スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

共同通信社杯&痛み

2015-04-30 19:27:14 | 競輪
 防府競輪場で行われた昨日の第31回共同通信社杯の決勝。並びは新田-山崎-大槻の北日本,山田-稲垣の京都に神山,原田-渡部の四国に萩原。
 前受けはスタートを取った新田。4番手に山田,7番手に原田で周回。原田は残り3周のホームから上昇。これに山田が対応。バックでは内の山田と外の原田が併走で新田を叩き,もがき合いに。制したのは山田。インを上昇した新田がうまく4番手に入ったものの,山崎は追えず,バックでは5番手に原田,8番手に山崎の一列棒状に。打鐘で山崎が追い上げを開始。待っていた新田がホームで発進し,再連結。稲垣がホームの出口で番手発進。新田はバックで追いついたものの稲垣が抵抗。コーナーで稲垣自身が新田を牽制したため開いた進路を神山が踏み,そのまま抜けて優勝。稲垣の抵抗をかいくぐった新田が4分の1車輪差で2着。稲垣が半車身差の3着。
                         
 優勝した栃木の神山雄一郎選手は昨年12月の広島記念以来の優勝。ビッグは2011年7月のサマーナイトフェスティバル以来で通算26勝目。制度が変わっていますが共同通信社杯は1993年に広島で初優勝。1997年の花月園,1998年の久留米,2001年の取手,2002年の宇都宮でも優勝していて13年ぶりの6勝目。防府はビッグの開催がほとんどないので,当地でのビッグは初優勝。1992年に記念競輪での優勝があります。このレースは,新田の動きがポイントだったと思います。4番手を取ったのは位置取りとしては的確だったかもしれませんが,武器はスピードなので,レースの中で脚を使うのは1度にする方が持ち味が生きるのではではないでしょうか。並んだところで稲垣に激しく抵抗されたのには、その影響があったように思えます。また,再ドッキングできたとはいえ,一旦は山崎が離れてしまったのも新田には誤算だった筈で,自力選手なので仕方がない面があるとはいえ,山崎にももう少し追走の技術は必要かと思います。稲垣の牽制でコースができたのは神山にとっては幸運というほかありませんが,47歳でビッグを勝つというのは本当に立派なことだと感服します。

 人間が受動状態にあるとき,その現実的本性は第三部諸感情の定義一にあるように,欲望として規定されます。僕たちが自分の身体の「中に起こること」を認識するとき,それは概念conceptusではなく知覚perceptioです。つまり僕たちは受動状態にあることになります。ですから人間の現実的本性に変化が生じるということは,第一には欲望に変化が生じることであるということになります。したがって,そうした欲望の変化を認識することによって,自身の身体および精神の現実的本性の変化を認識することは,現実的に存在する人間には起こり得るということになります。ただし,大抵の場合は,このような様式でそれが認識されるわけではないと僕は考えています。
 スピノザの哲学において,実在性すなわち第二部定義六により完全性は,という観点から把握される限りでの本性です。ですから,人間の現実的本性に変化が生じるときには,大概の場合は完全性の移行も同時的に生じることになります。第三部諸感情の定義二と三により,もしそれがより小なる完全性から大なる完全性への移行なら喜びが生じ,より大なる完全性からより小なる完全性への移行であるなら悲しみが生じます。僕たちは現実的本性の移行を,むしろこちらの様式で認識することがほとんどだと思います。ここで認識するというのは,意識する,すなわち観念の観念が発生するという意味です。
 痛みというのは,即物的に考えるならば,人間の身体がより大なる完全性からより小なる完全性に移行することだと僕は考えます。同様に,認識されるような感覚として考えるなら,人間の精神がより大なる完全性からより小なる完全性に移行することだと考えます。つまり僕は痛みを悲しみの一種として考えるのです。
                         
 ただし,これは一般論です。たとえば『地下室の手記』では,歯の痛みも快楽のひとつとなり得るという意味のことが書かれていて,実際にそうしたことがあり得るということ,もう少し一般的にある痛みが痛みを感じる人間の快楽になり得るということは僕も認めます。この場合には,僕は痛みをより小なる完全性からより大なる完全性への移行として,すなわち喜びとして考えます。
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しらさぎ賞&両立の実例

2015-04-29 19:09:13 | 地方競馬
 笠松から1頭,高知から1頭が遠征してきた第53回しらさぎ賞
 オキナワレッドの逃げも考えられるところでしたが,さすがにこのメンバーではスピード能力が劣っていたよう。ノットオーソリティの逃げとなり,エールドランジュが2番手。ケンブリッジナイスが3番手で,最初はケンブリッジナイスと並んでいたシャークファングは2コーナー付近から遅れだして4番手。この後ろは2馬身ほど開き,5番手のマーチャンテイマー以下,残りの各馬が集団での追走に。最初の600mは36秒2のハイペース。
 ノットオーソリティのスピードについていけたのはケンブリッジナイスだけで,直線の入口では内から単独の2番手に。5番手以下の集団から追い上げてきたのはマーチャンテイマー,クラカルメン,トーセンベニザクラの3頭でしたが,マーチャンテイマーは直線入口でギブアップ。ノットオーソリティは最後まで詰め寄られることなく1馬身半差で逃げ切って優勝。追ったケンブリッジナイスが2着を確保。外のクラカルメンと並んで伸びたトーセンベニザクラがアタマ差まで迫って3着。
 優勝したノットオーソリティは年末の東京シンデレラマイル以来の実戦。南関東重賞3連勝で通算4勝目。初対戦のマーチャンテイマー以外の馬よりは能力上位であることが歴然。マーチャンテイーマーはコースか距離かで力通りに走れなかった感があります。したがってコースや距離適性で上回っての優勝でしょう。高い能力があるのは間違いなく,メンバー次第で重賞にも手が届く馬だと思います。母の半弟に2006年のジャパンダートダービーを勝ったフレンドシップ
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手は1月のニューイヤーカップ以来の南関東重賞制覇でしらさぎ賞は初勝利。管理している船橋の川島正一調教師もしらさぎ賞初勝利。

 僕の歯茎の傷の一件は,第二部定理一二の実例として適当である可能性があります。
                         
 僕の歯茎に傷ができることは,普通に考えたら,僕の身体の「中に起こること」に該当します。ですから第二部定理一二の新しい意味により,僕はそれを知覚することになります。この場合,僕はその傷が発生する原因を十全に認識できませんから,ここでいう知覚というのは,スピノザの哲学で概念と知覚を明瞭に分節した場合の知覚,すなわち混乱した認識あるいは表象を意味することになります。
 しかし,実際には僕はそれを知覚することはありませんでした。この日に歯科検診に行ったからそれを知ることができたのであり,そうでなければその傷は僕が知るところとはならなかったでしょう。
 では第二部定理一二が誤っていることを主張しているのかといえば,そうではないのです。実際にはこの歯茎の傷が,僕の身体の中に起こることではなかったということなのです。いい換えれば,それは僕の身体の全体の本性ないしは形相に変化をもたらすような運動ではなかったということなのです。要するにこのときの傷は,中に起こったこととして考えるなら,僕の歯茎という,身体を構成する部分の中だけで生じたことなのであり,身体の中に起こったことではないということなのです。だからそれは僕に知覚されることはなかったのです。
 人間の精神が,自分の身体の中に起こることのすべてを認識するということと,人間の身体を構成する部分には,その人間の精神によって知覚されないことが現実的に発生するということは両立します。僕はこの定理をこのように理解することによって,ブログを開設する契機となったこの定理に含まれていると思っていた難題のひとつを解決しました。まさにそれが両立するということの実例が,このときの僕の歯茎にできた傷であったといえるのではないでしょうか。
 逆に,母は歯に痛みを感じていました。いい換えれば何らかの事柄を知覚していたことになります。おそらくそれは,単に母の身体を構成する部分の中に起こっただけでなく,母の身体の現実的本性に変化をもたらすような運動であったからでしょう。
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先生と呼ぶ理由&歯茎の傷

