スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京2歳優駿牝馬&父の借金

2010-12-31 19:31:07 | 地方競馬
 今年から地方競馬全国交流となり,笠松から1頭,兵庫から2頭が遠征してきた東京2歳優駿牝馬
 先手を取ったのはチェリペタル。クラーベセクレタが2番手を追走。人気のラカンパーナは5,6番手の外を追走。前半の800mは49秒5のミドルペース。ただ,この開催の大井は全般的に早い時計での決着が多く,あまり前が止まりません。よってこれくらいだと前に有利な流れ。とくに2歳戦ですからそうしたことがより強くいえると思います。直線に入って逃げ馬を交わしたクラーベセクレタが後ろを3馬身離しての快勝。逃げた最低人気のチェリペタルも2着に残り,4番手から1頭だけ抜いたマツリバヤシが3着。大波乱といっていい結果でした。
 優勝したクラーベセクレタは南関東転入初戦。北海道デビューで北海道重賞を2勝。前走のエーデルワイス賞は4着に終わりましたが,1番人気に支持されていたほどですから,ここでも力量は上位。やや特殊と思える馬場状態が味方になったことは確かですが,フロックではなく,来年のクラシックの主役の1頭になることでしょう。母の父がタイキシャトル
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は鎌倉記念以来となる南関東重賞制覇。一昨年以来のこのレース2勝目。管理することになった船橋の川島正行調教師はやはり一昨年以来で,3勝目。

 信用金庫の口座を相続のために閉鎖するに当たって,相続人,つまりこれは僕と,そして妹の3人になりますが,各々の印鑑証明というのが必要でした。印鑑証明というのは,要するにある印鑑について,それが当人の実印であるということを証明するための書類です。横浜市の場合,実印を登録しますと印鑑登録証というカードが与えられ,このカードを出すと印鑑証明を受け取ることができるようになっています。ところがこのとき,母はこの印鑑登録証を持っていましたが,僕と妹は持っていなかったのです。いい換えれば実印というものがまだありませんでした。そこで先に,実印を登録しておく必要があり,それがこの日に区役所まで赴いた理由でした。
 登録する実印は決めていましたので,その印鑑で登録してもらうための書類を提出したのですが,本人ではない人間によって印鑑登録を行うためには,委任状が必要であるという理由によって拒絶されました。すなわち,僕の印鑑登録は可能だけれども,妹の分はできないというのです。仕方がありませんからこの日は,届け出るための書類だけもらって,僕の印鑑登録もせず,磯子中央病院に寄ってから帰ることにしたのです。
 この信用金庫から相続の手続きを始めたのは,前述したような理由があったからですが,実はほかにもうひとつ,別の理由もありました。はこの信用金庫に口座を開設していましたが,それとは別に同じ信用金庫でカードローンを組んでいました。有体にいうなら借金があったのです。この借金の金利が思いのほか高いものだったので,とりあえずその借金を先に返済したかったのです。この借金は,口座の方から毎月自動的に引き落とされるという仕組みになっていました。父の余命が残り少ないということが分かった後,あちらこちらにあった父の普通預金の口座の残金について,移せるものは生前に僕や母の口座に移しておきましたが,こうした理由もあり,この信用金庫の口座だけはある程度の残金もありました。そういう意味では,最も急いで相続しておくべき口座があるとしたら,それはこの信用金庫の口座をおいてほかにはなかったのです。
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競輪グランプリ&自信

2010-12-30 18:37:49 | 競輪
 年末の大一番にして競輪界最大のレース,競輪グランプリ。今年の舞台は立川競輪場。並びは佐藤-山崎-伏見の北日本,平原-武田の関東,村上義弘-村上博幸-市田の近畿で海老根が単騎。
 佐藤が前に構え,村上義弘が中団,7番手に平原,最後尾に海老根という隊列で打鐘までだれも動かず,ホームから佐藤が先行。バックで村上義弘の捲りに山崎が併せ,村上義弘は失速しましたが,村上博幸はうまく伏見を極めて山崎の後ろに。直線は山崎と村上博幸の優勝争いとなりましたが,ゴール前で僅かに山崎を捕えた村上博幸の優勝。山崎が2着で伏見が3着。
 優勝した京都の村上博幸選手は日本選手権を優勝してここへの出走権を確保。その後,風光るを優勝していて,ビッグは4勝目。今日はあまりいい展開でもなかったと思うのですが,俊敏な動きで伏見を封じたのが勝因でしょう。最強クラスまで成長したのは今年になってからといえる選手だと思いますので,来年も引き続いての活躍が期待されます。
                         

 一時帰宅を終えたを,やはりひとりで送り返すわけにはいきませんから今度は磯子中央病院まで送って行くことになります。予定では午後2時ですが,これは病院に到着するという時間。したがって母と一緒に家を出たのは午後1時半少し前でした。
 前日は母の希望でタクシーで戻りましたので,この日も僕はそのつもりでいました。ところが母はバスで病院まで行くと言い出したのです。おそらくこれは,1日だけですが家で過ごすことにより,実質的な支障というものがほとんどないということが母自身にも確認できたので,バスに乗っても大丈夫ではないかという自信が母の精神のうちに生じたからではないかと思います。母にそう確認したわけではありませんが,もしも本当にそうであったのだとするならば,今回の一時帰宅による最大の効果は,実際に母がそれまでとほとんど変わらないような生活を,少なくとも家の中では送れたということではなく,そうした自信が母の中に生じたということであったと僕は思っています。
 ということで母の希望通りにバスで磯子中央病院まで戻りました。バスは混雑していて座ることができませんでした。僕はずっと母の様子を窺っていましたが,何の問題もありませんでした。実際に母に後で聞いてみたところ,前日のタクシーの乗り降りの際に感じたような不快さも感じずにすんだとのことです。ただこれは,バスの乗り降りというのは普通に歩くようなスタイルで行うことが可能ですが,タクシーの場合には頭も上げ下げしなければならず,その上下運動が不快感の原因であったと考えることもできますので,この1日の間にそれだけ母が回復したのだとはいいきれない部分もあるかと思います。
 翌12月10日からは,また磯子中央病院への見舞いが再開されました。とはいえ,一時帰宅は1泊でした。つまり8日も9日も僕は母の送り迎えで病院には行っているわけですから,結局のところ,僕は磯子中央病院に行かなかった日はないということになります。ただしこの日は,病院に行く前に,区役所へ赴いています。これは相続のために必要となる書類をもらうためでした。ただ,事情があり,この日のうちにはそのすべてを揃えるということができなかったのです。
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東京大賞典&支障

