スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

善知鳥杯争奪戦&契約の工夫

2014-09-30 18:57:52 | 競輪
 東日本の選手だけとなった青森記念の決勝。並びは高橋-佐藤-内藤と新田-和田に別れた北日本2ライン,武田-神山-阿部の関東に海野。
 新田と和田が出ましたので新田の前受け。3番手に高橋,6番手から武田の周回に。残り3周のバックを過ぎると武田が上昇開始。ホームでは高橋に蓋。ホームの出口から新田に並び掛け,バックで前に出ると打鐘。高橋がここから巻き返し,新田は下げずに阿部をどかして神山の後ろに。武田は下げずに高橋と先行争い。ホームでは制して武田の先行。高橋は浮いて佐藤は苦しくなりましたが,内藤に入れてもらい,武田,神山,新田,佐藤,内藤でバックを通過。コーナーに入ると新田が発進。直線で外から楽に差し切って優勝。展開有利になった神山は半車身差の2着。佐藤の後ろから神山と新田の間に進路を選んだ内藤が半車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は4月の共同通信社杯以来の優勝。記念競輪は3月の松山記念以来で4勝目。青森記念は初優勝。力量だけで考えれば,武田か新田かというメンバー。武田が先行争いをしたので,その分は有利に。バックで抑えられたときに下げず,神山の後ろに割り込むことができたのが最大の勝因でしょう。こうした走行ができるなら優勝回数をどんどん増やしていくことになる筈です。GⅠ制覇も近い選手だと思います。

 グリーンチャンネルはレース中継とパドック中継のふたつのチャンネルがあり,どちらも視聴可能になるという契約内容。月額1200円で,この程度の出費は僕には問題になりませんでした。ただ,契約しようと思えば簡単に契約できたものを,長きにわたって契約せずにいたのは,僕自身に迷いがあったからです。というのも,グリーンチャンネルなどに加入してしまえば,僕のような人間は暇さえあればそればかり視るようになるだろうと思えたからです。ということで,契約には少しの工夫を加えました。
 僕の家には,テレビ番組を視聴可能なテレビが2台あります。このうち1台は,母と妹の寝室にあります。つまりこのテレビは,夜の時間帯には僕は視ることができません。ケーブルテレビとの契約は,テレビ毎の契約でした。したがって,1台のテレビはグリーンチャンネルを視聴できるけれども,もう1台は視聴不可能という内容であったわけです。そこで,夜の時間帯には視聴することができない方のテレビで契約したのです。これなら週末の日中の競馬中継を視聴するのには不都合が生じません。そして夜にグリーンチャンネルばかりを視ることになるような事態も防止できるからです。
 僕は平日の昼にも在宅しているという場合があります。そんなときに視てしまうということはあるのですが,それでも物理的に視聴時間を制限する方法で契約したのはよかったと思っています。そうでなければ夜も視聴することになったのは疑い得ないからです。
 8月5日,火曜日。午前中に歯科検診へ。8月1日の午前中に,根岸駅に出なければならない用事があり,そのときに予約しておいたもの。9時半と,わりと早めの時間で,10時20分頃には帰宅していました。施したのはクリーニングだけです。午後から長者町へ。
 8月8日,金曜日。今度は母が歯科検診へ。いつものようにまた3ヶ月後の予約を入れて帰りました。僕はこの日は本牧へ。
 8月9日,土曜日。妹のピアノのレッスン。午後2時から。通常はある程度は前に電話で日程が決定されるのですが,この日のレッスンは前日になってから急に決まったものでした。
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大山名人杯倉敷藤花戦&グリーンチャンネル

2014-09-29 19:22:32 | 将棋
 第22期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は山田久美女流三段が0勝,貞升南女流初段が1勝。
 振駒で山田三段の先手。矢倉への誘導を目指したのに対して貞升初段が原始棒銀。これに対応するため先手が中飛車に。結果的に先手は手厚く,後手は左右に分裂という構えになり,駒組の段階で大きな差がついてしまったようです。
                         
 後手が8筋から飛車を回ったのに対して,先手も5筋から回って受けたところ。後手も何かはしなければいけないので,ここで△4四歩▲同歩△同銀と動いていきました。先手は完封勝ちを狙う方針だったようで▲4六歩。なので次の△5四歩にも▲5六金と上がりました。△5二飛と数を足したのにも▲5九飛。△6七歩の垂らしに▲5四歩と取り込み,△同金に▲5五歩と打ちました。
 先手の狙いが完封なので,たぶん△6八歩成と指した方がチャンスを得る確率は高くなったように思うのですが,△5三金引と撤退。先手は▲6九飛と回りました。
                         
 元が悪いから仕方がないのですが,仕掛けて一段落して後手はさらに悪くしたようです。この後も先手は方針通りに指し続け,機を見て反撃に転じ勝っています。
 山田三段が挑戦権獲得。これが女流三段昇段後の120勝目で,女流四段に昇段。タイトル戦登場は第12期女流王将戦以来25年ぶり2度目。第一局は11月5日です。

 レッツゴーキリシマの記事を書かれた方を含め,キャスターのブログを購読するようになったのは,グリーンチャンネルに加入したのを契機としています。これまで書いていませんでしたが,契約したのは昨年の9月でした。僕の家は,近隣のマンション建設の際の難視聴対策としてケーブルテレビ接続の工事が無料で行われました。それと一緒にネット回線を繋いだので,この工事というのはブログ開設以前の話です。グリーンチャンネルもケーブルテレビ経由の視聴ですから,契約といっても,5分もかからないような画面上の操作をしただけです。
 最近,スポーツ中継にタレントを起用する演出が増えているようです。僕は競馬と競輪とNOAH以外にスポーツ番組は視ませんから,どんな状況なのか具体的に知っているわけではありません。ただ,競馬番組にも,以前よりこの種の演出が増えているのは確かでした。グリーンチャンネルはたまに無料放送を実施していて,その場合には僕はそちらを視聴していましたから,そういった演出がないということは事前に理解していました。契約した大きな理由はこれです。ただし,僕はテレビ局の演出についてどうこういうつもりはありません。むしろ僕自身が,そうした演出にはついていかれないような人間になったということです。
 このブログを始めた2006年3月の時点では,関東のUHF局の合同制作のような中央競馬ワイド中継という番組がありました。僕はこの番組が最も質的に高かったと今でも思っています。この番組はBS11の競馬中継の開始に合わせて終了。こちらは司会がタレントですから,僕がついていかれなくなった演出を加えていました。とくにワイド中継と比べたら明白です。それでもこの番組は,視聴するに堪えないと感じるほどではありませんでした。僕にとって最も辛かったのは,メーンレースの時間帯に放映される地上波の番組。ある頃から僕は,この番組はレースの時間以外は視聴しなくなりました。しなくなったというと意志が作用しているようですが,正しくは視聴できなくなったといった方がいいでしょう。その集積が,昨年の9月に一気に爆発してしまったわけです。
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私の子ども&レッツゴーキリシマ

