横浜市歴史博物館で開催されているペリー上陸時の特集展に行った。今年はペリー上陸170年目にあたる記念の年。
今回の切り口は、横浜を守ったサムライの特集。どういうことかというと、1953年6月にペリーが初来寇した後、1年後にまたくるから開国の準備をするようにと言い残し、1年ではなく7ヶ月後の1854年1月16日に大艦隊で押し掛けたわけだ。日本は、浦賀(横須賀市)を交渉場所と要望したが受け入れられず、横浜村で交渉することになった。場所は山下公園のあたりだ。
日本の準備が整えて、ペリーが上陸したのが2月10日。何度も交渉を重ね3月3日に日米和親条約が締結される。
それで、横浜村の整備は交渉場所だけではなく、米国人用の食料や水の提供などもあるし、水平の一人は病死して埋葬したりとか、バタバタと作業が進む。日本人は五輪や万博でも追い込まれると仕事が早くなる。
実は、江戸幕府は硬軟両面作戦を考えていた。自分から艦隊を攻めるのでなく、交渉決裂時に米軍が攻撃することを警戒していた。展示会場には、今の神奈川、東京、千葉の東京湾全域に、幕府軍や全国諸藩の武士を配置していて、米軍の攻撃に備えていた。
横浜を防衛していたのは、武州金沢藩、鳥取藩、小倉藩、松代藩。この中の武州金沢藩は南部の金沢区のあたりを担当し本牧は鳥取藩、横浜は小倉藩と松代藩が警備していた。武州金沢藩は小さな藩だが担当地区が所領なので、武士は総動員だろう。残り三藩は江戸屋敷からの派遣になる。鳥取藩は、現代こそ過疎県だが、当時は三十万石を超える大藩。三十万石だと藩邸に武士が三千人ほどいるはずだが、約二千人が出動。東京湾沿いに多くの武士がかき集められたわけだ。
今回はこの四藩各1名が日記を書いていて、それを分析してみようということ。
注目すべきは、黒船から見える海岸に当初は武士たちが提灯をもって並び、警戒している意図をみせていたのだが、ある日、指示があって、海岸線から離れ、近くの林などに潜むような指示が出る。まさに開戦前夜といった雰囲気になる。交渉が乗り上げた時期があったのだろう。
交渉の席には、日米双方から大勢が参加するが、下級軍人は上陸した後、横浜村内を散歩したり道に迷ったりとやり放題だ。
なお、この時、松代藩を率いる軍士は佐久間象山。結構重大な役目だったが、弟子の吉田松陰が渡米できるように画策をしていたが失敗。役目が終ったあと蟄居。戦争になったらどうするつもりだったのだろうか。スパイ的だ。
砂浜の上では饗宴が行われ、松林の中では鉄砲発射の準備ができていたことになる。
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