長考力(佐藤康光著)

2017-04-15 00:00:51 | しょうぎ
2015年の11月に上梓されたエッセイで、将棋ペンクラブでも受賞していたので、読もうと思っているうちに書店からも消えてしまったので、将棋連盟会長になられたのを機に図書館で予約して読んでみた。

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幻冬社新書ということで、なにか奇抜な内容を期待したが、実際には将棋以外のことは何も書かれていないというかなり真面目な本だった。

あえて面白い感想というのは、読みの波長が合う棋士と合わない棋士ということで、合わない棋士ばかり列挙されていて、深浦、三浦、谷川、羽生、森内、渡辺となっていて、では波長の合う棋士がいるのかというと、かろうじて郷田棋士とは合うところがある、と書かれている。

もっとも、郷田氏からは、秒読みの時に、「58、59、・・と切れているのではないか」と抗議されたことがあるとも書いてあるのだから果たしてどうなのだろう。

コンピューターの話は、きわめて短く論評されていて、「人間にしか指せない将棋でファンを惹きつけることは可能」と書いている一方、「人間にしかできない将棋は何か、の答えは持ち合わせていない」そうだ。

「人間には指せない手」を見たいという気持ちもファンは持っているかもしれないので、問題は複雑なのだろう。

長考については、そもそも持ち時間は全部使うべきという考え方の方のようなので、最近の連盟の幹部のように「ノータイムの悪手」は減るかもしれないが、いつまで経っても次の一手を指さないというようなことも困るわけだ。他の棋士と思考の波長が合わないというのは気になる点かもしれない。


さて、4月8日出題作の解答。

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動く将棋盤は、こちら


今週の問題。

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よくある手筋で包囲網を狭めるが、最後は警視総監がダイビングする。

わかったと思われた方は、コメント欄に、最終手と総手数とご意見をお書きいただければ、正誤判定します。

コッペパン専門店、北海道から

2017-04-14 00:00:00 | あじ
北の国、北海道の南の端にある木古内町は青函トンネルを抜けて最初の駅だ。その駅前にあるといわれるコッペパン専門店『コッぺん道士』が首都圏初出店ということで横浜市ヶ尾店『コッぺんどっと』が長蛇の人気になっている。

しかし、市ヶ尾は横浜と言っても北の果てというか、それに幹線道路と田園都市線の線路に沿った場所にあるし、首都圏とも言い難い。とはいっても例の通り「横浜日本最初シリーズ」の一つはパン(元町のウチキパン)であるし、横浜市にはおいしいパン店は多い。

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まあ、与太話は止め、この『コッぺんどっと』の前には、いつも列ができている。30人近くが並んでいる。行列は東急線のガード下まで連なるが、物理的にはもっと並ぶスペースはあるのだが、列はなかなか進まない。本質的には店内の調理パンの生産スピード以上には販売できないわけなので、実は、列に並んでから店内に到達するまでがちょうど1時間。発注して会計を済ませて、パンに具材を詰めて渡してもらえるまで、さらに10分がかかる。

客の目の前で、パンに具材を詰めるのだが、在庫のないカニクリームコロッケなど頼むと、さらに何分かかるかわからないので、すぐに対応できそうな具材を注文。

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「十勝あんマーガリン」と「北海道牛肉コロッケ」の2本を購入。

イメージとコッペパンが違っていた。もっとクラシックでパン地がパサパサしていて、皮が硬いものを予想していたのだが、食べてみると、全体にもちっとして柔らかい。前歯でかみ切れるのが売りのマックのバンズ的感触だ。北海道の食べ物は、なにか優しいところがある。そしてパンが大きい。全長は25㎝、幅は10㎝弱。

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一食に一個で十分かもしれないが、一時間並んだ列でずっと私の前にいた夫婦は二人で7本お買い上げだった。7は素数だ。何人で食べるのだろう。その夫妻は1時間話し続けていたので、盗聴する気はなくても自然に耳に入ってしまう。こういうのを立ち聞きというのかな。ミサイルの話や首相夫人の話や、明日の天気や、友人たちのゴシップ。いずれにしても待ちくたびれて、思わず爆買いしたのだろう。聞いた話から想像するに、普通の善良な市民。スパイでもないし、政府批判もしないので今のところ共謀罪の対象者にもならないだろう。

ところで、食べたコッペパンに文句はないのだが、コロッケの肉の入りが少なかったような気がする。コロッケの代わりに味噌カツにしたり、ジャムやあんを塗るのではなく、八丁味噌と煮込みうどんとか挟んでみたらどうだろう。(なかなか名古屋味覚から抜け出せない)

しかし、いまどき「コッペパン」ってなんだろう、ということになる。「コッペ」の語源もはっきりしないそうで、日本語なのか外来語なのかも不明だ。ただ、ホットドッグのパンより大きいし、本来、中に具材を詰めたりしない。そして、日本軍御用達の食品だったという説もある。戦争中の配給食品もコッペパンになり、戦後も給食に登場。キナ臭い。

コッペパンの復活は、軍靴の復活に繋がるのだろうか。と心配してしまう。

エスカレーターの乗り方(左右どっちあけ?)

