10日と11日に小樽で指された第36期竜王戦七番勝負第四局。
藤井聡太竜王の先手で角換わり相腰掛銀。後手の伊藤匠七段が右玉模様に組み替えました。
駒損している後手の手番で,攻めるところ。攻めの方針が問われる局面です。
☖6七銀☗6九金に☖2九飛と打っていきました。これは8五の拠点を生かして8六に駒を打って攻めていこうという方針。実際にそういう手順に進んだのですが,先手の反撃の方が速度で上回りました。
第1図では☖8六歩と突き捨て,☗同銀は☖6八飛と打たれてしまうので☗同金の一手で,そこで☖6七銀と打っていく手順もありました。これは拠点を失うものの8五に桂馬を跳ねたり打ったりできるようにする指し方。こちらを選べば実戦のように攻めで速度負けすることはなかったようで,後手はこちらの方針を選択するべきだったようです。
4連勝で藤井竜王が防衛。第34期,35期からの三連覇で三期目の竜王です。
この世界で悪いことが起こったとしても,それは全体の調和の中では致し方ないことで,あり得るすべての世界のうちでは現にあるこの世界が最善であるというのが,モナド論が基本的な結論とするところです。こういえば,現にあるこの世界は最善の世界であるということになりますから,そのことによって神Deusが反撥を受けたり憎まれたりすることはないでしょう。あるいはそういうことがあったとしても,それを軽減はできるでしょう。こうした願望のためにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのモナド論は生まれているとみることができます。なのでこの場合のライプニッツの願望は,ライプニッツの個人的な立場というより,宮廷で仕事をしていたライプニッツの立場から生じた願望であるとみることができるでしょう。
ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelやライプニッツより,もっと露骨に願望を表出しているのがヤコービFriedrich Heinrich Jaobiであるということができます。何しろライプニッツにせよヘーゲルにせよ,たとえ自身の思想が自身の願望の表出であったと仮定しても,スピノザの哲学に論理的な欠陥があるとみなしていたのは事実なので,純粋に論理的に考えただけでも,スピノザの哲学を否定するnegareことはできたのですが,ヤコービはスピノザの哲学が論理的には完璧であるということについてはそれを肯定していたからです。論理的に完璧であるものを否定するために,論理を超越したものに訴えるというヤコービの方法は,現にあるこの世界が,スピノザが完璧な論理で示した世界であってほしくないという願望の表出であったとしか僕には考えられないのです。
ヤコービが神学を支持する観点に立っていたのは間違いありません。汎神論論争ではそのこと自体が議論のひとつを構成していて,スピノザの哲学が反キリスト教的であるというヤコービに対して,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheはスピノザこそキリスト者なのだという主旨の反論をしています。キリスト教的である,あるいは神学に合致するということをヤコービがどう考えていて,スピノザの思想のどこが具体的にそれに反しているとヤコービが考えていたのかはいまひとつ不分明なのですが,ヤコービが世界が神学的なものであってほしいと思っていたのは間違いないと思います。
藤井聡太竜王の先手で角換わり相腰掛銀。後手の伊藤匠七段が右玉模様に組み替えました。
駒損している後手の手番で,攻めるところ。攻めの方針が問われる局面です。
☖6七銀☗6九金に☖2九飛と打っていきました。これは8五の拠点を生かして8六に駒を打って攻めていこうという方針。実際にそういう手順に進んだのですが,先手の反撃の方が速度で上回りました。
第1図では☖8六歩と突き捨て,☗同銀は☖6八飛と打たれてしまうので☗同金の一手で,そこで☖6七銀と打っていく手順もありました。これは拠点を失うものの8五に桂馬を跳ねたり打ったりできるようにする指し方。こちらを選べば実戦のように攻めで速度負けすることはなかったようで,後手はこちらの方針を選択するべきだったようです。
4連勝で藤井竜王が防衛。第34期,35期からの三連覇で三期目の竜王です。
この世界で悪いことが起こったとしても,それは全体の調和の中では致し方ないことで,あり得るすべての世界のうちでは現にあるこの世界が最善であるというのが,モナド論が基本的な結論とするところです。こういえば,現にあるこの世界は最善の世界であるということになりますから,そのことによって神Deusが反撥を受けたり憎まれたりすることはないでしょう。あるいはそういうことがあったとしても,それを軽減はできるでしょう。こうした願望のためにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのモナド論は生まれているとみることができます。なのでこの場合のライプニッツの願望は,ライプニッツの個人的な立場というより,宮廷で仕事をしていたライプニッツの立場から生じた願望であるとみることができるでしょう。
ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelやライプニッツより,もっと露骨に願望を表出しているのがヤコービFriedrich Heinrich Jaobiであるということができます。何しろライプニッツにせよヘーゲルにせよ,たとえ自身の思想が自身の願望の表出であったと仮定しても,スピノザの哲学に論理的な欠陥があるとみなしていたのは事実なので,純粋に論理的に考えただけでも,スピノザの哲学を否定するnegareことはできたのですが,ヤコービはスピノザの哲学が論理的には完璧であるということについてはそれを肯定していたからです。論理的に完璧であるものを否定するために,論理を超越したものに訴えるというヤコービの方法は,現にあるこの世界が,スピノザが完璧な論理で示した世界であってほしくないという願望の表出であったとしか僕には考えられないのです。
ヤコービが神学を支持する観点に立っていたのは間違いありません。汎神論論争ではそのこと自体が議論のひとつを構成していて,スピノザの哲学が反キリスト教的であるというヤコービに対して,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheはスピノザこそキリスト者なのだという主旨の反論をしています。キリスト教的である,あるいは神学に合致するということをヤコービがどう考えていて,スピノザの思想のどこが具体的にそれに反しているとヤコービが考えていたのかはいまひとつ不分明なのですが,ヤコービが世界が神学的なものであってほしいと思っていたのは間違いないと思います。