2015-04-28 19:25:35 | 歌・小説
 私は先生がKを頭文字で表現したことに批判的だと考えられます。一方,だから私は先生を本名で表現するわけでなく,先生と記しています。私にとってそれが自然であるというのがその理由になっています。
 私が先生と初めて関係をもつのは上三。先生が落とした眼鏡を拾う場面です。その翌日には一緒に泳ぎます。そして3日後,先生に,まだ鎌倉に長くいるつもりかと尋ねられて返答した後,「先生は」と聞き返します。これが最初に私が先生を呼ぶ場面。つまり私は最初から先生と呼び掛けていることになります。その晩,先生が宿泊している別荘を訪れたとき,先生と呼ばれることに苦笑するので,年長者に対する口癖だといって言い訳したとあります。
                         
 これは虚偽の混じった記述で,私には先生と呼ぶ確たる理由があったのだという見解を,石原千秋が『『こころ』大人になれなかった先生』という著書で示しています。確かに口癖であったのかもしれませんが,冒頭でその人を想起すると先生といいたくなるという主旨のことを私はいっていて,先生ということばに特別の意味があったとも理解できます。ですからいきなり先生と呼んだのに,何か別の理由があったというのは,読解としては成立するように僕は思います。
 私が先生に注目したのは,先生が西洋人を連れていたからでした。これは端的に,先生は英語を話すことができるという意味です。私はこのとき,高等学校の生徒でした。石原の説明だと,当時の高等学校に進学したのはおよそ250人にひとりといいますから,私はエリートだったことになります。そういうエリートにとって,西洋人は特別の存在であり得たと石原は指摘しています。というのはこの当時の学問は,外国語の習得が前提となっていたからです。
 要するに,エリートであった私には,西洋人を連れている先生もまたエリートであるに違いないと,容易に見破ることができたわけです。この当時の私にどの程度の語学力があったかは分かりませんが,会話は困難だったと仮定することは可能で,そうであるなら,先生に尊敬の念を抱いたとしても,不思議ではないでしょう。
 石原の読解が正しいかどうかは分かりません。ただ明らかに可能な読解であるとは思います。

 それではまた糖尿病共生記です。前回は昨年の11月初め,叔父が怪我で救急搬送されたところで終っていますから,そこから続けていきます。
 11月3日,月曜日。妹のピアノレッスン。月曜日ですがこの日は文化の日で祝日ですから,午後2時からでした。僕はこの日は日吉に行っていまして,帰ったのは午後4時40分頃。そのときにはレッスンは終了していましたし先生も帰った後でした。
 11月4日,火曜日。午前中に根岸駅に行く所用があり,ついでにI歯科に寄って,予約を入れてきました。
 11月5日,水曜日。母がI歯科に。予約は午前11時半。これはクリーニングのためなのですが,歯を磨くときに左下の奥歯に痛みを感じるようになっていたので,そのことも医師に伝えました。レントゲンで撮影し,抜歯した方がよいとのことになり,後日またそのために通院することになりました。僕はこの日は川崎。帰ったのは午後5時半頃。
 11月8日,土曜日。妹が通っている施設の近くでポレポレまつりというのがありました。妹の作業所も出店することになり,母とふたりで行きました。これは土曜出勤の扱いではありません。ふたりは午後2時前には帰ってきました。
 11月9日,日曜日。母と妹は美容院へ。午後1時の予約で帰ったのは午後3時20分頃。これは通常と比べると早めです。
 11月10日,月曜日。4日の午前中に予約を入れておいた歯科検診に。予約は午前11時半。右上の奥の裏側の歯茎に傷があるといわれました。何の痛みも感じていませんでしたから,大した傷ではなかったろうと思います。薬を塗るなどの処置もなく,1日か2日もすれば自然に治るだろうと言われました。はっきり分かりませんけど,このいい方からすると,傷はこの日の朝についたものであったのかもしれません。実際に何の問題も生じませんでした。僕は痛みを感じていたわけではありませんから,治ったというような感覚もありません。僕の知覚でいえば,何もなかったということになります。この日にI歯科に行かなければ,何も知ることはなかったでしょう。帰宅したのは午後12時45分頃。昼食を済ませて長者町へ。
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第三部定理四〇&ライプニッツ主義の神

2015-04-27 19:32:32 | 哲学
 漱石の被害妄想が原因となり,漱石の周囲では憎しみodiumの連鎖が発生したであろうと僕は推測しました。この推測は哲学的見解です。見解の根拠になるのは第三部定理四〇です。
 「自分が他人から憎まれていると表象し,しかも自分は憎まれる何の原因もその人に与えなかったと信ずる者は,その人を憎み返すであろう」。
 『エチカ』の全体の中では,この定理Propositioは第三部定理四三といくらかの関係を有します。この定理の直後の備考Scholiumでスピノザが述べているように,もしも確かに他人の憎しみの原因となり得ることを自分が与えたと信じるなら,人は第三部諸感情の定義三一で示されている恥辱pudorという悲しみtristitiaを感じるでしょうが,そういうことは稀にしか起こらないからです。いい換えればそれは例外的といえます。よってある人間に対する憎しみはその人間の自分に対する憎しみを産み,その憎しみによって自分はさらにその相手を憎むという憎しみの無限連鎖が発生します。その連鎖を断ち切りたいならば,自分を憎んでいる相手を愛するほかないという帰結になります。
                         
 漱石の妄想は,相手が自分を憎んでいるということを含んでいます。しかしそれは妄想なのであって,相手は実際に漱石を憎んでいたわけではありません。このあたりのことは漱石自身が日記に記していることを,公平な観点から一読すれば一目瞭然といえます。なのでその妄想によって漱石に憎まれていると表象したならば,その相手は当然ながら自分が漱石が自分を憎む原因を与えたなどとは考えません。したがって妄想に端を発する漱石の憎しみによって,漱石を憎むようになるでしょう。とくに漱石の被害妄想による憎み返しは,漱石の行動を伴うようなものでしたから,こうしたことは容易に発生したであろうと推測できるのです。
 これはだれが正しいとか悪いとかいう問題ではありません。受動passioを免れ得ない人間の現実的本性actualis essentiaがそのようになっているというだけのことです。こうした受動の連鎖から逃れるために,能動actioが必要とされるのです。