2017-04-13 00:00:56 | 市民A
エスカレーターに乗ると、東京など東日本では左側に立って乗り、歩いて(あるいは走って)上ったり下りたりする気忙な人のために、右側を空ける。一方大阪を中心とする地域は逆に右寄りに立ち、左側を空ける。

これについて、いろいろな説があるのだが、実際に世界各国では大阪方式の方が多いそうだ。東京方式は、英国、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドなどらしい。クルマの左側通行国という説もあるが、例外が多いそうだ。

さらに、一国の中で右と左の両方があるという国は他にはないそうだ。

実際には、右左混在問題はさらに複雑で、新大阪駅は東京方式である。

また岡山は、もともと大阪派だったのだが、若い人に東京派がいて、特にイオンモールなどは、左右入り乱れて、事実上、エスカレーターを歩くことは困難な時が多い。

中京地区、特に名古屋の状況といえば、右空けの東京方式だ。では境界線はどこなのか。

この一年で安土城、岐阜城、清洲城などに行ったのでそのあたりのJRの駅で観察していたのだが(駅のエスカレーターでスマホ撮影をするのは、危険が高いので証拠は残っていない)、まず西の方からいうと、神戸・大阪・京都は左空けであり、さらに米原駅も左空けである。一方、名古屋から西に向かうと、清洲、岐阜は右空け。つまり、米原と岐阜の間に境界線があることがわかった。

その間には何があるか、というと東と西を二分する大事件があったことに気付くわけだ。

慶長5年9月15日。東軍と西軍が激突した関ヶ原古戦場である。

そこが東西の文化の断層地帯なのだろう。


それでは、関ヶ原駅で確認したらどうなのだろう。

残念ながら下車したことはない(エスカレーターがなかったら笑いごとだ)。仮説が正しいとすると、左右混在しているはずだ。

中村俊輔、ジュビロ移籍の遠因は9年前の本に

2017-04-12 00:00:49 | スポーツ
今年、マリノスからジュビロに移籍した中村俊輔選手の移籍の遠因について彼の自著『察知力(幻冬社新書:2008年)』に、未来をうかがわせるような記載があることに気付いた。

元々、本書を読んだのは別の理由(横浜市民)からなのだが、実際、書の中で文体が何種類もあるというのはどうかなと思うくらい不思議な本だが、本人が読まずに出版されるわけはないだろうから、2008年の段階で彼が考えていたこととすると、いくつかの事柄が今年の移籍の遠因と考えられる。

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まず、高校3年でU19代表だったころ、どこのチームに入ろうかという時に、横浜に住んでいたので内心では「マリノスがいいと思っていた」のだが、慎重に選ぶために、他のチームのスカウトに頼み、普段の練習に参加してみることにしたそうだ。

それがジュビロ磐田だったそうで、2軍の練習に参加。トップチームには名波浩(現監督)がいて、2軍にはこれから成長しそうな選手が沢山いて、このチームに入ったら試合に出られないと感じたようだ。実際、その後数年間は黄金時代を築くことになる。

なお、ヴェルディでは、いきなり社長に会わないかという話になり、社長に会うとそのまま契約してしまいそうで、逃げ回ったそうだ。チーム内がギクシャクしていてまずい、と察知したそうだ。

次の遠因だが、中村選手が代表でプレーしていた頃、国内組だけで試合をするときは、大好きなトップ下をやっていたのだが、中田英寿が帰ってくると、左サイドに回されることになり憤懣が溜まっていたそうだ。さらに中田がいない時、名波浩がトップ下になることが増えたのだが、たまたま名波がレフティであり、ボールを受けたときに最初に左サイドを見るクセがあったそうで、そういう状況の時には彼の視線の中にいることにして、ボールタッチの回数が増えたそうだ。その結果、強い絆ができたそうだ。

ということで、その二つが遠因なのだろうと思うが、別の場所に、「趣味はサッカー」ということが書かれていて、「その中でもさらに趣味はフリーキック」だそうだ。そして極意はキーパーの癖を見抜くことということで、重心移動の逆へ蹴るため、その場面に至る前にキーパーの癖を観察しておくそうだ。あるいは、最初のフリーキックの時の相手の動きを覚えて、次のキックの時の参考にするということだそうだ(もちろん狙ったところに蹴れなければ、観察の意味はないが、それは自明だからだろうが、何ら記載はない)。

