティティーの逃げになり,控えたディアマルコが2番手に。3番手はトーセンセラヴィとリンダリンダで併走でしたが,トーセンセラヴィは向正面に入ると右第一指節種子骨完全横骨折という予後不良になるケースが多い大怪我を発症し競走中止。リンダリンダが単独の3番手に。その後ろにワンミリオンスとホワイトフーガが併走していましたが,相変わらずホワイトフーガは行きたがっているように見えました。最初の800mは49秒5のハイペース。
 3コーナーを回るとマイティティーにディアマルコが並び掛けていき,さらにその外にリンダリンダも追い上げ3頭が雁行。これらの外からホワイトフーガも追ってきました。コーナーの途中で前に行った2頭は一杯になり,直線を迎えたところで先頭はリンダリンダ。この外にホワイトフーガが並んでいく形。ワンミリオンスは4頭が並んだところでは一旦は控え,直線に入るとリンダリンダの内から追撃。このコース取りの妙もあったか外の2頭を交わして優勝。最後の最後までホワイトフーガには抜かせなかったリンダリンダが4分の3馬身差で2着。ホワイトフーガはアタマ差で3着。
 優勝したワンミリオンスはここが重賞初挑戦での初勝利。とはいえ牝馬戦の1000万と牡馬相手の1600万を連勝していましたから,牝馬重賞では通用のレベル。ここまで1400mを中心に使われていただけに,距離延長は課題でしたが,走っていなかったというだけで,対応が可能だったということでしょう。時計があまり早くないので,トップクラスまで躍り出たとはいい難いと思いますが,牝馬重賞はこれからもチャンスがあるでしょう。父はゴールドアリュール。母の半弟に2009年のジャパンダートダービーと2012年のフェブラリーステークスを勝ったテスタマッタ。One Millionthは100万分の1。
 騎乗した戸崎圭太騎手と管理している小崎憲調教師はTCK女王盃初勝利。

 スピノザの友人,とくに親友といえる人たちには,スピノザと同じように,生涯を通じて独身だった人が多いのは事実です。イエレスJarig Jellesやシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesといった,おそらく破門以前からの知り合いであったふたりがそうでした。また,知り合ったのはおそらくそれより後,スピノザがレインスブルフRijnsburgに住むようになってからだったと思われますが,マイエルLodewijk Meyerもまた独身を通しました。
                                     
 しかし,独身者だけがスピノザの親友たり得たわけではありません。書簡十七から明らかにように,バリングPieter Ballingは子どもを亡くしているのですから妻帯者で子どももありました。そしてリューウェルツJan Rieuwertszは息子が家業を継いでいるのですから,子どもがあり,妻帯者であったと考えてよいでしょう。
 ここから分かるように,スピノザは独身者にも妻帯者にも,少なくとも表面上は,親友として同じように接したと判断してよいでしょう。もしスピノザが,自身の哲学的見解によって,独身であるということを帰結させたのだとすれば,たぶんこのようなことは生じなかったと僕には思えます。とくにバリングはスピノザより先に死んでしまいましたが,リューウェルツは自身を危険に晒すことを承知の上で,スピノザの死後に遺稿集Opera Posthumaを発刊するときの編集者のひとりとなり,かつ自身で印刷したのです。もしスピノザが妻帯者であるということを理由として,リューウェルツに対してたとえば同じ編集者となったイエレスやマイエルとは異なった態度を生前にとっていたならば,リューウェルツがあえて遺稿集を印刷するということに踏み切る理由が欠けてしまうことになります。なのでスピノザが実際上の交際で,独身者と妻帯者を区別することはなかっただろうと僕は解します。
 哲学そのものの中身を検討する前に,これらの諸事情から,少なくともスピノザが,結婚してはならない,他面からいえば独身でなければならないという考えを有してはいなかったろうと僕は想定します。これは哲学的見解としてそのように考えていなかったということだけを意味するのではなく,哲学から分離された一般的な見解としても,スピノザは結婚自体を否定していなかっただろうということです。
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王将戦&経済事情

2017-01-24 19:37:56 | 将棋
 尼崎市で指された第66期王将戦七番勝負第二局。
 久保利明九段の先手で角道オープン三間飛車。郷田真隆王将は早い段階で角を交換。相銀冠の将棋に進みました。
                                     
