増上寺、徳川家霊廟

2009-12-06 00:00:05 | 美術館・博物館・工芸品
zojoji東京田町にある港区郷土資料館で開かれていた『増上寺 徳川家霊廟』をのぞく。

増上寺は徳川菩提寺であり、本来、徳川家当主、つまり代々の徳川将軍の墓地であるはずなのだが、実際には必ずしもそうでもない。

15代の将軍のうち、実は6人だけが増上寺に眠っている。

2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂。

では、残りの9人はどこにいるのかと言えば、

日光東照宮に初代家康。日光輪王寺に三代家光。

増上寺と張り合っていた上野の寛永寺に6人。4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定。

そして最後の将軍である15代慶喜にいたっては「谷中墓地」と、民間人と一緒だ。

さらに、将軍には多数の妻妾がいたわけだが、そのうち正妻とナンバー2である側室については、徳川家の墓地に眠っているようだ(例外があるかもしれない)。

しかも、将軍にしても奥方にしても、自分で増上寺か寛永寺か決めるのではなく、亡くなった後、何らかの協議というか埋葬権の奪い合いとかあって、増上寺か寛永寺かどちらかの寺に運ばれるということになっていたようだ。

また、資料を見ていると、わかってきたのだが、将軍が増上寺なら正妻も増上寺にいるかと言えば、そうではなく別々になっていたりする。前述の増上寺に眠る6人の将軍のうち、正妻の墓も増上寺にあるのは2代秀忠、6代家宣、14代家茂の3人だけ。12代家慶にいたっては、正妻ではなく側室の方と住所を一にしている。

この中で、二代秀忠の妻というのは、「お江(通例では、『おごう』と呼ぶ)」。織田信長の妹「お市の方」の末娘である。つまり淀君の妹。秀忠とお江の娘の一人が千姫で、豊臣秀頼といとこ婚をしたが、その後は知ってのとおりになる。

お江の最後の子は和子であり、後水尾天皇の中宮となる。さらに娘はついに、日本史上最後の女帝である明正天皇(第109代)となるのである。女帝の母親である和子は、「かずこ」と読まず「まさこ」と読むそうだが、何らかの符号だったのだろうか。

話を戻して、お江だが、その死には大きな謎が残っている。たまたま秀忠が京都方面に行っていた間に急死したのだが、春日の局に毒殺されたと言われている。そして通例では、塩漬け等の防腐処置を受けた遺体は秀忠が江戸に戻ってから埋葬されるべきところ、秀忠の帰りを待たず火葬されている。

土葬されていたならば、没後380年の現代でも、砒素等の何らかの痕跡を見つけることができるかもしれないが、火葬されているなら無理だろう。

最近の法務大臣は、過去の犯罪にも遡って殺人事件の時効廃止の検討を始めたようだが、春日の局にはお見通しだったのかもしれない。


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