そして、欧州で活躍した彼は、日本でプレーすることの方が好きというのだが、その理由は「芝生が硬くてフリーキックを蹴りやすい」ということだそうだ。もしかしたらニッサンスタジアムの芝の硬さが気に入らなかったのかもしれない。

鬼龍院花子の生涯(1982年 映画)

2017-04-11 00:00:34 | 映画・演劇・Video
夏目雅子のいわゆる出世作である。出世作から3年で27歳で亡くなることを予見した人はいなかっただろう。

監督として失業同然だった五社英雄、売れない作家だった宮尾登美子の原作、モデル出身でも役に恵まれていなかった夏目雅子。3人の人生がこの映画によって激変していく。


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高知出身の宮尾の原作を五社監督に持ち込んだのは、実は別の女優だったのだが、この役をこなせそうな女優がいるとは監督にはとうてい思えなかったようだ。そこで新人同様ではあるものの強い女を演じられる可能性を信じて夏目雅子が起用されたようだ。現代で言えば綾瀬はるかだろうか。いや、もっと知的な部分が必要なので、満島ひかりとか宮崎あおいとかになるのだろうか。

そして、勘違いしていたのは、高知の鬼龍院という任侠の家に育った「花子」という親分の令嬢が主役だと思っていたのだが、夏目雅子が演じるのは親分の養女である「松恵」。鬼龍院家の興亡を一歩離れて冷静な目で見るわけだ。

もっとも映画では、強い女=松恵、弱い女=花子という対称が強く表現される。

で、松恵は任侠の娘ではなく女学校の先生になるわけだが、昭和初期から始まっていった鬼龍院家の衰亡を見続け、最後は鬼龍院家の最後の一人になるわけだ。

彼女が「なめたらいかんぜよ!」とすごむのは一度だけであるのだが、彼女がヤクザになったのはこの一瞬だけ。堅気の夫の遺骨を分骨する際の騒動の時だ。

この一言で、この映画は大成功をおさめ、冒頭に書いたように宮尾登美子は一流作家として名をなすことになり、その後、様々な賞を得ることになるのだが、困ったことに原作にこの言葉はない。

ヤクザ映画というのはだいたいストーリーが決まっているので、殺人などの暴力行為が行われても、驚くことはないのだが、本作は、まるで予想のつかない展開だ。最近、流行りだしたことわざである「事実は小説より奇なり」ということだ。

ラストシーンが近づくにつれ、多くの人名が失われていくのだが、さすがに高知県である。人口当たり殺人率が長い間首位を続けていることはある。ためらいもなくブスブスとなるわけだ。

名古屋で「味噌カツ」のソースが大奮発

2017-04-10 00:00:45 | あじ
名古屋で、味噌カツを食べた。本当は「ひつまぶし」を食べたかったのだが、4000円以上かかるため、その何分の一かでいただける「味噌カツ」に。まあ、またも赤みそ。

以前、名古屋で食べたところ、普通のとんかつソースのかわりに味噌ソースを選ぶと100円高くなるという経験もあった。とんかつソースを引っ込められて味噌ソースと交換になったので、ちょっと納得できなかった。味噌ソースがいかにも少なかった。

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ということで、今回はというと、ソースの大奮発だ。ハヤシライスのようだ。といっても関東のとんかつのように、客が好きなだけソースをかけていいということではなく、テーブルの上にソースがあるわけではない。

本当は、キャベツにもソースをかけたかったのだが。

とんかつそのものは、まあ普通で、問題はソース。どうも市販の味噌カツソースを使う店と、自家製ソースを使う場合があるようだが、単に赤味噌(八丁味噌)に砂糖を加えて、少し伸ばすというだけの場合もありそうだ。

ところで、味噌カツソースは、なかなか中京地区以外は入手困難なのだが、ナカモ(株)の『つけてみそかけてみそ』という商品が薄く広く普及している。ナカモは名古屋の西にある信長で有名な清洲にある天保時代からの味噌会社で、作られた味噌は『名古屋味噌』という。家康で有名な名古屋の東にある岡崎の二つの会社しか『八丁味噌』と名乗れないことになっていた。

