間宮林蔵(吉村昭著)

2009-06-01 00:00:37 | 書評
間宮林蔵に関する本は、2009年3月4日「間宮林蔵・探検家一代(高橋大輔著)」に書いたのだが、高橋氏は、冒険家であり、彼の書のカバーする部分は、間宮林蔵が、2回の樺太探検に向かった冒険旅行(いや、地勢調査のための出張)の後をなぞるという、高橋氏自身の探検記でもある。



一方、吉村昭は言うまでもなく小説家。さらにジャンルは、史実小説。手法的には、司馬遼太郎のような主観型解釈ではなく、史実を数多く書き並べ、その中で主人公の人物像、そしてその生きた時代が、じっと心に湧き上がるような大作派である。この本も、講談社文庫で厚さは2センチを超える。

まず、歴史上の事実だが、彼は武士ではなかった。農民。茨城の出身で、地元の治水工事の手伝いをしているうちに、土木技術に長けていることが役人の目に止まり、専門的に勉強をはじめることになる。そして、才能に磨きをかけ、ついに江戸に出府することになる。

だから、武士というより役人である。江戸時代の武士には二つの機能があって、「兵士」であることと「役人」であることであったのだが、彼は、「役人」になるところから武士階級の下っ端の席にしがみつく。

そして、下っ端の常として、3K職場の仕事が待っている。

「択捉島の調査」である。

こうなると、小説家の話ではなく、歴史上の話として考えるべきだが、当時の北海道以北には、アイヌ民族が住んでいた。北海道と千島列島南部と樺太南部。彼らは基本的には国家をもたず、集落単位で日本国の支配下にはあったが、江戸幕府も領土をさらに拡張しようとは思っていなかったようで、幕末には南下政策をとるロシアが軍艦をウロウロさせて、じっと様子を伺っていた。

それらの、アバウト情報は幕府もつかんでいて、北方警固強化を国策とすることになる。1800年頃の千島列島は、国後島までは、確実に日本領であり、択捉には、幕府が番小屋や武器庫を建て、津軽・南部両藩からの派遣武士と幕府役人による少数防衛体制だった。

そこに派遣されていた林蔵だが、運悪く(運良く?)、ロシア軍の急襲を受ける。軍艦から一斉砲撃を受け、ロシア兵が上陸し、数名を殺害し、数名のアイヌ人や武士を捕虜にする。間宮と従軍医師は、徹底抗戦を主張するが、幕府高官は腰抜けで、島内逃走の上、択捉島を放棄する。

幸い、ロシア兵も、長居は無用と択捉から撤兵したので、かろうじて択捉島の領有権をロシアに奪われる事態にはならなかったが、この事件の後始末として、徹底抗戦を主張した林蔵と医者以外の武士には処分が下される。(本来なら、切腹ものだろうが、せいぜい蟄居とか江戸払いということは、幕府内には、腰抜けだらけで、処分のバランスもあったのだろう)

武士になったせいで、あやうく破滅するところを命拾いした林蔵は、その後、二度にわたる樺太探検に出て、二度目にはついに樺太から沿海州に船でわたり、さらにアムール河を遡り、清帝国の朝貢所であり、地域の大トレードセンターのデレンという町に到達し、清国の下級役人に対して、「日本は中国の属国ではない」という演説をぶつわけだ。

冒険家の高橋大輔氏は、アムール河をハルビンから下って、このデレンの町探しを行うのだが、現在の日本人は、世界のどこでも行ってしまうのだが、当時の日本は鎖国。幕府からは樺太探検を指示されたのに、勝手にユーラシア大陸に足を伸ばしたとなると、国法違反。旅の疲れでボロボロに疲れた体で、慎重に旅行記と地図をまとめながら、約1年をかけ江戸に帰着。

厳罰を恐れたのかどうか知らないが、自ら「御役御免につき農家に戻る」旨の上申書を提出した彼に対して、幕府の決定した処遇は・・

巨額のご褒美と、要職への取立て。そして次なる任務である。

「お庭番」である。俗に言うスパイ(内調)。

一つは、国防上の外国船情報の収集。もう一つは、地方諸藩の抜け荷(密貿易)探索である。多くの藩の抜け荷を見抜き、ずいぶん多くの関係者を切腹に追い込んでいる。そして、シーボルト事件が発覚するきっかけは、間宮による幕府に対する情報提供とされているのだが、そのあたりは、なぜか吉村の筆は湿る。

シーボルト事件は、きわめて評価の難しい事件であり、下手な書き方をすると、彼の前半生の評価を帳消しにしてしまう可能性もある。それだけに、書ききれなかったのであろうか。


ところで、小説から離れて、間宮の生涯を考えれば、旗本・御家人以上に幕府の方針に忠実であり、基本的な政治的スタンスは、外国船打ち払い方針だった。背後には領土的ナショナリズムの強さがあって、それが彼を単身樺太探検に向かわせたのだろう。

亡くなったのは1840年。その後、幕末には黒船が来寇し、ロシアの軍艦も押し寄せ、腰抜け外交の幕府は、樺太領有権をはっきりさせることすらできないまま、日露和親条約を結ぶ。

もし、林蔵が生きていたら、自分の功績を無にするような幕府の軟弱さに、無念のショック死をしたのではないだろうか。