駒台発案者、飯塚力造氏のこと(2)

2022-09-10 00:00:46 | しょうぎ
関根金次郎が1940年に「棋道半世紀」という小文の中で、駒台を発案したのは飯塚力造氏であると書いていて、二人の初見は1900年頃というように考えられる。駒台登場がその前か後かは文章を読んでもはっきりしない。

氏の職業については、品川で川島楼という貸座敷をもっているということと、対局の結果、お金が動いていた、つまり真剣をしていた、ということが書かれている。

将棋連盟のHPでも、駒台を発明したのは飯塚氏と書いてあるし、当時の棋士は収入が少なく副業をすることが多かったという例として木見金治郎のうどん屋と並び、飯塚力造氏の料理屋を紹介している。しかし、飯塚氏はプロ棋士ではないのだから、棋士というのは間違いというしかない。真剣士は棋士とは違う。料理屋なのか貸座敷なのかは難しい問題になる。その話の前に、氏の棋力だが、関根金次郎(13世名人)とは半香だったと書かれている。半香とは、平手と香落の二局ワンセットということで、確か阪田三吉ともその手合いで指している。つまり、飯塚氏は阪田三吉並みに強いということになる。真剣でも多くは勝利だったのではないだろうか。

そして、貸座敷か料理屋問題だが、貸座敷というのは、今でいうとラブホテルのようなものだが、違いは商売や政治関連等の密談をする場合にも使われていたということ・

歴史的には江戸時代から明治時代は料亭で宴会があると、宴席に芸者がやってきて、そのまま解散になる場合(ヒラ)と宴会の後、小部屋に布団が敷かれ芸者さんと朝を迎える場合(カゲ)があり、客と芸者の数が合わない場合は追加で芸をしないで枕を持ってくる枕芸者に頼ることになっていた(実際には枕を持ち歩いたとは思えないが)。

時代が下ると、そういう露骨な方式から全国的には「三業地」という方式に変わっていく。料理屋(料亭)、置屋(芸妓屋)、待合(貸座敷)。つまり、宴会は料亭で行い、そこに置屋から芸妓が派遣され、宴会の後は、待合に行くということになる。パチンコの三店方式のようだが、動くものが景品なのか芸妓なのかの違いがある。

実際には、原則には例外がつきもので、料理屋と座敷を兼ねていたりする場合もあり、そういう場合は、料亭でもあり、貸座敷でもあるということになる。一方、本物の料理屋は芸者も来ないし座敷に布団も敷かないわけで、「割烹」と名乗ることが多くなる。

そして、飯塚力造氏だが、多芸人間だったようで関根氏によれば「義太夫(節)」にハマっていき、高座で語っているときに。「ひっくりかへって」4~5年後に亡くなってしまったそうだ。


さて8月27日出題作の解答。








今週の問題。



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