この『つけてみそかけてみそ』だが、大きなスーパーでも探しても普通は見つからない。というのも、ソース売場ではなく、味噌売場に並んでいるからだ。「さがしてみそ」。


清洲城天守は美しいが

2017-04-09 00:00:20 | The 城
先日、2013年に公開された「清須会議」という映画を観たが、本物の清州城を見に行きたくなった。清須会議とは、織田信長が明智光秀の謀反で殺された後、秀吉を中心とした弔い合戦の末、明智勢力が撲滅され、それでは次の織田家の家督を継ぐのは誰にするかという議題について、秀吉と柴田勝家が争う。(清洲と清須は実際には同じで、混用されているが、戦国時代は主に清洲で江戸時代は清須、現代はまた清洲がよく使われるが市の名称は清須だ。)

実は、もう一つの清須会議がある。時代はもっと下って、秀吉が亡くなり家康と石田三成が関ケ原で戦う直前に、東軍の先鋒部隊がここ清洲までやって来た時に、軍勢の中が疑心暗鬼になる。というのも先鋒部隊に続く後方隊が江戸からやってこないわけだ。

つまり、家康の陰険な性格は東軍の武将も承知済み。家康の捨て駒に使われているのではないかと疑い始める。裏で家康と三成が手を握っていて、東西挟み撃ちされるのではないかと、この清洲城で軍議が始まる。


ところで、清洲は織田信長の居城として有名で、桶狭間の戦いで、戦国時代の「信長の野望ゲーム」のトーナメント1回戦に勝った時も、この城から出陣している。しかし、静岡から名古屋まで東海道沿いはおおむね平野であり、堅固な城を築くことが困難で、清洲城もさして大きくない五条川しか守るものがない。

ということで、清洲城に向かうのだが、事前研究では最寄駅はJR清洲駅と名鉄新清洲駅となっていて、名鉄の方が行きやすいと書かれていた。確かにそうかもしれないが、実はJR清洲駅から行き、名鉄新清洲駅から帰るのだが、JR清洲駅からは道は複雑だが、親切すぎるくらい行き先表示板が充実していて、道に迷う心配はないが、名鉄線からは案内板がないので、特に帰り道に名鉄駅を目指すと、相当不安になる。

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そして、現代の清洲城は、きわめて美しい。信長が後に築いた安土城とイメージが重なる部分がある。すっきりしたフォルムと最上階の手すりの朱色、観賞用には最適だろう。しかし、大きな問題が二つあるようだ。

一つ目は、その美しいフォルムだが、実際の清洲城は家康の命により1609年に取り壊しになり、その材木が名古屋城に転用されている。残念ながら、歴史上の重要建造物なのに、屏風や絵巻物などの視覚的データが残っていない。ということで、想像の産物なのである。ある意味、だからこそ、現代人が見て美しいのかもしれない。

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二つ目は、天守閣の位置が実際とは異なること。これは実際の場所がわかっている。礎石のあった場所は円形に低木が植えられているが、土饅頭みたいで縁起が悪い。ではなぜ、その場所に天守閣を再建しなかったかというと、この清洲城の城郭エリアだが、中央に東西に新幹線が走り、河川工事の結果、五条川が南北に貫くことになってしまったわけだ。しかも、実際の天守閣跡の近くには市役所関連施設があることにより、もっとも使いにくく空いていた場所に復元されたのだろう。

天守閣内には、思いのほか織田信長の偉業がデジタル化されていて、武器、武装なども豊富だ。陣太鼓もあり、入館者は好きに叩くことが認められている。お客様ファーストだ。実際に景気よく連打してみたのだが、これからの人生で、どこに向かって出陣すべきかまでは、思い浮かばない。

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そして、家康が岡崎城を10年で出たように、信長も10年で清洲城を離れ、美濃(岐阜県)に向かって進撃を開始する(トーナメント2回戦)。

将棋ペン倶楽部誌、詰将棋に興味か?

2017-04-08 00:00:01 | しょうぎ
「将棋ペン倶楽部」は将棋ペンクラブの会員限定の雑誌で年に2回の発行である。年に1回では雑誌とは言い切れなくなるのでギリギリのところだろうか。雑誌には発行サイクル別に七種類があるそうで、週刊、隔週刊、月二回刊、月刊、隔月刊、季刊、増刊(別冊)ということだそうだが、年二回刊というのはもはや定義の外側だ。

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で、2017年春号には、突然のように詰将棋が乱発する。古典詰将棋6題と某アマ強豪作5題。

そこでふと思うに、本格的に投稿詰将棋掲載を開始したらどうなのだろう。近代将棋誌が廃刊になり、将棋世界誌は依然として読者寄りの保守的作品に偏っているし、詰将棋パラダイス誌は難解方向に傾いているし。ペン倶楽部誌も「年会費を払っている会員限定」で創作詰将棋の場をつくったらどうだろうか。会員数の増加=収支改善にもつながるだろう。

