日本語をさかのぼる(大野晋著)

2014-08-05 00:00:45 | 書評
nihongo大野晋氏の著作を岩波新書で何冊か読んでいるのだが、本質的に難しい研究を、かなりわかりやすく書かれている。本著は、日本語の奈良時代の少し前あたりから平安時代あたりまでの変遷について詳しい。

ここに本書をサマリーする能力もないので、部分的なところだけだけど、なぜ日本の古典の多くは女性の手になるのかということ。

結局、日本の男性エリートは、小舟に乗って中国にいって勉強してくることになっていた。歴史上に詳しいが、ロス率が高い。5隻で行っても2、3隻になってしまう。沈んでしまえば、エリートでもグッバイとなる。さらに、行ったら帰らなければならないが、帰れなくなる人もいるし、反対に日本に着たまま中国へ戻れなくなる人もいる。

そのような困難を経なくても、中国から取り寄せた書籍を読まなければ文化人とはいわれないが、外国語である。さらに中国は今と違って先進国だったので、発展途上の日本にいては理解できないことばかりだ。とても、「文学」に手が回らなかった。ということだそうだ。

それと、源氏物語(つまり紫式部)の特徴として、「新語」がすさまじく多いということがデータで示されている。ちょっとした単語は文法と語感をリンクさせて簡単に作ることができたようだ。

たとえば、「ウラメシ(うらめしい)」という基本語に「モノ」という接頭語(なんとなく、定かならぬの意)をつけ、「モノウラメシ」を作り、さらに接尾語「ゲ」(見た様子)をつけたり、さらに「ナリ」をつけ、「ウラメシ」、「モノウラメシ」、「ウラメシゲナリ」、「モノウラメシゲナリ」と、どんどん作って、話の状態に応じて使い分けていくそうだ。

だから、源氏物語は古語辞典と相談しなければ読めないわけだ。

そして、日本人の空間感覚、信仰感覚、時間感覚について東アジアの中での日本の特徴について論は進む。つまり言語、意味を文化の中の一形態としてとらえるわけだ。

日韓というのも、結局は「似て非なるもの」なのだろうと思うわけだ。