 これは封じ手で8九から飛車が回った局面。8筋ががら空きになったので後手は☖8六歩と攻めていきました。
 ☗5八金は玉に近付けつつ銀取りで味のいい手。後手は☖5三桂と受け☗7七桂と打ったところで☖8七歩成としました。8筋の突破を果たすためには一旦は受けるのは仕方なかったのではないかと思います。
 ☗6五桂☖7八と☗5三桂成まではおそらく一本道。ここで☖6九ととは取れなかったようで☖5三同金と手を戻しました。先手に☗6六飛と逃げられますが☖8九飛成と龍を作るのがその代償。
 僕は最初に並べたときにはこの応酬は駒得の先手の方がよいように思えました。実際に☗7一角☖7七角☗5三角成☖6六角成のときに☗3九桂と投資した局面は先手玉が固く,後手が勝つのは容易でないように思えます。
                                     
 この後の進行からすると後手にもチャンスがなかったとは思えず,第2図は最初に僕が感じたほどには後手も悪くないのかもしれません。将棋は終盤で玉の早逃げで手を稼いだ先手の勝ちになっています。
 久保九段が連勝。第三局は来月1日と2日です。

 スピノザが生涯を通して独身であった理由を考える場合には,まずスピノザの哲学と関係なしに,以下の点を踏まえておく必要があります。
 スピノザは1669年の暮れか1670年の年初にフォールブルフVoorburgからハーグへと住居を移しました。ハーグでスピノザが最初に住んだのは,ファン・デル・ウェルフェという未亡人が所有していた家の三階部分の屋根裏でした。ここは後にコレルスが居住することになる場所です。コレルスはここに住んだことを契機にスピノザに興味を抱き,伝記を書きました。
 スピノザは1671年5月初旬には,同じハーグのヘンドリック・ファン・デル・スぺイクの家の一階部分に移ることになります。この移住の理由は,ウェルフェの住居の部屋の家賃がスピノザにとって荷が重すぎたためであったとナドラーSteven Nadlerは断定しています。
 この当時のスピノザは,自身が志願して減額したとはいえ,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesが遺言として残した年金を受け取っていました。つまり一定額の収入は確保されていたわけで,経済的にひどく困窮していたとはいえないと僕は思います。しかし,いかに田舎よりも物価の高かったであろう都市のハーグとはいえ,自分ひとりが間借りするための家賃が負担になったのですから,裕福な生活というには程遠いものであったでしょう。そういう生活を送っていたスピノザが,結婚して妻と共同生活を送り,子どもを養育していくということは,現実的に不可能であった可能性が否定できません。つまりスピノザが好むと好まざるとに関わらず,実際の経済状況が,スピノザに結婚することを許さなかったという可能性は完全には否定できないのです。ましてスピノザはシナゴーグから破門されたユダヤ人でしたから,結婚相手を探すのも難しかった可能性もあるでしょう。
 フロイデンタールJacob Freudenthalは独身を通した哲学者による倫理的関係に関する異なった判断というのを一律に批判しています。しかしたとえば宮廷人としてかなり裕福な生活をしていたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが結婚しなかったことと,在野の異端者であったスピノザが結婚しなかったことを,同じレベルで語ることはできないのではないかと僕は思います。
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岡田美術館杯女流名人戦&手法と結論

2017-01-23 19:35:26 | 将棋
 出雲文化伝承館で指された昨日の第43期女流名人戦五番勝負第二局。
 里見香奈女流名人の先手で角道オープン三間飛車。上田初美女流三段はすぐに角交換して角を打つ乱戦に。もっともこれは先手が早めに☗4八王と上がったために生じた手順で,先手が誘ったといえるでしょう。前例は3局で後手の2勝1千日手であったそうですから,先手に研究があったものと推測されます。実際に早い段階で前例から離れました。しかし誤算が発生しました。
                                     
 第1図がその局面。ここで☗3八銀と上がる予定であったようです。これに対して☖4五馬とでも引けば☗1八香☖同馬と進み,銀が上がれている分だけ後手の得。ですが☖1六馬と引く手があり,☗1八香☖3八馬☗同金☖1八香成と二枚換えに進める手順があるとのこと。先手はそこで☗7五歩から攻めていくことになるのですが☖6二銀と受ける手が生じるようです。そうされると先手も☗7四歩と取り込むほかありません。
                                     
