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へんな映画『ノルウェイの森』

2010年12月12日 01時19分59秒 | 映画
トラン・アン・ユン監督の『ノルウェイの森』が公開されたので見に行く。
とってもへんな映画でした。
原作のダイジェストのようでいて「あああの場面」「ああこの場面」「結構速い展開で話が進むな」と思っていたけれど、直子がなんだかへんな女だったり、突撃隊はちょっとしか出てこなかったり、国旗掲揚もラジオ体操の跳躍もなかったり、寿司折をくれる漁師も出なかったり、レイコさんが大家さんに挨拶に行く場面もなかったり、レイコさんの「そこはシワよ」もなかったり、原作で好きな場面がないことが多かった。緑の父親はなんのために登場したのかよくわからなかった。
原作を読まずにあの映画を見て理解できるとは到底思えないので(深い内容を理解できないと言っているのではなくて、登場人物の関係が理解できないと思う)、読んでいないひとは是非原作を読んでみてください。映画は特に見なくてもよいですけど。

でも、あらためて考えてみれば、村上春樹の『ノルウェイの森』って映像にしてしまうとあのようになってしまうのだなとも思った。そして映画を見ながら僕はいったいこの話のどこがそんなに好きなのだろうと不思議に思った。たぶんあらすじでは表現できないなにかが好きなのだろう。

松山ケンイチが青森に行ったことがないと言うところや、「もちろん」を連発するところなど、好きなところもあった。
いま思えば、緑が最初に登場し、主人公が髪を切った彼女に「ちょっと横を向いてみて」「すごくよく似合うよ」と言うところで、突然ビートルズの「ノルウェーの森」が流れてエンドロールが始まるくらいがちょうど良かったかもしれない。あのころはわりと良いと思っていた。
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角田光代『対岸の彼女』

2010年12月11日 16時34分28秒 | 文学
角田光代『対岸の彼女』(文春文庫)を読んだ。
途中までおもしろく読めていたが、だんだんと現代文学らしくなってきてあまり楽しめなくなった。
現代文学らしさとは何かというと、あまり読んでいないので初期の大江健三郎のものくらいしか明確な例は思い出せないのだが、無理やりに他人の嫌な面を引きずり出して描いているようなところがあると、「これって現代文学らしいな」と思ってしまう。神経質に他人の嫌な言動に反応してしまって、主人公の周りをみんなそんなひとばっかりにしてしまう傾向が最近の日本の小説には多いように感じている。無理に敵を見つけて怒っているような。
それが文学だと言えばそうなのかもしれないが正直つかれる、と言いたい。
小夜子の夫にしても姑にしても、あるいは葵の母親にしても同級生にしても、主人公の視点から一方的に断罪されてすこしかわいそうだと思ってしまう。そんなに他人の嫌な部分ばかりを見ていたらやっていけないよと、思った。

会話文に「-(のばし棒)」が多く、「やーだ」とか「なーんでも」とか、読んでいて違和感を感じた。

葵の友達のナナコ(魚子と書いてナナコ)が最初は俗世間を超越した存在のようだったのに、長期アルバイトの帰りに突然泣き出して帰りたくないと言いだしたあたりからそもそもわからない存在だったのにさらによくわからない存在になった。なんで葵の父親はナナコと連絡を取り再会させたのだろうか。このタクシー運転手の父親がもっとも謎の存在かもしれない。

直木賞の小説を久しぶりに読んだ。
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おんなの話

2010年12月07日 22時58分27秒 | 文学
角田光代『対岸の彼女』を三分の一ほど読む。
最近の作家のものを読むのはひさしぶりでとても新鮮な感じ。村上春樹しか読んでいない。よしもとばななも最近読まなくなった。
三十五歳の子持ちの女性(小夜子)が仕事を始めることになり、同じ年の会社の女社長(葵)と知り合う。葵の高校時代の話と交互に小説が進む。
いまのところ、嫌な感じもなくおもしろく読めている。
おんなどうしは実は仲良く出来ないので、打ち解けることができる仲間を見つけたときはほんとうにうれしいものだ、というような話なのだろうと思いつつ読んでいる。
わりと熱中して読んでいる。