 デカルトの場合はどうでしょうか。
 デカルトはスピノザと異なり,物体的実体substantia corporeaを神Deusと別の実体と規定します。また神を絶対に無限absolute infinitumであると規定しません。あるいは無限に多くの属性attributumが実在すると規定しません。よってデカルト哲学における神は,思惟的実体とほぼ同じ意味に解せます。僕はこの点はライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizもスピノザよりデカルトに近いのではないかと思えるのですが,そこには注目しないことにしましょう。
 思惟的実体であるなら,全知であることはほとんど必須の条件であるといえるでしょう。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部定理九では,神は全知であるといわれています。そしてそれは,デカルトの神の定義Definitio,神は最高に完全な実体であることを根拠に証明されています。したがってデカルトにとって神が全知であることは,神の本性essentiaに属することになります。そして神に無知を帰することは,それがすべての事柄に対してであれ,一部の事柄に対してであれ,不条理だと主張しています。
 ところが,ライプニッツ主義では,デカルトやスピノザのように,神に全知を帰することは,本性に属することであれ,本性から帰結するようにであれ,認めることはできないのです。これがライプニッツ主義が抱える,神の完全性に関する難題の正体です。
 難題自体はライプニッツ主義の中で解決されるべきものであり,僕はそういう問題が含まれているということは指摘しますが,解決策について考えることはしません。ただ,ライプニッツ主義が成立するためには,まず,神をモナドの中のモナドとして規定する必要があるのは間違いないと考えます。そしてそのような存在existentiaとして神が規定されたなら,神の認識cognitioのうちには真偽不明の事柄があるということが必然的にnecessario帰結すると考えます。いい換えれば,神は一部の事柄に関しては無知でなくてはなりません。もしも全知であることが最高に完全な実体の必要条件なら,ライプニッツの神は最高に完全summe perfectumではありません。またそれでも神は最高に完全であるというなら,最高に完全であるために,神は無知でなければならないのです。
 これでこのテーマは終了です。明日からは糖尿病共生記です。
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クイーンエリザベスⅡ世カップ&全知

2015-04-26 19:39:34 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で行われたクイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。当初の予定より遅れ,日本時間で午後5時50分過ぎの発走になりました。
 ステファノスは発走後は少し押していたような印象。内の5番手という位置に。最初の800mが51秒90,1200mで1分16秒88ですから,極度のスローペースだったといえるでしょう。
 3コーナーを回ってから少しずつ前との差を詰め,直線の入口では2頭分の外という位置。直線は進路を探すようなレースとなり,内から2頭目のコースが開いたのでそこへ。すでに勝ち馬は抜け出した後でしたが,進路を確保してからはしっかりと伸び,内と外に大きく広がった4頭の2着争いを制し,2馬身差の2着でした。
 重賞は昨年の富士ステークスを勝っているだけですが,能力は高いと見込んでいて,今年の安田記念に出走できるようなら馬券の対象にしようと思っていた馬です。これだけの強力メンバーを相手にレースをするのは初めてで,最適距離よりも長いのではないかと思っていましたから,苦戦するのではないかと予想していましたので,この結果なら僕は健闘といっていいのではないかと思います。ペースが遅くなったことは,進路を確保しにくくなったことを別にすれば,プラスに作用したものと思います。
 ベストターンドアウト賞を受賞しました。藤原英昭厩舎の馬は日本でもパドックでよく見えることが多いような印象をもっています。

 真理に関するある事柄に対して無知である存在を最高に完全な存在と規定することは,一般的な規範から逸脱しているというのは,消極的ないい回しです。むしろどんな真理に対しても十全に認識する存在こそが最高に完全であると,積極的にいい直す方がよいでしょう。つまり,神の完全性に関わる一般的な規範のうちには,神はすべての真理を十全に認識するということが含まれている,暗黙の前提として含まれているといえるのです。
 ライプニッツ主義の鍵となっていた部分で,ライプニッツ主義にとっての最適な規準というのが,神がある事柄を真偽不明と認識するなら、その事柄を形相的formalisにみた場合にも真偽不明であるという解釈であったのは,こうした理由からです。この場合には,確かに神には真偽不明の認識が属しますが,それは事柄を十全に認識しているという意味になり得るからです。しかし実際にはこれらは等置不能です。ライプニッツ主義の神の完全性に関わる問題は,そこに端を発しているわけです。
 神は無知ではないというのを消極的な規定とみなすならば,神は全知であるというのが積極的な規定になります。要するにこの意味において神が全知であるということが,神の完全性の中に含まれているということが,一般的な意味において規範を遵守しているということになるでしょう。ふたつほど具体例をあげてみます。
 スピノザは,知性を個々の観念の総体とみなします。これは知性が無限である場合でも有限である場合でも同じです。観念は思惟の様態です。よって第一部定理一により,実体がなくてはあることも考えることもできないものです。したがって,神が全知であるということが,神の本性を構成することはありません。もしそのように主張するなら,神は様態であると主張しなければならず,それは神が全知であることを否定する以上に,一般的な意味での神の規範を逸脱することになるからです。
 しかし,第二部定理七系の意味は,明らかに神が全知であるということを認めています。あるいは第二部定理三二も,それを端的に示しているといえるでしょう。つまりスピノザ主義の神は全知です。
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アドマイヤグルーヴ&神の完全性

2015-04-25 19:38:32 | 名馬
 驚愕の末脚で皐月賞を勝ったドゥラメンテの母は2004年のJRA賞で最優秀4歳以上牝馬に選出されたアドマイヤグルーヴです。
 パロクサイド系を代表するエアグルーヴの初産駒ですから,産まれながらに期待を集めていたといっていいでしょう。
 2歳11月にデビュー。新馬と翌月の特別戦を連勝して翌シーズンに備えました。
 3歳初戦は皐月賞トライアルの若葉ステークスを選択。牡馬を相手にハナ差で3連勝を達成し,異例のローテーションで桜花賞へ。競走歴で最低の体重に減らしてしまい3着。オークスでは馬体は回復していたものの7着。母も3歳春は順調さを欠いていた面があり,まだ体質的な弱さを抱えていたのかもしれません。
 復帰戦はロースステークスで重賞初制覇。しかし秋華賞は2着。続くエリザベス女王杯で三冠レースで後塵を拝し続けていたスティルインラブを降して大レース制覇を達成しました。
 4歳春は大阪杯から。ここはネオユニヴァースの7着。続く金鯱賞も5着。強力な牡馬とは未対戦でしたから止むを得ない結果だったかもしれません。牝馬同士に戻ったマーメイドステークスは3馬身差の快勝で重賞3勝目。
 秋は京都大賞典で4着の後,天皇賞でゼンノロブロイの3着。中1週でエリザベス女王杯に出走し連覇を達成。この年の最優秀4歳以上牝馬に。
 翌年も現役続行。大阪杯で4着の後,天皇賞に出走しましたがスズカマンボの11着。金鯱賞が4着,宝塚記念が8着と,牡馬相手に結果を残すことはできませんでした。
 秋はぶっつけで天皇賞に出走するもヘヴンリーロマンスの17着。ですが牝馬同士のエリザベス女王杯では3着に巻き返し,続く阪神牝馬ステークスで重賞5勝目をあげ,競走生活から引退しました。
 6つ下の半弟に2009年のステイヤーズステークスと2010年のダイヤモンドステークスを勝ったフォゲッタブル,そのひとつ下の半弟が2012年のクイーンエリザベスⅡ世カップを含め重賞5勝のルーラーシップと近親に活躍馬多数。ドゥラメンテが最後の産駒ですが,上に牝馬も3頭いますから,さらに一族の枝葉が広がる可能性も残されています。