もっとも、解答発表を次刊で行おうとすると半年も待たないといけないわけで、解答も当月中にどこかで掲載する必要があるだろう。


さて、3月25日出題作の解答。

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前半は、金のすり込みで角を打つが、すぐに打歩詰の形になる。角と香を交換することに気付けば、あとは手順前後に気を付ければいい。

動く将棋盤は、こちら


今週の問題。

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4五歩追加しました。


小駒問題である。

一番難しい手は、6手目かもしれない。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ、正誤判定。

大岡信氏、故郷で死す

2017-04-07 00:00:07 | 書評
詩人大岡信氏が故郷の三島市の病院で亡くなった。4月5日。桜の開花に合わせて亡くなったようで、詩人の最も好きだった和歌である西行法師の一首と重ね合わせる評をいくつも目にした。

その和歌の前に、わたしが時々思い出したように調べる本が、大岡信著「百人一首」である。800年近く前に藤原定家が編んだ「小倉百人一首」は、その後の日本の文化的基礎財産であった。唯一例外期間に、明治以降の偏向教育の中で「教育勅語」の派生版のような「愛国百人一首」なるものが登場したが、現在ではその存在すらなかったことになりそうだ。

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そして百人一首は、多くの人に溺愛されている。朔太郎などは全ての和歌に最高評価を与えているのだが、実際、ちょっとこれは・・というものもある、とはプロの常識である。

例えば、西行法師は歌人としては万能プレーヤーで、有名な秋の夕暮れの句の他にも恋歌を多く残している。ところが百人一首には、

 なげけとて月やはものを思はするかこちがほなるわが涙かな

大岡氏は、「なんということもない凡作」と、手厳しい。そして、例の最も好んでいる

願はくは花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月のころ

を持ち出している。百人一首の解説書なのに、「凡作」で、むしろ別の句の方がいいと言っているわけだ。

ここからは私の感想なのだが、定家の世界観と大いに関係があるのだと思う。百人一首には秋の歌が多いのだ。もっとも多いのは恋歌で43首であるのだが季節別に言うと、秋がバランスを逸するほど多く16首。春と冬が6首ずつ、夏が4首である。

しかも春の歌(花、桜、春)のほとんどは「春がいい」という内容ではない。

 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
 久方の光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ
 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
 君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

つまり、定家の時代、つまり新古今和歌集の時代のテーマは、「幽玄」であり、俗にいえば「滅びの美学」と言えるわけだ。だから季節の中では夏から冬へと向かう「秋」が重要なのだ。

「桜の花吹雪の中で大往生したい」なんて幸せな和歌は、定家には評価されなかったのだろう。花が散るさまとか、美しい花と対比して人間の老いを表現するのが選ばれている。

といっても実は西行法師は和歌のとおり、建久元年(1190年)の2月16日(旧暦)に亡くなっている。きさらぎ(2月)の望月(15日)とは一日ずれてしまったが、自らの歌のとおりに亡くなったということで、同時代の歌壇では多くの称賛を得たそうだ。

この旧暦をグレゴリオ暦に直すと3月30日。また大岡氏の命日の今年4月5日は旧暦で言うと3月9日ということで、残念ながら「きさらぎ」ではなく「やよい」ではあるが、逆にいえば、全国的に遅れていた桜の開花を待って旅立ったとも言えるのだろう。

老師と少年(南直哉著)

2017-04-06 00:00:00 | 書評
一年位をかけて、心理学の勉強をしようかとか考えている。といっても心理学の範囲は広く、脳科学の領域ははずせないし、また哲学的な心の分析もあるし、自然科学的な対応としてのゲシュタルト心理学やフロイトやユンクのような自分の中のもう一人の自分さがしもある。個人のこころの問題だけではなく、人間行動は社会心理学としての集団行動原理も影響する。

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こうなると、心理学の話など、読みたくない人が大多数なのだろうから、ブログに書くのも意味がない。というか、人間が生きて、何かを行うことに意味があるのか、あるいは書いている個人だけの意味なのか。あるいは人生は無価値なのだろうか。というようなことが哲学の原点なのだろうが、そういう部分が本書の守備範囲だ。

永平寺で20年間修業したという南直哉(じきさい、と読む)師は、本書の最後で、「生きる意味より死なない工夫」という名言を書くのだが、本書の大部分は、この言葉より難しい次元で展開されている。

こどもが大人になることは、「裂けることであり、欠けることである」という意味は、だいたいわかるのだが唐突だ。

ところで、本書を離れて、宗教の一側面の話だが、イスラム教もキリスト教も「自己」のための宗教というよりも全体主義的側面があるのに対し、仏教はあくまでも個人を対象とした宗教なのだろう。だからこそ明治政府は仏教を抑え込み国家神道なる新興宗教を流布させようとしたのだろう。

