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☆「キャッチャー・イン・ザ・ライ」をつかまえる②

2006年09月25日 20時22分42秒 | 文学
ニンテンドーDSライトではゲームボーイアドバンス用のゲームソフトも遊べる。
「スーパーマリオブラザーズ」を借りてきてやってみる。
ワープしまくっても5-1面までしか行けない。
これは子どものころは出来ていて、しばらくやってなかったから出来なくなったわけではなくて、子どものころから出来ない。むしろ大人になって上手くなった。
僕の記憶では小学生の頃は”1面のクッパ”(という呼び方でいいのだろうか。敵のボスのこと)を倒せたことはなかったはず。
当時うちにはファミコンがなく、友達の家でルイージ(つまり2プレイヤー)で少しやらせてもらっていただけなので仕方がない。どこに何が隠れているとか、どのような操作をすればいいか、などを全く知らない。
ある世代のひとは、これが必ずできる、というようなものがあって、軍歌が歌えるとか、麻雀の符計算ができるとか、いろいろあると思うが、僕らの世代にとっては「スーパーマリオ」がクリアできるというのがそれに当たるんじゃないかと思ったりする。
いまさら攻略本を買ってきて極めようとはさらさら思わないけれど。

キャッチャー・イン・ザ・ライサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読み終わった。
結局、この12月の土曜日から月曜日が西暦何年の12月の何日なのかまでは判るようには書いていないようだ。
月曜日になってもまだクリスマス・イブは来ていない。
最初に「去年のクリスマス前後に僕の身に起こったとんでもないどたばた」と書いてあるけれど、クリスマス後の話はしていないんだな。

話の筋だけを追っていこうとしてもなかなかつかめない小説だなあ、と思った。
口述表現という授業で、発表している生徒のスピーチがわき道にそれると、みんなで「わき道!」って怒鳴る、それが嫌だ、ってコールフィールドが語るところがあるが、いわばわき道だらけの小説だ。
最後まで読んでもいったいなんなんだかよく判らん話だし。
コールフィールドの気分のようなものを感じる小説なんだろうなあ。おそらく。
大衆との距離の取り方というのはわりと難しい問題で、コールフィールドは映画が嫌いということをしきりと述べるが、大衆っていうのはほんとにバカでインチキ野郎たちだから、そいつらの好みで成り立っている大衆文化、テレビも漫画もテレビゲームも全部クズだ、という考え方も考え方としては成り立つ。
しかしあまりにも俗なものと離れすぎてしまうと、いったいどこでどうやって生きていけば良いのか判らなくなる、ってこともあるんじゃないかな。冗談抜きで。
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