 第2図で☖7二歩と打つことができるのが第1図以下の手順で☖1六馬と一歩を入手していた効果。それでも難しそうなので,そう進める順もあったかと思いますが,先手は第1図で☗同香と取って☖同馬☗7四飛☖2九馬と進めました。この変化は駒得の分だけ後手も満足だったのではないでしょうか。
 誤算があったとはいえその手順で先手が著しく不利になったというわけではありません。ただその後の手順で先手が最善を逃したために,後手の勝ちに終っています。
 上田三段が連勝。第三局は29日です。

 『破門の哲学』は,ユダヤ人共同体から破門されたということがスピノザの人生において最大の出来事であったという観点の下に,その破門という経験からスピノザの哲学を読解しようとする試みであるといえます。これはまさに,フロイデンタールJacob Freudenthalがスピノザが独身であったということから第三部諸感情の定義六を解しているのと同じように,スピノザの人生を前提としてその哲学を解そうとする姿勢であるといえます。つまり僕の手法とは真逆です。
 フロイデンタールが「シナゴーグ離脱の弁明書」をスピノザが書いた動機を解する際にも,同じような手法を採用しているとは必ずしもいえません。しかし清水がそうしていることは間違いありません。そしてその動機に関する結論もまた,僕の見解とは真逆になっているのです。そうしてみると,スピノザはシナゴーグからの破門を避けたいがために弁明書を書いたとする清水の見解と,そうではなくて破門されることを前提に,なぜ破門されることを選択するのかということを弁明したのだという僕の見解の相違が,そもそも人生から哲学を読み解くのか,哲学から人生の選択を読み解くのかという手法の相違に帰することができる可能性があるのです。そしてもしもそうであるのならば,スピノザが独身であったこととスピノザの哲学を関連させて考察する場合にも,同じようなことが発生する可能性があるといわなければなりません。
 前もっていっておきますが,僕はスピノザが独身であったこと,いい換えれば結婚をしないという選択をしたことと,スピノザの哲学との間には,あまり関連性はないという見解を抱いています。これは僕の手法の下の見解ですから,要するにスピノザの哲学からは,独身でなければならないということが帰結するわけではないという意味です。ですがフロイデンタールは逆に,スピノザは結婚をせず,子どももいなかったから第三部諸感情の定義六のように愛amorを定義したのだとみなしているわけで,その間には一定の関係があるとしなければなりません。この相違が手法の相違に帰せられるかもしれないので,僕は事前に僕の手法を説明し,その点の注意を与えておきたかったのです。
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金亀杯争覇戦&手法の相違

2017-01-22 19:27:38 | 競輪
 被災地支援競輪として開催された松山記念の決勝。並びは根本-山崎の北日本,近藤-渡辺の南関東,松浦-岩津の中国,太田-原田-浜田の四国。
 渡辺がスタートを取って近藤の前受け。3番手に太田,6番手に根本,8番手に松浦で周回。残り3周の3コーナーを回ると根本から上昇開始。松浦はこのラインに続きました。ホームを通過してから根本が近藤を叩いて,バックに入るところでは先頭。引いて外に出した太田がここから発進。しかし根本もこれに合わせて発進して打鐘。ここからバックまで先行争いが続きましたが,ついに根本が太田を出させませんでした。太田がいけないとみた原田がバックから自力で発進。根本の後ろから山崎も発進しようとしましたが,原田とのスピードが違いすぎ,浜田の後ろに入るのがやっと。捲りを決めた原田の優勝。直線ではむしろ離されましたがマークの浜田が2車身差の2着に続いて四国のワンツー。後方からの捲り追い込みになった近藤が半車輪差で3着。
 優勝した徳島の原田研太朗選手は前回出走の広島記念に続く連続優勝で記念競輪3勝目。昨年に続き新年初出走の記念競輪を優勝。松山記念は初優勝。現状はこのメンバーでは脚力最上位。さらに太田という目標も得ましたので,優勝候補の筆頭と目していました。根本が抵抗したので太田は先行できませんでしたが,不発というわけではなくいいところまで引っ張ることには成功。あれくらいのスピードに乗ってあの位置からの捲りではほかの選手が抵抗できなかったのも無理はありません。今年も記念競輪優勝で幕を開けましたから,いよいよビッグでの決勝進出も期待されるところではないでしょうか。

 もうひとつの補足は第三部諸感情の定義六の意味とだけ関連するのではありません。むしろそれを含むスピノザの哲学全体と関連します。それは,スピノザが独身であったことと,スピノザの哲学の関連の考察です。しかしそれに関する僕の見解を説明する前に,その見解の前提となっているかもしれない事柄について別に説明する必要を僕は感じます。いうなれば補足のための補足ということになりますが,重要な観点かもしれませんので注意しておいてほしいのです。
                                     
