「江戸の禁書(今田洋三著)」の続編は

2008-09-08 00:00:20 | 書評

78dc87e3.jpg東京国際ブックフェアで2割引で買った『江戸の禁書』を読んだのだが、実は最も知りたかった「海国兵談・林子平」については、触れられていなかった。なぜなら、本書は、作者の今田洋三氏自身の言葉によって、「タイトルは『江戸の禁書』となっているが、これは江戸時代前半期の禁書、として読んでほしい。残された江戸時代後半は、『続江戸の禁書』としてまとめたいと思っている。」と書かれている。

そして、この本は1981年に出版され、その後、続編が出版されたような形跡は見出せず、1998年に作者は65歳で他界。2007年に復刻になっている。つまり、江戸後半の禁書については、ついにまとまることがなかったのだろうか。

まあ、書かれていないものを蒸し返してもしょうがないが、簡単に「海国兵談」に触れると、作者である林子平が全国行脚の末、諸外国の状況を分析し、「ちゃんと外国ウォッチをしていないと、どんどん攻めてきますよ」という警告を書いた本だが、内容が軍事書であるところから、スポンサーの出版社がつかず、自費出版。

1787年から4年かけ1791年に完成したのだが、一説では全部で39部しかないとも言われる。全財産をつぎこんで39部を完成させたにもかかわらず、松平定信の逆鱗に触れる(外交は幕府の専属事項だからだ)。そして、発禁になり版木は処分される。さらに林子平は幽閉の身となり2年後に亡くなる。そして密かに流通していた、「海国兵談」の出版が許され、林の名誉回復が行なわれたのは1841年のことだ。流通している本は、1851年版と1856年版のようだ。


そして、江戸前期の発禁本といえば、おそらく「好色系」と思われるだろうが、実は最初の頃はフリー。禁書の代表は、キリスト教。実際に横文字の本はほとんどなかったのだが、漢書の中にキリスト教の記載がある場合があったそうだ。長崎出島経由である。ところが、実際は、長崎奉行が仕事をしたフリをするために、キリスト教でなく単に西洋の風物を記した漢書も現場で取り締まっていたそうだ。何しろ長崎奉行の仕事の評価は、禁書摘発数によっていたそうで、これを後に見抜いたのは吉宗で、無闇に漢書を摘発してはいけない、としたそうだ。

次に幕府批判。よく知られた方法として、江戸幕府ではなく鎌倉幕府批判の形になったりする。読む方はすぐわかるわけだ。多くは、政治批判ではなく、将軍の私生活を暴露するようなものが多い。

そして、政治批判。有名なのは1758年9月(今から250年前)に起きた文耕獄門事件。馬場文耕という講釈師が、郡上藩で起こった百姓一揆を題材にした「金森騒動記『森の雫(しずく)』」の口演が摘発され、文耕他大勢が死刑や追放になった事件がある。この事件には謎が多く、もっと歴史小説家が掘り下げてくれると面白いのだけど。

さらに、大名などの系図の出版も禁書だったそうだ。しかし、禁止となるとたちまち現れるのが『偽書』。偽系図屋が跋扈していたようだ。なぜ、幕府が偽系図を禁止していたのかと言えば、「徳川家の過去は天皇家に繋がる」という公式見解が覆されると困るからだようだ。今でも大久保利通から数えて5代目、なんて言っている幹事長もいる。単なる二世議員には系図は要らないだろうが、三代以上続けば系図が欲しくなるものだ。

そして、近松。彼も発禁処分を受けている。心中物の表現が好色過ぎたわけじゃなく、やはり政治の世界にクビを突っ込んだからのようだ。吉宗批判。庶民に緊縮を押し付けて、鷹狩なんかするな、と言いたかったようだ。

一方、吉宗は読書家で幕府の紅葉山文庫に読書暦が残っている。彼が、読んだ本を記録に残すことをルール化したため、後の将軍が好色本を読めなかったのかもしれない。そして、近松が好きじゃなかったのだろう。権力者の驕りだ。



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