2014-09-28 19:01:49 | 歌・小説
 執筆の時期の特定は困難ですが,『こころ』を書いたとき,私に子どもがいたということは間違いないと僕は思います。
                        
 小森陽一に『構造としての語り』という著作があり,この子どもについて,驚くような読解が示されています。先生の自殺で未亡人となった奥さんが,後に私と再婚し,子どもを産んだというものです。賛否両論があり,清水忠平は『漱石に見る愛の行方』で肯定的見解を示し,水川隆夫は『夏目漱石「こころ」を読みなおす』で否定的見解を示しています。小森は読解の根拠として,当時の私には子どもがなかったという部分の直後と上三四のテクストを示していますが,これは水川がいっているように読解の根拠として薄弱だと僕は思います。つまりこの読解は無理だと考えます。ただ,水川の読解にも僕は賛同できません。それは別に書くことにして,ここでは僕が小森説を否定する根拠を示します。
 先生の遺書には,それを奥さんには明かさないようにという注意があります。これはその遺書の内容に,奥さんに対する秘密が含まれていたことを示すと僕は考えます。その秘密が具体的に何であるのかは不明です。内容は不明でも,確かに秘密があったということを僕は重視します。
 もしも私が先生の死後に奥さんと結婚したならば,その秘密もまた私と奥さんの間で共有されなければならないと僕は考えます。そうでないと私はこの『こころ』という手記を書くことができないからです。
 ところがこれを否定するテクストが上一二にあるのです。そこでは,先生の恋愛の裏には恐ろしい悲劇があったということ,そしてその悲劇が先生にとって惨めであったということが示され,先生はそれを奥さんに隠して死んだ,それを奥さんは今でも知らないといわれています。これでみれば悲劇が秘密ではなく,先生の惨めさが秘密だったと推測されますが,ここでもそれには目を向けません。奥さんは今でもそれを知らないというテクストを私が残したことを重視します。この今は,私が書いている今に違いありません。だから奥さんと私の間では,秘密の共有はなされていなかったと僕は考えます。

 2年前の暮れに,母が台所の裏の地面の陥没を発見したことがありました。僕は物理的なものと判断したのですが,水道管の交換を行った場所の近くで,何らかの関係はあったのかもしれません。ただ,2年前の時点では水が漏れているような様子が窺えなかったのも事実でした。
 工事を行った8月3日は,妹のピアノのレッスンもありました。午後5時半からでした。
 8月4日,月曜日。4年前に父の最期を迎えた日です。母と僕の予定を合わせることができましたので,11時過ぎから,日野公園墓地へと墓参りに行きました。この場合,屏風浦までバスで出て,そこからタクシーで往復というのは今も同様ですが,以前とは違いもあります。タクシーで墓地に到着した後,実際に墓参りをしている間はそのタクシーに待機してもらい,同じタクシーで帰るようにしたのです。運賃はかさみますが,妹の嘔吐があったときのように,帰りのタクシーを見つけるのに難儀することがありましたので,母がそのようにしたいと言い出したためです。時間の関係で,この日も帰途に昼食を済ませ,午後1時半頃に帰宅しました。
 この日の夜,グリーンチャンネルのキャスターの方がブログで,レッツゴーキリシマが競走生活から引退後も,元気でいるということを紹介されていました。いうまでもなく,僕の記憶の中で,父と深く連鎖している馬です。ほかの日であればまだしも,父の命日の当日のことでしたから,悲鳴をあげるほど驚きました。
 たとえ重賞を制した馬であっても,現役後の余生を全うできるケースは多くありません。欧米と比べるなら日本は馬の需要が多くありませんからなおさらです。これは事実として重いものがあると考えなければいけません。そして僕は競馬ファンのひとりとして,その重さを引き受けなければいけない立場にあるということを自覚しています。でも,非常に矛盾しているのですが,やはりこの馬には,可能な限り元気でい続けてほしいという思いも抱いてしまうのです。
 これを機に,父の死の前後を記した部分を読み返してみました。意外と詳しく書き遺していて,自分で自分にびっくりでした。
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滞在中&水道管の交換

2014-09-27 19:13:39 | 哲学
 訪問の意図は詳しくは不明ですが,スピノザがユトレヒトを訪れたのは事実。滞在中の出来事に関しては,リュカスJean Maximilien LucasとコレルスJohannes Colerusで,一致している部分もあれば,異なった部分もあります。
                         
 招待の理由もまた判然としませんが,訪問は,コンデ公の招待がなければ実現しなかったのは間違いないと思います。しかしスピノザが当のコンデ公とは会えなかったという点は,リュカスもコレルスも一致していますので,それもまた事実として間違いないものと思われます。
 リュカスは,スピノザの訪問を受けたのはリュクサンブールであったとしています。この人については説明がないのですが,フランス軍の将軍であったようです。リュクサンブールはスピノザを歓待し,コンデ公の愛顧をスピノザに保証したとリュカスは記しています。
 一方,コレルスは,スピノザはストッパ中佐と語り合ったのだとしています。ストッパは,もしもスピノザが国王に著書を献上するなら,年金を受け取れるように取り計らうと約束したのだけれども,スピノザは自著を献上しようと思わなかったので,その申し出を鄭重に断ったという主旨の記述をしています。フランスは反動的保守派といえるカトリックが強い地域でしたから,その思想と相容れる要素がないと思われる自身の著作を,スピノザが献上したいと思わなかったというのは,事実であるかどうかは分かりませんが,納得できるところではあります。後にハイデルベルク大学教授への就任の要請を断ったことと,相通じる要素がここにはあると思えるからです。スピノザにとっては金銭や名誉よりも大事なもの,すなわち哲学する自由が存在したという意味においてです。
 ただ,両者に共通していえるのは,スピノザがユトレヒトでぞんざいに扱われるようなことはなかったということです。むしろ鄭重なもてなしを受けたといえるような内容であることは共通しています。その具体的な内容がどうあれ,これもまた史実として受け止めてよいのだろうと思います。

 水が流れるようになったとはいっても,これは一時的なものにすぎません。水道管の劣化が原因であると考えられたからです。それなら水道管自体を新しいものと交換しない限り,いずれまた詰まることが必然でした。ただこのときは水が流れないと困るので,急いで来てもらったのですから,新品の水道管が用意されていたわけではありません。何より夜のことでしたから,暗くて工事をすることはできません。放置はできないので,後日,水道管を交換する工事の発注だけをしておきました。
 8月2日,土曜日。妹の土曜出勤です。この日は納涼会で,も一緒でした。午前中はビデオの観賞。昼食を挟んで午後からはカラオケ大会が行われたとのこと。利用者は一曲ずつ歌ったようですが,全員がきちんと歌えるというわけではありません。何も関係のない人が,ただこれを聴くためだけに参加したとしたら,それは拷問に等しいのではないかというのが母の感想でした。
 8月3日,日曜日。この日に水道管の交換の工事を実行しました。すぐに換えるなら前日でしたが,母が不在であったためにこの日にしたものです。この工事自体は朝から始め,午前中には終了しました。ただ,担当した業者によれば,これですべてが解決するとは限らないとのことでした。これには以下のような事情があります。
 僕の家の下水管は,僕が産まれるよりも前に配管されたものです。その当時,この付近は長屋が多く,それに合わせて配管されているようなのです。現在は僕の家と北側の隣家はそれぞれ独立していますが,下水管は共有のまま。ですから隣家の敷地内の水道管には手を出せません。つまりこのときに交換したのは,はっきりと僕の家の敷地に属するとみられた水道管だけだったので,もしもその先に何らかの問題があった場合に,また流しが詰まるという事態が発生する可能性がこのままでは残るということが,業者から伝えられました。実際にはこの排水管は,隣家だけでなく,隣家の西向いの家,僕の家からみると斜向かいの家の水道管にも繋がっているようです。ですからこれを交換する工事を行うとなれば,それぞれの家の同意を取りつける必要があります。
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マイク&通院日の変更

