スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

表彰選手&講読会

2016-01-31 19:27:41 | 競輪
 昨年の競輪の表彰選手は27日に発表されています。
 MVPは福島の新田祐大選手。勝率と連対率でトップ。賞金と得点は2位。これほどの成績をあげることは困難で,文句なしの受賞でしょう。3月の日本選手権,9月のオールスターとGⅠ2勝,10月に向日町記念を勝っています。過去に国際賞の受賞歴はありますが,その他の部門ではこれが初受賞。
 優秀選手賞は3人。まず埼玉の平原康多選手。得点で新田を上回りました。1月の大宮記念と7月の小松島記念に優勝。2009年に優秀選手賞を受賞して以来の2度目の受賞。
                                     
 ふたり目は茨城の武田豊樹選手。6月の高松宮記念杯と11月の競輪祭でGⅠを2勝しました。3月の玉野記念,4月の西武園記念,10月の熊本記念,11月の函館記念と記念競輪も4勝。2004年が優秀新人賞,2005年と2009年が優秀選手賞,2010年2011年は特別敢闘賞,2012年2014年はMVPでした。
                                     
 3人目は三重の浅井康太選手グランプリを優勝したので賞金では新田を上回りました。2月の四日市記念,6月の武雄記念,7月の前橋記念,8月の四日市記念と,こちらも記念競輪4勝。2011年の優秀選手賞,2014年の特別敢闘賞に続く受賞。ここまでごく順当で,選出に難しいところはなかったものと思います。
 優秀新人選手賞は岐阜の川口聖二選手。この部門は機械的に選出される面が強いです。初受賞。
 特別敢闘選手賞には京都の稲垣裕之選手が選出されました。グレードレースの優勝はなかったのですが,GⅠで3度決勝に進出し,入着が2回,グランプリにも出走したのが評価の対象となったものでしょう。初受賞。

 シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesが書簡八で言及している講読会というのは,コレギウムの訳語です。原語からコレギアント派collegiantenを類推するのは容易いでしょう。語源的には同一です。コレギアント派が聖書についてなしていたことを,フリースはスピノザが書いたものに対してなしていました。
 書簡八では講読会のシステムが説明されています。まずひとりがある部分を朗読します。これを出席者が順に繰り返します。その後で,朗読した部分を自分の考えで説明し,さらにスピノザの定理Propositioの配列に従って証明していきます。フリースははっきりと定理と書いていますから,読んでいたのは『エチカ』の草稿だったと考えて間違いないでしょう。つまり1663年にはスピノザはもう『エチカ』を書き始めていて,現在とは違った形だったかもしれませんが,ある程度まで購読できるくらいの纏まったものになっていたことになります。
 出席者全員が同じことをしますので,ときに見解opinioに食い違うことが出てくるのは自然です。そこで相互に話し合っても納得できない点が生じたら,それを書簡でスピノザに質問します。つまり書簡八はこういう類の質問だったことになります。おそらく未掲載の書簡十二に対するマイエルLodewijk Meyerからの質問の書簡も,同様であったろうと僕は推定するのです。
 講読会にどんなメンバーが参加していたか,僕には確実なことはいえません。間違いないのはフリースがそのメンバーのひとりだったことです。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,この講読会の初期のメンバーとしては,フリースのほかにイエレスJarig Jelles,リューウェルツJan Rieuwertsz,ヤン・ヘンドリック・フラゼマケルJan Hendrikzen Glazemaker,ピーター・バリンクPieter Ballingといった人たちをあげています。フラゼマケルとバリンクについてはまだ詳しく書いていませんが,どちらもスピノザの親友といえる人物です。バリンクはスピノザより前に死んだので遺稿集Opera Posthumaの編集者にはなっていませんが,フラゼマケルは編集者のひとりです。
 ナドラーSteven Nadlerによれば,アドリアン・クールバッハAdriaan Koerbaghとマイエルも講読会のメンバーでしたが,このふたりは後に加わったとされています。前述の人たちよりこのふたりはスピノザと遅くに出会っているのがその根拠です。
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白覆面の魔王&書簡八

2016-01-30 19:19:10 | NOAH
 『全日本プロレス超人伝説』の第三章はザ・デストロイヤーです。
                                   
 デストロイヤーが日本での地位を確立したのはWWA王者として力道山の挑戦を受けた1663年5月の東京体育館大会。これは僕のプロレスキャリアが始まる前どころか産まれる前。馬場がアメリカで三大タイトル挑戦をしたとき,ロサンゼルスでWWA王者にも挑戦していますが,このときの王者はフレッド・ブラッシー。デストロイヤーのレスラーとしての全盛期はこの頃だったのかもしれません。1931年産まれですから,力道山と戦った時点で32歳だったことになります。
 1972年10月,全日本プロレスの旗揚げに参戦。このシリーズで馬場に負ければ日本陣営につくという条件で戦い,敗れて馬場と組むことになりました。ジャンボ・鶴田のデビュー前で日本陣営が手薄だったための措置でしょう。翌年からデストロイヤーは日本でバラエティー番組に出演するようになりましたが,これは事前に決定していたものではなく,副産物だったと僕は考えています。
 1974年に覆面世界一決定十番勝負の初戦で仮面貴族と対戦。マスカラスの「ひとり急所打ち」でデストロイヤーが勝っています。この時点ではデストロイヤーの方が格上と馬場がみなしていたからでしょう。この試合はVTRで観たことがありますが,スムーズに展開されていて,ナルシストのマスカラスもそれを受け入れたとみていいでしょう。ただしデストロイヤーの実績を受け入れたのか,プロモーターである馬場の判断を受け入れたのかは僕には推測しかねます。
 1979年に帰国。これ以降も散発的に全日本プロレスに参戦しましたが,トップクラスでは戦っていません。
 僕はライブで観たレスラーとしてのデストロイヤーには何の印象もありません。ただこれだけのレスラーの試合を実際に生で観ることができ,1993年7月29日の日本武道館での引退試合もその場で目撃できたのは,財産のひとつだったと思っています。

 マイエルだけが書簡十二を読むのではないことをスピノザが事前に想定していたことの根拠はいくつか示せます。
 シモン・ド・フリースからスピノザに宛てられた書簡八はそのひとつです。この書簡は原書簡が残っているそうで,遺稿集に掲載されたものと比べると,編集があったことが分かるようです。畠中によれば個人的箇所の割愛と部分的な訂正とのことなので,どちらを重視しても差し支えはなさそうです。
 フリースはスピノザよりも早逝したため,遺稿集の編集者にはなれませんでした。ですが生きていれば確実にその任にあたったでしょう。その場合にはこの書簡も遺稿集には掲載されなかった可能性があると思います。書簡十二には質問した書簡がある筈ですが,それは掲載の価値がないと判断されました。イエレスも数多くの質問を書簡として送った筈ですが,それらも削除されています。これは編集者としてマイエルとイエレスに共通の認識があったからだと僕は推定しています。だとすればフリースが生きていて編集者のひとりになっていたとするなら,その認識を共有した可能性が高いと僕は考えます。
 また同じ編集者のシュラーがスピノザに出した書簡も,不完全な形で掲載された1通以外は掲載されていません。ほかに原書簡がひとつだけ残っていて,それが1862年に発表されたので,今の『スピノザ往復書簡集』には掲載されています。こちらの書簡で事実上のやり取りをスピノザとしているのはチルンハウスであり,それなら掲載の余地があったと思うのですが,不掲載でした。つまりシュラーも同じ価値観を共有していたと思われます。
 書簡八はスピノザがライデン大学の学生に『デカルトの哲学原理』の基となる哲学講義を口述筆記させていた時期に送られたものです。フリースはアムステルダムにいたので,レインスブルフのスピノザとは頻繁には会えなくなっていました。そこでアムステルダムで講読会を開始したといっています。これはスピノザが書いたものを読む会です。つまりこの時点でスピノザは,すでに何かを書いていたということが分かります。
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蓮実重彦の江藤評&書簡十二

