センスプロデュース研究所!

ヒトの五感と脳の関係、ヒトの五感の重要性の提唱、研究を行っている者です。

神社、寺、仏閣が脳を刺激!

2009-07-03 00:01:43 | 感覚、五感
私は最近、地元の神社、寺、仏閣を探索しながら散歩することが気に入っている。6月は、太宰治の生誕100年ということもあり、太宰縁の地、千葉県船橋周辺の神社、寺、旅館を20箇所近くを一日で周り、写真撮影しながら徒歩で廻った。
太宰が昭和10年7月~11年10月まで薬物依存症の保養地(療養)として船橋の地を選んだのである。当時は船橋の家からも海岸沿いが見えたはずである。現在は、船橋文化センターになっているが、太宰縁の地として石碑が建っている。私は6月26日8日(日)朝から曇りがちたが、涼しいので徒歩には最適である。
太宰治の石碑からスタートし、船橋市周辺の太宰が散歩で訪れたと思われる神社を探索し、写真に納める。
午前で12箇所を回り、お昼は太宰が20日間ほど逗留して小説「めくらの草紙」を書き上げた桔梗の間で昼食をとった。以前から予約していた。普段は宿泊者のみが使用できる桔梗の間を事情を話し、特別に私がその部屋を借りて食事をした。大正ロマンを感じる建物は大正当時からそのままでランプ式の電球や柱にも太宰の面影がある。二階の日の部屋の窓から太宰が私の方を振り返って良く来たなと話しかけた気がしたぐらい割烹旅館「玉川」は私がもっとも気に行っている場所であるるそこの女将さんは、母親が太宰の面倒を見たと話してくれ、私の実家が青森県五所川原市出身で、私の祖父が太宰との子ども時代の遊び相手で、遠い親戚であると告げると歓迎され、喜ばれました。
玉川を後にし、午後からは雨となるが、そのまま今度は船橋市夏見地区の神社を徒歩で探索した。私の足で30分近くかかる場所なので、太宰の体力、当時は薬物中毒の療養なので足腰は弱かったと思われる。現に、甚平に麦わら帽子、片手にステッキをもって神社を散歩したようです。
写真にも残っているように甚平姿にステッキをもった太宰治が船橋の神社界隈に現れている。
今回、私には二つの目的があり、雨の中でも太宰縁の地(神社)を周ったのである。私の祖父と祖父の遊び相手太宰の生誕100年の供養を兼ねてと、「太宰治が愛した船橋」というテーマで大学で講義、講演する予定があるからです。
私は結局一日で太宰が数日かかったと思われる場所を取り急ぎまわって感じたのは、現在は徒歩で廻ると道路の横断や住宅街、高層ビルに神社が隣接と風景は大違いである。
当時は、海も近く、現在のように車も少なく砂利道をゆっくり散歩していたと思われる。船橋市周辺には30を超える神社、寺が点在しており、到底一日では廻りきれないのです。
神社の一角は樹木も生い茂り、森林浴も楽しめ、また、その空間だけゆったと時間が流れいた。
何より、歴史にふれ、中には数百年の銀杏の大木もある。これらに触れることで私の脳も感覚も刺激を受け、活性化されたのです。
結局私は、一日で10km以上を歩き、太宰縁の地、太宰治がこよなく愛した船橋を探索しながら、当時の太宰治の行動、考えていたことなど一部だが感じられる探索でした。
私は子どもの頃から太宰治が嫌いだった。祖父からは本ばかり読んでいたと聞かされたが、祖父はしゅん君と呼んでいたようですが、その祖父も22年前に77歳で無くなったが、これらの関係から太宰治の作品は半強制的に読まされた。太宰ファンには申し訳ないが、飲んだくれで、薬物依存症(薬物中毒)、浮気に、二人の愛人と好き勝手な生き方をしていたふるさとの作家を誇れなかったのです。つまり許せなかった、私は大人になっても太宰治のような人間にはなりたくないと思っていたので、人間失格の本を学校で読んで下さいと先生に言われたときに反抗して「嫌です」なぜと問われたので生き方が嫌いなので、読みたくありませんと主張し、先生を困らしたこともあります。
人間失格の本を破ってしまうかと思ったほどですから。
この私が他の作品、新釈諸国噺やお伽草紙の作品を読み、それまでの太宰作品のイメージとは違い、私の感覚にあうようになったのです。
そして、今年生誕100年ということもあり、私のふるさとの名士の息子の作品を再び読みたくなつたのです。太宰作品の中でも船橋時代のことを書き出した文が沢山ありますが、特に体力や気力が弱っていた時期に、玉川の女将や色々な人に触れ合うことで、太宰にも変化が見られたと思われるのです。これらは船橋を二週間かけて関係者の取材や資料を調べて知ったのです。
田舎者が幾らおしゃれや着飾っても雰囲気は私同様に田舎者である。
太宰のペンネーム「ダザイ」は、津軽弁でもダザイと読めるからである。
私の津軽には「じょぱり」という津軽弁があります。意地っ張りという意味だが、太宰治も結構な意地っ張りだし、私にも意地っ張り「じょぱり」である。
この意地っ張りが自己主張となり、太宰の世界観が生まれ、次々と強烈な文書で綴った作品が出来あがったのです。
現在も若い人たちに太宰作品が受け入れられ、愛されるというのは太宰の人格を、私は否定しているが「受け入れられ」「愛されているのだろう」これこそが「人徳」である。いい加減で、好き勝手な人生を送った太宰を私はこの年50歳を過ぎて初めて認め、許せるようになったのです。
これらも太宰縁の船橋の神社、寺を探索し、私の脳も五感も刺激され、影響を受けたからである。本当に私はこの一一日は一生忘れない、また、不思議な体験した充実した一日でした。この体験を是非とも、大学生の皆様にお伝えし、今後の生き方や人生の一部でも参考になればと願っている。

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