2014-09-26 19:04:36 | NOAH
 おそらくは双方の思惑の一致で仲間割れに至ったジャイアント・馬場とラッシャー・木村。これ以降は馬場と国際血盟軍の抗争に発展。もっとも,抗争というようなことばで表現すべき戦いであったかは微妙。とりわけ国際血盟軍が木村と鶴見五郎のふたりになり,どこの会場でも馬場&X対木村&鶴見という試合が行われるようになってからは,ほのぼのとしたような感じさえ抱かせるようになりました。そうした中で自然発生してきたのが木村のマイクパフォーマンスです。
 木村は馬場だけを標的としていました。しかしタッグマッチばかりでしたから,シングルマッチを迫るというのが初期の内容。プロレスにはマイクパフォーマンスというのがあるのであって,その頃はそれを逸脱するような内容ではなかったと僕は記憶しています。
 ところがそのうちに木村は妙なことを言い出すようになりました。たとえば,今日は試合に勝とうと思って焼肉を5人前も食べてきたけれども負けてしまったから,今度は10人前食べてくる,といったようなこと。確かに勝とうとする意欲の表出と受け取れなくもありませんが,おおよそそれまでのプロレスのマイクパフォーマンスとしての規範を逸脱したようなものであったことも事実。聞いて笑い出すようなファンも多かったわけで,笑いを取りにきていたのも真実であったと思います。ただ,木村は実直な人柄というのをこの頃にはリング上で表現できるようにもなっていました。ただのお笑いではなく,ひとつのパフォーマンスとして成立し得たのは,その木村のキャラクターのなせる技であったのだと,今となっては思えます。
 少なくとも僕のプロレスキャリアが始まってからこの頃まで,木村はそこまで人気のあるレスラーではなかったと思います。しかしこのマイクパフォーマンスで,じわじわと上昇。試合後に観客がパフォーマンスを求めるようになってきました。そしてその木村の人気を不動のものにしたのも,やはりマイクパフォーマンスであったと僕は認識しています。1988年8月29日,日本武道館。ブロディメモリアルの夜でした。

 7月15日,火曜日。妹がショートステイへ。磯子区内の施設で2泊3日。5月が中止,6月はこちらの都合で1泊になりましたから,2泊のショートステイは4月以来のことでした。荷物は前日に運んでもらいましたので,迎えの支援は依頼していません。17日の帰宅時に送りの支援を要請したのは,いつもと同じです。
 7月20日,日曜日。妹の眼鏡が破損してしまったので,母とふたりで修理に行きました。ついでですから昼食も外食で済ませています。
 7月26日,土曜日。ガイドヘルパーの利用が予定されていました。しかし,当日になって連絡があり,ヘルパーの体調不良によって中止となってしまいました。予定されていたのはボーリングで,妹が好むレジャーですから,妹には気の毒でありましたが,こうした事情では致し方ありません。
 7月30日,水曜日。夜にK先生から電話が入りました。次回の通院は9月8日の月曜に設定されていたのですが,その日は先生の都合が悪く,休診となるので,日を変えてほしいという依頼でした。通院は月曜日ですから,1週前か1週後ですが,1週後の15日というのは祝日ですから変更は不可能。ということで,1週前の9月1日の午後3時に変更ということになりました。
                         
 こうしたケースは初めてでしたが,仮に1週後に予約変更が可能であったとしても,僕は1週前に変更してもらいます。これは処方箋の関係。インスリンはたぶん1週後になっても残量はあると思うのですが,注射針の方は1週後に必ず残りがあるとは限らないからです。父の死が目前に迫っていたとき,僕の通院が設定されていたことが,当時の僕の心配事のひとつになっていたように,基本的に僕は通院を遅らせるということはしたくないのです。
 そしてこの日の晩,台所のパイプが詰まってしまったようで,シンクに水が溜まってしまいました。正月に同じことが発生したとき,水道管の劣化が原因であると示唆されていたので,またこうしたことが生じ得るということは想定していました。半年ほど経って,それが現実のものとなったのです。すぐに業者に連絡し,水が流れるようにしてもらいました。
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王位戦&傘

2014-09-25 19:42:43 | 将棋
 鶴巻温泉で指された第55期王位戦七番勝負第七局。
 羽生善治王位の先手で相矢倉の戦い。今日は早めに帰れましたので,4時半頃でしょうか,観戦しようとアクセスしたら終局していました。111手目に▲4四銀成とされてからは後手がはっきりと苦しかったようには思いますが,形作りが必要な局面とも思えず,あるいは木村一基八段の頓死だったかもしれません。
                         
 これは中盤で,▲1三歩が多い手ですが▲1四歩と垂らしました。△3七銀は最も考えられる手ですが▲1五香と走ったのはびっくりの手。△3八銀不成で飛車を取られる上,この銀は後に働いてくることが必至だからです。▲1三歩成△同香▲同香成△3一玉▲1二銀と進みました。
                         
 考えやすい変化ですから,先手はこれで戦えるとみていた筈。△6六歩▲6八金引と大きく利かして△4七銀成。△6六歩を▲同角と取らなかったのですから角を逃げる手はあり得ず,▲2三成香△5七成銀▲同金までは一直線。ここから後手は△8六歩▲同銀△1八飛と攻めておいて,▲6八歩に△2二歩と受けに回りました。
                         
 後手の進め方が正しかったかどうかは別に,この局面は難しく,先手もやれそうに思えます。大駒を2枚とも見捨ててしまうような大胆な指し回しは驚きでしたが,相矢倉はそれぐらいでも戦える戦型だということなのでしょうか。
                         
 羽生王位が防衛。第34期に初めて就位。そこから42期まで九連覇。45期に復位すると46期,47期と三連覇。52期に最復位し,53期,54期,今期と四連覇で通算16期目の王位となります。