2016-01-29 19:09:14 | 歌・小説
 江藤淳は宮井一郎を批判しているけれども,文学評論の方法という観点からは,江藤の論述も『漱石の世界』の論述も同じように思えるという主旨のことを『決定版夏目漱石』の書評で僕はいいました。蓮実重彦の『夏目漱石論』の序章では,江藤の漱石論について多く言及されているのですが,そこで蓮実がいっていることが,僕が江藤の評論に感じるところをうまくいい当てているように思います。
                                    
 蓮実は宮井ではなく小宮豊隆と江藤を比較しています。これは江藤の漱石論が,小宮の漱石論への批判から始まっているためでしょう。江藤からすると小宮は漱石に関する神話を作ったのであり,江藤の営みはその神話の破壊でした。確かに江藤はその神話の破壊に成功したといえます。小宮の評論と江藤の評論を比べれば,江藤の方が面白いし読み応えもあると僕は思います。ですが,蓮実のことばを借りていえば,江藤の神話破壊はきわめて念入りだったがために,破壊の対象とした文学評論と同じ領土に足を踏み入れることになり,そこから抜け出せなくなってしまった,あるいはそこに自分を閉じ込めてしまったのです。僕が江藤の後期の評論にあまり魅力を感じられないのは,江藤が過去の自説に執着していると思えるからなのですが,蓮実によればこの執着は必然的に生じたということになります。
 蓮実はこうした江藤の姿勢は教訓めいているといっています。江藤の評論は独善的で客観性を欠き,荒唐無稽で信じられないから批判されるようなものではありません。むしろそこにはそれらしい物語が丹念に織り込まれているから問題を抱えてしまうのです。そのために江藤は小宮とは別の神話の中に安住してしまい,ついには神話を再生産していくことになるのです。
 漱石の実像がどうであったかは無視してしまうこと。テクストから漱石をむしろ排除してしまうこと。そういう読み方が,神話の生産を回避する手立てになるのは間違いないと僕は考えています。

 マイエルへの書簡で遺稿集に掲載されたのは書簡十二です。スピノザがレインスブルフからフォールブルフへ移住する直前のもので,「無限なるものの本性について」という副題がついています。ラテン語版にはないのですがオランダ語版にはあります。なので遺稿集の段階で副題がついていたと僕は解します。
 副題がついているのには理由があります。この書簡はスピノザの哲学を理解するための重大な内容を含んでいます。このためスピノザが存命中から友人の間で閲覧されていました。ここでいう友人というのは遺稿集の編集者になったような親友に限定されません。チルンハウスはずっと後の書簡八十の中でこの書簡について言及しています。つまりチルンハウスはこれを読んでいたということです。『宮廷人と異端者』ではライプニッツも読んだことになっています。チルンハウスがこの書簡について質問したのは1676年5月。僕はチルンハウスはただ書簡を読んだだけでなく,書写したものを持っていたと考えます。同じ書簡八十でチルンハウスは別の文脈ですがライプニッツに聞いた話について言及しているので,僕はライプニッツはチルンハウスにこれを見せてもらった可能性があるように思います。ただしスチュアートは,ライプニッツはチルンハウスが質問する少し前の4月に,シュラーを介して入手したと断定しています。シュラーも写しを保有していたでしょうし,ライプニッツとシュラーは通じていましたから,そういう可能性もあるのは間違いありません。
 後に示す理由から,マイエルだけでなくほかの人もこれを読むということは,間違いなくスピノザも想定していました。書簡の宛先がマイエルになっているのは,哲学的内容に関する書簡の質問を送ったのがマイエルだったからにすぎないと思います。マイエルはアムステルダムで共同でスピノザの哲学の研究をしていて,その学究仲間を代表して質問しました。対してスピノザも代表としてマイエルに返答したというのが史実であるといっていいでしょう。
 ですからこの書簡が遺稿集に掲載されたのは当然です。むしろ排除されていたら不自然と感じた人が確実に存在したでしょう。
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認識と精神&不掲載の理由

2016-01-28 19:28:27 | 哲学
 スピノザの認識論における主体の排除については,人間の精神が何らかの思惟作用の主体ではあり得ないという観点から何度か説明しました。人間は愛する主体でさえあり得ないという意味において,いかなる意味においても思惟の主体ではないのです。このことを何度もいうのは,普通は僕たちはそうは思わず,まず精神があって,その精神が何事かを思惟するというように把握するからです。一般的な認識論は,人間の認識に関係しますので,人間が思惟の主体でないということは,スピノザの哲学を考察するためには絶対に理解しておかなければなりません。
 人間の精神がXを認識するとは,その人間の精神という様態的変状様態化した神がXを認識するという意味です。この意味からも人間はXの認識の主体ではあり得ないのですが,では神はそういう主体であるのかといえば,実は神ですら主体ではありません。つまり認識論における主体の排除というのは,スピノザの哲学の場合,とくに人間を対象にした認識論に限定されたような考え方なのではありません。もっと一般に,何らかの知性ないしは精神が事物を認識するという場合に,その知性ないしは精神は,どんな意味においても主体ではあり得ないというような,絶対的な意味が含まれているのです。
                                    
 上野修が『スピノザの世界』の中で,何か精神のようなものがいて,それが何かを考えているというイメージから脱却しなければならず,精神などは存在せずとも考えがあり観念があるという態度で臨まなければならないというとき,それは人間の精神による事物の認識に妥当するというだけではありません。一般に認識と精神の関係というのはこのようなものであり,だから神が何かを認識するという場合にすら,神はその認識の主体ではないという姿勢で臨まなければならないのです。