2010-12-29 19:07:53 | 地方競馬
 今年最後の大レースは東京大賞典
 やや牽制気味でしたが,スマートファルコンの方が先手を奪い,フリオーソが2番手でマークという形になりました。シルクメビウスは5,6番手と,これまでよりはやや前に位置してのレース。前半の1000mは58秒9でしたから,ハイペースといえるでしょう。
 スマートファルコンはほぼ一貫したペースを刻み,3コーナー過ぎから追っていたフリオーソの方がやや苦しくなったか,少し離され,何とか押して押して取りつこうとしました。最後の200mはハイペースのつけかスマートファルコンも止まったため,ゴール前ではやや差が詰まったものの,馬体が並ぶというところまではいかず,逃げ切ったスマートファルコンがレコードタイムで優勝。フリオーソも2着は悠々と確保。3着も3番手で競馬をしたバーディバーディ。
 優勝したスマートファルコンJBCクラシック,浦和記念と連勝中で,大レースはこれが2勝目。レコードが出るような馬場となり,スピードが生きたとはいえますが,ここにきて完全に本格化したと考えていいのではないでしょうか。ダート競馬はわりと息長く活躍できますので,来年以降も大きく落ち込むということはないだろうと思います。父はゴールドアリュール,兄のワールドクリークは1999年のこのレースを制していますので兄弟制覇。輸入基礎繁殖牝馬はアリアーン
 騎乗した武豊騎手ジャパンカップ以来の大レース制覇で2007年以来の東京大賞典4勝目。管理している小崎憲調教師はJBCクラシック以来の大レース制覇,東京大賞典初勝利。
                         

 家に戻ったですが,家の中では,ほぼ入院する前と同様の生活を送ることができました。一例をあげれば,母は入院前は毎晩の夕食を作っていたのですが,この日の夕食も作りました。入浴はすでに病院でひとりでこなしていましたが,家でも問題なし。祖母のことがあって,自宅は5年半ほど前にバリアフリーにしたのですが,それも多少の役には立ったようです。もっとも,祖母は自宅で生活するという場合には1階のみですから,バリアフリー化されているのも1階のみ。つまり家を建て替えたわけではなく,リフォームしたのです。一方,母は2階で寝ますので,階段の上り下りというのも必要でしたが,これにももう何の問題もありませんでした。また,翌朝は,やはりこれも入院前にしていたように洗濯をしましたし,8日の午後には僕が干しておいた洗濯物も取り込んでありました。
 ただし,自分だけで階段を上り下りすることはできたのですが,荷物を持って上り下りすることは困難だったようです。2階にはベランダがあって,当然ながら洗濯物はそこに干すわけです。しかし僕が8日の午後に予定通りに仕事で外出し,帰宅したときには,洗濯物は取り込むには取り込んでありましたが,洗濯籠に入れたまま階段の上に置いてありました。よってそれは僕が下ろしたわけです。一方,9日の朝も,洗濯はしたのですが,それをベランダまで持って行くということはできませんでしたから,僕が持って行きました。ただ,家の中での生活において支障を来したことがあるとすればこのことだけでしたし,はっきりいってこれは支障といえるほどの支障ではないようにも思います。
 磯子中央病院に戻るのは翌日の午後で,2時でした。したがって母は家では,8日の夕食と9日の朝食,昼食の3食。プラス1泊というのがこの一時帰宅のすべて。そしてこの日程をつつがなく終えることができたといっていいと思います。
 ひとりで家にいる分には問題ありませんが,外出させることは危険。ですから9日も妹を作業所まで送って行くのは僕の役目。帰って一緒に昼食を,といってもこれは一人ひとりで作りましたから別のものではありましたが,摂りました。退院してきても僕の負担はまったくありませんし,むしろ間違いなく減るくらい。これなら退院できる日も近いだろうと確信しました。
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兵庫ゴールドトロフィー&一時帰宅

2010-12-28 19:33:24 | 地方競馬
 節目となる10回目を迎えた兵庫ゴールドトロフィー(動画)。
 発走直後にファイングレインに躓くような不利があり最後尾から。先手を奪ったのはラブミーチャン。スーニ,ポートジェネラル,イイデケンシンの3頭はほぼ並んで1コーナーへ。ミドルペースだったと思われます。
 向正面に入るとスーニが単独で2番手に。前の4頭を見ていたトーセンブライトが外を上がって3番手に。3コーナーを過ぎるとこの3頭で後ろを離しました。スーニが内で粘るラブミーチャンを競り落として先頭に立つも,その外をトーセンブライトが鋭く伸びて優勝。スーニが2着,追ってきたタガノブリガデイロに詰め寄られましたがラブミーチャンが3着を確保。
 優勝したトーセンブライト昨年のこのレース以来となる重賞4勝目。もう全盛期の力はないと思いますが,ここはかなり軽いメンバーとなり,2着馬もハンデを背負っていましたので,この馬でも勝負になったというところ。今後も今日のようによほど恵まれなければ重賞での好走は難しいのではないかと思います。
 騎乗した安藤勝己騎手は兵庫ゴールドトロフィー連覇で3勝目。管理している加藤征弘[ゆきひろ]調教師も連覇で2勝目です。
                         

 一時帰宅の許可が出て,その日程も決まったとはいえ,ではひとりで家まで帰ってきてくださいというわけにはいきません。当然ながらを迎えに行かなければならないわけです。これが12月8日の午前11時。妹を作業所まで送って行って,そのままバスで磯子中央病院まで戻れば問題ないと思っていました。とくにこの日は,入院中に必要な荷物を持って行かなくてもよかったわけですし,母も外出のリハビリを開始していましたから,帰ってくるための洋服を持って行くという必要もありません。つまり手ぶらで病院まで迎えに行かれるという状況だったわけです。
 ところが,どういうわけかこの日に限ってバスの接続がえらく悪く,妹を送って行くのに思っていた以上の時間が掛かってしまいました。また,妹の作業所から磯子中央病院まではバス1本で行くことができ,これにはみなと赤十字病院の方から来るバスと,そうではなく元町の方から来るバスの2系統があったのですが,僕が妹の作業所の最寄りの停留所まで戻ったときには,どちらのバスも行ってしまった直後だったのです。それでも次のバスをしばらく待ってはいましたが,来てくれません。11時というのは病院を出る予定の時刻ですから,僕が病院に到着するのはもう少し早い時間でなければならず,バスを待っていてはどうしても間に合わなくなってしまったのです。仕方がありませんからタクシーを捕まえて病院へと向いました。
 母は帰る準備は万端で,僕の到着だけを待っているような状況。すぐにナースセンターに向い,一時帰宅する旨を伝えて帰ることとしました。
 帰る手段はふたつで,バスかタクシーです。母に希望を聞きますと,外出でのリハビリの現時点での状況からは,バスに乗ることには多少の不安があるとのこと。というわけでタクシーを選択。みなと赤十字病院にはタクシー乗り場がありますが,磯子中央病院にはありません。ただ,受付の近くにタクシーを呼ぶための無料の無線が備えてありますので,不便ではありません。ということで呼んだタクシーで帰宅。母の話だと,タクシーに乗っている間は何も問題はなかったようですが,乗り降りするときに多少の気分の悪さを感じたそうです。
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棋王戦&一時帰宅の許可

