因果応報の大坂城か

2022-09-01 00:00:56 | The 城
現在、『豊臣大坂城(黒田慶一著)』を読んでいる。著者の黒田氏は考古学的観点から城の研究をしている考古学者だ。



そして大坂城周辺の発掘により、従来言われている大坂城の変遷を確かめながら新たな発見をしているようだ。

今回のブログ「因果応報の大坂城」というタイトルは歴代の大坂城を眺めた時に思いついたのだが、有名な豊臣大坂城の前は、石山合戦で有名な石山本願寺の城だった。

それに腹を立てた織田信長が、明智光秀に焼き払うことを命じ、嫌々ながら光秀は僧兵を石山城に中に追い詰めた上、火をつけて焼き払った。

実は、その焼けた土の痕跡が残る場所の上に作ったのが豊臣大坂城。縁起でもないわけだ。天守閣が実在した期間は30年。

そして、豊臣大坂城は30年で焼け落ちる。大坂夏の陣だ。そしてその天守ごと埋め立てて城を作ったのが徳川秀忠。これが徳川大坂城。そして、この徳川大阪城天守閣は数度の火災を起こし、39年後に燃え落ちてしまった。城そのものは長く残り、徳川家茂は場内で亡くなった。最後の将軍である徳川慶喜は薩長軍との戦いで、多くの兵を置き去りにし、大坂城から軍艦で逃げ帰った。

そして昭和になり現在の大阪城が鉄筋コンクリートで復元した。1931年に竣工しているの、今年で91年。そういえばゴルビーも91歳で亡くなった。

江戸時代までの「大坂」の表記が「大阪」に変わったのは、「坂」という文字は「土に返る」という不吉な意味だからということはよく言われる。