青砥駅の不思議

2022-09-16 00:00:21 | おさんぽ
葛飾区の青砥(あおと)駅の近くに用があって京成電車で行ったのだが、そもそも不思議なことがあった。

その前に、葛飾区の三大都市というのがあるらしい。亀有、高砂そして青砥と言われているらしい。といっても金町や新小岩の駅の周辺もほとんどが住宅地で、葛飾区全体にくまなく区民が住んでいるように思えるのに区の中の都市というのもよくわからないが。

そして不思議というのは、住所表示のこと。駅名が「青砥」なので、番地もそうかと思うだろうが、住所表示の方は「青戸」という読みやすくなっている。誰でも読める。

同じような例は、各地にある。川崎市には東急線では「溝の口」、JRでは「溝ノ口」というのがある。実際の地名は「溝口」となっていて、これも奥が深そうだ。

青砥に戻る。戦後、当用漢字に書き直したのかと思ったら、そうではなく、古くから青戸だったそうだ。現在でも近くには荒川があり、河川交通の要地だったらしく、水辺に関係のある「戸」という文字を使って少なくとも中世から青戸だったらしい。

では、なぜ青砥なのかということについて説がある。知る人ぞ知る「青砥藤綱」という鎌倉時代の武将が住んでいたとも言われる。この人は頭脳明晰だったそうで、鎌倉幕府に仕え、評定所の長だったそうだ。現代でいえば最高裁判所の判事。目先の利害に関係なく本質を突く判決をだしていたそうだ。

もっとも、有名になったのは江戸時代という説もある。大岡越前(忠相)を講談にするのは同時代ということで憚られるという理由で青砥藤綱を流用したという説もある。

それで、地元では青砥城跡なる場所が定められ、青砥藤綱の住居が推定されているが、果たして彼が住んでいたのかははっきりしていないそうだ。この青砥氏だが、もともとは伊豆に大場という氏を持っていたが、承久の乱の時に活躍して上総国の青砥荘の所領を得たそうだ。上総は千葉県だが葛飾に近い千葉は下総国。上総は今の市原市のあたりだ。なかなか繋がらない。実は青砥荘もどこにあったのかわからない(近くに同名のアパートがあるが)。


不思議な話はもう一つある。



青砥駅から北西に数分歩くと「青戸平和公園」というのがある。まとまった大きさがあるのだが、そこに原爆慰霊碑がある。さらに千羽鶴も。

一般的な話だが、「平和」という命名をする場所は往々にして平和ではないことが起きていることが多い。

とはいえ、ここに原爆関係の何かがあったのだろうか。あるいは秘かに日本も研究していたとも言われるが、まさか守秘性からいって都内ではないだろう。



石碑には、「昭和42年に品川区の寺院に設置されましたがしたが、非核平和を求める区民の皆様の願いから作られた葛飾区青戸平和公園に移設することができました・・・」
2012年(平成24年)東友会

と書かれている。


よくわからない。この平和公園の由緒と原爆慰霊碑が転居した経緯ということ。調べればわかるのかどうかだが、よその自治体の事情を調べるのも品がないように思える。