2010-12-27 19:12:40 | 将棋
 共に2冠目を目指すタイトルホルダー同士の争いになった第36期棋王戦挑戦者決定戦変則ニ番勝負の第一局。対戦成績は2勝が必要な渡辺明竜王が1勝,1勝すればよい広瀬章人王位が2勝。
 振駒で広瀬王位の先手。得意の四間飛車穴熊に構えると後手も潜って相穴熊。予想された戦型です。後手の方から仕掛けて桂得で馬を作るという戦果をあげました。
                        
 ここで先手は▲6四歩△同歩と突き捨て▲6三歩。△7六馬に▲3ニ角成△同金と切ってから▲4六飛と逃げました。▲6三歩というのがゆっくり目の手に対して,▲3ニ角成は急いだ手で,バランスが悪い感じは受けましたが,あるいは織り込み済みであったかもしれません。以下,△2四角の飛車取りも無視して▲4三金と打ち込み,△5五歩▲3ニ金△同馬▲4三金△3一金▲3ニ金△同金▲5四角(第2図)。
                         
 ここで3一か3三に金を打つと千日手模様。しかし△3一金で打開。後手での千日手はそんなに腹も立たない筈なので,ここでは渡辺竜王は形勢に自信を持っていたと推測されます。
 実際にこの判断が正しかったよう。先手も攻め込みましたがその過程で大きな駒損に。機を見て反撃に転じた後手が一手勝ちを収めています。
 渡辺竜王の勝利で挑戦者決定は第二局へ。年明けの1月6日です。

 ショートステイの帰りは荷物が多いですから,本当ならば妹を迎えに行かなければなりません。このショートステイは,今回の妹の支援のひとつとして初めて利用したというわけではなく,以前にも何度かは利用したことがありました。それは,妹を外泊に慣らしておくという目的で行ったものですが,図らずも今回はそれが有効に作用したということになります。で,そのときは母が自動車で迎えに行っていたのです。
 しかし,翌朝にはまた妹を作業所まで送って行くわけで,ただ荷物を運搬するためだけに迎えに行くというのは煩わしいと僕は感じました。なので,もしも可能であるなら,荷物は作業所のロッカーに置いておき,8日の朝に妹を送っていった際にそれを受け取って持って帰るということが可能であるかどうかを事前に作業所に打診しておきました。すると,それは可能であるけれども,金曜日に行っている支援と同様に,8日の帰りに妹を家まで送って行くこともできるという返答。ということでもちろん僕はそちらを選択。よって妹は車で送ってもらうということになり,この荷物の運搬も同時にお願いすることができました。
 の方は,一時帰宅の許可が出ていました。これはその前の週の木曜日,すなわち12月2日に,主治医であるN先生から母の方に話があったようです。ということで,週末からいつにするか考えていたのですが,8日の午前中から9日の午後までという日程に決定しました。もうすでに母は,ひとりで家に残しておくくらいならば心配はまったくないと思えるような状態にまで回復していました。そしてできれば僕は8日は仕事で外出したかったのです。この日は水曜ですから妹の仕事が終わる時間が早く,遅くとも午後3時半には家にいなければいけないという日。妹を作業所まで送って行き,そのまま行けば間に合うことは可能でしたが,母が家にいれば,何らかの事情で遅くなったとしても大丈夫。さらにこの日はガス漏れの点検の検査の人が来る予定になっていまして,それも任せることができます。ということで,これは僕にとってもまことに都合がよい日程でした。
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有馬記念&検査日和

2010-12-26 19:04:19 | 中央競馬
 グランプリというに相応しいメンバーが集結した第55回有馬記念。ローズキングダムが腹痛で出走を取り消し,15頭での争いに。
 ドリームジャーニーとエイシンフラッシュは出負け。トーセンジョーダンの逃げになりましたが,この馬は別に逃げたいというわけではありません。必然的にペースを落とし,最初の1000mがおそらく61秒台の後半と思われるスローペースになりました。たださすがにこのクラスの馬たちで,ダノンシャンティを除けば目に見えて掛かっているという馬はいませんでした。
 先行勢の後ろにつけていたルーラーシップが向正面で進出の構えを見せると,4番手のヴィクトワールピサも動いて3コーナーを待たずに一旦は先頭。しかしトーセンジョーダンが再び内から盛り返して2頭が並ぶように直線へ。ヴィクトワールピサが抜き去ると,その直後にいたペルーサとトゥザグローリーが並ぶように追ってきましたが,届きそうな脚色でもありません。普通はヴィクトワールピサの楽勝ですが,後方から外に出されたブエナビスタが坂上から急追。ヴィクトワールピサもラストの50mほどは止まってしまい2頭が並んでゴール。テレビ観戦ではどちらが勝ったかいっかな分かりませんでしたが,写真判定は意外に早く結果が出て,ヴィクトワールピサの優勝で鼻差の2着がブエナビスタ。3着はトゥザグローリー。
 優勝したヴィクトワールピサ皐月賞以来の大レース2勝目。最後に止まったあたり,やはり距離は少し長いと思うのですが,中山の2500mはごまかしもきくコース。そこに絶好の1番枠を引き当て,スタミナの温存できるスローになって,恵まれた部分もあります。向正面で常識外れと思えるほど早めに動いたアドバンテージが,ラストのほんの少しの差に表れたともいえ,ジョッキーも好騎乗でした。父はネオユニヴァース,母はホワイトウォーターアフェアで,兄に安田記念を勝ったアサクサデンエンと小倉記念を勝ったスウィフトカレント。Victoireはフランス語で勝利。
 騎乗したイタリアのミルコ・デムーロ騎手は先週の朝日杯フューチュリティステークスに続く2週連続の大レース制覇。管理している角居勝彦調教師は皐月賞以来の大レース制覇。有馬記念はともに初勝利。
 ブエナビスタは位置取りの分の負け。競走能力はこちらの方が現時点では高いだろうと思います。1,3,4着と3歳馬が占めましたので,来年以降は芝はこの世代が中心に日本の競馬は進んでいくでしょう。