 フロイデンタールJacob Freudenthalは原則的に,スピノザが独身であったために第三部諸感情の定義六のように愛amorを定義したと解しています。これはつまり,スピノザの生活を前提として哲学的見解について考察するという手法であるといえます。しかし僕はスピノザの哲学を探求するに際して,そのような手法は採用しません。むしろスピノザの哲学的見解を軸として,スピノザの生活を帰結させるという,フロイデンタールとは逆の手法を採用します。したがってこの場合でいえば,僕は,スピノザが独身であったということが,愛の定義Definitioおよびその意味をはじめとするスピノザの哲学的見解から帰結し得るのかどうかを考察することになります。なお,フロイデンタールの手法について一律にそのように規定できるかどうかは僕には分かりません。しかし少なくとも僕は,必ずそれと逆の手法を採用します。つまり僕の手法についていうなら,これはスピノザが結婚しなかったことについて探求する場合にのみ採用される手法というわけではなく,一般にスピノザの生活を考察する場合に採用する手法であると解してください。
 実はこの手法の相違が,最終的な見解の相違と関係するかもしれないと僕は思っているのです。なのでそのことを,補足についての見解を表明する前に注意しておいてほしいのです。
 フロイデンタールは,スピノザが「シナゴーグ離脱の弁明書」を書いた動機は,シナゴーグから破門されることを避けるためであったと解しています。この見解は『破門の哲学』に示されている清水の見解に一致します。僕がそれと違った見解であることはすでに多く語りましたから,ここでは省略します。
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谷津の雑感⑥&愛の現実的本性

2017-01-21 19:13:22 | NOAH
 谷津の雑感⑤の最後のところに書いたように,谷津のSWS移籍は全日本プロレスとの契約違反で裁判になりました。
 選手の移籍が契約に違反するということは,これ以前にもありました。ただ,全日本プロレスには日本テレビ,新日本プロレスにはテレビ朝日という後ろ盾があったために,金銭的なバックアップがあったので,あまりそうしたことが表沙汰にはなっていなかっただけです。ジャパンプロレスの選手たちが全日本プロレスで仕事をするようになったとき,馬場は新日本プロレスに対して莫大な違約金を支払ったようです。同様に1987年のピンチの後には,馬場は新日本プロレスから同じ程度の違約金を受け取っている筈です。おそらくそれらは,裁判に至る前に解決が図られたのでしょう。
 全日本プロレスと谷津との間で裁判になったのは,SWSつまりメガネスーパーが,谷津をバックアップしなかったからだと想像されます。なのでこの点では,多額の移籍金を受け取ったのではないとする谷津の発言にも信憑性があると僕は思っています。
 この裁判は長引き,3年ほどかかったと谷津は言っています。しかしその頃はもう谷津はSWSを退団していたので経済的に汲々としていたようです。谷津はそうした事情を馬場に話して,示談金を10分の1にしてもらったと語っています。この示談金というのが,裁判の判決として出されたものなのか,和解勧告を双方が受け入れて決定されたものであったのかは不明です。いずれにしても裁判そのものは馬場側の勝ちに等しい結果で,しかし谷津はその命令通りには支払えず,馬場がそれを了承したということでしょう。
 すべてが終った後,谷津が歩いていたらキャデラックが寄ってきてクラクションを鳴らしました。後ろの窓がスーッと開いて馬場が顔を出し,「おい谷津,頑張れよ」と声を掛けたそうです。それが馬場と会った最後であったと谷津は語っています。

 各々の愛amorの対象objectumが何であり,またどういう様式で現実的に存在する人間のうちに生じようと,それは同じように愛といわれなければならないけれど,個別の感情affectusとしてみられる場合には異なった感情としてみられなければならないということ,すなわち第三部定理五六が一般的に示している事柄が,なぜ第三部諸感情の定義六の意味に関係する探求において考慮されなければならないのかということを説明します。
                                     
