大岡信氏、故郷で死す

2017-04-07 00:00:07 | 書評
詩人大岡信氏が故郷の三島市の病院で亡くなった。4月5日。桜の開花に合わせて亡くなったようで、詩人の最も好きだった和歌である西行法師の一首と重ね合わせる評をいくつも目にした。

その和歌の前に、わたしが時々思い出したように調べる本が、大岡信著「百人一首」である。800年近く前に藤原定家が編んだ「小倉百人一首」は、その後の日本の文化的基礎財産であった。唯一例外期間に、明治以降の偏向教育の中で「教育勅語」の派生版のような「愛国百人一首」なるものが登場したが、現在ではその存在すらなかったことになりそうだ。

101


そして百人一首は、多くの人に溺愛されている。朔太郎などは全ての和歌に最高評価を与えているのだが、実際、ちょっとこれは・・というものもある、とはプロの常識である。

例えば、西行法師は歌人としては万能プレーヤーで、有名な秋の夕暮れの句の他にも恋歌を多く残している。ところが百人一首には、

 なげけとて月やはものを思はするかこちがほなるわが涙かな

大岡氏は、「なんということもない凡作」と、手厳しい。そして、例の最も好んでいる

願はくは花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月のころ

を持ち出している。百人一首の解説書なのに、「凡作」で、むしろ別の句の方がいいと言っているわけだ。

ここからは私の感想なのだが、定家の世界観と大いに関係があるのだと思う。百人一首には秋の歌が多いのだ。もっとも多いのは恋歌で43首であるのだが季節別に言うと、秋がバランスを逸するほど多く16首。春と冬が6首ずつ、夏が4首である。

しかも春の歌(花、桜、春)のほとんどは「春がいい」という内容ではない。

 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
 久方の光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ
 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
 君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ

つまり、定家の時代、つまり新古今和歌集の時代のテーマは、「幽玄」であり、俗にいえば「滅びの美学」と言えるわけだ。だから季節の中では夏から冬へと向かう「秋」が重要なのだ。

「桜の花吹雪の中で大往生したい」なんて幸せな和歌は、定家には評価されなかったのだろう。花が散るさまとか、美しい花と対比して人間の老いを表現するのが選ばれている。

といっても実は西行法師は和歌のとおり、建久元年(1190年)の2月16日(旧暦)に亡くなっている。きさらぎ(2月)の望月(15日)とは一日ずれてしまったが、自らの歌のとおりに亡くなったということで、同時代の歌壇では多くの称賛を得たそうだ。

この旧暦をグレゴリオ暦に直すと3月30日。また大岡氏の命日の今年4月5日は旧暦で言うと3月9日ということで、残念ながら「きさらぎ」ではなく「やよい」ではあるが、逆にいえば、全国的に遅れていた桜の開花を待って旅立ったとも言えるのだろう。