 それを神Deusの本性essentiaと規定するか,あるいは本性から帰結する特質proprietasと規定するかは別に,哲学の体系において神が出現するなら,それが最高に完全な存在existentiaでなければならないということは,一般的な意味において正しいといって差し支えないだろうと思います。ライプニッツ主義の場合,善意は神の本性に属するわけではありません。むしろ神の外部にあるとみられる,ひとつの規準です。ですが実在するすべてのモナドMonadeと共通点を有するのはモナドの中のモナドである神だけですから,その規準によって現実世界を選択することが可能な存在は神だけです。なのでたとえ神が自身の本性には属さない事柄によって何らかの決定をするdeterminareのであったとしても,神が最高に完全な存在であると主張することは可能だと思います。ですから僕はこの方面では,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが規定している神が,最高に完全ではあり得ないとはいいません。少なくとも完全性perfectioを絶対的なものとしてではなく,相対的なものとして把握する限り,それは守られているとしかいいようがないと思うからです。また,ライプニッツ自身も,意図的に神の完全性を否定するようなことは主張しないだろうと確信しています。
 しかし,ある事柄に関しては無知であるという存在について,それを最高に完全であると規定してよいかどうかは別です。確かに神以上に事物を十全に認識するcognoscereことが可能な存在が皆無であったとしても,自然Naturaのうちに真理veritasとして存在するような事柄のすべてを十全に認識することができないような存在が,最高に完全であるというのは,一般的な意味において神が最高に完全であるといわれなければならない場合の規範を逸脱しているのではないかという疑念が生じるからです。
                         
 スチュアートMatthew Stewartが,もしもライプニッツが神とモナドの関係で,神はモナドであるという選択をした場合には,神は神でなくなり,したがってライプニッツは無神論者になるといっているのは,このような意味においてであるといえます。そしてスチュアートの見解opinioの主旨をこのように把握する限り,僕はスチュアートはここでも正しい指摘をしていると考えるのです。いい換えれば,僕もその見解に同意するのです。
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農林水産大臣賞典東京プリンセス賞&無知

2015-04-24 19:03:40 | 地方競馬
 昨晩の第29回東京プリンセス賞。本橋騎手が病気のためミスアバンセは坂井英光騎手に変更。
 かなり押して何とかヴィグシュテラウスがハナへ。2番手にゼッタイリョウイキ。3番手はティーズアライズでその後ろ,インに入れたララベルはやや行きたがっているように見えました。ミスアバンセ,サプライズソング,トーセンマリオンと4頭はほぼ一団。アイスキャンドル,ジェットシティと続き,この後ろは少し開いてフィールドスラッピとリボンスティック。さらに開いてスターローズとステファニーラン。最初の800mは49秒9で,ミドルペースといっていいでしょう。
 ヴィグシュテラウスは3コーナーで一杯。ゼッタイリョウイキが先頭に。ティーズアライズとミスアバンセが外を追い掛け,ララベルはヴィグシュテラウスを捌いてインのまま。直線の入口でゼッタイリョウイキがやや外へ。その外のティーズアライズの方が手応えよく,直線に入ってすぐに先頭に。開いたインに進路を取ったララベルはさほどの伸びがなく,ティーズアライズが1馬身半の差をつけて優勝。大外からよい伸び脚を繰り出したスターローズが2着。ララベルはさらに1馬身半遅れて3着。
 優勝したティーズアライズは北海道デビューで栄冠賞の優勝馬。南関東転入後は未勝利でしたが,東京2歳優駿牝馬ではララベルのハナ差の2着ですから,能力はララベルの次だろうと考えていました。年明けのクイーンカップは芝,桜花賞は外枠と敗因がはっきりしていて,ちょっと人気がなさすぎたと思います。僕にはララベルは掛かっていたように見えますので,ここは距離適性で上回ったかもしれません。母の父はアグネスタキオン。4代母がクリアアンバー。母の従兄に2001年のデイリー杯2歳ステークスと2002年の京都新聞杯を勝ったファストタテヤマ
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は昨年の桜花賞以来の南関東重賞2勝目。管理しているのはちょうど昨日が誕生日だった大井の嶋田幸晴調教師。厩舎開業からおよそ9年3ヶ月で南関東重賞初制覇。

 神の決定の実現が果たされる限り,それは真理であると解する必要があります。しかし神には真偽不明のことがあります。つまり神がある事柄が真偽不明であると認識するということは,その事柄が真理であるか非真理であるかが分かっていないということです。ライプニッツ主義では,これが真偽不明の意味であると同時に,神による現実世界の選択の条件にもなっています。
                         
 『宮廷人と異端者』では,神がある事柄を選択することが可能であるなら,それは神が無知である限りにおいてであるという主旨のことが述べられています。スチュアートのいい回しはやや過激かもしれませんが,いわんとしていることは僕と同じでしょう。もしも神が真理に関して全知であったとしたなら,選択の余地はありません。平面上の三角形の内角の和が二直角である世界を選択するように,真理と認識するすべての事柄を選択するでしょう。そしてそれは実際にはもはや選択ではあり得ません。ただ必然的に真理である唯一の世界が存在するという意味だからです。つまり神の自由の領域を確保するためには,ライプニッツは真理と非真理あるいはスピノザ主義の意味での虚偽を分かつことができないような認識を神に帰する必要があるのです。僕はこの点に関してスチュアートが正しい指摘を行っていると考えます。いい換えればこれが,神がモナドの中のモナドであるということを選択した場合の,ライプニッツ主義の帰結であると考えます。
 スチュアートは続けて,これはもはや神ではないといっています。つまりスチュアートの見解では,神とモナドの関係についてはふたつの選択肢がライプニッツにはあるのですが,もし神がモナドではない純粋な実体であるという道を選択するなら,ライプニッツはスピノザ主義者であることになります。僕はライプニッツはもうひとつの選択肢,すなわち神はモナドであるという道を選択すると推測しますが,この場合はライプニッツは無神論者になってしまうことになるのです。
 ただし,これはスチュアートの見解です。僕も一般的にはそれは正しい見解だと思いますので,それを最後に説明することにしましょう。
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羽田盃&真偽不明の意味

2015-04-23 19:22:15 | 地方競馬
 昨晩の第60回羽田盃
 発走後の正面で前に行く構えをみせたのはドライヴシャフト,ウインバローラス,ヴェスヴィオ,オウマタイム,ラッキープリンスの5頭。1コーナーを回るところでドライヴシャフトが単独の先頭に。しかしオウマタイムが抑えきれない勢いで並び,競り掛けるような形になったので,向正面からはこの2頭と後ろの差がどんどん広がっていきました。単独の3番手がヴェスヴィオでウインバローラスとラッキープリンスが併走,ルコンポゼが続きジャジャウマナラシとフラットライナーズが併走。この後ろは2馬身ほどあってクラバズーカー。アロマベール,イナズマアリオーン,パーティメーカーの集団に,外から進出してきたストゥディウムが加わりました。最初の800mは50秒9で見た目とは違ってミドルペース。
 3コーナーではオウマタイムが先頭に。ドライヴシャフトはついていかれなくなり,コーナーではヴェスヴィオとラッキプリンスが並んで前を追う形。4コーナーでもオウマタイムはかなりのリード。追い上げた2頭が直線でも併せ馬でじりじりと差を詰めたものの,追い付くまでの脚色はなし。直線入口で8番手前後まで上がっていたストゥディウムの大外からの伸び脚が優り,ヴェスヴィオを競り落としたラッキープリンスを捕えるとゴール前ではオウマタイムも差し切って優勝。オウマタイムが半馬身差で2着。クラバズーカーの追撃を凌いだラッキープリンスが4分の3馬身差で3着。
 優勝したストゥディウムは昨年11月のハイセイコー記念以来の勝利で南関東重賞3勝目。その後は休養に入り,復帰戦の京浜盃は11着と大敗でしたがこれは能力を出し切っていなかったことは明白。京浜盃で圧勝したオウマタイムが断然の人気になるのは当然ですが,実際に2歳のときにはこちらが勝っていますから,能力全開ならオウマタイムを負かす可能性は最も高いだろうと考えていました。新馬は負けて2戦目で勝っているように,レースを使って体調がアップする馬なのでしょう。着差は大きくありませんが,1着馬と2着馬は,その他の馬に対して少し抜けた能力を有していると考えてよいのではないかと思います。父は2007年のスパーキングサマーカップ,2008年の金盃東京記念,2009年の東京記念と南関東重賞4勝のルースリンド。これが初年度産駒で6頭が走ってストゥディウムを含めた4頭が勝ち,残りの2頭も2着があるので,このクラスの種牡馬としては驚異的な成績といえるでしょう。その父はエルコンドルパサー。祖母の半姉に1988年のJRA賞最優秀2歳牝馬のアイドルマリー。Studiumはドイツ語で勉強。
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は昨年11月に浦和記念を勝っています。第52回以来8年ぶりの羽田盃2勝目。管理している船橋の矢野義幸調教師は羽田盃初勝利。