葵の高校時代の友人で、どのグループにも属さず、かといって嫌われているわけでもなく、好きなときに好きなグループに入ることができるという女の子が出てくるが、そんな奴おれへんやろと思った。実際の経験として知っているわけではなく、読んでいてなんだかあまり現実感のない存在に思える。
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チェーホフ『馬のような名字』、ハンカチ王子、角田光代

2010年12月06日 22時36分58秒 | 文学
チェーホフ『馬のような名字 チェーホフ傑作選』(河出文庫)読了。
表題作の「馬のような名字」は馬のような名字をえんえん言い続けるおもしろい小説だった。
「ウマなんとかスキー」とか、ロシア語の名字っぽいけどウマが入っている名字がいくつも出てくる。原文はどういう小説なのだろうか。
「ロスチャイドのバイオリン」「かわいいひと」「いいなずけ」などが切なくて好きだった。チェーホフは切ないところがあって、そこが好きだ。

「ハンカチ王子」斎藤佑樹を取材したNHKの番組「スポーツ大陸」を見た。
斎藤佑樹が「ハンカチ王子」というあだ名を意識して、それに負けないように大学生活を送っていたことを知った。世間に注目されて生きていくのはたいへんなことなのだなと思った。インフルエンザになったり体調を壊したりしたようだ。
高校時代の監督に「(斎藤は自分では成長していないと言うけれど、)成長してるよ」と言ってもらえて安心する姿が印象的だった。
同級生は男同士で、男の子は基本的に相手に負けないようにしようとしか考えていないので、一緒にお酒を飲んでも安心させてくれるようなことを言う人はいないのだが、大人のおじさんは相手が言ってほしいと思っていることを男の子に言ってあげることができる。
良い番組だった。

この間NHKの番組「週刊ブックレビュー」の過去の番組の再放送をしていて、作家のインタビューをまとめたものを見ていたら、角田光代が登場し、女は年をとると独身であることや結婚していることや子供がいるということが違うと仲良く出来なくなるという話をしていて、「そりゃそうだ。確かにそうだ」と思った。
そのときのインタビューは『対岸の彼女』について語っていたもので、なみなみならぬ興味を惹かれたので古本屋で購入する。
角田光代はつい先日、これまたNHKの番組で四人の女性作家がヨーロッパを旅する番組に出ていて、四人の中でもっとも興味を惹かれた作家だった。彼女の頑固なところが話しているなかにも感じられたので、その頑固さが小説にも出ていれば良いと思う。
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失われた非人情の就活を求めて

2010年12月06日 00時00分15秒 | 文学
書店で『失われた時を求めて』の新訳を見較べる。
光文社古典新訳文庫と岩波文庫から立て続けに出版されたのだが、ネット情報によると岩波文庫は半年に一回の刊行で全14冊が出版されるのに7年かかるらしい。本当なのだろうか。
そこが気になり岩波文庫版のあとがきなどを眺める。見たところそのようなことは書いていなかった。しかし7年は長いなあ。
光文社版は、出来るだけ早く出す、みたいなことを訳者が書いていた。
光文社版の最初をすこし読んだが読みやすそうだった。
僕がこのように(ってどのようにか皆さんにはわからないだろうけれど)心穏やかでいられるのも、『失われた時を求めて』を何年か前に読破しているせいで、もしも読んでいなければ、新訳が二つも出てどっちで読むべきか必死で検討しているはずだ。『失われた時を求めて』は本好きにとって、ひとつの、なんというか、大きな越えねばならない山のようなものの印象がある。
読むなら、読みやすさを心がけていそうな(あとがきだけの印象)光文社古典新訳文庫版かなあ。

