スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部諸感情の定義二一&あるもの

2016-03-31 19:25:53 | 哲学
 第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,自分自身への愛amorのために自分自身を正当以上に誤って評価する感情affectusのことです。すなわちこの感情は,受動的に発生する自己愛philautiaという感情のひとつの特質proprietasであると規定することができます。するとこれだけのことから明らかなように,僕たちは僕たち自身以外の何かを受動的に愛するならば,やはりその特質として,その愛する何かを誤って正当以上に高く評価することになります。そうした感情は買い被りといわれ,第三部諸感情の定義二一に示されています。
                                    
 「買いかぶりとはある人について,愛のゆえに,正当以上に感ずることである」。
 スピノザはこの感情が他人に対してのみ発生すると定義していますが,僕にはその理由がよく分かりません。たとえば愛するペットをその愛のゆえに正当以上に評価する飼主というのは存在しているとしか思えず,それも買い被りに違いないと僕は考えるからです。なので僕自身はこの感情に関しては,スピノザの定義Definitio以上の範疇に広げて解釈します。
 スピノザは高慢は狂気の一種としていますが,買い被りはそうとはみなしていません。これはおそらく上述の例からも明らかなように,これが愛という感情の表出,いい換えれば愛情表現のひとつとみることが可能だからだと僕は思っています。ペットを買いかぶる飼主とか,子どもを買いかぶる親とかは,それが度を越していれば確かに狂気の一種とみなせるでしょうが,そうでない限りはむしろほほえましいと思えるような事柄だといえるのではないでしょうか。
 一般的には高慢は人の性格を表現し,買い被りというのも人の行動とか混乱した観念idea inadaequataを意味するのであり,感情とみられることは少ないのではないかと思います。ですが僕がこれらの語を使用するときは,それが感情であることを意味するという点には,いつでも注意してもらえればいいと思います。

 第五部定理二三証明の冒頭部分のスピノザによる記述は,In Deo datur necessario conceptus, seu idea,となっています。つまり畠中が概念ないし観念と訳している部分の概念は,一般的な思惟の様態cogitandi modiを意味するnotioではなく,精神の能動actio Mentisを意味するconceptusであることが分かります。この部分が第五部定理二二に依拠しているのですから,現実的に存在する人間の身体humanum corpusを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念について,スピノザが徹底して個別的なものと解していたのは間違いないでしょう。これはスピノザが第五部定理二二で人間の身体の観念に言及するとき,このまたはかの,という形容を与えていることからも明白だといえます。
 このゆえに第五部定理二三で永遠といわれている,人間の精神mens humanaの中のあるものとは,第二種の認識cognitio secundi generisによってその精神に与えられるもの,あるいは生起するものではありません。そしてそれが第二種の認識によって生じるのではないという結論は,同時に第三種の認識cognitio tertii generisによって生じるものであるという結論でなければならないのです。なぜなら第二部定理四四系二で,永遠の相の下に事物を認識するcognoscereことが理性ratioの本性naturaに属するといわれるとき,永遠の相の下に事物を認識することは理性だけの本性に属するのではなく,第三種の認識の本性にも属しているということがすでに明らかとなっていて,しかし第一種の認識cognitio primi generisの本性にはそれは属さないということも明白になっているからです。すなわち第五部定理二二で人間の身体の本性essentiaを永遠の相の下に表現する神Deusの中の観念は,第二部定理一三により,その人間の精神の本性に属する何かでなければならないわけですが,それが現実的に存在する人間にとっては,いい換えればある人間の精神が現実的に存在するといわれる場合には,所与のものであるとは考えられないので,何らかの認識によってその人間の精神の本性に属すると理解されなければなりません。このときその条件を満たす認識というのは,第二種の認識でなければ第三種の認識でなければならないのです。よって僕は,あるものaliquidの認識とは,第三種の認識を意味すると結論します。
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東京中日スポーツ賞クラウンカップ&認識の区別

2016-03-30 20:51:48 | 地方競馬
 羽田盃トライアルの第19回クラウンカップ。中野省吾騎手が28日のレースで鞍を間違えて騎乗したことにより騎乗停止処分を受けたためガーニーフラップは的場文男騎手に変更。
                                     
 好発はディーズプリモで一旦は先頭に立ちましたが,外から強引に押していったケイエスソードがハナを奪いました。内から外に切り返したウワサノモンジロウが2馬身ほどの差で2番手。外から上昇したシャークカイザーが1馬身ほどの3番手になり,控えたディーズプリモは4番手に。ラブレオ,ガーニーフラップ,アンビリバボーと続き,少し離れてワールドプリンスとプレイザゲームが追走。前半の800mは51秒1のハイペース。
 向正面でプレイザゲームが外を上昇していったことでレースが動き,3コーナーを回るとケイエスソード,ウワサノモンジロウの外の3番手にプレイザゲーム。ディーズプリモが内,ガーニーフラップが外を追走。プレイザゲームは捲りきって先頭には立ったものの,外を追い上げたガーニーフラップが差し切って優勝。1馬身半差の2着にプレイザゲーム。手応えのわりに伸びを欠いた感のあるディーズプリモは4馬身差で3着。
 優勝したガーニーフラップは南関東重賞初制覇。デビューから連勝した後,3連敗しましたが,また連勝して調子を上げていました。ここは南関東重賞の勝ち馬が不在でしたので,チャンスはあるとみられた1頭。先に動いたプレイザゲームが内容的に強いレースで前を一掃し,後から動いてその展開に乗じた面はあったかもしれません。今日のメンバー相手ではトップクラス相手に通用するとはいいきれませんが,再上昇の3連勝目で南関東重賞制覇を達成したという分の魅力はあるかと思います。父はタイキシャトル。母の父はネオユニヴァース。祖母の半姉にJRA賞2000年の最優秀2歳牝馬,2001年の最優秀3歳牝馬のテイエムオーシャンビューチフルドリーマーホクエイリボンの分枝。Gurney Flapは自動車のエアロパーツのひとつ。
 変更で騎乗した大井の的場文男騎手は昨年5月の東京湾カップ以来の南関東重賞制覇。第7回,14回,17回に続いて2年ぶりのクラウンカップ4勝目。管理している船橋の稲益貴弘調教師は開業から2年3ヶ月弱で南関東重賞初制覇。

 考察の流れからすれば,次は『エチカ』の記述が第二種の認識cognitio secundi generisに基づいていると僕が考えている二番目の根拠の説明になります。ですがこのことは,現在の最重点課題になっていること,すなわち『エチカ』において人間が永遠といわれる場合には,それは人間の精神との関連でいわれるのであり,このために現実的に存在する人間が永遠であるといわれるための論拠としては第二部定理八系だけでなく第二部定理五が含まれなければならないと僕が考えていることの論拠にも大きく関係してきます。そこでその前に,中途的な課題となっている事柄についての結論を先に示しておきましょう。
 まず,共通概念が共通観念ではなくあくまでも概念でなければならないこと,いい換えるなら,それは真理性を示す観念ではなく一般性を示す概念として示されなければならなかったのかということは,第二種の認識と第三種の認識が真理に関して何を志向するのかということの相違から説明されなければなりません。すなわち『概念と個別性』で示されているように,第一種の認識とは混乱した認識一般のことであり,第三種の認識は十全で個別的な認識のことです。第二種の認識はその中間で,十全ではあるけれども一般的な認識のことです。それは十全という意味において第三種の認識に否定されたり排除されたりする認識ではありません。むしろ第三種の認識への欲望を産出し得る認識です。けれども倫理的な意味において最高の目標にはなり得ないという点で,第三種の認識とは区別されなければならなかったのだと思われます。
 第二種の認識が最高の目標になり得ないのは,それが個別的な認識ではないという点にあります。だとしたら,第五部定理二三証明でいわれている人間の精神の本性に属するあるものの観念は,第二種の認識ではあり得ないといわなければなりません。なぜならこのあるものといわれているのは,第五部定理二二では人間の身体の本性を永遠の相の下に表現する神の中の観念であるからです。表現されている人間の身体とは一般的なものではなく,個別的なものと解さなければなりません。よってそれは第二種の認識ではあり得ないと僕は考えます。
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金亀杯争覇戦&第五部定理二八証明

