小林一茶居住の地

2018-11-12 00:00:32 | 書評
清澄通りを両国から森下方向に歩くと、『小林一茶居住の地』という立て札があった。北信濃(柏原)から江戸に出てきて苦労して俳諧師として有名になり、ここに住処を得て、そして年を取ったので故郷に帰って、大自然の中で平穏な気持ちで俳句を量産した、というハッピーリタイアメントの話かと思ったのだが、調べると、とんでもないことになっていた。

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まず、1763年に柏原の農家に生まれた一茶だが、幼い時に母親が亡くなり、父が再婚した継母と折り合いが悪くなり、不幸にも実家を追い出される。15歳の時に江戸に奉功に出される。そして、10年間窮乏生活を送る中で俳諧師の道を歩き始めていた。おそらく25歳頃から一流の俳人になっていくのだが居住地は安定しない。本来、俳人は旅に出ることが多いので、立派な家には住まないのだが、一茶の場合、もっと世俗的な大問題を抱えていた。遺産相続問題。

父親は、先妻との子である一茶を江戸に追い出し、後妻との間に男子(一茶の弟)を得、3人で農作に務め、地元では豊かな農民になっていた。ただ、父として一茶への負い目があったのだろうか、死の床で、二人の子供に均等に財産を分けるように遺言状を書き、両者に渡した。

これにより勤勉な農家と江戸の俳諧師との間に、相続問題が勃発し、しばしば信濃に行って交渉することになる。つまり、詩作の旅と交渉の旅である。そういうわけで、江戸の住所も転々とするが1804年から1808年までの5年間が、この立て札に住んでいたわけだ。その前には寺に住み込んでいたが厚意をもっていた住職の急死で、宿なしになったりしている。

そして、やっとの思いで借家ではあるが庭付きの一戸建てに住むことになったのだが、やっと安住して生活が落ち着いたので、本格的に遺産相続問題に着手することにする。その結果、1808年に200日も留守にしている間に、大家が怒ったのだろうか、江戸に帰ってくると、自分の家のはずが、他人が住んでいたわけだ。おそらく、家賃を前払いしなかったのだろう。そうして、またも江戸市中何ヶ所かを転々とすることになる。

そして、必死に交渉した結果、やっと信濃に家を確保し、生家に戻ることになるのである。

立て札には美しい話が書かれているが、実態はかなり人間的な醜い話だ。ただ、信濃では良い句をたくさん詠んでいるわけで、一茶自身はどう思っていたのだろうか。


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