 翌12月7日。この日は僕の誕生日で,不惑といわれる年に達しました。もっとも,僕はこういう区切りにはかなり無頓着な方で,すべての日がそれまでの日々の続きにすぎないというように考えています。誕生日に限らず,年明けなどに新鮮な気持ちになる方は多いでしょうが,少なくとも学生時代から,僕にはとくにそうした感慨というようなものはありません。そもそも日付などというものが,人間が勝手に拵えたものにすぎないというような考え方だからです。
 妹は前日から1泊のショートステイでしたので,この日は作業所まで送り届ける必要はありません。そこでその時間を利用して,午前中にО眼科へ網膜症の検診に行くことにしました。前回が7月16日。О先生には4ヶ月くらい経たらまた来るように言われていましたので,本当ならば11月中に行っておかなければならなかったのですが,何分にも忙しくなってしまったため,どうしても行くことができなかったのです。実際のところ,たとえば眼底出血を起こしているから手術が必要で,入院しなければならないというような結果が出てしまいますと,それはそれでかなり困ってしまうという状況ではありましたが,かといって受けるべき検査を放置しておくというわけにもいきません。そういう意味では,この日の午前中というのはチャンスだったわけです。
 過去2回と同様に,視力検査,眼圧を調べ,散瞳しての検査。視力はほぼ変わらず,眼圧も相変わらず高めの数値ではありましたが正常の範囲内。そして網膜症の方も異常なしでした。
 この日は曇り空。そういう意味では網膜症の検査日和であったということはできます。散瞳しますとどうしても視界が悪くなるのですが,これは周囲がきらきらと光り輝くように見えますので,日が差していますと一段と見えにくくなってしまいます。この日も前回と同様に,眼鏡の上から装着するタイプのサングラスを持っていったわけですが,天候の方も味方してくれまして,それほどの不便は感じずにすみました。
 ついでなので買い物をしてから帰宅。この日も例によってО眼科はかなり混雑していましたが,正午を少し過ぎたくらいには帰ることができました。
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中山大障害&糖定性

2010-12-25 19:05:40 | 中央競馬
 暮れの風物詩のひとつ,第133回中山大障害
 発馬はあまりよくなかったものの,押していってマルカラスカルが先手を奪いました。途中でテイエムトッパズレに先頭を譲る場面もありましたが,基本的にはマルカラスカルの先導。障害競走にしてもかなりゆったり目のペースで,ほとんど一団で終始。途中の大障害でイコールパートナーが落馬,また最後の向正面コースではトウカイパートナーが競走を中止しました。
 マルカラスカルの逃げは3コーナーまでで,テイエムトッパズレが先頭に。タマモグレアー,メルシーエイタイム,マイネルネオスなどが追っていきましたが,直線に入るところではかなりのリード。しかし直線は脚が止まり,外をバシケーンが強襲。あっさり抜け出すかに思えましたが,並ばれたタマモグレアーがそこからひと踏ん張りしてゴールまで猛烈な競り合いに。写真判定に持ち込まれましたが差したバシケーンの優勝。タマモグレアーが2着で,3着にはマイネルネオス。
 優勝したバシケーンはこれが障害3勝目。すでに歴戦を重ねていましたので完全な伏兵。障害競走は既成勢力と新興勢力との端境期にあるので,波乱の結末は容易に予期できたものの,この馬の優勝には少しばかり驚きました。この後も安定して走れるかとなると甚だ疑問で,もう少しの間は混戦模様が続くことになるのだろうと思います。父は1997年の有馬記念を勝ったシルクジャスティス,1995年に中山大障害を勝ったフジノスラッガーは同じ一族です。たとえば石橋健という名の人がいて,そのニックネームがバシケーン。
 騎乗した蓑島靖典騎手,管理している高橋義博調教師はこれが大レース初勝利となりました。

 この日の検査結果で前回時と比べてはっきりとした変化があったのは糖定性で,-になっていました。つまりこの日は尿糖が出ていなかったということになります。これは何度もいっていることですが,尿糖の有無と体重には関係があるようです。しかし体重の方は僕自身の計測で48.5㎏でしたから,特別の変化はありませんでした。つまり増加に転じていたというわけではないのです。
 よく考えてみますと,尿糖の有無というのは,検査当日の昼に採取した尿で調べているわけです。ということは,そのときに尿糖が出ていなければこの日の検査結果のように-になるわけですが,だからといって常に尿糖が出ていないと結論付けることはできません。採尿したときだけはたまさか出ていなかったという可能性もあり得るからです。したがって,実際に尿糖が出ているのか出ていないのか,あるいは出ているとしたらどの程度なのかということは,本当はある程度,継続的に採尿して検査をしなければ分からないことなのかもしれません。どういう仕組みで尿糖が出るのかを僕は詳細に知っているわけではありませんが,血糖値と何らかの関係があるということは間違いがないところのようです。そういう意味ではこの日は血糖値の方が安定した値でしたから,尿糖が出ていなかったというのは当然のことであったのかもしれません。
 その他の検査結果は,これまでととくに変わるところはありませんでした。
 いつもならばこの後,会計を済ませて薬局に立ち寄るわけですが,この日は薬局には寄らずに先に磯子中央病院まで行って母の見舞いに。その後で薬局に戻りました。位置関係でいえば薬局はみなと赤十字病院と磯子中央病院の中間ですが,バスはみなと赤十字病院から磯子中央病院まで1本で行きますので,この方が合理的であったわけです。薬局でインスリンと針を受け取ったのがおそらく午後5時過ぎくらい。これから帰って夕食の支度というのは面倒ですから,近くのコンビニエンスストアで弁当とサラダを買って帰りました。したがってこの日は昼,夜とコンビニエンスストアのおにぎりと弁当になったわけです。ただ,僕はこういう場合には,自分の好きなものというより,表示されている熱量が僕の食餌療法に適したものを優先的に選択します。なので健康的であるとはいえませんが,血糖値だけでいうならば,むしろ安定するのです。
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トロットサンダー記念オーバルスプリント&配分再変更

2010-12-24 19:14:10 | 地方競馬
 今年最後の浦和競馬のメーンレースは昨日のオーバルスプリント
 外からバロズハートも行きかけましたが第1コーナーのコーナーワークでディアーウィッシュの逃げに。バロズハートを挟んでナイキマドリードが続き,さらに1頭おいてノースダンデー。最初の600mは35秒4。ミドルペースといっていいでしょう。
 3コーナーでは外からナイキマドリードが2番手に。ノースダンデーも3番手まで追い上げましたが,直線の入口では離され始め,あとは前2頭のマッチレース。しぶとく食い下がったディアーウィッシュをゴール前で交わしたナイキマドリードの優勝。ディアーウィッシュが2着で,4馬身差の3着には道中からかなりおっつけていたイーグルショウ。
 優勝したナイキマドリードはこれが南関東重賞初制覇となりますが,JBCスプリントで2着に食い込んだくらいですからむしろここでは力量上位。そういう意味では順当な勝利といえるでしょう。年が明けて5歳ですから,来年も活躍していくと思います。ただ距離はこれ以上伸びるとどうかなという気もします。
 騎乗した船橋の川島正太郎騎手は一昨年9月のアフター5スター賞以来の南関東重賞2勝目。管理しているのは父である船橋の川島正行調教師で,テレビ埼玉杯時代の2007年以来となるオーバルスプリント4勝目。