2016-03-29 19:07:23 | 競輪
 松山記念の決勝。並びは山崎‐小野の福島,平原‐中村の関東,松谷‐片寄の南関東,脇本‐村上の近畿で浅井が単騎。
 スタートを取ったのは脇本。やや乱れましたが前受けになりました。浅井はこのラインを追走するレースに。4番手に山崎,6番手に平原,8番手に松谷という周回に。残り3周のバックの半ばから松谷が動き,コーナーで脇本を叩きました。平原,山崎の順で続いて引いた脇本が7番手の一列棒状でホームを通過。すぐに脇本が反撃開始。バックで松谷を叩いて打鐘。松谷は村上の後ろを狙いましたが浅井が阻み,4番手まで引いてホームに。ここから平原が発進。脇本との争いがバックまで続き,ようやく平原が前に。ここに中村をどかした村上がスイッチ。さすがに脚を使っていた平原に余力はなく,直線では村上が先頭。しかしマークの浅井が外から差し込んで優勝。村上が8分の1車輪差で2着。浅井の後ろから内目を回った松谷が2車身差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は先月の奈良記念に続いて記念競輪17勝目。松山記念は初優勝。ここは超細切れ戦で単騎に。逆にいえば好きなところを自由に回れるので,タイプ的にはむしろ向くのではないかと思いました。脇本の先行と読んでの近畿ライン追走であったと思いますが,その読みが正しかったことが優勝を大きく引き寄せたといえるでしょう。脇本と平原の争いが長引いたため,展開的に最も向いたのは山崎ではなかったかと思いますが,結果論ですが出ていくタイミングが悪く,外に振られる形になってしまいました。山崎にとってはちょっと残念なレースだったのではないかと思います。

 僕はかつて第二部定理四〇をテーマに据えたとき,この定理Propositioには4つの意味があるのであって,それらの意味がすべて成立していることを検証しました。そのことから明らかなように,僕たちの精神mensのうちにある十全な観念idea adaequataは,同じように僕たちの精神のうちにある別の十全な観念のみから生じるのであって,僕たちの精神のうちにある混乱した観念idea inadaequataから生じるということはありません。ところで第三部諸感情の定義一が明らかにしているように,僕たちの欲望cupiditasというのは,僕たちの身体corpusの刺激状態ないしは僕たちの精神mensのうちにある自分の身体の刺激状態の観念affectiones corporisによって,何事かをなすように決定される限りにおいて僕たちの本性essentia,この場合には現実的本性actualis essentiaのことです。したがって,第三種の認識cognitio tertii generisというのは,個物res singularisの本性の十全な認識のことなので,僕たちの精神のうちにその認識へと向かう欲望が与えられるのは,僕たちの精神のうちに十全な観念が与えられるということによってなのであり,混乱した観念が与えられたとしてもそういう欲望が発生することはあり得ません。したがって,何らかの第三種の認識によって僕たちに与えられた観念から,別の第三種の認識を志向する欲望が生じることがあり得るのは当然ですが,第二種の認識cognitio secundi generisも十全な認識なのですから,この認識から第三種の認識を僕たちの精神が欲望するということもあり得ることになります、しかし第一種の認識cognitio primi generisは混乱した認識なので,その認識からは僕たちの精神を第三種の認識へと導く欲望は発生し得ないということになります。これで第五部定理二八は論証されたといえるでしょう。
                                    
 論理的に記述すればこの通りではありますが,実際にはスピノザがその証明Demonstratioの冒頭にいっている通り,このことはそれ自体で明白だといっていいでしょう。したがって第二種の認識と第三種の認識,あるいは認識の様式に注目した場合の推論と直観scientia intuitivaの間には,一方が他方を否定し得るような関係はまったくないことになります。そして『エチカ』の倫理の最高の目標が第三種の認識であり,『エチカ』が第二種の認識を基礎として記述されていても,それは最高目標への欲望を生じさせ得る記述であるということになります。
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高松宮記念&第五部定理二八

2016-03-28 19:08:36 | 中央競馬
 昨日の第46回高松宮記念
 先行争いになることが容易に推測できましたが,ハナを奪ったのはローレルベローチェ。2番手にハクサンムーン,3番手にミッキーアイルとなりました。少し離れた4番手にビッグアーサー。この後ろはサクラゴスペル,サトノルパン,アクティブミノルの3頭の集団。そしてブラヴィッシモ,スノードラゴン,アルビアーノ,ウリウリの4頭が集団で追走。前半の600mは32秒7のハイペース。
 直線に入るところでローレルベローチェがやや外に出るような形に。自然とハクサンムーンがその外になり,さらにその外になったミッキーアイルが前の2頭を差して先頭。さらにこの外からビッグアーサーが伸びてミッキーアイルを差し切ってレコードタイムで優勝。4分の3馬身差の2着にミッキーアイル。内目から馬群を割るように伸びたアルビアーノが1馬身4分の3差で3着。
 優勝したビッグアーサーはこれが重賞初勝利での大レース制覇。5歳ですが虚弱体質の影響もあり,3歳4月にデビューして4歳の6月まで5連勝。その後もオープンは勝ち,重賞でもすべて入着。前走の5着がワースト着順でしたが,京都の1200mの大外枠での敗戦はあまり気にする必要がないもので,僕はここでは最有力候補と考えていました。条件戦でもスプリント戦で連戦連勝するような馬は大概は大成するもので,それを実証する形。1600mでも長いかもしれない典型的なスプリンターではないでしょうか。右回りより左回りの方が馬にとって走りやすいということはあるかもしれません。レコードタイムは馬場状態の影響が大きかったものと判断します。父はサクラバクシンオー
 騎乗した福永祐一騎手は昨年の南部杯以来の大レース制覇。第24回以来12年ぶりの高松宮記念2勝目。管理している藤岡健一調教師は開業から約13年4か月で大レース初勝利。

 第三種の認識cognitio tertii generisが第二種の認識cognitio secundi generisを否定しないということは,認識の様式として直観scientia intuitivaが推論を否定しないことを直ちに意味しなければなりません。確かに推論なくして直観なしと断言するのは危険性が伴いますが,認識の様式として推論が直観に対立することはあり得ないという結論にはなるからです。なぜなら,もしも第三種の認識と第二種の認識が,認識の様式として対立的であるとするなら,一方が他方を排除するという関係にあるのでなければなりませんが,『エチカ』の記述は明らかにそういう関係があるということを否定していると僕は考えるからです。
 たとえば第二部定理四一の記述というのは,僕がいう意味においての虚偽falsitasと真理veritasとの関係から,第二種の認識と第三種の認識は対立的ではなく,むしろそれらふたつの認識が,第一種の認識cognitio primi generisと対立するということを示しています。そして次の第二部定理四二の記述も,第二種の認識と第三種の認識は共に真理の規範になるという点での共通性を有し,真理の規範とはなり得ない第一種の認識と対立するという主旨の記述になっています。これらから理解できるように,少なくとも真理と虚偽という観点からみる限り,第二種の認識と第三種の認識が対立するということはあり得ず,むしろそれぞれが第一種の認識と対立するのです。『エチカ』における最終的な目標が,現実的に存在する人間が享受する至福beatitudoにあるのだとしても,記述自体は真であるか偽であるかの二項対立でなければなりません。だから『エチカ』が第二種の認識に基づいて記述されていたとしても,それはそのことだけを根拠にして記述が真であるということの証明Demonstratioになりますし,少なくとも真偽の観点からは,第三種の認識によって排除されたり否定されたりしなければならない記述ではあり得ないということになります。
                                     