 『デカルトの哲学原理』はスピノザの著作なので,マイエルが書いたとはいえ序文の内容に関して,発売前にスピノザの許可を求めたのは,前にもいったように自然な行為です。ただ,スピノザが書いた部分に関しては,書簡十五のやり取りがあった時点である1663年8月には,印刷の枠組みは完成していたようです。というのは書簡の最後に,スピノザが書いた本文のうち第二部定理二十七備考の一部分を一緒に送るので,それをリューウェルツに渡して印刷してほしいとあり,このために14行か15行分が増加することになるが,この程度なら何とかなる筈だという主旨のことがいわれています。畠中の訳注によればこの求めも実現したのですが,発刊されたものでは小型の字で11行が加えられているようです。これは印刷の都合上,同じ大きさの字にはできなかったためでしょう。なので本文に関しては,すぐにでも印刷できるような状態になっていたと僕は推測するのです。
 マイエルは発行を勧めた当人ですから,できるだけ早く出したかったことでしょう。ですが自分の書いたものの了承をスピノザに求めたのです。マイエルがこのときにこういう手法を,当然の手続きとはいえ採用したということは,もしかしたらマイエルは後に自著を発行する前にも,スピノザに対して何らかの講評を求めたとする可能性を,若干ではあっても高くさせるといえるかもしれません。
 書簡十五が遺稿集に掲載されなかったことは,意味合いは異なりますが,書簡四十八の二の2通が掲載されなかったことを念頭に置くなら,不自然ではなかったように思えます。イエレスが自分で書いたものについてスピノザとやり取りしたことについては,掲載する価値がないと判断したように,いかにスピノザの著書の序文とはいえ,マイエルが書いたものに関するやり取りには掲載の価値がないとマイエルが判断しても,同じ編集者であったふたりに掲載価値について共通の認識があったとすれば,このような結果になるからです。
 一方,これはあの男に対する配慮であった可能性も皆無とはいえないでしょう。フッデの場合のように,配慮すべき人物であったかもしれないからです。
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農林水産大臣賞典川崎記念&序文に関する書簡

2016-01-27 19:16:59 | 地方競馬
 ここ数年から比較すると高いレベルのメンバー構成になった第65回川崎記念
 好発はホッコータルマエでしたが押さえました。逃げたのはサミットストーン。1周目の正面では3馬身くらいのリード。単独の2番手に発走後に押して追い上げたマイネルバイカ。1馬身差でパッションダンス。ここから4馬身くらい開いてホッコータルマエが4番手。さらに3馬身ほどあってアムールブリエ。サウンドトゥルーとグルームアイランドが差がなく追走。サミットストーンがあまりペースを緩めなかったので,この距離のレースとしては超ハイペースでした。
 3コーナーを回ってマイネルバイカが鞭を入れてサミットストーンを追っていくと,その後ろからホッコータルマエもぐんぐんと接近。向正面で追い上げていたサウンドトゥルーもこれに続きました。直線に入るとほどなくホッコータルマエが先頭に。ここから追ってきたサウンドトゥルーとマッチレース。最後の最後までしのぎ切ったホッコータルマエが優勝。サウンドトゥルーがアタマ差で2着。直線で大外から脚を伸ばしたアムールブリエが4馬身差で3着。先行したマイネルバイカがアタマ差で4着。
                           
 優勝したホッコータルマエ帝王賞以来の勝利で大レース10勝目。第63回,64回に続いて川崎記念3連覇。昨秋から強い先行馬を追い掛けて最後に差されるというレースが続いていました。以前はそうしたレースでも勝っていましたので,絶対的な能力は以前より低下しているものと思われます。ここは強力な先行馬が不在となり,持ち前のしぶとさが生きた形。こういう形ならばまだ結果を残せるということが判明しましたが,以前のように絶対視できるような存在ではなくなっているものと思います。父はキングカメハメハ
 騎乗した幸英明騎手と管理している西浦勝一調教師は帝王賞以来の大レース制覇。川崎記念3連覇で3勝目。

 マイエルに対する返答になっている書簡十五が存在するということは,マイエルが事前に書いた序文を送った書簡もあった筈だと僕は考えます。もちろんそちらはマイエルが手渡したと解することも可能ですが,マイエルは『デカルトの哲学原理』が完成した後に訂正前の序文を書いたと判断するのが妥当であり,それならこのときはフォールブルフに住んでいたスピノザに,それを書簡で送ったとするのが可能性として著しく高いと思います。
 スピノザは返答の方は,フォールブルフを訪れていたシモン・ド・フリースに手渡し,フリースからマイエルの手に移るように手配しようとしていました。ですがフリースがいつになったらアムステルダムに帰るか分からないので,別経由の書簡で送ることにしたという意味のことが最後に書いてあります。フリースはスピノザを訪問するためだけにフォールブルフに来ていたのです。だからマイエルがフォールブルフを訪れたことがなかったとも僕はいいません。ただし,フリースよりマイエルの方が忙しい人物であったのは間違いないと思いますから,フリースほどの時間の余裕がマイエルにはなかったというのは間違いないと僕は考えています。
 校閲前の序文には,マイエルが批判した人物の名が,実名で出ていた筈です。ですからもしこちらが残っていればそれがだれであるか分かった筈で,歴史的な観点からいえばやや残念ではあります。一方,スピノザが返信の方では名前を出さず,ただ「あの男」とだれであるか分からないようにしたのは,もしかしたら何らかの配慮であったかもしれません。スピノザは書簡についてはゆくゆくは公開するつもりでいましたから,そのときになって差し障りが出ないように名前を伏せたという可能性もあるのではないかと僕は思っています。
 マイエルはスピノザの意を汲んで序文を書き改めました。現在の序文はスピノザの注文をすべて満たしたものなので,書き直しは一度だけであったと考えていいと思います。ですが書き直したものをマイエルはまたスピノザに見せておいたでしょう。そしてスピノザは了承しました。そういうやり取りの書簡も間違いなくあったと思います。
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いわき金杯争奪戦&書簡十五

2016-01-26 19:07:05 | 競輪
 いわき平記念の決勝。並びは吉田‐諸橋の関東,近藤‐山賀の千葉,松岡‐稲垣の近畿,吉本‐坂本‐大塚の九州。
 内の3人が出ていき,最内の近藤が誘導の後ろに入って前受け。3番手に松岡,5番手に吉本,8番手に吉田で周回。残り3周のバックの出口から吉田が上昇していくと,吉本が呼応。ホームでまず吉本が近藤を叩き,その上をホームで吉田が叩きました。このラインに乗ってきた松岡がそれを見て発進。打鐘から内の吉田と外の松岡で先行争いに。松岡は吉田を叩けず,ホームで稲垣が諸橋の後ろにスイッチ。後方になった近藤がバックから捲っていくと3番手に収まっていた稲垣が自力で併せていき,直線にかけてふたりのつばぜり合い。これを制した稲垣がゴールまで粘って優勝。大外を捲り追い込んだ吉本が4分の3車身差の2着に届き,近藤マークから稲垣を追った山賀が4分の3車輪差で3着。
 優勝した京都の稲垣裕之選手は一昨年12月の松戸記念以来の記念競輪5勝目。いわき平記念は初優勝。この開催は有力選手の敗退が相次ぎ,メンバー構成上は負けられないくらいの相手関係になりました。松岡を利することはできなかったのですが,残り1周のホームでシビアに3番手に入り,その松岡を迎え入れなかったのが結果的に優勝に結びついたのではないかと思います。勝たなければならない相手関係であったことを考慮すれば,こういう走行になったのも致し方ないところでしょう。近藤のスピードはなかなかのもので,それに併せて競り勝ったのは見事だったと思います。