 フロイデンタールJacob Freudenthalに対する反駁の中で示したように,スピノザは第五部定理三二の様式で現実的に存在する人間のうちに生じる神Deusに対する愛というのが,愛のあらゆる完全性perfectioを有していると考えています。スピノザの真意はもしかすると別のところにあるかもしれませんが.ここではそれを現実的に存在する人間が抱く愛と限定して構いません。それでもスピノザの真意を歪曲することにはならないからです。そしてこのとき,この種の愛が愛のあらゆる完全性を有しているのならば,それほど完全性を有していない愛というのも存在すると理解しなければなりません。そうでないとあらゆる愛が同一の完全性を有することになるので,第五部定理三二の愛があらゆる完全性を有するということができないからです。
 したがって,対象の如何に関わらず,また能動actioと受動passioの相違に関わらず,外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeは同じように愛といわれるのですが,その愛のうちに完全性の高いものもあれば低いものもあるのです。そして第五部定理三二の愛が,現実的に存在する人間にとっては最高に完全な愛なのです。ですから各々の愛には完全性の相違があり,この意味においてそれらは異なった感情であるとみなされなければなりません。というのも第二部定義六にあるように実在性realitasと完全性は同一であり,実在性というのは力potentiaという観点から把握される限りでの本性natura,essentiaですから,愛の完全性が異なるというのは,愛の本性が異なるといっているのと同じことだからです。つまり各々の愛は,個別的な感情とみられる限りでは,異なった現実的本性actualis essentiaを有する愛と解される必要があります。よってAへの愛とBへの愛は,異なった現実的本性を有する異なった感情なのです。
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マカール&感情の大きさ

2017-01-20 19:04:30 | 歌・小説
 僕は『貧しき人びと』というのは,さほど優れた小説であるようには思えませんでした。その大きな理由として,男側の主人公であるマカールの人間性に好感を抱くことができなかったという点があります。
                                    
 マカールはもう50歳になろうかという小役人です。その男が向いのアパートの住人であるワルワーラという少女を見初めます。この中年と少女という関係はいろいろな見方ができると思うのですが,ここではマカールのワルワーラに対する思いが,恋愛感情であるということを推測させないための設定と解しておきます。『ドストエフスキー 父殺しの文学』では,父の娘に対する愛情という主旨の記述がありますが,概ねそのような情愛と解するということです。
 僕はマカールがワルワーラに対して愛情を抱いているということ自体は否定しません。ただその愛情が,マカールの自身への愛,自己愛の変形されたもののように思えるのです。マカールはもう50になろうかというのに小役人にすぎず,自分の人生というか将来に対してある種の絶望を抱いています。その絶望の代償として,ワルワーラへの愛があるように僕には感じられるのです。したがって,ワルワーラが幸福になるということは幸福になれない自分の幸福の代償ですから,マカールがそれを望んでいることは間違いありません。この意味において確かにマカールはワルワーラを愛しているのです。しかしそれは自分の幸福の代償でなければならないので,ワルワーラはマカールが望むような仕方で幸福になる必要がマカールにはあるのです。よってもし自身が望まないような仕方でワルワーラが幸福になることがあるとしたら,たぶんマカールはそれを望まないだろうと僕は思います。マカールのワルワーラに対する愛が自己愛の代償であるというとのは,そのような意味においてです。
 なので僕はマカールが広い意味においてコキュであると考えますが,寝盗られ願望を有するコキュであるとはみなしません。自身がコキュになるということが,仮にワルワーラの幸福に結びつく場合でも,それはマカールの自己愛の代償にはなり得ないと僕は考えるからです。

 第四部定理四から明らかなように,現実的に存在している人間が受動passioから完全に免れるということはできません。そして人間は受動に従属しているうちは,第三部定理一五系が示しているように,何の脈絡もなく多くのものを愛します。また,第五部定理三二はその一例ですが,愛amorという感情affectusが喜びlaetitiaの一種であるがゆえに,人間は能動的にも多くのものを愛することが可能です。
 これらの感情は,対象が何であるかを問わずに愛といわれるのと同じように,受動であろうと能動actioであろうとやはり関係なしに同じように愛といわれます。ですが,それを現実的に存在する人間が触発される感情としてみた場合には,それら各々の愛は異なった感情であるとみなされなければなりません。
 現実的に存在する人間が触発される各々の愛が,感情としてみた場合には異なっているということは,別に論理的に説明するまでもなく,僕たちが経験的に知っていることだといえると僕は思います。たとえばある個別の人間に対する愛と,ある特定の絵画に対する愛というのが異なった感情であるということは,僕たちはとくに意識せずとも分かりきっているのだといって差し支えないだろうと思うからです。
 論理的に示そうとするなら,いくつかの方法が考えられます。たとえば愛は喜びの一種なので,第三部諸感情の定義二にあるように,ある人間がより小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行transitioすることです。しかしその移行はすべての愛において同じ移行であるということはできません。単純にいってもより大なる移行もあればより小なる移行もあるでしょう。いい換えればより大きな喜びもあればより小さな喜びもあるでしょう。大きな喜びも小さな喜びも,喜びという点では同じでしょうが,同一の感情であるとはいえない,他面からいえばそれを感じる人間は同一の感情とは感じないでしょう。そしてこうしたことは喜びだけでなく,ほかの基本感情affectus primariiである悲しみtristitiaおよび欲望cupiditasの場合にも成立します。大きな悲しみもあれば小さな悲しみもありますし,大きな欲望もあれば小さな欲望もあるからです。これを一般的に示したのが,第三部定理五六であるということになります。
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第四部定理六四&愛と感情

