老師と少年(南直哉著)

2017-04-06 00:00:00 | 書評
一年位をかけて、心理学の勉強をしようかとか考えている。といっても心理学の範囲は広く、脳科学の領域ははずせないし、また哲学的な心の分析もあるし、自然科学的な対応としてのゲシュタルト心理学やフロイトやユンクのような自分の中のもう一人の自分さがしもある。個人のこころの問題だけではなく、人間行動は社会心理学としての集団行動原理も影響する。

rositoshonen


こうなると、心理学の話など、読みたくない人が大多数なのだろうから、ブログに書くのも意味がない。というか、人間が生きて、何かを行うことに意味があるのか、あるいは書いている個人だけの意味なのか。あるいは人生は無価値なのだろうか。というようなことが哲学の原点なのだろうが、そういう部分が本書の守備範囲だ。

永平寺で20年間修業したという南直哉(じきさい、と読む)師は、本書の最後で、「生きる意味より死なない工夫」という名言を書くのだが、本書の大部分は、この言葉より難しい次元で展開されている。

こどもが大人になることは、「裂けることであり、欠けることである」という意味は、だいたいわかるのだが唐突だ。

ところで、本書を離れて、宗教の一側面の話だが、イスラム教もキリスト教も「自己」のための宗教というよりも全体主義的側面があるのに対し、仏教はあくまでも個人を対象とした宗教なのだろう。だからこそ明治政府は仏教を抑え込み国家神道なる新興宗教を流布させようとしたのだろう。

冒頭に書いた心理学のエリアの中で勉強範囲は、宗教的な部分は、とりあえず本書に登場する老師の言である「生きることを考えること」というのを限界線にすることにしよう。