14日に指された第36期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
永瀬拓矢王座の先手で角換わり。後手の伊藤匠六段の右玉に対して先手の腰掛銀という戦型になりました。
第1図で後手は☖4六馬と詰めろに馬を引くのではなく,☖6四馬と引いて次に☖8六飛と取る手を狙いにしました。この手がこの将棋の勝着となったように僕は思います。
この馬が鎮座したまま10手ほど進んで第2図。
ここで先手は☗6二銀打としましたが,これが詰めろになってなく,きわどいながら☖8六歩と銀を取った後手の勝ち筋に入りました。
実は第2図は先手優勢で,☗5三銀とするのがよかったそうです。これも詰めろではありませんから☖8六歩はありますが,☗6四銀成と馬を取れば先手玉が詰まないので先手が勝つという仕組みです。
第1図に比べると第2図は切羽詰まった局面といえます。そういう局面で玉を攻めるのではなく馬を攻める手というのは発見するのが難しそうです。第1図と第2図の局面の緊迫度の差が明暗を分けたといえるかもしれません。
連勝で伊藤六段が挑戦権を獲得し,規定により七段に昇段。タイトル戦は初出場。第一局は10月6日と7日に指される予定です。
第二部定理八備考というのは,第二部定理八系を受けて付せられたものです。そしてこの系Corollariumでスピノザがいわんとしていることは,個物res singularisが神Deusの属性attributumの中に包容されている限りにおいて存在する場合は,その個物の観念ideaは神の無限な観念が存在する限りにおいて存在し,個物が時間的に持続するdurareといわれる場合は,その個物の観念も持続するといわれる存在existentiaを含むということです。したがって備考Scholiumでは神あるいは神の属性が円に,個物が矩形に喩えられていることになります。
このとき,神あるいは神の属性は自己原因causa suiであるのに対し,円は自己原因ではありません。あるいは,神および神の属性が能産的自然Natura Naturansであるのに対し,円は所産的自然Natura Naturataです。このために,備考の比喩は適切さを欠く部分を有しています。神の本性naturaの必然性necessitasから無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものが生じるといわれるのと,円の中には無限に多くの矩形があるというのとでは,意味合いに相違があるといわざるを得ないからです。ただこうしたことについてはかつて指摘しましたし,何より『スピノザーナ11号』における河井の巻頭言とほとんど関係を有しませんから,そのことについてここで繰り返すことはしません。
第二部定理八系は,個物が現実的に存在するようになるとその個物の観念も持続するといわれるような存在を含むようになるといっていますが,このことをもって,個物の観念が現実的に存在するようになる条件をスピノザは強調しているのかといえば,そのように受け取る必要はないように僕には思えます。というのも,これは逆にいえば,ある個物が神の属性に包容されている限りで存在している場合には,その個物の観念は現実的に存在するという存在を含まないという意味なのであって,この点に注意すれば,個物がただ神の属性に包容されて存在している場合のその個物の観念のあり方と,個物が現実的に存在するといわれる場合のその個物の観念のあり方を,スピノザは少なくとも同等に強調していると解するべきだと思うからです。
したがって,備考の方もそれと同様に解するべきだと僕は考えます。つまりスピノザは矩形の観念のあり方を同等に示していると解します。
永瀬拓矢王座の先手で角換わり。後手の伊藤匠六段の右玉に対して先手の腰掛銀という戦型になりました。
第1図で後手は☖4六馬と詰めろに馬を引くのではなく,☖6四馬と引いて次に☖8六飛と取る手を狙いにしました。この手がこの将棋の勝着となったように僕は思います。
この馬が鎮座したまま10手ほど進んで第2図。
ここで先手は☗6二銀打としましたが,これが詰めろになってなく,きわどいながら☖8六歩と銀を取った後手の勝ち筋に入りました。
実は第2図は先手優勢で,☗5三銀とするのがよかったそうです。これも詰めろではありませんから☖8六歩はありますが,☗6四銀成と馬を取れば先手玉が詰まないので先手が勝つという仕組みです。
第1図に比べると第2図は切羽詰まった局面といえます。そういう局面で玉を攻めるのではなく馬を攻める手というのは発見するのが難しそうです。第1図と第2図の局面の緊迫度の差が明暗を分けたといえるかもしれません。
連勝で伊藤六段が挑戦権を獲得し,規定により七段に昇段。タイトル戦は初出場。第一局は10月6日と7日に指される予定です。
第二部定理八備考というのは,第二部定理八系を受けて付せられたものです。そしてこの系Corollariumでスピノザがいわんとしていることは,個物res singularisが神Deusの属性attributumの中に包容されている限りにおいて存在する場合は,その個物の観念ideaは神の無限な観念が存在する限りにおいて存在し,個物が時間的に持続するdurareといわれる場合は,その個物の観念も持続するといわれる存在existentiaを含むということです。したがって備考Scholiumでは神あるいは神の属性が円に,個物が矩形に喩えられていることになります。
このとき,神あるいは神の属性は自己原因causa suiであるのに対し,円は自己原因ではありません。あるいは,神および神の属性が能産的自然Natura Naturansであるのに対し,円は所産的自然Natura Naturataです。このために,備考の比喩は適切さを欠く部分を有しています。神の本性naturaの必然性necessitasから無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものが生じるといわれるのと,円の中には無限に多くの矩形があるというのとでは,意味合いに相違があるといわざるを得ないからです。ただこうしたことについてはかつて指摘しましたし,何より『スピノザーナ11号』における河井の巻頭言とほとんど関係を有しませんから,そのことについてここで繰り返すことはしません。
第二部定理八系は,個物が現実的に存在するようになるとその個物の観念も持続するといわれるような存在を含むようになるといっていますが,このことをもって,個物の観念が現実的に存在するようになる条件をスピノザは強調しているのかといえば,そのように受け取る必要はないように僕には思えます。というのも,これは逆にいえば,ある個物が神の属性に包容されている限りで存在している場合には,その個物の観念は現実的に存在するという存在を含まないという意味なのであって,この点に注意すれば,個物がただ神の属性に包容されて存在している場合のその個物の観念のあり方と,個物が現実的に存在するといわれる場合のその個物の観念のあり方を,スピノザは少なくとも同等に強調していると解するべきだと思うからです。
したがって,備考の方もそれと同様に解するべきだと僕は考えます。つまりスピノザは矩形の観念のあり方を同等に示していると解します。