 検査の後,おにぎりとサラダを買って一旦は家に戻り,普段よりは遅めの昼食。診察に必要な荷物を揃えて再びみなと赤十字病院へ。これはいつもと同じですが,この日は診察の後は家に戻らず,そのまま見舞いに行くことにしましたので,そちらの用意もあり,いつもの通院のときよりはその分だけ多めの荷物でした。
 総合内科の受付で,この日は患者が多いので少し時間が遅れていると言われましたが,そんなに待たずに僕の番号が点灯し,診察が始まりました。
 ヘモグロビンA1cは7.0%。5月24日の通院のときからはこれくらいの値でずっと推移していることになります。数値だけでいえばもっと低くなった方がいいわけではありますが,これでも低血糖を発症することもあるわけですから,これ以上はインスリンの量を増やすということは危険も大きくできません。しかし数値は安定していますから減らす必要もない。ただ,前回の診察のとき,配分変更をしたのですが,今回もそれを行いました。
 前回,朝食前の注射量を増やし,昼食後の注射量を減らした結果,昼食前の血糖値はだいぶ安定してきましたが,夕食前はやはりそれ以前と比較すると高い数値が出ることも多くなりました。したがって朝食前の超速効型のインスリンであるヒューマログの量を減らし,昼食前のそれを増やすことになったのですが,これは前回とちょうど逆のことをするわけで,元に戻してしまうのでは意味がありません。ということで,前回は0.02mlの変更であったのが,今回は0.01mlの変更という調整になりました。この結果,翌12月7日からは,朝食後のヒューマログの注射量が0.11mlとなり,昼食後のヒューマログの注射量が0.07mlとなりました。
 僕が思うにこれは,母の異変による生活の一変も関係していたと思います。僕はそれまでは午前中は外には出ず,室内でパソコンに向かっているような日が多かったのですが,それが少し動くことが増えました。たとえば洗濯は午前中にしますが,前はそんなことはしていなかったのです。さらに妹を作業所まで送って行くとか,買い物をするとかいったことも,わりと午前中にこなすことが多かったのです。昼食前の血糖値が安定してきたのは,インスリンの量の変更もあったでしょうが,そうしたところにも理由があったのではないかと思うのです。
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名古屋グランプリ&低血糖発症

2010-12-23 19:07:34 | 地方競馬
 いいにくいことですがかなり貧弱なメンバー構成となってしまった感はぬぐえない第10回名古屋グランプリ(動画)。
 他馬を制するようにゲートを飛び出したマルカハンニバルの逃げ。ワンダースピードが2番手,クラキンコが3番手,マイネルアワグラスが4番手で,マカニビスティーとシビルウォーは後方よりの位置。超スローペースだったと思われます。
 ワンダースピードは2周目の向正面から前に並び掛けていきましたが,マルカハンニバルも3コーナー過ぎまで抵抗。ようやく競り落として先頭に立ったワンダースピードをマカニビスティーが急追。しかしきわどく残したワンダースピードが優勝。マカニビスティーが2着でシビルウォーが3着。
 優勝したワンダースピードは昨年の東海ステークス以来となる重賞5勝目。名古屋グランプリは一昨年も制していて2勝目。勝ち星から遠ざかっていたように,往年の力はもうないと思うのですが,ここは冒頭にも記したようなメンバーで,これなら勝負になったといったところ。したがって今後もあくまでもメンバー次第ということになるでしょう。重賞2勝のワンダーアキュートは弟。
 騎乗した小牧太騎手,管理している羽月友彦調教師も馬と同じく,2年ぶりの名古屋グランプリ2勝目です。

 妹の作業所からみなと赤十字病院までの3.5㎞ほどを歩いていくことにしたわけですが,その途中で,インスリン療法の副作用である低血糖症状が発生してしまいました。もっとも,このときは手ぶらでしたから,血糖値測定器は持っていませんでしたので,血糖値を実際に測ってみたというわけではありません。ですから確かに血糖値が低くなっていたということはできませんし,また,低くなっていたのだとしても,数値がどれくらいであったのかということも分かりません。ただ,低血糖になっている場合には,身体状態の変化というものがあり,僕の身体にそういう変化が生じたということです。
                         
 これはどちらかといえばⅡ型糖尿病の場合ですが,運動療法というのは糖尿病の治療のひとつです。そして運動をすればそれ自体で血糖値が低下するということは,Ⅰ型糖尿病であろうとⅡ型糖尿病であろうと,あるいは糖尿病患者でなかろうと同じことです。ウォーキングとか散歩とかは,とくにそのようなことを意図していなくても運動にはなるわけで,こういうときに血糖値が低下するということはあり得ます。とくに僕のようにインスリンを注射していますと,あらかじめその分のインスリンが体内に分泌されるということが決定されていますからなおさらです。こういうことは予期せぬときに起こる,というか必ず起こるということを最初から前提することはできません。ですから,僕はどんなときに症状が発生してもよいような準備というのはしています。このときも,手ぶらとはいえ飴玉は用意していましたのでそれを舐めました。また,途中にコンビニエンスストアもありましたから,そこで缶コーヒーを買い求め,休息してそれを飲み,最終的にみなと赤十字病院まで歩いたのです。
 それでもまだ検査には早い時間でしたので,ズボンのポケットに入れておいた『スピノザの世界』を読みつつ時間を潰しました。ほどなく12時になりましたので,事前の手続きを経て中央検査室へ。採尿の後に採血。この採血は,以前に失敗した技師にあたりましたので嫌な予感がしましたが,この日は問題なく終了。ちなみにこのときの血糖値は88㎎/㎗でした。糖分を摂取した上でのこの値ですから,やはり歩いている途中では,低血糖を発症していたのだろうと思います。
                         
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種正&距離関係

2010-12-22 18:49:23 | 血統
 全日本2歳優駿を制したビッグロマンスの輸入基礎繁殖牝馬は,1920年にイギリスで産まれた種正という馬。もちろん種正は日本名で,イギリス時代はYoung Man's Fancyでした。この頃は,輸入された牝馬に,日本名をつけるということもあったようです。輸入したのは当時の宮内省で,ファミリーナンバー5-h
                    
 1920年というと元号では大正9年。これは産まれた年ですが,少なくとも昭和元年には輸入されています。よって当然ながら多くの活躍馬が出ていまして,これを逐一あげていくというわけにはいきません。僕の競馬キャリアの中での大レースの勝ち馬ということになりますと,まず1989年に春の天皇賞,宝塚記念,有馬記念と大レースを3勝し,この年の年度代表馬に輝いたイナリワンが代表的な1頭。面白いことに同時期に別の馬も活躍していて,この1989年の安田記念に勝ち,翌年の1990年にもスプリンターズステークスを勝って,2年連続で最優秀スプリンターに選出されたバンブーメモリーもこの一族です。
 ビッグロマンスは系統でいうならこの2頭とは異なっていて,ホマレタカイの分枝。その曾孫のマックスフリートという馬は地方競馬の名牝で,ナリタホマレの姉,ビッグロマンスの祖母になります。ビッグロマンスは兄のサンライズマックスも重賞を3勝していますが,伯父,つまりマックスフリートの産駒には,重賞2勝のミラクルオペラもいます。
 おそらく,種正の分枝で現在は最も多くの活躍馬が出ているのがこのホマレタカイの分枝でしょう。マックスフリートを基点に,さらに活躍馬が現れるのかどうかというのも興味深いところです。