 ですが,第三種の認識が第二種の認識を排除しないという点だけに注目するなら,そのことを最も明瞭に示しているのは第五部定理二八であるといえるでしょう。
 「物を第三種の認識において認識しようとする努力ないし欲望は,第一種の認識から生ずることはできないが,第二種の認識からは生ずることができる」.
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ドバイワールドカップデー&直観と推論

2016-03-27 19:25:05 | 海外競馬
 日本時間の昨晩から今日の未明にかけて開催されたドバイワールドカップデー。今年は6つのレースにのべ10頭の日本馬が参戦しました。頭数が多いので短評は入れません。
 ドバイゴールドカップGⅡ芝3200m。ネオブラックダイヤは前2頭から離れた3番手を追走。超スローペースだったのですが後ろの4番手も離れて縦長の展開。向正面の半ばから後ろとの差は詰まっていき,3コーナーを回ったあたりから前を追い掛け始めました。しかし直線では一杯。8着でした。
 UAEダービーGⅡダート1900m。ラニは発走後に躓き,集団から離れた最後尾を追走。向正面で外から追い上げました。直線では一旦は前に突き放されましたが外から来た馬と併せるように伸び,前を差し,追ってきた馬の追い上げも凌いで優勝。ユウチェンジは3番手からのレース。3コーナーで先頭に立つと直線では後ろを離したものの,途中で一杯になり,2頭に差されて3着。オンザロックスは4番手から。前が詰まるようなレースになってしまい最終コーナーでは最後尾に。脚は残していたようで直線はよく伸び,5着でした。
 優勝したラニは重賞初勝利。母はヘヴンリーロマンスで祖母がファーストアクト。3つ上の半兄が昨年のシリウスステークスと先日の名古屋大賞典を勝っている現役のアウォーディーで2つ上の半姉が昨年のエンプレス杯ブリーダーズゴールドカップ名古屋グランプリ,今月のエンプレス杯を勝っている現役のアムールブリエ。Laniはハワイ語で天国。日本馬による海外重賞制覇は昨年の香港カップ以来。ドバイでは一昨年のドバイシーマクラシック以来。このレースを日本馬が勝つのは初めて。
                                    
 騎乗した武豊騎手は昨年の香港カップ以来の海外重賞制覇。ドバイでは2007年のドバイデューティフリー以来。管理している松永幹夫調教師は2010年のマクトゥームチャレンジ3以来の海外重賞2勝目。
 アルクオーツスプリントGⅠ芝1000m。ベルカントは中団の内から。馬群は外の方に出ていくレース。直線半ばからは前を追走できなくなり,12着。
 ドバイターフGⅠ芝1800m。リアルスティールは行きたがるのを宥めるように外の3番手。ずっと外を回ったので3コーナーでは5番手くらいに。コーナーの途中で手が動き出しましたが,そのまま前を追っていき,残り200m付近で前を差して先頭。1頭だけ外から追ってきましたが,最後は同じ脚色になり,そのまま先頭を譲らずに優勝。
 優勝したリアルスティールは昨年の共同通信杯以来の勝利で大レース初制覇。父はディープインパクト。3代母が世界的名牝。母のはとこに2007年のファンタジーステークスを勝ったオディール。日本馬による海外GⅠ制覇は昨年の香港カップ以来でドバイでは一昨年のドバイシーマクラシック以来。ドバイターフも一昨年以来です。
                                    
 騎乗したイギリスのライアン・ムーア騎手は昨年の香港マイル以来の日本馬騎乗での大レース制覇。ドバイでは一昨年のドバイシーマクラシック以来。日本馬に騎乗してのドバイターフは初勝利。通算では2勝目。管理している矢作芳人調教師は2012年のJBCスプリント以来の大レース制覇。海外重賞は初勝利。
 ドバイシーマクラシックGⅠ芝2410m。ドゥラメンテは6番手から。といっても向正面では一団で,5馬身くらいに馬群は密集。直線は外に出て,抜け出した馬を追い掛けましたが徐々に内にきれ込むような走りに。最後は突き放されて2着。ラストインパクトは5番手のインから。その位置をキープ。直線は馬群を割って伸びましたが3着。ワンアンドオンリーは2番手のイン。コーナーでペースアップしたときに追走に手間取りましたが,直線は盛り返すような形での5着。
 ドバイワールドカップGⅠダート2000m。ホッコータルマエは好発でしたが控えて後方に。向正面で手が動き出し,3コーナーを回るとついていかれなくなり9着でした。
 
 スピノザの哲学において直観scientia intuitivaが推論を排除する認識様式でないと僕が解している理由に関しては,ここまでに考察した内容から理解してもらえるのではないかと思います。第三種の認識cognitio tertii generisが神Deusの属性attributumの形相的本性essentia formalisの十全な認識から個物res singularisの本性の十全な認識に進むと定義されるとき,神の属性の形相的本性の十全な認識は,第二種の認識cognitio secundi generisによって現実的に存在する人間のうちに生じると僕は考えているからです。したがって第三種の認識を直観,第二種の認識を推論と名付けた場合には,直観は推論を排除しないどころか,推論なくして直観なしとさえいえることになるからです。
 ただしこれは,認識の様式に注目したからこのような結論になっているだけともいえることを僕は認めます。というのは,第二部定理三八系が意味しているのは,現実的に存在する人間の精神mens humanaの一部には必然的にnecessario共通概念notiones communesが存在するということです。そして神の属性の形相的本性の観念ideaというのは,この必然的に存在する共通概念のひとつに該当すると僕は考えます。ところが共通概念というのは理性ratioによる認識の基礎,いい換えれば推論の基礎なのであり,推論そのものであるとはいい難い面があります。これは神の属性の形相的本性の十全な認識が現実的に存在する人間の精神のうちに発生するならば,これは第二部定理三八によって説明されるべき思惟作用であり,第二部定理四〇によって説明されるべき思惟作用ではないということから明らかだといわなければなりません。第二部定理四〇の思惟作用が直観としてではなく人間の精神のうちに生じるという場合にはそれを推論といって差し支えないでしょう。しかし第二部定理三八や第二部定理三九の様式で人間の精神のうちに生じる思惟作用に関しては,それを推論というのは確かに無理があるように思えます。推論といわれるべき作用がそのうちには含まれていないと解するのが一般的だと思われるからです。
 だから共通概念なくして直観なしということは確かにいえるかもしれませんが,推論なくして直観なしというのは危険ないい方でしょう。ただ,第三種の認識が第二種の認識を排除あるいは否定しないことは,間違いないといえます。
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第三部定理二二&推論

2016-03-26 19:30:27 | 哲学
 第三部定理二一が論拠になって証明されるのが第三部定理二五です。そして第三部定理二三が論拠になって証明されるのは第三部定理二六です。二五と二六は続いているのに,二一と二三はそうではありません。この間にスピノザは何をいっているのでしょうか。該当する第三部定理二二をみてみましょう。
                                    