 薬局は根岸駅のすぐ近くです。家までは簡単に歩ける距離ですが,バスも出ています。バスの待ち時間によっては徒歩の方が早く帰れるケースもありますが,定期券を購入して以降は,僕は必ずバスを利用しています。このときもそうで,しばらく経ってバスが来ましたから,乗り込もうとしたのですが,そこで手元に傘がないことに気付きました。座っていたベンチに忘れたかと思って探してみましたがありません。どうやら薬局の傘立てに置き忘れてしまったようだと推測しました。なのでそのバスを見送り,薬局に戻りました。思った通り,入口の横の傘立てに僕の傘がありましたので,それを持ち帰りました。
 定期入れ紛失とかパスモの紛失など,僕は小物を落としてしまうということはよくあります。でもバッグとか傘といったような,手荷物になるようなものを紛失してしまうというケースは不思議なことにほとんどないのです。傘を忘れるなどということはだれしも経験することで,僕もまったくないというわけではありませんが,もう20年以上は紛失の経験がありません。僕は傘は風に強いタイプのものを使っています。少し値が張りますが,なくすことはないという自信があるのです。ですから僕が傘を買い換えるのは,紛失が理由ではなく,損壊が理由になります。いくら強い傘でも,長期にわたって使用し続ければ,壊れるのも仕方ありません。
 このときのように,紛失の一歩手前というところまではいくのです。もしもバスに乗ってしまった後で気付いたら,たぶん諦めたことでしょう。同様に,コンビニエンスストアの傘立てに忘れるとか,トイレで用を足している間に手元から離して忘れたといったこともありましたが,実際の紛失に至る前に必ず気付くのです。一方,電車の中やバスの中など,忘れてしまったら諦めるほかないという状況下で,置き忘れてしまうというケースは発生しません。なぜそういうことになっているのか,たぶん明確な理由がある筈だと思うのですが,自分でもよく分かっていないのです。
 変なところで時間をロスしてしまうということになりましたが,午後4時過ぎには帰宅することができました。
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長良川鵜飼カップ&2014年7月の通院

2014-09-24 19:13:14 | 競輪
 昨日の岐阜記念の決勝。並びは守沢-小松崎-山崎の北日本,村上に林,北津留-小野-大塚の九州で,岡田は単騎。
 村上がスタートを取って前受け。林の後ろに岡田,中団の4番手が北津留,後方の7番手から守沢で周回。守沢は残り3周のホームから上昇し,北津留を抑え込むように外を併走。北津留が引かなかったのでこの併走が1周近く続き,残り2周のホームで守沢がさらに踏み上げて前に。うまくスイッチした岡田が4番手,村上が5番手,北津留が7番手で打鐘。ホームに入ると小松崎が早くも車間を開けて後ろを警戒。村上が届いてくる前,バックに入って番手発進。村上は捲りあげたものの山崎の牽制で失速。コーナーでインを掬おうとした岡田がバランスを崩して落車。同様にインを回ろうとした小野と大塚が巻き込まれたため岡田は失格。直線では山崎が小松崎を交わして優勝。小松崎が2車身差で2着に粘って福島のワンツー。山崎を追う形となった林が1車身差で3着。
                         
 優勝した福島の山崎芳仁選手は4月の西武園記念以来の記念競輪14勝目。岐阜記念は初優勝。並びから二段駆けが十分に予測されたので,守沢がうまく先手を奪えれば展開が有利になるのは間違いありませんでした。邪魔されることなく守沢の主導権になりましたので,その時点で優勝の可能性が一気に高まったといえるでしょう。ただ,村上の捲りを封じたのは,小松崎の頑張りも大きかったという印象を受けます。2着に粘り込んでいますので,小松崎も今後は注目していかなければならない選手でしょう。

 HbA1cですが,6.9%になっていました。5月に7.1%まで下がっていて,その後の状況からまた下がっていると思っていましたから,その幅は別として,これは想定していた通り。K先生が具体的な数値目標として設定した6%台というのも,ぎりぎりですが達成できたことになります。また,季節として本当に暑くなるのはこれからですから,おそらくまだ下がることになるという予想もできました。正常値とされる値よりはまだ高いわけですが,目標の範囲内には納まって,僕としてはほっとした部分もあります。とはいえ,これは時期的なものの影響があると僕はみています。また今度の冬が来たときに,どのように推移していくかは,分からない部分が残ります。
 この日はなぜか血糖値が高くなっていました。そのために糖定性が4+となっていましたが,これは一時的なものといえます。
 もうひとつ,LDLコレステロールがまた下限値を下回っていました。ただ数値でいうなら64㎎/㎗でしたから,5月よりは上昇していたことになります。異常があったのはこのふたつの点だけ。ただこれらについては,K先生の方から何も心配をする必要はないという話がありました。むしろ目標値に入ったとはいえ,HbA1cの値をこのまま維持し続けていくことを心掛けてほしいというニュアンスの話がありました。医師によって何を重視するのかということに相違が出てくるのは,考え方からして当然だといえます。K先生は僕の歴代の主治医の中では,HbA1cの統御に関して最も強く重視しているのは間違いないように僕には思えます。
 清算も済ませて帰途に薬局へ。このときにまた,おくすり手帳を持参しているか否かを尋ねられました。前々回のことがあったので,前回は持って行ったのです。ところが前回は何も言われませんでしたから,このときは持ってはいませんでした。それまで言われたことが皆無でしたから,前々回のときだけが特別だと思ったからです。どうもタイミングがうまく合いません。やることは同じなのでその場にあろうとなかろうと大して変りはありませんが,これを機に,必ず持っていくことに決めました。
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日本テレビ盃&予約時間

2014-09-23 19:18:43 | 地方競馬
 今月2回目の開催となる船橋競馬のメーンは第61回日本テレビ盃
 牽制模様でしたが先手を奪ったのはグラッツィア。2番手にクリソライトで3番手がダノンカモン。その後ろにトーセンアレスとグレープブランデーの併走で,実質的にレースに参加したのはこの5頭。最初の800mは48秒3のミドルペース。
 3コーナーを過ぎてクリソライトがグラッツィアに並び掛け,一旦は後ろと差がつきました。直線の入口でもまだ併走状態でしたが,すぐにクリソライトが前に出ると,そこからはワンサイドゲーム。7馬身という大差をつけて圧勝。一時的に離されたダノンカモンが外からじわじわと巻き返して2着。最後は一杯になったグラッツィアが1馬身差で3着。
 優勝したクリソライトは昨年のジャパンダートダービー以来の勝利で重賞2勝目。そのときも7馬身差をつけてのもので,その後に期待をしていたのですが,古馬との対戦で想像以上の苦戦。ようやく対等に戦えそうな雰囲気を出したのが前走で,今日はかつての力を取り戻したかのような楽勝。強力メンバーでなかったことは確かですが,これだけの差をつけることができたので,トップクラスを相手にしても期待できそうだと思います。父はゴールドアリュール。母の父はエルコンドルパサー。祖母はキャサリーンパー。母の全弟に2006年のジャパンカップダートを勝ったアロンダイト。Chrysoliteはペリドットの別名。
 騎乗した戸崎圭太騎手は第57回以来4年ぶりの日本テレビ盃2勝目。管理している音無秀孝調教師は日本テレビ盃初勝利。