冒頭に書いた心理学のエリアの中で勉強範囲は、宗教的な部分は、とりあえず本書に登場する老師の言である「生きることを考えること」というのを限界線にすることにしよう。

マイ・バック・ページ(川本三郎著 ドキュメンタリー)

2017-04-05 00:00:00 | 書評
この本はずいぶん前に読んだことがあった。自衛隊朝霞基地を襲撃した過激派「赤衛軍」と親しかった朝日新聞記者(著者本人)の弁明の書のような感じがするのだが、その原作から脚本が起こされ映画になった。その映画をDVDで観たので、もう一度原作を確認するのに一読してみた。

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映画のあらすじでもなく朝日新聞の体質でもなく新左翼のその後でもないある登場人物が気になった。

保倉幸恵という人物が描かれている。週刊朝日の表紙に連続で長期間のモデルとして登場していた。最初は高校生の頃だ。そして川本氏が騒動に巻き込まれ始める頃に、いくつかの映画を一緒に観に行って、それなりにしっかりした意見を語っている。

彼女は1953年の4月5日生まれ、1975年7月8日に自殺してしまう。つまりきょうは誕生日(私も4月5日)。少し調べると、こどもの頃『劇団若草』に所属していた。桃井かおりと同期だそうだ。この劇団若草だが記憶がつながってきたのだが、主宰は上山雄輔氏という。実は、詩人の金子みすゞの2才年下の弟なのだ。

姉弟の父が亡くなったあと、弟は親戚の上山家に養子に出ることになり姓が金子から上山に代わる。姉の方は、上山家の経営する文具店である上山文英堂(下関)で働くことになる。弟は実の姉だと知らず、恋心を持ち始め、それに気づいた周囲の人たちが、無理やりに金子みすゞに婿をとらせることになるが、これが悪漢であり、みすずが自殺したのもそのせいであり、さらに文具店もつぶしてしまう。

一方、傷心の雄輔は東京に出て、流転の末、40歳を過ぎて劇団経営をはじめることになる。彼が存命の時には、多くの有名俳優(女優)を輩出している。

そして、彼が、みすゞの未発表の多数の詩が書かれたノートを守り続け、後年、彼女の詩が発掘されることになる。

思えば、上山氏は25歳の時に27歳の姉の死に接し、70歳の時に22歳の教え子の死に接することになったわけだ。

マイ・バック・ページ(2011年 映画)

2017-04-04 00:00:35 | 映画・演劇・Video
原作は、川本三郎氏の自伝的ドキュメンタリー『マイ・バック・ページ』。1971年に無名の過激派組織「赤衛軍」に所属する人物が中心になり決行した自衛隊朝霞基地襲撃事件(自衛官1名死亡)に巻き込まれていった朝日新聞記者の記録である。記者は川本氏自身である。

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実は、相当以前に本は読んでいた。読みにくい本である。構成は、一冊の前半部は事件とは直接関係ない朝日新聞社内部のジャーナルと社会部の対立とか、自分の取材で、色々な記事を書いたこと、週刊朝日の表紙を1年以上連続でカバーしていた女子高生モデルの話などで、なんとなく、ワシントンポストとかNYタイムズの「正統派ジャーナリスト」とは違う人物像が描かれ、危なっかしい感じが漂っている。

そして、後半だが、新左翼に好意的だった朝日新聞が徐々に距離を置き始めた結果、川本氏が取り残されるように過激派からとりこまれていき、結果は殺人犯を隠したり、証拠を預かり隠滅したりして逮捕され、結局、多くの同僚にも迷惑をかけた結果、クビになるわけだ。氏は逮捕された人物が、殺人犯ではなく思想犯と主張するのだが、そもそも勘違いだろうとしか思えない。その当時でも、少なくとも過激思想だけでは逮捕されず、一歩踏み出して、銃を強奪するために自衛隊を襲撃したのだから犯罪者となり、人が死んだから殺人者となったわけだし、たとえ1丁の銃を強奪しても革命には程遠い。(別に私が右翼主義者というわけではまったくないが)

人が死んだ事件を、襲撃した側の仲間が他人事みたいに書くことがしっくりしないわけだ。

で、その問題の書が映画化されるのだが、映画の中には川本氏(劇中名は沢田)の役を妻夫木聡が演じるのだが、よく考えると、原作は川本氏の視点(主観)で書かれているのだが、映画の脚本では、妻夫木聡は役の一人であるにすぎない。客観的に時代を映したということのように見える。したがって、妻夫木聡は、その煮え切れなく優柔不断で、ジャーナリストになりきれない男を巧みに演じるわけだ。

