薩摩藩邸焼討後日譚(上)

2007-05-30 00:00:11 | 歴史
c30266fe.jpg東京田町にあるNEC本社は、最近では製品の話題ではなく、社内ゴルフコンペのトトカルチョを社内コンプライアンス委員会が握りつぶしたり(さらに所管警察も逃げ回ったり)、ある事業部長以下大勢が係わった架空取引による業務上横領事件を部外者である国税庁に発見されたりと賑やかだが、その場所は、江戸時代は薩摩藩邸だった。藩邸といっても上屋敷、下屋敷など色々あるが、御禁制の南方貿易で財を築いた同藩のこと、多数の藩邸を持っていたが、おおむねこの田町周辺に固まっていた。NECの場所そのものは薩摩下屋敷だった。そして江戸幕府の最後の最後、慶応三年12月25日に幕府方による薩摩屋敷焼討事件がおこる。そして、僅か数ヶ月後には、逆に京都から攻め上った薩長軍の前に江戸開城となる。その最初の戦いである。

実際、怒涛の勢いであっという間に高輪(品川)に到着した西郷隆盛は、勝海舟と慶応4年(=明治元年=1868年)3月13日に一回目の江戸開城交渉。そして翌14日に田町で二回目の交渉を行い、翌15日の江戸総攻撃はとりやめになった。総攻撃すれば、木と紙でできた江戸の町はきれいさっぱり大平原に戻っただろうし、一方の勝海舟も江戸の町を焼き払って戦おうと思っていたらしく、焼き払い派が二人で交渉して、歴史の偶然で街は残った。(しかし、その後、別件で二回も焼けてしまった)。

c30266fe.jpgこの二回目の交渉の場所が今ひとつ特定されてなく、田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡という説が濃厚である。私もそう思うのは、そこは薩摩藩のプライベートバース(専用港)で、藩の交易活動に使われていた。開戦前日の混乱の中、勝海舟はその名前どおり、江戸城から海路辿り付いたのではないだろうかということ。

しかし、その場所は、焼け残った薩摩藩邸と僅か徒歩2分ほどのところである。同志多数が亡くなった現場のそばで、西郷は平然と講和条約を結んだのだろうか。(明治になって、その近くの土地を入手して大学を作った福沢諭吉は、焼け残った薩摩藩邸を目にしているので、焼け跡は長く放置されていたようだ)

もう一つ気になっていたのは、薩摩藩邸攻撃の時に薩摩藩士約50人程度が戦死して、靖国神社に祀られているそうだが、かなりの数が捕虜になったそうだ。また、逃亡に成功したものもいる。捕虜になったものの運命はどうなったのだろうか。西郷=勝会談ではまったく、その件は触れられていない。西郷があまりに大人物で「大事の前の小事」ということになったのだろうか。あるいは、焼討の原因となった、薩摩藩士による江戸市内の付け火などのゲリラ作戦が後々問題にならないように、口封じを考えたのだろうか。


この捕虜情報は鹿児島に行かないと糸口がないのか、と思っていたのだが、かなり有力な書物を発見した。ただし、一部がわかれば、また別の一部が知りたくなるとか、果てしなく不明なことは続いていくのだが・・


c30266fe.jpg書籍の名は「幕末維新全殉難者名鑑(全四巻)・明田鉄男編(新人物往来社)昭和61年」


この四冊には、幕末の戦いで亡くなった、幕軍・官軍、さらに巻き込まれた民間人など、わかる範囲で一人一人の名が記載されている。戦闘毎という大分類があり、所属藩毎という中分類順に見ていけばいい。例えば、土方歳三は、巻三「戊辰戦争」→「函館の戦」→「新撰組」ということだ。彼は、「日本で最後の武士」だと個人的には思っているが、実は武家の子ではない。当然、所属藩なし。新撰組という特別カテゴリーで記載されている。もちろん、靖国神社には所属していないし、今後も無理だろう。

その第二巻に「江戸薩摩藩邸攻撃(慶応三年12月)」という分類がある。そこに、この事件での戦死者の一覧がある。列記された薩摩藩士の名簿は、主に、現場で戦死、負傷逃亡中に死亡、捕らえられて獄死といったところだ。ただ、例外は色々あり、その例外こそ歴史マニアの宝の山なのかもしれない。そして、この事件で現場にいたのに、うまく逃げおおせた人間のことは大部分は読み取れない。それは、また別の資料が必要だろう。

調べているうちに、色々と他の情報もわかってきたので、それらでも補足してみたい。上・下2回に分けて書いてみる。


まず、薩摩藩所属の藩士の戦死者のこと。歴史の表側である。

1.現地で戦死した者
   62名
    内、女性(藩士の妻)2名
    内、医師 2名
    内、藩船「胡蝶丸」船長など船員4名

2.現地、または逃走中に捕縛された後に亡くなった者
    3名
     獄死または刑死
   逃走ルートは、藩船翔風丸で遠路兵庫方面に逃げ、助かった組と、小舟で羽田付近に上陸し、捕まったり逃げ切った者がいる。

3.負傷が元で後日死亡した者
    1名

4.後日、藩船(胡蝶丸)の焼失の責で自害した者
    1名

当事件での薩摩藩の犠牲者は、合計67名になり、内、靖国に祀られているのは41人である。祀られているかいないかの基準は厳密とは言い切れず、おおむね武士としての身分の上下に関係があるようだが、例外も多い。

(下につづく)


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