 7月6日,日曜日。ガイドヘルパーを利用。この日はカラオケでした。
 7月12日,土曜日。ピアノのレッスン。これは午後5時半から。
 7月13日,日曜日。母と妹で美容院に。ここ最近はずっと午後1時の予約で,この日も同様でした。
 7月14日,月曜日。僕の通院です。この日,家を出るときには確かに雨が降っていたのです。なので傘をさして行ったのですが,最寄りのバス停でバスを待っている間にその雨はやみ,これ以降は降られることがありませんでした。病院にはあまり余計な荷物は持って行きたくないのですが,このときの傘はまさにそれになってしまいました。
 中央検査室には何人かの患者がいました。なのでこの日は先に採尿してから採血でした。
 栄養指導は前回で終了となったので,必要なのは診察だけ。その診察の予約時間が,この日は午後2時半になっていました。これは僕の方から要請したもの。K先生は,午後1時に予約を入れようとしていました。ただ,僕としては早いよりも遅い方が好都合なのです。というのも,僕は現状は週に最低でも3回は長者町に行きます。これがどうしても月曜でなければならない場合が生じます。というか通常は2週間に1度はそうなります。このとき,診察が早いと,帰宅してから出向くことになります。しかし遅ければ,時間に余裕のある午前中にそちらを済ませてしまうことができるのです。そして先に済ませてしまった方が,僕には楽なのです。一般的にいえば予約は早い方が好まれる筈だと思うのですが,僕の場合はこうした事情から,むしろ遅い方が有難いのです。前回の診察の終りに,こうした事情をK先生に話しまして,以後,僕の予約はなるべく遅い時間に入れてもらうようにしたのです。
 それでも2時半だと時間が余ります。ということでこの日は久々に小港まで出まして,外食をすることにしました。
 病院に戻ったのは予約時間の間際になっていました。受付に予約票を提出すると,間もなく診察になりました。状況から察すると,本当は僕の前にひとり,患者がいたようですが,その場に不在であったようで,僕が繰り上げられたようです。
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島研ノート 心の鍛え方&処方の継続

2014-09-22 19:00:48 | 将棋トピック
 三冊目は島朗の『島研ノート 心の鍛え方』。2013年3月28日,講談社より刊行。僕が持っているのは翌月発行の第二刷。売れ行きが好調だったので,早々の増刷となったものでしょう。わりと早い段階で入手していたことになりますが,この本に関しては読もうか読むまいか逡巡がありました。高橋和女流三段が強く推薦されていたのに後押しされて購入したものです。
                         
 島研は将棋界では有名な研究会。メンバーは島九段のほかに,羽生名人,森内竜王,佐藤九段。中心はこの3人についてですが,他の棋士も部分的に登場します。
 中心を貫いているのはふたつの点。ひとつは心が将棋を指すということ。つまり指し手には精神のありようが反映されるということ。これはひとりの人間としての精神を意味します。冒頭で東日本大震災に触れられていますが,当時の棋士の指し手に乱れが生じても,それを責めるのは酷であるという主旨のことが書かれています。他面からいえば,だからよい将棋を指して勝つためには,だれよりも強い精神に鍛えていくことが必須です。題名が意図しているところはこのことだといえるでしょう。
 もう一点は,将棋には王道というものがあるということ。将棋界は,限られた人数で長期間にわたって戦い続け,トータルで勝者を決めます。その勝者になるためには,この王道を踏み外してはならないというのが島の考え方。当初から道に迷っているようではトップに到達するべくもありません。また,途中で道を踏み外すとすれば,それはトップに立つこと,トータルの戦いで勝者の側に立つことを放棄することに等しいのです。
 中心になっている3人についてですが,島との関係が三様にあるというように描かれています。羽生,森内,佐藤のそれぞれの描写に異なる筆致があるように僕は感じました。それはおそらく,島の3人に対する関係性が表出しているものだと推測します。
 ジャンルを問わない著作としてもこれは名著だと思います。将棋関係の著作と限定するなら,屈指の名著のひとつでしょう。将棋ファンを問わず,できるだけ多くの人に読んでもらいたい本です。

 6月16日,月曜日。こども医療センターへの通院。予約は午後2時半。僕はこの日も長者町。午後4時過ぎには戻っていたのですが,母と妹はなかなか帰って来ず,18時過ぎにようやくの帰宅となりました。ここ最近よりは予約時間が遅くなっていましたから,帰りも遅れること自体は想定していましたが,これほどとは思っていませんでした。母によれば,診察の開始が遅れに遅れ,午後4時頃になってしまったとのこと。しかもその後で採血の指示をされたそうです。この採血は貧血の状況を確認するため。結果はすぐには出ませんから,朝に1錠の処方はこれまでと同じように継続されることに。話を聞くだけでも,何だか無駄に時間を掛けさせられたという感が残りました。
 6月17日,火曜日。妹がショートステイへ。南区内の施設で,1泊でした。先月は2泊の空きがなかったのでショートステイに行かなかったのに,この月は1泊なのに利用したというのは不自然ですが,これには理由があります。作業所で予約してくれたショートステイは2泊で,それが16日から。しかし16日は通院があるので,こちらから断ったものです。つまり本来なら2泊のものを,こちらの都合で短縮したものでした。前日は作業所を休ませましたので,事前に荷物を預けておくことができなかったため,当日の朝に迎えの支援を要請しました。翌日の帰宅時にも,送りの支援を利用しました。
 6月21日,土曜日。ガイドヘルパーを利用。この日はカラオケではなく,新杉田でのボーリングでした。
 7月4日,金曜日。作業所のレクリエーションで,午前中がボーリングでした。これも杉田ですので,母がボーリング場の方へ送りました。
 7月5日,土曜日。土曜出勤。ワールドカップの開催期間中で,フランスとドイツの試合の模様をビデオで観戦したそうです。妹はサッカーなどを観戦しても何も分からないでしょうから,それほど面白くはないと推測します。ただこのときは,利用者を二組に分け,一方がドイツを,他方がフランスを応援するという趣向にしたようです。妹はドイツを応援して,勝ったことも理解していました。
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父殺し&白髪

2014-09-21 19:02:43 | 歌・小説
 亀山郁夫が『ドストエフスキー 父殺しの文学』という題名の本を著したのは,父殺しという概念が,ドストエフスキー文学を読み解く上で,ひとつの重要な概念であると考えたからです。『カラマーゾフの兄弟』はまさに父殺しそのものを題材とした小説であり,亀山が考えていることが正しいということは間違いないでしょう。
                         