 これらそれぞれの区間の距離関係を少し説明しておきましょう。
 まず僕の家から磯子中央病院までは,おそらく2キロか,それを少し超えるくらいではないかと思います。妹の作業所は,方向としては真逆で,磯子中央病院よりは少しだけ遠いですが,3キロまではなく,2キロ半くらいだと思います。直線距離にすれば同じか,あるいは作業所の方が近いのかも分かりませんが,当然のことながら道路というのは直線のみでできているわけではなく,これは実際に歩いた場合の距離ということです。磯子区役所というのは僕の家からは磯子中央病院より先ですので,ここまで歩けば作業所と同じか,あるいはもう少し距離があるかと思います。
 一方,WINS横浜から自宅ということになりますと,様ざまなルートがあります。ただ,最短のルートを通っても,自宅から作業所や磯子中央病院よりは遠く,おそらく4キロまではいかないにしても,それに近いくらいはあると思います。雨の日などはバスで行ってバスで帰ってくるということもありますが,バスで行って歩いて帰ってくる場合は,帰りのバスの待ち時間の関係もありますので,歩く場合の方が10分程度時間が掛かるくらいです。
 妹の作業所からみなと赤十字病院ということになると,自宅から作業所までよりは遠く,しかしWINS横浜から自宅までほどはありません。なのでおそらく3キロ半くらいではないかと思います。これは昔から変わりませんが,僕は平均的には1キロを10分くらいで歩きます。信号の状況や上り下りなどで多少の誤差はあるにしても,これは30分では行かれないけれども,40分は掛からないくらいの位置。ただ,このあたりは基本的に埋立地ということもあり,坂はまったくありません。もっとも,坂がないのはここまで説明したどの区間でも同じこと。ただ,僕の家と妹の作業所の間には,山というほどではありませんが,小高い丘があり,道はこれを迂回するようになっているので,直線距離よりは少し長くなるわけです。その小高い丘の上にあるのが,僕が中学校の頃に陸上部の練習で通った旧根岸競馬場跡地の森林公園です。
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佐世保記念&運動不足

2010-12-20 18:57:07 | 競輪
 来年のベスト18はすでに決定済みですが,記念競輪はまだ残っていまして,昨日は佐世保記念の決勝(動画)でした。並びは鈴木に長塚-芦沢-阿部の関東勢,深谷-金子の愛知に筒井,中野には山口。
 前受けは中野。鈴木が中団,深谷が後方で周回。残り3周のバックで深谷が早くも上昇開始。これに鈴木が併せ,前に出させないまま中野を叩き,残り2周から早くも先行争いに。結果的に外の深谷が出きるも筒井は離れ,長塚は切り替えずに迎え入れられた鈴木が3番手に。後方になった中野がバックから捲ると,車間を開けていた金子が対応して番手発進。今度はスイッチした長塚が直線は外から金子を交わしましたが,開いたインを突いた阿部がよく伸びて優勝。長塚が2着で金子が3着。
 優勝した新潟の阿部康雄選手は2006年8月の久留米記念以来となる記念競輪6勝目。佐世保記念は2005年にも制していて2勝目。長らく優勝から遠ざかっていましたし,最盛期にも超一流というところまではいかなかった選手。ここは4番手と普通ならば優勝は考えられない位置だっただけに,僕としてもびっくりの優勝でした。コースには恵まれたものの,まだある程度の力は残っているというところをみせつけた優勝だったと思います。

 週が明けて12月6日は,僕の糖尿病のみなと赤十字病院の通院の日にあたっていました。
 これはすでに何度も説明していることですが,正午に中央検査室で検査をして,М先生の診察が午後3時から。診察の後は会計を済ませる必要があり,さらに通常のパターンでは帰途に薬局によって処方されたインスリンと注射針を受け取ります。処方箋というのは当日限り有効というわけではありませんから,これは別にパスすることもできるわけですが,それでも4時に作業所を出る妹が家に帰ってくるのには間に合わなくなる可能性も十分に考えられました。ということで,この日は事前に作業所の職員の方にお願いして,妹はショートステイを利用してもらうことにしました。それならば僕としても安心して診察を受けられますし,診察の後でそのまま母の見舞いに行くということも可能だからです。
 妹の作業所は,位置関係でいうならば,僕の家とみなと赤十字病院との間にあります。なので,妹を送った後,家に帰ってから再び病院に行くということになると,移動としては非常にばかばかしい。ということで,この日は妹を送ってしまったら,そのままみなと赤十字病院に直行することにしました。ただし,妹がショートステイなので,そのための荷物が多く,僕の荷物も持って行くのは大変ですから,いつものように,検査が終わったら一旦は帰宅し,昼食を自宅で摂ってから再び病院に向うという手順です。検査だけであれば手ぶらで可能ですので,いつも,検査に向う際には手ぶらで行っています。
 ただ,妹を送ってそのまま病院に行くとなると,さすがに時間的に早すぎます。で,この日は作業所から病院までは歩いていくということにしました。とくに母の異変が生じてから,僕も運動不足気味ですから,それを補おうという意図もありました。この運動不足に関しては,とくに11月に入ってからは僕自身もかなり気にかけていたことで,その後は,たとえば妹を作業所まで送って行ったら歩いて帰ってくるとか,母の見舞いに磯子中央病院まで行くのに歩いていくとか,とにかく何らかの方法で,天候が悪くならない限りは1日のうちに少しでも歩くようにしていましたので,その一環であったと考えてもらって構いません。
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朝日杯フューチュリティステークス&外出

2010-12-19 19:03:16 | 中央競馬
 2歳牡馬の芝のチャンピオン決定戦となる第62回朝日杯フューチュリティステークス
 過去3戦と同様にここもサダムパテックは出遅れ。中山の芝1600mは内枠有利でオースミイージーの逃げ。シゲルソウサイが2番手で,その後ろは大渋滞。グランプリボスは中団の内に入り,サダムパテックは向正面ではかなり掛かって上昇していきました。前半の800mは46秒6でミドルペース。
 直線は最内に進路を取ったリアルインパクト,逃げ馬の外に出たリベルタス,そして終始外を回ったサダムパテックの叩き合い。しかしこれを徐々に外に持ち出したグランプリボスが一桁上の末脚で捕えて優勝。最内のリアルインパクトが2着でリベルタスが3着。人気のサダムパテックは4着で,一番外から追い込んだ5着のリフトザウイングスまでは差のない入線。
 優勝したグランプリボスは前走で前哨戦のひとつ,京王杯2歳ステークスを勝っていた馬。その前のデイリー杯2歳ステークスは負けていて,父がサクラバクシンオーということもあり,距離延長はひとつの課題であったと思います。そういう意味でいえば,11番という外目の枠ながら,うまく内に入れた騎手の手綱捌きが見事であったということになるのではないでしょうか。
 騎乗したイタリアのミルコ・デムーロ騎手は一昨年のジャパンカップ以来となる日本での大レース制覇。朝日杯フューチュリティステークスは初勝利。管理している矢作芳人調教師は大レースは何度も2着で辛酸をなめてきましたが,ついに待望の初勝利になりました。

