文芸誌「文学界」のこと

2021-09-17 00:00:16 | 書評
どうして「文学界」のことを書くのかというと、数日前に読んだ山本周五郎「青べか物語」に遠因がある。読後、作家の経歴を見ていると、晩年(1963年)に『虚空遍歴』という小説を書いている。主人公は中藤沖也となっていて、中原中也がモデル。来年の読書リストに加えているのだが、山本周五郎は中原中也と太宰治をリスペクトしていたそうだ。

思えば、全く違うタイプであるし、中也も太宰も20代後半から有名であったが、山本周五郎の有名になったのは、それこそ50代60代だ。しかも生没を調べると、
山本周五郎(1903-1967)、中原中也(1907-1937)、太宰治(1909-1948)
つまり、早く生まれて遅くなくなったことになる。

次は、中原中也のことだが、そもそも詩人には発表の機会が少ない。彼のホームグラウンドは『文學界』だったのだが、『文學界』の中興の祖というのが小林秀雄で、彼が中也のためにページを用意していたようで、それで『文學界』の方に指を延ばしてみたわけだ。


まず、明治時代にも同名の文芸誌があり、樋口一葉も寄稿しているのだが、これは現在にはつながっていない。



現代につながるのは、昭和8年に文化公論社が創刊した『文學界』で川端康成他小説家と小林秀雄が参画していた。ところが5冊出して資金難に陥り、次は文圃堂書店が引き継ぐが4冊出してまたしても資金がなくなり、廃刊が決定的になった。そこで雄弁をふるったのが小林秀雄で、作家はノーギャラということが決まる。その後、文芸春秋社という力強いスポンサーが現れる。



ここで登場したのがアーティストの青山二郎。多彩な活動の中で、おそらくもっとも薄利と思われる『文學界』の表紙デザインを始めた。第一作こそ大慌て感がある白地に文字のみだが、「學」という字の配置を一段上げている。これより長きにわたり文字列の形が定まった。



その後の表紙は、さらに凝りに凝って、どちらかというと表紙に負けないように作品のレベルが上がったともいわれる。中原中也の詩が毎回連載されたのはこの頃で『在りし日の歌』も青山二郎の装填である。中也没後のことだったが。



なお、現在の『文學界』だが「學」の文字は継続しているが、山型配置は採用されていない。

画像は中原中也記念館(山口市)に行った折りに入手できた小冊子「文學界」と中原中也による。