このまえ新聞で「就活」についての記事を読んで少し興味を持っている。
そもそも「就活」という言葉自体に嫌悪感を持っていて、いったいなぜ一部の人間の、短い期間の活動を略す必要があるのだろうと思っている。「就職活動」と言え! と思う。「就活」と「年調」(「年末調整」)と「職質」(「職務質問」)は、いったいなんで略す必要があるのか分からないトップ3だ。「職質」に至っては一生使うことのないひとが大半なんじゃないかと思う。あ、あと「出禁」。「出入り禁止」なんてどうして略す必要があろうか。
で、「就活」だけれど、自分が学生時代にやっていないせいもあり、よく知らないのでこれまで全く興味がなかったのだけれど、こういうのは自分がやったやってないという経験で相当にバイアスのかかるもので、自分がやったからやるべきだ、自分がやっていないから馬鹿馬鹿しいやるべきでない、というふうに思いがちである。
そろそろそういう嫌悪感から離れて、文化現象としての「就活」について考える時期なのではないかと本屋でそれ関連の本をぱらぱら見てみた。森健の『就活って何だ』(文春新書)は大学生用の就職活動対策本のようで僕には関係がない本のようだ。
大沢仁、石渡嶺司の『就活のバカヤロー』(光文社新書)のほうがまだおもしろそうだが、結局この本を読んでも「就活」への嫌悪感が増すだけのような気がする。
良い、悪い、を離れたところでなにかを考えるのはなかなか難しい。
夏目漱石の「非人情」ってこういうことなんだなあ。
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内田樹『武道的思考』、チェーホフ「かわいいひと」

2010年12月02日 22時03分01秒 | 文学
内田樹『武道的思考』(筑摩選書)を図書館で借りて読む。
途中で、結構退屈したのでとばし読みしたものもある。内田樹の本の中ではたいくつなほうだった。
政治の話が多かったからかもしれない。
ブログでたまに読むのなら良いが、編集した人の趣味なのか、それだけを集めているようなところがあるので疲れる。政治の話は基本的には良い話ではないので楽しくない。
ブログと各種媒体に書いたものを集めたと「まえがき」に書いてあったけれど、ほとんどブログで読んだことのあるものだった気がする。しかもあまり興味を持てない話題で、熱心に読まなかったものが多かった。
新しい選書の一冊目としてはパンチがない。
ただ福岡伸一の『できそこないの男たち』には興味を惹かれた。これは読んでみてもいいかもしれないと思った。

チェーホフを引き続き読んでいて、短編集を読んでいる。
「かわいいひと」(浦雅春訳)を読んだらとてもおもしろかった。以前も別のひとの翻訳で読んだはずでそのときは何ということもない話だと思ったのに今回はおもしろかった。
途中で「うつろな庭」という表現が出てきたところがあり、そこが印象に残った。
「かわいいひと」は、主人公の女性が付き合う男性によって自分の考え方が変わるという話なのだが、付き合っていた男性がいなくなったときに自分にはなにもないということを感じたということの表現で「うつろな庭」を見つめる場面があった。
モームのように最後のページにきちんとしたオチがある話ではなく、わりと思いつきのように話がすすみどこに重点が置かれているのかよくわからないことも多い。
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江藤淳『アメリカと私』

2010年12月01日 23時16分43秒 | 文学
江藤淳の『アメリカと私』(講談社文芸文庫)を読んだ。この本は二部に分かれていて、前半の「アメリカと私」はおもしろかったが後半の「アメリカ通信」は退屈した。
なので読み終わったいま時点としてはあまり良い印象ではない。食べ放題のお店で、食べ始めはおいしいと思うのだが、後半はお腹いっぱいになって「もうしばらく食べ放題はいいや」と思うのに似て、後半の印象が良くない本は損をする。
前半の「アメリカと私」を読み終えたのは結構前なのだが、思い出してみると、江藤淳が自信満々なところがあり、私は誰にも甘えることができないとか、そういう格好いい発言をしていた。そういうところが鼻についたりしたが、それでも文章がおもしろく、楽しく読んでいたように思う。日々のできごとの描写もいきいきしていたように思う。
アメリカで感じる日本人である部分についてもうまく書かれていて感心したように思うのだが、どんなふうに思ったのだがもう覚えていない。
この本を読んだのは、ハワイに行くのでちょうどよいと思い読み始めた。帰りの飛行機で忘れてしまい、同じ本をもう一度買うはめになったけれど最後まで読めて良かった。

この間、しばらく仕事を休んでいたナインティナインの岡村隆史がひさしぶりにテレビに出ているのを見ていた。彼が病院でテレビ番組としてはNHKの朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」だけを見ていたと知って、なんだかその部分に妙に感動してしまった。
入院中は「ゲゲゲの女房」くらいがちょうどいいよなあ。朝ドラのいつもの「若い女の子が上昇志向で恋も仕事も頑張る」というのではなしに「夫婦で貧乏にただただ耐える」というところが、またいいよなあ、と勝手に感慨にふけっていた。
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