 「ある人が我々の愛するものを喜びに刺激することを我々が表象するなら,我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して,その人が我々の愛するものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば,我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう」。
 第三部定理二一は,愛するものの喜びlaetitiaは自分の喜びであり,愛するものの悲しみtristitiaは自分の悲しみであることをいっていました。それに続けてスピノザは,愛するものを喜ばせるものに対して愛amorを感じ,愛するものを悲しませるものに対しては憎しみodiumを感じるといっていたのです。
 この定理Propositioを証明するのは簡単です。なぜなら,愛するものの喜びが自分の喜びであるなら,愛するものを喜ばせるものが自分に喜びを齎すことになります。逆に愛するものの悲しみは自分の悲しみなのですから,愛するものを悲しませるものは自分にも悲しみを齎すでしょう。これらはそれぞれ,愛するものを喜ばせるものという観念ideaを伴った喜びであり,愛するものを悲しませるものという観念を伴った悲しみです。よって第三部諸感情の定義六により,自分が愛するものを喜ばせるもののことを愛し,第三部諸感情の定義七により,自分が愛するものを悲しませるもののことを憎むといっているのと,これらは同じことになるからです。
 ここから分かるように,僕たちはあるものを愛すれば,とくにその対象が人間である場合に顕著ですが,その愛によって別の愛や憎しみが容易に発生するようになっているのです。

 第二種の認識cognitio secundi generisは徳virtusあるいは至福beatitudoであったとしても,最高の徳ではないし最高の至福でもありません。それは第三種の認識cognitio tertii generisの方にあるのです。スピノザが徳とか至福ということばを用いることによって,何らかの倫理的観点をそこに導入しているのは間違いないといえるでしょう。そうであるならスピノザにとって人間の倫理の最高の目標になるのは,第三種の認識によって個物res singularisを認識し,そしてそれだけ多く神Deusを認識するということにあったのも間違いないところだと僕は考えます。
 このような事情に顧慮するならば,『破門の哲学』においてフレイスタットの見解に沿う形で,『エチカ』を支える定義Definitioや公理Axiomaのすべてが第三種の認識によって齎されていると結論されているのは,理があるところだといわなければならないでしょう。そもそもスピノザ自身が第三種の認識によって多くの事物を認識しているのでないとしたら,スピノザがそれを人間にとって最高の倫理的目標であると主張すること自体が不可能であるといったとしても,それは不条理なことをいっているわけではないと解さなければならないからです。
 しかし僕は,『エチカ』を支えている諸原理は,第二種の認識によって齎されている,いい換えれば『エチカ』は第二種の認識に基づくことによって記述されていると考えています。僕がこのように考える根拠は,ふたつあります。
 まず,第三種の認識についてスピノザは直観知scientia intuitivaと名付けています。対して第二種の認識についてそれを理性ratioと名付けています。ですが直観というのは明らかに認識cognitioの様式を示しますが,理性というのは精神の能動actio Mentisを示そうとするならともかく,認識の様式を示すためによい命名であるようには僕には思えません。そこで認識の様式として直観に対して僕は理性のことを推論ということにします。第二部定理四〇で示されている思惟作用がある人間の精神mens humanaのうちに直観としてではなく生じるという場合,これを推論と名付けるのはさほど無理がないことだと思うからです。
 僕の考えでは,スピノザの哲学ではこの場合の推論は,直観と対立的な認識の様式ではありません。他面からいうなら,直観は推論を排除しません。
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欲望の代行&第四部定理二四

2016-03-25 19:13:27 | 歌・小説
 リーザの死の発端となった叫び声を上げたのが記者自身であったという読解が成立するかどうかはもっと検討しなければなりませんが,この読解にはひとつ,僕にとって大きな魅力があるのです。
                                    
 ドストエフスキーとゲーテの関係は,ドストエフスキーがゲーテを高く評価していたという点にあります。そこで『悪霊』では『ファウスト』をモチーフとした場面が設定されました。リーザが撲殺された現場の火事です。そしてこのモチーフは,単に火事という点で一致しているだけでなく,使嗾による殺人であったという点も一致していました。リーザが死んだ現場の火事は,スタヴローギンによる使嗾だったわけです。もし記者が,それによってリーザが殺されるということを念頭に置いて叫んでいたとしたら,その使嗾の現場で別の使嗾があったことになります。これが僕にとってこの解釈の大きな魅力なのです。
 厳密にいうと,実際にリーザを撲殺しただれかは,記者の心中にリーザを殺したいという願望があったと知っていたとは考えられないので,これは使嗾とはいえないのは確かです。スタヴローギンの心中にマリヤを殺したいという願望があったことを,実行犯のフェージカは理解していたのであり,それは使嗾を成立させるひとつの条件をなすといわねばならないからです。ですが,もしも記者がある意図をもって叫び声を上げ,第三者によってその意図が達成されたとしたら,スタヴローギンの欲望が代行された現場において,記者の欲望が代行されたということになります。つまりある意味において,スタヴローギンの使嗾が実行された現場に,記者というミニ・スタヴローギンが出現したということになるのです。このようなからくりが小説の内部に潜んでいるという読解を可能にさせるので,僕はこの解釈に魅力を感じます。
 ただしこの読解には難点があります。なぜ記者がリーザを殺したいという願望を抱いたのか,それが判然としていないからです。

 いかにそれが神学的な概念notioと異なっていたとしても,いい換えるならスピノザが生きていた時代に人びとが判断していた概念と異なっていたとしても,徳virtusとか至福beatitudoといった語句を用いて第三種の認識cognitio tertii generisに言及したということ自体が,そこにスピノザの倫理的観点が含まれていたということの何よりの証明であると僕は考えます。
 では理性ratioによる認識,すなわち第二種の認識cognitio secundi generisは徳ではないとスピノザは考えていたのかといえば,そうではないと僕は解します。このことは第四部定理二四をみれば明らかだと思うからです。
 「真に有徳的に働くとは,我々においては,理性の導きに従って行動し,生活し,自己の有を維持する〈この三つは同じことを意味する〉こと,しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすること,にほかならない」。
 現在の考察との関連では,有徳的であるということが理性に従うことであるという点だけを明らかにできれば十分なので,ここではそのことだけを論証しておきます。
 第四部定義八が意味するのは,ある事物が有徳的であるということは,その事物に固有の現実的本性actualis essentiaの法則に従って働くagereということ,能動actioという意味において働くということです。そして第三部定理三は,人間の精神mens humanaは十全な観念idea adaequataを有する限りにおいて能動的である,すなわちここでいわれている意味において働きをなします。理性による認識というのは,共通概念notiones communesという十全な思惟の様態cogitandi modiを基礎とした第二種の認識です。よって現実的に存在する人間においては,理性に従うことが有徳的であるということになるのです。
 したがって理性が徳であることをスピノザは認めていると考えなければなりません。そしてこれは第五部定理二五と少しも矛盾することではありません。なぜなら第五部定理二五が理性による認識あるいは同じことですが第二種の認識と関連して何かに言及しているとすれば,それは理性による認識は徳ではあるけれども,最高の徳ではないということだからです。いい換えれば第五部定理四二により,それは至福ではあるけれども最高の至福ではないということだからです。つまりそれは倫理の最高の目標ではないということです。
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第三部定理二七&倫理的観点