2017-01-19 19:30:05 | 哲学
 第四部定理二七では,僕たちがものを十全に認識するのに役立つものは善bonum,ものを十全に認識することを妨げるものが悪malumであると,僕たちは確知するという意味のことがいわれていました。このとき,確知するということをどのように解すればよいのかということは,スピノザの哲学において善悪を考える場合にひとつの問題点となると僕はみています。
                                     
 第四部定理八は,僕たちにとっての善と悪の認識は,僕たちに意識された限りでの喜びlaetitiaと悲しみtristitiaの感情affectusであるといっています。これを第四部定理二七と結び付けると,僕たちはものを十全に認識するのに役立つものを認識した場合には喜びを感じかつそれを意識し,逆にものを十全に認識することを妨げるものを認識した場合には悲しみを感じかつそれを意識するということになります。いい換えればこれは外部の原因の観念を伴ったconcomitante idea causae externae喜びあるいは悲しみといえるでしょうから,僕たちは十全な認識に役立つもののことを愛し,それを妨害するもののことを憎むということになるでしょう。そしてこの限りにおいて,これらふたつの定理は両立し得ると僕は考えます。
 一方,第四部定理六四では次のようにいわれます。
 「悪の認識は非妥当な認識である」。
 これは第四部定理八と両立します。なぜなら,悲しみは第三部定理五九により必然的に受動passioであり,第三部定理三によりそれは混乱した観念に依存しているからです。
 しかし,悪の認識が混乱した認識であるなら,なぜ第四部定理二七のように,僕たちは十全な認識を妨害するもののことを悪であると確知できるのでしょうか。どんなものであれそれが悪と認識されるなら,それは混乱した認識であるということが,第四部定理六四には含意されている筈です。
 僕はこの矛盾をどう解決するべきか,正直なところよく分かっていません。確知するということが十全に認識するという意味ではないと解するか,十全な認識を妨害するものを認識することとそれを悪と認識することを分離して解するかのどちらかだと思うのですが,どちらが適しているのかが分からないのです。

 第三部諸感情の定義六の意味を中心とした僕のフロイデンタールJacob Freudenthalに対する反論はこれですべてです。しかしこの考察の中には,反論そのものには直接的に関係しないけれども,補足しておかなければならないことがふたつほど含まれています。よってここからは,フロイデンタールがスピノザによる愛amorという感情affectusの定義Definitioをどのようにみなしているのかということと関係なしに,第三部諸感情の定義六を解するにあたって注意しなければならないと僕が考えている点についての説明に移行することにします。
 第三部諸感情の定義六は,一般的に愛という感情がどのような感情であるかということを示しています。そしてその特徴として,外部の原因の観念を伴ってconcomitante idea causae externae喜びlaetitiaが齎されるのであれば,その原因の観念の対象ideatumが何であるかということを問わずに,その喜びがすべからく愛といわれるということが含まれていました。他面からいえば,ある外部の観念が原因となって喜びを感じるとき,その観念の対象が何であるかということを問わずに,僕たちはその観念の対象を愛しているといわれるのだということが含まれていました。ですからAの観念が原因となって喜びを感じる場合には僕たちはAを愛していることになりますし,Bの観念が原因となって喜びを感じるなら,僕たちはBを愛していることになるのです。
 このように,観念されたものがAであろうとBであろうと関係なく,僕たちはAを愛しますしBも愛します。つまり愛という感情だけに着目するなら,それは同じように愛であるということになります。ですが,それを各々の感情として把握する場合には,Aに対する愛とBに対する愛とは同一の感情ではなく,異なった感情であると解さなくてはなりません。いい換えれば,Aの観念が原因となって齎される喜びとBの観念が原因となって齎される喜びは,第三部諸感情の定義二の意味においては同じように喜びであるといわれなければなりませんが,単に感情としてみた場合には,異なった感情であると解さなければならないのです。
 このことは,スピノザが一般性と特殊性の間の関係をどのように考えているのかということと関連するといえるでしょう。
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ニューイヤーカップ&愛の倫理