 ライプニッツ主義で最適な規準と考えられるようには等置不能です。一方,真偽不明の規準が神のうちにあるということ,いい換えれば,神が真偽不明と認識する何らかの事柄があることは否定できません。形相的formalisな意味において真偽不明である事柄が実在することと等置できるかどうかということを別にしても,神が真偽不明であると認識する事柄がないと,神の自由の領域を設定することができなくなるので,このことはライプニッツ主義の絶対条件のひとつであることが分かります。ですからライプニッツ主義の鍵となる部分を考えるにあたっては、神がある事柄を真偽不明であると認識するということが,実際にはどのような意味を有し得るのかを考えなければなりません。
 僕は,これについてはそう難しく考える必要はないと思っています。というのも,ある事柄を真偽不明と認識することが,その認識の観念対象ideatumを知性の外にあるもの,すなわち形相的なものとみたときに,それが真偽不明であるという意味ではないとしたなら,ライプニッツが真理と規定するような事柄を例材として考えても,正しい結論が得られる筈だからです。
 平面上の三角形の内角の和が二直角であるという命題は,ライプニッツ主義でも真の命題です。そこでもしも僕が,平面上の三角形の内角の和が二直角であるかどうかは真偽不明であるといったとしましょう。これが何を意味するのかといえば,単に僕が平面上の三角形に関する真理を知らないということでしかありません。ライプニッツ主義でもこの種の真理の認識は神のうちにあります。したがって他面からいうなら,これは僕の精神のうちに平面上の三角形の真の観念が存在しないという意味です。もちろんスピノザ主義でもこの結論は同様です。
 スピノザとライプニッツが会見するということを神が真偽不明であると認識することは,これと同じように理解すればそれで済む話だと僕は考えます。つまり神は、スピノザとライプニッツが会見するということが,真理であるか非真理であるか分かっていないということです。これが真偽不明といわれるすべてのことに妥当します。
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女流王位戦&等置不能

2015-04-22 19:38:10 | 将棋
 姫路で指された第26期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は甲斐智美女流王位が8勝,里見香奈女流名人が13勝。棋譜中継のコメントと異なっているのは,NHK杯の女流予選の結果を含めているからです。
 振駒で甲斐女流王位が先手となり,里見女流名人の一手損角換り2から四間飛車。その後,後手が向飛車,先手が右四間飛車になり,先手が攻めて後手が受ける展開に。途中までは先手が快調に攻めていたと思います。
                         
 先手が端を取り込んで,後手玉が9三から逃げた局面。逃がしてしまった感があり,すでに先手が容易には勝てなくなっています。
 7三の桂馬が動いて後手玉に引かれても,次に△7五玉と取られても先手の勝ちはありませんから,▲7六銀と上がったのは当然だと思います。対して△3七角成と桂馬を取っていますので,後手にはそれだけの余裕があったということでしょう。▲7七桂と後手玉頭に圧力。そこで△9六歩と垂らしました。
 利かされでも取ってしまうのではないかと思いましたが▲8五歩。△同桂▲同桂は必然。詰めろでしたが△9二飛という大転換。こういう手が生じては先手はいよいよ苦しくなった感じです。▲9三銀と打つのはたぶん仕方がなく,△同飛▲同桂成△同香。そこで▲9六香ですが,さすがに辛そうです。
 手番の後手は△7七歩。▲同王で応じましたが△4六馬が詰めろ。ここでは後手が勝勢でしょう。
                         
 里見名人が先勝。第二局は来月13日です。

 なぜ両立不能となってしまうのか。もう一度,両立の条件に戻って,コイントスで考えてみましょう。
 僕たちがコイントスによって何事かを決定するのは,表が出るか裏が出るかが分からないということが前提となっているからです。これはとくに説明の必要がないでしょう。しかし同時に,どちらかが実際に出たときには,その限りにおいて出た方が真理であるということも前提されているからでもあります。これを認めないと,たとえば表が出たときに,それが本当に表であるかを問わなければなりません。よってコイントスによって何事かを決定することはできないでしょう。
 これと同じことが、神によるモナドの選択にも妥当しなければなりません。そうでないと,神が実際に選択した現実世界が,現実世界であることを問わなければならなくなるからです。しかし現実世界は現に存在するのですから,それを問うのは不条理です。それがあらゆる可能世界のうちで最善であるかどうかは問うことはできますが,ライプニッツ主義の中ではそれもまた真理であると規定し得ます。
 これらをみれば分かるように,ある事柄を真偽不明であると認識することと,現実的に存在する事柄自体が真偽不明であるということは,等置することができないのです。つまり,ある事柄が神にとって真偽不明であるということと,真偽不明である事柄が知性を離れて存在するということは,等置することができません。いい換えれば,ライプニッツ主義にとって最適の条件は成立しないということになります。スピノザ主義的にいえば,偶然と可能は知性の認識に関連してのみいわれるのであり,自然のうちの事柄は,そのすべてが必然と不可能によって説明され得るということになります。
 ライプニッツ主義では,真偽不明の規準は神にあるので,神にとって真偽不明のことがあるということは否定できません。そして神の決定の実現が必然的であるということも否定できません。したがって,神がモナドを選択し得るのは,真偽不明である事柄が存在するからではなく、神にとって真偽不明と認識される事柄があるということだけがその根拠になっていると僕は考えます。
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桜花賞・海老澤清杯&両立不能