 現在の『スピノザ往復書簡集』の書簡十五が,スピノザからマイエルに送られたもののうち,遺稿集には掲載されなかったものです。スピノザが書いた原書簡が残っていたようで,1825年にロンドンでオークションに出品されました。その後,あるフランス人の手に渡り,この人が1847年に公開しました。なので1883年に書簡の番号が現行のように改められたとき,十五という番号をふられて掲載に至ったのです。
                                   
 この書簡は,マイエルが事前に『デカルトの哲学原理』の序文をスピノザに対して送ったものへの返答です。スピノザはこの中で,その序文に対してみっつの注文をしています。ひとつは,この本の第一部が二週間のうちに書かれたということを示しておいてほしいというものです。ふたつめは,デカルトが実際に証明したのとは異なった方法で定理を証明している部分があることについて,その理由を書いておいてほしいということです。つまりここまでのふたつは,事前の序文でマイエルが書いていなかったことを加えてほしいという主旨の注文だったことになります。
 もうひとつは,最初に書かれたマイエルの序文には,だれかは分からないのですが,特定の人物に対する批判が含まれていたようです。スピノザの注文はそれを削除してほしいというものでした。つまりこちらは書いたものを削ってほしいという注文であったことになります。スピノザはこの書簡の中で,それを削除する理由を書いているのですが,実際に発刊された『デカルトの哲学原理』の序文の中には,スピノザがその理由として書いたことが含まれています。
 『デカルトの哲学原理』の序文というのは,マイエルが書いたもので日本語で読むことができるものとしては,おそらく最も長いものだと思います。実際にここでスピノザが注文したみっつの事柄は,そのすべてが達成されています。いい換えればマイエルはスピノザの注文をすべて受け入れたということです。
 これはスピノザの著書の序文なので,当然といえば当然かもしれません。また,マイエルがただ書いてスピノザの了承を受けずに出版しなかったのも,当然といえば当然といえるのでしょう。
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王将戦&イエレスとマイエル

2016-01-25 19:47:24 | 将棋
 さぎの湯温泉で昨日から指された第65期王将戦七番勝負第二局。
 羽生善治名人の先手で角換り相腰掛銀。先手が1八に香車を上がってから4筋を突いていき,郷田真隆王将が空間に角を打って中盤の戦いに。
                                    
 後手が8筋を突き捨て,薄くなった6筋からの攻めを見せたところ。先手は▲4六角△同歩と交換してから▲6五歩と手を戻しました。
 △4七歩成▲同飛△3八角の両取り。後手の狙いのひとつでしたが,ここでこう進めたのはまずかったようです。
 ▲6六角と王手して△3三銀と受けさせてから▲4八飛と角に当てつつ飛車を逃げました。ここは△2九角成の一手。これで先手の桂損ですが▲3五歩が厳しい攻め。以下△3一王▲3四歩△2二銀となったところでは,駒得でも後手が相当に勝ちにくかったようです。
                                    
 先手は第1図に至る前,後手が△2二王と入城するのを待って仕掛けていきました。この将棋の展開はそこまで待ったのが最も生きる形になったと思えます。
 羽生名人が勝って1勝1敗。第三局は来月4日と5日です。

 聖書と理性の関係の考え方の差異が理由となって,スピノザとマイエルは仲違いしたという説を紹介しました。マイエルは遺稿集の編集者になっているのですから,僕はそういうことはなかったとするのが妥当だと考えています。ただ,この点について見解に差異があるということを,スピノザも自覚していたしマイエルも自覚していたと僕は考えます。ですからそれが仲違いの根拠になったという説明そのものは,一定の合理性があることを認めます。
 もしもマイエルが『聖書解釈としての哲学』を出版する前に,イエレスがそうしたようにスピノザの講評を求めるということがあったとしたら,それは書簡によってなされたと解するのが適当でしょう。もちろん求められたスピノザも書簡で返答した筈です。しかしそういう書簡が存在したということは歴史的には証明されていません。ただ,仮にそれがあったとしても,遺稿集への掲載が見送られたということについては,不自然ではないと思います。というのはイエレスが求めた講評に対するスピノザの返答である書簡四十八の二の2通も掲載を見送られたものだからです。マイエルもイエレスも同じように遺稿集の編集者だったのですから.掲載の価値に関する判断が共通していたと考えるのはさほど無理があることではありません。ですからそうした書簡が掲載されていないこと,また事後に発見されることがなかったというだけのことで,こうした書簡が存在しなかったと断定できるわけではないと僕は考えています。
 イエレスとスピノザの間の書簡と,マイエルとスピノザとの間の書簡で,遺稿集への掲載にあたって共通している点は,イエレスからスピノザへの書簡が掲載されていないのと同じように,必ず存在したといえるマイエルからスピノザへの書簡も掲載されていないということです。僕はこの点に同じ編集者のマイエルとイエレスの間で,共通の認識があったと思うのです。
 現行の『スピノザ往復書簡集』には,スピノザからマイエルへの手紙がふたつ収録されています。ただし,このうちのひとつは遺稿集には未掲載で,後に発見されたものでした。遺稿集では1通だけだったことになります。
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岡田美術館杯女流名人戦&見解の相違

2016-01-24 19:43:06 | 将棋
 出雲文化伝承館で指された第42期女流名人戦五番勝負第二局。
 清水市代女流六段の先手で里見香奈女流名人のノーマル向飛車。後手が2筋から仕掛けて中盤の戦いが始まり,進んだところで後手が2筋を謝ることになったのですから,先手がよくなったのは間違いないと思います。後手としては仕掛ける段階の構想か,その後の手順に穴があったということでしょう。
                                     
 後手が4九に飛車を打ち,先手が5九に金を投入したので成り返った局面。先手は駒が後手玉より遠いところに集中しています。効率はあまりよくない筈で,駒得している分まるまるほどの有利さはないのではないかと思います。
 ここから▲5一成桂△6三飛。どちらも駒を使いにいった手ですが,後手の方が得をしている感じなので,この2手でまた差が詰まったのではないでしょうか。実際に▲6八金直と受けていて,手順としては変調にも思えます。後手はさらに△5六龍と使うことができました。
 このまま△6七歩成~△6六銀が実現すれば逆転しそうなので▲6六歩とまた受けに回るのは仕方ないところでしょうか。後手は△5五銀と上から圧力をかけました。
 ▲8八玉は格言通りの早逃げで,まだ先手が残している局面に思えます。後手は△6六銀と出るほかなく,先手は▲6四歩△同飛▲5三角と反撃しました。ここも後手は△7七銀打の一手に思えます。
                                     
 瞬間的に後手の攻めは重くなっているので▲9八玉と逃げた方がよかったように思います。ですが▲同金△同銀不成▲同玉△同龍▲8八玉と進めたので△7七金と打たれて先手玉に詰めろが続くことになり,局面は後手の勝ちになっていました。第2図で銀を取ってよいのは後手玉が詰む場合のみだったようです。
 里見名人が勝って1勝1敗。第三局は31日です。