2016-03-24 19:18:58 | 哲学
 第三部定理二三の様式で発生する喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaは,その直後の備考Scholiumでスピノザがいっているように,あまり基礎の固い感情affectusではありません。確かに僕たちは憎んでいる人間の悲しみを喜び,逆に憎んでいる人間の喜びを悲しむという傾向を有しますconari。ですがこれはあくまでもその人間を憎んでいるということだけを念頭に置いた場合にのみ成立しているのであり,この憎しみodiumを排除して人間の現実的本性actualis essentiaを考察した場合には,これとちょうど逆の傾向conatusが人間にはみられるからです。いい換えればこの種の喜びと悲しみは,必然的にnecessarioある葛藤を伴うような喜びそして悲しみであるといえます。
                                     
 なぜそうであるのかといえば,人間は一般に,他人の喜びを喜び,逆に悲しみを悲しむという傾向を有しているからです。いい換えるなら,人間はごく一般的に,他者の感情を模倣するという傾向を有しているからです。それが示されているのが第三部定理二七です。
 「我々と同類のもの(res nobis similis)でかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら,我々はそのことだけによって,類似した感情に刺激される」。
 ここから分かるように,人間は一般にある人間を何の先入観あるいは感情なしに表象するimaginari場合には,その人間の喜びも欲望cupiditasも悲しみも模倣することになるのです。しかしその人間に対する憎しみを自覚している場合に限っては,喜びを悲しみ,悲しみを喜ぶということになるのです。そしてスピノザは示していませんが,おそらくその人間が欲するものを忌避し,忌避するものを欲することになるでしょう。
 しかしもしも憎んでいるという感情を脇において単に同類の人間としてその人間をみるなら,相手の喜びは自分の喜びであり,相手の悲しみが自分の悲しみであることになります。このために,第二部定理二三でいわれる喜びと悲しみは,葛藤を伴わざるを得ないのです。

 第三種の認識cognitio tertii generisが,神Deusの属性attributumの形相的本性essentia formalisの認識から事物の本性の認識へと進むと説明されるなら,現実的に存在する人間がこの認識を果たすために,神の属性の形相的本性の十全な観念idea adaequataがその人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseの一部を構成しているのでなければなりません。『エチカ』においてこの役割を果たすのが第二種の認識cognitio secundi generisであるというのが僕の見解です。しかしそれはあくまでも神の属性の形相的本性の十全な認識なのであって,事物,個物res singularisと等置できるか,そうでなくともその事物に含まれるものとしての個物の本性の認識ではありません。こちらの認識は第三種の認識といわれているのであり,それが第五部定理二四においては神を多く理解する認識であり,第五部定理二五においては人間の精神にとっての最高の徳virtusであるとされているのです。
 スピノザがいう徳というのは,第四部定義八から明らかなように,人間が能動的である場合の本性のことにほかなりません。だから理性ratioもまた徳であるということはスピノザも認めていると解するべきでしょう。しかし第五部定理二五にいわれているように,それは最高の徳とはされていません。理性による認識は第二種の認識なのであり,第三種の認識ではないからです。さらに注意しなければならないのは,第五部定理四二において,この徳が至福beatitudoと等置されている点です。スピノザが至福を徳と等置したのは,神学的な観点では至福は来世において得られるもの,他面からいえば現世において徳を積むことによって死後に得られるものというような概念notioであったのに対して,至福は現世で積む徳そのものなのであって,現世において,いい換えるなら現実的に存在する人間が享受できるものであるということを示すためでした。したがって第三種の認識が最高の徳であるならば,それは同時に最高の至福であるということになります。
 したがってスピノザはここでは単に真verumと偽の観点から第三種の認識に言及しているのではないのです。むしろ倫理的な観点からの言及なのです。神を多く認識するcognoscereことは,神を多く十全に認識するためというよりは,人間が倫理的であるための条件であるとスピノザは考えていることになります。
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農林水産大臣賞典桜花賞&第五部定理二五

2016-03-23 19:11:16 | 地方競馬
 第62回桜花賞
 ワカチナはダッシュが鈍く最後尾に置かれました。先手を奪ったのはオウカランブ。インカローズ,モダンウーマン,リンダリンダ,スアデラ,タケショウメーカー,ノーノーイエース,ポッドガゼールという隊列でしたが,この8頭はほぼ一団でした。前半の800mは50秒3のミドルペース。
 向正面の中ほどからモダンウーマンが内から,リンダリンダが外から上昇。この2頭に挟まれたインカローズは後退。3コーナーを回ると外のリンダリンダが2番手になり,モダンウーマンはインの3番手。少し離れて外からスアデラが追い掛けてきました。直線に入るあたりでオウカランブは一杯。一旦はリンダリンダが前に出たと思いますが,最内を突いたモダンウーマンがこれを捕えて優勝。1馬身差でリンダリンダが2着。最後に動いたタケショウメーカーが大外を伸びて3馬身差の3着。
 優勝したモダンウーマンはトライアルのユングフラウ賞に続いて南関東重賞4連勝。コースも距離も心配ないことは分かっていましたので,枠順が最大の問題。3枠を引けた時点で勝利の可能性がだいぶ高まったといえるのではないでしょうか。リンダリンダには前に出られましたが,直線に入るところでは手応えに余裕があり,前が開けば大丈夫と思いました。最内はそこがたまたま開いたということでしょう。距離が伸びるのはプラスとは思いませんが,同世代の牝馬相手なら能力で相殺は可能と思います。ただ2着馬の方が適性は高そうなので,東京プリンセス賞では逆転の可能性がないとは思いません。父はサウスヴィグラス。母の父は2000年のアンタレスステークス,2001年のアンタレスステークス,2002年の平安ステークス,2003年の平安ステークスとマーチステークスを勝ったスマートボーイ。祖母の半弟に2002年の阪神ジャンプステークスを勝ったミレニアムスズカ
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手はユングフラウ賞以来の南関東重賞制覇。桜花賞は初勝利。管理している川崎の佐々木仁調教師も桜花賞は初勝利。

 現実的に存在する人間の精神による個物の認識は,第三種の認識cognitio tertii generisに分類されています。これはスピノザがこの認識に,神の属性の形相的本性の認識から事物の本性の認識に進むという説明を与えていることから明白です。確かにスピノザは事物の本性と記述し,個物の本性とは記述していません。しかし共通概念は個物の本性の認識ではないので,ここでいわれている事物の認識が個物の認識であるということ,あるいは仮にそう等置することができないとしても,個物の本性の認識がここでいわれる事物の本性の認識に含まれなければならないのは間違いありません。
                                     
 このことは『エチカ』の定理によって確かめることができます。第五部定理二五をみてみましょう。
 「精神の最高の努力および最高の徳は,物を第三種の認識において認識することにある」。
 この定理を論証するにあたり,スピノザはまず第三種の認識が,神の属性の形相的本性の認識から事物の本性の認識に進む認識であるということを確認しています。そしてその上で第五部定理二四を援用して,この仕方で事物をより多く認識するほど神を多く認識することになるといっています。しかるに第五部定理二四は,事物の認識について言及しているのではなく,個物の認識について言及しているのです。したがって第三種の認識は神の属性の認識から事物の本性の認識へと進む認識であると定義されていますが,そこでいわれている事物を個物と等置してよいか,少なくとも個物の認識は,そこでいわれている事物の認識に含まれているということを,スピノザ自身が認めていることは明らかだといえるでしょう。
 なお,この定理は精神の徳について言及されていますが,こちらの点はここでの考察とは直接的には関係しないので,詳しい証明は割愛します。スピノザは精神の最高の徳は神を認識することにあると考えていますので,神をより多く認識する第三種の認識が,精神の最高の徳であるということになっています。
 第三種の認識が徳と関連付けられているということ自体はここでも意味を有します。第三種の認識は,単に個物を真に認識するという意味だけを有するのではありません。
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瀬戸の王子杯争奪戦&第五部定理二四