 翌12月2日に,妹を作業所まで送った後,再び薬局に行き,取り寄せてもらったを受け取りました。
 一方,の方ですが,リハビリ病棟に移動した後,リハビリの時間が変更になりました。それまで2階にいたときは午後2時からだったのが,午前中が中心に。このために,面会時間内であればいつでも母に会うことができるようになりましたので,僕としてもあまり時間を考えずに見舞いに行かれるようになりました。また,病室の関係から母はすぐに別室に移動となったわけですが,この頃には歩行器を必要とはしなくなりました。つまり自分自身の脚だけで歩けるというところまで回復してきたわけです。10月11日の入院当初,そしてその後もしばらくの間は寝返りをうつことすらままならなかったわけですから,それを考えればよくここまで回復してきたものだと感心させられます。
 ここまできますと,今度はリハビリもより高度なものになってきます。そのひとつが,常に病院内の施設で行っていたリハビリを,外で行うということです。実際,リハビリ施設の中,あるいは病院の中を歩くということと,表を歩くということでは,大きな相違があるのです。というか,僕はあまり気付いていなかったのですが,実は相違があったのです。
 母は病院では業者の服,要するに寝間着ですが,それを借りていました。しかし病院の外に出て歩くということになれば,それで出ていくわけにはいきません。何より,病院の中というのは温度も保たれていますからその格好でもあまり問題ありませんが,季節的に外は寒いわけです。ということで,こうしたリハビリが開始されるのに合わせ,外出用の衣服というのも必要になりましたので,持って行きました。
 母によると,外に出ることでまず問題となったのは2点ありました。ひとつはたとえば自動車など,ある程度のスピードで動く物体を見ていると,目眩がしてくるということで,もうひとつが,坂道を下るとやはり同様に目眩がしてくるという点でした。普通に外出する以上,そうしたものと出会うということは避けようがありません。よってまず外出によるリハビリは,そうしたものに対しても身体を慣らしていくということから始まったのです。
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タイムパラドックス&歯科

2010-12-18 16:50:44 | 名馬
 残念ながら水曜の全日本2歳優駿は回避となってしまいましたが,先月のハイセイコー記念をかなり強い内容で勝ったセルサス。父はタイムパラドックスです。
 デビューからダートで連勝。しかしその後は勝ちあぐね,5歳の11月にようやくオープンで初勝利,6歳1月の平安ステークスで初重賞制覇となった奥手の馬。さらにアンタレスステークス,ブリーダーズゴールドカップ,白山大賞典と勝ち,ジャパンカップダートでついに大レースを制覇しました。東京大賞典は4着でしたが,翌年の川崎記念で大レース2勝目。そこからの4戦は入着どまりも帝王賞で大レース3勝目。2着,3着ときてJBCクラシックを制覇。ジャパンカップダート,東京大賞典はやはり入着でしたが,この年のNARグランプリでは特別表彰馬に選出されています。
 8歳の翌年も現役続行。これまで,負けても掲示板を確保していたのが,掲示板を外すこともあり,また勝利は上げられず,衰えを見せていたのですが,JBCクラシックでは見事に連覇を達成,大レース5勝をあげ,このレースを最後に引退となりました。
 無敵の強さを見せたというわけではなく,超一流馬というよりは普通の一流馬。種牡馬となっても配合相手に恵まれたわけではないのに,いきなりこれだけの馬を出したのは驚異的。タイムパラドックスの成績から考えても,セルサスが早熟タイプの馬であるとはあまり考えにくく,大事に使われていけば,息長く活躍できるのではないかと思います。

 この12月1日は,妹の歯科の予約も入っていました。時間は午後2時半。とはいえ歯科はみなと赤十字病院ですから,こども医療センターと比べれば移動というのはぐんと楽。時間は1時間も違っても,前日と同様に午後2時に作業所に妹を迎えに行くことにして,先に見舞いを済ませました。
 妹は家で僕に歯が痛いと訴えることはありませんし,食事のときなどにも痛がる素振りというのは見せません。作業所の職員の方々とは連絡帳で日々の様子などを書き綴って様子を確認し合っていますが,これは作業所での昼食のときにも同じようです。しかし歯科に行きますと,医師には必ず歯が痛いと言いますので僕としてはやや戸惑います。ただ,痛みを訴える箇所というのはきまって左上ですので,痛みを感じていることには間違いないのでしょう。しかし,この日もその部分の歯周病に関しては治療は行わず,もう少し様子を見るという結論に達しました。
 実はこれにはひとつ理由があります。妹が痛みを訴えている該当部分は,被せものがしてあるのです。したがって,もしもその部分の本格的治療に入りますと,その被せものを外さなければならないというようなケースも考えられ,これは大変。もちろん通常の患者であればそうでもないかもしれませんが,妹は重度知的障害ですから,医師の負担というのはいくらか,あるいはかなり重くなるのです。そういうわけで,医師の方としても,現時点のように,仮に痛みがあるのだとしても,日常的な生活にそれ以上の問題がなければ,そのままにしておきたいという気持ちがあるのです。
 ということで,この日は歯科衛生士が上の歯の歯石を除去するだけで治療は終了しました。妹は歯科も当初はこども医療センターに通っていて,被せものなどはそちらでやりました。ただ,歯科は継続的なデータを必要とはしませんので,年齢的な問題から別の病院に行かなければならないことになり,みなと赤十字病院に通うようになりました。後に母から聞いた話ですが,妹を担当していたこの歯科衛生士というのは,かつてこども医療センターで従事していたことがあり,その頃から妹のことを知っていたようです。この方が産休に入るということで,次回からは担当が変わります。次の予約というのは来年の1月26日になっています。
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全日本2歳優駿&薬

2010-12-16 19:56:26 | 地方競馬
 今年最後の川崎競馬はセミナイター。開催メーンとなる昨日の全日本2歳優駿も,発走は午後7時でした。
                         
 トウショウクラウンとカネマサコンコルドは出遅れ。スピード能力に勝ると思われたリアライズノユメが逃げると考えていましたが,距離を考慮してか3番手に控えました。ごく自然に最内のエルウェーオージャが逃げて,2番手も2番枠のリョウウン。さらにキスミープリンス,ビッグロマンスと,枠順通りの並びに。ガムランはこれらの後ろにいましたが,コーナーで外を回ったために,向正面に入るところでは位置取りを下げました。前半の800mは51秒0でスローペース。
 この結果,位置取りが明暗を分けることに。前の2頭は力不足で早めに後退。直線ではリアライズノユメが一旦は先頭でしたが,外からビッグロマンスがこれを交わして優勝。リアライズノユメが2着。外から追い上げたガムランが一旦は3番手に上がったように見えましたが,内から差し返したキスミープリンスが3着。
 優勝したビッグロマンスは芝の新馬を負けた後,ダートで連勝し,北海道2歳優駿は2着。ただ,外を回ってのもので,内容的には勝ちに等しいもの。ここはその力を発揮してのものですが,現状はこのくらいの距離に適性があり,距離延長はマイナスに作用するのかもしれません。父はグラスワンダー,母系は多くの活躍馬がいて,兄に重賞2勝のサンライズマックス,大レースの勝ち馬だと祖母の弟にダービーグランプリを勝ったナリタホマレ
 騎乗した田中勝春騎手は2007年のシンガポール航空国際カップ以来の大レース制覇,全日本2歳優駿は2005年以来の3勝目。管理している河野通文[みちふみ]調教師は2005年の安田記念以来の大レース制覇で全日本2歳優駿初勝利。