原作は、前半と後半と別々になっているのだが、映画では時間の流れに合わせて、その二つが結合されていて、女子高生と映画を観に行ったりアジトに潜入したりするわけで、そういう構成であるのも、全体を柔らかくする効果があったのだろう。

結果として、視点が異なるからか、原作ほど気持ちがざわつくことはない。といって、悲劇でもなく喜劇でもなく、不思議な映画と言える。そういえば、現実の1970年代の初めといえば、色々な闘争が激化し、何も結論が出ないうちに時代が変わっていくことになる。

地球外生命を甘く見ていいのだろうか

2017-04-03 00:00:28 | 市民A
一か月ほど前の2月28日にNASAが公表したハビタブル惑星のこと。

太陽系から39光年のところにあるトラピスト1という恒星には7つの惑星があって、そのうち3つが、生命が存在しうる環境を持つハビタブル惑星の可能性があると発表があった。

さらに、このトラピスト1は赤色矮星という恒星で非常に小さく太陽の8%、木星と同じ位ということだそうだ。必然的に引力も弱く、この7つの惑星は太陽系でいえば太陽と水星の間にあるということで、公転周期も数日から十数日らしい。惑星が自転しているのか月のように自転していないのかは不明だそうだ。(このあたりは生物の存在に必須条件ではない)

しかし、39光年といっても光が39年もかかるのだから、ロケットや飛行機で飛んでも数千年かかるのだから、未確認生命とコンタクトできればすばらしいではないかと安易に考えていいのだろうか。

例えば、ある恒星に住む高等知能を持つ生命が、自分たちの恒星や惑星の寿命が尽きることを知っていた場合どうするだろうか。まず、星から脱出して別の星へ移住するだろう。あるいは、それは無理なら別の星へ自分たちの遺伝子を送ってそこで復活することを考えるのではないだろうか。高等生命そのものは無理でも単細胞やアミノ酸をばらまいて運を天に任せるかもしれない。

そして考えるべきことは色々あるが、まず星の寿命から。ビッグバンは現在の学説で言えば137億年前と言われる。太陽は46億年前にできて、寿命は100億年と言われている。ビッグバンの89億年後に太陽ができて、あと54億年で燃え尽きる。惑星もほぼ同じ頃に生成された。地球上の生命も40億年前と言われ始めていて、相当早くから(あるいは最初から)生命がいたことになる。また人類は700万年前からの説もあるが、いずれにしても地球史的にはちょっと前に現れたわけだ。

たとえば太陽より50億年前に生まれた恒星があり、今の年齢が96億年というハビタブル惑星に地球と同じようなスピードで進化が進んだ場合、人類が登場して50億700万年経っていることになる。途方もなく頭脳が進化しているはずだ。

そういう星の住人が、地球という楽園から、何らかの光学的あるいは電子的信号で送った場合、どう思うだろうか。

地球に行きたいと思うだろう。

私は、地球人でもあと100年から200年で、物理的移動を光速あるいは電子的速度で行えるような、いわば人間FAXみたいなことができるのではないだろうかと思っている。つまり人間を原子の単位までバラバラにして情報化し、電子信号で目的地へ送って再構成する方法だ(もちろん、最初の実験台の方には高いギャラが必要だろうが)。

その場合、最大の問題は地球側に設置する受信機だろう。最初に誰かが運んでこなければ人間FAXは始動しないだろう。ところが、あと10年もすれば街はAI付のロボットが溢れているかもしれない。彼らの思考回路に電気信号を送って人間FAXの受信機を組み立てさせてしまえばいいわけだ。

そして、人類は、神話の中のゼウスのような得体のしれない新生物と会うことになるのだろう。

岐阜城訪問して思ったこと様々

2017-04-02 00:00:06 | The 城
東西往復を百回以上していても、岐阜駅で降りたことはなかった。東海道線の駅だが、新幹線は通っていない。となると名古屋から在来線に乗っていくのだが東西往復ルートからはかなりはずれてしまう。最近、好き勝手な時間があるので、新幹線の米原と名古屋(あるいは豊橋)の間を、在来線を使って、岡崎城、清洲城、岐阜城に寄ってみた。

岐阜城は岡崎、清洲にくらべてかなり立派ということしか知らずに、岐阜駅からバスで岐阜公園にあるロープウェー乗場に向かう。ロープウエーで天守閣というと、岩国城もそうだったが、岐阜城もはるかな山の頂上にかすかに天守閣が見える。城の全体像からいうと、長良川に面した場所に城郭(今の岐阜公園)があり、その裏山というのが高い山で、その上に天守閣が立つ。通常、城主は平地にいたに違いないだろう。