 作家個人のドストエフスキーにとって,父殺しというのが特別の概念であったことも疑い得ません。地主であったドストエフスキーの父は,1839年,18歳のドストエフスキーがペテルブルグの士官学校に在学中,農奴によって惨殺されました。フロイトはこの事件に注目し,「ドストエフスキーと父殺し」という論文を執筆。そこでドストエフスキーにとってのエディプスコンプレックスおよびその後のドストエフスキーの癲癇の発作について説明しています。フロイトの精神分析学の妥当性については疑問を呈することができるでしょうが,ドストエフスキーにとって,父殺しが小説の重要な題材になるということは,この経験の特異性を考えれば,必然的であったといえるのではないでしょうか。フロイトはドストエフスキーには父殺しの願望があり,それが農奴という別人の手によって現実化したという主旨の説明をしていますが,逆にいえばそれは,象徴的レベルにおいて,ドストエフスキーは自身の手で父を殺す前に,農奴たちによって殺されてしまったとも解釈できるからです。
 僕個人のことをいえば,小説に現れるこの要素にはあまり興味を抱けません。僕はある時期には,象徴的な意味においては父殺しを達成したと考えています。また,象徴と現実を混在化させるなら,最後に僕の口から告知をするという行為によって,それは完全に達成されたというようにも思えるからです。あれは僕の人生の中で最も気が重かった作業ではありましたが,すべての人間がこれをできるというわけではなく,貴重な体験であったという気もするのです。
 たぶん僕がこれをドストエフスキー文学の重要な要素と認識しないのは,こうした個人的な経験が反映されているからだといえます。

 5月27日,火曜日。午前中に薬局に行きました。前日も,ヒューマログが1本だけ足りませんでしたので,それを取りに行ったものです。こういう場合,僕の都合で間が開いてしまうケースもありますが,この日は午後から長者町という予定でした。
 5月30日,金曜日。妹の三者面談。勤務終了後に,施設に移動してのもの。年度が変わってのものですが,妹にはそれで何の変化も発生していませんでしたので,特別な内容はなかったようです。母と妹が帰宅したのは午後5時20分頃。僕はこの日は横浜で,それよりも1時間ほど早くに帰っていました。
 5月31日,土曜日。この日はガイドヘルパーを利用。またカラオケでした。
 6月5日,木曜日。妹の宿泊訓練がありました。施設に1泊。荷物が普段よりも多くなるので,迎えの支援を依頼しました。関東地方はこの日から梅雨入りで,雨になりましたので,頼んでおいて助かりました。帰宅は翌日ですが,この日も送りの支援を依頼しました。
 6月7日,土曜日。妹のピアノのレッスン。これは午後3時半からでした。
 6月8日,日曜日。母と妹で美容院へ。妹は僕より6歳若いのですが,若いうちからかなり白髪が目立っています。このため,美容院へ行った後は,自宅で髪を染めています。当然ながら自分ではできませんから,これは母の仕事。母の入院中も妹は何度か美容院に通ったわけですが,僕は妹の髪を染めるということはしませんでした。母は脳内出血で病院に行くというときにも自分が着ているものを気に掛けたくらいですが,僕は外見には気を使いませんので,こうした形になっています。もっとも,だから当時の妹が白髪の生活を送っていたのかといえばそうでもなく,来日中の伯母に染めてもらってはいました。T先生の夫人のエピソードなどからも,僕の感性が特異であるということでしょう。
 6月14日,土曜日。この日もピアノのレッスンがありました。2週連続になったのは先生の都合によるもの。この日は午後5時45分と,これまでで最も遅い時間の予定でした。ただ,先生は予定より早くお見えになりましたので,10分ほどでしたが早めの開始になっています。
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朝倉の反論&サマリー

2014-09-20 19:20:24 | 哲学
 「「エチカ」第一部のふたつの因果性がめざすもの」に対して朝倉友海が『概念と個別性』で示している反論の概要は,以下のようなものです。
                         
 朝倉は,佐藤が間接無限様態は個物であるというとき,その解釈は正鵠を得ているといっています。しかし一方で,それはある条件の下においてであるということも強調します。それは,res particularisの個別性は,無限様態modus infinitusによって示されるのではなく,有限様態によって示されるのだということです。つまり佐藤のように解釈してしまうと,有限様態の有限性には重点を置かないということにならざるを得ないのです。
 この不備を解消するために,ふたつの個物を分類するという手法を朝倉は採用します。つまりres singularisを有限様態として,そしてres particularisを様態一般,いい換えれば有限様態と同時に無限様態も含む概念notioとして理解するわけです。佐藤はふたつの個物を区分していません。つまり朝倉の反論は,実際には反論というよりも,佐藤の不徹底を正したものだといえます。要するに間接無限様態は個物であるといっても,それはres particularisなのであって,res singularisではないということです。
 ただ,佐藤は二種類の因果性を議論の中心に据えているのに対し,朝倉は事物の個別性を議論の中心に据えようとしているので,朝倉が佐藤に対する異議は小さいものではないといったとしても,それが佐藤の解釈そのものを否定し得るようには僕は思わないです。反論として有効であるのは,あくまでも朝倉の議論を中心に据えた場合に限定されるかもしれません。
 さらにいうと,僕は実際には佐藤が間接無限様態を個物であると主張しているようには考えられませんでした。むしろそれは,個物が間接無限様態であるという論旨を展開しているように理解できるものです。つまりそもそも佐藤は間接無限様態を個物であると実質的に主張しているといえるのかどうかについて,朝倉の反論には検討の余地が残されているように思えます。

 すべてが終了したので会計を残すのみですが,ひとつ気になる点がありました。計測器から抜き出した血糖値のデータの記録を,この日ももらっていなかったのです。
 僕は結果は自己管理ノートに記録しています。このデータは,それさえあれば,調べることが可能な内容です。ですから僕としては,絶対に入手しておかなければならないという類のものではありません。つまりほしいという気持ちはありませんでした。ただ,この日と同じようにまた後で連絡が入り,受け取らなければならないということになるのは面倒に感じました。なのでこのときは,それを入手していないということを,会計の担当者に伝えました。その方が内分泌科と連絡を取り,必要ならば内分泌科に取りに行くように指示してくれました。先述したように,必要であるかないかといったら,不要ではあったのですが,ここまで申し出ておいてやっぱりいらないというのも変ですから,取りに行きました。診察室へと続く通路から,技師だか看護師だかが出てきて,用紙を僕にくれました。
 この一連のやり取りから,いくらかのことが推測できました。たぶん前回は,記録を抜き出す担当者が,抜き出した記録をそのまま放置してしまったのです。後でそのことに気付いたために,僕の自宅に電話を入れて,受け取るように促したのです。この日はおそらくそれとは事情が異なり,抜き出した用紙はK先生に渡したのだと思われます。実際それまで僕は,この結果は,診察のときに検査詳細情報と一緒に,U先生から渡されていたのです。でもこの日は,検査詳細情報はK先生から受け取っていましたが,血糖値のデータ,これをサマリーということにしますが,サマリーの方はもらっていませんでした。つまりこの日はK先生が僕に渡すのを忘れたものと思われます。
 今から考えればつまらないことに時間を使ってしまったという感じが残りますが,とりあえずこれでやるべきことはすべて終了。いつものように薬局に寄りました。前回時のことがありましたから,おくすり手帳を持っていきましたが,この日は提示を求められるということはなく,もらったシールを自分で貼っています。
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王座戦&2014年5月の通院