2016-03-22 19:15:23 | 競輪
 玉野記念の決勝。並びは新田‐永沢の北日本,河村‐武田‐神山‐牛山の関東,古性‐稲垣‐中村の近畿。
 新田がスタートを取って前受け。3番手に古性,6番手に河村で周回。残り3周のバックから河村が上昇。古性がすぐさま引いて7番手に。河村はホームに入ると新田を叩いて前に。そのまま後ろの様子を見ながらペースアップしていき,打鐘前のバックではすでに全開。5番手を外の古性と内の新田で併走という状態がホーム手前まで続きましたが,ホームで古性がそのまま発進。武田がコーナー手前で番手から出ていき,バックで古性は一杯。今度は稲垣が自力発進しましたがこれに武田が抵抗。結果的に稲垣は武田の前には出られず。後方の新田が最終コーナーから捲り追い込みをかけ,直線で外から前をすべて飲み込んで優勝。離れず続いた永沢が4分の1車輪差の2着で北日本のワンツー。直線で武田と神山の間を突いた牛山が半車輪差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は昨年10月の向日町記念以来の優勝で記念競輪6勝目。玉野記念は初優勝。ここは河村と古性で先行争いになることが予想され,展開的に有利だろうと思われました。実際には古性が河村を行かせてから発進になったので,武田と古性,そして武田と稲垣で争う形にはなりましたが,脚力が上位で脚を最も温存することができたので,やはり展開面で利があったのは間違いありません。もう少し早く動いてしまってもよかったかなとは思いますが,1着を取っているのですから問題なかったということでしょう。

 『破門の哲学』では,『エチカ』の論旨を支える定義Definitioと公理Axiomaのすべては第三種の認識cognitio tertii generisによって齎されているとされています。僕はこの見解には賛同しかねますが,そう主張される理由は分からないではありません。
                                     
 『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』は,神Deusを十全に認識するcognoscereための所与の十全な思惟の様態cogitandi modiを探求するという目的が立てられて,それを解明するために議論が堂々巡りしたまま未完となりました。これに対して『エチカ』では,共通概念notiones communesがそうした思惟の様態として発見されているので,神を十全に認識するということについては何も問題が発生していません。そしてその神の十全な認識を起点として,個物res singularisを十全に認識するということが新たな目的として発生しています。これは『エチカ』において真verumなるものが何かということを解明するための目的というより,倫理的な観点の目標のようなものになっています。
 スピノザは第五部定理二四で次のようにいっています。
 「我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する〈あるいはそれだけ多くの理解を神について有する〉Quo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimus.」。
 この定理Propositioはスピノザがいっているように第一部定理二五系から明白であるといえます。というのも個物Res particularesとは神の属性を一定の仕方で表現する様態sive modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimunturなのですから,個物を認識するということは,神の属性が一定の仕方で表現された様態を認識するというのと同じです。つまり多くの個物を認識するとは,それだけ多くの神の属性を一定の仕方で表現している様態を認識しているという意味になります。だから個物を多く認識することと,神を多く認識すること,いい換えれば神を多く理解するということとは同じことなのです。
 そこでこの定理は,もし僕たちが個物を多く十全に認識するなら,それだけ多く神を十全に認識すると読解することができます。ところが,第二部定理三七により,共通概念は個物の本性essentiaの認識,つまり個物の十全な認識ではありません。よって第五部定理二四の意味においては,共通概念およびそれを基礎とした第二種の認識cognitio secundi generisによっては,僕たちは神を十全に認識することはできないということになります。少なくとも,多くは認識できません。
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棋王戦&エチカの基礎

2016-03-21 20:09:36 | 将棋
 宇都宮で指された第41期棋王戦五番勝負第四局。
 渡辺明棋王の先手で佐藤天彦八段の横歩取り。双方が中住いで▲3八銀△7二銀の構え。先手の指し方に対応して後手が2筋を凹ませました。部分的には大きな戦果だったと思いますが,総体的にはバランスは取れていたようです。
                                    
 後手が7五に歩を打ち,7六にいた飛車が逃げた局面。△7六桂と打つ手が目につきますが△5二金と上がりました。必要な手であったかもしれませんし,緩手だったかもしれません。
 ▲7三歩成△同銀▲同桂成△同角と清算して▲3三角成と切っていきました。後手は△同玉を選択し先手は▲3四桂。先手はほかにも手段はあった筈で,苦しいと思って勝負にいったというより,これで指せるとみていたのだろうと推測します。
 ▲2五銀を防ぐため相手の打ちたいところに打てと△2五桂。先手はもうひとつの狙いの▲4一銀を決行。後手は打った桂馬を生かして△3七桂成とすると先手も▲5二銀成と踏み込みました。
                                    
 ここから△2八歩成▲同歩とした真意は僕には分かりませんが,勝敗に影響した可能性がある交換だったかもしれません。後手は▲5三飛成を防ぐ必要があって△5四歩。先手は▲7四歩△6四角で角をいつでも取れる状態にしておいて▲5四飛と走りました。
 △6六桂は王手飛車の狙い。先手はそれを食らっては負けですから▲6九王△7八桂成▲同王△6六桂▲8八王までは後手のいいなりになるほかありません。そこで後手は△2六飛と玉の逃げ道を作りました。
 先手の▲2七歩はさっきの交換があったために指せた手。後手の△同成桂は仕方ありませんが▲2五歩の詰めろが掛かりました。
                                    
 第3図で先手が勝っているのでしょうか。この後,一時的に後手玉の詰めろが消えたため,後手に勝機が訪れたようにも思えたのですが,先手玉への詰めろが続かず,先手が勝っています。
                                      
 渡辺棋王が3勝1敗で防衛38期,39期,40期,今期と四連覇で4期目の棋王です。

 人間の知性が神を十全に認識するために必要とされたのが共通概念notiones communesであったと僕は考えます。そしてこの認識が『エチカ』では第二種の認識cognitio secundi generisに分類されています。つまり第二種の認識とは,現実的に存在する人間の知性が神を十全に認識するための所与の思惟の様態であると僕は解します。
 正確にいうと,現実的に存在する人間に所与である思惟の様態というと,人間が生得的に保持している思惟の様態と解されかねませんが,共通概念がそういう思惟の様態であると僕が解しているわけではありません。ただ,第二部定理三八系は,現実的に存在するすべての人間の知性の一部は共通概念によって組織されるということを意味します。僕はこの意味において共通概念は現実的に存在する人間の知性にとって所与の概念であるというのです。より確実性を期するなら,単に所与の概念であるというだけでなく,所与であると同時に十全な概念です。
 これが神を十全に認識するために必要とされる概念であると解するのですから,僕は『エチカ』の全体は第二種の認識を基礎として記述されていると判断します。スピノザはこの共通概念を公理とみなし,「解する」という種類の定義を交えて,多くのことを証明していると考えるのです。共通概念は第二部の後半になって初めて『エチカ』で詳しく説明される概念ですが,すでに第一部定理八備考二において,スピノザは公理と共通概念を等置するようなことを述べています。それは第一部定理七でいわれていること,すなわち実体の本性に実体自身の存在が属するということは,定理によって証明が必要なことであるというより,公理としての性格を保持する共通概念であるという主旨の論述です。
 ただし,この点については見解の相違もあります。『概念と個別性』では,『エチカ』の論述の基礎をなしているのは第二種の認識であるとなっています。そこで朝倉が論拠としているのは,僕がここで説明したことと完全に一致しているとはいえないかもしれませんが,ほぼ同じであるといって間違いありません。つまり僕はこの朝倉の見解に同意するということです。ですがだれもがそういっているわけでもないのです。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&十全な認識の分類