 実際にマイエルがスピノザに講評を求めたかは分かりません。ただ僕には確実だと思えることがいくつかあります。
 まずひとつは,マイエルは自分の信念に基づいて『聖書解釈としての哲学』を書き,それを出版したということです。もしも事前にスピノザに講評を求めていたとしたら,スピノザは何らかの否定的な見解を示したかもしれません。実際にそうしたことがあったと仮定するなら,マイエルはそれを無視して自分の考えの下に出版を決断したことになります。また,そうでなかったとしても,このこと自体は否定できません。少なくともマイエルが『神学・政治論』を読まなかったという想定はあり得ません。ですからそれが事後のことであったとしても,マイエルほどの能力があれば,そこでスピノザが自分の見解に対して否定的であるということくらいは理解できた筈です。ですがそれによってマイエルが自説を撤回することはなかったといって差し支えないでしょう。マイエルは理性によって人が敬虔であり得るということはたぶん認めたと思われますが,ルター派のキリスト教徒ではありました。その点ではスピノザと立場が違っていて,このことはマイエルがこうした決断をしたことの理由のひとつになるかもしれません。
 一方,スピノザが『聖書解釈としての哲学』を読まなかったということも考えにくいでしょう。たとえ事前に講評を求められたことはなかったとしても,親友であるマイエルが出版した本を読まないとは思えないからです。あるいは出版後にマイエルから本を送られたという可能性はきわめて高いように僕には思えます。ですからそこで展開されている論調が,自分の考え方と相容れないということをスピノザは理解していたと思います。『神学・政治論』で理性を神学の上位に置く人を非難するとき,スピノザの念頭にマイエルがあったことは間違いないし,マイエルもまたそれはとくに自分に対していわれているというように読解したのではないかと思います。
 つまり双方の見解に差異があるということを,スピノザもマイエルも知っていたということは,それがいつの時点かは分かりませんが,間違いないと僕は考えます。
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生還&リューウェルツの誤解

2016-01-23 19:13:04 | 歌・小説
 漱石とドストエフスキーは共に珍しい経験をしています。少なくとも漱石の認識のうちではそうでした。漱石のドストエフスキー評二律背反になっていることのうち,漱石がドストエフスキーを好意的に評している理由のひとつに,この体験への共感があったかもしれません。
                                   
 ドストエフスキーは1849年に秘密集会に出席していたところを逮捕され,11月に銃殺刑を宣告されました。翌月,その刑が実行される直前に特赦文が読み上げられ,懲役4年の後に兵役に服務と減刑されました。この減刑はもとより決まっていたもので,執行直前に知らされたのは茶番であったとみていいと思います。ですがドストエフスキー自身からみれば,死の瀬戸際で生きることを許されたことになります。表向きだけだったかもしれませんが,ドストエフスキーの転向の最大の理由は,この出来事にありました。
 漱石は1910年8月に,療養中であった修善寺で数度の大量吐血。医師も生命に危険があると判断した状態でしたが,数日間の昏睡の後,目を覚ましました。こちらは病気という死の瀬戸際から,生の側へと帰還を果たしたのです。
 つまり死に等しい状況から生還したという経験がふたりにはありました。そして漱石はこの点において,ドストエフスキーに共感していました。漱石はこの経験をドストエフスキーと共有できるという意味において共感していたと考えてよいと僕は解しています。
 漱石は『思い出すことなど』の中で,この共感について触れています。それ自体は詩と散文ほどの違いがあるといわれています。それでも漱石は,自分が大患による危篤状態から意識を取り戻したときのことを思い出すごとに,ドストエフスキーを連想せずにはいられなかったようです。

 リューウェルツゾーンがハルマンに語ったところによれば,『聖書解釈としての哲学』をハルマンに見せるときに,この著者はスピノザの学説の原理を把握していたと説明したそうです。このこと自体は誤りではないと思います。後に紹介しますがマイエルは哲学的な質問をスピノザにしていて,スピノザもそれに答えています。その内容は高度なものといってよく,そのような質問をすることができたということ自体,マイエルがスピノザの哲学の原理を理解していたことの証明になると思うからです。しかしスピノザは理性は聖書の解釈者たり得ないと考えていたのであり,これはマイエルとは見解を異にしています。『聖書解釈者としての哲学』を見せるにあたってこのような説明をしたのだとすれば,リューウェルツゾーンはこの点に関しては誤っていたとみなすのが自然であると思います。
 さらにリューウェルツゾーンは,すべての人がこの著作のようにスピノザをよく理解してくれればいいと,見せた後で言ったとハルマンは報告しています。この著作とはもちろん『聖書解釈としての哲学』のことです。ということは,リューウェルツゾーンはこの本の内容がスピノザの学説に一致すると思っていたのは間違いないでしょう。こうした見解は父であるリューウェルツももっていたのではないでしょうか。ハルマンはこの本を四半折の書物と紹介していて,おそらく合本として発刊されたものとは違っていたものと思われます。ですが合本で発行するという判断はリューウェルツが下したとみるのが妥当でしょう。また,親子の間でスピノザとマイエルに関わる会話がなかったと考えるのは不自然です。やはり総合的に考えると,リューウェルツゾーンが犯していた誤解は,リューウェルツも共有していたとみるのが妥当な判断ではないでしょうか。
 では,スピノザは『聖書解釈としての哲学』を読んでいたでしょうか。これについては読んでいた可能性が高いと僕は考えています。マイエルとスピノザの親しさから考えたなら,イエレスがそうしていたように,出版する以前にスピノザに読んでもらい,講評を求めた可能性すらあるのではないかと思います。
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シモン・ド・フリース&聖書解釈としての哲学の著者

2016-01-22 19:18:38 | 哲学
 イエレスJarig Jellesはスピノザが『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を出版するおりに費用を負担しました。おそらく金銭的に援助されることを好まなかったスピノザに対して,確実にそういう援助をしたと確定できる親友がもうひとりいます。それがシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesです。
 フリースはアムステルダムの裕福な商人の家庭に産まれました。ただしスピノザと商人仲間だったと説明されているものはありません。フリースはコレギアント派collegiantenで,その関係からスピノザと知り合ったようです。
                                   
 金銭的援助については『スピノザの生涯と精神』の中で,リュカスJean Maximilien LucasもコレルスJohannes Colerusも指摘しています。スピノザの質素な暮らしぶりを見かねたフリースは,年金を提供しようとしました。しかしこれはスピノザが断ったようです。また,フリースは自分が死んだ場合の遺産相続者にスピノザを定めようとしました。これもスピノザは辞退し,弟に相続させるように勧めたようです。フリースはスピノザよりひとつだけ若かったのですが,1667年にスピノザより先に死んでしまいました。相続人は弟になっていたようなのですが,その条件として,スピノザが生きている間は生活費のために年金を支払うという付帯条件を付けていたようです。スピノザはたぶんこのことを知らなかったと推測しますが,弟からの年金は受け取ることになりました。ただしフリースが指定したよりは減額したようです。コレルスはこの年金の提供がスピノザが死ぬまでずっと続いていたと報告しています。
 ここから分かるように,スピノザはシモンだけでなく,フリースのほかの家族とも親しかったようです。スピノザはブレイエンベルフWillem van Blyenburgと文通を始めた頃,疫病を避けて一時的にフォールブルフVoorburgからスヒーダムに移っていました。ここはフリースの姉妹や弟が住んでいたところです。またスピノザの死後,葬儀の費用についてはリューウェルツJan Rieuwertszが支払いを約束する保証をしたのですが,スヒーダムの友人がそれを負担するとしています。これはおそらくフリースの姉妹の夫であると『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では説明されています。