2017-01-18 19:19:48 | 地方競馬
 第60回ニューイヤーカップ
 リアルファイトはダッシュが鈍く置かれました。先手を奪ったのはスターインパルス。1コーナーから向正面にかけてぐんぐんと飛ばしていき,6馬身くらいのリードを奪う大逃げに。2番手はブラウンレガートとサイバーエレキングで併走。4番手にバンドオンザラン。少し離れてイーグルパス。また少し離れてサヴァルジャン。また間があってアンジュジョリーというように,隊列はかなりばらけました。ヒガシウィルウィンとカンムルはこれらの後ろから向正面で追撃を開始。前半の800mは49秒1の超ハイペース。
 3コーナーを回るとスターインパルスのリードも徐々に縮まっていきましたが,2番手で追っていたサイバーエレキングは苦しくなり,ブラウンレガートが単独の2番手。さらにここでうまく内を回ったヒガシウィルウィンが3番手に。直線の入口ではブラウンレガートがスターインパルスの外に並び,抜け出して一旦は先頭。ヒガシウィルウィンが直線はさらに外に出されて伸び,フィニッシュ直前で抜け出したブラウンレガートを捕えて優勝。アタマ差の2着にブラウンレガート。外を追い上げることになったカンムルが3馬身差で3着。大逃げのスターインパルスはハナ差で4着。
 優勝したヒガシウィルウィンはこのレースが南関東転入初戦。北海道時代はサンライズカップを制していて,南関東重賞は初制覇。ここは能力では最上位と思っていましたが,浦和のこの距離は内枠が断然有利ですので,外目の枠順になった分だけ取りこぼしもあり得ると見立てていました。最終コーナーでうまく内を回れたのが大きかったと思いますが,外枠を克服したのは評価しなければいけないでしょう。2着馬との力量差は着差よりは大きいものと思います。クラシックの有力候補であるのは間違いありません。父はサウスヴィグラスプロポンチスグランドターキンの分枝。半姉に昨年の東京湾カップを勝っている現役のディーズプリモ
 騎乗した船橋の森泰斗騎手東京シンデレラマイル以来の南関東重賞制覇。ニューイヤーカップは初勝利。管理することになった船橋の佐藤賢二調教師もニューイヤーカップ初勝利。

 第五部定理三二は,スピノザの哲学における倫理的観点にとって,とても重要な位置が与えられる定理Propositioです。なかんずく,フロイデンタールJacob Freudenthalが独身であったことを理由に批判した,愛amorの倫理という観点に限定していうなら,その中心的な位置を占める定理であるといっていいほどです。なぜなら,スピノザはこの種の愛こそが,あらゆる愛の中で最も完全性perfectioを有する愛であると考えているからです。したがって第五部定理三二は,第三部諸感情の定義六の意味が成立することによって可能となっている愛なのですから,もし第三部諸感情の定義六を愛という感情affectusの定義Definitioとして成立しないと即断するならば,スピノザの哲学における愛の倫理自体が成立しないことになります。
                                     
 神Deusに対する人間の愛というのがいかなる愛であるのかということを説明することを現在の考察は目的とはしていません。よってここでも今はなぜその種の愛があらゆる愛の中で最も完全な愛であるといえるのかということについては説明を省略します。もしもそのことについて関心があるならば,第五部定理三三備考をお読みになってください。少なくともこの愛が最も完全性を有する愛であるとスピノザが考えているということ,したがってこの愛が愛の倫理の頂点に君臨しなければならないということだけは,その備考から理解できる筈です。
 第三部諸感情の定義六が,愛の定義として成立しないのではないかという疑問自体は十分に成立するものです。ですがだから別の仕方で愛を定義し,スピノザによる愛の定義を否定してすましてしまうなら,スピノザの哲学の中におけるこの定義の意義を理解することはできません。むしろその定義を疑問と感じる場合にも,ではなぜそのように疑問を感じるような仕方でスピノザは愛を定義したのかという観点からそれを探求していくべきだろうと僕は思います。そして僕には,フロイデンタールにはそうした姿勢が欠如しているように思えるのです。なので仮にフロイデンタールがいうように,スピノザの定義が独身者の独断に満ちたものであったのだとしても,同じようにフロイデンタールの定義も妻帯者による独善的なものであるとしか思えないのです。
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東日本発祥倉茂記念杯&第五部定理三二