2014-09-19 19:01:04 | 将棋
 強羅温泉で指された昨日の第62期王座戦五番勝負第二局。
 豊島将之七段の先手で角換り相腰掛銀。後手の羽生善治王座が,穴熊の含みを見せてから先に攻める将棋となりました。
                         
 先手が4筋の歩を伸ばした局面。手駒が豊富な後手が指しやすそうながら,まだ難しそうに思えます。△3七角と打ちました。二者択一ではありますが,▲4九飛は当然でしょうか。△5四飛で馬取り。▲4一馬と入る手はあったようですが,▲6五馬と逃げました。後手の狙いは△6四角成ですが,その前に△6七金。▲同金右△同歩成▲同金と薄くしてから△6四角成を実行。飛車の方を取るのもあり得ると思うのですが,▲同馬△同飛。これがまた金取りになるのが先に薄くした意図で,▲6八歩と受けました。ここから△6五桂▲7八金△5五桂は後手好調を感じさせる手順です。
                         
 受けていてもきりがない先手はここで▲1五香と走り,△同香▲2四歩で攻め合いました。が,△5八角▲2九飛から△6七桂成▲同歩△7七桂成▲同金と2枚取られ,△6八銀と追撃した局面は,はっきりと後手の勝ちになっています。
                         
 羽生王座の連勝。第三局は30日です。

 HbA1cは7.1%でした。4月よりもさらに良化していたことになります。ランタスの注射量を増加させたことの効果は覿面で,血糖値はそれまでよりも良好な値で統御できているケースが明らかに増していましたから,この良化も僕にとっては当然の結果でした。ただ,K先生が数値目標として掲げた6%台には,僅かながら届いていなかったのも事実ではありました。
 ただし,僕はこのまま同じ措置を継続していくだけで,HbA1cの値はまだ良化するという手応えを掴んでいました。というのもこのときも検査の間隔が約1ヶ月で,ランタスを増やす前の値も今回の結果に反映されている筈だったからです。さらにいえば,気候もこれからは暑くなっていき,それまでの経験から,血糖値を最も良好に管理できていた季節に向っていくことも,その予測の大きな根拠になっていました。なので僕の方からK先生に,まだよくなると思うという主旨のことを伝えました。K先生は了解してくれまして,今回はインスリンの増量を行わないということになりました。そして通院の間隔も,以前と同様に,2ヶ月先に組まれることになったのです。
 この日はLDLコレステロールが56㎎/㎗で,正常値の下限を下回っていました。この異常自体は昨年の12月の通院のとき以来のもの。ただしそのときは67で,このときほど低くなっていたわけではありません。これに近い数値としてはその前,昨年の10月の通院のときの57という数値がありました。もっとも,このことについて何か注意がK先生からあったというわけではありませんでした。
 診察の後で栄養指導。このときの指導は,あくまでも血糖値の推移を監視するためのもの。改善されていましたし,さらに良化すると思われましたので,前回と同様,この日も何か特別な指導があったというわけではありません。T管理栄養士の方から,これで終了してもよいのではないかという話があり,僕も承諾しました。先にK先生が次回の通院のときの栄養指導の予約も入れてあったのですが,T管理栄養士に取り消してもらいました。もし相談したいことが発生したら,また予約を入れてほしいとのことでした。
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印象的な将棋⑨-2&血糖値のデータ

2014-09-18 19:05:17 | ポカと妙手etc
 ⑨-1の第2図から,先手は▲7六歩と突き,後手は△6二玉と上がりました。これで先後同型です。
                         
 驚いたのはここから。後手が先手に追随していったので,同型が長く続いたのです。
 第1図以下の手順だけ示しておきましょう。▲3八王△7二玉▲9六歩△1四歩▲9五歩△1五歩▲7七角△3三角▲6八銀△4二銀▲5七銀△5三銀▲6六銀△4四銀▲8六歩△2四歩▲8五歩△2五歩▲8八飛△2二飛。
                         
 第2図から先手は▲8四歩△同歩▲同飛と交換。△8三歩に▲8六飛と引きました。後手も△2六歩▲同歩△同飛と交換。▲2七歩に△2二飛と引き,ようやく同型から別れを告げました。
                         
 この展開は後手から主導権を握ることはできません。ただ,第3図のように進んで悪くないということであれば,先手の中飛車に相中飛車で対抗するのは,有力な指し方であるといえるかもしれません。

 5月24日,土曜日。妹の土曜出勤。この日は施設でわらびもちを作って食べたようです。
 5月25日,日曜日。この日はガイドヘルパーを利用しました。新杉田でのボーリングでした。
 5月26日,月曜日。内分泌科通院です。
 事前に病院から電話連絡が入っていました。血糖値測定器具一式が新しくなってから,血液検査および尿検査の結果のほかに,血糖値計測器のメモリから抜き出した血糖値に関するデータの記録を受け取っていました。ところが前回は,それをもらっていませんでした。それを会計の受付に預けてあるので,受け取ってほしいという依頼の電話でした。ですのでこの日は病院に到着してすぐに,受付に向いました。ただその時点では僕の資料が見つからなかったようで,受け取れませんでした。まだ病院にはしばらく滞在しますから,この時点でもらう必要があるわけではなく,探しておいてもらうように手配して,中央検査室に向いました。
 この日も左腕で採血しましたが,血液の抽出に失敗しました。担当した技師は,僕からの採血を諦めてしまい,隣で仕事をしていた別の技師と交代しました。今度は右から。右腕からの採血自体は2度目です。交代した技師は何の問題もなく血液採取に成功しました。
 この後で院内の食堂へ。ところがこの日の食堂はとても混雑していて,順番待ちの行列ができていました。診察の予約は午後1時から。それまでの過程でいつもよりも手間取ったこともあり,この時点で12時半を回っていました。間に合わないおそれが生じましたので,食堂での昼食は断念し,売店で弁当を購入。受付付近のロビーで食べました。食べ終わってからまた受付に。このときにはすでにデータの記録は発見されていましたので,スムーズに受け取ることができました。
 そして内分泌科の受付に。受付の担当者は必ず診察室の番号を患者に教えます。それが前回は,2番か4番のどちらかという,断定されていないものでした。この日は2番の指示。受付の横に備え付けられてある電光掲示板に表示されている医師の名は,2番はK先生ではなかったのですが,呼ばれたのは2番で,担当もK先生でした。
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全日本復帰&着色

2014-09-17 19:11:57 | NOAH
 新日本のブロディは,最後は喧嘩別れのような形になりました。こうなっては新日本プロレスはもう超獣を呼ぶことはできません。また仮に呼ばれることがあったとしても,ブロディのエゴイズムはリング上のものだけでなかったですから,自身のプライドとして新日本に復帰することはできなかったでしょう。全日本を裏切って新日本に移籍したわけですから,この時点でブロディが上がれるリングは日本には存在しなくなりました。
                         