2016-03-20 19:25:46 | 将棋
 今日の午前中に放映された第65回NHK杯テレビ将棋トーナメントの決勝。村山慈明七段と千田翔太五段は公式戦初対局。
 振駒で村山七段が先手になり角換り相腰掛銀。千田五段は金を6二に上がって飛車を8一に引くという構え。先手から仕掛ける将棋になりました。
                                    
 先手が早逃げしたところ。後手は△4八とと寄りました。これを取ってしまうと△8六歩~△8七歩と打たれたときに▲同金と取れなくなるので▲6八金右と逃げましたが,この2手の交換は後手が大きく得をしたように思いました。
 ここから△2八飛▲5五角△3八飛成というのはやや不思議な気もする手順。後手は5九や3八に飛車を打っておけば▲5五角とは打たれないからです。逆にいえば打たれることを望んでいたということでしょう。
 先手は打った角を生かして▲6五銀。△2五銀と桂馬を取って攻め合う順もありそうでしたが△同歩と取って▲7三角打を許しました。
 △5二金と逃げておいて▲9一角成のときに△5八とで攻め合いに。次に△6八とと取られる手が詰めろになるので▲7七金右と逃げましたがそこで△9一飛と角を取り▲同角成。手順の流れだけいうと後手の読み筋で進行したような感がありました。ところがそこで△6八とと寄った手は詰めろでなく▲5五桂と打った手が詰めろ。△5四銀打と使って受けたのに▲6一飛の追撃。
                                    
 実戦は第2図から7八の金を取って受けに回りましたが,これ以降は後手の勝ち筋が出てこなかったように思えました。後手はどこかで2五の桂馬を取っておかなければならず,うまいタイミングで取れれば勝ちがあったのではないかと思います。ただ,総じていえばこの将棋は解説の先手の指し手がよく当たっていて,それだけ先手にとっては分かりやすい将棋だったといえます。早指し戦ではこれは大きなアドバンテージになったのではないかと感じました。
 村山七段が優勝。2007年の新人王戦以来の2度目の棋戦優勝です。

 第一種の認識を僕が全面的に否定しないということの理由はこれで理解してもらえたものと思います。とはいえ,それ自体でみれば混乱した観念というのは有と無の関係のうちに無に該当するものです。ですからそれが永遠なる思惟の様態であるということはあり得ません。というよりもそれは持続という観点からみた場合にも,存在するというような記述をすること自体が相応しくない思惟の様態であるということになります。僕は便宜的に混乱した観念が現実的に存在する人間の精神のうちにあるという類のいい方をしますが,本来的にいえばそれは無なのですから,あるという述語が適さない主語であるという点には常に注意を払っておいてください。
 一方,有である思惟の様態,すなわち十全である思惟の様態については,スピノザはその認識を二種類に分類しています。いうまでもなく第二種の認識と第三種の認識がそれに該当します。つまり現実的に存在する人間の精神のうちに十全な観念が発生する認識は,ふたつの様式に分類することができるとスピノザは考えていたといえるでしょう。厳密にいうなら十全な認識が二種類に分けられるのと同じ仕方で,混乱した認識も分類することが可能であったと僕は考えますが,混乱した認識のすべてを第一種の認識とスピノザが規定したのは,この認識に関してはそれを分類する必要がなかったからだろうと思います。逆にいうなら,十全な認識をふたつのタイプに分類したのには,何らかの必要性があったからだと僕は推測しています。これは『知性改善論』の最後の方がトートロジーで終焉してしまっていることと関係しているのかもしれません。ドゥルーズの見解はそうなっていて,僕はそれが『知性改善論』の未完の理由であるという主張にはあまり同意することができませんが,そこで明らかにされた問題を解決するためには,十全な認識をふたつのタイプに分類する必要があったということについては同意できます。
 『知性改善論』は,なるべく早く神を十全に認識するということが目標として立てられています。そしてそのためには,所与であるような何らかの十全な認識が必要であるとされているのです。
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王将戦&誤謬の規準

2016-03-19 19:20:00 | 将棋
 仙石原で指された第65期王将戦七番勝負第六局。
 羽生善治名人の先手で相矢倉。先手の早囲い。この戦型は先手が主導権は握りやすいのですが,玉は先手の方が薄いので,戦いで明確なポイントを奪えないと先手の方が勝ちにくいように思います。
                                    
 先手が▲3五歩と突いて攻めの継続を図ったのに対して後手の郷田真隆王将が△6五歩と打って反撃の構えをみせた局面。すでに先手の方がやり過ぎていて苦しいのかもしれません。
 ▲3四歩△同銀▲3五歩△4五銀▲5七桂と進めました。先手は1五に銀が出るのが狙いのひとつの筈で,そのために後手玉を2三に誘っておいたと思われます。その意図からするとこの手順は曲線的で,変調のように思えました。
 △6六歩▲同金の交換を入れてから△3六銀と逃げたところで先手はようやく▲1五銀。受け方はいくつかあると思いますが実戦の△2七銀打は最も強い指し方だと思います。後手はこの時点である程度の目算が立っていたのではないでしょうか。
 ▲同飛△同銀成と切って▲5二銀と打っていったのはここでは仕方なかったように思います。ただ△6四飛▲同銀成としてから△3三金寄と逃げられるので,後手としてもそんなに怖い順ではなかったのではないでしょうか。
 ▲4一銀不成△3一金と進めるのは打った銀を遊ばせないために当然。そして▲2五歩と玉頭からの攻めを繋ごうとしました。
 ここで後手は△3八飛と反撃。先手は▲2四銀と出たものの△1二王と逃げられ,どうもこれで後手よりも早い攻めが消えているようです。
                                    
 第2図から▲7二飛と打ったのも打ち場所としてはよくなかったのかもしれません。ただ,3三の金を取ってそれを受けに使って粘る展開になっていますから,どちらにしてもここでは後手が優勢といえそうです。
 郷田王将が4勝2敗で防衛第64期に続く連覇で2期目の王将位です。

 虚偽と誤謬のうち,誤謬はそれ自体で否定してもいいけれども虚偽については全面的に否定する必要はないと僕が考えるもうひとつの根拠は,スピノザが第二部定理一七備考で述べていることと関係します。関係するというより,これはこのことの説明そのものであるとさえいえるでしょう。
 ここでスピノザがいっているのは,精神がある事物を表象するとき,いい換えれば混乱して認識するとき,もし同時にそれが表象であるということ,すなわちそれが混乱した観念であるということを知っているならば,精神にとって事物を表象すること,つまり混乱して認識することは,欠点であるどころか長所であるということです。要するにこのブログの用語に適うようにいうなら,精神の現実的有の一部がある虚偽によって構成されているときに,その精神がそれを虚偽であると知っているなら,虚偽が精神の現実的有を構成し得るということ自体が,その精神にとっての長所であるとスピノザは主張しているのです。
 もちろんスピノザは,単に虚偽が精神の現実的有の一部を組織することを長所とみなしているのではありません。それを虚偽であると知っているという条件の下に長所といっているのです。ですからもしも精神がそれを虚偽と知ることが不可能であると仮定したら,これは精神の欠点以外の何物でもないことになります。これを僕は誤謬といっているのですから,僕は誤謬については全面的に否定します。
 一方,スピノザは虚偽であるということを知っているだけで,それはその虚偽を認識する精神の長所であるといっているのであって,それがどのような虚偽であるのか,いい換えれば第二部定理三五にいわれている認識の不足が具体的にどのような不足を意味するのかを知っているかどうかを,混乱した認識の長所の規準とはしていません。だから僕は認識の不足が何であるのかを知っているということを精神が誤謬を犯していることの規準とはせずに,何であるか具体的には分からなくても何らかの認識の不足があるということ,つまりそれがどんな虚偽かは分からなくても確かに虚偽であることを知っているということを誤謬の規準に据えるのです。
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女流王位戦&第二部定理三五備考の意味