 医療費はこども医療センターでも無料ですが,手続きはあります。また前にもいったようにここでは処方箋が出ますから,そちらの処理などもあり,いくらか待たされましたが,6時過ぎには帰宅することができました。ただ夕食は必然的に店屋物に。
 翌12月1日,妹を作業所まで送った後で,僕がいつもインスリンなどを処方してもらっている薬局に出向き,妹の処方箋を提出しました。妹が飲んでいる薬は以下の3種類。効能は基本的にいずれも抗癲癇剤。要するに痙攣発作を抑制するものです。
 まず,デグレトール錠100g。これは朝食後に3錠,夕食後に4錠。この薬はほかに鎮痛効果と,精神安定剤,興奮を鎮めるとか,躁状態を抑制するとかいった効果もあるようです。なお,この薬は,グレープフルーツジュース,および西洋オトギリソウを含有している食品と同時に摂取してはいけないことになっています。
 次にデパケンR錠200㎎。これは朝食後と夕食後に2錠ずつ。こちらも精神状態を安定させるという効果があるようです。
 最後がマイスタン錠5㎎。これは夕食後のみ2錠です。
 似たような薬を合わせて飲んでいるのには理由がきちんとあり,これらの薬物は同時に摂取することによって相互作用を生じさせるのです。つまりあらかじめそうした相互作用を効能として考慮した上で,これらの薬物と,摂取するべき量とが決められているのだと考えてください。なお,デグレトールとマイスタンは,アルコールと同時に摂取することは禁じられていますが,妹は現在の僕と同様,飲酒はしませんのであまり関係がありません。
 この日,薬局にはマイスタンの5㎎はなく,10㎎がありました。よって,それを1錠飲むように処方するかと尋ねられましたが,もちろん断りました。2×5が10であるということは,妹には簡単に理解できることではありません。服用するべき量が変更になった場合は仕方ありませんが,今まで2錠飲んでいたのであれば,これからも2錠飲む方が間違いが起こる可能性が低く安全です。ということで取り寄せを依頼しましたので,この日のうちには入手できませんでした。
 こども医療センターの診察は3ヶ月に1度。よって薬は90日分。これだけの量でどれだけの値段になるのかという話ですが,妹は薬も無料なのです。
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竜王戦&モルモット

2010-12-15 19:23:19 | 将棋
 渡辺明竜王の防衛か,それとも羽生善治名人が第七局まで持ち込むか。第23期竜王戦七番勝負第六局。
 羽生名人の先手で角換り相腰掛銀。ただ渡辺竜王の△3三銀がかなり早かったので同型にはならず,後手が6筋の位を取る形。じりじりするような手待ちから先手が4筋から仕掛け,角を打ちました。これを境に端は詰められたもののほぼ先手が一方的に攻め,それを後手が凌いでいくという展開に。渡辺竜王の将棋の特徴に,細そうな攻めをうまくつないで攻めきるというのがありますが,逆にこの将棋のように,相手の攻めをきわどいところで交わしていくという技術もまた,特筆に値するものではないかと思います。とくに第1図で△1四金と上がった手は,僕の印象に強く残りました。
                         
 それでも最後まで受けきって勝つというのではなく,どこかで攻め合いを目指すのも渡辺流で,これは渡辺竜王の将棋の大きな魅力のひとつ。
                         
 これは3六の地点で金銀交換がなされたところ。△4五銀と受ける手も考えられた局面ですが,△4七歩成と踏み込み,ここからは攻め合って勝つ順を目指しました。もちろんこの局面はかなりきわどく,まだどちらの勝ちとはっきりいえるような状況ではありません。しかしこの将棋の勝因は,ここでの踏み込みにあったのではないかと思います。以下,ぎりぎりの攻め合いを制した後手の勝ちとなりました。
 渡辺竜王が4勝2敗として竜王七連覇。相変わらず竜王戦では群を抜く強さをみせつけています。これをストップするのは,もしかしたら竜王よりも若い世代の棋士ということになるのかもしれません。
                         

 の戸籍謄本というのは計4枚あったこともあり,思っていた以上の収入印紙が必要となりましたが,無事に入手することはできました。ただ,後に信用金庫の方から送られてきた資料を熟読してみると,まだこれだけでは足りない書類がありましたので,相続の手続きに関してはすぐには終りませんでした。というか,今日の時点でも終っていません。しかしこれについてはまた時系列で後に説明していくこととします。
 翌30日は妹に病院の予約が入っていました。これは南区の六ッ川というところにある県立のこども医療センター。これまではが車で連れて行っていたわけですが,非常に交通の便が悪いところにありまして,運転ができない僕にとって移動は大変でした。予約は午後3時半からでしたが,早いうちに母の見舞いを済ませ,作業所に妹を迎えに行ったのは午後2時。バスでの移動になりますが,あまり多くの乗り換えは妹に大きな負担をかけますので,多少の遠回りを覚悟で,1度の乗り換えで行かれるように計画しました。そのためにこんな時間に。病院に到着したのは予約時間前の3時15分頃でしたが,実際に診察が始まったのは4時を回っていました。
 診療科は遺伝科。妹については詳しい説明をしていませんが,僕より6つ年下。僕の生年月日は前にも説明した通りで,1週間ほど前に40になりましたので,妹は34歳。34歳でこども医療センターというのも本来はおかしいのですが,ダウン症患者というのは症例が少ないので,先方としても継続的に診察していきたいわけです。要するにモルモット的な役割を帯びているわけですが,こうした診療が医学の進歩に少しでも役立つのであればむしろ喜んでそうした役回りを受け入れたいところです。
 この日は診察といっても,医師から話があるだけでした。妹が飲んでいる薬についてはまた後で詳細を記しますが,それはここで出ています。したがって最も重要なのは妹に癲癇の発作が生じたか否かですが,ここのところはずっと安定していましたので,こうした内容に。もちろん過去には脳波の検査などをしたこともありました。日々の生活などについても尋ねられ,前回の診察で父の死は医師も知っていましたので,僕からは母の入院についての話をしました。
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