2015-04-21 19:02:33 | 競輪
 19日の川崎記念の決勝。並びは金子-平原-諸橋の関東,深谷-浅井-志智の中部,脇本-中川の西日本で桐山が単騎。
 平原がスタートを取って金子の前受け。4番手に桐山,5番手に深谷,8番手に脇本で周回。残り3周のホームから早くも脇本が上昇。バックで金子を叩きました。7番手になった深谷がこれをみて上昇。ホームで金子を封じると,桐山が単騎で上昇,中川の後ろに収まると脇本がスピードを上げて打鐘。ここから深谷が発進。脇本を叩いてかまし先行に。志智が離れたので桐山がうまく浅井の後ろに飛び付き,金子を捨てた平原が桐山の後ろに。深谷が先頭のまま直線を向くと桐山は深谷と平原を牽制した浅井の間を突こうと試みるも浅井ともつれて落車。浅井もスピードを失いました。平原の後ろから深谷と桐山の間を突いた諸橋が一気に突き抜けて優勝。深谷が1車輪差で2着。中部での連結は外したものの,諸橋を追うように進路を取った志智が1車身差の3着に食い込み大波乱の結果に。
 優勝した新潟の諸橋愛選手は2004年9月の青森記念以来およそ10年半ぶりの記念競輪2勝目。決勝に乗った選手だけでなく,この開催は非常に豪華なメンバーでしたから,そこで優勝したということ自体が失礼ながら僕には驚きでした。優勝するならここしかないという進路がうまく開いた結果といえるでしょう。どういう意図から金子に任せた平原が前を取ったのかは分かりませんが,金子はまったく力を出せませんでしたから,関東全体の作戦としてはあまりうまくいっていなかったのではないかと思えます。それでもこのような結果になるのは,競輪の面白さであり難しさでもあるでしょう。

 真偽不明である事柄は,それ自体では神の現実世界の選択の規準にはなり得ません。よって神は選択するために,外部にある善意という別の規準を必要とするのでした。そしてそれは神の本性には属さないのだけれど,神がその規準によって選択することが可能であることも,合理的に説明できます。ライプニッツ主義では,現実世界が選択されないというのは,現実世界が実在しないと主張するのと同じですから不条理です。ですからモナドがAとBのどちらかしか存在しないのであれば,神はAかBのどちらかを必ず現実世界として選択するのでなければなりません。このときに,選択された方が真理であり,選択されなかった方は非真理であると理解するべきだと僕は考えます。よってAを選択することもBを選択することも真偽不明であるということと,それは両立できないと考えるのです。
 この場合には問題はこれだけで収まりません。神は善意を規準としてモナドを選択するのですから,たとえばAの方を選択したのであれば,Aの方がBよりも善なる世界でなければならないのです。いい換えれば,この場合にAの方が善なる世界であるということは,神が選択する現実世界が可能世界のうちで最善の世界であるという命題が真の命題であるのと同じ意味において真の命題でなければならないのです。ところが,神がAを選択するという命題が真偽不明であるとしたならば,AがBより善であるということが真偽不明であるといわなければなりません。このように理解すれば,これらの命題を両立させることがいかに困難なことであるかよく理解できるのではないかと思います。
 したがって,もしも真偽不明の事柄が知性を離れた形相的formalisな意味において自然のうちに実在すると考えるのならば,神はどの可能世界も現実世界として選択することはできないというか,そうでなければ神が選択した現実世界が最善の世界であるということが真偽不明であるというかのどちらかでなければならないと僕は考えます。前者はそれ自体で不条理です。しかし後者はライプニッツ主義の最重要条件に反します。この帰結はなぜ生じてしまうのでしょうか。
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マイナビ女子オープン&両立の条件

2015-04-20 18:53:20 | 将棋
 18日に石雲院で指された第8期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 上田初美女流三段の先手で角道オープン中飛車。加藤桃子女王が△4ニ王と上がったところで先手から角を交換したので,早い段階から戦うことになりました。
                         
 打ち合った角を後手が7七で交換したので,当たりになった飛車を8五から引いた局面。後手の銀の位置が今ひとつで,手番の先手が十分にやれるように僕には思えます。
 ▲5五歩は,攻めていくならばここしかないと思います。
 そこで△8六歩と打ったのは好手だったと思います。▲同歩は当然。そこで△8九角の両取り。▲8八金は飛車を抜かれますから▲7九歩もこれ以外にない受けでしょう。△9八角成で香得に。
 ▲5四歩と取り込まれたときに△同馬と取れるのが,先に△8六歩と打っておいた効果のひとつです。
                         
 ここで▲同飛と取り,△同銀に▲7二角と打つ両取りがあるのですが,そのときに△8六飛と逃げた手が銀取りになるのが△8六歩と打っておいたふたつ目の効果。実戦はそれを避け,△5四同銀の後,▲8五桂と跳ねています。
 それで後手がよくなったというわけではなく,その後の先手の指し方が勝敗を分けたと思いますが,この一連の手順は見事で,一局の中で最も印象に残りました。
 加藤女王が連勝。第三局は来月7日です。

 ライプニッツ主義における神の現実世界の選択に関わるふたつの命題を僕が両立させられないのは,以下のような事情によります。ここではモナドに限定せず,一般的に考察します。
 AとBしか選択肢がなく,どちらかは必ず選択されるという状況を想定します。この状況で,AかBかのどちらかであるということと,AとBのどちらであるかは不明であるということは両立し得ると僕は考えます。たとえばコイントスをしたときに,コインが立ってしまうというような特殊な例を除外すれば,コインは表であるか裏であるかのどちらかです。しかしどちらであるか分からないということはあり得ます。これはだれでも同意できると思います。つまりこの限りにおいて,AかBのどちらかだけれど、どちらであるか分からないということは両立するといえます。
 でも,僕の考えでは,これが両立しているのは,ある条件の下においてなのです。ここはスピノザ主義を導入すると分かりやすいと思います。コインの表あるいは裏が出るというのは,コインという物体の運動に関する言及です。最低限,そういう言及ではあり得ます。しかし,表か裏かが分からないというのは,そのような言及であることができません。これは知性による認識についてだけの言及です。つまり,前半部分は知性を離れた形相的formalisな言及であり得るのに対し,後者は知性のうちの客観的objectiveな言及でなければならないのです。
 これを単純に形相的な事柄として理解してみましょう。その場合には,もし表が出たとすれば,その限りにおいては表が出るということが真理であり,裏が出るということが非真理でなければならないと僕は考えます。いい換えれば,表が出るか裏が出るかは分からない,真偽不明であるわけではないと考えるのです。そしてこの意味においては,ふたつの命題が両立するということはあり得ないと結論するのです。
 AとBの選択に関しても同様のことがいえる筈だと僕は考えます。とくにライプニッツ主義における現実世界としてのモナドの選択には,善意という要素が加わるため,なおさら両立し得ないと僕には思えるのです。
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皐月賞&現実世界の選択

2015-04-19 18:55:24 | 中央競馬
 三冠レースの第一弾,第75回皐月賞
 まず先頭に立ったのはワンダーアツレッタ。すぐに外からキタサンブラックが前に。さらに外からクラリティスカイが追い抜いてクラリティスカイの逃げに。キタサンブラック,ワンダーアツレッタ,スピリッツミノルと続き,コメートとリアルスティール。ミュゼエイリアンとダノンプラチナが並んでいたところへブライトエンブレムが追い上げ、ベルラップは外を上昇。タガノエスプレッソが続き,正面では最後尾だったドゥラメンテはインを進出。サトノクラウンがその後ろに。前半の1000mは59秒2でミドルペースといえるでしょう。
 直線では逃げたクラリティスカイをキタサンブラックが抜きにいくと,その外をリアルスティールが伸び坂下では先頭。しかしインを回り4コーナーでやや強引に外に持ち出したドゥラメンテが段違いの末脚で楽々と差して優勝。1馬身半差でリアルスティールが2着。2馬身半差でキタサンブラックが3着。
 優勝したドゥラメンテは昨年10月にデビュー。2戦目で勝ち上がった後,2月の条件戦で5馬身差の楽勝をしスター候補に。次の共同通信杯は2着馬の後塵を拝していましたが,ひどく折合いを欠いてのもので,2着に残ったのは実力。今日は折り合えたので末脚が爆発しました。ミドルペースでもいい脚を使えることが分かりましたので,今後も掛からなければ確実に結果を残していくでしょう。父はキングカメハメハ。母は2004年のJRA賞最優秀4歳以上牝馬のアドマイヤグルーヴ。祖母はエアグルーヴパロクサイドシャダイフェザーの分枝。Duramenteはイタリア語。音楽用語で荒々しく。
 騎乗したのは3月にJRAの免許を獲得したイタリア出身のミルコ・デムーロ騎手。昨年3月の高松宮記念以来の日本での大レース制覇。皐月賞は第63回,64回,73回と勝っていて2年ぶりの4勝目。管理している堀宣行調教師は先月のジョージライダーステークスに続く大レース制覇。国内では2012年の安田記念以来。皐月賞は初勝利。