2016-03-18 19:35:10 | 将棋
 第27期女流王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は清水市代女流六段が13勝,岩根忍女流三段が4勝。清水六段の13勝には岩根三段のプロ入り前の1勝が含まれます。
 振駒で清水六段の先手に決まり岩根三段のノーマル三間飛車。先手の天守閣美濃に後手の美濃囲い。中盤は後手が少しやり過ぎたのかもしれませんが,先手の玉頭への攻めを絡めて優勢に。しかし終盤で明快な決め手を逃してしまったために混戦の最終盤にになりました。
                                    
 先手が詰めろを逃れるために5五の桂馬を角で取り,それを後手が取り返した局面。
 ▲6四桂と王手金取りに打ちましたが,ここは▲8八歩と受けに回る手もあり,その方がよかったかもしれません。ただ王手ですから△7一玉と逃げる一手で,悪くしたというわけではないと思います。
 次に▲5八歩と受けましたが,これは明快な敗着。受けるなら▲8八歩でなければなりませんでした。それなら後手も△7八銀と打つほかなかった筈ですが,この場合には△5九銀と詰めろで飛車取りに打つ手が生じてしまったからです。
                                    
 岩根三段が勝って挑戦者に。タイトル戦は2010年の倉敷藤花戦以来の3度目で初のタイトル獲得を目指すことになります。第一局は5月12日です。

 第二部定理三五備考の抜粋した部分でスピノザが主張しているのは次のことであると僕は解します。
 人間が太陽を表象するとき,この表象像は太陽の十全な観念ではありません。したがって第一部公理六によりそれは現実的に存在している太陽と一致しません。つまり太陽の本性を十全に表現することはありません。ですがこの観念が太陽の本性をまったく表現しないのかといえばそうではありません。この観念はある条件の下に,すなわち自分の身体が太陽から刺激されるという条件の下で,太陽の本性を表現しているのです。
 第二部定理一六系二が示しているのは,この観念は対象というべき太陽よりも,条件となっている自分の身体の状態をより多く表現しているということです。でもたとえ自分の身体の状態の方が多く表現されているといっても,太陽の本性を表現していないというわけではありません。すなわち太陽の表象像は,太陽の本性を十全には説明することができない思惟の様態ではあるけれども,太陽の本性をいくらかは含んでいる思惟の様態であることになります。
 僕はこうしたことが混乱した観念のすべてに妥当すると考えます。また,概念notioというのが,個々の観念から抽出された一般性を対象とする思惟の様態であるなら,このことが概念notioにも妥当する筈だと考えます。つまり混乱した思惟の様態というのは,一般にその思惟の様態の対象となっているものの本性を正しく説明する様態ではないけれども,その対象となっているものの本性を含んでいると解するのです。よって単に人間精神のうちにこうした混乱した思惟の様態いい換えれば虚偽が存在するということは,全面的には否定しなくてよいと考えるのです。ただ,繰り返しになりますが,それは虚偽であるという以上,それ自体では肯定的に評価することはできません。この観念は神がその人間の精神の本性を構成するとともに太陽の観念を有する限りにおいては十全であるといわなければなりませんが,あくまでもその人間の精神のうちにある場合には混乱しているのであり,この精神は太陽の表象像に含まれる認識の不足を補う術をもってはいないからです。
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中日新聞杯名古屋大賞典&第二部定理三五備考

2016-03-17 19:31:44 | 地方競馬
 第39回名古屋大賞典
 最内のダブルスターがハナへ。やや離れた2番手にサクセスコード。3番手はアウォーディーとマドリードカフェの併走。アクロマティック,バンズームと続いてイワクラギンガ,アップアンカー,メモリージルバの3頭が一団。ティアモブリーオ,モズライジンと続きました。ミドルペースだったと思われます。
 1コーナーでアウォーディーがサクセスコードをインから交わして単独の2番手に。バンズームも3番手に上がり,2周目の向正面で外からモズライジンが外を進出。アウォーディーは3コーナーの手前でダブルスターに並び掛けていくとコーナーでは単独の先頭になり,ここから後ろを引き離していく一方というとても強いレース。2秒4もの大差をつけて大楽勝。2着は先に3番手に上がっていたバンズーム。後方から動いたモズライジンが4分の3馬身差の3着。
 優勝したアウォーディーは昨年10月のシリウスステークスに続いて重賞2勝目。その後,フレグモーネや脚部不安でレースに使えずここが復帰戦。昨年9月に初めてダートを使って準オープンを勝利。シリウスステークスは圧勝で,ここはほかに重賞の勝ち馬がいませんでしたから,最有力とは思っていました。とはいえここまで離して勝つとは驚き。大レースまで手が届いておかしくない内容であったと思います。父はジャングルポケット。母はヘヴンリーロマンス。祖母がファーストアクト。ひとつ下の半妹が昨年のエンプレス杯,ブリーダーズゴールドカップ,名古屋グランプリ,今年のエンプレス杯を勝っている現役のアムールブリエ。Awardeeは受賞者。
                                    
 騎乗した武豊騎手と管理している松永幹夫調教師は名古屋大賞典初勝利。松永調教師は騎手としては第19回を制しています。

 虚偽と誤謬は異なるという意味において,僕は虚偽すなわち混乱した観念を全面的には否定しません。これは誤謬は全面的に否定するけれども虚偽はそうではないという意味です。
 人間が第一種の認識で事物を認識することによってXの観念が発生したとします。この観念はXの真理ではなく虚偽です。なので僕はこれをこのこと自体で肯定する見解は受け入れません。しかしその人間がそれを虚偽であると知っている限りにおいては,この認識を肯定的に評価する要素があると考えます。
 ただしそれは,第二部定理三三を規準として肯定するのではありません。確かにこの定理は人間の精神のうちの混乱した観念にも妥当します。ある人間の精神の本性を構成するとともにほかの物体の観念を有する限りで神のうちで十全である観念は,その人間の精神のうちでは混乱していても,その限りでの神のうちでは十全であるからです。ですがこのことはある単独の人間の精神だけを抽出した場合には,第一種の認識を肯定するということに対しては何も意味をなさないと僕は考えるのです。なぜなら,このある不足を含む認識は現実的に存在する人間にとっては必然的に生じることなのであり,この不足している部分を充足させることは不可能であると考えるからです。これは第四部定理一から明らかでしょう。Xの十全な観念が,Xの混乱した観念に含まれている認識の不足を補うことはないのです。ただ,認識の不足があるXの観念,すなわちXの混乱した観念と,そうした認識の不足がないXの観念,すなわちXの十全な観念が,同時に同じ人間の現実的知性の一部を構成することができるというだけなのです。
 一方,スピノザは第二部定理三五備考で,人間による太陽の表象に関して次のように述べています。
 「我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは,我々が太陽の真の距離を知らないからではなく,我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである」。
 虚偽を全面的には否定しない理由は主にふたつあるのですが,そのうちのひとつの根拠となっているのがこの部分です。
コメント
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