マルクスの「ユダヤ人問題によせて」は二部に分かれていて、
Ⅰ ブルーノ・バウアー『ユダヤ人問題』
Ⅱ 『今日のユダヤ人とキリスト教徒の自由になりうる能力』
という構成になっている。どちらもブルーノ・バウアーという、誰なんだかまったく聞いたこともない人の本を扱っている。
後半はそうでもなかったが、前半はなるほどと思う部分が多かった。
ちょうど十年位前、働き始めたころに、他人のいやな部分ばかりが目に付いて、そのいやな部分というのは長く付き合えば付き合うほど出てくるものだな、と思っていたことがあった。
初対面で出会ったばかりのときがもっともいいひとで、つきあえば付き合うほどいろいろとめんどくさいことも言ってくるし、個人的なことも知りたがるし、しょうもないあれこれ(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」より)に付き合わないといけなくなる。だんだんといやな人間に見えてくる。
毎日知らない人と出会って、挨拶と天気の話だけしていい気持ちでお別れして、もう二度と会わないのがもっともいい人間関係なんじゃないかとわりと本気で思っていた。
書いてみるとひどい人間観だなあ。
しかし、まあそんなふうに思ってたような気がする。
マルクスの言う、政治的国家の政治的な人間は、抽象的で類的な存在で、つまり顔が見えなくて、いろいろいるなかのひとり、「誰々ちゃんのお父さんはよく知らないけどふつうのサラリーマンで、優しいらしいよ」と表現されるような存在(と僕は理解した)。
一方で、市民社会の人間は、自己中心的で好きなことをやってそれぞれ勝手な宗教を信仰しているような利己的な存在。(「ほんとは酒癖悪くて、変な宗教にはまってて、口臭がひどいんだって」)
そのふたつの種類の人間がいるというわけではなく、あるひとが政治的でもあり利己的でもあるということ。その二層に分かれているというところが新鮮に感じた。
最初の話に戻ると、つまり僕は抽象的な、政治的な人間の部分とだけ付き合いたいと感じていたんだな、と思った。
いまはさすがにそこまでは思っていない。
そのあと、「ヘーゲル法哲学批判序説」も再び読んでみて、少しはわかりよくは思ったが、やはりそんなに興味のある話ではなく感じた。ドイツは遅れていてだめだ、というふうな表現が目立ってあまり好きではない。
Ⅰ ブルーノ・バウアー『ユダヤ人問題』
Ⅱ 『今日のユダヤ人とキリスト教徒の自由になりうる能力』
という構成になっている。どちらもブルーノ・バウアーという、誰なんだかまったく聞いたこともない人の本を扱っている。
後半はそうでもなかったが、前半はなるほどと思う部分が多かった。
ちょうど十年位前、働き始めたころに、他人のいやな部分ばかりが目に付いて、そのいやな部分というのは長く付き合えば付き合うほど出てくるものだな、と思っていたことがあった。
初対面で出会ったばかりのときがもっともいいひとで、つきあえば付き合うほどいろいろとめんどくさいことも言ってくるし、個人的なことも知りたがるし、しょうもないあれこれ(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」より)に付き合わないといけなくなる。だんだんといやな人間に見えてくる。
毎日知らない人と出会って、挨拶と天気の話だけしていい気持ちでお別れして、もう二度と会わないのがもっともいい人間関係なんじゃないかとわりと本気で思っていた。
書いてみるとひどい人間観だなあ。
しかし、まあそんなふうに思ってたような気がする。
マルクスの言う、政治的国家の政治的な人間は、抽象的で類的な存在で、つまり顔が見えなくて、いろいろいるなかのひとり、「誰々ちゃんのお父さんはよく知らないけどふつうのサラリーマンで、優しいらしいよ」と表現されるような存在(と僕は理解した)。
一方で、市民社会の人間は、自己中心的で好きなことをやってそれぞれ勝手な宗教を信仰しているような利己的な存在。(「ほんとは酒癖悪くて、変な宗教にはまってて、口臭がひどいんだって」)
そのふたつの種類の人間がいるというわけではなく、あるひとが政治的でもあり利己的でもあるということ。その二層に分かれているというところが新鮮に感じた。
最初の話に戻ると、つまり僕は抽象的な、政治的な人間の部分とだけ付き合いたいと感じていたんだな、と思った。
いまはさすがにそこまでは思っていない。
そのあと、「ヘーゲル法哲学批判序説」も再び読んでみて、少しはわかりよくは思ったが、やはりそんなに興味のある話ではなく感じた。ドイツは遅れていてだめだ、というふうな表現が目立ってあまり好きではない。