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☆英語

2008年09月27日 02時18分52秒 | 文学
最近資格試験勉強をしているせいで、英語の勉強がしたくなっている。
こういうことはよくある。
何かをやっていると他のことがやりたくなってくる。
逆に何もしてないときには何かをしたくはならない。何もしたくない。
例えば、ブログをしばらく書かなければ、そのまま書かなくなると思うのだが、ちょっと書くと続けて書きたくなる。
試験が終わったら英語を勉強しよう。

以前も英語の勉強をしていたことがあり、そのときは酒井邦秀の「快読100万語! ペーパーバックへの道」(ちくま学芸文庫)を読んだからだった。
この本は、簡単な英語の本を辞書なしで読むことから始めて少しずつ本を難しくしていけば英語が読めるようになるという本だった。
「忍者ハットリくん」のアニメを子供のころ見て、跳躍力をつけるために忍者は毎日苗木を飛び越えて、苗木の成長とともに高く跳べるようになるという話を知ったのだが(藤子不二雄の創作だと思いますが)、それと同じ理屈だと思い納得した。
これならできると思って、英語の本を読むのと、英語を聞いてそのままを繰り返すシャドーイングをしばらくやっていたんだけど、そのうちやめてしまった。
英語で小説が読めたらいいな、というのと、字幕なしで映画が見られたらいいな、ということでやっていたのだが。(外国人と会話がしたいと思うことはほとんどない。)
やはり英語の勉強それ自体が楽しいというところまで行かないと駄目なんだろうな。
お祈りは何か現実的に叶えたい想いがあると続かなくて、お祈り自体に喜びを見出さないと駄目なのです(って知りませんけど)。

しかし、インターネットを見ると、英語が苦手だと思って英語を勉強している人はかなりいるようだけれど、勉強を続けて英語が出来るようになった人というのはどのくらいいるのだろうか。
いつか「私はできるようになった。もう勉強はしなくてよい。」という地点に立てるのだろうか。そんな地点が存在するのだろうか。
仕事で言えば、俺はプロだって思ったときがいつかあったように思う。少なくとも今現在、自分のことを素人だとは思っていない。
そんなふうなことがあるのだろうか。
もう苦手じゃないって思うときがくるのかなあ。やってみないとわかんないことだな。

英語についてもう少し書くと、高校時代に僕は「受験英語」を勉強してるんだと公言してました。
つまり発音、会話術など一切お構いなしの、テストで点数を取るためだけの割り切った勉強。言ってみれば「生きた英語」ではなく「死んだ英語」。
授業でちゃんとした発音で読もうとしてる人は馬鹿じゃないかと思ってた。だって使えなくたって、点数さえ取れればいいんでしょ?
心理としては大江健三郎が「私は戦後民主主義者です」と言うのと同じだろうか。
ほんとうの(?)民主主義ではなく戦後民主主義、ほんとうの英語じゃなく受験英語。
そんな、ひねくれた高校生だったなあ。
英語については複雑な思いがある。

今日「出張!ハートで感じる英語塾」というNHK教育の英語番組で、大西泰斗というひとを知る。
英語で丁寧な表現や仮定法のときに過去形になるのは距離を表しているのだという説明にとても驚いた。距離感を時間的な隔たりで表現しているらしい。
時間の概念は空間の概念を応用しているとベルクソンが言っていて、なんでそんなことを考えたんだろうかと思っていたが、そういう言語を使っているからそういうことを考えるんだろうな、と思った。
ベルクソンはフランス人だけれど、確かフランス語でも仮定法は半過去だか大過去だか複合過去だかを使ってたような気がする。忘れたけど。
大西泰斗は要チェックだ。
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