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柳宗悦『柳宗悦コレクション3 こころ』

2018年01月14日 21時16分59秒 | 文学
柳宗悦『柳宗悦コレクション3 こころ』(ちくま学芸文庫)を読んだ。

「妹の死」
タイトルから勝手に幼い頃に死んだ妹を回想する話を思っていたが、そうではなくてもう成人し、子どもが六人いる妹が死ぬ時の話を描いていた。
自分が死ぬということを覚悟し、順番に身内のものに遺言を言っていく姿があまり見たことがない姿だなと思った。死のうとする人間のまわりの人間は、死ぬときまでその人が回復するということを信じているとしなければならないというような考えがいまはあって、まだ死んでもいないのにこれから死ぬという想定で遺言を言い始めるということはなかなか出来ない。しかし死んでしまったら遺言は自分の口で言えない。
もう死ぬと本人もまわりも分かっているのなら、死ぬという前提で話を進めるということもあっていいのではないかと思った。そのほうが無理がない。たぶん、宗教心が足りないからそういうことが出来なくなっているのだろうと思う。
妹が死んで二日後に彼女の息子が死ぬというのも不思議な話だなと思った。

「死とその悲みに就て」
死への旅は帰ることのできない旅ではなく、その旅が帰りの旅。

「私の念願」
《それで美しさを解する上に、私がとりたいと思うのは、概念から直観へ行く道ではなく、直観から概念に進む道、即ち分析を後にして綜合を先にする道をとりたい。》(66頁)

「美の浄土」
揚げ足を取らせてもらうと、美と醜がなくなるのだと言いながら、民衆ではなく天才が作ったものはあまりよくないと言っている。民衆が作ったもので美しいものを見つけてそれに感動しているだけのような気もする。
この人が褒めるものはほんとうに民衆が作ったのだろうかという気がしてくる。いま名前が残っていないだけでその時代の天才ではなかったのかと思う。

「民藝美の妙義」
同じような話が続き、柳宗悦の言いたいことが分かってくるが、不二とか二元論から去れというようなことを言う割には、凡人と天才の二元論から自分が逃れられていないように感じる(これはおそらく柳宗悦を批判的に読む人は誰でも感じることではないかと思う)。
彼の言う、凡人というのが具体的にどういう人を表すのか、名前のある具体的な人として考えられているのか疑わしい。ただ概念として凡人とか天才とか言っているだけのような感じがする。そんなにまっぷたつに人間を分けられるだろうか。
ただ、この茶碗は凡人が作ったのに素晴らしいとか、天才が作っているものは知識が邪魔して美しくないというような話を、実例をもとに話されると「そうじゃないものもあるんじゃないの?」と思うのだけれど、ただ自分のものの考え方として二元論を脱しなければ心の平和が訪れないというような話は納得がいく。

「安心について」
《つまり、「自分」を固守しなければよい。》(349頁)
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