 『聖書解釈としての哲学』の著者がマイエルLodewijk Meyerであるということを,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは知っていたという可能性は,僕にはそんなに高くないように思えます。というよりも,フェルトホイゼンがそれを読んだことがあったかどうかさえ,僕には不確定です。岩波文庫版の『スピノザ往復書簡集Epistolae』で,フェルトホイゼンが理性ratioは聖書の解釈者であると説く逆説的神学者が『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では排撃されていると要約している部分で,この逆説的神学者がマイエルであるという主旨の訳注が畠中によって付されています。ですがフェルトホイゼンが本当にマイエルを念頭に置いてそのように記述したのかは,フェルトホイゼンの書簡のテクストからは断定できません。畠中がいうように,この逆説的神学者の中にマイエルが含まれることは間違いありませんが,テクスト本文からはっきりと分かるのは,スピノザがそれを排撃しているということと,フェルトホイゼンも逆説的神学者の見解には同意できないということだけです。そもそもフェルトホイゼンは,この書簡を書いている時点では,『神学・政治論』の著者がだれであるかまったく知らなかったか,少なくとも何らかの噂を耳にしたことがあっても,それがスピノザであるという確信は持てていなかったものと僕は推定します。なのでフェルトホイゼンが『聖書解釈としての哲学』を読んだことがあったのだと仮定しても,その著者がマイエルであるということまで知っていたという可能性は非常に薄いだろうと思うのです。
 では『聖書解釈としての哲学』の著者がマイエルであったということがどこから確定できるのかといえば,それはハルマンの報告です。ハルマンがリューウェルツゾーンを訪れたとき,リューウェルツゾーンが『聖書解釈としての哲学』もハルマンに見せました。リューウェルツゾーンは最初は著者名は伏せていたようなのですが,ハルマンが問い詰めたらマイエルであると教えてくれたと読解できるような記述になっています。
 このとき明らかにリューウェルツゾーンは,スピノザとマイエルの考え方の違いを,フェルトホイゼンのようにはまったく理解できていなかったと思われます。
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倉茂記念杯&聖書の普遍性

2016-01-21 19:13:26 | 競輪
 準決勝が雪で順延となったため,決勝も昨日に延期となった大宮記念。並びは桜井‐安部‐佐藤の北日本,平原‐武井の東日本,深谷‐浅井‐林‐岩本の中部。
 浅井がスタートを取って深谷の前受け。5番手に平原,7番手に桜井で周回。残り2周のバックに入るところから桜井が上昇開始。打鐘で深谷も踏んでいきましたが,外から桜井が叩きました。このラインに続いていた平原が4番手,深谷が6番手の一列棒状でホームを通過。バックに入って深谷が発進。後ろを警戒していた平原も併せて出ようとしましたが,勢いが違いすぎて深谷が前に。安部も番手から出ていきましたが深谷はこれもコーナーで飲み込み,直線で浅井の追撃を振り切って優勝。1車輪差で浅井が2着。1車身差の3着にも林が続いて中部の上位独占。
                                    
 優勝した愛知の深谷知広選手は年末の伊東温泉記念に続いて記念競輪11勝目。大宮記念は初優勝。昨年はデビューしてから最も苦しんだ1年になってしまいましたが,いい形で終えることができ,今年は幸先のよいスタートを切りました。ラインが結束が固い4人になりましたので,前受けから引いても6番手という分の優位さが大きかったと思います。競輪選手はどうしても怪我がつきものなので,確定的なことはいいにくいのですが,たぶん今年は昨年の分まで活躍してくれるでしょう。むしろ気がかりなのは平原の方で,明らかに調子を落としているように思えます。

 フェルトホイゼンがスピノザを批判するにあたって何を前提としていたかは,スピノザが返答で反応した冒頭部分がよく示しています。フェルトホイゼンからみればスピノザがキリスト教徒でなかったのは明白です。これもスピノザは認めるでしょう。だからフェルトホイゼンは当然のようにスピノザを無神論者とみなし,その生活など知りたくもないと書いたのです。
 これに対してスピノザは,キリスト教ないしは聖書だけが人を敬虔にするのではないと考えていました。だからキリスト教徒でない人にも,敬虔な人がいることを当然のように認めたのです。そしてそういう人は,結果的に聖書がかくあれと示している内容を実践しているのだから,異教徒であろうと無宗教であろうとキリスト者であると認識していました。後にゲーテはスピノザのことを最高のキリスト者と評価するのですが,スピノザがキリスト教徒であったことはただの一度もなく,ゲーテもキリスト者とは何かということを,スピノザと同じように考えていたかもしれません。もしもそうであるとすると,フェルトホイゼンとスピノザの対立は,汎神論論争におけるヤコービとゲーテの対立とパラレルな関係にあったといえるでしょう。フェルトホイゼンとかヤコービにとって,聖書とはあくまでもキリスト教徒だけに意味あるものでした。ですがスピノザやゲーテにとっては,聖書の内容はもっと普遍的なものであり,キリスト教徒であろうとなかろうと人類一般に妥当するものであったのです。
 たぶんスピノザとかゲーテがしたような考え方をフェルトホイゼンはできなかったのだと思います。あるいはそんなことは思いもよらなかったといった方がいいかもしれません。部分的にはそれはデカルト主義を守るという目的から発したものといえるでしょうが,単にひとりの人間として考えた場合には,フェルトホイゼンはたとえば王党派に属していたような連中よりよほど進歩的であった筈ですが,スピノザからみれば反動的だったのだと思います。たぶんマイエルは理性によって人が敬虔であり得ることは認めたでしょうから,フェルトホイゼンはマイエルより反動的であったと僕は解しています。
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サンケイスポーツ盃船橋記念&フェルトホイゼンの前提

2016-01-20 19:31:07 | 地方競馬
 今年最初の船橋開催のメーンは第60回船橋記念
 猛ダッシュを決めたワールドエンドの逃げ。一時的に3馬身くらいのリードを取りました。発馬が一息だったルックスザットキルが追い上げて,3コーナーの手前では2番手に。最初は2番手にいたイセノラヴィソンが内,アルゴリズムが外で3番手は併走。1000m戦はさほど前後半でラップ差が開かないケースの多いことを踏まえれば,このレースは超ハイペースだったといっていいでしょう。
 追ったルックスザットキルは直線の入口あたりで苦しくなりました。内から捌いたイセノラヴィソンが直線で一杯になったワールドエンドを捕えて先頭。外を回ったアルゴリズムが追い詰めましたが届かず,イセノラヴィソンが優勝。半馬身差でアルゴリズムが2着。何とか粘ったワールドエンドが2馬身差で3着は確保。
 優勝したイセノラヴィソンは南関東重賞初挑戦での勝利。船橋のこの距離は過去に6戦して2勝,2着2回,3着1回と最も得意とする舞台。完全な格下ですが,その適性を生かしての勝利といえるでしょう。51キロの斤量もよかったですし,内目の枠順を生かしてずっとインを回ってきた騎乗も光りました。斤量を背負うようになるとこのクラスでは少し苦しむことになるのではないかとみています。 Ravissantはフランス語で美しい。
 騎乗した大井の笹川翼騎手は昨年11月の勝島王冠以来の南関東重賞2勝目。管理している船橋の佐藤厚弘調教師は開業から9年半強で南関東重賞初勝利。

