井伊直弼考(下)

2006-11-22 00:00:59 | 美術館・博物館・工芸品
4d748247.jpg山門をくぐると、広い境内が広がるのだが、広い墓所は左側にある。そして、その墓所の中に、さらに大きな井伊家の墓地がある。以前は門があったようだが、現在では誰でも自由に入れる。行けばすぐわかるように碑が立っている。撮影する前に十分に手を合わせて供養することが大切だ。日本史上10本の指に入る大人物の墓である。桜田門外で襲撃側の水戸藩士らは愛宕山で集結したあと、現場に向かうのだが、井伊家から江戸城内までは5分か10分の距離。毎日正確な出勤が裏目に出たのと、江戸では、正確な時の鐘が機能していたことを示す。

そして、もはや幕末。武士道など関係なく、襲撃の第一弾はピストルが用いられ、大老の乗る駕篭に打ち込まれる。大腿部から腰に弾が貫通したそうだ。その後、駕篭から引き出され、首を落とされたのだが、襲撃側も江戸市中でほとんどが討死。首はその日のうちに井伊家に戻る。

ところが、当時の副首相格だった老中の安藤信正は、直弼の死を隠そうとし、首と胴体が藩医の手で縫い合わされた直弼邸に病気見舞いとして、朝鮮人参を送り届ける。ところがすでに、江戸中がテロを知っていて、いくつかの川柳が残っている。

 いい鴨が、雪の寒さに首をしめ(いいかも=井伊掃部守)
 人参で首をつなげと御使い

よく、歴史の本には、その時、安藤が直弼の死を隠した理由として、藩主が討たれた場合、斬られた方も、斬ったほうも、お取り潰しということになっていて、井伊家と水戸徳川家の両家の取り潰しなどできるわけないので、井伊家が生前に家督相続を行ったことにし、また水戸藩士を全部浪人者として斬り捨ててしまおうと考えた、ということになっている。しかし、もはや、そんな定法など、全国大名に外交政策のアンケート調査をした阿部正弘の時代に完全に失効しているだろうとは私の意見。単に、幕府の次の指導体制が決まっていなかったので死亡時刻をごまかして時間稼ぎをしたのに過ぎないだろうと思っている。(多くの独裁国や小渕総理急死の時も同じようなことが行われたとする噂もある)

そして、安藤も後に襲われ、ほうほうの体で城内に逃げ込んだぶざまさが問題になり、辞任。堀田正睦が老中首座に座るが、直弼に比べ、安藤、堀田ともに軟弱思考で、以後幕府は内部解体してしまう。


直弼の墓石は経年の割りに痛みが激しく、いくつもの傷が付いていて、それは桜田門で撃たれたり斬られたりした怨念の発現といわれている。また右手後ろにある白椿は、花の盛りに、花びらを散らさずに白い花弁そのものが、ポタリと落ちるそうである。

ところで、この桜田門外の変は、政治的クーデターとして、開国派の井伊直弼と尊王攘夷の水戸藩の対決ととらえられているのだが、奇説を読んだことがある。「醤油」に関係のある話だ。

当時、江戸の醤油は、銚子と野田が産地として有名だった。ヤマサ対キッコーマンということ。今もそうだが、江戸に近い野田の方が少し優位だったのだが、野田では醤油の原料である大豆をどこから購入していたかというと、ずっと水戸藩から買っていたわけだ。今も水戸納豆で有名で、大豆は水戸藩のドル箱商品だったわけだ。

ところが、前回触れたように、彦根藩には飛び地があったわけで、下野の佐野に領地があったのだが、ここが大豆を作っていた。そして、直弼は野田の醤油生産者組合に圧力をかけ、水戸藩からの大豆を締め出し、佐野の大豆を押し込んでしまう。それが恨みの原因であるという説だ。農作物問題とか利権問題が裏にあったということらしい。もちろん、そんな話は、公式的にはどこにも書かれていない。これだから歴史はよくわからない。

そして、何の因果か佐野市の大部分は井伊家の所領だったのだが、一部の小さな隣接地は堀田家の領地になっていた。さらに、堀田正睦は自分より若いのに先に出世した井伊直弼(直弼の前任者の阿部正弘はもっと若かった)を恨んでいて、井伊家から10万石を削ってしまう。理由は、桜田門での直弼の死を隠したことが理由なのだが、もう目茶目茶である。その後、頭にきた井伊家は幕府支持をやめ、早々と官軍派に回ってしまう。譜代筆頭が寝返り、また徳川家そのものが恭順してしまったので、東海道に数ある城郭はまったく戦うことなく、官軍の素通りになってしまったのである。

4d748247.jpgその因縁の堀田家の領地は千葉県の佐倉であるのだが、そこにはまた、家康の盟友だった藤堂高虎が飛び地として所領を持っていたらしいのである(詳細未調査)。この堀田家も歴代の藩主の中の一人が暴政を働き、佐倉惣五郎の投げ文事件を引き起こし、腹いせに惣五郎の妻子こどもまで処刑してしまい、以後、亡霊に追い回されていたと言われる。


さて、豪徳寺は井伊家から山門を譲り受けているとは昨日記したのだが、明治以降も財政に余裕があったらしく、ある藩の大名屋敷そのものを購入、境内に移設している。実は、何の因果か、その屋敷は堀田藩の屋敷なのである。あまり古びた感じがないので気付きにくい。なぜ、井伊家の天敵である堀田家の屋敷が豪徳寺にあるのかについて、今のところ、私にはまったく理解できていない。
(了)  


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