図書館で借りた山崎正和の「歴史の真実と政治の正義」をざっくりと読む。全部は読んでいない。
司馬遼太郎について書かれたものを読むために借りてきたのでそれを読んだ。
山崎正和の激賞する司馬遼太郎の「草原の記」に興味を持った。おもしろそう。
司馬遼太郎の小説の書き方は独特で、小説なのかどうかすらわからないものなのだが、彼の書き方に対して興味を持っている。
例えば、知的な人がいたとして、その人はとても論理的な話をするのだが、しかし論理的であることがなぜ正しいと言えるのかは証明することはできない。
いや、もしかすると証明はできるかもしれない。
しかしその証明はおそらく論理的なものだ。
論理的な証明によって「論理的であることは正しい」と言うのは、論理的におかしい。証明のために「論理的であることは正しい」ということが前提とされている。
何が言いたいかといえば、このような小説が正しい小説だというぼやっとしたものがなんとなくはあるような気がするのだが、司馬遼太郎の小説を読むと、まあこれも小説かなあと思わせられる。
それはとても健康的で良いことのように思う。
司馬遼太郎について書かれたものを読むために借りてきたのでそれを読んだ。
山崎正和の激賞する司馬遼太郎の「草原の記」に興味を持った。おもしろそう。
司馬遼太郎の小説の書き方は独特で、小説なのかどうかすらわからないものなのだが、彼の書き方に対して興味を持っている。
例えば、知的な人がいたとして、その人はとても論理的な話をするのだが、しかし論理的であることがなぜ正しいと言えるのかは証明することはできない。
いや、もしかすると証明はできるかもしれない。
しかしその証明はおそらく論理的なものだ。
論理的な証明によって「論理的であることは正しい」と言うのは、論理的におかしい。証明のために「論理的であることは正しい」ということが前提とされている。
何が言いたいかといえば、このような小説が正しい小説だというぼやっとしたものがなんとなくはあるような気がするのだが、司馬遼太郎の小説を読むと、まあこれも小説かなあと思わせられる。
それはとても健康的で良いことのように思う。