2017-01-17 19:32:16 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた大宮記念の決勝。並びは長島‐平原‐牛山の関東,竹内‐吉田‐志智の中部,稲垣‐西川の西日本で小埜は単騎。
 少しばかり牽制になりましたが稲垣がスタートを取って前受け。3番手に長島,6番手に小埜,7番手に竹内で周回。残り2周を過ぎても隊列に変化はなく,バックの入口手前から竹内が上昇して前に。これに続いたのが長島。隊列は凝縮しましたが牛山の後ろに小埜,8番手に稲垣の一列棒状になって打鐘後のコーナーへ。ここから稲垣が動いていき,ホームで長島の外にへばりつきました。長島はどかそうとしましたができず,バックで稲垣が発進。ただ後ろも併走になっていたため,西川ではなく平原がこれを追い,コーナーで稲垣のさらに外へ。吉田は竹内との車間を大きく開けて待っていたのですが,直線では稲垣がこれを交わし,さらに外から平原が稲垣を捕えて優勝。マークの牛山が4分の1車輪差の2着に続いて関東のワンツー。稲垣が4分の3車身差で3着。
                                     
 優勝した埼玉の平原康多選手は11月の競輪祭以来の優勝。記念競輪は7月の小松島記念以来で通算16勝目。地元となる大宮記念は2008年,2010年,2011年,2013年,2015年と優勝があり,2年ぶりの6勝目。このレースは栃木の長島の後ろが埼玉の平原で3番手に茨城の牛山。脚質の違いもありますが,長島の後ろに牛山でもおかしくはないところ。それがこの並びで折り合ったので,長島がする仕事はほぼひとつと思えました。そうなれば平原にとっては楽な展開になったでしょう。ただ,長島は経験は不足していますから,その仕事ができないケースもあり得て,その場合には混戦も予想されたところ。実際にうまく稲垣に蓋をされ,長島は不発に終わりましたから,稲垣や吉田の優勝であってもおかしくなかったでしょう。稲垣にとっては西川との連携が崩れてしまったのが痛かったところ。とはいえ平原は自分のタイミングで発進した稲垣のさらに外を捲って勝ったのですから,内容的にはかなり強かったと思います。

 なぜ第三部諸感情の定義六のように愛amorという感情affectusが定義されることのうちに,スピノザの哲学における意義あるいは重要性が含まれているといえるのかということについては,多面的な角度から検証することができると思います。ただ,『スピノザの生涯』では,独身者が倫理的な関係について異なった判断を下したことについて批判されているので,ここではその倫理的観点から僕自身の見解を述べていくことにします。
 スピノザは人間にとっての愛の対象を人間に限定しませんでした。そして愛は喜びlaetitiaの一種なので,第三部定理五九によってそれは能動actioであり得ます。つまり僕たちは能動的に人間以外の何かを愛することができるのです。そうした能動的な愛について言及した箇所のひとつとして,第五部定理三二があります。
 「我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ,しかもこの楽しみ(eo delectamur)はその原因としての神の観念を伴っている」。
 スピノザはこの定理Propositioにおいては楽しみdelectamurといっていますが,これを感情としてみれば喜びであることはいうまでもありません。そしてその喜びという感情の原因として,神の観念idea Deiを伴っているのです。つまりこれは僕たちが神を愛しているという意味になります。
 この種の神に対する人間の愛がいかなるものであるかということはここでは細かく説明しません。他面からいえばここではこの定理を証明することはしません。ただ,僕が注意を促したいのは,このことは,第三部諸感情の定義六の意味が成立することによって可能になっているという点です。実際,もしフロイデンタールJacob Freudenthalのいうように,妻の私心のなさや,苦痛と喜びから生じる母性愛を規準として愛を定義した場合には,この種の神に対する愛は,愛という感情として成立しないでしょう。あるいは同じように愛といわれるのだとしても,単に名称の上で同一というだけであって,完全に異なった種類の感情であるといわなければならないでしょう。
 繰り返しますが,フロイデンタールのような仕方で愛を定義することを僕は否定したいのではありません。その定義によってスピノザの定義を即座に否定することを僕は問題視するのです。
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