(国費制度を伝える1958年の那覇高新聞)
1953年、沖縄県で第1回の国費留学試験が実施され、合格者の3分の1は奄美出身者とのことです。当時の沖縄人口75万に対し奄美は15万で奄美出身者の合格率は5倍です。その原因は奄美出身が優秀というより、貧困奄美の立身出世カルチャーと沖縄のユイマール・カルチャーの違いを感じます。ところがこの試験終了後の53年末に奄美の日本復帰が実現した結果、この奄美出身の合格者は全て取り消されます。
それだけではなく、奄美復帰に伴い初代の琉球銀行総裁の池畑嶺里、初代琉球開発金融公庫総裁宝村信夫、琉球電力公社総裁屋田甚助、初代副主席泉有平、初代文教局長奥田愛正達等々の奄出身要職者は全て解職されます。これは奄美の日本復帰にと伴う在沖奄美人に対する差別の一面でしたが、当時沖縄にいた奄美人は“ヤッター”という開放感に歓喜し、喜んで沖縄を離れ、それまで行けなかった日本本土へ渡航しました。当時琉球大に在学していた多くの奄美出身者も本土大学に転学しています。
それにしてもなぜ、終戦直後沖縄の要職にこれだけ奄美出身者が占めたのか?これには当時の奄美の脱貧困、薩摩・月照の”男子志立て郷関を出る、学もし成らずば死すとも帰らず”の立身出世学歴志向を感じます。
1953年?
訂正しました(´;ω;`)