 ブロディがアメリカで主戦場としていたのはテキサス。プロモーターはかつて鉄の爪といわれて馬場ともライバルだったフリッツ・フォン・エリック。エリックとブロディは同じユダヤ系ということで,良好な関係だったようです。ブロディはベビーフェースでしたが,同じテキサスでヒールとして活躍していたのがカブキ。ブロディはこの後,1987年10月に全日本に復帰しますが,それに一役買ったことをカブキは明かしています。
 ブロディは,日本に行きたい,全日本に戻りたいので,何とかできないかとカブキに相談。カブキはフリッツにその旨を伝え,フリッツから馬場に電話を入れてもらったそうです。馬場としても,カブキからの依頼であれば簡単に断れたかもしれませんが,フリッツはかつては認め合ったライバルで,その時点で強力なプロモーターでもあったので,無碍には断れなかったのでしょう。このときカブキがフリッツに依頼したことが,ブロディの全日本復帰を可能にした大きな要因であったように僕は思います。
 カブキによれば,全日本復帰が実現してからのブロディの話し方や対応に明らかに変化があったそうです。カブキもいっていますが,全日本復帰はブロディにとって,よほど嬉しい出来事であったのでしょう。
 ブロディが信頼していた数少ないプロモーターとして,カブキはフリッツと,フリッツと仲がよかったボブ・ガイゲル,それから馬場の名前をあげています。プロモーターとしての馬場の,とくにブロディの扱いの優秀性が,新日本で失敗したブロディ本人にもよく分かったということなのでしょう。

 歯科検診の予約を入れておいたのは4月25日,金曜日。10時半でした。この日もクリーニングだけ。着色もあるのでそれも落としますが,だんだんと薄くなってきているようだと言われました。
 4月26日,土曜日。妹の土曜出勤。しかしこの日は休ませました。体調などの理由によるものではありません。この日はある学園の文化祭の見学というのが予定されていました。これは妹には負担が大きいと判断したためです。
 円形脱毛症が小さくなってきていると気付いたのがこの頃。ただし,この時点では小さくなってきたというだけで,現在のように跡形もなくなったというわけではありません。
 4月29日,火曜日。祝日にガイドヘルパーの利用。この日もカラオケに連れて行ってもらいました。
 5月1日,木曜日。作業所からショートステイに関する連絡があり,この月は利用しないということになりました。2泊で利用できるだけの空きがなかったからです。
 5月11日,日曜日。母と妹が美容院に。この日も午後1時の予約。帰ったのは午後4時を回ってからでした。
 5月17日,土曜日。ピアノのレッスン。午後4時半から。
 5月19日,月曜日。妹が作業所を休みました。朝になって気分の悪さを訴えたためです。ただ,食事はいつもと変わらずに摂れていましたので,この時点で多くを心配する必要はないと思われました。実際に翌日からはまた通っています。ただ,この日は母の歯科検診の予約が入っていました。これが午後11時から。僕も長者町に行くことになっていましたが,出掛けてしまうと妹をひとりで家に残すことになります。それで予定を調整しまして,午前中は家にいることにしました。母の予約を変更することも可能でしたが,僕の予定はどうとでもなるものだったからです。母は,奥の歯に関して,よく磨けているとおほめの言葉をもらったようです。また3ヶ月後にきちんと予約を入れて帰ってきました。
 5月21日,水曜日。この日は妹が指定歯科へ。15時から。いつものクリーニングだけでなく,知覚過敏を抑制する薬品を塗布したとのことでした。
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オールスター競輪&資質

2014-09-16 19:28:09 | 競輪
 11日から昨日まで,前橋競輪場で行われた第57回オールスター競輪の決勝。並びは武田-神山の茨城栃木,天田-平原の関東,浅井-金子の中部,井上-岩津の西国で新田が単騎。
 天田も取りにいきましたが,Sを取ったのは浅井でそのまま前受け。3番手に武田,5番手に井上,新田を挟んで8番手から天田で周回。残り3周のホームの出口付近から天田が上昇。新田が平原の後ろに入り,バックの出口で浅井に並び掛けると,ホームで浅井は引き,うまく3番手に入ることに。しかし後ろまで引いた井上がバックからかましていき,前に出ると打鐘からそのまま先行。岩津の後ろは武田が入り,神山の後ろに浅井となりました。バックから武田が発進。これに岩津が番手から応戦,コーナーでは併走となりましたが,直線では武田が前に出て優勝。マークの神山が半車身差で2着。岩津が半車輪差の3着。
                         
 優勝した茨城の武田豊樹選手は2月の静岡記念以来のグレード制覇。ビッグは一昨年の競輪祭以来で12勝目,GⅠは5勝目。オールスターは2009年以来5年ぶりの2勝目。自力タイプに先行を得意とする選手が少なく,あるいは先行策かと思いました。3番手を取ったのはおそらく先行も視野に入れてのものだったと推測します。井上のかましをどの程度まで考慮に入れていたかは分かりませんが,3番手を取った時点で有利になりました。岩津の番手捲りがコーナーに差し掛かるところで併走になり,そこはかなり苦しかったのではないかと思うのですが,力づくでねじ伏せる形。内容的にも強さが光った一戦だったと思います。

 この日から担当になった管理栄養士はTという方です。20代で,これまでの担当の中では最も若いのは間違いないと思いますが,人を安心させるような応対をされる方でした。これは患者と向き合う職業にとっては資質のひとつといえるでしょう。同じように対応しても,だれもが同じような印象を受けるというわけではないのは,第三部定理五一が示していることです。ですからTさんからこういう印象を受けたのは,僕に特有であったかもしれません。僕が担当者にこういう資質を感じたのはこれがふたりめです。前のもうひとりは唾石診察をしてくれたm先生でした。
 次回はHbA1cの推移を見るためだけの栄養指導です。ですから栄養指導という名称のもとに何かをするというわけではありません。ということで食事の記録を記入する必要はないということで,プリントは受け取りませんでした。
 帰りにいつものように薬局に寄りましたが,この日はインスリンの在庫がまったくありませんでした。とはいえインスリンはある程度は余分に処方されていますから,家には在庫があり,これは問題ありません。ただ,注射針は在庫が少ないのですぐに受け取っておきたいところ。幸いに針はいくらかありましたので,その在庫の分だけもらって帰りました。帰りがけに,残りのインスリンと針を取りに来るときに,おくすり手帳を持ってくるように言われました。帰宅したのは午後3時45分頃です。
 翌日,4月22日の火曜日。午前中に取りに行きました。そのときにはもう届いていると前日に言われてあったからです。おくすり手帳がなぜ必要なのか,分かっていなかったのですが,薬剤師が処方した薬の名称が印刷されたシールを貼っただけでした。今まではシールだけもらって僕が自分で貼っていましたから,結果的には同じことです。こんなことを言われたのは初めてでしたから,このときはすごく不思議に思いました。薬局は根岸駅の近くです。ついでだったのでI歯科にも寄り,次回の歯科検診の予約を入れて帰りました。また,この日から,妹はショートステイへ行っています。磯子区内の施設で,2泊3日でした。
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