築城当時は稲葉山城といわれて、その後、蝮一家の斎藤家が居城とするが、内部抗争や織田家との争いで朽ち果てる。織田信長は、この地をいたく気に入り、天下の中心という意味の岐阜と名付け、バリバリと進軍を始めるが、天下統一の前に明智光秀に寝首をかかれる。

その後、織田家や豊臣家が城主に座るが、いずれも負け組になってしまう。韓国の大統領府みたいなものだ。さらに明治になり、自由党総裁の板垣退助が城内にあった公民館で演説を行った後、暴漢に刺され、軽症だったにもかかわらず「板垣死すとも自由は死なず」と言った(現在の自由党とは関係ない)。

結局、関ケ原の戦いの後、家康により廃城の扱いとされる。

家康は、五街道を決めるにあたって、岐阜を東海道ではなく中山道にしてしまい、とばっちりで、東海道は宮(熱田)から海路で桑名に向かうことになってしまう。よほど岐阜に嫌な思いがあったのだろう。

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ロープウェーを下りても、そこから足元の悪い道を歩き、やっと天守閣に到達するが、いわゆる復興天守。ここも元の姿はよくわからない。天守閣の最上階に登ると、きわめて眺望がよく、眼下に長良川とその河川敷が開ける。

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下で調べていたところでは長良川の河川敷には「高橋尚子ロード」というのがあるそうだ。地元の高校を卒業したそうだ。全国には、高橋尚子ロードは数ヶ所あるのだが、いずれも本人と縁のある場所だけである。地元のスポーツ界の大御所の考え方と共鳴するからといって、講演料や夜の酒宴に目がくらんで次々に名前を張り付けたりはしないようだ。

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しかし、岐阜城しかり、安土城しかり、岩国城しかり。山の頂上にまで石垣と城壁、天守閣を築き、それをまた攻め落とすということが行われた結果、死体累々の上に内戦が終わり、江戸幕府が開府したわけだ。

人間が勝てるようなルールに変えられるか?

2017-04-01 00:00:00 | しょうぎ
昨年、京都で養老孟司氏と宮崎駿氏という合計154歳の対談があり、その中でコンピューターと将棋の話があった。もっとも対談の中で、この部分は全体の1%程度の重要度なので、真剣に討議したということではないのだが。

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最初に持ち出したのが養老氏で、こんな感じだ。

養老  ・・・将棋でも、勝利に特化した人工知能に人間が負けるのは当たり前です。コンピューターと勝負すること自体に意味がない。オリンピックで、オートバイを相手に百メートル競走をするようなものです。

宮崎  すごい喩えですね。

養老  だって、「そのため」の機械なんですから。過去には計算機と勝負をしていたでしょう。下手にそこを考え込むより、若い人はもっと「0と1の間」で考える方がいい。そこにこそ、人間が生きる意味があるはずです。ほかのことも同じで、「それはコンピューターにやらせておけばいい」と割り切る部分があっていい。・・・

話は、このあとコンピューターの使い方に移るのだが、突如、宮崎氏が将棋の話を蒸し返す。

宮崎  やっぱり将棋はコンピューターに負けるんですね。ちょっと悔しいなあ。人間、頑張れと思うんですけど。

養老  人間を勝たせるようにルールを変えればいい(笑)。

宮崎  そうきたか。

どうも宮崎氏は養老氏の論理に納得していないようだ。それに、「人間を勝たせるようなルール」といっても荒唐無稽で思いつかないのだろう。そういうルールがあればすぐさま将棋連盟が飛びつくだろうが私にもすぐには浮かばない。

ということで2週間ぐらい考えていたのだが、もっとも簡単な方法は、「コンピューターと対戦しないこと」ということなのだろうか。他には、「人間側は、駒得になったら、直ちに判定勝ちを選択することができる」とか、「コンピューターはプロ棋士ではないから、勝っても賞金を与えないとか」。人間がコンピューターよりかなり優れている点は、使用エネルギー量が少ない点なので、「対局で使用するエネルギー量(コンピューターは電力量、人間は消費カロリー)を決めて、それを超えたら思考停止(つまり負け)にする」とか。


さて、3月18日出題作の解答。

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入玉型なのに桂が2枚という問題で、最初は銀の捨て駒を中心にした銀問題で、後半は桂の捨て駒を中心にした桂問題。同じ場所に違う駒を捨てるという感じが気に入っている。

動く将棋盤は、こちら


今週の問題。

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手数のヒントはWBC。配置駒のバラバラ感は、最後まで続く。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。