(50代の父(左)と60代の伯父(父の兄)
田舎にいた頃の父は村青年特有の相撲好みで、色黒、ガッシリした体格の父を覚えていた母は満州で“色白でほっそりしたインテリゼンス様の父の姿を見た母はショックを覚えたと語っていました。実は飲酒か、父はこの時、胃不調だったようで、60歳で逝去するまで体格は細身でした。
父の両親は父が小学校入学前に死去し、幼児介護扶養制度などない当時、5歳上の兄と3歳上の姉との3人は近所の家事、農業を手伝ったり、食事を貰ったりで大変功労したようですが、反面、狭い田舎村では近所が逆に親兄弟の様に助けてくれて様です。
こうした両親のいない父を弟の様に面倒を見たフミ伯母は母から見て、まるで小姑の様に煩わしかったようで、よく愚痴を聞きました。実は両親は島で中学を卒業した父の兄(伯父)の長男(私の従兄)を大連に引き取り、大連工業高校に通わしました。長く同居していた私は“賢孝兄さん”と今でも呼んでいます。
こうした狭隘な村で助け合い育った島の兄弟親戚の絆が濃密で、こういう育ちの夫と結婚した他県育ちの内の女房にも大変苦労掛けたようです。私が生まれて間もなく、父の勤務もあったのはハルピンから大連に引っ越したようです。
私 にとって、満州とは大連です。ハルピン以外何も知りませんが、大連の幼少記録は鮮明に残っています。終戦の昭和20年、大連で妹が生まれますが、この翌年、私達一家は大連から奄美に引き揚げます。
この頃は多くの日本人が日本軍占領の満州や、韓国、台湾島には開拓民が少ない、逆に仕事、就職先の少ない奄美、沖縄、九州、東北の人々が国策と本人達の意欲が合致し、渡航、移住したようです。
1946年、日本から切り離され、終戦で満州、本土からの引き上げ人口過剰、仕事がなく、失業に溢れた奄美の人々は、本土には行けず、米軍基地建設で仕事あふれる沖縄へ殺到します。
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