 ライプニッツ主義にとって最適な規準から理解できるのは,神Deusが無限に多くのinfinita可能世界からひとつを選択して現実世界にする場合に,真理と非真理に関係する事柄はそれ自体がこの選択の規準になるのに対して,真偽不明である事柄に関しては,神が選択の規準を有していないということです。よってこのことに関しては,神は別に善意という規準を必要とするのです。したがってスピノザが第一部定理三三備考二意志と善意に関して述べていること,すなわち善意という規準は,神の本性essentiaに属するような規準ではなく,神の外部に存在する規準であるという指摘が正しいということも分かります。
                         
 ライプニッツ主義では,神が善意によって可能世界を選択するということ,いい換えれば神は全体的にみて最善の世界を現実世界として選択するということは,絶対的なものでなくてはなりません。このとき,モナドの中のモナドとしての神は,無限に多くあるモナドMonadeのすべてと共通点を有するのですから,神がどの可能世界が最善であるかということを判断することが可能であるということは論理的に可能です。つまりたとえそれが神の本性に属さないような規準であるとしても,その規準に対して的確な判断が神には可能であるということは,合理的に説明できます。そしてこれを合理的に説明するためにも,ライプニッツ主義は神とモナドの関係について,神は実体substantiaであるがモナドMonadeでもあると規定する必要があると僕は考えます。
 そこで,神は善意によって現実世界を選択する,あるいは,神が選択する現実世界はあらゆる可能世界のうちで最善の世界である,ということは,命題としてみたときに,真verumでなければならないことになります。これがライプニッツ主義の絶対的要件を構成しているからです。そしてここまで進んできたときに,僕は当惑してしまうのです。
 スピノザとライプニッツの会見だけが異なるモナドAとモナドBに関しては、神がモナドAを現実世界として選択するという命題も,神はモナドBを現実世界として選択するという命題も,真偽不明の命題でなければならなかったのでした。僕にはこれらをうまく両立させられないのです。
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農林水産省賞典中山グランドジャンプ&最適な規準

2015-04-18 19:31:34 | 中央競馬
 日本馬のみで争われた第17回中山グランドジャンプ
 障害にしては入れ替わりの多いレースに。前半で前につけたのはアポロマーベリック,ショウナンカミング,アップトゥデイト,シャイニーブラックの4頭。少し離れてテンジンキヨモリとレッドキングダム。また少し離れてティリアンパープル。前の4頭からシャイニーブラックは程なくして控えました。これらのうちテンジンキヨモリが大いけ垣で落馬。大障害を通過した後の向正面に入ると前はアポロマーベリックとアップトゥデイトの2頭に。シャイニーブラックが3番手を押して追走。ショウナンカミングの外をレッドキングダムが交わしていきました。
 3コーナーでアップトゥデイトが先頭に。アポロマーベリック,レッドキングダムの順になり,後方から追い上げてきたサンレイデュークが4番手に。アップトゥデイトは直線に入るところでも楽な手応え。そのままついてきた馬たちを置き去りにし,2着に1秒7の差をつけるレコードタイムで圧勝。サンレイデュークが一旦は2番手に上がるも,さらに後から追ってきたソンブレロが外から交わして2着。サンレイデュークが2馬身半差で3着。
 優勝したアップトゥデイトは昨年9月に障害入り。2戦目で勝った後,オープンも連勝。年明けの2戦は勝てていませんでしたが,決定的な差をつけられたというわけでもなく,底を見せてはいませんでした。これが重賞初勝利の大レース制覇ですが,レコードでこれだけの差をつけたのですから,高く評価をする必要がありますし,またそれだけの力量があると考えなければならないでしょう。父はクロフネ
 騎乗した林満明騎手は大レース初勝利。管理している佐々木晶三調教師は一昨年の日本ダービー以来の大レース制覇。中山グランドジャンプは初勝利。

 ライプニッツ主義にとって最も有利であるのは,いい方を換えればライプニッツ主義を他者に説得する場合に最も適しているのは,神がある事柄を真偽不明であると認識するということと,その事柄が自然のうちに真偽不明のものとして実在するということを,同じ意味として解釈することだと僕は思います。スピノザ主義では,偶然と可能は,知性による事物の認識に関連した場合にだけ意味をもちます。ライプニッツ主義はそれを否定し,知性を離れて,事物が形相的にみられる場合にも,偶然であることや可能であることが実在すると主張するとき,ライプニッツ主義の鍵となっていると僕が考えている部分は,対スピノザ主義という観点から,最も有利になるだろうと思うのです。ですからまずはここから考えていきましょう。
 ある命題が真であるなら,その命題が示す事柄はすべてのモナドの中で実現し,非真理であるならすべてのモナドの中で実現しません。真理と非真理に関連する神の決定の実現は,すでにこのことのうちに含まれます。現実世界は無限に多くあるモナドの中のひとつなので,命題が真理であるなら神はその世界を現実世界として選択します。これ自体を命題として理解すればこれも真の命題です。逆に命題が非真理である事柄を神が現実世界として選択するといったなら,この命題は非真理であることになります。スピノザ主義でいうと,これは真の観念の観念は真の観念であり,誤った観念の観念は誤った観念であるといっているのと同じことになります。ですからこれ自体に異論は出せない筈です。
 真偽不明の規準は,真理と非真理が神に関係づけられるのと同じ仕方で神の認識に依存しなければならないというのがライプニッツ主義の論理構造です。したがって,スピノザとライプニッツの会見の有無だけが異なり,その他の事情が一致するふたつのモナドAとBだけが存在するとしたなら,スピノザとライプニッツが会見するという命題が真偽不明の命題であるというのと同じ意味において,神はAを現実世界として選択するという命題も真偽不明でなければなりません。もちろん同じことがモナドBにも妥当することになります。
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先生の秘密&ライプニッツ主義の鍵

2015-04-17 19:13:39 | 歌・小説
 「私の子ども」の母親が,先生亡き後の奥さんではないということの根拠として示したように,先生と奥さんの間には何らかの秘密があり,私もそれを知っていました。先生も遺書の最後,というのは『こころ』という小説の最後の部分になりますが,そこで奥さんには何も知らせたくない,奥さんが生きている限りは私だけに打ち明けた秘密として腹の中にしまっておくように命じていますから,何らかの秘密が存在したということに関しては,疑う余地がありません。ではその秘密が具体的に何であったのかといえば,『こころ』のテクストはそれが何であるのか分からないようになっています。なのでこれに関しては,様ざまな推定をすることが可能であると僕は考えています。
                         
