岐阜城訪問して思ったこと様々

2017-04-02 00:00:06 | The 城
東西往復を百回以上していても、岐阜駅で降りたことはなかった。東海道線の駅だが、新幹線は通っていない。となると名古屋から在来線に乗っていくのだが東西往復ルートからはかなりはずれてしまう。最近、好き勝手な時間があるので、新幹線の米原と名古屋(あるいは豊橋)の間を、在来線を使って、岡崎城、清洲城、岐阜城に寄ってみた。

岐阜城は岡崎、清洲にくらべてかなり立派ということしか知らずに、岐阜駅からバスで岐阜公園にあるロープウェー乗場に向かう。ロープウエーで天守閣というと、岩国城もそうだったが、岐阜城もはるかな山の頂上にかすかに天守閣が見える。城の全体像からいうと、長良川に面した場所に城郭(今の岐阜公園)があり、その裏山というのが高い山で、その上に天守閣が立つ。通常、城主は平地にいたに違いないだろう。

築城当時は稲葉山城といわれて、その後、蝮一家の斎藤家が居城とするが、内部抗争や織田家との争いで朽ち果てる。織田信長は、この地をいたく気に入り、天下の中心という意味の岐阜と名付け、バリバリと進軍を始めるが、天下統一の前に明智光秀に寝首をかかれる。

その後、織田家や豊臣家が城主に座るが、いずれも負け組になってしまう。韓国の大統領府みたいなものだ。さらに明治になり、自由党総裁の板垣退助が城内にあった公民館で演説を行った後、暴漢に刺され、軽症だったにもかかわらず「板垣死すとも自由は死なず」と言った(現在の自由党とは関係ない)。

結局、関ケ原の戦いの後、家康により廃城の扱いとされる。

家康は、五街道を決めるにあたって、岐阜を東海道ではなく中山道にしてしまい、とばっちりで、東海道は宮(熱田)から海路で桑名に向かうことになってしまう。よほど岐阜に嫌な思いがあったのだろう。

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ロープウェーを下りても、そこから足元の悪い道を歩き、やっと天守閣に到達するが、いわゆる復興天守。ここも元の姿はよくわからない。天守閣の最上階に登ると、きわめて眺望がよく、眼下に長良川とその河川敷が開ける。

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下で調べていたところでは長良川の河川敷には「高橋尚子ロード」というのがあるそうだ。地元の高校を卒業したそうだ。全国には、高橋尚子ロードは数ヶ所あるのだが、いずれも本人と縁のある場所だけである。地元のスポーツ界の大御所の考え方と共鳴するからといって、講演料や夜の酒宴に目がくらんで次々に名前を張り付けたりはしないようだ。

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しかし、岐阜城しかり、安土城しかり、岩国城しかり。山の頂上にまで石垣と城壁、天守閣を築き、それをまた攻め落とすということが行われた結果、死体累々の上に内戦が終わり、江戸幕府が開府したわけだ。