ダブログ宣言!

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☆中島敦「弟子」、勝間和代

2009年08月14日 12時15分03秒 | 文学
中島敦「弟子」を読む。
孔子の弟子の子路が主人公。読んだことはあるはずなのだけれど、まったく内容を憶えていなかった。子路がアツい男であるということがよく分かった。
孔子の素晴らしさは、問われた質問にあたかもよく練られたような答えで即座に応じられるところ、にあるのかもしれない。そういうひとには確かに感動する。

NHKの番組「知る楽」に勝間和代が出ていたので録画して見る。全四回の二回を見た。
私は熱心な”カツマー”(勝間和代支持者のこと)というわけじゃなくて、ただのミーハーです。マスコミに突然登場してきたような文化人を基本的にはあまり信用できないのだけれど(基本的には馬鹿にしてしまうのだけれど)、このところよく名前を聞くし、本屋でも異常に見かけるのでどんな人なのかと思って番組を見る。
思っていたよりもいいひとそうだった。
疑問に思ったことをそのままにしないで自分で考えて解決しようとする、会社にいたら少し鬱陶しい、そんなひとだろう。
一日0.2%成長すれば、一年で200%の成長だと言うが、0.2%の成長というのがどういう成長なのかよく分からない。数字で示されると、そこに疑問を持ってしまう僕のような人間はちょっと合わないだろうな。こういうのは疑問など感じずに素直に信じて突き進むことが大事なのだろう。
聞き手の藤巻幸夫が駄目だなあと感じた。高田文夫や児玉清を思わせる相槌で、なんか癇に障る。聞いてないんじゃないか、心がこもってないんじゃないかと感じさせる人だ。
続きも見るつもり。
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☆橋本治「橋本治という考え方」

2009年08月13日 13時21分43秒 | 文学
橋本治という考え方 What kind of fool am I橋本治の「橋本治という考え方」(朝日新聞出版)読了。
正直に言うと、橋本治のカマトトぶった(と言うのじゃないな)、何というのか分からないが、賢い人が「自分はどうやって勉強したらよいのか分からない」、という類いの発言をするのを聞いた時に感じる不快感に似たものを読んでいるとたまに感じる。
たぶん橋本治は正直に自分の言葉で語っているだけなのだろうが、それがなんだか腹立たしいことがある。
これは私に問題があるのだろう。

古典というのは、いや、本というものは、いやいや、そもそも何かに出会うということは、それまでの自分の理解してきた手持ちのもので理解しようとするのではなしに、まったく理解不可能なことに出会い何とかしようとするところに喜びがあるのだろうと、最近よく感じる。
高校野球はすこしは見ているが、まだ一回戦なのでそんなに面白くない。
やはり終盤の逆転によるエースの崩れ、そんなものを私は見たい。
守備が終わってベンチに走って帰る姿を見ると、高校野球というのは楽しむためのスポーツではなくて、修行というものに近いものなのだろうと思う。
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☆明菜、治、七平

2009年08月13日 00時38分54秒 | 文学
中森明菜が歌うのをひさしぶりにテレビで見る。
何を歌っても中森明菜。
ただただ懐かしい。

橋本治の「橋本治という考え方」(朝日新聞出版)を図書館で借りて読んでいる。
橋本治の文章は独特なので少し疲れる。このような文章を書く人を他に知らない。
いまちょうど「論語」を読んでいるので、
《ところが、その作業を続けて半年以上が過ぎ、なんとなくおぼろげに清少納言の言わんとすることが分かるようになった段階で、「ああ、なに言ってるのかさっぱり分かんない!」の正体が分かって来た。障害の根本は、「清少納言はそう言いたいのかもしれないが、こっちはそういう風に言わない」という、思考の相違なのである。》(38ページ)
このようなところがよく理解できる気がする。
「論語」のおもしろさがいまだにわからないのだが、読んでいれば面白くなるのかもしれないと、というか、何かに気がつくのかもしれないと、思って読んでいる。
自分にとって面白いものだけを読んでいると、わりと退屈になってしまうし、自分的面白さをどんどん極めすぎて神経質で狭苦しいものになるので、たまには全く違うものから攻めてみるのもいいことだと思う。
書店で山本七平の「論語の読み方」(祥伝社)という本を買う。
その他、家にある「論語」関連の本(白川静「孔子伝」と井上靖「孔子」)も机の上に積んで気分を盛り上げてみる。
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☆ドナルド・ペトリ監督「10日間で男を上手にフル方法」感想