 秘密が何であるかが分からないということの根拠は,上一九のテクストにあります。ここでは奥さんと私が,先生についてふたりで語り合います。これは先生の性格に関してです。このときに奥さんは,先生の性格が今,これはふたりが話をしている時点での今ですが,今のようになった契機として,Kが死んだことをあげています。しかし同時に,これについてはすべてを話すと先生に叱られるので,叱られない部分だけを話すという前置きをしているのです。
 このときに奥さんが話したのは,Kが死んだこと,それが変死であったこと,Kの死の理由は奥さんには分からないし,先生も分かっていないであろうということです。その後で私に尋ねられ,先生がKの墓参りに行っているということは,言ってはいけないことに含まれていたようですが,事実上は話してしまったも同然となっています。
 もしも奥さんが知っていることのすべてがこの内容であったなら,秘密が何であるかは容易に推定できるでしょう。しかしテクストが示しているのは,奥さんが知ってることはこれがすべてではないということ,つまり奥さんは話すことはできないけれどもこれ以上のことも知っていたということです。なので奥さんが何を知っていて,何を知らなかったのかは,テクストを読んだところで分からないようになっているのです。
 奥さんが知らず,先生が知っているからそれは秘密であり得ます。その奥さんが知っていることが何であるのかが分かりません。なので秘密が何であるかも具体的には不明です。ただ,秘密ではないことの一部だけが理解できるのです。

 ライプニッツ主義では,真理と非真理の規準がそうであるように,真偽不明の規準も神の認識のうちにあるのでなければなりません。よって,スピノザとライプニッツが会見するという命題が真偽不明であるのは,神にとって真偽不明であるという意味になります。いい換えれば,スピノザとライプニッツが会見することは,単に命題としてでなく,出来事として理解される場合にも,神はそれが真偽不明であると知っている,あるいはそう認識していると理解する必要があります。つまり真偽不明とは,ライプニッツにとって真偽不明であるとか,一般に人間の知性にとって真偽不明であるというだけの意味を有するのではありません。神にとっても真偽不明であるのです。
 確かに,モナドAとモナドBが,スピノザの会見の有無を認識するだけでは区別し得ないというのは,おかしな話ではあります。しかし,もしも逆にそのことによってAとBが区別し得ることを認めてしまうなら,いかにライプニッツ主義の区別がスピノザ主義のそれとは異なっているとしても,この区別を実在的区別であると主張することは不可能だと思います。よってもしこのようにしてAとBが区別され得ると認める場合にも,ヘーゲルのライプニッツ批判をそのまま受容する必要が生じてしまいます。ですから,真偽不明ということが,神にとって真偽不明であると主張する必要が,スピノザ主義を崩壊させるためにはあるということになるのです。
 僕が思うに,このことがライプニッツ主義の論理を理解する上で,最も鍵になります。というのは,たとえばスピノザとライプニッツが会見するということが,真偽不明であると神が認識するというとき,スピノザ主義的にいえば,この会見が偶然と可能に属するのであり,必然と不可能に属するのではないというとき,それによってライプニッツが意味しようとしたこと,あるいは意味させたいと思ったであろうことと,実際にここから帰結してくることの間には,大きな亀裂が生じると僕は考えているからです。
 神にとって真偽不明のことがある。いい換えれば偶然や可能として認識されることがあるとは,どういうことなのでしょうか。
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スピノザの方法&真偽不明の規準

2015-04-16 19:41:52 | 哲学
 スピノザの哲学における真理獲得の方法については,僕の考え方を説明しました。ただ,一般的に哲学における方法論というのは,真理veritasを獲得する方法だけを意味するわけではありません。そこで,スピノザの哲学における方法論全般に焦点を当て,それを網羅的に研究したものとして,國分功一郎の『スピノザの方法』という解説書があります。
                         
 デカルトRené Descartesは,哲学を『情念論Les Passions de l'âme』で示し,方法論は『方法序説Discours de la méthode』でそれとは別に示したというのが一般的な解釈です。それに倣えば,スピノザは哲学を『エチカ』に著し,方法論は『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で別に著したといえます。もっとも,『知性改善論』は未完ですから,著したというのは正確ではなく,著そうとしたというべきかもしれません。
 こうした事情ですから,スピノザの方法論について探求しようと思うならば,まず『知性改善論』を徹底的に解析するというのが,手法としてまず考えられるところです。実際に『知性改善論』を無視してスピノザの方法論を考察するというのは無理なことなのであって,國分もまずはそうした手法から課題に接近しています。
 僕はそうは考えていないのですが,『知性改善論』が未完で終ったということは,そこに示された方法論には無理があったからだと理解できないことはありません。ドゥルーズGille Deleuzeが『知性改善論』に共通概念notiones communesを絡めて主張していることは,おおよそそのような内容を有していると僕は理解しています。しかし,國分はその見解opinioには,僕と同じ意味においてとはいえないでしょうが,疑義を抱いているようです。
 そのために,國分は『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を利用します。この著書はスピノザによるデカルト哲学の再構成ですが,デカルトが実際にしたのとは異なった順序で説明されている部分があります。國分はそれに目をつけ,その順序の相違は,デカルトの方法論とスピノザの方法論の差異によるものと理解し,だからそこにはスピノザの哲学に特有の方法論が存在しているという観点から,スピノザの方法を網羅的に概説していきます。内容をどうこういう前に,この視点が素晴らしいと僕には思えました。
 2011年1月の発行。日本語で読める近年のスピノザ研究としては名著中の名著だと思います。ぜひご一読ください。

 僕の考えでは,真偽不明である事柄に関しても,真理と非真理がそうであるのと同じように,それが神Deusの認識cognitioのうちにあるとライプニッツ主義は規定する必要があります。あるモナドMonadeと別のモナドが実在的にrealiter区別されなければならないなら,それが必須であると考えるからです。
 スピノザとライプニッツが会見するという命題は,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizには真偽不明と判断されます。このために,スピノザとライプニッツが会見するモナドと,会見しないモナドの両方が実在しなければなりません。そこで,それ以外のすべての条件は一致し,スピノザとライプニッツが会見するかしないかだけが異なっているふたつのモナドがあると仮定して,会見する方をモナドA,会見しない方をモナドBと記号化します。僕がいっているのは実際にAとBのふたつのモナドが実在するということではありません。このような規定から何が帰結するかを考察するために仮定するということです。
 AとBは実在的に区別されなければなりません。いい換えればAとBには共通点はありません。したがって第一部公理五により,知性intellectusはAを認識してもBを認識するcognoscereことはできないし,Bを認識することによってAを認識することもできないことになります。厳密にいうとこれはスピノザ主義の規定ですが,ライプニッツ主義もこれを認める必要があります。認めない場合はヘーゲルのライプニッツ批判を受容する必要が生じるからです。
 このことが示しているのは,Aではスピノザとライプニッツは会見し,Bではスピノザとライプニッツは会見しないのですが,知性はこの認識によってはAとBを区別することができないということです。このこと自体がややおかしく思えるのですが,それに関しては少し後で説明しましょう。
 ではAとBはいかにして区別され得るのでしょうか。それは,AともBとも共通点を有しているモナドの中のモナドすなわち神の認識によって区別されるのです。したがって,AもBも真偽不明であるということ,いい換えればスピノザとライプニッツが会見するということが真偽不明であるという認識が,神のうちにあるのでなければなりません。
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