 すでに述べたように,フェルトホイゼンによる『神学・政治論』の要約の中には,スピノザが神学を哲学の上位に置こうとする見解を否定するだけでなく,哲学を神学の上位に置こうとする見解に対しても否定的であるということが含まれています。つまりフェルトホイゼンはそれだけスピノザの主張の中身を的確に理解できていたことになります。いい換えればスピノザが理神論者であるということを根拠にしたような誤解はしなかったということです。なのでフェルトホイゼンが知的な意味において有能であったということは間違いなく,さらにこの点においては「理解者」であったと僕は評価するのです。
                                    
 とはいえフェルトホイゼンはデカルト主義者であり,デカルト主義がキリスト教神学者たちから批判を招かないように配慮する必要がありました。だからスピノザの考え方を正確に理解した上で,それを批判するに至ったのだと思います。フェルトホイゼンが自分の立場を最も鮮明に表しているのは,書簡四十二の最後の部分です。そこでフェルトホイゼンは,スピノザが主張するところによれば,コーランが神のことばと同じ価値をもつことになるし,マホメットが真の預言者ではないということを証明することは不可能だとしています。このゆえにそれはキリスト教的見解から外れるものだとし,その観点から批判するのです。
 おそらくスピノザは,フェルトホイゼンが読解した内容自体については肯定するものと思われます。スピノザにとって聖書は人を敬虔にし得るがゆえに有用であったのです。ですからコーランが人を敬虔にするなら,同じように有用であると考えるでしょう。同様に聖書に出てくる預言者のことばが人を敬虔にするのと同じ意味で,マホメットのことばが人を敬虔にするなら,やはりそれを有用であると考えるであろうからです。つまり聖書に出てくる預言者とマホメットを区別する必要はないことになります。
 ここに表出されている差異は,何によって人は敬虔であることが可能であるのかという見解の差異です。フェルトホイゼンはキリスト教を信仰する人だけが敬虔であり,それ以外は無神論者だと暗黙裡に前提していたのです。
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聖書解釈の方法&批判の矛先

2016-01-19 19:16:38 | 哲学
 神学と哲学に関するスピノザの考え方を形而上学的観点から本論で説明しているのは,僕にとっては哲学を利用した方が説明しやすいからです。ですが『神学・政治論』ではその手法が採用されているわけではありません。聖書と理性の関係をスピノザが具体的にどう考えていたと僕が理解しているかも明らかにしておきます。
 聖書も理性も,人を敬虔にする力を有するということをスピノザは認めています。無神論者であるより敬虔である方が倫理的だということもスピノザの前提になっています。したがって人間に対する有用性という観点からすれば,聖書と理性は同じように評価されるとスピノザは考えていたと僕は理解しています。
 聖書と理性の差は,人を敬虔にする方法論のうちにあります。理性は精神の能動ですから,人間は理性を用いる限り,それだけで敬虔であるといえます。スピノザは理性を潜在的な力と考えず,現実的なものと把握しています。よって理性を用いているとき,すべての人間は敬虔です。他面からいえば十全な観念を有する限り,人は敬虔なのです。
 聖書は神に服従することによって人を敬虔にさせます。一般に人があるものに服従する場合には,強制されてそのようにするのです。たとえばアルベルトが地獄への不安からローマカトリックに服従したようにです。ですからこの場合には,人は何らかの混乱した観念が引き金になって敬虔になります。こうした受動の要因は混乱した観念だからです。つまり聖書は人に何らかの混乱した観念を認識させることによって,人を敬虔にするのです。
 現実的に存在する人間は受動を免れ得ません。よって聖書のような方法も,人を敬虔にさせるという点では大いに有効です。なのでスピノザはその限りにおいて,聖書を高く評価するのです。
                                   
 『デカルト、ホッブズ、スピノザ』に所収されている「スピノザの聖書解釈」が,このこととの関連では最も参考になると思います。

 神的には同一であるという観念であれば,人間的に考えた場合に同一個体に類するものであると形而上学上は規定したとしてもさほど無理があるとはいえません。よって僕はXの混乱した観念とXの十全な観念の間には,同一個体に類する関係があるとみなします。いい換えれば受動属性と能動属性,あるいは神学属性と哲学属性は,人間的な形而上学においては「共通点」を有さない属性であるとスピノザは考えていたというように理解するのです。
 このゆえにスピノザは,自らをキリスト教徒的哲学者と規定し,神学を哲学の上位に置こうとするブレイエンベルフのような立場だけを批判するのではなく,理性によって聖書の真理を明らかにすることを目論み,哲学を神学の上位に置こうとするマイエルのような立場も同時に批判することになるのです。神学と哲学に「共通点」がないなら,聖書によって哲学的内容を決定することはできないし,哲学によって聖書の内容を明らかにするということもできないからです。このことが第一部定理三から出てきます。
 スピノザが『神学・政治論』の中でこのような自身の立場を最も鮮明に表しているのは,第十五章の冒頭です。そこではスピノザは,ブレイエンベルフのように主張すると,民衆の偏見にすぎないようなことに心を奪われてしまうといっています。しかしマイエルのように主張すると,預言者たちに過大な事柄を背負い込ませ,本当に預言者が示そうとしたことを誤って解釈することになるといっています。ブレイエンベルフは理性なしに狂っているのですが,マイエルは理性と共に狂っているのだというのがスピノザの評価です。
 ただ,単純にその哲学的思想だけに目を向けたならば,スピノザは理神論者でした。だからスピノザもまた,マイエルと同じような考えのもとに神学を理性によって評価するであろうと想像されたとしても,それ自体は無理からぬことであったと僕は思います。リューウェルツが『神学・政治論』と『聖書解釈としての哲学』を合本として発刊したのは,リューウェルツ自身にもそのような誤解があったからかもしれません。またこの合本も,誤解の要因になり得たでしょう。
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スワンズウッドグローヴ&区別の有効性

2016-01-18 19:34:41 | 血統
 サクラチヨノオーの祖母は1960年にイギリスで産まれたスワンズウッドグローヴで,基礎輸入繁殖牝馬になります。キロフプリミエール,キャサリーンパー,ラバテラと同じでファミリーナンバー16-aです。
                                   