2009年08月12日 20時54分17秒 | 映画
10日間で男を上手にフル方法 スペシャル・コレクターズ・エディション録画していた映画「10日間で男を上手にフル方法」を見た。
仕事のために振られようとする女と、仕事のために付き合い続けようとする男の恋愛の話だった。面白かった。
雑誌社の上司が会議で靴を脱がせるところ(これはいい考えかもしれないと思った)と、ペニスに”ソフィア姫”と名前を付けられてマシュー・マコノヒーが嫌がるところ(確か「チャタレイ夫人の恋人」でも名前を付ける場面があったと思う。欧米人はそのようなことをよくするのか?)が印象に残った。
たくさん録画しているのだが、こういう気楽な映画を優先的に選んでしまう。
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☆論語読みの孔子知らず

2009年08月10日 02時06分36秒 | 文学
渡辺謙がアメリカに住む日本人の被爆者へインタビューをするNHKの番組(「渡辺謙 アメリカを行く 星条旗の下に生きたヒバクシャたち」)を見る。
とても面白い番組だった。

「論語」を少しずつ読んでいるがあまり面白さが分からない。正直言えばまったく分からない。
「小林秀雄全作品22」に「論語」と題された文章があり、参考になるかと思い読む。
「論語」に描かれている孔子のことを感じて読めと、そうはっきりとは書いていなかったが、そんな風なことが書かれているのだと思った。
確かに、太宰治を読むときは太宰治を、夏目漱石を読むときは夏目漱石を、小林秀雄を読むときは小林秀雄を、こんな風な人だったんだろうなと思いながら、というか、確実な人物像を感じながら読んでいる。
作家を好きになるというのはそういうことのように思う。
しかし、「論語」を読むときは、僕はたぶん交通標語を読むようにしか読めていない。
例えば「注意一秒怪我一生」という言葉を読むときに、その作者の交通事故に対する切なる思いとかそんなことを感じて読むようなことを僕はしない。
どちらかといえば、正しいことを言う人は自分の生活感情とは離れたところでものを言うものだな、という感じを抱きながらそういう標語を読んでいると思う。
だからその後ろに作者を想像しない。
「論語」を読むのは、ご両親を大切にしましょう、という言葉を誰かから説教されている気分に通じるところがある。
本気で言っているのかもしれないが、そこに切なる思い、経験からの智慧、を感じることは極めて稀だ。
そのような、正しいことを言う人は大体においてそれを本気では信じていない、ということを経験しすぎていて、孔子が本気でものを言っていると感じることができなくなっているのだろう。
今後は「孔子は本気で言っているのだ」と思いながら「論語」を読みたい。

最初のテレビ番組の話につなげると、番組が面白かったのは紋切型ではない被爆者の話に、切実な感じを感じることができたからだろう。
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☆「小林秀雄全作品21」

2009年08月09日 14時51分17秒 | 文学
昨日から九日間のお盆休みでのんびり過ごす。
ぐーたら、ぐーたら。

小林秀雄全作品〈21〉美を求める心「小林秀雄全作品21」を読んだ。
タイトルになっている「美を求める心」が印象に残った。音楽や絵画について知ろうと思えばまずたくさん見たり聞いたりすること。そうすればその姿が良く分かるという話だった。理屈で近づこうとしても駄目だ。
小林秀雄がこのような考え方だということは何となくわかってはいたが、すっきりと分かりやすい文章だった。
あとも、まあいつもの感じだった。
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☆様々なる疑問

2009年08月07日 00時11分17秒 | 文学
この間ニュースを見ていたら麻薬で逮捕された芸能人を女性キャスターが「○○さん」と”間違って”呼んでいて、男性キャスターが「○○容疑者」と”正しく”呼んでいた。
知り合いが逮捕された時、その途端にそのひとのことを「○○容疑者」って呼ぶこと(または呼ぶことを強制されること)は僕の生活の感覚では考えられない事態なので、テレビの世界って特殊だなあ、と気付いた。
「さん」の代わりとして用いられ、しかも付けなければ言い足りなく感じるということは、「容疑者」というのは敬称の一種なのだろうか。

