スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&自然の法

2024-06-21 19:04:14 | 将棋
 甲府で指された昨日の第9期叡王戦五番勝負第五局。
 振駒で先手となったのは藤井聡太叡王で,角換わり相腰掛銀。先手が穴熊で後手の伊藤匠七段が右玉という戦型になりました。先手がうまく仕掛けて中盤はリードしたのですが,攻めた方がよいところで受けに回ったため,終盤は白熱の攻防になりました。
                                        
 ここで☗6四桂と打ったのですが,これが最終的な敗着になったようです。☖8八金☗同龍☖7八金で先手玉は受けなし。後手玉を詰ましにいくほかありませんが,7八の金を入手できても後手玉が詰まず,後手の勝ちになりました。
 第1図は☗5五桂と王手をしてしまうのが有力のようです。引いてしまうと桂馬の王手があるので☖3三玉と寄るのですが☗3四金☖2二玉に☗2四歩と打っておくと,駒が入手できれば後手玉が詰む形に持ち込むことができるので,まだ将棋は続くことになりましたし,もしかしたら先手が有望だったかもしれません。
 3勝2敗で伊藤七段が叡王を奪取。プロ棋士になって3年8ヶ月で初のタイトル獲得となりました。

 社会societasの法lex制度によって決定されたのではない権利jus,つまりスピノザがいっている自然権jus naturaeがどのような権利であるのかといえば,それは社会の法ではなく自然の法lex naturalisによって決定されている権利ということになります。ただ,自然の法は自然のうちにあるすべての個物res singularisに適用されることになります。僕はそれをライオンの自然権といった仕方で説明したことがあります。『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においては,魚が水中を存分に泳ぎ回るのも,大きな魚が小さな魚を食べるのも,至高な自然の権利によっているといわれています。つまり現実的にいわれる自然権も,たとえば魚が水中を存分に泳ぎ回るような権利として,与えられている権利であると解する必要があります。
 このことから一目瞭然であるように,同じように決定されているのであっても,社会の法によって決定されているといわれるのと,自然の法によって決定されているというのとでは,同じように決定されているといわれるのでも意味合いに大きな差異があります。社会的な法制度においては,それが適用される人びとのpotentiaとは独立していますから,ある人間はそれをすることが可能であるけれどそれをしないとか,それをすることが法制度によって許可されていない,あるいは罰せられるというような場合があるのですが,自然の法の下においてはそのようなことはあり得ません。むしろ,現実的に存在する人間が,あるいはもっと広く,現実的に存在するすべての個物が,否応なしにそれに沿って作用しなければならないような法が,自然の法であるからです。いい換えればそれは,この自然の法の下にあるすべての個物の力に等しく一致しているといわなければなりません。たとえば魚は人間にはできないような仕方で水中を自由自在に泳ぎ回るわけですが,それは陸の上を歩き回ることができるけれどもそうはせずに水中を泳ぎ回っているとか,魚には陸の上を自由に歩き回ることが許可されていないあるいはそれをすれば罰せられるいうわけではないからです。つまりこれが魚の自然権であるというなら,魚の自然権は魚の力そのものです。よって人間の自然権も,人間の力そのものであるということになるでしょう。
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