 サクラ冠の馬にはいくつかの主要牝系がありますが,おそらくその最大のもの。スワンズウッドグローヴは日本で10頭の仔を産んだのですが,そのうちの8頭が牝馬だったので枝葉が大きく広がることになったからです。
 輸入された時点で仔を宿していて,それが1970年に産まれたサクラジョオー。この牝系からは2004年の鳴尾記念,2005年の日経新春杯とアルゼンチン共和国杯を勝ったサクラセンチュリー,1994年の弥生賞と1996年の七夕賞を勝ったサクラエイコウオー,1993年のエプソムカップを勝ったサクラセカイオーなどが輩出しています。
 1972年に産まれたのがサクラセダン。サクラチヨノオーの母です。サクラチヨノオーの全兄には1983年の函館3歳ステークスと1986年の七夕賞を勝ったサクラトウコウ,半弟には1988年のJRA賞最優秀2歳牡馬のサクラホクトオーがいます。2002年の関東オークスを勝ったサクラヴィクトリア,2002年の札幌2歳ステークス,2003年の札幌記念,2004年の中山記念を勝ったサクラプレジデントもこの分枝。
 1973年に産まれたのはサクラグローブ。2011年に阪神大賞典を勝ったナムラクレセントがこの分枝の代表馬。
 1976年に産まれたのはサクラタニマサ。この分枝からは地方所属のままJRA重賞を勝った馬が2頭も輩出しました。1999年のNARグランプリのサラブレッド系2歳最優秀馬に選出されたレジェンドハンターと,2000年にデイリー杯3歳ステークスを勝ったフジノテンビーです。
 1977年に産まれたサクラビクトリーの分枝からも重賞の勝ち馬が出ています。1997年にダイオライト記念,武蔵野ステークス,ブリーダーズゴールドカップ,1998年には東海菊花賞を勝ったデュークグランプリです。
 近年は縮小傾向にあると思います。ですが日本競馬を代表する牝系のひとつであったことは間違いありません。

 哲学属性の様態としてのXの十全な観念と,神学属性の様態としてのXの混乱した観念が,形而上学的にいえば同一個体であるとする解釈は,次の観点からも補強し得ると思います。
 第二部定理七系の意味から明らかなように,神の無限知性のうちにある観念はすべてが十全な観念です。なので神学属性と哲学属性という区分は,神については無効です。他面からいえば神には能動属性だけが属するのであり,受動属性はその本性を構成し得ません。この形而上学的区分は,人間を対象とした場合に有効なのです。つまり人間は事物を混乱して認識することがあるのですが,神は常に事物を十全に認識するのです。
 本来的な意味では区別というのは神の本性を構成する属性を規準として,実在的であるか様態的であるかに分けられます。これでみるなら神学属性と哲学属性は,人間にとってのみ意味を有する区分なのですから,様態的に区別されなければなりません。僕がいう形而上学的区分というのは,実在的なものの区別ではないのです。スピノザが理性の有ということばで示しているものに対比させていうなら,形而上学的区分というのは,理性的区分,僕たちがそれについて考える場合にのみ意味を有するような区分であることになります。
 では人間が有するXの十全な観念とXの混乱した観念は,実際にはどう区分されるのでしょうか。それを示すのが第二部定理一一系の新しい意味です。つまりある人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにXの十全な観念があるというとき,その人間はXを十全に認識しています。対してある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合には,その人間はXを混乱して認識するのです。ですが,ある人間の本性を構成する限りにおいてであれ,あるいはある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りであれ,その限りで神のうちにXの観念があるといわれるなら,神のうちではそれは十全です。いってみればXの十全な観念とXの混乱した観念というのは,人間的には同一個体に類するものであっても,神的には単に同一なのです。
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岡田美術館杯女流名人戦&第二部定理三六との関係

2016-01-17 19:49:07 | 将棋
 岡田美術館で指された第42期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が21勝,清水市代女流六段が12勝。清水六段の勝利数の中には不戦勝がひとつあります。
 館長の振駒で里見女流名人の先手になり,5筋位取り中飛車に。清水六段は舟囲いで急戦。ねじり合いの中盤戦になりました。
                                    
 後手が5七の馬を寄ったところ。先手は▲7四飛△同飛と斬って▲5五馬。手順の調子は良いのですが実際に駒損で次の△3三桂が受けつつ銀当りになるので,成否は微妙だったと思います。
 ▲5三歩と叩いて△同金▲5四歩△6三金と5筋に拠点を作りました。この部分の交換は先手だけが得をしているように思います。とはいえ後手としては言いなりになるよりなかったところでしょう。
 ▲4四歩と打ったのは△4五馬で駒損の拡大が目に見えているので思い切った手と感じますが,後手も△同歩と応じました。玉のこびんですからこれも先手が言い分を通したといえそうです。
 せっかくなので▲同銀で銀が逃げてしまうのが有力と思えますが,おそらく狙い筋であった▲5三歩成△同銀▲6四馬の王手飛車の手順に進めました。ただ,銀が逃げていてもこの筋自体は残っていましたから,味を消してしまっという意味もあったかもしれません。
 △5四歩と受けて▲7四馬△同金▲7二飛の王手のときに△4二飛と受けました。受け一方に飛車を使うのでは普通はよくない筈ですが,この場合は好手順だったようです。ここから▲7四飛成△4五歩は必然と思います。
                                    
 第2図まで進むと先手が手を繋げるのは難しくなっているようです。これ以降はそのリードを後手が保ち続けたという一局だったのではないでしょうか。
 清水六段が先勝。第二局は24日です。

 能動属性と受動属性の間に「共通点」がないという形而上学的見解については,もう一点だけ考慮しておかなければならないことがあります。
 スピノザは第二部定理三六で,十全な観念と混乱した観念は同一の必然性で生じるといっています。この定理の主旨に関しては僕には分からないところがあるのですが,ここではXの十全な観念とXの混乱した観念は発生する必然性が同一であると解しておきます。この場合,一般的な意味において同一の必然性で生じるというのではなく,それらが発生する秩序と連結が同一であるという意味を含んでいると理解しておきます。この理解はことによるとスピノザが示そうとした事柄から逸脱しているおそれがあるかもしれないのですが,これくらい厳しく理解しておいた方が,僕の主張が成立するということに対する反論としてはより有効と思えます。
 僕はそれに対しては,能動属性と受動属性との間に,平行論のような関係を導入することによって解消できると考えます。平行論のような関係といい,平行論といわないのは,平行論はあくまでも観念対象ideatumと観念との間に成立するものであるのに対し,この場合にはそれと異なっているからです。
 第二部定理七証明の意味で示したように,ものと観念の秩序と連結が一致するといわれるとき,ものというのは物体ではなく観念対象と解しておく方が確実です。そしてこの関係が,能動属性内にあるXの十全な観念と,受動属性内の様態としてあるXの混乱した観念との間に成立するというのが,僕の形而上学的見解です。十全な観念が能動属性なの様態であること,混乱した観念が受動属性の様態でなければならないことは第三部定理三から明らかです。そして能動属性と受動属性は,各々が哲学属性と神学属性を意味することを踏まえれば,哲学属性のXの観念と神学属性のXの観念との間に平行論のような関係があるということになります。つまり哲学属性のXの観念と神学属性のXの観念は,同一個体に類する関係にあると把握するのです。このように把握しておけば,第二部定理三六を厳しく解釈しても,僕の主張とは矛盾しないことになるでしょう。
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