これまでも何度か読もうとしたことはあるのだが、また「徒然草」を読んでいた。
しかしやはり読めない。
古文が難しいわけじゃない。現代語訳を読んでいた。しかし読めない。
僕にはこのひと(兼好法師)の言うことの面白さがまったく理解できない。
ところどころで昔授業で習ったことのある話が登場するのだが、そのときも「ああそんな話があったな」と思うだけで何の感動もない。教科書に載るということはそれなりに何かある文章を選んでいるんじゃないかと思うのだが、石清水八幡のうしろの山に登らなかった人の話も、切株っていうあだ名を付けられたひとのはなしも、まるで面白くない。
おもしろくないので、読むのをやめる。

小林秀雄を読んでいて読みたくなったもう一冊の方、「論語」を読むことにする。
こっちのほうがなんとなく偉いこと言ってそうな気がする。
しかし、儒教嫌いの福沢諭吉が好きだったり、僕自身も、年を取っているからという理由だけで年上の人間が偉いわけではないと思うことを人生のテーマとしているので(ちょっと嘘ですが)、「論語」はこれまできちんと読まなかった。
でも、読んでみよう。
敵の神をこそ撃つべきだ、と太宰治も(ヴァレリーも?)書いていたし。

思うに、偉大な本を残した人々は、大体において結婚もしてないし、子育てもしていない。そういう人の言っていることを参考にするということはどういうことなんだろうかと思う。
いまでもそのようなひとのいうことを世間では重要視しているのだろうか。(とてもそんなふうには思えない。)
本と実生活は違うということか。
時代か。
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☆リチャード・ロンクレイン監督「ウィンブルドン」

2009年08月02日 13時05分05秒 | 映画
ウィンブルドン録画していたリチャード・ロンクレイン監督の「ウィンブルドン」を見た。
気楽に見た。面白かった。
そろそろ高校野球の季節だな、と思った。
スポーツ観戦はまったくしないのだが、高校野球だけは少し見る。
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☆結構勉強した日

2009年08月02日 01時25分31秒 | 勉強
勉強をしてないしてないと思いながら司馬遼太郎を読み続けるのもあまりよい気分ではないので、今日はかなりの時間、資格試験(ネットワークスペシャリスト)勉強をして精神の安定を得る。疚しい気持ちのないいい気分。
太宰治が井伏鱒二の仲人で結婚をしたころの精神状態だ。(本当のところは知らないが、安定した精神状態といえばこの当時の太宰治がいつも連想される。)
パソコンのネットワークの設定などはほとんど知らないし、仕事でやったこともないし、家庭内LANの設定を少しだけやったことがあるだけなのに、”スペシャリスト”などを目指してもよいものだろうかという疑問がものすごくある。
しかし、参考書をざっと読んでいると少し興味を持てるようになる。
これまでの資格試験勉強経験からすれば、最初からあまり細かいことを理解しようとはせずに(理解しようとするとその分かりにくさに腹が立ってくるので)、大雑把に読んでみて、過去問題を解くときに理解していくというのが効率の良い勉強方法だと思う。
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☆司馬遼太郎「関ヶ原」下巻

2009年08月01日 16時01分07秒 | 文学
関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)司馬遼太郎の「関ヶ原」(新潮文庫)の下巻読了。
関ヶ原の戦いそのものについてはあっけなく終わった。
参加した武将たちがどっちが勝ってもいいようにどちらの味方にでもなれる状態にしておくという不思議な戦いだった。これは変な戦いだ。
結局は小早川秀秋が西軍から東軍に寝返ったことがすべてを決めた、というように司馬遼太郎は描いていた。
単純で、家康に操られて関ヶ原を勝利に導いた(というふうに描かれていた)福島正則を大河ドラマ「天地人」で石原良純が演じていたので、読んでいる間も石原良純を想像しながら読んでいた。これはぴったりの配役だと思う。
上杉景勝や直江兼続については、石田三成が動き出してからは全く触れられなくなった。二人はなにをしてたんだろう。
石田三成が理屈っぽくてみんなから嫌われていたということが(何度も出てきたので)よく分かった。
徳川家康については「この男にしては珍しく冗談を言った」という表現が四、五回出てきて、家康は冗談ばっかり言ってるじゃないか、という印象。
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